特別ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」報告

9月の終わりに特別歴史ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」を開催しまし。
この特別ツアーは、歴史の勉強会を兼ねて行っています。自分たちも違うエリアに行くと勉
強にもなりますし・・・

集合場所は、館山市の城山公園。里見氏の城から本多氏の城へと攻略しに向かいます。
高速を使い2時間弱で大多喜城駐車場に到着。

駐車場で少し、大多喜城の歴史を説明しました。
大多喜城は、大永元年(1521)真里谷氏の築いた小多喜城(小田喜城)が始まりと言われています。
小多喜城(小田喜城)の位置については諸説ありますが、大多喜城の西側の栗山に城の遺構が残
せれていますので、こちらが初代の城と考えれています。
真里谷氏は、甲斐武田10代「信満」の次男「信長」が、古河公方「足利成氏」の命で、上総に
進出し、房総武田の初代となります。房総武田3代「信興」のとき真里谷武田に改称。真里谷城
4代城主の「信勝」は実子が無く、弟の「信清」が真里谷城主を継ぎましたが、信勝に子が出来
たので城主を譲り、小多喜城(小田喜城)を築城して初代城主となりました。その後、2代「直
信」3代「朝信」となり、朝信の時代天文13年(1544)、里見氏の武将正木時茂に城を奪われ、
以後「時茂」「信茂」「憲時」の3代に渡って正木氏が支配されました。天正9年(1581)里見義
頼との内紛によって憲時が殺害されると、里見氏の代官が派遣されたといいます。天正18年
(1590)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、家
康の配下の本多忠勝が城主となり大多喜藩10万石が成立しました。忠勝は里見氏の北上を防止
するために工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設
を行いました。城主は、本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、元禄16年
(1703)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き、廃藩置県を迎えました。

さて、いよいよ登城です。途中には、城の遺構が残されています。

このお城は、昭和50年に大多喜城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館として
建設し、平成18年からは千葉県立中央博物館の大多喜城分館となっています。

ここで、トラブルが発生しました。なんと、乗ってきたバスが故障してしまい、動かせなくなって
しまいました。昼食の場所で、バスは待機してもらう予定だったので、荷物を残して見学に行った
方もいらしゃいましたので、一旦、荷物を残した方は、駐車場に戻って来てもらいました。駐車場
に戻られたお客様は、別ルートでの見学となりました。

まずは、大井戸(県指定史跡)

大井戸のある場所は、県立大多喜高校のグランドの一隅にあります。本多忠勝が、天正18年(1590)、
徳川家康の命で大多喜城を築いた時に、生活に水は欠かせない。まして戦で籠城ともなると、水が生
死を分ける。そこで城内の二の丸に、日本一と呼ばれる大井戸を掘りました。雨の降らない夏でも、
満々と水をたたえ「底知らずの井戸」と呼ばれていました。深さは約20m、周囲17m。

大井戸の民話が残されています。
八代藩主松平正和の時、「あの大井戸は、底知らずの井戸だ。いくら水を汲んでも尽きることはない」
「いや、そんなバカなことがあるか。たくさん汲めば水はなくなるに決まってる」っと侍たちば言い
争いになったそうです。そこで、殿様に許しを得て井戸の水を汲み出すことにしました。
城下の力自慢五十人の人夫を集め、八個の滑車に十六個のつるべ桶で、水汲みが行われました。人夫
たちも言い合いになり、「底のない井戸なんてあるものか。昼頃には底が出てくるさ」「いや、底な
し井戸といわれてるらしい・・・」「こん井戸は夷隅川につながってるらしいぞ」「夷隅川どころか、
遠く太東岬の海につながっているんだって」「そんなばかなことがあるもんか」「いや、城が敵に囲
まれたら、大井戸に逃げ道が・・・」
陽が沈み暗くなり、それでも作業は続き、夜を徹して水を汲み出し、朝を迎えました。さすがに人夫
は、疲労の色は隠せなくなりました。「本当に底がないのかねぇ」「ばかな、あるに決まっている。
もう一日水を汲みだしてみよう」ということになりましたが、いくら汲み上げても底が見えない。二日
目の夜になっても底は見えてこない。やがて、空が明るくなり夜が明けました。井戸をのぞいてみると、
相変わらず満々と水をたたえています。「やっぱり、お城の井戸は底なしだ」みな、その場に長々と寝
そべってしまったそうです。

そんな民話の残る井戸を後に薬医門へ。(県指定史跡)

この門は大多喜城内建造物唯一の遺構です。本柱が中心により前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、
天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門です。明治4年の廃藩の際に、城山水道の開鑿によ
り、功績のあった小高半左衛門に払い下げられましたが、大正15年、曽孫にあたる県立大多喜中学
校第一回卒業生小高達也氏により、同校の校門として寄贈されました。昭和40年代に始まる大多喜
高等学校新校舎建築の際に、いったん解体保存されていましたが、昭和48年、大中第26回卒業生
中村茂氏の復元設計により建造されたものです。

そこから、大多喜駅前にある観光センター(大多喜町観光本陣)へ。
観光協会さんにお願いしてありました、お弁当をこちらの会議室で食べます。
また旅倶楽部は、いつもお弁当を地元の方が作るお弁当をお願いしておりまして、今回も観光協会さ
んにご紹介いただき、美味しいお弁当を食べる事ができました。
残念ながら、バタバタしてしまい写真を撮るのを忘れていました。内容的には、太巻き寿司・稲荷す
し野菜の天ぷら、煮物、栗等、皆さんに大変喜んでいただけました。

昼食が終わると、ここから、大多喜のボランティアガイドさんにお願いしまして、2班に分かれて、
城下町を散策しました。

まずは、天然ガス記念館へ。

大多喜町は、この地方の天然ガス発祥の地と言われています。この天然ガスがいつごろ発見されたか
と言うと、諸説ありますので、実録によれば、大多喜町坂花(現大多喜町上原)で醤油醸造業を営ん
でいた山崎屋太田卯八郎氏(1843~1895)の掘削した水井戸の一つが、天然ガス発見の事例として残
されています。明治24年(1891)、屋敷内に水井戸を掘りましたが、真水は湧き出さず、なお追堀し
ても湧き出る水は、泡を含んだ茶褐色をした塩水のみで、遂に目当ての真水は得られませんでした。
これに気落ちし、他に良い案がないまま、口にしていたタバコの吸殻を何気なく水泡のなかに投げ捨
てたところ、水泡はたちまち青白い炎を上げて盛んに燃えだしました。その場に居合わせた人たちは
驚きの声を上げ、その様子を見守りました。天然ガスが湧きだしました。その後、色々と工夫をして
天然ガスを利用したのですが、後年、その子伊之太郎氏は井戸の様子を銅板に刻ませ「天下無比天然
水素瓦斯」と称して後世に伝えました。
大多喜地方で、民家井を掘るようになったのは、大正の初期ごろからで、昭和に入ってから、さく井
が一段と盛んになり、昭和4~5年(1929~1930)には井戸数40~50抗を数えました。動力等によ
らず自噴する天然ガスは、簡易な分離器を経て導かれ、家庭燃料や灯火に、ある者は精米・精麦の動
力用に、繭の乾燥用に利用しまいた。

建物の脇には、ガス燈があります。

日本では、明治27年頃からガスマントル利用したガス燈が現れましたが、その後、石油ランプや電球
普及により照明としてのガス燈は姿を消しました。しかし近年、レトロな雰囲気が好評で新設される動
きもあるそうです。有名なところでは、北海道の小樽運河がそうです。千葉県では、四街道のガス燈通
りが有名です。

こんなに詳しく書いていたら、なかなか進まないので、次からはサァーっと行きます。
次は、房総中央鉄道館の前を通り

(館内には鉄道のジオラマがあるそうです。)

渡辺家住宅(国指定重要文化財)へ。

この住宅は、嘉永2年(1894)に地元猿稲町の棟梁、佐治兵衛によって建造られた江戸時代末期の代表的
な商家造りです。寄棟棧瓦葺(創建時は茅葺)二階建で、正面入り口は縦格子戸を、表板戸には上下戸
をつけてあります。間取りは、店・茶の間・中の間・奥座敷となっていて、南に勝手の間・土間がありま
す。奥座敷には木口縁をめぐらせてあって、床の間などに重厚さが見られ、武家造り風付書院・竿縁天井
・箱階段・欄間の透かし彫りなど、各部に雅趣とすごれた技法が見られます。店構えや整った座敷など、
この時代の上層商家の規模が良く示された重要な建物です。
渡辺家は、大多喜藩の軍用金御用達をつとめた豪商でした。先代は、「開運!なんでも鑑定団」のレギュ
ラー鑑定士だった渡邉包夫さんでした。

次は、伊勢幸(国登録有形文化財)へ。

こちらは、現在は酒店になっていますが、昔は、質・古物商を営む商店でしたが、廃藩置県の折、廃城の
大手門部材を使って建築されました。松・杉・欅材をもとに木造二階建て七寸角の隅柱、八寸角の欅の大
黒柱に支えられ、外壁一階には、下見板張、二階には白漆喰、正面は格子造りとなっています。

次は、釜屋へ。

土蔵造りの商家で質屋・金物屋を営業していました。

隣の博美堂。

昔は、郵便局だったそうです。瓦に郵便局のマークが入っています。現在は、手づくり甲冑教室が開催さ
れています。

次は、商い資料館。

町並みの中心として、平成13年にオープンしたそうです。江戸~明治の資料が展示されています。

次は、豊乃鶴酒造(国登録有形文化財)へ。

豊乃鶴酒造は、1781年から1788年頃に操業し、明治時代に今の場所に移動しました。格子戸と
蔵造りの家屋など歴史的な面影を色濃く残していて、ドラマの撮影にも度々利用されているそうです。
庄屋造りの母屋や赤レンガの煙突、元精米所等は国の有形文化財に登録されています。
代表するお酒は「大多喜城」と「銭神」です。(観光協会で味見させてもらいましたが、銭神は辛口で
するっと飲めて切れがありました。)

次も国登録有形文化財の大屋旅館へ。

夷隅神社の参道脇にある門前宿です。江戸期から続く老舗旅館で、明治24年(1891)歌人・正岡
子規が学生時代、房総の旅に出た時に泊まったとも言われています。
建物は、明治18年(1885)頃の建築で、南北棟、木造二階建。瓦葺切妻屋根の平入で、正面2階
左右の戸袋に大きく屋号を漆喰で表しています。

次は、城主本多氏の菩提寺の良玄寺。

浄土宗の寺院で、山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像です。
文禄4年(1595)、大多喜城主本多忠勝の開基、照誉了学の開山により創建されました。当初は、
忠勝の法号から良信寺といいましたが、子の忠朝の死後、忠朝の法号をとって現在の良玄寺と
なりました。
堂内には、本多忠勝の肖像画があります。甲冑を着て大きな鹿の角を付けた兜をかぶっている姿
の肖像画は、一度は見たことがあるかと思います。こちらのお寺の所蔵なんですが、今は、千葉
県立中央博物館大多喜城分館に保管されています。正式な名称は「紙本著色本多忠勝像」なんだ
そうです。関ヶ原の後、武勇が必要とされなくなってしまい、武将だった自分の姿を残そうと思
い甲冑を身に着けて肖像を書かせたそうです。

良玄寺の墓域の一番奥に、忠勝のお墓があります。

中央に忠勝、左が次男の忠朝、右が忠勝夫人です。
忠勝は、慶長15年(1610)10月18日、63歳で亡くなり、桑名の浄土寺に葬られますが、遺
言によって大多喜の良玄寺にも分骨されました。大阪夏の陣で戦死した忠朝も大阪一心寺に埋葬
され分骨し、この地に親子で眠っています。 

次は、夷隅神社へ。

祭神は、素戔嗚尊。創建については明らかではありませんが、社伝によると、長久2年(1041)の
再建後、さらに天正15年(1587)に里見氏の将、正木大膳亮(時堯)が再築したと伝えられてい
ます。その後、代々の大多喜城主に崇敬され加護されたとあります。
むかしから、牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と改号して村社となり、明治
12年には社格が郷社になりました。現在の建物は江戸時代末期のものと思われます。
地元では、縁結びにご利益があると言われています。

次は、大多喜小学校へ。

1997年に千葉県建築文化賞になった校舎です。

次は、大多喜町役場(中庁舎)へ。

1959年日本建築学会賞、2013年ユネスコアジア太平洋遺産商をもらっています。

出発地観光センターにて終了です。私の方のガイドさんは、説明も聞きやすく楽しく散策する事が
できました。因みに、ガイドさんは、車掌さんだったそうです。だから、言葉がはっきりしていて
聞きやすかったんだぁ~と思いました。もう1つのグループは、着物を着て案内してくれたそうで
す。途中、歌も歌ってくれたみたいです。大多喜町観光協会さん、ボランティアガイドの方、あり
がとうございました。

さて、いよいよいすみ鉄道に乗車です。
いすみ鉄道は、昭和63年(1988)3月にJR東日本木原線から第三セクターとして引き継がれまし
た。赤字経営が続き、2007年に行われた、いすみ鉄道再生会議で、2009年度の決算で収支
の改善が見込めない場合は廃止を前提に代替交通を検討することになりました。2009年に、社
長公募で選ばれた鳥塚氏により、いすみ鉄道は、増便・駅の命名権(ネーミングライツ)売却・新
駅開設などの経営立て直しが行われ、経営状態の回復が認められ、2010年にいすみ鉄道線の存
続が決定しました。ムーミン電車も経営状況回復の一つなんですね。

いよいよ乗車です。ムーミン電車に乗る事ができました。

こちらの運転手さんも、いい人で、少し案内もしてくれました。

一両の電車は、田んぼの中を走っていきます。館山ものどかですが、いすみ市はもっとのどか
なような気がします。

途中、ムーミンの住む谷?を通ります。運転手さんの計らいで、徐行してくれました。
たぶん、観光客が多かったからと、私が電車に乗る前にムーミンが居るところを聞いたからかな?
なんて思ってます。

ムーミンが住む谷?も、イノシシの被害が出ているそうで、周りはイノシシにやられていました。
(乗る前、運転手さんが教えてくれました。)
ムーミンにも傷がついてるみたいで、倒されていました。

さぁ~いすみ鉄道の旅を楽しんで、大原駅に到着です。バスは、別のバスが来てくれていて、
無事に館山へと向かい城山へと到着しました。
今回は、アクシデントがありましたが、時間通りで終わる事ができました。

月イチツアー「信仰の里・佐久間を歩く」報告

なんやかんやで10月です。もう秋ですね。昨年は、10月に台風が来て、館山・南房総の海岸線
は、かなりダメージがありました。今年は、今までの大きな台風が来ていますので、もう台風は来
ないで欲しいと願っています。

さて、9月の月一ツアー「信仰の里・佐久間を歩く」を開催しましたので、報告です。
当日は、雨が降りそうな天気でしたが、なんとか開催する事ができました。基本的に、また旅倶楽
部のウォーキングツアーは、平坦な道や舗装している道を巡るコースが多いので、基本的には、
小雨決行です。

出発地点は、鋸南町さんにご協力いただきまして、旧佐久間小学校をお借りしました。
出発する前に佐久間地区のお話しを少し・・・
佐久間の郷とは、いつごろ成立したかは定かではありませんが、里見分限帳によりますと、全地域が
一村となって佐久間村となり、江戸時代(1603~1867)には佐久間下村。佐久間中村と称し、後に大崩
村と奥山村が分郷したと考えられています。里見氏が滅亡したあと、上・下に分郷し、上組は萩原源
左エ門善雅の知行地となり、下組は旗本杉岡佐渡守能連の知行地となり代々子孫によって治められま
した。

まず向かったのは、旧佐久間小学校の裏手にある白旗神社。

祭神は、誉田別命(はおんだわけのみこと)。社歴不明。石棒が5本あります。

次は、十王堂へ。

本尊は地蔵菩薩座像ですが、十王10体を安置するところから十王堂と称します。十王堂に安置され
ている木造十王坐像は、ヒノキ材寄木造りで、高さ約34cmで、各像底に室町中期の永享8年(1436)
から12年(1440)の墨書があり製作時期が明らかな点や10体揃っている点などから、鋸南町の重要な
文化財になっています。
お盆のころ、佐久間の祭礼には地域の人たちが、こぞってお参りするのが、十王様です。
ここで、十王様のお話しをしておきます。
十王とは、冥界において死者の生前における罪を裁く、言わば十人の裁判官です。人は死ぬと、初七日
より七日ごとに十王の前へ召し出され、罪状を吟味されます。その判決によって、六道(天・人間・修羅
・畜生・餓鬼・地獄)のいずれかへ行くことが決定します。
平安時代末期ごろから広まり、十王堂が各地で作られ、それらを祀ることで、少しでも罪を軽くすることを
祈ったのが十王信仰です。
亡くなってから、通夜~6日目までは、抜け出した魂はやがて真っ暗なトンネルに入っていき、そこを抜け
ると、今度は「死出の山」と呼ばれる距離3200㎞の険しい山が現れます。暗闇の中、不安で登っていると、
どこからか家族や友人の声(お経)が聞こえてきて、それらの声に励まされ、ひたすら暗い山道を登ってい
きます。やがて峠を越えると、ようやく明るくなり、見下ろす山の麓には、曼珠沙華と曼茶羅華の美しい花
畑が広がっていて、あの世でしか見る事ができない風景だそうです。
山を降りると、大きな川が見えてきて、この川がこの世とあの世の境目となる「三途の川」です。その河岸
は「賽の河原」と呼ばれ、そこでは父母より先に死んだ罪で、あの世に行けない子供らが罪を償うために小
石を積み続けていますが、石を積み上げればすぐに鬼が壊しに来るのでなかなか完成しないのです。お地蔵
様はそのような子らを救済し、あの世に導いてくれます。
三途の川は川幅4000kmもあるそうです。渡る場所は生前に犯した罪の深さで決まり。罪の浅い者は、山水
瀬や七宝飾りの美しい橋を渡ることができ、罪の深い者は、激流の江深淵を泳いで渡るそうです。また、
善人用の渡し舟(六文船)も用意されているそうです。
対岸に渡ると「奪衣婆」と「懸衣翁」の二人の老人があなたの衣服をはぎ、衣領樹の木にかけ、その濡れ具
合で罪の重さを計ります。
三途の川を渡るといよいよ十王による審査が始まります。
7日目には、まず第一の王「秦広王」が生前の殺生、つまり虫や動物に無駄な殺生をしなかったかを調べま
す。続いて14日目に「初江王」が盗みについて、21日目に「宋帝王」が不貞について、28日目に「五
官王」がウソについての聞き取り調査を行います。ここで生前の悪行を後悔しても手遅れで、正直に話さな
いと罪は重くなるそうです。35日目は「閻魔王」からの審判が下り、来世が言いわたされます。
閻魔王は太陽のようにまぶしい眼と、雷光のように恐ろしい声であなたの罪を読み上げ、「浄玻璃鏡」に現
世での行いが映し出され、「閻魔帳」に罪が書き留められています。また「人頭幢」は、悪の本質を見抜き
ます。来世の行先が決まれば、42日目の「変成王」により生まれかわる細かい条件が加えられます。そし
て49日目はいよいよ六道の淵です。「泰山王」が六つの世界の中からあなたの行く先を選びます。
この日は、現世ではあなたの家族が法要を勤め、死者の良い来世を祈っています。
ちなみに、「金輪際」という言葉を使いますが、これは地獄の淵のことを言うそうです。
六道には、地獄道・畜生道・餓鬼道・修羅道・人道・天道です。
地獄道は、別名「奈落」とも呼ばれ、その罪の深さにより八つの種類に分けられ、細かく分類すると合計
136種類の地獄があり、自殺者や殺人者は必ずこの地獄へ落とされます。罪の順に、①等活地獄、②黒縄
地獄、③衆合地獄、④叫喚地獄、⑤大叫喚地獄、⑥焦熱地獄、⑦大焦熱地獄、⑧無間地獄となります。
畜生道は、本能や欲望のおもむくままに生きてきた者の末路です。自分だけの利益を求めるエゴイストは
狐に、猜疑心が強く、残忍で執念深い人は蛇に、ごう慢な生活をした人は豚に、その品性の低さにあった
動物に生まれ変わります。
餓鬼道は、飢えと渇きに苦しむ日々が続きます。食べ物や飲み物を口にすると、それが火に変わり体中を
焼きます。欲深く、富や権力に執着した者の末路です。現世では、この餓鬼道に苦しむ者を救うため、お
盆に「施餓鬼法要」が行われます。他の命を奪って自分が生きていることを知り、感謝する機会でもあり
ます。
修羅道は、阿修羅が住む世界です。阿修羅は帝釈天との争いで善心を見失い、妄執の悪となって天道を追
われ、修羅の世界を作りました。ここでは毎日戦闘が繰り返され、心の休まる間がありません。ここに来
るのは、現世で戦争や争い事をしていた人だけとは限りません。平和に生きていても、心の内側で強い自
尊心や競争震を持っていた人は修羅におちます。
人道は、人間の世界です。大半の人は衣食住苦労なく暮らせますが、ご存じのように、楽しいように見え
て実はストレスや煩悩だらけの苦しみの多い世界です。この世界に来るとき、その人の生前の行いにより
幸せな暮らしが出来たり、病気で苦しんだり、様々な条件がつけられます。
天道は、多くの善行を積んだ者だけが辿り着ける世界です。ここには「弁才天」「大黒天」「毘沙門天」
などの「天部」と呼ばれる様々な神が住み、彼らは特別な力を与えて仏の手伝いをしています。ちなみに
「聖天」は象の顔をした開運の神ガネーシャがモデルですが、実は天部のほとんどはヒンドゥー教を司る
神々が仏身なのです。そのため、この世界の公用語はサンスクリット語となります。俗に言う「天国」は、
ここの天道のことですが、仏教ではさらに上の浄土をめざします。
六道で思わぬ世界に落ちてしまったとしても、この世の供養により救われる場合もあります。百日目には
「平等王」、二年目(一周忌)には「都市王」、三年目(三回忌)には「五道転輪王」が現れ、死者を再
審し、最後のチャンスを与えます。ただし家族や親族の供養がなければいかなる救済も受ける事が出来
ないそうです。
追善供養は、残された者が法要を勤めることにより、この世からあの世へと「善を送る」ことです。法要
を重ねることで故人の善が増し、罪が軽減されます。またそれは同時に法要を勤める人の徳にもなり、自
身の善行としても積み重ねられます。(諸説あります)

ズラズラと書いてしまいましたが、昔の人は、ここに書かれた事を信じ信仰をしていたのだなと。。。
法要もそのためなんだなぁ~と考えさせられました。生きている内に徳を積もうと思うお話しでした。

次に向かったのは、密蔵院ですが、その少し手前にあ不動橋と呼ばれる橋があります。

石積のアーチ橋です。明治42年(1909)架設。半円形のアーチリングで、アーチクラウン(要石)は五角形
で、明治期のアーチ橋の面影を残しています。

密蔵院です。

真義真言宗智山派宝珠院末。本尊は不動明王坐像。木像等身大、秘仏として公開しません。
古来「谷の不動尊」として名高く、弘化3年(1846)火災にあい嘉永年間(1848~1853)に再建されました。
本尊の不動明王は良弁僧都(宝亀元年(770))の作で、相州大山不動と同木同作と言われています。
源頼朝が石橋山の戦いで安房に逃れた時、この不動尊に参詣し、その後天下を取ったことから、立身不動
として名高く、里見氏以来20石の御朱印寺でした。
境内にある山車小屋には、谷地区の担ぎ屋台(明治20年頃)の彫刻は、4代目伊八・武志信明の作。
正面の唐破風や欄間にスサノウノミコト神話や唐子、波などが彫刻されています。

さて次は、往生寺(密厳院)です。

真言宗智山派の寺院で、山号を金清山。安房国札観音霊場第十番です。
寺伝によれば寛仁元年(1017)恵心僧都が創建。裏山山頂近くに数百坪の平地があり、かつてそこに観音堂
がsりました。西側は墓域で往生寺住職及び密厳院住職の墓があります。
長い年月が経ち、往生寺は廃寺となりましたが、現在の観音堂は明治2年(1869)、密厳院本堂脇奥に阿弥陀
堂として建てられたもので、明治42年(1909)に現在地へ移築して観音像を安置しました。

写真右が密厳院です。本尊は阿弥陀如来立像。開基、縁起は不詳。里見氏から30石・宝珠院の黒印寺で
あり徳川から御朱印を与えられていたといいます。宝永4年(1707)に寺普請を行ったことが知られていて、
やがて衰退し明治2年(1869)字堂下から山麓の本寺近くに移築され、その後、明治42年(1909)現在地へ
移し修復されました。

次に向かったのは、日枝神社です。

祭神は大山咋命。創建不詳。寛文7年(1667)・享保18年(1733)・文政18年(1819)・慶応元年(1865)
・明治22年(1889)の棟札が残っています。

次は、金銅寺へ。

真言宗の寺院で、山号は奇雲山。本尊は、和銅2年(709)、行基菩薩が自ら刻んだ聖観世音菩薩。
安房国札第11番札所です。由緒によれば、和銅2年(709)に現在の場所より北方の小萩坂に協議が観音
菩薩像を刻んで創建したといいます。その後、荒廃し草原となってしまいましたが、弘安3年(1280)、
小萩坂から一筋の光明が輝き、それが白雲となって立ち昇ったのを近くに住む僧、玄助がみつけました。
光に導かれ、草むらをかき分けたところ、金銅の聖観世音像が現れ、萩を束ねてはしらとし、茅で屋根を
葺き観音像を安置したとされています。奇雲が立ち込めたところに金銅仏が現れたことから、奇雲山金銅
寺とされました。文安5年(1448)、村人が協力して現在地に堂宇を建立。本尊は、昭和13年頃盗難に
あい、後に埼玉県において発見し取り戻しましたが、すでに金ぴかに塗り替えられていました。
また、境内にある町指定文化財の梵鐘は、寛政元年(1789)に大山(鴨川市)の鋳物師・藤原忠直の作で、
戦時中供出されましたが、山梨県の長生寺にあることが判り、昭和58年約40年ぶりに戻されました。
一度失われたものが現れるという、不思議なご利益があるお寺です。

次は、今はなくなってしまった梅胤寺跡を通り正法院へ。

臨済宗円覚寺派の寺院で、本尊は地蔵菩薩坐像。開基その他は不詳です。

次は、光明寺へ。

曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来。里見実堯が、三芳本織に延命寺を建立した時、吉州梵貞和尚を招いて開山
とし、その後、和尚は延命寺を弟子に譲って佐久間へ来て、光明寺を建立し第一祖となりました。寛政初期、
火災で全焼しましたが、同11年(1799)再建されました。
明治初年12世住職大州貞忍は、寺小屋の師匠として教授し、墓地内に筆子塚があります。その後、明治22
年まで小学校が置かれ、佐久間地区の教育に寄与しました。

境内には、曽根静夫の墓地があります。

曽根静夫は、1845年安房郡平郡奥山村(現:鋸南町奥山)で、農業・曽根良助・婦美夫婦の三男として生
まれました。農業なお傍ら、読み書きを光明寺の住職・貞忍に、算術を高見桂蔵(九重村水岡在住)に学びま
した。明治3年頃、東京に上京し、そば屋の出前、医師の書生などとなります。明治5年(1872)、北条県(岡
山県東北部)十五等出仕となり、地租改正の試験実施を担った。1873年、北条県で血税一揆が発生し、その
対処に尽力しました。1876年、内務省地理寮九等出仕となり、地租改正事務局に転じました。1877年、
西南戦争の最中、鹿児島県一等属を命じられ赴任。のち租税課長兼庶務課長を務める。書いているとキリがない
ので、途中省きます。
1893年、大蔵省国債局長心得となり国債局長に就任。1896年、新設の拓殖務北部局長に就任。高島鞆之
助拓殖大神から乃木希典台湾総督に推薦され、1897年、台湾総督府民政局長に就任し、されに、同府財務局
長を兼務しましたが、乃木総督の退任に伴い、1898年に辞職し、同年6月に山形県知事に就任し、1899
年4月まで在任しました。同ねん5月、北海道拓殖銀行建立委員に命じられ、1900年、同行建立後に初代頭
取となり、在任中の1903年に死去(57歳)しました。奥山の生家にあった墓地は、光明寺墓地入口正面に
移されました。
安房地域から、偉大な人が多く出てるんですね。

後は、出発地にもどるのみです。鋸南町の佐久間地域は、今回歩いた6キロの間に神社仏閣が8つほどあります。
それだけ、信仰が盛んな場所だったのでしょう。
今回のガイドの独り事は、長い話が多くて読みにくかったと思いますが、勘弁して下さい。

お散歩ツアー「民宿の町・岩井を散策」報告

皆さま、ご無沙汰しております。なんとかこの夏の猛暑を過ごす事ができました。
夏の間は、ウミホタル観察会を開催しておりまして、9月に入り、なんだかバタバタと忙しい
日々をありがたいことに送らせていただきまして、10月に入ってしまいましたが、9月11日
に行いましたお散歩ツアーの報告をします。

お散歩ツアー「民宿の町・岩井を散策」の報告をします。
集合場所は、道の駅富楽里。ここからスタートです。
スタート地点から少し歩くと恩田原古墳があった場所になります。

今は田んぼとなっていますが、5世紀後半のものと推定されています。安房地域でも、古墳時代
中期になると、本格的な古墳文化が始まります。安房地域では、前方後円墳で埴輪を持った古墳が、
2ヶ所確認されていて、ここ恩田原古墳と旧丸山町にある永野台古墳です。
大正7年(1918)の鉄道開通時の工事によって、学術調査を待たずに破壊されてしまいました。
墳形・内部主体・副葬品などの基本的な記録は残っていなく、人物埴輪や円筒埴輪の破片のみが散乱
していたといいます。当時の遺物として確認できるのは、館山市立博物館に寄託された円筒埴輪の破
片及び南房総市が保管する人物埴輪の顔面の一部のみです。

次に向かったのは、戦争遺跡「久枝陸軍補給廠跡」です。
久枝陸軍補給廠は、本土決戦の様相が濃くなった昭和18年ころから、陸軍の補給廠の工事が開始さ
れました。広い水田だったところを、天満山・峰岸山の山肌を削り取り埋め、そこに軍用円形道路が
でき、山肌をコンクリートで巻いた貯油タンクが造られましいた。
下の写真は、貯油タンクの跡です。イメージ的には、大きな石油のタンクローリー車のタンク部分が
並んでいた感じだったそうです。

もう一つは、門柱があります。片面からも撮りたかったのですが、現在の政治的な宣伝ポスターがあった
ので撮る事を断念しました。

次は、ツアー名の「民宿の町」の心臓部に入って行きます。
漁師町でもある岩井の町は、やはり狭い道だったり、入り組んでいたりと初めてでは迷子になってしまい
そうな感じです。
細い路地を入ったところに、いぼとり地蔵が祀られています。

このいぼとり地蔵は、道に背を向けて祠が建てられています。正面には、大きな座ったいぼとり地蔵、その
周辺には、雨風に耐えたお地蔵様が合祀されています。

次に向かったのは天満神社。

祭神は藤原道真。元は、天神山(現天満山)の中腹に鎮座し、社殿12坪に藤原大神が祀られていました。
しかし、大平洋戦争中、この地域一帯に陸軍施設が造られ、立ち入ることが出来なくなり、そのため、軍
の命令により社殿は取り壊され、昭和18年、現在地に新社殿の造営工事が始まり、翌19年に完成、神
霊を移転奉納しました。旧社の創建は、約400年前の天正時代以前と考えられています。手水石は、安
政3年(1856)、狛犬は安政4年(1857)、石灯籠は天保14年で、旧社境内より移転してきたものです。

次は蓮台寺へ。

浄土宗金台寺末の寺院で、金乗山九品院蓮台寺といいます。本尊は、阿弥陀如来。永和年間(1375~1379)
南北朝の時代、到阿上人によって開創されました。
本堂前には、南房総市天然記念物の「蓮台寺の大いちょう」があります。夫婦いちょうと呼ばれ約
500年前に植えられたと伝わっています。

境内には、産科の名医で「産科発明」の著述者でもある奥澤軒中のお墓があります。

薬師堂は、昭和61年に新たに建立され、安房国四十八薬師如来の北口第九番札所になっています。

次に向かったのは、JR内房線の岩井駅近くにあります伏姫と八房の像を見学し、福聚陰へ。

福聚院は、曹洞宗の寺院で、慈眼山福聚院燿沢寺といいます。本尊は釈迦如来。

明和8年(1771)に火災により焼失、安永9年(1781)に再建しました。大正12年関東大震災では、
本堂が倒壊し、現在の本堂は、昭和38年に落成しました。

道路からでも目につくのが、山門です。山門は勝山藩酒井忠国の父忠朝が、寛文元年(1661)に市部村
に社式を構え隠居していました。忠朝の死後、酒井家より、屋敷の門が寄進されました。
山門の左手には、酒井氏が寺へ来る時用いた駕籠を置いた場所があります。山門・駕籠置きは、市の
文化財に指定されています。

本堂の欄間には、初代武志伊八郎信由作の彫刻があります。

本日最後の見学場所、もう1つの天満神社へ。

祭神は藤原道真。別当寺であった福聚院が、明和8年(1771)の火災によって焼失したため、天満
神社の創建・由緒等は、一説では不詳と伝えられていますが、寛文12年(1672)、勝山藩祖酒井
忠国が、若狭小浜藩の藩主の奥方の安産祈願をするために社殿を造営したものでとも言われています。

あとは、出発地の富楽里へと戻ります。
民宿の町岩井は、中に入ってみると面白い場所でした。是非みなさんも歩いて発見してみて下さい。