月イチツアー「田原地区散策」報告

6月も終わりですね。1年の半分が過ぎようとしています。
館山・南房総は梅雨入りしていて、梅雨らしい天気になっています。最近では、メガマウスが館山に現れたり、東京湾にシャチが現れたり、珍しい現象が起きています。海の中で、なにか起きていないか心配になります。

さて、6月の月イチツアー「田原地区散策」を開催しましたので、報告します。
出発地はJA虹のホール鴨川の駐車場をお借りして出発です。
先ずは、前にも行きました田原交差点付近にある道標へ。

鴨川市の石造物百選に選ばれた道標です。兜巾型の道標で、塔身正面の上部に、舟形の龕の中に如意輪観音が刻まれています。下部には「西大山道」と大山寺への道筋が示されています。左右に紀年銘がありますが、年号の最初の部分がわからないですが、文政か安政で、像容や形態からみると文政4年(1821)に造られた物かと思われます。むかって右側面には「右いそむら前はら道」、左側面は「左清すみ天津道」とあり、磯村・前原それに清すみ天津の現在地名が刻まれています。

次は、愛宕神社へ

祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・建御名方命(たけみなかたのみこと)・保食神(うけもちのみかみ)など八柱の神が合祀されています。これは、明治末年の政府の神社合祀政策によって、明治44年(1911)に周辺の無格社の神社を合祀しました。祭神のカグツチは火の神。ウケモチは穀物の神です。
愛宕信仰は、京都の右京区に鎮座する愛宕神社を中心とする信仰で、火伏の神・防火の神として信仰されました。また、仏が多くの人々を迷いの世界から救うために神の姿となって現れるとする本地垂迹説によって、愛宕神社の本地仏は勝軍(将軍)地蔵とされてので、軍神として武士の信仰を集めたといいます。勝軍(将軍)地蔵の由来は、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って、鎧・兜を身に着けた軍馬にまたがる地蔵菩薩を造ったことによると伝えられています。
ここ愛宕神社の字名は、将軍といいます。勝軍地蔵にちなんだものと思われています。


向拝の彫刻は4代伊八(信明)の作品です。

境内には、忠魂碑や日露戦争記念碑などがあります。

次は西福寺へ。
曹洞宗の寺院で、鴨川市宮山の長安寺の末寺です。本尊は阿弥陀如来。
由緒は不明ですが、寺院明細帳によりますと、永禄2年(1559)に長安寺五世の続翁禅師が創建したとあります。里見時代には四石の寺領が寄進されました。
本堂の欄間には、「波に竜」と「七福神」の彫刻があり、波の伊八(武志伊八郎信由)の作です。安永6年(1777)、信由26歳の時に弟子の磯八と共に彫上げた作品です。彫刻は、昭和52年(1977)に鴨川市の文化財に指定されました。
いつも開いてないのですが、修繕の関係で開いていたので、中を見せていただきました。

明治7年(1874)に竹平村・押切村・京田村・池田村・坂東村を一学区として竹平小学校が開設されたとき、西福寺が仮校舎として使用されました。明治末にアララギ派の歌人・古泉千樫が隣接する小学校の教師をし、一時寄宿していたお寺でもあります。

境内には、宝篋印塔があります。年代は不明ですが、世話人 伊八という文字があります。彫刻が伊八なので、波の伊八?と思ってしまいますが、波の伊八の可能性は低いとの事でした。通常、住んでいる所の場所の村名が銘記されますが、なにもないので、ここの村の人の可能性が高いそうです。伊八の生まれた打墨村には、4~5人位、伊八という名の人がいたそうです。

次は、地蔵院へ向かいますが、途中、愛宕神社に合祀された八雲神社を道からみます。

祭神は素戔嗚命。明治44年(1911)4月に合祀されました。向拝の彫刻は、千倉町後藤作とあります。民家の敷地を通って行くので、今回は、遠くから見学です。

次は地蔵院へ。

曹洞宗の陣で、西福寺と同じ長安寺の末寺です。本尊は地蔵菩薩。お寺の由緒は不明です。
地蔵信仰は、釈迦入滅の後、弥勒菩薩が現れるまでの間、人々を救済するという地蔵菩薩への信仰です。平安時代から人々に支持され、とくに子供を守護するため、しばしば童身になって現れると考えられ、民間信仰として広がりました。

次は勝蔵院へ。

真言宗智山派の寺院で、川代の勝福寺の末寺です。本尊は延命地蔵菩薩。
創立年は不詳ですが、寺伝によれば、天正年間(1573~1591)に里見氏から寺領一石の寄進をうけたといいます。このことから、天正年間以前に創立した寺院と考えられます。その後衰微したので、慶長19年(1614)に成円という僧侶が中興開山して第一世になりました。元和2年(1616)に江戸幕府から改めて一石の寺領を安堵されました。
向拝の龍の彫刻は、後藤喜三郎橘義信 翁68で、大正3年7月です。

次は、楞厳寺へ。

真言宗の寺院で、本尊は不動明王。
創建は寛弘年間(1004~1011)ですが、再三火災に遭い年月などは分かりません。本尊の不動明王は、平安時代中期に天台宗の学僧として名をのこした名僧源信(恵心僧都)の作と言われています。境内の不動堂に安置されている不動仏は、奈良時代の高僧・良弁の作と伝えられています。
本堂欄間の「十六羅漢像」は、四代武志伊八郎信明が明治38年(1905)に作成したものです。「十六羅漢」とは、仏語で仏の命を受け、ながくこの世にとどまって、正しい教えを守護する16日の聖者のことです。お釈迦様の弟子で徳に優れた代表的な16人の弟子です。
因みに、五百羅漢は、初めて経典編集に集まった弟子たちで、いずれもお釈迦様の教えを後世に伝える大切な役割を担っています。昔からたくさんある羅漢さまを一体一体ゆっくり眺めていくと、必ず自分の親やしっている人によく似たものが見つかると言われています。

最後の見学場所の御嶽神社へ。

祭神は大己貴神(おおたむちのかみ)。オオナムチは神話に登場する大国主神の別名です。創建年や由緒は不明です。
御嶽信仰は、聖なる山とされた木曾の御嶽に対する信仰で、近世以降に御嶽講が各地に結成され、富士山とともに庶民の信仰を集めたといいます。
社殿裏には、湯殿山供養塔があります。

舟光背型の石材に、金剛界大日如来の坐像が浮彫りされています。上の部分には、胎蔵界の大日如来を示す梵字アークンが彫られ、その下には湯殿山供養塔と像脇には、享保13年(1728)の紀年があります。高さは105㎝、横52㎝、奥行き24㎝です。鴨川の石仏百選に選ばれています。

後は、出発地点へと戻りますが、コラボ企画としてJA虹のホール鴨川で説明会です。

会社の説明や葬儀についてなどのお話しを聞きました。エンディングノートなども貰いまして・・・
個人的な感想ですが、葬儀って急な事なのでどうしたらいいのかわからない状況になるのでパンフレットを貰えてよかったです。

段々と暑くなってきています。マスクを着けて、暑い時期に歩くのはかなり厳しいです。新型コロナウィルスの対策と熱中症の対策をしないといけません。みなさんも気を付けて下さい。

7月は、7日(水)お散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」を開催します。その後は、9月までウォーキングはありませんが、ウミホタル観察会を開催します。HPのイベント案内をご覧いただき、お申込み下さい。

月イチツアー「平舘古道(堰・滝&平舘浅間編)」報告

なんだか天気が良くないと体調もすぐれませんね。蒸し暑かったり、梅雨寒だったりと、体調管理が大変です。
新型コロナウィルスも感染力の強い変異ウィルスも出てきていますので、体調管理とコロナ対策をしっかりしていきたいものです。

さて、5月の終わりに月イチツアー「平舘古道(堰・滝&平舘浅間編)」を開催しました。今回は、千倉町平舘地区の区長さんたちにご協力いただきました。

出発場所は、千倉漁村センターから平舘稲荷神社へ向かいます。

祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)安永2年(1773)徳蔵院が京都の伏見稲荷より名戸川の地に勧請し、戦後平舘稲荷と改めました。また笠間稲荷の移しという石板があります。向拝の龍は初代後藤利兵衛橘義光83歳の作品です。
今年の始め記録的な少雨のため、南房総市の小向ダムで飲料水のピンチが続き、全国版のニュースになりました。平舘稲荷山は雨乞い塚であるため、区長の呼びかけで異例の雨乞い神事が行われました。効あって3日後に雨に恵まれたようです。
その稲荷山へは、神社の裏から登る事ができますが、狭い場所なので気を付けて登ります。

稲荷山からの景色はこんな感じです。

景色の良い場所です。

次は、名戸川原の奇石と呼ばれているつぶて石と神楽石を見て、いよいよ古道へと入ります。

名戸川原の奇石については、あとで話ます。

いよいよ古道に入っていきます。今回は写真でおおくりします。

滝へと進んでいきます。

下の滝・・第2の堰から直瀑で落差約3m

上の滝・・第1の堰からオーバーフローして落水。ナメ滝で落差約6m
滝は、堰がオーバーフロー、または水田用に落水した時に現れるそうです。なかなか見る事は難しいかな?

堰の周辺には、石切場が色々あります。

第1堰のところで、平舘区長さんが説明してくれました。

石切り場の痕跡は多く残されています。

次は天神社へと向かいます。

祭神は少名毘古那命とも、土地の人は藤原道真公と伝えられています。境内に馬の背の奇石があります。
ここで、南房総市の昔話より、「名戸川原の物語」お伝えします。

 大昔、名戸川原は雷神が雷を落とすなどして、我が物顔に暴れ廻っていたので、人の住めない状態でした。そこへ天王様(牛頭天王)という神が来て、雷神を鎮めようとしたのですが、雷神は天王様の言うことを聞かないで、出雲の国から八雲の神(素戔嗚尊)を招きました。八雲の神は力が強く政治力に富んだ神でしたが、雷神を鎮めようすると、反対に住まいを壊され、下の洞窟に逃げ込むとこを繰り返す有様でした。
 天王様は次に高天原から、お祭りに堪能な神明神(天照大神)を招いて、お祭りで雷神を鎮めようとしたが、それも効き目がないので、今の能蔵院の先祖の能楽に長けた人に獅子と大蝦蟇を連れてこさせ、能楽を名戸川原で演じさせたが、それも束の間で、忽ち獅子と大蝦蟇は石にさせられました。
 今も名戸川原の中に、その獅子と大蝦蟇が助けてと、能蔵院の方へ向かって大口を開けた姿の石が有ります。
 雷神の暴挙は鎮まることはなく、稲荷山を崩しにかかったので、次は稲荷(倉稲魂)を連れてきてその山を守らせ、狐を使っていろいろ宥めようとしたが、それもままならず、次は天神(高皇産霊尊)を呼びました。天神が名戸川原の中心にある小さな岡に、住み処の祠を作ろうと馬に乗って来ると、雷神は怒って、その馬の首を落としました。ところが、その馬の首が雷神の尾に食い付いて離れず、そこで困った雷神が天神に鳴いて謝罪したので、天神は雷神に名戸川原で二度と暴れ廻らないよう約束させて、尾に食い付いた馬の首を離してやりました。天神の乗っていた馬は、現在、馬の背と呼ばれ、鞍を付けた形の石になっています。
 雷神は天神に約束したとおり、名戸川原で暴れなくなり、雷を落とさなくなったので、人が住むようになりました。その時に、村へ男の子が生まれたので、天王・八雲・神明・稲荷・天神の五神の五を戴いて五平と名付けました。その子は成長するに従い人徳者になったので、村人から「五平どん」と呼ばれるようになり、今もその家の屋号になっています。
 当時、原の見廻り役をした人の家が、「名戸川原」。浜の見張りをした人の家が「浜」という屋号で残っています。村人たちは天王様の德を慕って、死後も守って貰いたいという願いを込めて、天王様の廻りに墓地やお籠り小屋を作りました。その小屋を、天王様の德を戴いて「德蔵院」と名付け、一方、お能に堪能だった住者の家は、能の字を戴いて「能蔵院」になったと言われ、村人に尊敬され現在に至っているのです。

こんなお話しです。
次は、平舘コミュニティーセンターへ。区長さんの計らいでお借りする事になりました。
ここで、昼食です。お昼休憩には、平舘の方による紙芝居が行われました。先にお話しした昔話です。

その後、平舘浅間山についてお話しがありました。

午後からは永﨑堂へ。

もと徳蔵院があったところです。「徳蔵院旧地に泉あり。その清水殊の外美味なるにより、福泉といい山号を福泉徳蔵院という。」本尊は不動明王。階段下に富士講の碑があり、中間に修験道の祖役小角の石造があります。

この脇の小道から浅間山へと登っていきます。

平舘浅間山は、富士山写しの遺構になっています。標高約15mの位置にある縄文時代の海食洞穴を利用した御人穴があります。

浅間大神の本地仏・金剛界大日如来坐像が祀られています。
※人穴は富士山西麓標高約700mにある溶岩洞穴。富士講創始者「角行藤仏(長谷川角行)」の修行の場で、富士講の聖地です。
少し富士信仰の話を・・・
富士信仰を具体的に起こした人は、戦国時代の行者角行でした。その後、江戸時代に行者食行身禄は角行の教えを元に富士信仰を広め、飢餓に苦しむ庶民を救うため富士山中で断食行をして入滅しました。そして富士信仰は弟子によって江戸を中心に関東一円に大流行しました。浅間神社は富士山を仰ぎ見る場所にあり、富士山そのものを拝むようになっています。漁をする人の目印になったり、雨乞いの山になったり地域の守り神としての役割を持っています。

富士山経ケ岳を模したものもあります。

本家は富士山の五合五勺目の天地の境といわれるお中道にあります。日蓮聖人は文永6年(1269)に富士山に登り、横穴「姥ケ懐」で国家安泰を祈念して百日間読経し、法華経8巻を埋納したといいます。日蓮宗の聖地でもあります。

結構険しい道になっています。

道中には、やぐらや・手水石・元祖室やその道標石などがあります。
山頂には富士山の神を祀った祠があります。

仙元大菩薩を祀った祠があります。仙元とは江戸時代後期に平舘の先達が祀ったと思われています。関東大震災で破損し昭和2年に修繕されました。近くには頭部が失われた大日如来石像が安坐しています。行者・修験者・山伏等の信仰大正として富士山には神様だけでなく、火口には大日如来がいるとされています。

後は、出発地点に戻ります。
結構大変な登山でしたが、無事に終了することができました。今回の写真もガイドの庄司が撮ったものです。私の写真よりいい感じです。次回は、復活できるように安静に過ごします。

お散歩ツアー「曽呂地区歴史探訪」報告

6月も後半です。館山・南房総も梅雨入りしています。雨が降ると嫌な気分になりますが、雨がないと困りますから我慢しないといけませんね。でも大雨だけは勘弁してほしいものです。

さて、5月のお散歩ツアー「曽呂地区歴史探訪」を予定していた日が雨でしたので1日ずらして開催しました。
「曽呂」は鴨川市にある地区です。「曽呂」という地名の由来は、昔、寺院が多く建てられ、僧侶も多く棲んでいたので、人々は僧侶を敬って僧侶の人偏をとって「曽呂」と名付けたと伝わっています。現在曽呂地区には、13軒のお寺があります。今回は、その一部を巡ってきました。

出発地点は、曽呂郵便局の隣にあるJA安房さんの倉庫の敷地をお借りして出発です。

最初は金光寺。

曹洞宗の寺院で本尊は十一面観世音菩薩。社寺明細帳には、天正元年(1573)12月の創建とあります。由緒は不明です。
本尊の十一面観世音菩薩は、衆生がその名を唱える声を聞き、慈悲の心をもって人々の願いを満足させる仏として広く信仰されています。こちらの現在の檀家数は30軒ほどだそうです。

次は宝昌院へ

曹洞宗の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。長狭郡南部における曹洞宗の地方小本寺としての寺格を持つ寺院でした。曽呂地区の東善寺・慈眼寺・神宮寺・林秀院・地済院・宝寿寺・東福寺・宝泉寺・宝寿院の曹洞宗九か寺を末寺としていました。宝昌院の本寺は三芳本織の延命寺です。創建は永禄元年(1558)と言われています。由緒については、不明な点が多くありますが、曽呂村役場が大正年間(1912~1926)に村内の寺社について、名所や本尊・祭神・由緒なろをまとめた「社寺明細帳」には、「創立は永禄元年(1558)」と書かれています。永禄元年は木下藤吉郎が織田信長に仕えたと伝えられる年で、信長が今川義元を撃ち破った桶狭間の戦いの2年前のことです。

ここは、三井ダイレクト損保のCMセカンドライフ編の撮影に使用されたそうです。なかなかの景色でした。

次は八雲神社へ

祭神は須佐之男命。享禄年間(1528~1531)に武州(武蔵国)から勧請したと言われています。
江戸時代から伝わる伝統行事「牛洗い」が6月の第一日曜日に行われています。
「牛洗い」は神社に安置されている白い陶製の「白牛」(全長44cm)を神社から約200m先の曽呂川へ、役員を先頭に歩き川のほとりで、ササの葉を使って丁寧に水で清めるという珍しい行事です。かつてこの地域に広がる幕府直轄の嶺岡牧には牛や馬が放牧されていて、酪農発祥の地でもあります。地元では白牛から徳川吉宗との関係があるのではないか?と言われていて、また6月7日まで牛の背中を汚すなとも言われていました。牛は農耕牛として農家にとって大切なもので、この神事は農耕牛に感謝しながら川で洗うことで、牛の無病息災や豊作、家内安全を祈るものです。

本殿脇には、庚申塔があり鴨川の石造物百選になります。

三猿と二鶏を大きく表現した庚申塔です。上部に瑞雲上の日月、中段に二鶏、下段には三猿が行儀よく正面を向いて並んでいます。貞享改元天拾月吉祥日となっています。銘文には「奉請山王供養成就者也」「願主江中講仲間敬白」と解読できます。
銘文から山王系の庚申塔と判断できます。

次は、林浄院へ

真言宗の寺院で、本尊は不動明王。創建・由緒不明です。南房総市千倉町の円蔵院の末寺です。現在は、寺守さんが住んでいます。

次は地済院へ。

曹洞宗の陣で、本尊は聖観世音菩薩。創建は延享2年(1745)です。
境内には、三嶋天神が祀られています。

こちらにも鴨川の石造物百選に選ばれている地蔵菩薩があります。

二体の地蔵尊が祀られていますが、一体は近世の地蔵尊で、もう一体が石造物百選に選ばれている地蔵尊(左)です。
石材は蛇紋岩、舟光背型に成形さらた正面に、地蔵菩薩坐像が浮彫りされています。面立ちは目をかるく閉じ、口元をややすぼめたユニークな表情をしています。記年銘は確認できませんが、15世紀前半(室町時代中期)の作と考えられます。

あとは、出発地点へと戻ります。最初に曽呂の名の由来をお話しましたが、お寺はまだまだあります。今回は、4カ所ですが、曽呂川を挟んだ場所にも多くあります。無住の所も多いのですが・・・・地元の方の話では、戦時中、お寺を借りて疎開していた人も居たそうです。新緑を楽しみながら、無事に終わりました。

月イチツアー「新・旧加茂坂」報告

新年度が始まりました。新年度一発目は4月14日のお散歩ツアーを予定しておりましたが大雨で中止となり、さい先の悪いスタートとなってしまいました(汗)新型コロナウィルス感染症の先行きがまだ不安ですが、安房地域でもワクチンの接種が始まりましたので、少し兆しが見えてきたような・・・でも油断は禁物です。ワクチン接種しても感染したという方もいたみたいで・・・マスク着用は必須なんでしょうね。

さて、4月24日に「新・旧加茂坂」を開催いたしました。当日は、天気が良くてよかったです。っと言ってもこれを書いている私は、腰痛&股関節痛で距離を歩く事が出来ない状態でして・・・写真はガイドの庄司さんに撮ってきてもらいました。

出発地点は、日運寺からです。

日蓮宗の寺院で、本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗の説も)の小堂でしたが、文永元年(1264)日蓮聖人が鎌倉から小湊に帰る途中、この堂に止宿したことが縁で、当時の住職が日蓮の門下に改宗したそうです。約300年後、里見の重臣正木時通と弟・頼忠は村の押本右京亮と図り、元亀2年(1571)に勝栄坊を再興、勝栄山日運寺としました。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大旦那として主君里見義頼に願い出て寺領を寄進、その後徳川幕府からも寺領10石の御朱印を賜っています。
大正12年(1923)の大震災では本堂など倒壊焼失し、昭和12年(1937)に現本堂ぞ造営しました。昭和56年(1981)に日蓮聖人七百遠忌記念事業として、仁王門の屋根改修、七面堂再建などを行いました。昭和45年(1970)には2万株のあじさいが境内に植樹され、房州のあじさい寺と呼ばれるようになりました。

日運寺の境内に、正木時通・頼忠の墓があります。

勝浦城主正木時通は、元亀元年(1570)戦いに敗れて伊豆の寺に蟄居、数ヶ月後に出家帰房して日運寺を開き中興の祖になったといいます。天正3年(1575)没。墓は宝篋印塔で第7世日性が建てたものです。
頼忠は時通の弟で、時通死後の勝浦城主です。加茂村の所領から寺領を寄進しました。徳川家康の側室で水戸・紀州両徳川家の生母お万の方の父です。元和8年(1622)没。笠塔婆の墓が寛文2年に建てられました。南房総市指定文化財になっています。

少し上の方に行くと日艦上人入定窟があります。

第18世日鑑は、現在の館山市広瀬の出身で、住職として29年間在職していました。寛政3年(1791)に、光格天皇皇后の病気平癒の祈願のため上洛して導師をつとめ、その功で幕府から10万石の格式を与えられました。また、、天明5年(1785)夏の旱魃で村人が困り、上人は21日間の雨乞祈願をし、村人をすくいました。晩年には窟に断食入定し、文化5年(1808)入滅しました。
入定窟は、南房総市指定文化財です。中には石造武人像などが安置され、昔は清正公ヤグラと呼ばれていたといいます。

その後、ひょうたん淵地蔵の前を通り春光寺へ
ひょうたん淵地蔵

日本全国の廻国巡礼をしていた河内国蚊谷振郷(大阪府八尾市)の安蔵という人の廻国供養塔です。巡礼の途中、ここの瓢箪淵に落ちて死んでしまったと伝えられています。嘉永5年(1852)のものです。
この道は、加茂坂を越える旧道で、幕末の馬頭観音も並んでいます。岩肌には穴があり、昭和30年代ごろまで牛をつないでいたものだそうです。

春光寺です。

曹洞宗の寺院で、北条藩主の初代屋代忠正が室の昌泉院の供養のために承応3年(1654)に建てたと言われていますが、中世の宝篋印塔が数基分ありますので、それ以前からあった寺のようだと思われます。屋代家三代(忠正・忠興・忠位)の菩提を弔っています。

春光寺の裏山の明星山が戦国時代の城跡と伝えられ、鎌倉時代の多々良庄(富浦町)のご家人多々良氏の子孫である薦野氏の居城とされています。戦国時代、薦野神五郎時盛の娘が里見義弘の側室となって頼俊を生み、頼俊は薦野家を継いで、慶長年間は里見一門として、竹原を中心に2500石を知行しました。明星山城は内房と外房をつなぐ道を管理する役割があったと考えられています。

相賀地蔵堂前を通り、いよいよ旧加茂坂へとはいっていきます。
途中には、トーチカが残されています。

浅間山トーチカ


大峯山トーチカと横穴

この辺は加茂坂陣地といわれています。通称「旗立山」の三角点の下に昭和19年本土決戦にむけて、千倉白子海岸、館山鏡ケ浦よりの米軍上陸に備えて、陸軍東京湾兵団の地下陣地が始まりました。監視所や作戦室、垂直壕を備えた地下壕は、迷路のような通路で結ばれていて、入口も爆風除けの小山で隠されています。
トーチカはロシア語で、鉄筋コンクリート製の防御陣地を示す軍事用語です。

旧加茂坂を抜けて、日運寺まで戻ります。