お散歩ツアー「鋸南・吉浜・大六地区の歴史探訪」報告

ご無沙汰しちゃっています。もう更新しないまま新年度に入ってしまいました。
春から初夏な感じの陽気になってきました。緊急事態宣言が出てたりしていて、なかなか外に出る機会がなくなってしまって春の
楽しみのフキノトウの天ぷらも食べられなくなってしまいました。
新型コロナウィルスの影響で、昨年度は主催のウォーキングツアーの中止や、修学旅行・一般団体の受入も中止となってしまていて・・・継続するのも大変ですが、今年度のウォーキングツアーの予定が出来ましたので、今年度もよろしくお願いします。

本当に遅くなってしまいましたが、3月11日のお散歩ツアー「鋸南・吉浜・大六地区の歴史探訪」を開催しましたのでご報告いたします。

集合場所の道の駅きょなんから吉浜神社へ向かいます。

祭神は、天照大神と八幡神。妙本寺の守護神としてきた面を護る神社で、建武2年(1335)に第六天神社と共に創建されました。保田の合同例祭には、大杉の山車で出祭します。大杉様と呼ばれ航海の神、豊漁の神として漁民の信仰を集めて関東に広まりました。航海安全、大漁祈願、疱瘡除けを願い杉の木に飾りを付け曳きまわします。

次に妙本寺へ。
国道127号沿いにある大門跡を通り、少し行くと吉浜小学校跡があります。

昭和42年(1967)まで吉浜小学校がありました。開校は明治7年(1874)で、明治20年に跡地碑の建つ場所に校舎が新設されました。それまでは、妙本寺客殿続きの学寮が校舎として使われ、疎開児童の像か塔頭の久円坊、山本坊、西の坊の一部も校舎として使われました。昭和42年に保田小学校と統合され、吉浜小学校の93年の歴史は幕を閉じました。

少し行くと踏切と吉浜隧道があります。

木更津以南北条までの北条線が、明治45年(1912)に測量開始され、7年の歳月を経て、大正8年(1919)5月24日に全区間のかいつをしました。浜金谷~安房勝山間の開通は対象6年のこと。鉄路と延長131.770mの吉浜隧道が竣工しました。

妙本寺です。

日蓮宗富士門流の本山。本尊は十界曼荼羅。江戸時代には日向国(宮崎県)27か寺をはじめ40か寺の末寺があったといいます。日郷上人が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮聖人の誕生の地を慕って房州に下ると、房州保田の地頭佐々宇左衛門尉から寺地の寄進を受け、建武2年(1335)にここに開創したものです。背hン獄時代に小田原北条氏と対立した頃には、里見氏に城砦として寺地を提供し、対北条氏との戦いにおいて最前線基地になっていたと、里見氏の古文書などから明らかにされています。岸辺に突き出した山の上は、太鼓打ち場と呼ばれています。里見氏からは51石余の寺領を受け、その後徳川家から50石余の寺領を与えられ保護されてきました。

本堂を通り墓地の奥に行くと中世の石造宝塔2基があります。

開基檀那の佐々宇左衛門尉夫婦の墓と言われてる14世紀終わりから15世紀初めの室町時代初期の様式を持つ宝塔です。
仏崎で海中に沈んだ後に海から引き揚げられ、近くの万灯塚に安置後、現在の場所に移されたといいます。また、別の場所にあった開山日郷上人の供養塔との説もあるそうです。

客殿には、鋸南町指定文化財の向拝彫刻があります。

客殿は、江戸時代末の元治元年(1864)に造営されました。向拝の龍と蟇股の彫刻は、後藤利兵橘義光の作で、邪鬼・獅子鼻等の貯穀は伊丹喜内の作です。また天井画の孔雀は渡辺雲洋の作といわれています。

次は第六天神社へ

妙本寺の南面で仏教を守護する神社です。創建は吉浜神社と同じ建武2年(1335)の創建。第六天欲界の王「他外自在天」を祀っています。御神体は法華経八巻で、神道であっても南無妙法蓮華経と唱えます。
大六の地名は第六天から来ているそうです。ウォーキング当日は、おさるさんが木の上から見ていました。

次は二柱神社へ。

二柱御霊宮と呼び、イザナミ・イザナギを祀っています。鉄道建設の折、発破で社殿が破壊され現在地に還座しました。

次は竜島神明神社へ。

祭神は天照大御神。竜島の村社。源頼朝が上陸した後、神社で神主・村人から接待を受け、ここから安西景益に手紙をしたため上総広常の元へと出立します。多くの兵が左右から加勢に駆け付けるようにと祈願し神主に左右加(そうか)の名を与えました。

次は、源頼朝上陸地へ。

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、現在の真鶴岬から小舟で安房国へ逃れてきました。安房国に逃れて来た時に頼朝が上陸した場所です。

後は、出発地点へと戻ります。
途中の海がとてもきれいでした。

飛び込みたくなりますね。

次回は、新年度になります。なるべく更新していきますので、どうぞよろしくお願いします。