月イチツアー「鋸南保田を歩く」報告

新しい年になり、数日たってしましました。書いている私が、喪中の為、新年のご挨拶はご遠慮させていただきます。
昨年は、新型コロナウィルスで1年振り回され、昨年暮れから感染者数が大変な状況で、緊急事態宣言が出てしまいました。
安房地域も感染者が多く出てしまいましたので、仕事以外の不要不急の外出しないようにしたいと思います。

さて、昨年最後の月イチツアー「鋸南保田を歩く」を開催しましたので報告します。
出発場所は、道の駅「保田小学校」の第二駐車場からです。
最初に訪れたのは、鶴ケ浜八幡神社。

祭神は誉田別尊(応神天皇)創建は延元4年(1339)以前と推測されています。
棟札は、江戸時代初期の慶長11年(1606)、杉板製墨書で、頂部は山形、中世後期の特徴を備えています。町有形文化財に指定されています。

次に向かうのは、信福寺。

安房国札所第9番の寺院です。保田川から約400mのコンクリートの坂道をあがり、39段の階段を上るとお堂があります。結構キツイ坂道ですが、途中、木の間から見える富士山は素晴らしいです。
曹洞宗の寺院で、本尊は如意輪観世音。平安時代の天安年間(857~859)に、慈覚大師が草創したと言われています。戦国時代の弘治元年(1555)に野火の災いに遭い、寛文9年(1699)から同13年にかけて、観音堂を再興したといわれています。如意輪観音菩薩挫創は、延宝元年(1673)、京仏師を招いて再興したとのことです。御詠歌は「しんぷく寺、のぼりて岸を ながむれば ほたのかわせに たつは白波」です。
本尊の如意輪観音は、別名「子授け観音」と呼ばれ、かつては京浜地方からも参拝者がありました。また、約30km内の酪農家が競って参拝していたそうです。

観音堂の格天井には、県内で稀な「算木」の絵があります。

境内には、正和5年(1316)建立の、武蔵式板石塔婆が建てられています。(町有形文化財指定)

典型的な武蔵式(関東型)の梵字板碑で、頭部は山形、その下に二条線を刻み、身部の枠線内に大きく薬研彫によるキリーク(弥陀)、一段低く右にサ(観音)、左にサク(勢至)の両脇侍を配するもので、この弥陀3尊を蓮台上に刻んでいます。安房地方では珍しいものとされ、秩父産の緑泥片岩を加工して作られているため、青い色をしているのが特徴です。紀年は諸説に分かれますが、昭和43年夏、再鑑定の結果、碑の刑場から見て、鎌倉末期のもので、一応、正和5年(1316)丙辰と推定されました。鎌倉武士の信仰と深い関わりがあるとされています。残念ながら身部は二つに割れていますが、昭和53年にブロック製の鞘に納めて建て直しました。

また、境内には子を抱く高さ43cmの石仏もあります。

お堂下の木の間から富士山を見る事ができます。

山を下り、次は、存林寺へ向かいますが、途中、紫花山荘の説明を。(撮影中だったので、近くまで行けませんでした。)
(赤い屋根です。)
この地はかつて、相対性理論のアインシュタインの弟子であり、アララギ派の歌人であった石原純と美貌の女流歌人原阿佐緒が駆け落ちし、ここに新居を建てて暮らしたところです。
大正10年(1921)10月、保田神社前にあった旅館「松音楼」で半年自炊、大正11年5月に保田小学校裏山に新居「愛日荘(紫花山房=原が名付けた)」を建設しました。この二人の関係は、当時「恋愛事件」としてセンセーショナル的に新聞紙上をに賑わせました。しかし二人の生活は、日に日にギクシャクしたといわれ、昭和3年(1928)に原は、石原に無断で保田を去り、実感の宮床村(宮城県大和町宮床)に帰っていきました。7年間続いた石原と原の保田での生活は終わり、再び顔を合わすことはありませんでした。
現在は、別の片が土地を購入し、建物は昭和44年(1969)に取り壊され、新たに貸山荘を建て、その屋根には愛日荘の屋根瓦を使用しています。

次は、存林寺へ。

曹洞宗の寺院で本尊は釈迦牟尼仏。
元和7年(1621)4月、日本寺に属する院坊で修行した鶴庵存林上座が創立したと伝わっています。もとは鋸山西麓の寺坂にあり、天福寺と称しましたが、江戸初期の慶長15年(1610)現在地に移り亀福山存林寺に改称しました。寛政6年(1794)に火災に遭いましたが、同9年に本堂が再建するも、大正12年の大震災で崩壊、昭和42年、内陣を鉄筋コンクリート、屋根を銅板葺その他大改修しました。
法堂の格天井の墨絵「十六羅漢図」は往時のもので狩野派の筆法で、法堂須弥壇の彫刻は武志伊八郎信由作で、正面が「波と兎図」、両側面が「波と宝珠図」です。火災除けに験ありとされた波と兎の取り合わせで、本堂再建時のものだとすると、寛政9年、信由46歳の時の作です。

境内には、武田石翁の墓があります。

武田石翁は、江戸時代中期から後期の石仏・狛犬・根付の石工で、旧本織村に生まれ、元名村の石工の小瀧勘蔵に弟子入りし、見込まれて婿養子となりました。この墓も自ら彫ったものです。

次は、汐止橋へ。

汐止橋は、明治28年(1895)3月竣工、元名川に架設された橋長13.4m、橋幅3.7mで、地元保田石を使ったアーチ橋です。アーチの外壁石(スパンドレル部)は、方形に成形した大きな石を、目が横に通るように四重に積み上げており、スパンドレル部は布積みになっています。布積みは、水面に対して兵工に積まれますが、この橋は各切石がアーチリングに向かって斜めに積まれる珍しい方法で造られ、アーチリングの石は、直方体のように横長の石が用いられ、これらは非常に特徴的です。
平成21年(2009)11月1日、アーチを形成する切り石の積み方や形状が特徴で、技術・意匠の面も高いレベルであることや、使用されている石が地元産(房州石)など、地域性に優れているとして、土木学会から土木遺産に認定されました。

次は、鶴ヶ崎神社へ。

祭神は、譽田別命(応神天皇)。通称八幡神で、源氏の氏神でもあります。江戸時代初期に、元名村名主岩崎家が屋敷内に祀り、のちに村持ちになったと伝わっています。
御神体は、天明年間(1781~1788)大野英令が、伊豆石を用い、刀を帯び右手に弓を持った高さ60cmの彩色坐像です。

拝殿には、大絵馬源義経弓流し図があります。

桐板製、屋根形作り、縦137.5㎝、横166.5㎝。源平合戦中、屋島の戦いで、海中に乗り入れた馬上の源義経が、合戦中に落とした弓を鞭でかき寄せている義経弓流しの場面を描いた大絵馬です。義経の姿を見た家来が、「そんな弓は捨て置いて下さい」と言うと、義経は「私は弓が惜しくて拾っているのではない。この弓が敵方に渡り、こんなひ弱な弓が、源氏の総大将の弓か、と嘲笑されるのがいやで、かき集めているのだ」と言ったそうです。
この図は石仏師 大野英令の画です。大野英令は、上総桜井(木更津市)の名匠で、江戸後期の安永9年(1780)日本寺曹洞第9世の高雅愚伝禅師の発願によって、寛政10年(1798)の死に至るまで、門下と共に鋸山の羅漢像の造立に携わりました。
この大絵馬は英令最晩年の作であり、また現存する唯一の絵馬と考えられます。

海岸に出て昼食をとり、次は房州海水浴場発祥の碑へ。

夏目漱石が明治22年(1889)8月7日、満22歳の時に学友ら4人と房州を旅した際、保田に10日間滞在し水泳を楽しんだことを記念して昭和61年(1986)に建立しました。詩人西条八十も早稲田中学校時代に保田にたびたび避暑に訪れ、海水浴を楽しんだ浜であり、保田でお幸という少女に出会い、童謡「かなりや」を創作、大正7年(1981)に児童雑誌「赤い鳥」に発表。26歳の八十が世に出るきっかけになった名作、「唄をわすれたかなりや」は彼女がモデルといいます。

次は、別願院へ。

浄土宗の寺院で本尊は来迎院を結ぶ阿弥陀如来立像。通称浜の寺と言い、元和5年(1619)本郷村保田町の住人が霊巌上人に願って造立したと伝わっています。

境内には、菱川師宣の墓があります。

この地域では半檀家制があり、檀那寺は他寺であっても、墓はここに置く風習があり、菱川家もその例です。
菱川師宣の忌日は長い間不明でしたが、妹オカマの嫁ぎ先である勝善寺(南房総市二部)、江戸で葬儀が行われた浅草誓願寺の支院徳寿院、保田の菱川家の菩提寺である昌龍寺(鋸南保田)など関係寺院の過去帳の発見により、元禄7年(1694)6月4日、戒名「勝誉即友居士」と判明しました。江戸で没した師宣は、故郷保田の別願院に遺骨が移され、墓石が建てられたと思われますが、死後9年後に起こった元禄の大地震の大津波により房総沿岸は大打撃を受け、別願院も流失、当時の記録も墓石も失われてしまったそうです。現在の墓石は、白御影の墓碑は、昭和2年、東京の井上書店主らによって建てられ、中央の仏像型の墓碑は平成5年、師宣三百回忌に子孫の菱川岩吉氏らによって建てられました。
亡くなる直前の、元禄7年5月、親族の追善供養のため、別願院に梵鐘を寄進しました。残念ながらその梵鐘は、太平洋戦争の際、供出させられてしまいましたが、鐘楼跡の基壇は残っています。

また、元禄海嘯菩提地蔵尊があります。

元禄16年(1703)10月23日午前2時頃、房総半島沖を震源地とする大地震が発生しました。地震により発生した海嘯(津波)で、東京湾や九十九里海岸を始め、関東各地は甚大な被害を受けました。ここ保田地区でも、319人の方が亡くなられ、別願院に埋葬されました。この津波により、本堂が流失し、師宣を含む多くの墓石が海底に沈んだと伝えられています。津波罹災者追福の為、茅葺の地蔵堂が建てられましたが、これも流失や焼失が重なり、その後犠牲者を合祀した石仏地蔵となり、「元禄海嘯菩提地蔵尊」と名付けられました。現在のお地蔵様は、明治期に寄進されたものです。また、このお地蔵様は地元住民からは、霊験あらたかな「いぼとり地蔵さん」としても長い間親しまれています。

次にむかったのは、菱川師宣誕生地。

菱川師宣は、縫箔刺繍業の父吉左衛門と母オタマの間7人兄弟の第4子長男として誕生。正ねんは不詳ですが寛永中期(1630年頃)と推定されています。家業を手伝うかたわら、独学で画技を磨きました。その後、江戸に出て延宝~元禄初期(1673~1694)、版画絵師として活躍。当時は一部の人々しか鑑賞できなかった絵画を、木版画により広く庶民に普及させた事で評価されました。
また、庶民風俗を題材とした新しい絵画様式「浮世絵」を確立。師宣の描く美人画は、当時「菱川ようの吾妻おもかげ」と世にもてはやされました。
ちなみに、師宣の父は、京都から移住した縫箔師で、道茂入道光竹と号しました。師宣の長男諸房も浮世絵師です。

次は保田神社へ。

祭神は大和武尊。天文4年(1535)創始。
保田の海中から上がった神鏡を日本武尊の御霊として、桜の馬場と言われていたこの地に祀ったのが始まりと言われています。
古くは八所御霊宮としょうしましたが、明治になり保田神社と改称されました。

境内には、自衛隊空挺レンジャー部隊発祥の地碑があります。

昭和33年、この地で空挺レンジャー教育が開始されました。ここが、教育適地の中心地であったことや、当時の神社氏子が快く境内を提供したことによるそうです。碑は、平成5年に鋸南町・中道台区・レンジャー終了者有志によって建てられたものです。

道路は挟んで反対側の観音寺へ。

本尊は聖観世音菩薩です。
里見義実が安房一円を巡回の折、鋸山を展望し、霊山なるを知り、麓に一宇を建立した記念願を起こされ、文明3年(1471)6月17日義実結縁の為の祈願所として、ここに本尊として聖観世音菩薩を安置させました。この仏像は、新田義貞より譲り受けたもので、弘法大師の作と伝えれれています。その当時は真言宗の寺院でしたが、現在は曹洞宗昌竜寺の境外仏堂となりました。
第二次大戦のときは本堂が茅葺だったため、空襲の被害を避ける目的で解体、現在のお堂は昭和30年に新築され、令和元年の台風により甚大hな被害を受け、令和2年大規模修理が行われました。
堂内の象鼻と獅子鼻の彫刻は初代武志伊八郎の作品です。
観音寺は、安房国札観音霊場の番外札所になっていて、番外になった理由として、観音霊場決定の集まりに遅れたからという「朝寝の観音」伝説が伝えられています。

境内には、力士・雲ノ戸重右衛門という力士の墓があります。

享保年間の頃、この地で相撲の興業があったとき、力士・雲ノ戸が開いての滝見山に逆手で投げ殺されてしまいました。のちに雲ノ戸の息子・桂川力蔵が、苦心惨憺の末に滝見山を土俵の上で討ち果たし、仇討を遂げたといわれています。

崇徳院へ。

曹洞宗の寺院で本尊は聖観世音菩薩坐像。寛文元年(1661)に開創。昭和26年豊山和尚が郡内に先駆けて、魚供養の行事をし、以来、朝夕これに用いたアワビをたたいて供養したので、一時は「アワビの寺」と親しまれたといいます。
保田小学の始めでもあります。

西門は、房州石で造られたアーチ門があります。

なかなか風情のある門です。

次は、大行寺へ。

日蓮宗の寺院で、本尊は十界勧清の曼荼羅。応永16年(1409)11月に開基。
現在の本殿は、文政5年(1822)再建、昭和12年(1937)に庫裡を新築。同37年本堂を瓦葺に改修しました。
本堂の欄間の「波と龍」は天明13年(1783)武志伊八郎信由32歳の作です。

大行寺には、江戸時代後期の俳人小林一茶が訪れた寺でもあります。一茶はたびたび房総を訪れています。保田では、同門の元名村名主、岩崎善右衛門(俳号児石)のもとへ泊りましたが、文化9年(1811)児石が亡くなってからは、保田での宿は大行寺でした。文化12年11月29日と文化14年4月27日の2回、大行寺に泊まっています。この時、一茶は住職の願いで、直筆の短冊を大行寺に残しました。「身の上の鐘としりつつ夕涼み 一茶」これば故郷の信州で詠んだ句です。当時、一茶の句としてしられていた名句なので、この寺に残したものかもしれません。

小林一茶は、房総の門下の葛飾派の人たちをたずねて、鋸南にも多く訪ねてきています。元名の名主、岩崎児石や勝山の名主、醍醐新兵衛の家を訪ね、句会を開いたりしていました。日記によると、一茶はかなり好奇心が強かったようで、珍しい樹木が実をつけたという噂で見にでかけたり、鯨漁の見学をしたりしています。
存林寺には、文化11年(1814)10月8日に児石のお墓参りをしています。

最後は、日枝神社へ寄り、出発地点へともどります。

鋸南町保田地域は、道の駅保田小学校がお客詮でいっぱいですが、そこだけでなく、少し歩いてみると色々な歴史があります。是非、歩いてみて下さい。(緊急事態宣言が解除になったらですけど・・・)