月イチツアー「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」報告

寒かったり、暖かかったり、気温の差が大きくて体調を崩しそうな気候ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
新型コロナウィルスの感染状況により、色々と制限が出ていて困ったものです。

緊急事態宣言が出る前に、昨年予定していて、大風&雨で途中まで行ったコース「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」」を再度開催しました。本来ならば、1月にアップしているはずだったのですが・・・今見たら、アップされてなかったので、ビックリです。

昨年、報告した続きから今回は書いて行きます。
昨年の分は、↓をご覧ください。
月イチツアー「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」」報告

今年は、沼蓮寺さんも新型コロナウィルス感染対策としてご接待を中止されていましたが、その代わりにお札を頂けました。ありがとうございます。因みに、私は、今年も達磨を授かってきました。昨年は金運の黄色で、今年は万能の紫にしました。

沼蓮寺&八幡神社を後にして、次に向かったのは八雲神社です。

祭神は須佐之男命。創建年暦は不詳ですが、慶長19年(1614)に再建されたと伝えられています。社前には文化元年(1804)の石灯籠と文化5年(1822)の狛犬があります。厨子の象鼻・龍の彫物があり、龍の彫刻の裏には「彫工 長サ下打墨住 武志氏 信由作」の銘があります。明和7年(1770)頃の作です。

八雲神社から次の八幡神社に向かう途中、牛年だけに牛舎をみながら進んで行きますと、切割りの所に素敵な青面金剛があります。

安政7年の物です。

八幡神社です。

祭神は誉田別命。寛文元年(1661)、東条藩主西郷若狭守の時、神田として3畝歩免ぜられました。寛文3年(1663)に社殿を改築、正徳元年(1711)拝殿造営、享保2年(1717)本殿建立し、安永3年(1774)本殿内宮修築、慶応2年(1866)社殿改修、明治35年(1902)に修理、明治37年(1904)参籠殿改築と、修繕・改築などを繰り返し現在に至ります。
拝殿向拝の獅子の彫刻は後藤義光作で、左柱の獅子には「彫工後藤義光」、右柱の獅子には、「彫工後藤利兵衛橘義光」の銘があります。拝殿正面の社号額は、後藤喜三郎義信の作です。社殿内には、社宝として三番叟の面があり、かつて例祭日に三番叟の舞が奉納され、大勢の人でにぎわったといいます。

次は、和田氏屋敷跡へ

和田ヶ崎にある高台の畑をムカイヤシキといいます。和田一族の古い屋敷があったそうです。何十年か前に刀がでたことがあります。一画には通性の五輪塔があります。
豊田村誌には、大聖寺と和田氏の関係について書いてあります。「安政年間松平肥後守の代官石岡喜左衛門・赤塚常之助・三澤吉次郎等により永代護摩料を寄進す。抑々当山観音堂に安置せる胎中観音は和田義盛戦場に臨む毎に護身仏として身辺を離さざりしと云う二寸の金像なり。蓋し義盛戦利非ずして安房に来たり時齎す所ならん。且其常に愛用せしと云う盃及横笛を和田伊右衛門の家に伝ふ。外に和田を姓とするもの9戸あり。義盛後裔なりと称す。附近の和田﨑となづくる耕地より腐食せる太刀薙刀及古塔を発掘したることあり。今に和田一類にては畑にモロコシを植えず。植えれば必ず不祥ありとの口碑を信ずるによる。蓋し和田義盛北条氏と戦ひて一敗地に塗れ一族鎌倉諸越ヶ原に滅亡す。蜀沗(もろこし)、諸越両音相通ずるが故なるべし。」とあります。

次は大聖寺へ。

真言宗智山派の寺院で創建は明らかではないですが、和田助右衛門の開創と伝えられています。その後暦応3年(1340)悦翁誾和尚が再興し、享保6年(1721)四国の行者松岸道寿なる者が供養仏を勧請したと言われています。
年代は明らかではないのですが、境内地東方の山麓に本堂に相対して観音堂を新築し十一面観世音菩薩を祀りました。この本尊十一面観世音の胎中には、高さ5㎝ほどの小観音像が納められています。
和田一族は、かつて大聖寺の檀家であって、当山を護持してしていましたが、いかなる理由か今では全戸が離檀し、慈雲寺の檀家となっています。

少し和田義盛を紹介しますと・・・
相模の豪族、三浦義明の孫にあたり義宗の子です。三浦氏は、三浦半島和田に居住したことから和田の姓を名乗っていました。義盛は剛勇多力で弓の名人だったといいます。源頼朝が石橋山に兵をあげた時、頼朝に味方し畠山重忠と戦いましたが敗れ、夜陰に乗じて安房に逃れ岩糸に住んだといいます。頼朝の鎌倉幕府創設後は、数々の戦功により侍所別当の要職に就き権勢をふるっていました。頼朝の死後、建保元年(1213)陰謀があったとして一族が逮捕されたことから端を発し、同年5月蜂起し幕府にせまったが多勢に無勢、和田一族はついに敗北し、じりじり追い詰められ、鎌倉諸越が原にて全滅しました。(和田合戦)
現在、岩糸には和田姓を名乗る家が10軒ありますが、和田義盛の後裔であると称され、付近に小字「和田ヶ崎」の地名が現存しています。

観音堂跡地をみて、赤道?峠道?を通って次へ向かいます。

孝子高梨金右衛門碑です。
碑文は、恩田城山の撰によるものです。高さ275㎝ 幅64㎝。
簡単に説明しますと、金右衛門さんのお父さんは全身不随でした。金右衛門さんは農業と余暇の時に古銅鉄を行商していました。家業に出ている時にも父を思い途中より家に帰り安否を確認し再び家業に就くなど、お父さんに看病に尽くしていたそうです。時の領主から賞され、後に松平下総守からも夫婦の善行を賞されました。
孝子の碑は、安房地域に結構あるような気がします。

後は、出発地点へと戻ります。

緊急事態宣言により、1月の月イチツアーから2月までウォーキングツアーは中止しております。楽しみにしていただいた皆様には、申し訳ありません。倶楽部としても苦渋の選択でした。早く、良い方向になるといいです。