お散歩ツアー「今なお信仰深い風早不動尊と鎌倉文化を伝える小網寺へ」報告

今年度もあと少しで終わりです。今年度は、色々な事がありました。台風被害で、団体のお客様のキャンセルがあったり、だいぶ落ち着いてきたと思った矢先に、新型コロナウィルスの発生だったりで・・・早く終息してもらいたい限りです。
まぁ~なんやかんやあっても自然の事?には敵いませんので、4月から新年度ですので、気持ちを新たに頑張って行きたいと思います。

さて、今年度最後のお散歩ツアー「今なお信仰深い風早不動尊と鎌倉文化を伝える小網寺へ」を開催しましたので、ご報告します。(ちょっとタイトルが長すぎですね(笑))

集合場所は、小網寺近くの空き地を貸してもらいそこから出発です。
小網寺へと続く道の途中に出羽三山碑郡があります。

西長田・出野尾・岡田の境にあるホウボウ山の裾野に出羽三山碑があります。他には、岡田地区の行者・吉五郎が西国・坂東・秩父の百観音霊場の巡拝記念に建てた、文政3年(1820)の百観音巡拝塔もあります。

少し上って行くと、下の堂という地蔵堂があります。その入口付近に弘法大師像があります。

文政7年(1824)に西国東秩父の百観音と四国八十八箇所の巡礼を記念して建てられたものです。

小網寺へといいたいところですが、小網寺は後にして、出野尾洞窟遺跡へと向かいます。

標高約25m~30mにある海食洞穴で、縄文時代の貝塚と古墳時代の人骨・土器片が確認されています。昭和29年(1949)、千葉大の教授の指導により、千葉県安房第一高等学校(現安房高等学校)郷土史研究部による発掘調査が行われました。その後、平成22年から、館山市教育員会と千葉大学文学部考古研究室が連携して再発掘調査が行われました。入口幅約4m、奥行き約7m。昭和の発掘時には、上層から古代時代の須恵器・土師器、下層から貝塚と縄文土器。平成の発掘時には、落盤と混貝層の間から縄文時代の前期末と、後期の土器ほか、黒曜石、イルカの骨、カキや二枚貝などが出ています。

次に向かいうのは風早不動尊。

天正18年(1590)2月29日に建立されたと伝えられている不動尊です。小さな滝の行場があり、大正頃には二階建ての行屋があったそうです。本堂向かって左手を流れる小さな滝の近くに、不動明王の利剣にかみつき飲み込もうとしている俱利伽羅竜王の石塔があります。この形は不動明王の象徴的に表しているものです。
お不動さまは、子宝・安産・良縁祈願の御利益があると言われ、遠くからも参拝に来られるそうです。初不動の際には、本堂にある犬のぬいぐるみをお借りして家に持ち帰り、願いがかなった時には新しい犬のぬいぐるみと2体一緒に納めるそうです。

ちなみに紅葉の時期には、こんな感じです。

イチョウの絨毯が敷き詰められています。

次は、三連の滝へ。(滝の本当の名前は不明です)

ちょっとなかなかいい雰囲気の滝です。人もあまり通らない場所なので、初夏とかいいかもしれません。でも蛇が出てくるかも?ですね。あとイノシシさんに会うかもしれません。

大日様へと向かいますが、滝の所からずっと登り坂になります。

大日様です。

文化9年(1812)と天保5年(1834)の出羽三山碑2基と地蔵尊2体、11基の馬頭観音があります。馬頭観音は昔、ゴミ処理場がある山にあったそうですが、開発によってここに移動してきたそうです。大日如来の石像があることから、地元ではここをお大日と呼んでいるそうです。

次に向かったのは、十三騎塚。
十三騎塚がある場所は、私有地になるので、当日は見学しませんでしたが、説明だけでも・・・

館山落城にまつわる里見氏の伝説が残る場所です。慶長19年(1614)9月9日に里見氏が徳川幕府によって館山を追われると、その4日後の9月13日に、家臣13人が近くの三ツ山で無念の自害をし、館山城が見える場所に葬られたと伝えられています。小さな塚がいくつかあったのそうですが、今は藪となって行く事ができないので、少し下がった入口に供養の場所がつくられています。

次は、小網寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。寺伝によると、和銅3年(710)に行基が創建したと伝えられています。かつては密教道場として隆盛しましたが、その後荒廃し、文明5年(1477)に再興しました。里見氏から15石、江戸時代は幕府から25石の寺領を与えられました。境内には、安房国札観音霊場の三十二番札所で聖観音菩薩が観音堂に祀られています。木造聖観音立像は、平安時代のものです。

本堂の向拝の彫刻は明治25年(1892)後藤義光の作です。

 
境内にある鐘楼のかかる梵鐘は、鎌倉時代の弘安9年(1286)の作で、国の指定文化財になっています。

この梵鐘は総高107.5㎝、口径62.1㎝で、三段組で鋳造されています。小網寺の旧名とされる「金剛山大荘厳寺」の銘や弘安9年(1286)に「金剛佛隆尊」を大願主、「矢作助定」「大田末延」が大檀那となり「大工大和権守物部國光」によって鋳造されたことなどが刻まれています。物部國光の作の梵鐘は、ほかに鎌倉市の円覚寺、横浜市称名寺・東漸寺にもあり、当代一流の鋳物師であったことが分ります。

他にも寺宝として鎌倉時代の密教法具21点があり、千葉県指定有形文化財になっています。
密教では、智恵の火により煩悩を焼くための護摩、密教伝授の灌頂等の儀式や法会が重んじられます。この法具類は、これらの儀式に用いられる器物で、五鈷鈴・五鈷杵・独鈷杵・金剛盤・花瓶・羯麿・輪宝・羯麿台・四橛・蓮華型柄香炉などがあります。いずれも鋳銅製で、鍍金が施されています。独鈷杵は室町時代の作で、他の法具の製作年代はいずれも鎌倉時代です。金剛盤・花瓶・羯麿台には「金沢審海」の銘が刻まれていて、この法具類が、横浜市金沢区にある称名寺を開いた妙性房審海にゆかりのあることを示しています。相模と安房との文化交流を考えるうえで貴重なものです。

次は、少し下がった所の、通称法華谷(ほっけやつ)へ。

2基のやぐらが並んでいます。左側のやぐらには、生井氏に浮彫された五輪塔が2基あり、南北朝時代に造られたようです。手間のやぐらには、文政11年(1828)に地元の人々が奉納した弘法大師像があり、両側には五輪塔が置かれています。伝説では、弘法大師が修行した場所とも言われていています。

あとは、出発地点へと戻ります。
無事にたどり着く事ができました。ありがとうございます。

来年度に向けてご参加いただける皆さんにお願いがあります。
当倶楽部の集合場所は、わかりづらい場所が多くあります。またトイレもなかったりします。いろいろご指摘がありますが、色々な所をご案内しようと心掛けておりまして、なかなか設備が整った場所からのスタートが少なくなっています。また、設備が整った場所での集合ですとご案内するエリアが絞られてしまい、同じ内容になってしまいます。その点ご理解いただきたいと思います。よろしくお願いします。

お散歩ツアー「滝口下立松原神社と鹿倉山」報告

3月になりました。春なのに・・・新型コロナウィルスでウキウキ気分も台無しですね。
色々と自粛していて楽しみにしていた事が無くなってしまった方とかもいらっしゃいますが・・・当倶楽部のウォーキングツアーも悩みましたが、館山・南房総では新型コロナウィルスが発生していない事、野外での活動、50名以下という事で、色々賛否もありますが、ウォーキングツアーを開催しました。

集合場所は、南房総市白浜町にある下立松原神社です。

祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。朝廷の命により、天富命が天日鷲命の孫・由布津主命とその他の神々と当地方開拓に上陸し、後に由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社です。いく度かの合祀が行われ、現在では祭神を19柱を数えています。武将の尊崇も厚く、源頼朝や里見義実など、太刀を奉納して武運長久を祈願しています。
本殿は明治初頭の再建、拝殿は元禄時代に建築された本殿を移したもので、ともに入母屋造です。8月1日例大祭があり、9月の八幡の祭りには神輿が出祭します。

下立松原神社では、神狩神事が毎年行われています。神狩神事は江戸時代(文化13年頃)から行われたとされています。「ミカリ」の由来は、由布津主命が天富命と一緒に安房に上陸し、農作物を荒らす猪や鹿を狩って退治し、住民を安堵させた神徳を慕い、今も神狩神事として旧暦11月26日夜から10日間にわたり行われています。期間中には、「サバシ参り」「イチノビ」「注連張り」「夜明かし祭」などが行われています。

注連張りの写真です。参道に注連縄を千鳥掛けに張ってあります。

参道脇には后神社があります。

阿波忌部の祖神天日鷲命の孫由布津主命の后で、房総を開拓した天富命の娘の飯長姫命(いいながひめのみこと)を祀っています。

下立松原神社を後にし、鹿倉山へと向かいます。
鹿倉山山頂への道は、2019年の台風で、大変な事になっていますが、ここを神狩神事の時には、宮司さんは登っていきます。

なかなかのアドベンチャーです。写真を撮ってる余裕がなく、この写真は頂いた写真を使わせて頂いてます。

やっとこさ頂上に到着です。頂上には、石宮があります。

石宮三社は、狩りをした神々だと言われています。

ここで、南房総の昔話より「曲田の小平」というお話しを紹介します。
大古から、輪の沖には大きな潮の道(黒潮)が、西から東へ流れています。神武天皇の時代に、その潮の流れに乗って現れた、数艘の独木舟の人たちが、安房の南の端に上陸しました。その人たちは、天神の子孫である天富命が率いた、四国の阿波忌部族の由布津主命たちだったのです。船から降りた命たちは、気候や景色が故郷に似ていいることを慶び、そこに住む家を建てると、野山を切り開き、粟や麻を植えました。しかし、鹿や猪が多く棲んでいて、せっかく育てた作物を荒らすので、それを防ぐのに一苦労でした。仕方なく、由布津主命は、村人の「曲田の小平」に案内させて、山狩りを行いましたが、その時、山頂に追い上げた大鹿が荒れ狂って、命の従者たちに傷を負わせたのです。「小平はいないか、早く来て大鹿を捕えてくれ。」命が大声で叫びますと、「おーおー」と小平は答えましたが、手にする狩りの道具は何もなかったので、急いで近くにあった藤の蔓を持って駆け付けました。命は弓と矢を取って首尾よく大鹿を退治し、多くの猪も捕えることができました。それから粟の平野には、粟が大きな穂を垂れ、麻は長く伸びましたので、村人は衣食に事欠くことは無くなったといいます。小平は皆に感謝されました。今も滝口の下立松原神社の「神狩神事」に鹿倉山から大声で、「曲田の小平やぁーい。」と呼びますと、5~600m離れた家から、小平が藤蔓を手に持ち、山を登ってくる厳しい姿が見られるという、言伝えがあります。

次に滝山薬師堂跡へ薬師巡礼道を通って向かいますが、今は人が通らないので荒れています。

右側に落ちたら、崖から川に一直線なところがあります。

滝山薬師堂跡です。

ここも台風の被害がり、薬師堂跡の碑がありましたが、木が覆いかぶさり見れなくなってしまいました。
前回行った時の写真です。このような碑が建てられています。

この場所に薬師堂がありました。現在、薬師像は、安房自然村にある薬師堂に祀られています。

次は、大門院へ。

大門院には、4つの南房総市の文化財があります。お堂内に見えていないものから説明します。
1つ目は、木造菩薩形坐像です。像高は53㎝。髻を結い、宝冠を載いて両肩を衣で覆う形式の像です。腹の前で結ぶ印相の上方がかけていますが、宝冠阿弥陀如来像として間違いないそうです。製作年代は11世紀半ば前後ととみられています。
2つ目は、本尊厨子の左右に安置されているのが木造天部形立像です。左手を振り上げる像と、左手は胸脇で持物を捧げる像があります。両像は法量や当初部材の状態から見て、一具の二天像(あるいは四天王像のうちの二躯)とみられます。保存状態はかなり悪いものの、本像は当初部の肉取ちに柔らかみがあり、腹部の膨らみや脇腹の引き締めも程よくまとめられています。製作は平安時代後期も11世紀あたりまで遡るとみられています。
3つ目は木造金剛力士立像です。

阿形像は像高165㎝。吽形像は像高161.8㎝。檜材の寄木造で、当初は玉眼を嵌入していたとみられます。両像とも動勢を抑えた太造りの姿形で、ほとんど腰を捻らず、足の踏み出しもわずかです。また阿形像にみられる忿怒相も怒りの表情が抑えられ、肉付き豊かな両像の上半身にしても誇張は少なく、多くの仁王像のように隆起した筋肉が瘤のようになる表現はみられません。製作は無漏真時代の前ごろと考えられています。

最後の4つ目は、木造僧形坐像です。

像高34.6㎝。頭部を円頂にあらわし、両肩をおおう衣を着て座る。両手は胸の前、衣の下で拱手しています。面貌などは不明ながら、特定の僧の肖像を表したとは見難く、その手勢や高く襟を立てるさまからみて僧形神像の形をしめるものと考えられます。朽損甚だしく、像容がはっきりしないため、制作年代の推定は困難ですが、頭部の幅広くゆったりとした曲面による構成、体躯の量感が控えめののことから平安時代後期、12世紀の作だと考えられます。

小さなお堂なのに、南房総市の文化財が多くあります。このエリアには、他にもお寺が1つ、お寺あった場所が1つあります。小さなエリアでも信仰が深かったのです。

あとは駐車場へと舗装された道を通ってかえります。
途中には、長尾城跡や、陣屋跡などがあります。

今は、菜花の畑が広がっています。
因みに、長尾藩は明治元年(1868)7月、本多氏が駿河藤枝から安房への転封を命じられ、軍事的な要害として白浜の長尾の地に城を建設しました。明治2年になると藩士の移住が本格的にはじまりましたが、地の利の悪さから藩士には不評でした。その夏に台風によって建設中の陣屋が倒壊したので、北条(館山市)への移転が進められ、長尾城建設は中止されました。
来年度のウォーキングツアーでは、北条の方を歩きます。

なんとか無事に下立松原神社へと着く事ができました。今回のこのコースは、1月に予定していましたが、雨が降ってしまい安全第一で延期としました。安全第一といいながら、世間では新型コロナウィルスで自粛という事になっていますが・・・
自然の中の空気を吸って、大地を踏みしめ免疫力アップしてきました。

今年度も、残すところあと1コースのお散歩ツアー「今もなお信仰深い風早不動と鎌倉文化を伝える小網寺へ」を3月19日(木)に開催します。是非、ご参加下さい。