お散歩ツアー「田原地区の石造物を巡る」報告

なんだかスッキリしない天気が続いていますね。梅雨が無い方がいいですが、作物の事
を考えると必要なんですよね。田んぼの稲もだんだんと大きくなってきて田んぼの緑が
綺麗になってきています。

今回は、お散歩ツアー「田原地区の石造物を巡る」を開催しましたので、報告します。
出発地点は、プロ野球ロッテのキャンプ地でもあり、女子サッカーのオフカ鴨川FCの
ホームグランドでもあります、鴨川市総合運動場からスタートです。

まずは、加茂川を渡り太尾にある滝山寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王です。創立年代は不明ですが、天文9年(1530)
室町時代の棟札があり、「安房国長狭郡寺院明細帳」は、慶長13年(1608)安土桃山時代、
滝山寺再興を伝えていて、また、薬師堂に安置されている釈迦如来立像と薬師如来立像は
13世紀後半の作といわれることから、滝山寺は中世すでに建立されていた寺院だといえ
るそうです。
お寺には、昭和51年(1976)に鴨川市文化財にしていされた棟札6枚と薬師如来像・釈迦
如来像があいます。もう一つ指定された、薬師堂の縁日のにぎわいを描いた宝暦10年
(1760)銘の「諸人参詣の図」と「街道殷賑の図」という絵馬が2枚奉納され、本堂に掲げ
られていました。この絵馬には、参詣する人々の姿や街道に屋台店を広げる商人、それに
踊りやなどを披露する大道芸人が描かれていたそうで、風俗を描いた絵馬は県下でも数が
すくなく、当時の風俗を知るのに貴重なもとされ指定されたのですが、平成元年(1989)
11月9日の本堂の火災で焼失してしまったそうです。

薬師堂です。

こちらの木造薬師如来立像は、13世紀後半の作であろうという事です。
像高は、163cm、両手先は欠損しているので印相は不明です。特徴は、頭髪は一般的な
螺髪ではなく縄状の髪型をしています。京都・清涼寺の釈迦如来と同じ形式だそうです。

今回は、拝見する事はできませんでしたが、なにか拝見できる機会があったら、見たいもの
です。

薬師堂の下に降りると、鴨川石造物百選に選ばれた地蔵菩薩があります。

享保13年(1728)に鈴木作佐衛門を本願人とする念仏講の人たちによって造られました。
石材は、地元嶺岡山系で産出する蛇紋岩を用いていて、頭部に比べて、腰から下が短すぎる
ため、全体として四頭身に近い姿になっています。イボを治してくれるご利益があるとされ、
「イボ地蔵」として地元の人たちに親しまれています。

境内には、他にも嘉永6年(1852)の子安講中や元禄元年(1688)の六地蔵があります。

滝山寺を後にし、来秀五輪塔群へと向かいます。
途中、道の脇の草むらに霊神様と書かれた石があります。

この石造物は、歩いてるだけでは見逃してしまうのですが、下見に訪れた際に石造物の周辺
で「ガサガサ」という音がしてそこを見たら、この石造物がありました。なにか見つけて欲し
かったのでしょうか?

霊神様から少しいくと、来秀五輪塔群があります。

こちらは、小林家が、周辺に散在していたものを集めて供養したといいます。
石を積み重ねた形式のものが4基・舟形に五輪塔1基を浮彫にしたものが26基・2基を並べて
浮彫にしたものが2基、総数32基あります。南房総板碑型に属し、室町時代後期であり、地元
嶺岡の蛇紋岩で造られています。記年銘が確認されているものが4基あり、最も古いものに「永
正五年戊辰三月十八日」「青壽」とあり、戦国時代に造られたものだとわかります。
先に行った滝山寺の天文9年(1540)の棟札に、仏像の奉納者として鈴木出羽守・滝山飛騨守・伊
丹伊勢守・鈴木伯耆守などの名がみられ、これらの人物は官名を名乗るところから、当時この地
を支配していた土豪と思われ、来秀の32基の五輪塔は、彼らの家族や一族の供養塔か墓標として
造られたものだと考えられています。

谷を越えて次に向かったのは、満光院です。

真言宗智山派の寺院で山号は西方山。本尊は不動明王です。
創建の年は明らかではありませんが、「寺院明細帳」によれば、正徳元年(1711)6月に焼失し、
享保元年(1716)に源祐法印という僧が再建して中興第一世になったといいます。
明治7年(1874)来秀村・川代村・大里村を一学区として来秀小学校が開設されたとき、満光院
が仮校舎として使用されました。
長狭観音巡礼第16番で、如意輪観音がありましたが、数十年前、盗難にあってしまったそうです。

境内には、享保12年(1727)湯殿山碑・正徳3年(1713)の青面金剛・文化4年(1807)光明真言塔
などがあります。

次は、お隣の天満神社へ。

祭神は藤原道真。通称は天神様。別当寺は満光院。
創建の年や由緒は明らかではありません。貞享4年(1687)に領主保科正静から天神免田の寄進が
あったとされています。拝殿の「龍」の彫刻は、弘化4年(1847)三代武志伊八郎信秘の作です。

こちらの手水鉢は可愛らしい。

水盤に亀4匹と子供が添えられています。

子供たちが亀を覗いているのでしょうか?なかなかユーモアがあります。職人の遊び心かしら
と思ってしまいます。

ここですこし、この地の事をお話ししました。
来秀及びその周辺地区には、6500年ほど前の縄文時代早末期から前期にかけての時代に
人々が住みはじめ、その生活の痕跡として縄文土器や石鏃が見つかりました。平成8年の
調査では、遺物のみで住居跡などの遺構は発見されませんでしたが、数千年前の一時期に満
光院や天満宮のある台地上で、石器時代人が生活していたと思われます。その後、人々は
なにかの理由で他に移動したのか、生活の痕跡はみられなくなったそうです。
長い年月を経て、古墳・奈良・平安時代に入ると、人々の生活の営みがはじまったそうです。
今回の調査で、8世紀から10世紀ころと思われる奈良・平安時代の竪穴住居の跡が発見され、
当時使われていた素焼きの土器や大陸伝来の技術をもって製作された硬質の須恵器が多く出土
しました。遺物の中には、糸を紡ぐための紡錘車や鍛冶に使用したフイゴの羽口、それに鉄を
取り出したあとの鉄滓なども発見されました。
11世紀から13世紀ころの平安末期・鎌倉時代の掘立柱の建物跡が発見され、柱穴が重複し
ているので何度か建て直しながら使われたものと考えられます。掘立柱を使っているので、土
豪層の屋敷跡だと考えられます。
想像するとワクワクしてきます。鎌倉時代とかどんな感じだったのかな?

さて、次に向かいます。次は、来秀共同墓地にある虫供養塔(鴨川の石造物百選)です。

嶺岡産の蛇紋岩を利用しています。上部の蓮座が浮彫りにされ、月輪(円形)を表現しています。
中に薬研彫りで胎動界大日如来の梵字アーンクが刻まれてあり、下半部に虫供養塔と天明元年
と刻まれています。
県内各地に虫送りの行事が伝わっています。この塔からは、五穀成就のため村をあげて害虫駆除
が行われたこと、駆除された虫たちの鎮魂儀礼が営まれたことがわかります。日付は「霜月吉穀旦」
とあり、収穫が終わった11月に虫の供養と豊穣への感謝の気持ちを造塔へ現したのだと思われます。

他にも9人の子供が彫られている子安地蔵尊があります。

わかりますか? 楽しそうなお顔をしていました。

次は、遠目から真福寺へ大里八幡神社の説明をして集合場創へと戻ります。
雨も降らず、曇り空だったので、暑くもなく楽しく半日を歩く事ができました。

月イチツアー「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」報告

梅雨に入りましたね。館山・南房総では、スッキリしない天気になってきました。
これからのウォーキングツアーは、天気の心配をするのが大変です。

さて、今回の月イチツアー「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」を開催しました。3度
目の正直で、前2回は雨で中止となっていましたが、今年は無事に開催する事ができました。

集合場所は、岩井海岸海水浴場駐車場です。

駐車場から少し海岸線を歩くと、文豪菊池寛の碑があります。

昭和48年(1973)建立の歌碑には、「遠あさの海きよらかに子等あまた群れあそびゐる岩井よ
ろしも」と刻まれています。菊池寛一家が、昭和3年(1928)~昭和8年(1933)にかけて、岩井
のよねや旅館に滞在していたそうです。
菊池寛(きくちかん 明治21年(1888)~昭和23年(1948))は、小説家・劇作家・ジャーナ
リストです。文藝春秋社をを創設した人です。

ここから、岩井川の橋を渡り、大蘇鉄へと向かいます。
大蘇鉄まで行く間に、難しい名前の橋と成田講の燈篭を発見しました。

端馬橋(だんばばし)です。


成田講の燈篭です。個人のお家にありました。

いよいよ大蘇鉄です。

石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に落ちのびたとき、このソテツの威容を称えたといわれて
います。一般にソテツは大きくなると横に広がりますが、このソテツは五本の主幹と支幹とも直
立し、樹高は約8m、根回りは約6.5mです。樹齢は一千余年と伝えられ、当家代々の祖により
家宝として育てられています。昭和10年(1935)に千葉県指定天然記念物になりました。

次は、辻にあるあさひ地蔵へ。

山から出てきたものをこちらでお祀りしているとの事です。右側にあるのは、馬頭観音です。
やはり辻にあるので、馬の行き来があったのでしょうね。

次は、頼朝橋へ。

岩井川の支流にかかる橋です。丸太の橋だったのを、村人が板を渡し、ムシロを敷いて、頼朝
を出迎えたと伝わっています。

岩井神社へと向かいます。岩井神社の脇に山車小屋があります。

5地区の山車小屋が並んでるんですね。中でも高崎浜下屋台は、南房総市指定文化財です。
屋台の作者は、当町の宮大工青木松治郎です。この屋台の制作には、3年という年月を費やし
明治24年(1892)に完成しました。その間、初代後藤利兵衛義光は青木家に逗留して制作にあ
たり八岐の大蛇や竜などを彫刻しました。今回は見る事ができませんが、8月の20日以降の
岩井の祭りで見る事ができます。

岩井神社です。

磐井郷の総社として治安3年に創建。牛頭天王八雲大社と称したといいます。社宝に、鎌倉時
代の「懸仏」(四面)が残っています。「懸仏」というのは、平安時代の中頃、神仏習合の信
仰から生まれたものです。柱や壁にかけて礼拝しました。形はだんたい円形で、表面には仏像
が彫ってあり、銅や鉄の板でできています。また「獅子頭」(三頭)があります。これは、昔
富山の「ふうり祭」(雨乞い祭)に使われたものです。獅子頭をかぶり、鞨鼓(太鼓)を腹の
前に付けて、軽快に舞うものです。これを「鞨鼓獅子舞」といいます。富山の雨乞い祭も、明
治時代の終わり頃には行われなくなったようです。

境内には、弓道場があります

この弓道場には言われがあります。
源頼朝が、治承4年(1180)8月石橋山の合戦に敗れ、安房国へ逃れて、馬集(ばせ、高崎)に
て馬を集め、不入斗牛頭天皇の社殿に戦勝祈願をしました。当時の安房国は、安西・神余・丸・
東条・長狭の5氏がほぼ5分し支配していましたが、長狭氏を除く4氏が敗戦の頼朝を擁立して
幕府創設の基礎を築きました。建久3年(1192)征夷大将軍になり、懐かしの安房国を偲び、不入
斗に八幡宮を建立し、武士の弓術を奨励しました。その後安房国は里見氏が治め、6代義堯は、
岩井神社修復の際し、境内に矢場を造り弓術を奨励しました。このことがあり、昭和25年青少
年の健全育成と精神修養の場として弓道場を作り、広く一般にも開放し、、清く明るい心の滋養
を念じ「洗心館」と命名したそうです。

あと境内には、石宮群や金比羅宮があります。

次は、頼朝旗竿藪へ。

かつてこの場所に、熊野神社とその別当寺・満能院がありました。治承4年(1180)、源頼朝たち
がこの地を通り丸村に向かう途中、熊野神社に戦勝祈願のため参籠した時、この社の近くにある満
能院の住職が寺の庭に自生している節のそろったふたまたの竹を切ってきて、頼朝に献上しました。
頼朝は喜び、住職に「めでたく源氏が再興した時には必ず住職の恩に報いるであろう。何か希望が
あれば遠慮せずに申せ。」と言い、住職は「弓を射てその矢の届いただけの土地をいただき、いつ
までもこの竹やぶのある堂をお守りし、土地の人たちのお役に立つことができますならば何よりと
思います。」と話したといいます。頼朝はこの竹を旗竿としました。
以来、満能院では、毎年2本の竹を鎌倉将軍家に献上したと伝えられています。満能院は、明治に
なって廃寺となり、熊野神社は岩井神社に合祀されました。

次に、木の根峠の入口にある湯屋薬師堂へ。の途中に、やぐらがあります。

五輪塔が掘られています。

湯屋薬師堂です。

通称湯浴堂(ゆあんどう)は、元「名の内(みょうのうち)」にありましたが、鉄道敷設のため、
現在は高崎谷口に移転されました。創設等不詳ですが、吉野家文章によれば、宝暦2年(1752)のこ
ろ、湯屋薬師堂壱ヶ所御除地とあり、薬師如来を祀り、湯浴堂を設け、この地域に湧出する鉱泉を
利用して医療を行ったようです。現在は井戸だけ残っています。また、文政8年(1825)奉納の句額
には、小林一茶の句や安房を代表する俳人たちの句があります。

いよいよ木の根峠を目指していきます。

木の根峠は、南房総市高崎から富浦・丹生の間の峠道です。治承4年(1180)源頼朝が安房の国に来た
頃、すでに木の根峠は、石井郷(岩井)と達良郷(富浦)を結ぶ路でした。勝山藩が成立し寛文8年
(1668)藩主の酒井は、木の根峠の管理に当たりました。文化2年(1805)頃になると人々の往来。物資
の運搬もようやく盛んになり、天保10年(1840)房総沖に黒船が現れたとき、江戸幕府は、江戸湾防
備のため各藩に房総警備を命じたので、木の根街道は交通の要路となりました。明治16年に「素掘り
のトンネル・木の根隧道」を掘りはじめ、明治18年に開通しました。大正7年に鉄道が開通すると木
の根隧道の利用者はすくなくなりました。鉄道工事の建設道路として、線路に沿うように、素掘りのト
ンネルが掘られ、小浦村、南無谷村を結ぶ国道127号の元祖ができました。

写真ではわかりづらいと思いますが、かなりの斜面です。昔の人は、足腰が強かったのですね。
木の根峠の付近には、馬頭観音や仏像などがあります。

今日は、景色の良い場所でお弁当です。
 

昼食が終わり、次は、御目井戸です。

頼朝がここを通った時、湧き出る水で顔を洗い、喉を潤したと伝わっています。別名「頼朝井戸」
といい、現在は、民宿「御目井戸荘」さんの裏庭にあります。今回は、許可を頂き見学させてい
ただきました。ありがとうございます。

あとは、駐車場に戻ります。天気にも恵まれて、無事にウォーキングツアーを終了しました。
これから暑くなりますので、ウォーキングも暑さに負けそうになりますが、暑さに負けずにがんばり
ますので、是非みなさんもご参加下さい。

お散歩ツアー「鴨川市石造物百選を巡る」報告

新緑が綺麗な時期になりました。まだ5月なのに、気温が高く夏になったらどうなるのか
心配です。館山・南房総では、気温が高くても、海風が吹くので少しは楽かもしれません。

さて、今回はお散歩ツアー「鴨川市石造物百選を巡る」の報告です。
6年目ともなりますと、新しいコースを考えるのが一苦労でして・・・段々と、鴨川市の
方へとコースが増えてきていますが、なかなか鴨川市の方も素晴らしいものが多くて、
開催している当倶楽部でも、新しい発見があります。

集合場所は、鴨川市の大賀蓮の里駐車場です。ここから出発し、田植えの終わった田んぼ
の景色を楽しみながら、笠塔婆のある場所へ。

この笠塔婆は、亡くなった人を供養するためにに作られた石製の塔です。上に笠のような
石がのっているので、笠塔婆といいます。年代等は、解読できませんでしたが、この辺り
の豪農だった佐生夫婦の為のものです。塔婆は故人の追善供養として建てられますが、
塔婆を立てることは善を積み重ねることとなり、故人の供養と、自分の善を積むことにな
るので、自分の為にもなるものです。
長狭街道を通っているとこの大きな石造物が気になっていた方が多かったみたいです。

長狭街道の下の小さなトンネルを通って、川岸公会堂へ。
川岸公会堂には、鴨川市石造物100選に選ばれた3つがあります。
まず歩いて来て見えるのが、1つめの子安地蔵です。

近くで見るとこんな感じです。

この小安地蔵は、嶺岡山系産出の蛇紋岩で作られたものです。安房地域最大級のもので、
宝暦2年(1752)に地元の佐生家などが願主となり造立されました。
頭の上にはもともとは木製の笠が被せられていましたが、朽ちてしまったので、石で作
りかえられました。大きな体ですが、お顔のせいか、人を圧する印象ではなく、穏やか
な気持ちになります。胸の前には可愛らしい童子が膝上やふところから顔をのぞかせて
いて、子供たちを温かく見守るお地蔵様です。

2つ目は、堅牢地神(けんろうじしん)です。

年号は確認でいませんが、宝暦頃のものと考えられています。
頭に宝冠様のかぶり物をつけ、両手に花を盛った鉢を奉持する女人形の立像です。像の
両脇に「奉請堅牢土地神天」「田畑繁茂百穀成就」と刻まれています。
像容を刻んた地神は神奈川県に多いそうで、千葉県では、像容を刻んだ例は他に確認さ
れていないそうです。
堅牢地神とは、天部十二天のことで、地を象徴する神をさします。堅牢地神を祀る目的
は、土のパワーで様々な恩恵を受けるためです。大地の神とされ、土に関する恵をもた
らす神として祀られています。ルーツは平安時代以降始まった地蔵信仰の一形態となり
ます。堅牢地神は、その家の土地の守り神として存在し、五穀豊穣を叶える農業の神と
して信仰され、その信仰がさらに厚いものになったのは、江戸時代半ばの頃です。たび
たびの凶作飢饉にみまわらた人々は、堅牢地神に豊作を願うようになったそうです。

3つ目は、二十三夜塔(勢至菩薩陽刻)です。

宝暦3年(1753)に造立。蛇紋岩を成形し、前面を平面仕上げした上に、勢至菩薩が蓮座
の上に座り静かに合掌する姿です。頭上には、勢至を示す梵字「サク」が刻まれ、像の脇
には日天子・月天子の尊名と二十三夜の本尊に対する祈願文が彫られています。
ちょとここで勢至菩薩の説明を少し・・・勢至菩薩は、うま年生まれの人の守り神です。
阿弥陀三尊として祀られることがほとんどで、観音とともに脇侍を勤めています。
仏の智恵の光を持って、衆生が無知により地獄界・餓鬼界に落ちないように救う仕事をし
ています。「大勢」の衆生から苦を取り除く道に「至」らせるという意味です。

農道を通り次の場所へと向かいますます。

ここの景色が素敵で撮ってみました。北海道みたいじゃないですか?

次は、大徳寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を福聚山。本尊は、観世音菩薩。宮山の長安寺の末寺。
社寺明細帳には、「長安寺第八世の齢山和尚は、大徳寺の開山(創立者)にして、文禄5年
(1596)8月に没したと記録にあるのみで、創立の年月は不詳である」と書かれています。
この記録から天正年間(1573~1591)の創建ではないかと考えられています。

次に向かったのは、北小町堰を脇を通り水陸塔へ。

北小町堰の土手に水陸塔があります。

千葉県下で二例目の水陸塔です。寛延4年(1751)4月吉日の紀年銘があり、施主が当村中です。
塔は、2m近い大きさで地元の自然石を使って造られています。正面の上には、大きな月輪をあ
しらい、中に梵字で「ア」が表現されています。その下に、「仏法僧」と刻まれ、中央に「水陸
修会供養塔」の文字が彫られています。一番下の部分には「虫」の字も確認できます。
水陸修会とは、「施餓鬼」を意味する言葉で、悪道に堕ちて飢えに苦しむ、水陸の餓鬼に飲食物
を施すことを意味しています。村中がみんな一緒に施餓鬼の法要を行った事がわかります。
下に虫の字があることで、虫供養も兼ねていたのかも知れません。
他にも「万難消除」「福寿延長」の祈願文が刻まれています。

次は、主基斎田跡へ。

主基斎田は、明治天皇の即位最初の新嘗祭である大嘗祭に斎田として選ばれた場所です。
大嘗祭に用いられる新穀はト定(ぼくじょう・・占いで定める事)され、悠紀(由基)と主基(次)
の2ヶ所の斎田から献上されます。明治4年の大嘗祭悠紀斎田が甲斐国巨摩郡に、主基斎田は安房
国長狭郡北小町村字仲ノ坪にト定されました。村では斎田周辺には青竹を立てた、注連縄を張り、
垣をめぐらせて厳重に囲いました。また、隣地には八神殿、稲実殿などを設け、番屋で花房藩の役
人が警備しました。大嘗祭に先立ち神祇省から抜穂使ら8人が多くの従者を従えて訪れ、抜穂式は
厳かに行われました。現在はその栄誉を記念して碑が建立され、主基斎田址公園として整備されて
います。中には、お米のオブジェがありました。

ちゃんと精米したお米の形をしています。

この周辺の地名は、明治2年に北小町村を含む5ヶ村の合併の際に大嘗祭にちなみ由基村とされ、
大正4年に主基村と改称されました。
後の昭和56年、明治神宮の大祭を機に、地域の人々から主基斎田の誇りを次世代に伝えていく
為、また、大切に守り保つために力を入れていこうという声から「鴨川市明治神宮崇敬講」が発足し、
毎年、神にその年の新穀を捧げ豊穣を感謝する祭りとして11月23日に行われる明治神宮の新嘗祭
に、主基斎田で収穫した新穀と、その米で造った白酒(亀田酒造)を奉納しています。仕込式には、
明治神宮宮司をはじめ、関係官庁、地元有力者によって行われます。亀田酒造は、明治神宮献上酒指
定蔵になっていて、献上は末代までの指定となっているそうです。

次は、長泉寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を南谷山。長安寺の末寺で、本尊は薬師如来。もとは寺内の薬師堂の本尊で
あったと言います。寺伝によれば、天文9年(1540)5月に、佐久間豊後守時春という人物が創建
したといいますが、宗派は明らかではありません。時春のひ孫に当たる仙室宗鶴が、長泉寺の住職
を勤めた時に、曹洞宗に改修して長安寺の末寺になったと伝えられています。明治7年(1874)9月、
北小町小学校が開校した時、長泉寺が仮校舎として使用されました。
当日は、ご住職がいらしたので、お参りさせていただき、お寺の紹介もしていただきました。
ありがとうございます。

次は、熊野神社へ。

熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の祭神を勧請した神社です。
熊野本宮大社の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)・熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)
・熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと)。熊野速玉大社は、熊野速玉大神(かまのはやたまのおお
かみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)。熊野那智大社は、熊野権現を主祭神としています。
境内には、明治38年の三山碑(月山・羽黒山・湯殿山)があり、また、境内下には、右から嘉永6年
(1853)・天保9年(1838)・文政3年(1820)の三山碑があります。

最後は、古代蓮の里へ。
大賀ハスは、千葉市の東京大学農学部検見川厚生農場で昭和26年に発掘された約2000年前のハスの実
から発芽、開花した古代ハスです。発芽を成功させたハス博士の大賀一郎氏の姓をとって「大賀ハス」と
命名されました。北小町の大賀ハスは、市内の篤志家が種を自宅で育て、水田に移植して一般公開したも
のを、平成22年に水田ごと鴨川市に寄贈しました。


まだこんな感じですが、今年も綺麗にさいてくれるといいですね。

あとは、駐車場に戻り、終了です。今回のコースでは、鴨川市石造物百選の4つを見る事ができました。
当倶楽部のウォーキングツアーでは、36制覇できました。
6月のお散歩ツアーでは、3つを見学しに行きます。

月イチツアー「林道の八重桜のトンネルでリフレッシュ」報告

GWはいかがお過ごしだったでしょうか?天候的には、お出かけ日和があったりと、房総半島は、
他県ナンバーの車も多く見かけられました。

そんなGWの初日に、月イチツアー「林道の八重桜のトンネルでリフレッシュ」を開催しました。
天候にも恵まれ、日差しが温かいので歩いていると暑い位でしたが、風はまだちょっとひんやりと
していました。

集合場所は、南房総市の三芳エリアにある正林寺さんです。今回は、お寺さんの駐車場をお借りし
ました。駐車場の所や正林寺さんの所には、八重桜の木が植えられていますが、今年は、桜の開花
が早かったせいで、ツアー当日は、桜がほぼ終わってしまいました。

下見の時は、こんな感じでした。

正林寺のご説明を・・・

浄土宗の寺院で、山号は三峰山。本尊は木造の弥陀三尊像で、中尊の阿弥陀如来座像は、寺伝によ
ると恵心僧都(942~1017)作とされています。寺は応永年間(1394~1427)に開山と伝えられ、当初
は、本織(現三芳中学校)にあったそうです。その後、現在地の海老敷に移り、天保8年(1837)の
火災や、震災などを経て、現在の本堂は大正15年に再建されたものです。

正林寺の境内は、素敵な空間がありお寺のアミューズメントパークみたいな場所があります。
山門から階段を上がった所に「安心羅漢堂」があります。

ここには、粘土造りの羅漢像を千体納めてあります。この羅漢像はご住職がお造りになったそうです。

お堂の前には、「身代わり地蔵」があります。

他にも「水かけ蛙」

「河童池」

河童の頭に入れものがあって、ここにお賽銭を投げチャリンと音がすれば幸福ありとの事なので、
下見の時も、ツアー当日もチャレンジしてみましたが・・・また訪れてません。

さて、気を取り直して、墓地を抜け、次の見学場所の無量院へと向かいます。

本当に新緑の綺麗な日です。

無量院です。

浄土宗の寺院で、本尊は十一面観音です。寺伝によると、円光大師(法然上人)25霊場の第11番
の寺院といわれ、寛永年間の開基、承応3年(1654)の開山にして、天保14年(1843)に焼失してしま
い、同15年に再建したといいます。

次に向かったのは、天満神社です。

山下地区の鎮守で、祭神は藤原道真。天明5年(1785)に創建されたと伝えられています。
参道並び境内には、庚申塔や古峰神社祠などがあります。

林道へ向かう途中、立派な如意輪観音様が祀られてました。

ツアー当日、こちらの地区の方から少しお話しをお聞きしまして・・・
この如意輪観音は、安産をお願いするものだそうです。入口に筒状に作られた袋がぶら下がって
います。

次はいよいよ、林道増間・御門線を登っていきます。
林道増間・御門線は、昭和61年から8年あまりの年月をかけて整備されました。林道を作るために
山肌を掘削した際の残土を捨てた場所に、桜をうえようと地元の発案で千葉県から苗木の提供を受け
ました。また、地元有志が苗木を購入して植えました。八重桜のほかにソメイヨシノ・ウコンサクラ
等があります。

写真は下見の時のものですが、時期があえば八重桜を楽しむ事ができます。

ちなみに、ツアー当日はフジの花が咲いていました。

3㎞近く林道の坂道を上がって行くと、二反森という場所に着きます。今回はここで昼食です。
昼食の後は、1㎞先に行くと富士山が見えるポイントになるんですが、そこへ行きます。ですが・・
この時期は霞んでしまって見る事ができませんでした。
二反森の場所に引き返し、そこから林道上滝田大学口線へと入っていき、海老敷の金毘羅山へと
目指していきます。

海老敷金比羅山の標高は、208.5mです。
景色はこんな感じです。

頂上には、琴平神社が祀られています。

金比羅様を祀る石宮があり、境内はあたかも城郭のようで、入口は虎口の形をしていて、他に例を
見ない造りになっています。祭神は、大物主命です。社伝によると、天明3年(1783)創立、慶応元
年(1865)再建したといいます。

林道を下っていき、途中にある甚平様をへと向かいます。
林道から外れて行くので、ちょっと危険な場所にあります。イノシシ用?のくくり罠が仕掛けてあり
ました。

この石像は、昔から山下区の人々に、親しまれ「甚平様」として崇められていました。
しかし、この石像は何の石像なのかあらわすものが分からなったのですが、昭和58年
、三芳村史編さん委員の調査の結果、「役ノ行者」であることがわかりました。
作られた時代や作者は不明ですが、房州産の凝灰岩質の砂岩を使用し精巧につくられて
います。

後は、出発地点の正林寺へと戻ります。
少しだけ、下見の時に撮りました桜の写真を・・・

ツアー当日は、まだ八重桜が咲いていると予想していたのですが、今年は早かったので
桜を楽しむ事ができませんでした。残念です。

お散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」報告

4月ももう中旬です。今年は、サクラの開花もはやく、山で採れるワラビやフキも育ちが速い
ようです。花粉の時期もスギからヒノキに代わって、なんだかヒノキの花粉の方が、症状がひ
どく感じるのですが・・・早く、この時期が終わってくれればと願うばかりです。

さて、30年度最初のウォーキングツアー・お散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」を開催
しました。スタートは、道の駅ローズマリー公園の近くにある、リバーサイド駐車場です。

丸山川沿いを通り、リバーサイドプラザがあった場所を通り、子安神社へと向かいます。

祭神は豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)・大山袛命(おおやまつみのみこと)・飯綱大神
です。明治44年(1911)に、近くの字取田原の山神社と飯綱者を合祀しました。
子安神社が海発神社と呼ばれていた頃に、古老の口伝を元に書いた「海発神社縁起」が保存され
ていて、縁起による、南三原村村社は、昔から子安大明神と称した元海発村の守護神です。その
社殿の創建は明らかではありませんが、遠く承久(1219~1222)の時代には、すでに村人たちが崇
め敬っていたと書かれています。また、昔から伝説が残っていて、村里の子供たちが海発神社の御
神体を運び出し、付近の川で流して楽しく遊んでいるのを見た村人が、驚いて急ぎ御神体を社殿に
安置し、固く鍵を掛けると、その夜、ご神体が村人の夢枕に立ち「吾、幼童と共に河の流れに戯れ
るは、幼童の溺死を護らん為なり、汝は吾を封じ込め、吾が意に逆らうなり」とお告げになったそ
うです。その村人は恐れおののき再び御神体を開帳したといいます。

拝殿の向かって左側にある石は子授かり石で、お子さんが欲しい方は子安様にお願いし、男の子が
欲しい人は長細い石を、女の子が欲しい人は丸い石を後ろ向きにとってお願いして帰ります。大願
成就した際には、それぞれ2個の石を戻して御礼参りをするそうです。

手水鉢の所にある蛇口が、カエルになっていました。

カエルを嫌いな人にはダメだと思いまが、私的にはかわいいと思いました。ナイスなセンスだと・・・

境内には、多くの碑が残されていますが、独り事では説明を省略します。

次は、浅間様へ。

富士塚の上に浅間石宮が祀られています。山包講の文字がかすかに見えています。
金比羅様・大日如来像などが一緒に祀られています。

次に向かったのは、建福寺。

真言宗智山派の寺院で山号を海光山といいます。本尊は阿弥陀如来で、開創は室町時代と言われ
ています。本堂の他に薬師堂がありましたが、関東大震災で両堂とも倒壊して、今の本堂は昭和
9年に再建されました。本堂の向拝の龍の彫刻は、後藤喜三郎橘義信の作です。

建福寺を後にし少し歩いて行くと、六地蔵と馬頭観音があります。

辻の所にあり、六地蔵は安永14年(1776)のものです。

辻のお地蔵さんから旧道を歩いていくと自性禅院に着きます。
厚着のお地蔵様が入口で迎えてくれます。

階段を上がって行くと、本堂が見えてきます。

臨済宗建長寺派の寺院で山号を海発山。本尊は十一面観世音菩薩。開創は元徳元年(1329)。
寶冥和尚が開山してより、衰微(すいび)の一途をたどり、260年余り年を経て、慶長年間
に、本間兵庫頭義秀の外護により安室富和尚これを中興し面目を一新しました。その後、元禄・
大正の二回に亘る震災にあい古記録・古文書等は散失し、その間の栄枯盛衰を判断はできません。
近年、明治35年、当院鎮守として本山奥山半僧坊大権現を拝請し、漁民の信仰を集め、また
明治44年には本堂庫裏新築落成をみたところ、大正12年の大地震によりことごとく崩壊し、
以来再建に努め、ようやく昭和9年に落成をしました。
大正4年4月から同11年4月までの7年間地方青年中等教育の塾として自彊学舎(石渡塾)
が自性院内に開設され、安房各町村から男子塾生が多数集まり、論語、孟子など四書五経その
他の学問を学びました。

本堂の向拝には、すばらしい龍の彫刻があります。

梁に龍が巻き付いているんですが・・・わかりますか?なかなか見ない彫刻です。

裏から410号線に出て、いったん南三原の駅へと。その後、正運寺へ。

奥に見える建物が、正運寺です。なぜか?写真を撮り忘れていました。
天台宗の寺院で、山号は福和山。本尊は、不動明王です。
天台宗第三代慈覚大師が石堂寺に来錫された折に開山(仁寿元年(851))されたといいます。
関東大震災で焼失してしまいました。境内の左側に、勝軍地蔵の石像があります。これに祈れ
ば戦に勝つというお地蔵様で、鎌倉時代以後、武家の間で信仰さらました。
この写真を撮ってこないのはイタイです・・・

次はすぐ裏にある教会へ。

コルバン夫人が晩年を過ごした教会です。
コルバン夫人は、房州の人々に親しまれた英国女性です。
コルバン夫人が館山の地を初めて来たのは、明治38年(1905)頃です。北海道函館で宣教活動
中に病に倒れた夫のコルバン医師の療養のため、温暖な土地を求めてのことでした。
ともに英国生まれの2人は医療を通じたキリスト教の伝道を目指し、イギリス聖公会の宣教師
として赴任した香港で出会い、結婚。その後赴任先を函館に変え、病院を設け貧しい人々へ医
療とキリスト教の教えを伝えました。
当初は、夫の体調が良くなったら函館へと戻る予定でしが、夫の体調が良くならず、函館市街
を襲った大火災で病院は再建困難になってしまいました。一旦は日本を離れ、母国へと戻りま
したが、母国の気候が夫の療養に適さないことがわかり、夫人は自給宣教師として決意し、明
治45年、再び館山へ戻ってきました。夫の看病のかたわら、市内で祈りの集会を開くととも
に、当時不治の病とされていた結核患者のための施設「養生院」を館山市八幡の海岸沿いの自
宅にもうけました。患者の滞在費や薬代はすべて無料で提供したといいます。大正4年(1915)
に夫がこの世を去り、同12年に関東大震災で養生院が倒壊。65歳の時には、インフルエン
ザの後遺症で両目を失明しました。晩年の夫人は、ここの教会に拠点を置き、日曜学校の開催
など幼児教育に力を注ぐようになりました。コルバン夫人は78歳で息を引き取りました。
夫人が建てた南房総市和田町仁我浦の和田幼稚園には、博愛精神をしのび、地元の人々が建立
した彰徳碑があります。

次に向かったのは、牛乳處理工場。

大正11年(1922)、極東煉乳がこの地(南三原村海発)に乳製品工場を設置しました。昭和2年、
極東煉乳(株)南三原工場を(株)和光堂が買収し、同社南海工場として房州へ進出し、バターや乳
製品の製造を始めました。戦時中は統制会社「千葉県酪農会社」の委託工場として操業していまし
たが、同25年3月再び和光堂直営に復帰、ペニシリン製造などで将来を期待されましたが、昭和
26年7月森永乳業(株)に工場を譲渡しました。現在は、酪農家の組合で使用されています。
ちなみに・・極東煉乳は、明治乳業の全身です。和光堂は、大正6年(1917)に、国産第1号の育児
用ミルク「キノミール」を販売しました。みなさんご存じのシッカロールは、和光堂薬局が明治39
年(1906)に発売したものです。今は色々なメーカーからベビーパウダーとして販売されていますが、
白い粉自体がシッカロールって言うんだと思ってましたから・・・

次は、裏側から和田海底ケーブルの建物を。

施設名は、リーチ・ネットワークス 和田海底ケーブル陸揚局といいます。当初は、レベルスリー・
コミュニケーションズが建設した陸揚局でしたが、今は香港に本社があるリーチネットワークスの陸揚
局になっています。

ここまでが今回の見学場所になります。あとは、農地整備した場所をテクテク歩いて戻ります。

海発という字を何度も書いていますが、なんと読むでしょうか?
「かいはつ」と読んでしまうと思いますが、正解は「かいほつ」です。地域名の読み方は難しいですね。

30年度一弾は無事終了しました。今年度も、色々安房地域を巡りますので、是非ご参加下さい。

月イチツアー「大人の遠足」報告

気が付けば4月、新年度に突入しました。今年は桜が速いようで、館山・南房総でも満開を
迎え、そろそろ散り始めてきました。花が終わると新緑の時期になりますね。
H30年度のパンフレットもお客(ウォーキングツアー参加者)様への発送も終わり、内房
エリアの道の駅や館山市の公民館へ配布は終わりました。外房エリアの道の駅は、もう少し
お待ち下さい。

さて、29年度最後の月イチツアー「大人の遠足」を開催しました。このタイトルは、館山
市の小中学校に通っていた人は、1度は学校行事の遠足で「砂山」を訪れた事がある事から、
大人になっても遠足気分で歩きましょう!!っという事で付けたそうです。
当初予定していた日は、大雨に見舞われ、数日の延期をし晴れの日に行いました。

出発は、布沼組合集会所。最初に行くのは、山側に入って行った薬師堂。
薬師堂に行くには、手作りの橋を渡って行きます。

橋を渡り、少し坂道を上がると、薬師堂が見えてきます。

この薬師堂は、戦国武将 里見義堯の流れをくむ布沼の郷土の家の薬師堂です。
本尊は、薬師如来。お堂の天井には龍の絵が描かれているそうです。今回は見る事が出来
ませんでした。
御詠歌には、「大石と重き病も我たのめ 人の布沼にもとの身と成」とあり、病気平癒の
祈願をする人々がこの薬師にお参りしていたそうです。


お堂の横には、寛文4年(1664)・延宝6年(1678)の宝篋印塔の墓石があります。

境内には、石造物が多くあり、信仰の深さが分かります。

次は、深田やぐらへと向かいます。

ここは、室町時代の「ヤグラ」で、中には15世紀から16世紀の五輪塔と宝篋印塔を組み合
わせた塔が3つありますが、もとは、宝篋印塔が少なくとも2基、五輪塔が4基あったと思わ
れます。布沼の有力の武士の墓と言われています。

次は、大久保墓地へ。墓地はあまり行きたくないのですが、珍しい墓石があるので紹介します。

明治36年(1903)の酒樽型の墓(酒翁盛呑信士)があります。戒名からしても、酒盛りが好き
な人だったのではないかと・・・ユーモアのあるお墓です。このような酒樽型のお墓は、館山
市内にあと3つ確認されています。また旅倶楽部では、すべて紹介してるかと・・・
あとお隣の南房総市の智蔵寺にもあります。30年度にウォーキングツアーで訪ねる予定です。

次は、東光寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。釈迦如来像は、16世紀の室町時代後期の作です。
境内には、寺小屋師匠で慶応2年(1866)没の住職芳明東禅和尚の墓があり、また、裏参道には、
文化14年(1817)から農業が機械化させる直前の昭和35年にいたるまでの馬頭観音が16基
あります。

裏山の中腹に「やぐら」と思われる穴があり、周辺からは16世紀の常滑焼の破片が出土して
います。また、縄文土器・弥生土器・古墳時代の土師器や東海系の須恵器も出土しており、境
内周辺は大久保遺跡と呼ばれています。

次は、小原の集落にある薬師堂へ。

薬師堂の入口に念仏講による享保7年(1722)の地蔵像と嘉永4年(1851)の馬頭観音があります。
裏山の山頂近くに「やぐら」があり、五輪塔と宝篋印塔の石の一部があり、中世室町時代の有力
な武士層の墓と考えられています。今は、急登の藪こぎで近づけません。

次は、砂山の裏を見に行きます。

子供の頃は、ここから登っていきましたが、今回は表へと回ります。
ここで、ソリを持って滑って、川へなんて遊びをしていました。今は無理ですが・・・

さて表へとまわります。
砂山の手前に土地の人がジャジキと呼ぶ谷津があります。

昔は水を満々と蓄えた深い池だったそうです。その東側の崖に古墳時代の横穴墓が3つあると
いいます。そのうちの一つから人骨や刀、勾玉、管玉が出土しました。玉類は館山市立博物館
に展示されています。
この池は砂山のドラゴンが棲んでいて、行き交う旅人になぞなぞを出し、答えられないと食べら
れてしまったそうです。傍らの露出している岩は龍の足跡だそうです。ドラゴンがなぞなぞなんて
面白いお話しが残ってるんですね。

さて砂山です。

昔、佐野から坂井にかけての一帯は、平砂浦の防砂林が完成する前は、海から吹き荒れる風で、
一晩で山が動くと言われるほどの激しい砂嵐がありました。その砂嵐で運ばれた大量の砂で砂
山が出来ました。当時の砂山のスロープは見上げるほどの急斜面で山頂の岩がすっかり隠れて
いたといいます。
砂山が出来た頃は、藤原から布沼を通って西岬へ行く旧道は、砂山あたりが難所となっていま
した。そのころの佐野っ原はムジナがすむ寂しいところで、「ここで美しい女性や侍を見たら
気をつけろ」と言われたそうです。布沼方面からの旅人は、ここで一服してから砂山を越え、
西岬方面からの旅人は大変な思いで砂山を越えてから一息ついたといいます。
現在の砂山は、防砂林ができ砂が吹き上がる事がないので、だんだんと砂が少なくなり、岩が
見えるようにりましたが、小・中学生の遠足や都会の体験学習・サンドスキーなどのレジャー
や陸上・サッカーのトレーニングなどで、多くの人が訪れています。

ここで昼食です。今回は焼肉弁当。

たまには、焼肉なんていいかな?なんて思いまして・・・結構、ボリュームがありました。

お腹がいっぱいになったところで、翁作古墳跡へ。

現在は、館山カントリークラブ(ゴルフ場)になっていますが、昭和42年(1967)にホテル
の工事中に発見された古墳です。標高35mの砂丘の先端という位置で、当時は砂に埋もれて
いました。ホテルのオープンにあわせて、玄関前に3本のやしの木を植栽していたところ、
壷や刀の破片・さらに人骨などが見えたといいます。工事を急いでいたため出土品は段ボール
に納め、他の副葬品は埋め戻されました。出土品は市役所に持ち込まれましたが、後に安房水
産高等学校の對馬先生に届けられたといいます。古墳はすでに消滅し、規模等明らかではない
ですが、地表下2mから人骨や須恵器・剣・刀子・勾玉・管玉・圭頭大刀・環頭大刀が出土し
ました。大刀(市文化財)・玉類は館山市立博物館に展示されています。
葬られた人は6世紀終わり頃の人物で、中央大和王権に近い安房地域の豪族だったと考えられ、
東京湾の入口がこの頃から重要だったことが分かります。

ゴルフ場から平砂浦海岸へと向かいます。

西岬と富崎との間に広がる平砂浦は、元禄16年11月23日の大地震で大隆起があり、新しい
土地が出現しました。ところが、10m以上も一挙に隆起した海底は一面の砂浜となり、秋から
春先まで吹き荒れる西風によって、たちまちおおきな砂山が出来てしまいました。この砂山は、
1年間に数メートルも耕作地に迫り農民は飛砂を防ぐための努力が続けられましたが、大正12年
の大地震により2m以上も隆起してふたたび砂原になってしまいました。その後、戦時態勢が進み、
佐野に館山砲術学校が建設され軍事演習場となって再び荒涼とした砂原になってしまいました。
昭和22年9月のサハリン台風、23年9月のアイオン台風により一夜にして田畑が埋められてし
まいました。戦後の農地改革にあわせ、当時開拓組合の役員だった田辺昇は軍用地の払い下げに合
わせ砂防問題にも精力的な活動を始め、ついに昭和23年飛砂防備砂防林工事の着工に至りました。
「平砂浦砂防林造成記念碑」には着工 昭和24年7月・完了 昭和32年3月施・施工面積146
ha・事業費 2,783万円と記され、9年間の大事業でした。こうして、白砂青松といわれる風光
明媚な平砂浦海岸が作り上げられ、この松林の中に海岸道路フラワーラインが建設され、観光道路と
なり道路百選にも選ばれる名路となりました。
この当時の2,783万円は、今でいうと6億円位になるかと・・・大規模な工事だったんですね。
現在、松林は数年前から松くい虫の被害にあい、再生の努力が続けられています。

海岸を後にし、向かったのは大石弁天。

元禄16年(1703)の大地震で隆起が起こるまでは、海岸の大岩だったと思われる場所にあります。
寛政5年(1793)の記録に、旧暦6月18日に祭礼があり、布沼・茂名など5か村で雨乞いの祭礼
を行い、弁天様にお神酒を上げて、一日遊んだといいます。享保7年(1722)に作った鞨鼓舞の獅子
頭がのこされています。

数年前までは小さな石の舟がたくさん奉納されていました。

少し名残がありました。

さて、残り1つの見学場所は、厳島神社です。

島状の高台に鎮座する布沼の鎮守です。境内には文化7年(1810)の手水石があります。
社殿の裏手に縄文時代の石棒が祀られ、周辺からは古墳時代の土師器が出土するといいます。

あとは、集合場所へと戻ります。

平成29年度も無事に終わる事ができました。いよいよ30年度がスターとします。
ウォーキングツアーは誰でもご参加できます。是非、一緒に住んでいる地域の歴史など
に触れてみませんか?お待ちしております。

追伸:一緒にガイドとして活動してくださる方も募集しています。地域の歴史を調べる事が
好きな方・人とのコミュニケーションが好きな方・歩くのが好きな方、是非、一緒に活動
しましょう!!同時に、ウミホタルの観察会のお手伝いして下さるボランティアも募集して
おります。ご興味のある方、是非ご連絡下さい。

お散歩ツアー「白間津・花と民話の里散歩」報告

3月ですね。館山・南房総では、河津桜が終わりに近づいてきています。もうしばらくすると、
ソメイヨシノが咲き始めると思いますが、去年の城山公園の開花は3月の終わりでした。今年
はいつ開花するのでしょうか?

さて、お散歩ツアー「白間津・花と民話の里散歩・花と民話の里散歩」を開催しましたので、
報告します。南房総市千倉町にある白間津エリアは、お花の露地栽培で有名な地域です。
たぶんみなさんも、早春のパンフレットとかで御覧になられている方もいらっしゃると思い
ます。お花畑に色とりどりのストックや金盞花が咲いている写真を・・・

この写真は、数年前に撮ったものです。今年は、少し少ないようですが、昨年10月の台風で
ダメージがあったそうです。自然には、勝てないですね。

さて、出発は南房千倉大橋公園の駐車場から出発です。
まず最初に向かったのは、長尾神社。

主祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)。元の社殿は山腹にあり神域が狭く、山の絶壁
の下にあったため、時々崖が崩れ社殿が損傷していました。当時の区長で名主の宇山氏が、
宇山氏の屋敷跡を譲り受け大正元年(1912)に式典をあげ、大正3年(1914)新築、翌年9月
に完成しました。


向拝の龍は、三代後藤義光の作です。

境内には、神輿庫があり中には2基のお神輿が納められています。

写真はうまく撮れていません。すみません。
ここに納められている大神輿は、100年以上前に作られたもので、欄干の刺繍には、留め金
がなく、爪と尾だけで固定されています。

手水石もなかなの仕事をしていますが、作者は不明です。

次は、東澵寺へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を壽命山。鳥山確斉生家の菩提寺です。

鳥山確斎と言う人は、大川村・宇山孫兵衛の二男として文政2年(1819)に生まれ、兄と共に
大聖院の住職に師事しました。幼少より聡明だったのですが、8歳の時に落下してきた凧で
左目を傷つけてしまい、以後、家に籠る事が多くなり読書に明け暮れていましが、20歳の時
には江戸の東条一堂に入門し、儒学・漢学を学び、文武両道を志しました。31歳の時に京橋
に「蒼竜軒」と呼ぶ私塾を開き、兵学・漢学、儒学を教えます。33歳の頃、蒼竜軒で吉田松
陰・桂小五郎・梅田雲濱達と交流。吉田松陰は確斎を兄と慕っていたと言われています。志半
ばにして安政3年(1856)病により38歳で他界しました。

境内には、鳥山西鶴の百三十年祭記念碑が建てられています。

次は、民話にもあります黒星へ。

地元の人の話によりますと、昔は「黒星(くろぼし)」と呼んだそうですが、いつの頃かなま
って、今の名「黒星(ころぼし)」になったというのです。その岩は、二坪位の大きさで、一
見普通の岩と何ら異なるところのない岩ですが、大昔起きた大地震の時、高塚山から転げ落ち
たもののようです。黒星は西の方がえぐられ、空洞になっていますので、昔はその前に、よく
線香や飯や餅などを供える人がいました。でもその時、黒星に触ったり、黒星に寄りかかった
りする者は、一人もいませんでした。それは地元の人たちが、「黒星に触ってはならない。触
れば必ず祟りがある。」というタブーを信じていたからです。どうして黒星に触ってはいけな
いことになったのかは不明でうすが、恐らく、この岩が転落した時、多くの人が圧殺したため
ではないかと、想像されています。(南房総市の昔話より)

今では、岩の上になにか棒みたいなのが乗っかってますが・・・大丈夫なのでしょうか?

次の円正寺へと向かう途中の旧道に石仏群がありました。

ここにある子育て地蔵がチャーミングだったので、写真を撮ってきました。

ちょっとわかりづらいと思いますが、胸に抱きかかえている赤ちゃんが、暴れてのけぞっている
ように見えませんでしょうか?「元気な赤ちゃんに育ちますよに」という事なんでしょうかねぇ~
珍しいので紹介しておきました。

さて、細い路地を通り圓正寺へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を岩戸山といいます。
もとは、次に行く日枝神社の別当寺で神社の祭典が行われていました。現在でもまず仏前に「ササ
ラ踊り」を奉納してから、神社の祭典が行われています。

境内には、三界万霊塔があります。

天保12年(1841)から明治19年(1886)にかけての溺水者を弔う為の塔です。昔は海岸の周り地蔵
の近くにありましたが、現在の場所に移設したと言われています。

次は、すぐ裏の日枝神社へ。

祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。延喜元年(901)、第60代醍醐天皇の時代、岩戸大納言
義勝が京都より勧請して創建と伝わっています。4年ごとに開催される「白間津の大祭」が重要無形
民俗文化財「白間津のオオマチ行事」と指定されています。祭神は農業の神として昔より氏子の崇敬
が篤く、特に平安朝より伝承されたとする五穀豊穣の祈願、雨乞い「ささら祭」がササラ踊りとして
現在の「白間津の大祭」に繋がっています。

拝殿の高梁の親子龍の彫刻、拝殿柱の振返獅子、象鼻などの彫刻は、安房の名工・初代後藤義光の作
で、義光の作品でも稀に見る傑作として知られています。

写真は上手く撮れてないので、実際にお参りに行って見て下さい。

次は、三ツ山地蔵尊へ。

三ツ山とは、三つの小山を一緒して呼ぶ名です。三つの山は昔から信仰の山で、今回は国道の方
から入って行ったので、左側の階段を上ると愛宕大明神(愛宕様)、右側を登って行くと権現様
があります。この権現様は昔は稲荷様とつながっていたのですが、国道により分断されてしました。
国道を渡り旧道の所を入ると稲荷大明神(稲荷様)があります。

左:愛宕大明神  右:権現様

海岸線から見る地蔵大菩薩を祀るお堂。

三ツ山地蔵尊のお話しを・・・
約1200年前の寒い冬のある日、白間津村の孝行息子が盲目の父親にアワビを食べさせたいと、
母が止めたのにも関わらず、磯に出て行きました。なかなか帰って来ないので、探しに行く
と両手にアワビを握ったまま海に沈んでいました。安房国を巡錫していた弘法大師が、この
海難事故を哀れんで、冥福を祈り、この様な惨事が二度と起こらないように、海上守護の地
蔵菩薩像を三ツ山の岩に彫刻し護摩修行をしました。三ツ山地蔵の霊験はあらたかで、今も
近隣の漁民や農民の厚い信仰を集めています。(南房総市の昔話より)

今回は、中を見る事ができませんでした。残念です。

もう1つこの三ツ山に昔話が伝わっているので紹介します。
昔、この三ツ山周辺は真間の原といい、昔から悪い古狐が住んでいたといいます。なにしろ
十九町ほどの間、家が一軒もない淋しい原だったからです。その古狐は夜になると、人里ま
で現れて人を化かしたり、脅かしたりしたので、困った里人たちは、これは古狐が棲むのに、
ふさわしい家がないからだと考え、三ツ山へ稲荷さまを建てることにしました。
やがて、稲荷様は立派に出来上がりましたが、それでも暫くは、古狐の悪さは止みませんで
した。ところが、三ツ山の稲荷様のお蔭かどうか分かりませんが、ある時から古狐の悪さが、
ぱったり無くなり、自然と古狐の噂も里人の口から消えようとしたときでした。ある夜、あ
る家の老婆の夢枕に真間の古狐が立ち、「ながいこと悪戯をしましたが、私は今、三ツ山地
蔵のかたわらの草むらに埋まっています。可哀想だと思ったら、どうかわたしの骨を掘り起
こし、三ツ山稲荷に祀って下さい。」と告げたのです。老婆から夢のお告げを聞いた里人た
ちは、死んだ古狐を可哀想に思い、三ツ山地蔵のかたわらの草むらを掘ってみると、老婆の
夢枕に古狐が告げたとおり、狐の骨が出ましたので、その骨を拾い上げ、三ツ山の稲荷様に
納め、厚く供養してやりました。その後には、真間の原に悪い狐は棲まなくなったどうです。
(南房総市の昔話より)

さて、ここらか海岸線を通り駐車場まで戻ります。曇り空、強風でしたが、なかなか見どころ
満載のウォーキングでした。題名にもありますが、この地域は昔のお話しが多く残っています。
あともう1つだけ民話を紹介します。
手長婆(てながばば)というお話しです。
千倉町白間津地区の氏神に近い山腹に、「手長婆の洞(ほら)」と呼ばれる2つの洞穴があり
ます。 昔むかし、その洞穴に手の長い一人の婆が住んでいました。里人たちは、その婆を手
長婆と呼んでいましたが、婆あどこの生まれか、どんな気性な者なのか誰も知りませんでした。
なぜかと言えば、婆の手がたいそう長くて気味が悪い上に、顔が鬼婆のように怖いので、誰も
恐れて付き合わなかったからです。そのため、婆はまったく一人ぼっちでした。話相手は一人
もなく、朝夕暗い洞穴に棲んでいるのでした。その婆の唯一の慰みは磯物を捕ることでした。
捕るといっても浜へ出てではなく、洞穴に座ったまま、里越しに長い手を伸ばして磯物を捕ま
えるのです。大川と白間津の境辺りの浜はいつも婆が手を伸ばすところでした。手長婆は随分
長生きをしたようですが、しかしいつ死んだのか、またどうして死んだのか、少しも分かり
ません。今、その婆が住んでいた洞穴を訪ねて、その内部を掘りますと、アワビやサザエなど
の貝殻がたくさんでてくすようですよ。(南房総市の昔話より)

民話にお付き合いいただきありがとうございます。最近では、民話を聞く事が少なくなってきて
いますので、ちょこちょこガイドの独り言で、民話を紹介していきます。

次回は、月イチウォーキング「大人の遠足」です。お待ちしております。

月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地を巡る」報告

花粉の季節が本格的にやって来ました。房総半島の南部にいると、私の場合1月位から
花粉症の症状が出始めるんですよねぇ~。風邪も流行ってくるので、1月からマスクは
必需品なのですが、歩いているとどうもマスクが嫌で・・・外してしまうと、帰ってか
らが大変なことになります。杉山が多いので、早く、花粉の飛ばない時期になって欲し
いものです。

そんな中、2月月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地巡り」を開催しました。
当日は、朝寒かったのですが、天候にも恵まれて丁度良い気温になりました。

出発地点は、南房総市花園にある駐車場から。
まず最初に向かったのは、鴨川市江見にあります真門観音堂。

真門観音堂は、十一面観音菩薩を祀る小さなお堂です。向拝には肉厚な龍の彫刻があり、
獅子は、火炎に振り向いた姿をしています。

この彫刻には、「安房国彫工 後藤利兵衛橘義光」と刻銘がします。年代は刻まれてい
ないので不明です。

次は、鴨川市から南房総市に戻り諏訪神社へ。
諏訪神社の鳥居の手前に今回の題目に入っている子(ね)の姫を祀った社があります。

子(ね)の姫の民話をお話します。
遠い鎌倉時代のある日、今の和田の浜辺に一隻の舟が打ち上げられました。村人たちが駆け
寄ってみますと、たいそう驚きました。その舟には、一枝の黄色い花の花木を握りしめた、
美しい姫が倒れていたのです。村人たちは姫を村に連れて帰り、小さな庵を用意して手厚く
看護し、黄色い花の花木は、庵の庭に挿しておきました。その姫は誰だったかといいますと、
実は花園天皇の皇女・子の姫だったのです。そのころ、都では天皇の位をめぐり、よく争い
が起きましたので、花園天皇が子の姫を守るため、舟で淡路島に逃れさせたのですが、舟は
激しい風と潮で大平洋に押し出され、幾日も東東へ流され、安房の和田の浜辺へ打ち上げら
れたのです。助けられた子の姫は村人たちと仲良しになり、文字や歌を教えましたので、皆
に慕われましたが、佳人薄命です。間もなく心労のためか病にかかり、静かに息を引き取り
ました。村人はたいそう悲しみ、子の姫の住んでいた庵の跡に社を建てて子の姫の霊をお祀
りすると、庵の庭で大きく育った黄色の花の花木を分けあって植え、春になると、村全体が
黄色く染まるほどにしました。やがて村人たていは、子の姫が舟で打ち上げられた浜の地を、
子の姫の持っていた黄色い花の花木に因み「木花(ぼっけ)」。そして、助けた子の姫が花
園天皇の皇女であったことから、自分たちの住む村を、「花園」と呼ぶようになりました。
(南房総市の昔話より)

この木が黄色い花の花木と言われているものです。

まだまだ咲いていませんが、6月~7月に黄色い花を咲くそうです。

次は、諏訪神社へ。

祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
詳細等は不明です。

次は、抱湖園へと向かいます。
途中、面白い置き物や元朝桜があります。

抱湖園周辺は、元朝桜多くあり見頃が少し遅かったのですが、まだ多くは咲いていて、
桜を見ながら歩く事ができました。

階段を上がって抱湖園へ。

本来は農業用水のために自然貯水されたいた堰です。小高い山の中腹のため眺望に恵まれ、
地主の間宮七郎平が堰の周りに緋寒桜を植えました。その後区民が手入れをし美しい花を
咲かせています。元日の朝咲くので元朝桜と言われ今では桜の名所になっています。

南房総市和田町は花作りが盛んな地域ですが、どうして花作りが始まったというと、間宮七
朗平によるものです。間宮七郎平は、明治26年(1893)の生まれで、当時、このあたりは貧
しく、冬場は男が出稼ぎに行くのが普通でした。七郎平は勉強が好きで、24歳の時、薬剤
師になる勉強に取り組み、薬草の研究や栽培をしているうちに、鑑賞用の花の需要がある事
に気付いたのです。そして大正9年(1920)から花園で花作りを始めました。農家の人たち
から、花が生活の糧になるかと笑われ、中傷もありましたが、それでも自分を理解し支えて
くれた、妻の死の悲しみも乗り越え、熱心に花作りを続けました。やがて、七郎平の熱心さ
は、農業を営む多くの人たちの心を動かし、花作りが広まり、大正12年(1923)には、和田
地区に花組合ができました。初代組合長になった七郎平は、花の共同出荷を始め、東北地方
の市場開拓や、また鉄道省に働きかけ、花列車を出して貰うなど、南房総の花組合のために
尽力を尽くしました間宮七郎平によるものです。

抱湖園から山に登り、はなぞの広場を目指します。

今日は、はなぞの広場で昼食です。

今回は、道の駅和田浦のWA・O!にあるお食事処の南美舎(みなみや)さんにお願いしたお弁当
です。いつもは、直ぐに食べ始めるのですが、今回はちゃんと写真を撮ってみました。
その後、美味しくいただきました。

お腹がいっぱいになったところで、黒滝へと向かいます。

黒滝です。

長者川の中流にあり、高さ15m、幅は約2m、正面岩肌から垂直落下する滝です。 
少し水量がすくないのですが・・・・

この滝つぼ右上の所に、向西坊が入定した岩窟があります。

享保17年(1732)に「予を念ずれば火難諸災難を除き、家内安全五福寿を増長せしむと遺言し、
岩穴に自ら入定しました。入定して21日間最後の祈念を唱え生涯をおえました。53歳でした。

もう1つ滝側に似不動明王が祀られているほこらがあります。

次に向かいます。先ほど来た道を戻ります。

はなぞの広場から舗装された道をあるいて長香寺へとむかいます。l
途中には少し新しい双体道祖神や、虫供養塔がありました。

長香寺へ。

曹洞宗の寺院で、山号は花園山です。境内には、円玉石の向西坊供養塔が建てられて
います。

向西坊の事をお話しします。
向西坊は、名を元助といい、上州下秋間字館(現、群馬県安中市秋間)の百姓三右衛門の長男
に生まれました。幼くして母を失い、三右衛門は後妻をもらい、元助は養母に育てられました
が折り合いが悪く、14歳の時、家を飛び出してしまいました。少しのお金で、伊勢参宮を目
指しましたが、途中でお金が無くなり、道行く人の情けにすがっていたので、縄張りを荒らす
と付近の乞食共にいじめられていたところへ通りがかった、浅野内匠頭の代参で伊勢神宮に来
た片岡源五右衛門に助けられ、その下僕となって赤穂に連れられ、片岡の屋敷の下僕として下
働きをさせられました。元助は主人にその恩に報いたいと懸命に働き、その忠義は大石内蔵助
をも関心させられるほどでした。赤穂城明け渡し後、浪人となった片岡に仕え、片岡は元助を
伴って江戸へ下り、吉良への復讐の期を狙っていました。元禄15年(1702)12月13日討入
の前夜、突然片岡から解雇を申渡された元助は悲しさのあまり自殺しようとしました。片岡は
その忠心を認めて討入のことを話てくれましたが、そのお伴は許してくれませんでした。
四十七士は吉良邸に討ち入りして、本懐を遂げて切腹しました。元助は泉岳寺の墓前で泣きな
がら四十七士を手厚く弔い、生まれ故郷の秋間村へ帰り、出家して仏門に帰依し、名を「音外
坊」と名乗り四十七士と主君の浅野内匠頭夫婦の石像及び供養塔を造り始めました。近くの久
保観音堂にこもりながら、各地で托鉢・布施で石像建立の資金を集め、秋間の石工に彫らせた
石像を一体づつ岩戸山の岩壁まで担ぎ上げ、すべての石像が完成するまで20数年もの歳月を
要しました。その後「向西坊」と名を変えて全国を行脚しました。やがて房州和田浦長香寺に
足を止め、村人を済度し、その天命を知って、黒滝不動の側に岩を掘ってその中に入り、自ら
石蓋をし、「予念ずれば火難諸災難を除け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」と遺言し、
念仏鉦声裡に三七、二十一日間にて入定しました。享保17年9月30日享年53歳でした。

長文になってしまいました。まだお話しが続きますが・・・今回はこの辺にしておきます。

長香寺を後にして、スタート地点へと戻ります。
せっかく菜の花が綺麗に咲いていたので、集合写真を1枚撮ってみました。

無事に駐車場に到着です。天候にも恵まれ無事に帰ってきました。
館山・南房総は、もう春です。(寒い日もありますが・・・)是非、冬眠していた体を動かし
にきませんか?

お散歩ツアー「釈迦涅槃図と街中散策」報告

寒かったり暖かったりと気温差がある今日この頃です。
館山・南房総市では、フキノトウが顔をだし春の気配を感じられるようになってきましたが、
寒い日も続いています。

さて、今回のお散歩ツアー「釈迦涅槃図と街中散策(鴨川市)」を開催しましたので、報告です。
集合場所は、鴨川市民会館前の駐車場。ここから駅周辺のエリアを散策します。

最初に訪れたのは、諏訪神社。

祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)。南北朝時代(1336~1392)の頃、信州(現長野県)
高梨郷より、ここに移り住んだ人たちが、天授3年(1377)に社殿を建て諏訪大社の分霊を迎えました。
安永8年(1779)に社殿が再建され、享和元年(1801)に大造営を行いました。明治2年(1869)、花房
藩庁の布令により社格を定めて本社に列し、諏訪神社というようになりました。

こちらの神社には、初代伊八・武志伊八郎信由の作品、本殿内の「本殿の龍」と南北側面の「波と雲」
があります。本殿は見る事ができませんが、南北の側面の「波と雲」は外から見る事ができます。

神社を修繕した時に、彫刻が壁に半分埋められてしまっています。

わかりますか?きっと逃げ出さないように半分埋めてしまったのかと・・・(想像です(笑))

諏訪神社が所有する山車と人形(神功皇后)は、もともと神田鍋町が所有していた(江戸時代、
神田祭りに参加していた5番山車)山車一揃えを、明治43年(1910)に横渚地区の関係者が東京
で購入したものです。山車と人形は霊岸島より東京湾汽船に船積みし、海路運ばれました。大正
時代中頃、神田松田町が所有していた(神田祭り36番)の人形源頼義を購入しました。
現在も、9月の鴨川合同祭に曳きまわされています。

ここでなぜ?神田・山王祭りで江戸型山車が衰退してしまったの?なんて思って調べてみました。
江戸時代、山車を曳くのは牛だったそうで、その牛を雇うのには費用が必要、山車を組み立てその
山車を置く山車小屋を建て、曳き回す時にはその警護にあたる鳶職の手間賃、山車練り物に付き添
う町役人等の衣服なども用意しなければならなかったそうです。山車が傷んだら修理、傷みが激し
い場合はすべて作り直しとなり、火事によって山車を失う事も度々あったそうです。当時、1台作
るのは、およそ400両から500両の費用がかかったそうで、現在で言うと、4000万~5000万位
だそうです。町役人はつねに資金の工面に頭を悩ませてたそうです。
幕末から明治となり、江戸が東京に代わっていくと、東京の各市街に電線がはられるようになり、
背の高い江戸型山車は電線に阻まれて道を通りづらくなってしまい、各町では次第に山車の曳行を
とりやめ、山車の人形だけを各町のお神酒所に飾るようになっていきました。
関東大震災や戦災により、山王・神田の山車にかかわるもののほとんどが消滅していき、ごく一部の
例外を除いてはその後再び造られることはなかったそうです。ですが、ここ鴨川の山車のように売ら
れ、今も大事に使われている山車もあります。

ここで、もう1つ疑問点が・・・江戸城の門をくぐる時はどうしたのかです。
江戸城の門の高さは4.4m。山車は、人形を出したままだと(カラクリ伸長時)約7.5mです。
そこで通過する時には、木枠を綱や滑車を使った仕掛けで上下にスライドさせ、門を通ったそうです。

次に向かったのは、観音寺。安房鴨川駅を通り反対側へいきますと、途中珍しい物を発見しました。

綱つりです。場所によっては道切りともいうそうです。
災いを封じる行事として、正月から2月にかけて行われる昔からの行事です。疫病神は道を通って
やってくると考えられていたので、むらの出入り口にあたる道に吊るされています。
大きなわらじは、わざと編まない部分があり未完成のわらじで、それに杉の葉を編み込んで、「う
ちの村では、悪病除けは済みました。疫病神は過ぎ(杉)ました。大わらじを履く巨人がいます」
という印で、外から来る悪疫が集落の入口で引き返すように願ったものです。下の方にあるのは、
藁で作った酒樽は、疫病神を追い払うにも村人たちの思いやりだそうで、「酒でも一杯やって気持
ちよく帰って下さい」という事だそうです。
 
綱つりから少し行くと観音寺です。観音寺の本堂に行く途中に「畠山勇子の墓」があります。

畠山勇子は、慶応元年(1865)安房国長狭郡鴨川町横渚の生まれ。畠山家は鴨川の農家で、かつては
資産家でしたが、明治維新のおり私財を投じたため、生活は貧困だったといいます。
17歳で隣の千歳村(現南房総市)に嫁ぎましたが、うまくいかず、23歳で離婚、その後東京に
出て華族の邸宅などで女中として働いた後、伯父の世話で日本橋室町の魚問屋にお針子として住み
込みで奉公します。父や伯父の影響で政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読
み、店の主人や同僚たちから変人と見られていたそうです。大津事件(明治24年(1891)日本を訪
問中のロシア帝国皇太子ニコライが滋賀県滋賀郡大津町で警備にあたっていた警察官に斬りつけら
れ負傷した暗殺未遂事件)が起こると「国家の有事」と嘆いていましたが、ニコライ皇太子が急遽
神戸港から帰国の途につくことになり、それを知った勇子は、魚問屋を辞め、汽車で京都に旅立ち
ました。勇子は、3通の嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しくならないように両足を手
ぬぐい縛って、剃刀で咽喉と胸部を切って自殺を謀りました。すぐに病院に運ばれましたが、傷が
深く出血多量で亡くなりました。享年27歳でした。
その壮絶な死は、「烈女勇子」とメディアが宣伝して世間に広まりました。彼女の死は、ニコライ
皇太子に宛てた遺書や新聞の報道などによって国際社会からの同情をかい、ロシア側の寛容な態度
につながったと評価もあるそうです。
「勇子」とかいて「ゆうこ」。名は体を表すというのは彼女にふさわしいのではないでしょうか?

次は、山門脇にある旗本北条三代の供養塔があります。

山門の左側の供養塔です。今回は、担当ガイドだったのでなんだか写真を撮り忘れてしまいました。
旗本北条氏は、長狭五ヵ村を統治してきました。横渚村は知行地で、石だかを上げるため色々な
努力をしたそうです。この供養塔は村の人によって享保9年(1724)に建てられたものです。

本堂へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を普門山といい、本尊は聖観世音菩薩です。伝承によると、慈覚大師円仁
(793~864)の開基で、永徳年間(1381~1384)に中興開山とありますが詳細は不明です。

ご住職がいらっしゃいましたので、中を見させていただく事ができました。

欄間の彫刻は、伊八の師匠の作品ではないかと言われています。
また、曼荼羅は前住職さんが手書きで書かれたものです。すごく細かく書かれていて、感動します。

観音寺では、2月の終わりから3月4日まで、ひな祭りが開かれます。畠山勇子のお雛様や吊るし
雛など見る事ができます。

次に線路を渡り、米倉稲荷神社へ。
写真が撮れてないので、ここは失礼します。

次は、善能院・日枝神社までマリンロードを歩いていきます。マリンロードはかつて、鴨川銀座と
呼ばれていた道です。今は、各地方にもあるように商店街が寂しくなってしまっています。
商店街の趣が残っている建物がありました。

善能院です。

真言宗の寺院で山号は観音山。本尊は聖観世音菩薩で長狭観音霊場第10番です。
金剛院の受持ちで、正暦発巳(しょうりゃくきし)年(993)、行基菩薩が回国の際、自作の尊像を
安置し堂宇を創立されたと言われています。本尊の左右に三体ずつ六観音が安置されています。

なかなか良い仏様たちです。

お堂の脇の階段を上り日枝神社へ。

祭神は大山祗命(オヤマツミノミコト)。創建年代は不明。
日枝神社は、少し高くなっている場所にあります。(写真が撮れてなくてすみません)
高さでいいますと二階建ての家の屋根の高さ位です。
ここだけ、ぽっこり高くなっているかといいますと、慶長地震(慶長9年(1605))で大きな津波
被害を受け、次の津波に備え前原の住民が避難場所として築いたもので、元禄地震(1703)の時、
この丘に逃げ込んだ人は助かったと言伝えられています。
境内には、元禄津波犠牲者の供養塔が多く残っています。元禄地震では、「前原一村ことごとく
流れ、溺死千三百人、流失千軒」と言われています。この丘は、江戸時代は土、明治時代は石垣、
昭和ではコンクリートというように変えています。

日枝神社・山王講が所有する山車と恵毘須の人形も、もともとは神田新石町が所有する江戸時代
の神田祭りに参加していた25番山車と、神田白壁町が所有し、神田祭り35番の人形を明治42
年(1909)に東京で別々に購入したものです。諏訪神社と同様に、海路でここまで運ばれてきました。
諏訪神社の山車よりも日枝神社の山車の方が1年早く江戸から運ばれています。

次は、熊野神社へと。

祭神は伊弉那岐命(いざなぎのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、泉津事解男命(よも
つことさかおのみこと)。南北朝時代の貞和4年(1348)に紀伊国(現・和歌山県)の熊野大社の
分霊を迎えて奉祀されました。永禄年間(1558~1569)に里見義弘夫人の祈願所となり、神領30石
が寄進され、徳川幕府により里見忠義が改易されると、元和元年(1615)本社の神領も没収されたと
いいます。寛永19年(1642)以来、明治維新に至るまで熊野三社大権現と称しました。大正12年
(1923)関東大震災で拝殿が倒壊し、昭和2年(1927)頃に改築しました。


拝殿向拝の龍は、初代後藤義光の作です。顔を左に向け牙をむき出しています。
向拝の懸魚には三代後藤義光による鳳凰が大きく大きく羽根を広げ龍と同じ左を向き同じ敵を鋭く
見つめているようです。本殿にも見事な彫刻がありますが、銘はなく作者不明です。

次は、熊野神社の別当寺院だった神蔵寺へ。

真言宗智山派の寺院で山号を明光山と言います。本尊は大日如来。
南北朝時代の貞和元年(1345)法印 源祐によって創建されました。
鴨川小学校の前身である前原小学校は、明治7年(1874)にここ神蔵寺で開校、大正11年(1922)
に創立された組合長狭中学校(現県立長狭高等学校)は、ここを仮校舎として開校しました。


本堂向拝の龍は、二代伊八(武志伊八郎信常)の作です。

いよいよ本日のツアーのメインイベント「釈迦涅槃図」を見させていただきます。

釈迦涅槃図は、182cm×200cmで200年前位のものです。作者は不明ですが、狩野派の
特徴が見られることから、格子天井絵を描いた白井休盛ではないかと推測されます。
2月15日は、お釈迦様の入滅の日です。最期の説法の旅に出られたお釈迦様は、クシナガラの郊
外でついに動けなくなり、沙羅双樹の間に床を敷かせ、北を枕に、右脇を下に、足と足を重ねて横
になられました。弟子のアーナンダは、クシナガラの町の人々に、お釈迦さまの入滅が近いことを
伝えました。すると、出家修行者や在家の信者、人間の目には見えない諸天神、鳥や獣たちが、嘆
き悲しみ、お釈迦さまのまわりを埋め尽くしたといいます。そしてついに、お釈迦さま最期の言葉
が発せられ「世はすべて無常である。比丘よ、怠ることなく努力するように・・・」
その光景が書かれたものです。2月15日には、お釈迦さまの業績を讃え、追慕、感謝を捧げる法
要の涅槃会に掲げられます。

格子天井絵です。地引村(現千葉県長南町)出身で狩野派の絵師、白井休盛の作です。茂原周辺の
古寺に仏画を残していて、天保2年(1831)70歳で没しました。

本当は、寝っこがりながら撮りたかったんですが・・・仏様の前なので出来ませんでした。

釈迦涅槃図で見えませんが、欄間の彫刻は、作者不明ですが、初代伊八・武志伊八郎信由の師匠、
島村系の作風に似ているそうです。

ご住職に色々とお話しをいただきました。ありがとうございます。
因みに、お客様がご住職の事を「歌舞伎俳優の海〇〇に似てる」と言っていました。

あとは、出発地点へと海岸へ出て帰ります。途中、牛頭天王の石宮や猿田彦神社などありました。
前原のエリアには、石宮などがあります。

最後に前原地区のお話しを・・・
元和元年(1615)横渚村は旗本北条氏領になりました。横渚無駄の前原は、海岸沿いの街で、伊南
房州通往還が通っていました。前原町は、寛永年間(1624~1644)までは家はなく、横渚村の前の
空地だから前原と呼ばれていたと言われています。延宝年間(1673~1683)に紀州漁民が「まかせ
網」というイワシ網を伝えたために漁業が発展し、元禄年間(1688~1704)はじめ頃には、他の地
域の商人たちが店を構え、近郷の農民が移り住み開拓を行いました。しかし、元禄16年の大津波
により壊滅状態となってしまいましたが、享保4年(1719)頃から次第に復興していったそうです。
最初は紀州の漁民たちは、出稼ぎできていたのですが、定住により漁法も沿岸漁業から沖合漁業へ
と発展しました。享保17年(1732)町明細帳控では、前原町の家数415・人数1862で多くの
家は漁業・干鰯(ほしか)業で働いていました。江戸後期より、横渚村から分離独立を求めていま
したが許されず、明治7年になって分離が認められました。

前原海岸です。

前原海岸は日本の渚百選に選ばれています。サーファーの方もいらっしゃいました。

お散歩ツアーではありましたが、盛りだくさんな内容になってしまいました。
今回は、私がガイド担当だったため、写真を撮り忘れる事が多々ありました。下見の時にも写真を
撮ってはいたのですが・・足りませんですみません。

お散歩ツアー「高鶴山と金杖の滝」報告

寒い日が続きますね。1月の大雪では、被害に遭われた方もいらっしゃるかと思います。
館山・南房総では、房総と言っても違いがあり、嶺岡山系より南では雨、北では雪が降りました。
まだまだ寒い日が続きそうですので、体調に気を付けて下さいね。

さて、寒さに負けず、1月のお散歩ツアー「高鶴山と金杖の滝」を開催しましたので報告です。
高鶴山は、鴨川市曽呂の畑地区にあります。千葉県では数少ない独立峰で標高は326mになり、
「高鶴」という名は、「湿った土地・美しい流水」を意味する古代語だそうです。
畑地区は昔、「星が畑」という地名だったそうです。

集合場所の東善寺から山道を登って行きます。こちらの山道は、地元の有志の方々で整備をしていて、
登りやすくなっていました。約1024mを登っていきます。距離的には、短いのですが、けっこう
な坂道です。写真も撮らず黙々と登って行くと、古峯ヶ原神社分岐に辿り着きます。ここで少し休憩
をして、まずは、高鶴山へと向かいます。


あと約500mです。この看板があると先が分かるのでがんばれます。

途中に、炭竃のあとがあります。

ここで、炭を作っていたんですね。私の横着な考え方だと、切り出した生の木を下まで運んで行くの
は重くて大変。伐り出した木を、中腹で、炭にすれば、少し軽くなって麓まで運びやすくなりるから・・
と考えてしまいます。本当はどうだったんでしょうね。

炭竃から少し行くと馬頭観音があります。

この山の道を馬が通っていたという事が分かります。

頂上近くは、少し急な登りになっています。

ここを登ると頂上になります。

山頂には、石尊様が祀られています。

石尊権現を安置したのは寛政5年のことです。神宮寺の檀家の彦兵衛という者が山で「異石奇木」
手に入れたところ、瑞祥が多く現れました。そこで、その石を石尊神、木を大天狗子天狗として
お祀りすることにしたそうです。

お参りして少しのぞかせていただくと、2体の天狗の面と笛等が祀られていました。

頂上からの景色は・・・

こんな感じです。地元の方は、ここから初日の出を見るそうです。

ここで、少し「星ケ池」というこの地域に残る民話のお話しを・・・

むかしむかし、高鶴山に若い神さまが住んでいました。神さまはとても心優しく、村の人々に慕わ
られていました。高鶴山の真上にはいつも夜になると、ひときわ綺麗な星がひとつ輝いていました。
神さまは毎晩、この星をいつまでもうっとりと眺めているのでした。1年・2年がたち、神さまは
とうとうこの星に恋をうちあけ、ふたりは結ばれました。星のお父さんはお日さま、お母さんはお
月さまでした。神さまとお星さまは毎日仲良く暮らしていましたが、ある年の夏、日照り続きで、
田んぼや畑がカラカラに乾き、稲も野菜も黄ばんでしまいました。村人は毎日毎晩太鼓を打ち鳴ら
し雨乞いをしたのですが、雲はひとかけらも出ませんでした。神さまとお星さまは心配していまし
た。ところが、いつもは谷川で水浴びをして美しく輝いているお星さまが、水がなくなってだんだん
と光が弱ってきてしまったのです。困ったお星さまは、お母さんであるお月さまに、「お願いです。
どうか天の川の水を高鶴山に降らせて下さい。」とお願いしました。天の川には、空の大切な水が
流れていました。かわいい娘の願いにお月さまは、天の川の水を高鶴山に降らせてあげました。
おかげで、稲も野菜も生き返り、村人たちは涙を流して喜びあいました。星ケ池は、その時にお月
さまからわけてもらった天の川の水をためてできた池だそうです。(鴨川のむかし話より)

とても素敵なお話しです。きっとここでは、夜は星が綺麗に見える場所なんですね。

来た道を下って、分岐点のところから古峯ヶ原神社へと向かいます。

鳥居をくぐり、少し上ると石宮があります。

何の神様かというと、1つが海難除けだそうです。昔は、漁師さんが高鶴山を目印にしていたそうで、
沖からは良く見えるそうです。今は、GPSがあるので山も目印にしなくなってるみたいです。
あとは、火災除けになります。昔は、地域の方が「古峯ヶ原詣り」っと言ってみんなお参りに来ていた
そうです。

古峯ヶ神社をあとにして、洲貝川の源流に沿って下っていきます。

川沿いを歩いて行くと丸太の橋があります。

そこから、少し行くと堀の沢三段の滝があります。

杉の木が邪魔してなかなかうまく撮れませんが、杉の奥に三段の滝があります。水量が少ない
ので迫力はありませんが・・・

少し行くと畑のせき(山口の堰)があります。

ここまでくるとあと少しで県道に出ます。この県道が道幅が狭いので、車に気を付けながら歩きます。
次は、金杖の滝へ向いますが、途中お不動様が祀られています。

金杖の滝です。

こちらも杉が邪魔して見え辛いのですが・・・
金杖滝は別名を金月の滝、字をとって山口の滝とも言われています。畑のせきから流れおちるのが
この滝で、滝の高さは20m、幅は5mほどです。滝は洲貝川になって鴨川市江見で大平洋へと注
ぎます。この時期は、水量があまりないので、やはり迫力がありません。

あとは、出発地点へ東善寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は毘沙門天。寛文2年(1662)に観峯春悦和尚が建立したといいます。

お散歩ツアーは無事に終了しました。今回も地元の有志の方たちが整備をしていただいているので
安全に登れましたが、けっこう房総の山は、整備されていない所もあります。くれぐれも山へ登る
時には、気を付けて下さい。あと、きちんとマナーを守って下さい。この時期は、乾燥しています
ので、火気厳禁でお願いします。