大人の学習旅行編

また旅倶楽部のメンバー&常連さんとで和気あいあいと大人の学習旅行へ行ってきました。
本当は、2016年8月に行く予定だったのですが、台風の直撃にあい断念し、やっと2月
20日に行く事ができましたが、その日もTVでは「台風並みの強い風」と言っているじゃ
ないですかぁ~。朝からドキドキものでしがた、なんとか出発する事ができました。

前おきが長くなりましたが、今回の大人の学習旅行は「川崎大師とANA機体工場見学」。
朝のアクアラインは、規制がありましたが通る事ができましたが、すごい風でバスのドライバー
さんは大変だったと思います。海ほたるにトイレ休憩で寄りましたが、作業している方の
雰囲気が通行止めになりそうな感じでした。

そんなこんなで、川崎大師の駐車場へ無事到着、歩いて参拝に行きます。

真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺が正式名称です。本尊は厄除弘法大師。開創は大治3年(1128)。
崇徳天皇(在位1123~1142)の時代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により
生国尾張を追われ、諸国を放浪し、この川崎の知に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮ら
しを立てていました。ある夜、ひとりの高僧が兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、
わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁に人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを
供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられ
ました。兼乗は海に出て、光輝いている場所に網を投げますと、一躰の木像が引き揚げられ、ささ
やかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が
諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊いお像と、これにまつわる霊験奇譚に感泣し、
力をあわせて大治3年(1128)に一寺を建立しました。兼乗の姓、平間を以て平間寺(へいけいじ)
と号し、ご本尊を厄除け弘法大師と称し奉りました。(川崎大師HPより)

うん~館山市の小塚大師の話だと・・・
弘仁6年(815)に弘法大師が東国行脚の際、静寂で霊験あらたかな山に立ち寄り、密教の道場として
一字の草案を建てたのが始まりです。ある日、布良崎に鎮座する太玉命が現れ大師に告げました。
「師がこの地に来たり給うは、土民の願い、師は今年42歳の厄年に当たる。一つには自分のため、
一つには衆生のためにどうか災難除け勝業を営むべし。師の住む庵の後峯に霊木がある。これを用い
て刻み祈誓したならば、あらゆる災難やわざわいはその像が身代わりとなって、師の心身は安らか
である。なお、あらゆる衆生を救うとの誓いを像にこめ、永くこの地にのこし結縁の者に厄難を除
かしめられよ。私もまた師の影に随って擁護しよう」と語り終えると、たちまち姿が見えなくなりま
した。お告げに従い霊木を探し、自ら二体刻み開眼供養をして、「願わくは有縁の衆生と共に福智円
満せしめん。当初鎮守を始め奉り、本朝の諸大神祗・三世十方の諸仏・諸菩薩証明加護し給えへ」と
誓い、その内の一体を布良崎の浜より流しました。その後、幾年かたって対岸の武州橘樹郡に流れ着
き、現在の川崎大師平間寺に祀られたと伝えられています。(小塚大師HPより)

両方の話を合わせると、弘仁6年(815)に弘法大師が、彫った2体のうち一体を布良崎から流したの
が、300年近くたって平間兼乗に引き揚げられて、川崎大師を作ったという事になるのだと私、
個人的に理解したのですが・・・でも、平間寺の方に唐で彫ったとなってるので、どうでしょう?

境内に着いたら、自由時間です。お参りしたり、お土産買ったり、昼食したりと皆さんご自由にお過ご
しいただきましたが、担当ガイドが言うには、「みちしるべ」があるので、それは見ておいてという事
だったので、見てきました。


川崎市の重要歴史記念物に指定されています。作られたのは江戸時代の寛文3年(1663)です。
大師への参詣路を表す標識で、もともとは川崎宿の万年屋の脇、東海道から大師道への分岐点に建てら
れていましたが、戦後、平間寺境内に移されました。高さ171cm、幅52cm、厚さ47cm。

あとは、私のおすすめは、西解脱門への道沿いにある「しょうづかの婆さん」と呼ばれる像が祀られ
ている場所です。

「しょうづか」とは「葬頭河(そうづか)が訛ったものだそうで、三途の川を渡る死者の衣服を剥ぎ取る
「奪衣婆」のことです。この「しょうづか婆さん」にお参りすれば、歯の痛みを止めたり、容貌を美しく
してくれたりといわれ、昔から信仰を集めたそうです。

皆さん思い思いに散策・食事などを楽しんだあとは、「ANA機体工場見学」に出発です。
まずは、講堂にて飛行機と整備についてのや整備のビデオなどを見ます。
いよいよ、3班に分かれて機体工場へと進んで行きます。
まずは、ビル3階分の位置からの見学です。

機体を見ただけで、なんだかワクワクしますねぇ~。皆さんも目の輝きが違ってました。

上から見たあとは、階段を下りて地上へ。

すごい迫力です。

最後は、参加者全員で写真を撮ってもらいました。

あと少しで機体工場の見学は終わりです。私の班を案内して下さった方は、元客室乗務員だった
方で、お話しも上手で面白かったです。最後に、整備士の方が工場内で使っている自転車を紹介
してくれました。

このNO1のピカチューは、見学時に見る事ができないらしく、これを見るといい事があるという
お話しでした。ラッキーアイテムらしいので、写真を撮ってみました。
他にの番号ごとに違うポケモンのキャラクターが描かれていました。

楽しい時間はあっという間に終わってしましたした。受付の所にあるコンビニに、ANAグッズが
売っていて、お土産を買って帰ります。
本当は、もう少し写真を撮ってあるのですが、ブログやSNSへの写真の掲載はANAの許可が必要
なのです。今回は、5枚しか許可の申請をだしていないので、掲載はできません。
ANA機体工場見学は、6ヶ月前から予約ができます。見学は平日のみです。

館山へと帰りますが、その日はあいにくの天気でアクアラインが通行止めになってしまいました。
岡回りで帰ってきたのですが、途中の高速道路も風が強く土煙が舞っていました。
かなり、ドライバーさんは大変だったと思いますが、無事に館山へと到着しました。

次年度の大人の学習旅行も計画しております。昨年度は防衛大学と横須賀港クルーズ、今年度は、
飛行機工場っときたので、次は○○なのでしょうか?皆さん近くなったらお知らせします。

今回の大人の学習旅行にご協力いただいた皆さまありがとうございましす。

特別編「木更津市公民館様ガイド」

花粉のシーズンに入ってきました。
房総の山を見れば杉だらけ。花粉症の人は大変なことになっております。
皆さんはいかがでしょうか?

さて、今回は月イチツアーの報告ではなくて、木更津市某公民館様からご依頼いただきま
した、ガイドの報告します。
なぜ?って、木更津市さんに同行したので、月イチツアーのネタが残念ながらないのです。
月イチツアーの報告を楽しみにしたいた方には、申し訳ありません。

某公民館様は今回で3回目のお申込みで、前2回は後藤義光の彫刻などをご案内したので、
今回は伊八の作品のご案内です。

待ち合せ場所は、道の駅三芳・鄙の里です。最初に向かったのは、南房総市山名にある
曹洞宗の智蔵寺へ。山名の大寺とも呼ばれています。

寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼(父・武田信玄)の嫡男で、天目山
を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。開山の太巌存高和尚は信勝の
舎弟英丸といわれています。また、中興の開基は里見の奉行、印東采女平忠康とされています。
徳川時代初期の寛永十五年(1638)、旗本三枝守昌は安房ノ国で一万石を賜って大名に列し、陣屋
を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所とした。次の守全は再び旗本となりましたが、その後、天保
13年(1842)まで204年の間、山名は三枝氏(その傍系諏訪氏)の知行所でした。(寺伝より)

本堂の欄間には「波と竜」の彫刻三面は、武志伊八郎信由と弟子森久八の作です。(文化5年)

墓地のエリアには、武田石翁が手掛けた石仏があります。

今回はバスが上まで登れたのですが、本当ならば苔むした階段を上がってお参りします。

とても雰囲気の良いお寺さんで、今回は、ご住職が本堂内をご案内していただきました。
貴重なお時間をありがとうございます。

次に向かったのは、石堂寺です。

天台宗の寺院で、長安山東光院石堂寺です。和銅元年(708)、奈良の僧・恵命、恵照がインドの
阿育王(あしょかおう)の仏舎利を携えてこの地に草庵を結んだことに始まり、神亀3年(726)
に行基菩薩がこの地に訪れて大塚山に堂宇を建立し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊にしたと伝え
られています。阿育王の仏舎利宝塔を祀っているので、日本三石塔寺と呼ばれています。
仁寿元年(851)には、慈覚大師が七堂伽藍を整備して、天台宗比叡山延暦寺の末になったそうです。
文明19年(1487)に夜盗による火災に遭い、当地の豪族丸氏や里見氏によって永正10年(1513)に
堂宇を現在地に移して最高されました。国指定の文化財建造物が4棟、仏像が1躰あり、県・市の
文化財も数多く残されています。

今回も、石堂寺のご住職に客殿に保存してある初代伊八の彫刻をご案内していただきました。
こちらは、写真撮影禁止なので写真はありません。(伊八の彫刻を見る場合は拝観料がかかります)
作品は、寛政3年(1791)、伊八39歳頃のものだと言われています。もとは、多宝塔につけられて
いたのですが、平成の大修理の時に元に戻されたので(多宝塔建立時には彫刻が無かったので)、
現在は屋内に保存・展示してあります。

当日は、ご住職はインドから帰ってきたばっかりだったんですが、いろいろ楽しくお話しが聞けました。
イノシシとの争いなど、ありがとうございます。

少し時間があったので、本堂の裏にある旧尾形家も見学に。

尾形家は珠師ケ谷村(旧丸山町)の旧家で、昭和46年・47年度に解体され移築されました。
江戸時代中期の享保13年(1728)の建築、居間と土間を別棟にした南方系の特色をもつ分棟型
の代表的な民家です。普段は中を見る事ができませんが、初縁日の日に見学する事ができます。
季節によって色々な花を見る事ができます。

次に向かったのは、捕鯨の町和田へ。せっかく南房総に来たので、クジラ料理なんかを食べて
いただこうか?とご紹介したのが、道の駅和田浦WA・O!!。こちらで昼食をとっていただき
ました。この時期は、お花が盛んな地域もありストックなどお安く購入する事ができます。

お腹いっぱいになったところで、真野寺へと向かいます。

真野寺は、真言宗智山派の寺院で、正式には「高倉山実相院真野寺」といいます。地元では、
「真野の大黒」と通称で親しまれています。
お寺の歴史は、神亀2年(725)に、行基菩薩によって開山されました。建永元年(1206)には野火
により焼失してしまいましたが、翌年に大黒天の信仰厚い北条義時が私財を投じて七堂伽籃を再
建し、覆面千手観音と大黒天像を安置しました。
本尊の覆面千手観音は行基の御霊作といわれ、霊験がとても高く、参拝者に少しでも疾しい心が
あると重い仏罰を下しました。それがあまりに厳しかったため参拝者も絶えていってしまいました。
貞観2年(860)、遊行中の慈覚大師(円仁)が立ち寄り、行堂面を彫ってかぶせたところ、以降、
優しく慈悲深い仏様になったといいます。
大黒天像は、貞観2年(860)慈覚大師(円仁)が、参籠中の旧正月六日、朝日昇天の中に大黒天が
出現し、大師はこの大黒天を直ちに一刀三礼により彫り上げたといわれています。朝日開運大黒天と
称され、毎年2月6日には、大黒様の出現を記念して大黒天福祭りが行われています。
現在の本堂は、元禄の大地震・大正の関東大震災と二度の被害をうけましたが再建し、昭和35年に
落成しました。

では、伊八の作品を。

大黒天祈祷所にあります。作品です。

「松に鶴」です。阿吽になってるのがわかりますか?

次は観音堂の作品です。

「波に宝珠と火焔龍」です。大黒天祈祷所と同じ時期の伊八57歳ごろと言われています。

こちらもお寺の方が説明していだきました。ありがとうございます。
覆面千手観音様のお話しは、ビックリです。覆面はしていますが、ちゃんと目の所に穴が
空いているので、しっかり参拝者を見る事ができるんです。

今回ご紹介いたしました寺院は、事前に見学のお願いをしてあります。ガイドの独り言を
見て行かれる場合は、お参りをしてからマナーを守って見学させてもらって下さい。
最近、勝手に本堂の中に入ったりする方がいらっしゃるようです。また法事中に中を見せて
とかいう方や、鍵をあけて見せろとか・・・自分勝手の人が多いと聞いています。
また、仏像が盗まれたり彫り物が盗まれたりという話も聞きます。
皆さま、地域資源でもあります神社仏閣に訪れる際は、マナーを守って参拝して下さい。

月イチツアー「観音巡礼道」報告

気が付けば2月。館山・南房総では、陽だまりは暖かいのですが、房州名物の大西が吹く日数
が多くなってきています。この大西が吹くと、海岸線なんかは歩くのが大変です。車も潮でシオ
シオになってしまいます。ご興味のある方は、体験しに来てください。

さて、1月の月イチツアー「巡礼観音道」を開催いたしましたので報告します。
出発は、南房総市和田町にある正文寺さんの駐車場からです。
まず最初に向かったのが、お塚と呼ばれる場所です。

このお塚には、正木氏の子孫で江戸御三家・紀州藩家老になった正木為春は三浦姓に戻し、
その子孫が文化5年(1808)に建てた、正木家遠祖の三浦義同(道寸)の供養塔や、正木時忠・
時通の供養塔があります。
ここで少し解説を・・・正木為春は、徳川家康の側室になったお万様のお兄さんです。お万様は、
徳川御三家の紀州徳川の頼宣、水戸徳川の頼房の生母なのです。そんなこんながあり、徳川家康
から正木姓を改め三浦姓に復することを許されたそうです。
三浦義同(道寸)は三浦半島で活躍した武士で永正13年(1516)北条早雲に攻められ自害しまし
た。その義同(道寸)の子・時綱が房総に逃れ正木姓を名乗ったとされています。

そんなお塚を後にして、寺谷普門寺跡入口へとむかいます。

宝暦4年(1754)、鈴木氏(普門家)が建てた普門寺の参道入口の道標と普門家の鈴木正彦氏が
平成元年に建てた普門寺沿革です。

ここから普門寺跡へと向かいます。

途中、ちょっと険し登りがありますが、問題なく登って行くことができました。

普門寺跡です。岩屋になっていて、ここにお堂があったそうです。
ここで、普門寺の説明を・・・
安房国札観音札所普門寺は、天平19年(747)、行基の開基と伝えられています。本尊は聖観世音
菩薩で行基作と言われています。当初、普門家(鈴木)裏の伊豆山山頂付近の横穴に、聖観世音立
像を祀っていましたが、文化年間(1804~1817)、当主鈴木粂衛門は普門山の中腹に岩屋を設けて寺
を移転しました。その後、飛騨の国より一千カ寺参りをしていた仁兵衛は、普門家東側に居を定め、
岩屋を改修し、天保11年(1840)より弘化2年(1845)にかけて、下向道を開鑿しました。また弘化
2年より嘉永6年(1853)にかけて堂面隧道までに参道を拓き、名主角田勘右衛門が中心となって皇
極天皇碑を建立し参道供養を行ったそうです。
 皇極天皇碑
江戸時代末期には、無住になり、堂屋が赤忠を頭目とする夜盗たちの根城になり、被害は多々にお
よび当主鈴木安造は寺を正文寺に寄進し堂屋は取り壊されました。
赤忠?とお思いの方、説明します。
赤忠は村々の金持ちばかりを襲って金銭・衣類・米を盗み、日々の生活が苦しい人々に盗んだ金品を
恵んだことから「義賊」と評判になりました。役人たちの捜索にもかかわらずなかなか捕まえる事が
出来なく、正木(那古地区)のワラ小屋に潜んでいるところを発見され逮捕となりました。
明治の初めに打ち首となったそうです。赤忠は岩糸村(旧丸山町)出身で本名は忠蔵、酒を好みいつも
赤い顔をしていたといいます。

堂面隧道を通り次に向かったのは諏訪神社。

この堂面隧道は迅速図上で公道に隧道の記号があるのは、安房では館山市小原と荒川・平塚間3箇所だ
けのようです。

堂面隧道から少し行くと、石に彫られた祠を見る事ができます。

古道を通り、裏から諏訪神社へ。

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)
貞応年間(1222~1224)、真田氏が社殿を創建。永禄年間(1558~1570)に里見氏が戦乱依頼の社殿を
修築し、慶長19年(1614)に村民によって再建されました。その後、社屋の造営・修造等があり、
現在の本殿・幣殿は昭和4年に新築されました。


狛犬と手水鉢は嘉永元年(1848)のものです。

諏訪神社の参道は、なんか清々しい気持ちになります。

諏訪神社を後にし、唐ケ作地区・神田地区を通って出発地点の正文寺へと行きます。
 仁王門
宝暦5年(1755)に建立され、その時仁王尊が誕生寺から贈られました。安政年間に現在の門
が再建されました。

 本堂
正文寺は、日蓮宗で小湊誕生寺の末寺。本尊は日蓮聖人奠定(てんてい)大曼荼羅です。
安元・治承(1175~1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗のお寺
でしたが、天正2年(1574)に勝浦城主であった正木頼忠(環斎)が父・正木時忠の菩提
のため日蓮宗として再建したと伝えられています。
大正6年(1917)の雷火で祖師堂以外は焼失し、昭和8年(1933)に本堂が再建されました。

 祖師堂
宗祖日蓮聖人を祀っています。正木環斎(頼忠)自刻と伝わる日蓮聖人像や、正木家累代の
位牌、お万の方寄進の科註箱(高座の説教の時に教本・道具を入れてお箱)などがあります。


外陣正面には明治21年(1888)、館山の川名楽翁によってかかれた絵馬「日蓮鎌倉帰着之図」
が掲げられています。

っという事で、今回のウォーキングツアーも無事に終わりました。
次回は2月12日の月イチツアー「頼朝伝説と民話のふるさと「大高尾」を訪ねよう」です。