お散歩ツアー「白間津・花と民話の里散歩」報告

3月ですね。館山・南房総では、河津桜が終わりに近づいてきています。もうしばらくすると、
ソメイヨシノが咲き始めると思いますが、去年の城山公園の開花は3月の終わりでした。今年
はいつ開花するのでしょうか?

さて、お散歩ツアー「白間津・花と民話の里散歩・花と民話の里散歩」を開催しましたので、
報告します。南房総市千倉町にある白間津エリアは、お花の露地栽培で有名な地域です。
たぶんみなさんも、早春のパンフレットとかで御覧になられている方もいらっしゃると思い
ます。お花畑に色とりどりのストックや金盞花が咲いている写真を・・・

この写真は、数年前に撮ったものです。今年は、少し少ないようですが、昨年10月の台風で
ダメージがあったそうです。自然には、勝てないですね。

さて、出発は南房千倉大橋公園の駐車場から出発です。
まず最初に向かったのは、長尾神社。

主祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)。元の社殿は山腹にあり神域が狭く、山の絶壁
の下にあったため、時々崖が崩れ社殿が損傷していました。当時の区長で名主の宇山氏が、
宇山氏の屋敷跡を譲り受け大正元年(1912)に式典をあげ、大正3年(1914)新築、翌年9月
に完成しました。


向拝の龍は、三代後藤義光の作です。

境内には、神輿庫があり中には2基のお神輿が納められています。

写真はうまく撮れていません。すみません。
ここに納められている大神輿は、100年以上前に作られたもので、欄干の刺繍には、留め金
がなく、爪と尾だけで固定されています。

手水石もなかなの仕事をしていますが、作者は不明です。

次は、東澵寺へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を壽命山。鳥山確斉生家の菩提寺です。

鳥山確斎と言う人は、大川村・宇山孫兵衛の二男として文政2年(1819)に生まれ、兄と共に
大聖院の住職に師事しました。幼少より聡明だったのですが、8歳の時に落下してきた凧で
左目を傷つけてしまい、以後、家に籠る事が多くなり読書に明け暮れていましが、20歳の時
には江戸の東条一堂に入門し、儒学・漢学を学び、文武両道を志しました。31歳の時に京橋
に「蒼竜軒」と呼ぶ私塾を開き、兵学・漢学、儒学を教えます。33歳の頃、蒼竜軒で吉田松
陰・桂小五郎・梅田雲濱達と交流。吉田松陰は確斎を兄と慕っていたと言われています。志半
ばにして安政3年(1856)病により38歳で他界しました。

境内には、鳥山西鶴の百三十年祭記念碑が建てられています。

次は、民話にもあります黒星へ。

地元の人の話によりますと、昔は「黒星(くろぼし)」と呼んだそうですが、いつの頃かなま
って、今の名「黒星(ころぼし)」になったというのです。その岩は、二坪位の大きさで、一
見普通の岩と何ら異なるところのない岩ですが、大昔起きた大地震の時、高塚山から転げ落ち
たもののようです。黒星は西の方がえぐられ、空洞になっていますので、昔はその前に、よく
線香や飯や餅などを供える人がいました。でもその時、黒星に触ったり、黒星に寄りかかった
りする者は、一人もいませんでした。それは地元の人たちが、「黒星に触ってはならない。触
れば必ず祟りがある。」というタブーを信じていたからです。どうして黒星に触ってはいけな
いことになったのかは不明でうすが、恐らく、この岩が転落した時、多くの人が圧殺したため
ではないかと、想像されています。(南房総市の昔話より)

今では、岩の上になにか棒みたいなのが乗っかってますが・・・大丈夫なのでしょうか?

次の円正寺へと向かう途中の旧道に石仏群がありました。

ここにある子育て地蔵がチャーミングだったので、写真を撮ってきました。

ちょっとわかりづらいと思いますが、胸に抱きかかえている赤ちゃんが、暴れてのけぞっている
ように見えませんでしょうか?「元気な赤ちゃんに育ちますよに」という事なんでしょうかねぇ~
珍しいので紹介しておきました。

さて、細い路地を通り圓正寺へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を岩戸山といいます。
もとは、次に行く日枝神社の別当寺で神社の祭典が行われていました。現在でもまず仏前に「ササ
ラ踊り」を奉納してから、神社の祭典が行われています。

境内には、三界万霊塔があります。

天保12年(1841)から明治19年(1886)にかけての溺水者を弔う為の塔です。昔は海岸の周り地蔵
の近くにありましたが、現在の場所に移設したと言われています。

次は、すぐ裏の日枝神社へ。

祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。延喜元年(901)、第60代醍醐天皇の時代、岩戸大納言
義勝が京都より勧請して創建と伝わっています。4年ごとに開催される「白間津の大祭」が重要無形
民俗文化財「白間津のオオマチ行事」と指定されています。祭神は農業の神として昔より氏子の崇敬
が篤く、特に平安朝より伝承されたとする五穀豊穣の祈願、雨乞い「ささら祭」がササラ踊りとして
現在の「白間津の大祭」に繋がっています。

拝殿の高梁の親子龍の彫刻、拝殿柱の振返獅子、象鼻などの彫刻は、安房の名工・初代後藤義光の作
で、義光の作品でも稀に見る傑作として知られています。

写真は上手く撮れてないので、実際にお参りに行って見て下さい。

次は、三ツ山地蔵尊へ。

三ツ山とは、三つの小山を一緒して呼ぶ名です。三つの山は昔から信仰の山で、今回は国道の方
から入って行ったので、左側の階段を上ると愛宕大明神(愛宕様)、右側を登って行くと権現様
があります。この権現様は昔は稲荷様とつながっていたのですが、国道により分断されてしました。
国道を渡り旧道の所を入ると稲荷大明神(稲荷様)があります。

左:愛宕大明神  右:権現様

海岸線から見る地蔵大菩薩を祀るお堂。

三ツ山地蔵尊のお話しを・・・
約1200年前の寒い冬のある日、白間津村の孝行息子が盲目の父親にアワビを食べさせたいと、
母が止めたのにも関わらず、磯に出て行きました。なかなか帰って来ないので、探しに行く
と両手にアワビを握ったまま海に沈んでいました。安房国を巡錫していた弘法大師が、この
海難事故を哀れんで、冥福を祈り、この様な惨事が二度と起こらないように、海上守護の地
蔵菩薩像を三ツ山の岩に彫刻し護摩修行をしました。三ツ山地蔵の霊験はあらたかで、今も
近隣の漁民や農民の厚い信仰を集めています。(南房総市の昔話より)

今回は、中を見る事ができませんでした。残念です。

もう1つこの三ツ山に昔話が伝わっているので紹介します。
昔、この三ツ山周辺は真間の原といい、昔から悪い古狐が住んでいたといいます。なにしろ
十九町ほどの間、家が一軒もない淋しい原だったからです。その古狐は夜になると、人里ま
で現れて人を化かしたり、脅かしたりしたので、困った里人たちは、これは古狐が棲むのに、
ふさわしい家がないからだと考え、三ツ山へ稲荷さまを建てることにしました。
やがて、稲荷様は立派に出来上がりましたが、それでも暫くは、古狐の悪さは止みませんで
した。ところが、三ツ山の稲荷様のお蔭かどうか分かりませんが、ある時から古狐の悪さが、
ぱったり無くなり、自然と古狐の噂も里人の口から消えようとしたときでした。ある夜、あ
る家の老婆の夢枕に真間の古狐が立ち、「ながいこと悪戯をしましたが、私は今、三ツ山地
蔵のかたわらの草むらに埋まっています。可哀想だと思ったら、どうかわたしの骨を掘り起
こし、三ツ山稲荷に祀って下さい。」と告げたのです。老婆から夢のお告げを聞いた里人た
ちは、死んだ古狐を可哀想に思い、三ツ山地蔵のかたわらの草むらを掘ってみると、老婆の
夢枕に古狐が告げたとおり、狐の骨が出ましたので、その骨を拾い上げ、三ツ山の稲荷様に
納め、厚く供養してやりました。その後には、真間の原に悪い狐は棲まなくなったどうです。
(南房総市の昔話より)

さて、ここらか海岸線を通り駐車場まで戻ります。曇り空、強風でしたが、なかなか見どころ
満載のウォーキングでした。題名にもありますが、この地域は昔のお話しが多く残っています。
あともう1つだけ民話を紹介します。
手長婆(てながばば)というお話しです。
千倉町白間津地区の氏神に近い山腹に、「手長婆の洞(ほら)」と呼ばれる2つの洞穴があり
ます。 昔むかし、その洞穴に手の長い一人の婆が住んでいました。里人たちは、その婆を手
長婆と呼んでいましたが、婆あどこの生まれか、どんな気性な者なのか誰も知りませんでした。
なぜかと言えば、婆の手がたいそう長くて気味が悪い上に、顔が鬼婆のように怖いので、誰も
恐れて付き合わなかったからです。そのため、婆はまったく一人ぼっちでした。話相手は一人
もなく、朝夕暗い洞穴に棲んでいるのでした。その婆の唯一の慰みは磯物を捕ることでした。
捕るといっても浜へ出てではなく、洞穴に座ったまま、里越しに長い手を伸ばして磯物を捕ま
えるのです。大川と白間津の境辺りの浜はいつも婆が手を伸ばすところでした。手長婆は随分
長生きをしたようですが、しかしいつ死んだのか、またどうして死んだのか、少しも分かり
ません。今、その婆が住んでいた洞穴を訪ねて、その内部を掘りますと、アワビやサザエなど
の貝殻がたくさんでてくすようですよ。(南房総市の昔話より)

民話にお付き合いいただきありがとうございます。最近では、民話を聞く事が少なくなってきて
いますので、ちょこちょこガイドの独り言で、民話を紹介していきます。

次回は、月イチウォーキング「大人の遠足」です。お待ちしております。

月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地を巡る」報告

花粉の季節が本格的にやって来ました。房総半島の南部にいると、私の場合1月位から
花粉症の症状が出始めるんですよねぇ~。風邪も流行ってくるので、1月からマスクは
必需品なのですが、歩いているとどうもマスクが嫌で・・・外してしまうと、帰ってか
らが大変なことになります。杉山が多いので、早く、花粉の飛ばない時期になって欲し
いものです。

そんな中、2月月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地巡り」を開催しました。
当日は、朝寒かったのですが、天候にも恵まれて丁度良い気温になりました。

出発地点は、南房総市花園にある駐車場から。
まず最初に向かったのは、鴨川市江見にあります真門観音堂。

真門観音堂は、十一面観音菩薩を祀る小さなお堂です。向拝には肉厚な龍の彫刻があり、
獅子は、火炎に振り向いた姿をしています。

この彫刻には、「安房国彫工 後藤利兵衛橘義光」と刻銘がします。年代は刻まれてい
ないので不明です。

次は、鴨川市から南房総市に戻り諏訪神社へ。
諏訪神社の鳥居の手前に今回の題目に入っている子(ね)の姫を祀った社があります。

子(ね)の姫の民話をお話します。
遠い鎌倉時代のある日、今の和田の浜辺に一隻の舟が打ち上げられました。村人たちが駆け
寄ってみますと、たいそう驚きました。その舟には、一枝の黄色い花の花木を握りしめた、
美しい姫が倒れていたのです。村人たちは姫を村に連れて帰り、小さな庵を用意して手厚く
看護し、黄色い花の花木は、庵の庭に挿しておきました。その姫は誰だったかといいますと、
実は花園天皇の皇女・子の姫だったのです。そのころ、都では天皇の位をめぐり、よく争い
が起きましたので、花園天皇が子の姫を守るため、舟で淡路島に逃れさせたのですが、舟は
激しい風と潮で大平洋に押し出され、幾日も東東へ流され、安房の和田の浜辺へ打ち上げら
れたのです。助けられた子の姫は村人たちと仲良しになり、文字や歌を教えましたので、皆
に慕われましたが、佳人薄命です。間もなく心労のためか病にかかり、静かに息を引き取り
ました。村人はたいそう悲しみ、子の姫の住んでいた庵の跡に社を建てて子の姫の霊をお祀
りすると、庵の庭で大きく育った黄色の花の花木を分けあって植え、春になると、村全体が
黄色く染まるほどにしました。やがて村人たていは、子の姫が舟で打ち上げられた浜の地を、
子の姫の持っていた黄色い花の花木に因み「木花(ぼっけ)」。そして、助けた子の姫が花
園天皇の皇女であったことから、自分たちの住む村を、「花園」と呼ぶようになりました。
(南房総市の昔話より)

この木が黄色い花の花木と言われているものです。

まだまだ咲いていませんが、6月~7月に黄色い花を咲くそうです。

次は、諏訪神社へ。

祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
詳細等は不明です。

次は、抱湖園へと向かいます。
途中、面白い置き物や元朝桜があります。

抱湖園周辺は、元朝桜多くあり見頃が少し遅かったのですが、まだ多くは咲いていて、
桜を見ながら歩く事ができました。

階段を上がって抱湖園へ。

本来は農業用水のために自然貯水されたいた堰です。小高い山の中腹のため眺望に恵まれ、
地主の間宮七郎平が堰の周りに緋寒桜を植えました。その後区民が手入れをし美しい花を
咲かせています。元日の朝咲くので元朝桜と言われ今では桜の名所になっています。

南房総市和田町は花作りが盛んな地域ですが、どうして花作りが始まったというと、間宮七
朗平によるものです。間宮七郎平は、明治26年(1893)の生まれで、当時、このあたりは貧
しく、冬場は男が出稼ぎに行くのが普通でした。七郎平は勉強が好きで、24歳の時、薬剤
師になる勉強に取り組み、薬草の研究や栽培をしているうちに、鑑賞用の花の需要がある事
に気付いたのです。そして大正9年(1920)から花園で花作りを始めました。農家の人たち
から、花が生活の糧になるかと笑われ、中傷もありましたが、それでも自分を理解し支えて
くれた、妻の死の悲しみも乗り越え、熱心に花作りを続けました。やがて、七郎平の熱心さ
は、農業を営む多くの人たちの心を動かし、花作りが広まり、大正12年(1923)には、和田
地区に花組合ができました。初代組合長になった七郎平は、花の共同出荷を始め、東北地方
の市場開拓や、また鉄道省に働きかけ、花列車を出して貰うなど、南房総の花組合のために
尽力を尽くしました間宮七郎平によるものです。

抱湖園から山に登り、はなぞの広場を目指します。

今日は、はなぞの広場で昼食です。

今回は、道の駅和田浦のWA・O!にあるお食事処の南美舎(みなみや)さんにお願いしたお弁当
です。いつもは、直ぐに食べ始めるのですが、今回はちゃんと写真を撮ってみました。
その後、美味しくいただきました。

お腹がいっぱいになったところで、黒滝へと向かいます。

黒滝です。

長者川の中流にあり、高さ15m、幅は約2m、正面岩肌から垂直落下する滝です。 
少し水量がすくないのですが・・・・

この滝つぼ右上の所に、向西坊が入定した岩窟があります。

享保17年(1732)に「予を念ずれば火難諸災難を除き、家内安全五福寿を増長せしむと遺言し、
岩穴に自ら入定しました。入定して21日間最後の祈念を唱え生涯をおえました。53歳でした。

もう1つ滝側に似不動明王が祀られているほこらがあります。

次に向かいます。先ほど来た道を戻ります。

はなぞの広場から舗装された道をあるいて長香寺へとむかいます。l
途中には少し新しい双体道祖神や、虫供養塔がありました。

長香寺へ。

曹洞宗の寺院で、山号は花園山です。境内には、円玉石の向西坊供養塔が建てられて
います。

向西坊の事をお話しします。
向西坊は、名を元助といい、上州下秋間字館(現、群馬県安中市秋間)の百姓三右衛門の長男
に生まれました。幼くして母を失い、三右衛門は後妻をもらい、元助は養母に育てられました
が折り合いが悪く、14歳の時、家を飛び出してしまいました。少しのお金で、伊勢参宮を目
指しましたが、途中でお金が無くなり、道行く人の情けにすがっていたので、縄張りを荒らす
と付近の乞食共にいじめられていたところへ通りがかった、浅野内匠頭の代参で伊勢神宮に来
た片岡源五右衛門に助けられ、その下僕となって赤穂に連れられ、片岡の屋敷の下僕として下
働きをさせられました。元助は主人にその恩に報いたいと懸命に働き、その忠義は大石内蔵助
をも関心させられるほどでした。赤穂城明け渡し後、浪人となった片岡に仕え、片岡は元助を
伴って江戸へ下り、吉良への復讐の期を狙っていました。元禄15年(1702)12月13日討入
の前夜、突然片岡から解雇を申渡された元助は悲しさのあまり自殺しようとしました。片岡は
その忠心を認めて討入のことを話てくれましたが、そのお伴は許してくれませんでした。
四十七士は吉良邸に討ち入りして、本懐を遂げて切腹しました。元助は泉岳寺の墓前で泣きな
がら四十七士を手厚く弔い、生まれ故郷の秋間村へ帰り、出家して仏門に帰依し、名を「音外
坊」と名乗り四十七士と主君の浅野内匠頭夫婦の石像及び供養塔を造り始めました。近くの久
保観音堂にこもりながら、各地で托鉢・布施で石像建立の資金を集め、秋間の石工に彫らせた
石像を一体づつ岩戸山の岩壁まで担ぎ上げ、すべての石像が完成するまで20数年もの歳月を
要しました。その後「向西坊」と名を変えて全国を行脚しました。やがて房州和田浦長香寺に
足を止め、村人を済度し、その天命を知って、黒滝不動の側に岩を掘ってその中に入り、自ら
石蓋をし、「予念ずれば火難諸災難を除け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」と遺言し、
念仏鉦声裡に三七、二十一日間にて入定しました。享保17年9月30日享年53歳でした。

長文になってしまいました。まだお話しが続きますが・・・今回はこの辺にしておきます。

長香寺を後にして、スタート地点へと戻ります。
せっかく菜の花が綺麗に咲いていたので、集合写真を1枚撮ってみました。

無事に駐車場に到着です。天候にも恵まれ無事に帰ってきました。
館山・南房総は、もう春です。(寒い日もありますが・・・)是非、冬眠していた体を動かし
にきませんか?