月イチツアー「加茂坂から沓見の郷へ」報告

色々あった2020年もあと一ヶ月ちょっとで終わってしまいます。少し振り返ってみると・・・やはり新型コロナウィルスですかねぇ~感染者一日の数も増えたり減ったり・・・まもなく、インフルエンザもやってきます。どうなるのか心配です。少し体調が悪いなぁ~と思う時は、早めに休んでください。

10月の月イチツアーは「加茂坂から沓見の郷へ」を開催しましたので報告します。
集合は、南房総市の加茂神社。南房総市役所にお勤めの方にお願いしてお借りしました。ありがとうございます。
少し加茂坂についてお話ししておきます。
現在の国道128号線は、以前は館山から北条・府中(旧三芳村)を経て竹原を通り上加茂坂を越えて、古川から松田を経て鴨川方面に通じていましたが、加茂坂の坂道が悪路だったため、明治10年に最初の開鑿から13年に県道に認定されました。昭和28年には2級国道になり、昭和40年に道路法改正で国道に変更されました。
今回は、古い道を少し歩きに行きました。

まずは、弘法大師碑と水源分岐へ。
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弘法大師碑は、天保12年(1841)に念仏講中によって建てられたものです。
水源分岐は、大正12年(1923)の震災で溜池が決壊し、昭和17年~19年にかけて溜池改修・用水路の整備が行われました。昭和29年に暗渠排水、28年に灌漑排水の事業が行われ、32年に工事が終わりました。すぐそばに集乳所があり、あつめた牛乳はこの貯水池で冷やしていたそうです。

いよいよ加茂坂へむけて、長い登り坂を歩いて行きます。入口?には、地蔵尊や馬頭観音、題目塔があります。
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このお地蔵さんは、顔が岩に押しつぶされてしまっているみたいです。
題目塔は、近くに日運寺がある為、日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」と書かれています。
※日運寺・・・昔、勝栄坊と称する真言宗の小堂でしたが、文永元年(1246)、日蓮聖人が鎌倉より小湊に帰る途中、この堂の止宿した際、当時の堂主を説得し、日蓮宗に改宗したお寺です。
ここを日蓮聖人が通ったのかなぁ~なんて想像してしまいます。

少し歩くと鎌田台分岐点があります。

ここは、昔、稲村城や館山湾の眺望がとてもよかったそうです。里見氏の時代「天文の内乱」のとき、ここで稲村城方の兵が守備をしてたという伝承がある場所です。

さて、古道に突入します。

途中、戦時中に掘られた穴があります。
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昭和20年になると米軍の本土上陸が予測され、丸山にも本土防衛のため日本軍部隊が配備駐留するようになりました。米軍の上陸は南三原から千歳の海岸、平砂浦当たりを想定し、豊田・丸山方面に野戦・銃砲を配備し、山腹に地下壕が掘られました。
この穴はなにに使用したのか?「刺突爆雷」だったのではないかという話があります。
刺突爆雷は、ドイツで開発された対戦車炸薬と思われるもので、兵隊が穴に隠れて走ってきた戦車のキャタピラなどを目掛け、竹竿などの先に刺突爆雷をつけ、戦車に当てて破壊させるようにしたものです。
道幅も狭いし、戦車が通れるほどでもないし・・・無理っぽいのですが・・・本当はなんだったのでしょう?

落葉の道をずっと歩いていきますが、昨年の台風の影響や、人が入っていない事もあり、本来の道がわからなくなってしまっていて・・・山肌を斜めに降りて行きます。(第一回目の下見の際には、道がわからなくなってしまいましたが、2回目の下見の時に山のプロ案内してもらって道がわかりました)竹が茂っていて、道ではなくなっている場所もあります。あとは、猪に荒らされています。
少し歩くと舗装された道に出るとお地蔵さんがあります。
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地蔵尊は、寛政7年(1796)のものです。

次に、沓見大塚山へ。
標高約100m。山頂には沓見山三講の「浅間様」と左に「リョウゴ様」、右に「山神様」があります。
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「リョウゴ様」は竜宮様が訛ったもので、雨乞いの竜神を祀ったものと思われます。
入口右手に明治17年の手水鉢があり、水向けが瓢箪の形になっていて、珍しいものです。
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裏手には金毘羅宮もあります。
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山を下りて、迎接寺(こうしょうじ)へ向かいますが、途中、地蔵尊や牛頭観音、三山碑、大日様などがありますが、私有地の為今回は、見学をしませんでした。下に線香立てとかあるので、下で説明でした。
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迎接寺は、天台宗の寺院で、大光山蓮臺院迎接寺といいます。

本尊は、阿弥陀如来・勢至菩薩。寺伝によると、その昔、沓見村根方にあって、天沼山蓮光院光照寺と称し、仁寿2年(852)大阿闍梨顕秀法印の開基といいます。建保2年(1214)鎌倉幕府源実朝が軍用人夫を課してきましたが、応じることができなかったため、わずか5畝を残し、寺領を没収されていまいました。それから約450年間、廃寺同様荒れ果てた状態でしたが、享保17年(1732)、賢秀法印の時中興し現在に至ります。しかし、なぜか本尊が勧請されていなく、たまたま白子の浜辺に打ち上げられた仏像を本尊に迎え安置したと伝えられています。

その本尊は、寺領を没収された時、本尊と仁王は丸山川にすてられてしまいましたが、年月が経ち、本尊は白子浦に流れ着き、漁師に拾われ後、迎接寺の本尊として迎えらました。仁王は石堂寺に移されたという伝説があります。

境内に明治35年の孝女伊勢碑があります。
伊勢さんは、朝夷郡瀬戸村の渡辺五左衛門の次女としてうまれました。20歳の頃、沓見村吉野九右衛門に嫁ぎました。その後、凶作の年があり、たべるのに困る者も多かったそうです。夫の家はもともと貧しかったので生計は困難を極めました。そこで夫は江戸に出て家僕となり、伊勢は独り家を守り働きながら、しゅうととしゅうとめを介抱し天寿を終えさせることができました。夫は江戸に出たまま数年家に帰らず、素行修まらず、実兄等がその惨状を見るに忍びじ離縁して他に再婚しなさいといいましたが、伊勢は泣いて「かくまで私の身の上を思って下さる兄の真情は肝に銘じますが、私がこのような艱難辛苦に陥るのは定めで前世の宿縁でありましょう。今更、夫を見捨てて外に縁付くともこれに増され不孝を重ねるかも知れません。たとえ義絶されてもいったん嫁して縁付きたる家にて終えるころこそ本望です。」といいその志を動かさなかった。その後、夫は江戸において歩行も叶わなくなるほど梅毒を患し、家を出て十余年で家に帰ってきました。伊勢は甲斐甲斐しく看護に心を砕いていましたが、その効果はなく終わりになりました。相続する子が居なかったので、隣の加茂村六右衛門の次男九兵衛を養子に、丸本郷村彦右衛門の娘を嫁に迎え、一家心あわせ家運の挽回に努めましたが、その年の冬、養子の九衛門がかりそめの病につき、ついに不治の難病となってしまいました。一難去ってまた一難、しかし伊勢はこれにも屈せず嫁と共に看病しながら家業につとめました。安政2年秋、松平肥後守はこれを称して米五俵を賜うと伝えています。伊勢は、明治19年12月に亡くなりました、享年90歳でした。

伊勢さんは偉い人です。夫が梅毒にかかって帰って来ても看病できるなんて・・・調べた時にそう思ってしまいました。

こちらで、昼食休憩です。その後、迎接寺の境内にある秘密の場所へと向かいます。
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嘉永元年(1848)の三十三体供養塔・胎内巡りです。今回は、檀家さんに許可をもらい入らせていただきました。中は、天井が低く崩れている場所もあり懐中電灯を持っていないと入れませんが、めったにない場所です。外で待っている間、何匹ものコウモリが穴から飛び出してきました。コウモリさんお休みの所、失礼しました。

あとは、出発地点に戻ります。
途中には、吹代堰や地蔵尊があります。
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出発地点の賀茂神社へ。無事に帰ってきたので、お礼をしに・・・

賀茂神社。
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祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。和銅5年(712)創建といいます。雨乞い祈願の霊験があり、村人乱舞して感謝したと伝えられています。本殿は、現存する銘札から天正2年(1574)の造営とみられ、蟇股や斗供、妻飾り・軒まわりなどの
構成の室町時代末期の特色をよく残しています。本殿は、千葉県の有形文化財です。8月1・2日の八朔祭りには、県無形民俗文化財に指定されている「加茂の三番叟」と「加茂の花踊り」が奉納されます。

拝殿の横には、神紋の二葉葵があります。
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この時期は、二葉葵の花を見る事ができます。少し地味な花です。
二葉葵は、徳川家のいわゆる『葵の御紋』のモデルになったことでも知られています。ミツバアオイと言う植物は存在しないのです。
今回は、二葉葵が枯れて?なかったので、以前行った時の写真を使っています。

とい事で、今回の「加茂坂から沓見の郷へ」は無事終了しました。古道とか行くのは楽しいですが、昨年の台風の影響で樹々が倒れたりしていて、難しくなっています。あとイノシシにかなりぐちゃぐちゃにされています。その日に着て行った洋服は、家に帰ったらすぐに洗濯しないと、イノシシの匂いが付いてしまっています。イノシシに遭遇しないだけ良しとしましょう。