10月の月イチツアーは、「磯浜古道を歩く(千倉編)」でした。
大地震と津波が大きく地形を変え、隆起した土地は人々を結ぶ古道になり、
豊かな実りをもたらす田畑に変わりました。今回のツアーは、大昔の海岸線
などを確認しながら歩いて行きました。
出発は、高家神社です。
日本で唯一、料理の神様をまるつ神社です。祭神は、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)
及び天照皇大神・稲荷大神です。「庖丁式」は、料理人が庖丁と箸を用いて手を触れずに調理
する、平安時代の宮中行事を再現した儀式です。庖丁式が開催される時には、多くの方が見学
に来られます。
次に、圓蔵院に。
真義真言宗智山派のお寺で、本尊は地蔵菩薩です。圓蔵院は安房三巨刹の一寺として、南房総
市三芳の宝珠院の次席に位置し、末寺53ケ寺を傘下におさていたそうです。
圓蔵院本堂の手前に、約60基の歴代住職の墓碑と寄贈された弘法大師坐像などがあり、
年代毎の墓碑の造りや意匠に特徴があります。正面左の奥にある40世「智導」の墓碑は
宮彫師後藤義光が金剛杵をデザインしたもので、塔身中心を貫いているのが独鈷杵(祈る
人と仏が一体)で、上下に三鈷杵(祈人の行、言葉、心の三業が仏の三蜜に通じる)を形
取り、台座には羯磨(金剛杵をクロス)で飾っています。
本堂には、本堂は100畳におよぶ広さで寄棟造り。屋根は創建当時は茅葺でした。寺伝によ
ると享和3年(1803)頃からの再建とされ、朝夷郡の壇林であったことから修行道場の造り
になっていて、禅宗らしい炎のデザインの火灯窓風の戸袋があります。天保14年(1843)~
安政時代かけて大玄関・客殿・回廊・庫裡が建立されました。本堂正面の欄間には、「王夫
人と竜」は後藤義光45歳(安政6年(1859))、釈迦如来像は70歳(明治17年(1884))、
扁額は71歳(明治18年(1886))の作品があります。また、市指定文化財の経蔵篋は板彫
りの木彫りで12天が見事な立体感で彫られています。これは2代目義光の作。
ツアー当日は、お寺の方のご厚意で本堂の中に入れていただき、お話しを聞かせていただき
ました。
次に、七浦稲荷神社と平舘稲荷神社へ。
2社とも同じような場所に建っています。平舘稲荷神社は、京の伏見稲荷より名戸川の地に
勧請したものです。戦後、平舘稲荷と改名しました。向拝の珠取り龍は、初代後藤義光83歳
の作品です。
農道を通って行くと、畑の所に大きな岩が見えてきます。
少し回ってみてみますと、なんと!
カエルのような形の岩が・・・これは、かぐら石と言われていて、大昔この地は雷神達が
暴れ回り人は住めませんでした。それを聞いた牛頭天王が、獅子とガマに能を演させて、
雷神を鎮めようとしましたが、雷神は聞き入れず大暴れしました。獅子とガマは能蔵院に
助けを求めて逃げようとしましたが、雷神達に石にされてしまったそうです。
隣りには、もう一つの岩のつぶて石。
つぶて石には怪力伝説が残されています。鎌倉幕府で権力者だった和田義盛は、謀略に
あい和田一族は滅亡してしまいましたが、一人生き延びた三男の和田三郎義秀(朝比奈
三郎)は安房に逃走しました。この石は、朝比奈山から投げた物と伝えられています。
少し歩くとまた、田んぼの中に岩が見えてきます。
この岩は、カエル岩と呼ばれています。微妙な感じですが・・・
徳蔵院前を通り能蔵院へ。
能蔵院は、真言宗智山派のお寺で、本尊は飯縄権現です。自伝によれば、1㎞ほど西の
岱山にあった「蓮台寺能蔵院」を天文20年(1551)に宗栄法印が現在地に再建したのが
始まりとされています。花のお寺としても有名です。
こちらでもご住職にお話しをしていただきました。(残念ながら、お弁当の受取りで
私はお話しを聞けなかったので・・・写真もありません)
ここで、お昼の時間になりました。小高い場所で、千倉の海を見ながらお弁当タイムです。
本日のお弁当は、千倉のお弁当屋さんにお願いして、海苔巻やお稲荷さんと野菜の煮物・
から揚げのセットです。かなりのボリュームがあり、食べるのに大変でしたが、美味しく
頂きました。食べ終わって気づいたのですが・・・写真を撮り忘れていました。
お腹もいっぱいになったので、午後からは忽戸薬師堂へ。
ここの薬師堂にも伝承が残っています。
昔、薬師如来像がぞうが浦(今の忽戸の境港のわき)に打ち上げられ、川づたいに上がって
永福寺のところまでやって来たところ、ご神体の入れた箱の扉がパッとあり、ご神体は大き
な松の木元で大きく光かがやき村を照らしたといいます。このご神体を祀ったのが今の薬師
堂です。ご利益あらたかで参拝人が多く、眼の神様としてあがめられたといいます。
なお忽戸という地名は、この時扉が忽ちあいたということから名づ けられたと忽戸区有古
文書にかかれています。
次に荒磯魚見根神社へ。
祭神は、天児屋根命です。宝暦年間(1751~1764)春日神社として創建、寛政4年
(1792)現社号に改めます。隣接地の八雲神社・熊野三社・八幡神社を昭和初期に合併
し合祀。荒磯の忽戸の鼻を見渡す魚見根公園の中腹に海上安全・大漁・岡満作の氏神として、
社名に相応しく鎮座しています。
7月には、三番叟が奉納されます。千倉の三番叟は、当忽戸地区と平磯地区にあり、昭和45年
1月30日に県無形民俗文化財に指定されました。この三番叟は、天下泰平・五穀豊穣を願い、
選ばれた少年たちが歌舞伎芝居を演じます。少年たちは上演前の15日間は家庭にいながらも別
火で調理した食事で精進し、練習を重ねるという古風な伝統を守っています。
近くのおじちゃんに話を聞いたところ、大昔、ここは港だったそうです。そんな面影がある
場所です。
次は、虚空蔵ほこら堂へ。
里見義堯の目代であった正木大膳高法が天文13年(1542)に大多喜城に向けて出陣する折に、
里見家から賜った「虚空蔵菩薩像」(文化年代作)を高徳院住職「源心」に預け、武運長久
を祈願するように依頼しました。その後、大勝を納め凱旋した大膳は、寺に虚空蔵菩薩像と
山号・院号を与えたと伝えられています。後に、夢のお告げにより虚空蔵をほこら堂に安置
したそうです。
御堂の向拝の龍・懸魚の彫刻は後藤福太郎作です。ちょっと蛍光灯が邪魔なんですが・・
次は鹿島神社です。
こちらには、要石があります。要石は、地震を鎮めているとされ、大部分が地中に埋まって
いる霊石です。
次に、高徳院へ。
真言宗智山派の寺院で、里見氏の六代里見義堯とゆかりのあるお寺さんです。。
高徳院を後にし、路線バスに乗り最後の見学場所、住吉寺へ。
住吉寺は、真言宗智山派のお寺です。境内に入ると正面が本堂になり、観音堂は左手の階段を
登ったところにあります。その昔は海中の岩上に御堂があって船で参拝していましたが、元禄
の大地震で海中が隆起し陸続きになったそうです。
観音堂の向拝は初代後藤利兵衛橘義光の作品で、義光が70歳の時(明治17年=1884年)に作ら
れています。安房国札観音霊場の27番札所として参詣の多いお寺です。
観音堂
あとは、徒歩で駐車場へ戻りました。南房総市の千倉町もいろいろな場所があり、面白いところ
です。早春には、花が咲き誇ります。1月の月イチツアーは千倉町の高塚不動へ行きます。