お散歩ツアー「鴨川市石造物百選を巡る」報告

新緑が綺麗な時期になりました。まだ5月なのに、気温が高く夏になったらどうなるのか
心配です。館山・南房総では、気温が高くても、海風が吹くので少しは楽かもしれません。

さて、今回はお散歩ツアー「鴨川市石造物百選を巡る」の報告です。
6年目ともなりますと、新しいコースを考えるのが一苦労でして・・・段々と、鴨川市の
方へとコースが増えてきていますが、なかなか鴨川市の方も素晴らしいものが多くて、
開催している当倶楽部でも、新しい発見があります。

集合場所は、鴨川市の大賀蓮の里駐車場です。ここから出発し、田植えの終わった田んぼ
の景色を楽しみながら、笠塔婆のある場所へ。

この笠塔婆は、亡くなった人を供養するためにに作られた石製の塔です。上に笠のような
石がのっているので、笠塔婆といいます。年代等は、解読できませんでしたが、この辺り
の豪農だった佐生夫婦の為のものです。塔婆は故人の追善供養として建てられますが、
塔婆を立てることは善を積み重ねることとなり、故人の供養と、自分の善を積むことにな
るので、自分の為にもなるものです。
長狭街道を通っているとこの大きな石造物が気になっていた方が多かったみたいです。

長狭街道の下の小さなトンネルを通って、川岸公会堂へ。
川岸公会堂には、鴨川市石造物100選に選ばれた3つがあります。
まず歩いて来て見えるのが、1つめの子安地蔵です。

近くで見るとこんな感じです。

この小安地蔵は、嶺岡山系産出の蛇紋岩で作られたものです。安房地域最大級のもので、
宝暦2年(1752)に地元の佐生家などが願主となり造立されました。
頭の上にはもともとは木製の笠が被せられていましたが、朽ちてしまったので、石で作
りかえられました。大きな体ですが、お顔のせいか、人を圧する印象ではなく、穏やか
な気持ちになります。胸の前には可愛らしい童子が膝上やふところから顔をのぞかせて
いて、子供たちを温かく見守るお地蔵様です。

2つ目は、堅牢地神(けんろうじしん)です。

年号は確認でいませんが、宝暦頃のものと考えられています。
頭に宝冠様のかぶり物をつけ、両手に花を盛った鉢を奉持する女人形の立像です。像の
両脇に「奉請堅牢土地神天」「田畑繁茂百穀成就」と刻まれています。
像容を刻んた地神は神奈川県に多いそうで、千葉県では、像容を刻んだ例は他に確認さ
れていないそうです。
堅牢地神とは、天部十二天のことで、地を象徴する神をさします。堅牢地神を祀る目的
は、土のパワーで様々な恩恵を受けるためです。大地の神とされ、土に関する恵をもた
らす神として祀られています。ルーツは平安時代以降始まった地蔵信仰の一形態となり
ます。堅牢地神は、その家の土地の守り神として存在し、五穀豊穣を叶える農業の神と
して信仰され、その信仰がさらに厚いものになったのは、江戸時代半ばの頃です。たび
たびの凶作飢饉にみまわらた人々は、堅牢地神に豊作を願うようになったそうです。

3つ目は、二十三夜塔(勢至菩薩陽刻)です。

宝暦3年(1753)に造立。蛇紋岩を成形し、前面を平面仕上げした上に、勢至菩薩が蓮座
の上に座り静かに合掌する姿です。頭上には、勢至を示す梵字「サク」が刻まれ、像の脇
には日天子・月天子の尊名と二十三夜の本尊に対する祈願文が彫られています。
ちょとここで勢至菩薩の説明を少し・・・勢至菩薩は、うま年生まれの人の守り神です。
阿弥陀三尊として祀られることがほとんどで、観音とともに脇侍を勤めています。
仏の智恵の光を持って、衆生が無知により地獄界・餓鬼界に落ちないように救う仕事をし
ています。「大勢」の衆生から苦を取り除く道に「至」らせるという意味です。

農道を通り次の場所へと向かいますます。

ここの景色が素敵で撮ってみました。北海道みたいじゃないですか?

次は、大徳寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を福聚山。本尊は、観世音菩薩。宮山の長安寺の末寺。
社寺明細帳には、「長安寺第八世の齢山和尚は、大徳寺の開山(創立者)にして、文禄5年
(1596)8月に没したと記録にあるのみで、創立の年月は不詳である」と書かれています。
この記録から天正年間(1573~1591)の創建ではないかと考えられています。

次に向かったのは、北小町堰を脇を通り水陸塔へ。

北小町堰の土手に水陸塔があります。

千葉県下で二例目の水陸塔です。寛延4年(1751)4月吉日の紀年銘があり、施主が当村中です。
塔は、2m近い大きさで地元の自然石を使って造られています。正面の上には、大きな月輪をあ
しらい、中に梵字で「ア」が表現されています。その下に、「仏法僧」と刻まれ、中央に「水陸
修会供養塔」の文字が彫られています。一番下の部分には「虫」の字も確認できます。
水陸修会とは、「施餓鬼」を意味する言葉で、悪道に堕ちて飢えに苦しむ、水陸の餓鬼に飲食物
を施すことを意味しています。村中がみんな一緒に施餓鬼の法要を行った事がわかります。
下に虫の字があることで、虫供養も兼ねていたのかも知れません。
他にも「万難消除」「福寿延長」の祈願文が刻まれています。

次は、主基斎田跡へ。

主基斎田は、明治天皇の即位最初の新嘗祭である大嘗祭に斎田として選ばれた場所です。
大嘗祭に用いられる新穀はト定(ぼくじょう・・占いで定める事)され、悠紀(由基)と主基(次)
の2ヶ所の斎田から献上されます。明治4年の大嘗祭悠紀斎田が甲斐国巨摩郡に、主基斎田は安房
国長狭郡北小町村字仲ノ坪にト定されました。村では斎田周辺には青竹を立てた、注連縄を張り、
垣をめぐらせて厳重に囲いました。また、隣地には八神殿、稲実殿などを設け、番屋で花房藩の役
人が警備しました。大嘗祭に先立ち神祇省から抜穂使ら8人が多くの従者を従えて訪れ、抜穂式は
厳かに行われました。現在はその栄誉を記念して碑が建立され、主基斎田址公園として整備されて
います。中には、お米のオブジェがありました。

ちゃんと精米したお米の形をしています。

この周辺の地名は、明治2年に北小町村を含む5ヶ村の合併の際に大嘗祭にちなみ由基村とされ、
大正4年に主基村と改称されました。
後の昭和56年、明治神宮の大祭を機に、地域の人々から主基斎田の誇りを次世代に伝えていく
為、また、大切に守り保つために力を入れていこうという声から「鴨川市明治神宮崇敬講」が発足し、
毎年、神にその年の新穀を捧げ豊穣を感謝する祭りとして11月23日に行われる明治神宮の新嘗祭
に、主基斎田で収穫した新穀と、その米で造った白酒(亀田酒造)を奉納しています。仕込式には、
明治神宮宮司をはじめ、関係官庁、地元有力者によって行われます。亀田酒造は、明治神宮献上酒指
定蔵になっていて、献上は末代までの指定となっているそうです。

次は、長泉寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を南谷山。長安寺の末寺で、本尊は薬師如来。もとは寺内の薬師堂の本尊で
あったと言います。寺伝によれば、天文9年(1540)5月に、佐久間豊後守時春という人物が創建
したといいますが、宗派は明らかではありません。時春のひ孫に当たる仙室宗鶴が、長泉寺の住職
を勤めた時に、曹洞宗に改修して長安寺の末寺になったと伝えられています。明治7年(1874)9月、
北小町小学校が開校した時、長泉寺が仮校舎として使用されました。
当日は、ご住職がいらしたので、お参りさせていただき、お寺の紹介もしていただきました。
ありがとうございます。

次は、熊野神社へ。

熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の祭神を勧請した神社です。
熊野本宮大社の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)・熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)
・熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと)。熊野速玉大社は、熊野速玉大神(かまのはやたまのおお
かみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)。熊野那智大社は、熊野権現を主祭神としています。
境内には、明治38年の三山碑(月山・羽黒山・湯殿山)があり、また、境内下には、右から嘉永6年
(1853)・天保9年(1838)・文政3年(1820)の三山碑があります。

最後は、古代蓮の里へ。
大賀ハスは、千葉市の東京大学農学部検見川厚生農場で昭和26年に発掘された約2000年前のハスの実
から発芽、開花した古代ハスです。発芽を成功させたハス博士の大賀一郎氏の姓をとって「大賀ハス」と
命名されました。北小町の大賀ハスは、市内の篤志家が種を自宅で育て、水田に移植して一般公開したも
のを、平成22年に水田ごと鴨川市に寄贈しました。


まだこんな感じですが、今年も綺麗にさいてくれるといいですね。

あとは、駐車場に戻り、終了です。今回のコースでは、鴨川市石造物百選の4つを見る事ができました。
当倶楽部のウォーキングツアーでは、36制覇できました。
6月のお散歩ツアーでは、3つを見学しに行きます。

月イチツアー「林道の八重桜のトンネルでリフレッシュ」報告

GWはいかがお過ごしだったでしょうか?天候的には、お出かけ日和があったりと、房総半島は、
他県ナンバーの車も多く見かけられました。

そんなGWの初日に、月イチツアー「林道の八重桜のトンネルでリフレッシュ」を開催しました。
天候にも恵まれ、日差しが温かいので歩いていると暑い位でしたが、風はまだちょっとひんやりと
していました。

集合場所は、南房総市の三芳エリアにある正林寺さんです。今回は、お寺さんの駐車場をお借りし
ました。駐車場の所や正林寺さんの所には、八重桜の木が植えられていますが、今年は、桜の開花
が早かったせいで、ツアー当日は、桜がほぼ終わってしまいました。

下見の時は、こんな感じでした。

正林寺のご説明を・・・

浄土宗の寺院で、山号は三峰山。本尊は木造の弥陀三尊像で、中尊の阿弥陀如来座像は、寺伝によ
ると恵心僧都(942~1017)作とされています。寺は応永年間(1394~1427)に開山と伝えられ、当初
は、本織(現三芳中学校)にあったそうです。その後、現在地の海老敷に移り、天保8年(1837)の
火災や、震災などを経て、現在の本堂は大正15年に再建されたものです。

正林寺の境内は、素敵な空間がありお寺のアミューズメントパークみたいな場所があります。
山門から階段を上がった所に「安心羅漢堂」があります。

ここには、粘土造りの羅漢像を千体納めてあります。この羅漢像はご住職がお造りになったそうです。

お堂の前には、「身代わり地蔵」があります。

他にも「水かけ蛙」

「河童池」

河童の頭に入れものがあって、ここにお賽銭を投げチャリンと音がすれば幸福ありとの事なので、
下見の時も、ツアー当日もチャレンジしてみましたが・・・また訪れてません。

さて、気を取り直して、墓地を抜け、次の見学場所の無量院へと向かいます。

本当に新緑の綺麗な日です。

無量院です。

浄土宗の寺院で、本尊は十一面観音です。寺伝によると、円光大師(法然上人)25霊場の第11番
の寺院といわれ、寛永年間の開基、承応3年(1654)の開山にして、天保14年(1843)に焼失してしま
い、同15年に再建したといいます。

次に向かったのは、天満神社です。

山下地区の鎮守で、祭神は藤原道真。天明5年(1785)に創建されたと伝えられています。
参道並び境内には、庚申塔や古峰神社祠などがあります。

林道へ向かう途中、立派な如意輪観音様が祀られてました。

ツアー当日、こちらの地区の方から少しお話しをお聞きしまして・・・
この如意輪観音は、安産をお願いするものだそうです。入口に筒状に作られた袋がぶら下がって
います。

次はいよいよ、林道増間・御門線を登っていきます。
林道増間・御門線は、昭和61年から8年あまりの年月をかけて整備されました。林道を作るために
山肌を掘削した際の残土を捨てた場所に、桜をうえようと地元の発案で千葉県から苗木の提供を受け
ました。また、地元有志が苗木を購入して植えました。八重桜のほかにソメイヨシノ・ウコンサクラ
等があります。

写真は下見の時のものですが、時期があえば八重桜を楽しむ事ができます。

ちなみに、ツアー当日はフジの花が咲いていました。

3㎞近く林道の坂道を上がって行くと、二反森という場所に着きます。今回はここで昼食です。
昼食の後は、1㎞先に行くと富士山が見えるポイントになるんですが、そこへ行きます。ですが・・
この時期は霞んでしまって見る事ができませんでした。
二反森の場所に引き返し、そこから林道上滝田大学口線へと入っていき、海老敷の金毘羅山へと
目指していきます。

海老敷金比羅山の標高は、208.5mです。
景色はこんな感じです。

頂上には、琴平神社が祀られています。

金比羅様を祀る石宮があり、境内はあたかも城郭のようで、入口は虎口の形をしていて、他に例を
見ない造りになっています。祭神は、大物主命です。社伝によると、天明3年(1783)創立、慶応元
年(1865)再建したといいます。

林道を下っていき、途中にある甚平様をへと向かいます。
林道から外れて行くので、ちょっと危険な場所にあります。イノシシ用?のくくり罠が仕掛けてあり
ました。

この石像は、昔から山下区の人々に、親しまれ「甚平様」として崇められていました。
しかし、この石像は何の石像なのかあらわすものが分からなったのですが、昭和58年
、三芳村史編さん委員の調査の結果、「役ノ行者」であることがわかりました。
作られた時代や作者は不明ですが、房州産の凝灰岩質の砂岩を使用し精巧につくられて
います。

後は、出発地点の正林寺へと戻ります。
少しだけ、下見の時に撮りました桜の写真を・・・

ツアー当日は、まだ八重桜が咲いていると予想していたのですが、今年は早かったので
桜を楽しむ事ができませんでした。残念です。