お散歩ツアー「小浦越えの古道秘話」報告

いつの間にか梅雨明けしてしまった館山・南房総です。梅雨という梅雨を感じないまま
梅雨明けしてしまい、山の中の田んぼでは、天水で稲作をやっているので、苗の周りが
カラカラになってひび割れ、農家さんは水の心配してました。
多く降るのも大変ですが降らないのも困りものです。
丁度いいがいいのですが、こればっかりは自然なので・・・・

梅雨明した日に、お散歩ツアー「小浦越えの古道秘話」を開催しました。一応、また旅
倶楽部は、これから約1ヶ月はウォーキングツアーはお休みになります。

集合場所は、岩井海岸駐車場です。ここは、南房総市の旧富山町にありますが、岩井海岸
の駐車場というのは、岩井海岸は広いので、集合場所が分かりずらいかったようで・・・・
道路からの標識は「IWAI BEACH」って書いてあるのです。皆さんなんとか合流
できまして出発です。
駐車場からは、小浦の地域へと向かいます。国道127号線を館山方面に向かっていくと
トンネルのちょっと手前にお堂があります。小浦地蔵堂です。

小浦地蔵堂には、悲しい民話が残されています。
昔々、ある初夏の日、娘を連れた老父が岩井の小浦の海に沿った崖路を通りかかりましたが、
その親子はよほど疲れていたのか、狭くて危ない道なのに腰をおろして休んでいると、農婦
が声をかけました。娘が、父が目が悪く、体も弱っているという話をすると、農婦が山から
採ってきた枇杷を渡し、娘の前掛けに入れてあげました。親子は喜んで食べようとすると、
娘の手から枇杷が落ち崖の方へ転がって行ったのです。親子は枇杷を追って手を伸ばすと、
突然海から強い風が吹き付け足をすくわれ、崖から転げ落ちてしまったのです。翌朝、崖下
の海面に哀れな親子の姿が見つかりました。娘の手には、落とした枇杷がしっかりと握られ
ていました。(枇杷落とし哀話より)
この地蔵堂は、このお話しに出てくる親子の霊を哀れんで建てたものだそうです。

次に向かいう場所も民話が残されている場所で、六部供養塔です。

崖の上に、六部供養塔と首なし地蔵が草むらの中に祀られています。六部供養塔は、法華経
を六十六部書写し、日本六十六ヶ国の霊場に納めて歩く行脚僧を供養したものです。
いつの頃かわからない大昔、道をとぼとぼと一人の六部が歩いていましたが、突然の大きな
波しぶきをあび、不幸にも海中へ転げ落ちてしまったのです。その近くの船から見た漁師が、
急ぎ船を寄せて救い上げましたが、六部はすでに息絶えていました。そのとき六部の胸に掛け
ていた頭陀袋の中に、いくつか熟れた枇杷が入っていましたので、それを知った小浦の村人た
ちが、六部の供養のために、その枇杷の種を取り、近くの山に植えますと、すくすく成長し、
やがて見事な実がなるようになりました。おかげで小浦は豊になり、後に村人たちは、六部の
墓を建てたといいます。(六部の枇杷より)
こちらも枇杷にまつわるお話しです。っという事は、お話しの流れからいいますと、六部のお話
しの後に、親子のお話しという事になるのかな?なって思ったりしています。
この供養塔とかは、この時期、草に覆われて見る事ができないのです。ウォーキングツアーの為
に、事前にスタッフが刈ってくれました。

次に向かったのは、小浦稲荷です。

宝暦(1751~)以前に創建さたと言われている稲荷神社です。

旧道を通っていくと、途中に辻の地蔵があります。

道筋に自然石をくり抜いた岩屋にお地蔵様が祀られています。古くは岩井から館山へ通じる木の根
街道の裏街道であった海街道は、海まで幾重にも迫り出す尾根に阻まれた難所を超える険しい街道
でした。辻のお地蔵様で旅立ちの無事を祈り、帰着を感謝する道祖神でもありました。

次は、旧小浦トンネルです。

ここは、現在は払い下げになっていて、私有地になっています。
このトンネルを抜けると旅館弁天鉱泉があります。

次に向かったのは、小浦厳島神社へ。

治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房へ渡り、この場所を通貨するとき、池で手を清め
江の島を眺めると、神霊が現れたので、弁天社を建立し、池を影向池(ようこういけ)と称しました。
影向とは、神仏が仮の姿をもって現れることや、神仏の来臨のことをいいます。池は社の後ろにあり、
深さ1メートル、岩窟は数百メートルつづいているそうです。

小浦厳島神社に向かう途中に、旅館弁天鉱泉の源泉があります。

昭和36年、釣りの途中に弁財天にお参りした弁天鉱泉の初代鈴木進氏は、この地に偶然湧き水を
見つけました。昔からこの地は、別名「清水」と言い、湧き水が沢山出ていた場所で、その湧き水
の1つが白く変色していたのを見つけ井戸にし、たくさんの方々に利用してもらえたらと昭和37年
に弁財天の名前をとって、この地に「旅館 弁天鉱泉」を開業したそうです。
一日に数回色の変わる源泉は硫黄臭を放ち全国的にも珍しいとされています。
ご興味のある方は、検索サイトで「南房総市 弁天鉱泉」で調べて下さい。

次は、小浦集落を歩き神明神社へ。

祭神は、天照大御神。本殿の脇にすごい地層がありました。

次は、すぐお隣にある薬王堂へ。

安房国四十八ヶ所薬師如来霊場の北口8番になります。
浄土宗の寺院で、本尊は薬師如来像です。この薬師如来像は、行基が小浦に逗留した際に、刻んだと
されています。
最後の見学場所を終えて、出発地点へと戻ります。
暑い中のお散歩でしたが、小浦集落には民話などが語り継がれています。
いつもなら、車で新道を通ってしまいますが、少し車を停めて歩いてみるのもいいものです。

また旅倶楽部のウォーキングツアーは、安全面に配慮して8月はお休みです。
無理して歩いても楽しくないですし・・・・これから夏本番になってきますので、皆様も体調管理に
は気を付けて、楽しい?夏をお過ごしください。

月イチツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」報告

7月に入りました。九州・山陰地方では記録的な大雨が降って多大な被害に遭われている方々が
いて・・・TVで映像を見ますが早く元の生活に戻れればと願うばかりです。

館山・南房総は梅雨なのに、ここ数日晴れていて、蒸し暑い日が多くなってきました。
梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、月ツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」を開催し
てきました。今回は、先月の月イチツアーと反対側の天津地区の浜荻エリアを歩きました。

集合場所は、前回と同じ二タ間駐車場です。
ここから、今回のコースもスタートします。まず最初にむかったのは、浅間神社。
二タ間川の橋の上で、お山の説明を。

前に見えている、左側が引土浅間山です。別名、天津小富士と呼ばれ、標高88mです。
右側が、葛ヶ崎城跡です。築城時期は不明ですが、天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見美頼の
抗争、天正の内乱により廃城となりました。という事は、その前からあったという事がわかります。

今回、登るのは引土浅間山です。ちょうど浅間神社の山開きの例祭が行われた後だったので、集会所に
は多くの地元の人達がいらっしゃり、のぼりも立っていました。

ここから、登っていきます。

少し登ると祠があります。

安波の神様を祀っていて、海の恵みをもたらし、海難から人々を守ってくれる神様です。

また少し登ると・・・

下浅間です。頂上まで行けない人の為に祀られています。

そこから4合目付近にも石宮がありますが、写真を撮り忘れてしまいました。すみません。
そこの石宮は、日当たり様と言われて、漁師が海の状況をみる場所に祀られています。

ゆっくり登っていきます。

頂上に着くとこんな景色が見えます。

もう少し天気が良ければよかったのですが、大平洋が遠くまで見渡せます。気象条件がよければ
富士山も見る事が出来るそうです。

頂上の浅間神社です。

祭神は、木花咲耶姫命(このはなのさくやひめ)。山の神の総元締である大山津見神(おおやまづみ
のかみ)の娘で、天照神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日継の御子を生む母神です。

この祠の下に、梶原景時が隠れたという伝説が残っている洞窟があります。

少し梶原景時について説明します。平安時代末期から鎌倉幕府初期の武将で、鎌倉幕府の御家人です。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、山中のししどの岩屋(現湯河原町)の倒木の洞窟へ隠れました。
大庭景親が捜索に来て、倒木が怪しいといい、梶原景時が洞窟の中に入ってみると、源頼朝がいました。
頼朝はこれまでと思い自害しようとしましたが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝った
ときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て「蝙蝠ばかりで誰もいない。向こうの山が
怪しい」とさけびました。大庭景親は怪しみ自ら洞窟に入ろうとすると、景時はたちふさがり、「私を
疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄り、大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は
九死に一生を得ました。その後、頼朝は安房に逃げ再起をはかり鎌倉に入りました。その後、景時は土肥
実平を通じて頼朝に降伏し、頼朝と対面し御家人に列しました。弁舌が立ち、教養がある景時は頼朝に
信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられました。
頼朝の死後、いろいろありまして、「梶原景時の変」がおこり失脚し滅亡してしまいました。

こんな感じの人ですが、なぜ?ここの洞窟に隠れたのか?、地元の人は、頼朝も一緒に隠れたという話
をしていたので、「????」が増えてきて、考えれば考えるほど、疑問が出て来てしまいますが、
伝説なので、そのままでいいのだと思う事にしました。

山を下り、次に向かうは弁天堂です。
お堂の写真はありませんが、お堂には弁財天、釈迦、観音、阿弥陀の各像があり、不動明王像もある
とことから真言系のお堂であったと考えられます。
お堂の前には、「亀龍神(キリュウジン)」の碑があります。

この碑には、慶応2年(1868)5月15日に、酒屋惣八が亀の拾ってきて祀った事が刻まれています。
海に関する漁民の信仰の様子を伝えるもので、近隣の漁師は、豊漁を願ってお参りしているそうです。
このような、海の生物に関する碑の調査をしている、東海大学海洋研究所によると、魚類供養碑は、
全国各地にあるそうで、上位10都道府県のうち、千葉県は第2位で86基あるそうです。
ちなみに1位は秋田県の88基です。1位になるには2基足りなかったですね。

海岸線を歩き、次はロシア人来航の地の碑へ。

あまり知られていないようですが、鎖国下にあった江戸時代の元文4年(1739)5月19日(ロシア暦
1739.6.19)、ロシアのオホーツク探検事業として、シュバンベルグが率いる船団のうち1隻、ヴェリ
トン大尉が指揮するガブリエル号の乗組員数名がボートで天津村布入の地に上陸しました。漁民たちから、
水や野菜などをもらい、ロシア側は、銀貨や数珠玉を渡したといいます。北海道を除く我が国で初めて
ロシア人の上陸した場所になります。

次に向かいますのが、日蓮聖人とゆかりのある創洗井戸へと向かいます。
途中、天津の消防団の詰所の前を通ると、封筒が落ちていました。ゴミが落ちてると思い拾ってみると
なんと!!お金が・・・福沢諭吉様がいらっしゃいまして・・・
この消防団の人の誰かが落としたんだろう?と思い、声をかけお金を置いてきました。
あとから、「違がったらどうする?」と言われ「げっ!!落として困ってる人が居たら」なんて考え
てしまいました。やっぱり交番に届けた方が良かったのかな?預けた人の名前聞いてくればよかったかな?

良い事をした後に着いたのが、創洗井戸です。

元々は井戸ではなく姥が池だったのですが、明応の大津波により姥が池は土砂にうもれてしまったので、
井戸に改修したそうです。
姥が池は、北浦忠吾・忠内という兄弟の邸内にありました。房総一帯で疫病(せきの病)が流行し、
北浦兄弟は、日蓮聖人に疫病平癒を嘆願しました。聖人は、姥が池のほとりに祀られている姥神を
せき止め守護神とし、疫病平癒を祈念し、姥が池に、せき止めのお経を記した経石を沈め、「せき
病に悩む人に池の水を与えよ」と。その後、病人がこの水を飲むと霊験あらたかに病は治ったそうです。
文永元年(1264)、小松原法難の際、地頭の東条景信から襲撃をうけ、眉間に3寸余りの刀傷を負い、
ここで疵の養生をしたと言われています。傍らにある石は、日蓮聖人が腰掛けたという伝説があります。

次は、多聞寺へ。

日蓮宗の寺院で、山号を光玉山と言います。本尊は十界本尊。
伝説によると、文永元年(1264)8月、日蓮聖人が鎌倉遊学より故郷小湊へ帰る途中の夕方、
浜荻の地にさしかかった時、美しい童子が聖人の御前にあらわれ「一夜の宿をご共養申し上げます。」
と聖人を寺に導き、住職に引き合わすと共に姿を消しました。不思議に思った聖人は、住職にご本尊
を聞くと「毘沙門天である」と答えたのです。聖人は「毘沙門天一童子に変じてのご供養」と報恩読誦
をしました。法華経の教えに感銘を受けた住職は、その夜、土地の郷士・北浦忠吾・忠内兄弟を招き、
聖人の教えを請い両人と共に改宗しました。毘沙門天の別名「多聞天」の名を賜り、寺号を「多聞寺」
と改称したそうです。

本堂の後ろには、北浦忠吾・忠内、両内室のお墓があります。

さっきから北浦兄弟の話がでていますが、この人は何ぞや??とお思いでしょう。少し少し説明します。
工藤吉隆の家臣で、小松原法難の際、日蓮聖人を救い、自邸に匿い、ともに岩高山に逃げ込んだとされる
人物です。

境内には、東条藩初代藩主西郷正員の母の墓があります。 写真を撮り忘れてしまいましたが、解説だけ
でも・・・西郷氏は下総生実(千葉市)で5千石を知行する旗本でしたが、里見氏所領没収後、元和6年
(1620)9月、安房東条1万石の大名となりました。藩主の西郷正員の祖母は徳川家康の側室となり、2代
将軍秀忠の生母、西郷の局です。 

写真を撮れなかったのは、これがあったからで・・・・

今回のお弁当のです。この受け取りがあったので、写真が取れませんでした。

多聞寺さんにお願いをしてお弁当を境内で食べさせていただきました。ありがとうございます。
多聞寺さんの境内には、大きなちょっと変わった木があるんです。

松の木のようななんの木なのか???海外の木らしいです。教えてもらったのですが、覚えられ
なかったです。

さぁ~お腹もいっぱいになったので、次の貴船神社へと向かいます。

祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。譽田別命(ほんだわけのかみ)・猿田彦命(さるたひこのかみ)
の三神です。弘安5年(1282)北浦忠吾・忠内が発願して、村中の協力で創建した神社と伝えられてい
ます。昔は、多聞寺境内にありましたが、現在の場所に移したといいます。明治6年郷社に列しました。
昭和16年1月11日失火の為、社殿・社務所等が焼失してしまい、手水舎のみ残りました。

次に向かったのは、薬師堂です。

堂内には、本尊と思われる薬師如来ほか、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍とした三尊形式の阿弥陀如来、
多聞天、如意輪観音とともに弘法大師像などが安置されていることから、真言系のお堂であったと
考えられます。

次は、角田丹後守の墓へ。
この墓の場所が、下見の時になかなかわからなくて、民家の庭先にあるとは思いもしなかったです。

葛ヶ崎城は角田丹後守一明の居城でした。天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見義頼の抗争、
天正の内乱(正木憲時の乱)。城主の角田丹後守一明が岡本城に出仕している隙を衝いて正木憲時
が攻めてきました。城主の代理を任されていた弟の角田丹波守一元は熱病にかかっていて病に伏せ
ていました。敵の兵数は700、味方の兵数は100と圧倒的に不利な状況で、丹波守一元は奮戦
の末討死し葛ヶ崎は落城したといいます。しかし、里見義頼軍が岡本城から出撃したとの報に,憲
時は軍を退いて大多喜城へ退去したといいます。里見義頼による葛ヶ崎の奪還後、正木憲時は天正
9年(1581)9月、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定されました。
そんな事があった人の墓ですが、私的ないは、病で床に伏していた弟の墓を建ててあげればよかった
なんで思っちゃいました。やっぱり家督を継いだ人が偉いんですね。

さて、最後の見学場所大師堂へ。

弘法大師を祀った堂で、この大師像の胎内には、多くの写経が納められているそうです。
弘法大師像を祀られていることから、この堂は真言系のお堂であったと思われます。

あとは、駐車場に戻ります。蒸し暑い中、無事にウォーキングツアーを終了する事ができました。
8月の月イチツアーは、暑さでガイドが倒れちゃうと困るのでお休みします。
お散歩ツアーは7月19日(水)に開催します。是非、暑い中歩いて、いっぱい汗をかき、体の
ダルさを吹き飛ばしましょう!!