シリーズツアー(花)「金盞花」報告

2月はウォーキングツアーが3回入っています。トップバッターはシリーズツアー(花)
の「金盞花」です。館山・南房総では四季折々の花が咲いています。この時期は、金盞花
やストックなどの路地花が咲いていたりと花を楽しむ事ができます。

今回のコースは、南房総市白浜町で散策してきました。じつは・・・・昔は、金盞花栽培
が盛んでしたが、ここの所、金盞花よりそら豆の畑が増えています。
なので、今回は、金盞花・菜の花・そら豆の花と周辺を散策しました。

出発場所は、野島崎公園駐車場。当日は、朝少しですが、あられが降ってくるくらい、冷え
込んでいましたが、時たま顔をのぞかせるお日様に暖かさを感じながら散策開始です。
まずは、シロウリガイ化石露頭の場所へ。ここは県指定天然記念物になっています。
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シロウリガイは、推進1000m前後の深海に生息する二枚貝で、プレート境界付近のメタン
が噴き出すところでコロニーを形成する事がわかっていて、海底から噴出硫化水素を、共生す
る細菌が有機物に変え栄養分としています。シロウリガイは、明治24年(1891)にアラスカ沖
で初めて発見されたものです。関東地方では、昭和32年(1957)に神奈川県城ヶ島沖の水深7
50mで貝殻が発見されています。この白浜のシロウリガイ化石は、300万~350年前、
千倉層白間津層と呼ばれる地層で3~4cmの白い破片が点在しています。この地層は、泥岩
と砂岩が混じっていて、直径数センチほども石がコンクリートで固められたように見えます。
これは、海底で異常な圧力により地層が泥のように混ざり合ってできたと考えられ、シロウリガ
イの化石はほとんどが破片となっています。この地層は太平洋から日本列島の下に潜り込んでい
る太平洋プレートの移動に伴い、その境界付近から押し上げられてものだと考えられています。

海を後にして、法界寺へ。
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真言宗智山派の寺院です。もともとは野島﨑灯台の方に建っていましたが、元禄16年(1703)
の地震で崩壊し、寺領の墓地であった高台に移転しました。
境内に「忠魂碑」があります。(写真を撮り忘れました)この碑は、1945年7月18日、終戦
1ヶ月前の夜、米軍機動部隊による艦砲射撃の犠牲者になった人のものです。
その日の野島埼灯台沖は好天で海穏やか、視界良好だったそうです。その悲劇は夜11時52分に
始まりました。「米国戦略爆撃調査団最終報告書」によると、米海軍巡洋艦4隻と駆逐艦9隻が、
野島崎沖から城山レーダー基地に向け、6インチ砲240発を撃ち込んだそうです。砲撃開始から
約5分間の出来事です。建築中のレーダー基地には命中しなかったのですが、島崎地区には37発
が着弾し、住民6人が死亡し、17人が負傷し、住宅180軒のうち22軒に被害が出ました。
隣町の千倉、館山市布良でも自分たちが攻撃を受けていると感じたそうです。

法界寺をあとに、漁師町を歩いていると、なんやら庭先で作業をしている人達にあいました。
その作業というのが・・・
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ウツボをひらきにする作業です。房州地方では、「なまだ」と呼んでいます。
作り方は、まず、ぬめりを取る作業を行います。ウツボに塩をふり、足で踏んでぬめりをとります。
その後開きます。
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開いた後は、一枚一枚丁寧にぬめりを取ります。
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それを天日干しにして完成です。
初めて見た作業にお客様もびっくりです。
うつぼは、ゼラチン質を多く含み旨味があるのですが、小骨が多いことから捌くのが難しいそうです。
日本では、高知県や長崎県五島列島の郷土料理、和歌山県の正月料理向けなどで、日本ではごく一部
の地域で食材として流通しています。この房総では、干物を作り、干物をぶつ切りにして天ぷらや煮
物など再加工して食べられる事が多いそうです。書いている私も、食べた事がないので、味に関しては
お話しできませんが、漁師さんに聞くと「うんめぇよ(おいしいよ)」との事です。
試してみたい方はこちらのお店まで・・・(サザエ・アワビ・イセエビもあります)
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珍しい光景をみた後は、畑の中の道を歩きます。
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そんな中、サプライズが・・・
農家の方から、金盞花を取っていいよなんてお言葉をいただきました。
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その後、菜花もいただきました。ありがとうございます。

ウキウキ気分で次に向かったのは、西春法師の入定塚です。
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西春法師は、白浜青木の生まれで本名は武田長治と言います。16歳で漁師となり、少年の頃から
空中を飛んだり、海上を歩いて、人々を驚かせました。19歳の時に仏門に入り、清澄山阿闍梨勢
誉に師事して「照哲」と称しました。さらに「西春」と号して回国行脚、数年間高野山・奥州等で
修行ののち29歳で白浜に帰り、村人達に仏道を諭し教えました。寛文7年(1667)、世間では疫病
が流行し始め、白浜でも猛威を振るうようになり、これを救おうと31歳のとき木食行300日のの
ち、土中の室に籠りました。西春っは「土中から私の打つ鉦の音が聞こえなくなったら、3年後に掘
り出して堂内に安置してほしい」と村人に言い残しました。やがて鉦の音が聞こえなくなり、疫病も
なくなり、3年が過ぎましたが、村人たちはこの石塚に触れることはありませんでした。
また西春は「私が入定した後、私の魂は化身して天空に昇り、布良(めら)の沖に輝く星になるだろう。
そして、この星が輝く時は海が時化るので、決して漁にでていはいけない」と話したといいます。
今でも漁師たちは、南の水平線近くに現れるこの星のことを「メラ星」と呼び、輝きがいつもよりあや
しく光る時は、注意しているといいます。「メラ星」は天文学では、リュウコツ座のα星「カノープス」
です。

次に向かったのは、浅間山&めがね橋。
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めがね橋は県の有形文化財、土木学会推奨土木遺産に指定されています。
橋は、明治21年(1888)に、村民の寄付399円40銭で、地元石工と大工がダイコンで模型を作り、
試行錯誤のすえ精巧な石組で完成しました。橋長は、28.34m、幅員3.94mで本体に使用され
ている切石は「みずるめ石」と呼ばれていて、橋より南南東方向に「みずるめ」という石切場から採掘
されたものです。大洪水や関東大震災にも耐え、第二次世界大戦中には近隣に駐屯した日本軍の戦車の
通行にも耐えました。

ここで、昼食です。その後、観乗院・お地蔵様を通り、めがね橋に使われた石の石切場へ。
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その後、海岸線を歩いていると、下立松原神社の言われがかかれている場所があります。
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そこには、岩が置かれ、岩の上には足跡があります。下立松原神社に関係する由布津主命が
上陸した足跡だという感じです。ちょっと微妙な感じですが・・・
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そうそうここは、ウミウの置き物がある場所です。
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地元の方はお分かりになるかと思います。

後は、野島崎灯台に寄り道して、出発地へ戻りました。
サプライズなプレゼントもあり、みなさん楽しくウォーキングできました。
寒い日が続きますが、どんどん外にでて、体力アップしていきましょう!!

月イチツアー「平松城跡と周辺を訪ねる」報告

新しい年になってもう1ヶ月が過ぎてしまいました。
ここのところ、寒い日が続いています。雪がたくさん降ったりと、大変ご苦労されている地域
の方もいらっしゃるみたいですが、館山・南房総は、路地花が満開になっています。

今回の月イチツアー「平松城跡と周辺を訪ねる」を報告します。その日は、若潮マラソンという
イベントが館山市で行われていましたが、また旅倶楽部では古道を歩いてきました。

スタートは三芳農村環境改善センター(旧村役場)を出発。
ゆめ咲き通りを通って行きます。
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まずは、人丸神社へ。
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人丸神社の祭神は柿本人麻呂です。創立年月不詳ですが、「造立一宇」と書かれた江戸時代の元文6年
(1741)の古い棟札等が残されています。江戸時代には広く崇敬されていたらしく、和歌・俳句の奉納
が多く、歌舞伎役者の二代目団十郎を襲名した海老蔵(享保20年頃)、三代目の三升、四代目の松本
幸四郎(寛保2年頃)の俳句が奉納されています。
柿本人麻呂は、持統・文武朝の歌人で、万葉集の代表的な歌人です。名は「一麿」とも表記されます。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられています。
人丸神社は、全国的に見ても数少ない神社です。

次に向かうのは熊野神社ですが、古道(明石街道)を通って向かいます。
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昔、人々が行き来をしていたのが分かるものが街道沿いには残されています。

熊野神社にお参りし、平松城址へ向かいます。
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平松城は、池内平松の台地上にあります。標高約50m、約500㎡の広い半島状の台地で、その西北隅に
標高77.3mの小丘があり、主郭部(本丸)と考えられています。天保3年(1832)立野良道の著わした「房
総志料続篇巻之十二」に「安西は安房郡の内也。池之内といふ処に安西式部の城墟有り、此辺を安西といふ
なるべし。」と記しています。また、通説では治承4年(1180)、源頼朝の安房入国の時、最初に参向した
安西三郎景益の居館趾と考えられています。付近には木戸、御園、馬場畑などの地名が残っており、城井と
して姫ケ井、松葉ケ井などがあります。

城跡を後にして、里見氏ゆかりの寺、延命寺には旧道を通り向かいます。
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途中、馬頭観音の石仏などもあります。

延命寺に到着です。しばし、ここで昼食休憩になります。
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延命寺は、曹洞宗の寺院で、山号は長谷山。本尊は虚空蔵菩薩。開基の里見実堯以降忠義までの後期里見氏
の菩提寺です。慶長年間には里見氏から217石余の寺領が与えられ、その後、徳川家からも同様に与えら
れ保護されました。安房の曹洞宗の中心的なお寺です。観音堂には、十一面観音菩薩が安置され、安房国三
十四観音巡礼の24番札所として知られています。また、天明4年(1784)に江戸の絵師・江府宗庵が製作し
た地獄極楽絵図16幅は、南房総市の文化財に指定されています。この絵のモチーフは悪事を重ねることの
恐ろしさ、現世で善行を積むことの必要性、御仏の慈悲、死の恐怖、生命の尊さとなっており、往時の世相
を反映したものです。公開日は、毎年8月16日です。

本日は、魚鼓(梆)(ほう)なるものを見せていただきました。
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禅寺で「食事の報せ」を告げる合図として鳴らされていました。江戸期に現在の木魚が伝わるまでは、梆の
ことを「木魚」と呼んでいたといわれ、梆が木魚の原型とする説もあります。
魚は寝る時も目を閉じないことから、不眠不休で修行に励む姿の象徴とされ、梆を鳴らすことで、修行僧の
眠気や怠け心を戒める、という意味が込められています。禅宗独自の法具です。

本堂の裏山へ移動します。里見氏歴代の墓に行く手前に(階段下)に里見利輝供養塔があります。
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里見忠義が元和8年(1622)に倉吉で病没し、跡継ぎなしとされて里見家は滅亡しましたが、側室には何人の
男子がいたようで、その一人が利輝(1614年生~1644年没)です。安房の地で育ったといわれ、子孫によ
り供養塔が建立されました。

次に階段を上り里見氏歴代の墓へ。
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後期里見氏、義堯、その子義弘、天文の内覧で殺害された義堯の父・実堯の墓所とされています。
里見氏塋域と彫られた石垣の中に、五輪塔・宝篋印塔など8基が並んでいますが、大部分は積み替
えられていて本来何基あったのかはわからない状態です。また、真ん中にある板石塔婆は、里見と
は関係はなく、鎌倉時代の武士のものです。しかし、この板石塔婆は県指定有形文化財に指定され
ています。

その後、歴代住職墓域をお参りし、延命寺をあとにし集合場所へと戻っていきます。
延命寺には、まだまだ石碑・石仏などがありますので、ぜひお参りに行って下さい。

そんなこんなで、無事に1日が終わりました。今回は、神奈川の綾瀬市からや千葉市からのお客様
も来ていただきました。若潮マラソンが開催されていたので、帰りの渋滞とか大丈夫だったか心配
です。また、これに懲りずお越し下さい。