特別企画「戦国大名里見氏飛躍の拠点上総を訪ねる」報告

年1回のバスツアーは、里見氏安房国替400年という区切りのいい年に、里見氏の
企画しました。里見氏は10代に渡り170年間、安房を治めてきました。
そんな里見氏の歴史を少し触れる旅に出発してきました。

今回は、里見と言えば、館山の城山公園から出発します。
バスは、高速道路を使い竹岡ICを降り、百首城へ。
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造海城(つくろみじょう)ともいいます。築城時期は不明ですが、上総武田氏の三代で
真里谷初代当主にあたる真里谷武田信興のころ里見氏の北上を防ぐ目的でつくられたと
されています。天文6年(1537)に真里谷武田氏に内乱が起き、その後、里見氏の居城と
なりました。その後、里見氏と後北条氏との抗争が激化、天正年間には里見氏重臣:正
木淡路守の居城で、城下の百首湊は海関として機能しました。天正18年(1590)に廃城
となりましたが文化7年(1810)白河藩によって城址に砲台が築かれて幕末まで続いた。

百首城の次は、佐貫城へ。
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佐貫城は、真里谷武田氏によって築かれた平山城です。武田は鎌倉公方の内乱で里見
義堯に負け城を明け渡しました。その後、佐貫城は占領・争奪を繰り返し天文6年
(1537)以降、里見義弘が拠り、久留里城と共に真里谷氏及び後北条氏への最前線とし
て重要な役割をはたしました。

次は、三船山古戦場へ。
永禄10年(1567)に上総国君津郡三船台において、里見義弘と北条氏政の間で戦われ
た合戦です。ここは車窓から見学でした。

次は、四季の蔵でトイレタイム。お買い物終了後、久留里城へ。

久留里城に到着し、駐車場のとことにある、最近オープンしたての農家レストランで
食事を。お腹が減っていたので、料理の写真を撮らずに食べてしまいました。
メニューは、おにぎり小2個・天ぷら・煮しめ・ロールキャベツ・野菜少々。
天ぷら・煮しめの野菜が小さくて・・・男性には、物たりなかったかもです。

いよいよ久留里城へ登って行きます。
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二ノ丸まで登って行くと、久留里城址資料館の方に説明していただきました。
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久留里城は、16世紀中ごろに真里谷武田氏が上総を勢力下におき上の城を築城し
ました。その後、天文7年(1538)の第一次国府台合戦の敗北や内部抗争などで勢力
を弱めると、安房の里見義堯が上総へ進出し、現在の位置に新しく久留里城を築き、
後北条氏による関東支配が強まると、久留里城に本拠地を移しました。一度は、後北
条氏の手に落ちますが、再び里見氏を奪還します。天正5年(1577)に第7代里見義弘
は後北条氏と和睦、第8代義頼の時代には本拠地を安房岡本城へ移し、久留里城には
城番が置かれるようになりました。その後、第9代義康の時に、上総国の領土を没収
され、大須賀忠政や土屋忠直らが入城しました。一度廃城となり、寛保2年(1742)、
黒田直純が久留里城主となり、大規模な城の修築を行い、久留里藩は黒田氏の城下町
として栄え、幕末を迎えました。

学芸員さんのお話しを聞いたあと、資料館を見学し本丸へ。
本丸まで行く途中、男井戸・女井戸があります。
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伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧良弁(ろうべん)によって掘られ、
「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれたそうです。この場所に里見義堯が城を築くと、敵対す
る後北条氏が来襲しますが、この井戸により籠城にも耐えることが出来たそうです。
江戸時代になり、藩主の黒田直亨の頃から、藩士の結婚式の際に、新郎・新婦がこの水
を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われています。

本丸にある天守閣は、工事の人が入っていて足場を外す作業中でしたので、中には入れ
なかったので、手前で記念撮影をしてみました。
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その後、舗装した道を帰る人と尾根を帰る人とで分かれて駐車場へ。
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久留里城を後にし、正源寺へ。
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正源寺は、浄土宗のお寺です。鎌倉時代の徳治2年(1307)時宗の高僧他阿真教上人により、
上総の念仏根本道場として創建されました。
天文15年(1546)、里見義堯の母君の菩提寺となりました。聖観音立像は、別名を加勢観音
といい義堯の守護仏です。その由来は、義堯の夢の中に、全身を金色に輝かせた観音様が現れ
「義堯よ、油断するな。まもなく小田原より大敵が押し寄せる。兵糧の用意および要路を厳重
にしろ。心配するな。我も加勢する。」と告げました。その後、里見主力軍の留守をついた後
北条氏は大軍で久留里城へ攻めてきました。義堯は、夢に出てきた観音様のお告げに従い作戦
をとり、観音様を背負って戦を始めたところ、敵陣の矢は味方には一本も当らず、北条軍は負
走していったそうです。義堯が観音様に手を合わせると、観音様の背中に二本の矢が刺さって
いました。「おお、まさにこの観音様が加勢してくださったのだ」それ以来、この観音像を
「加勢観音」と呼ぶようになりました。義堯は再三、この観音様の瑞夢を受け、難なく数度の
戦いに勝利を得、帰依一層厚くなり、「このような霊験あらたかな観音像を、一人里見家だけ
が受けるのは仏の心に反する。」と母君の菩提寺であった正源寺境内に五間四面の堂を建て、
すべての人々に自由に参詣出来るように安置されたそうです。加勢観音の御開帳は、8月10日
です。

正源寺の後は、各自で久留里城下町を散策です。お酒を買う人や、最中を買う人など、短い
時間でしたが、城下町を楽しみました。
その後、館山へ帰りました。

天候は、雨がたまに降ったりしていました。久留里城は別名「雨城」ともいい、「久留里記」
によれば「城成就して、三日に一度づつ雨降る事二十一度なりしかば」とあるように築城の時
期に不思議に雨が続いたという伝説です。確かに、天守閣の修復が間もなく終わるので、その
伝説は本当なのだと・・・・また旅倶楽部のバスツアーは、伝説を体験したのかもしれません。

イベントツアー「吉保八幡神社流鏑馬神事」報告

ひと雨毎に秋が増してきています。
今回は、9月の終わりの日曜日に行われましたイベントツアー「吉保八幡神社流鏑馬神事」
の報告です。
吉保八幡神社は、鴨川市仲にある神社です。天長6年(829)に吉保郷の鎮守として宇佐八幡
を勧請し、文安年間(1444~1448)に里見氏の家臣緒方茂次が祈願所として再建したと伝え
られています。主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)・素戔命嗚尊(すさのおのみこと)
・天忍日命(あめのおしひのみこと)が祀られています。
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当日は、長狭学園から出発しました。稲刈りの終わった田んぼを見ながら歩いて行きます。
まずは、神明神社へ。祭神は、天照大御神。その昔、神明の松という大樹があり、その根本
に村人が祀った小社がありました。その松もやがて枯れ、文明元年(1469)、松があった場所
に大神宮の本社を造営、霊験あらたかであったので、後に拝殿を建立したと伝えられています。
近くには、河童明神が祀られているとこの事で、下見で探してみましたが、分からず・・・
しかし、近くにカッパの石像があります。
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続いて、善能院へ。本尊は阿弥陀如来。真言宗で、吉峰山と称し吉保八幡神社の別当寺です。
文安年中(1444~1448)に里見氏の家臣が創建したといわれています。
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農道を歩き、賀茂川の近くでお弁当の時間です。
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お弁当は、みんなみの里さんのお弁当です。「ウォーキングなので・・」とお願いしたら、
コンパクトにしてくれました。
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やはり、米どころなのでお米が美味しいです。

お腹もいっぱいになり、いよいよ神事に向かいます。まずは、禰宜殿へ。
禰宜殿は、「ねぎどん」と呼ばれています。初めて聞いた人は、「ねぎどんっておいしいの?」
なんて聞く人もいます。
この禰宜殿は、禰宜(騎射)が7日前から泊まり込み、潔斎に励みます。流鏑馬当日まで毎朝
4時に起床し、井戸水で水垢離、別火の生活をこの禰宜殿の送ります。流鏑馬当日は、出発前
に獅子舞が奉納されます。

獅子舞を見学後、亀田酒造の所へ。
ここには、屋台や山車・宮立ちが禰宜を待ちます。
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禰宜殿から神社に来る行列を見ずに、圓明院へ向かいます。
圓明院は、真言宗智山派のお寺です。天平勝宝5年(753)行基菩薩の開基と伝承されています。
境内のお地蔵様は、とてもいいお顔をしています。
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いよいよ吉保八幡神社へ到着です。今回は、本殿が見られるという事で、中に入らせても
らいました。中での解説は、鴨川ガイド協会さんです。
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解説が終わり、外へ。ここで解散し、流鏑馬神事を思い思いに見ていただくことに。
神事を待つ間、禰宜殿から到着しました。
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いよいよ流鏑馬神事が始まります。
この吉保八幡のやぶさめは、文永年間(1264~1275)に始まったといわれ、折り目正しい
典型的な流鏑馬でうす。120間の馬場を疾駆しながら、3つの的をめがけて矢を放ち、
それを3回繰り返し、五穀豊穣を祈願し稲作の豊凶を占うものです。
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今年も的に1本当たりました。よかったよかった。

月イチツアー「もののけの里・たたらを巡る」報告

10月に入り、秋らしくなってきました。大型台風が来て、各地では被害が出て
います。南房総でも停電があったり、農作物のハウスがやられたり、葉もの野菜
は塩害にあったり、被害もでております。

また旅倶楽部では、9月から月イチウォーキングツアーを復活しました。やはり
夏場のウォーキングは辛いので・・・
9月は「もののけの里・たたらを巡る」と題して、館山の船形エリアから小原エリア
富浦エリアを歩いてきましたので報告します。

9月の月イチツアーは天気にめぐまれ、暑い位でした。
館山市若潮ホールを出発し、川名金毘羅神社から千日堂を通り、海底地崩れ地層へ。
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こちらの道は、私道なので許可が必要です。今回は、お願いをして通らせてもらい
ました。推進1500~2000mの海底にあった地層が、200万年前の巨大地震
で、液状化した海底斜面が地すべり、分断、かき回された状態を残し、長い時間をか
けて隆起したものです。白浜グリーンラインで見れるものと同じ状態なので、見たい
方は、グリーンラインの方をご覧ください。

農道を通りながら、日枝神社へ。
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こちらの狛犬たちは、チャーミングな狛犬たちでした。
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次は、金気神社へ。
この神社は、養老2年(718)創建したと伝えられています。祭神は須佐之男命。
強風が吹き荒れて漁に出れなかった漁師が、祈願したところ翌日から海が凪いだそう
です。それ以来風の神様として知られるようになりました。
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木の間に、愛嬌のある石像があります。
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昼食を、金気神社ですませ、のどかな道を歩き、目の病にご利益があると評判の明眼
地蔵へ。ここの由来は不明ですが、近くに川が流れていて、昔処刑場に使われてた場所
だったので、供養塔が築かれていたらしいです。
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お地蔵さんの写真を撮ったところ、デジカメがお地蔵さんを顔認識し、目つぶり機能が
働いてしまって、ビックリしました。石仏を撮っていますが、今まで初めてです。

その後、御霊神社・船形用水跡を見学し、忍足佐内の碑へ
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佐内は、金尾谷村の名主です。江戸時代、徳川10大将軍家治の世であったの明和5年から
7年にかけて、旱害が日本を襲いました。毎年のように田植え前から日照りがつづき、稲が
実らず村人たちは大変苦しんでました。特に、金尾谷・白坂(共に現福澤)、小原(小原)
の村むらは、山田が多かったため被害がひどく、その上、奉行の稲葉重左衛門と代官の藤田
嘉内が悪い政治を行って重い税を課したので、村民たちの暮らしはどにもならないほど追い
つめられていました。金尾谷村の名主の佐内は正義感の強い人でしたので、村民を救うため
大和守の江戸屋敷に村民の困っている様子や、奉行たちの不正横暴を上訴したのです。
悪い政治を行っていたことがばれるのを恐れた奉行は、佐内を勝山(鋸南町)の牢獄へとじ
込められました。金尾谷村の万福寺の小僧祖淳は、以前佐内に情けをかけてもらい恩義を感
じていたので、なんとか佐内の命を助けようと、藩主酒井忠隣の菩提寺である芝の青松寺の
天徳和尚に嘆願書を出しました。この嘆願書が藩主の奥方の目に入り、奥方が寛大な処置を
とるよう伝えた為、佐内は無罪と決まりました。そして嘆願書が、藩主忠隣まで届き、自分
が大阪から戻るまで決して刑を行ってはならないと命じましたが、再び取り調べが行われれ
ば、自分達の悪事が露見すると考えた奉行らは、佐内を罪人を乗せる唐丸籠に乗せ、領内を
引き廻した後、白塚河原に連れていきました。無罪という言葉を信じて、村に返される佐内
を出迎えようとした村民たちが、様子が変だと騒ぎだすと、奉行は佐内を籠から引き出し、
「百姓たちを煽動し、徒党を組んだ罪で死罪」と書かれた書付を読み上げました。佐内は、
「徒党など組んでいない」と言いかけましたが、その時はもう奉行の刀が佐内の命を奪って
ました。奉行は、百姓達の報復を恐れて、逃げるように立ち去ったといいます。佐内44歳
でした。
近くに、地元では「砂かみ地蔵」と呼んでいる物があります。佐内の正義の訴えは凶刀によ
ってかき消され、佐内の首は川原で跳ね、無念さゆえに、胴体を離れた佐内の頭部は川原の
砂をかんだといいう言い伝えがあります。

佐内の碑を見学し、のどかな道を通り出発地点の若潮ホールへ。
天候にも恵まれ、久々のウォーキングでした。