お散歩ツアー「田原地区の石造物を巡る」報告

なんだかスッキリしない天気が続いていますね。梅雨が無い方がいいですが、作物の事
を考えると必要なんですよね。田んぼの稲もだんだんと大きくなってきて田んぼの緑が
綺麗になってきています。

今回は、お散歩ツアー「田原地区の石造物を巡る」を開催しましたので、報告します。
出発地点は、プロ野球ロッテのキャンプ地でもあり、女子サッカーのオフカ鴨川FCの
ホームグランドでもあります、鴨川市総合運動場からスタートです。

まずは、加茂川を渡り太尾にある滝山寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王です。創立年代は不明ですが、天文9年(1530)
室町時代の棟札があり、「安房国長狭郡寺院明細帳」は、慶長13年(1608)安土桃山時代、
滝山寺再興を伝えていて、また、薬師堂に安置されている釈迦如来立像と薬師如来立像は
13世紀後半の作といわれることから、滝山寺は中世すでに建立されていた寺院だといえ
るそうです。
お寺には、昭和51年(1976)に鴨川市文化財にしていされた棟札6枚と薬師如来像・釈迦
如来像があいます。もう一つ指定された、薬師堂の縁日のにぎわいを描いた宝暦10年
(1760)銘の「諸人参詣の図」と「街道殷賑の図」という絵馬が2枚奉納され、本堂に掲げ
られていました。この絵馬には、参詣する人々の姿や街道に屋台店を広げる商人、それに
踊りやなどを披露する大道芸人が描かれていたそうで、風俗を描いた絵馬は県下でも数が
すくなく、当時の風俗を知るのに貴重なもとされ指定されたのですが、平成元年(1989)
11月9日の本堂の火災で焼失してしまったそうです。

薬師堂です。

こちらの木造薬師如来立像は、13世紀後半の作であろうという事です。
像高は、163cm、両手先は欠損しているので印相は不明です。特徴は、頭髪は一般的な
螺髪ではなく縄状の髪型をしています。京都・清涼寺の釈迦如来と同じ形式だそうです。

今回は、拝見する事はできませんでしたが、なにか拝見できる機会があったら、見たいもの
です。

薬師堂の下に降りると、鴨川石造物百選に選ばれた地蔵菩薩があります。

享保13年(1728)に鈴木作佐衛門を本願人とする念仏講の人たちによって造られました。
石材は、地元嶺岡山系で産出する蛇紋岩を用いていて、頭部に比べて、腰から下が短すぎる
ため、全体として四頭身に近い姿になっています。イボを治してくれるご利益があるとされ、
「イボ地蔵」として地元の人たちに親しまれています。

境内には、他にも嘉永6年(1852)の子安講中や元禄元年(1688)の六地蔵があります。

滝山寺を後にし、来秀五輪塔群へと向かいます。
途中、道の脇の草むらに霊神様と書かれた石があります。

この石造物は、歩いてるだけでは見逃してしまうのですが、下見に訪れた際に石造物の周辺
で「ガサガサ」という音がしてそこを見たら、この石造物がありました。なにか見つけて欲し
かったのでしょうか?

霊神様から少しいくと、来秀五輪塔群があります。

こちらは、小林家が、周辺に散在していたものを集めて供養したといいます。
石を積み重ねた形式のものが4基・舟形に五輪塔1基を浮彫にしたものが26基・2基を並べて
浮彫にしたものが2基、総数32基あります。南房総板碑型に属し、室町時代後期であり、地元
嶺岡の蛇紋岩で造られています。記年銘が確認されているものが4基あり、最も古いものに「永
正五年戊辰三月十八日」「青壽」とあり、戦国時代に造られたものだとわかります。
先に行った滝山寺の天文9年(1540)の棟札に、仏像の奉納者として鈴木出羽守・滝山飛騨守・伊
丹伊勢守・鈴木伯耆守などの名がみられ、これらの人物は官名を名乗るところから、当時この地
を支配していた土豪と思われ、来秀の32基の五輪塔は、彼らの家族や一族の供養塔か墓標として
造られたものだと考えられています。

谷を越えて次に向かったのは、満光院です。

真言宗智山派の寺院で山号は西方山。本尊は不動明王です。
創建の年は明らかではありませんが、「寺院明細帳」によれば、正徳元年(1711)6月に焼失し、
享保元年(1716)に源祐法印という僧が再建して中興第一世になったといいます。
明治7年(1874)来秀村・川代村・大里村を一学区として来秀小学校が開設されたとき、満光院
が仮校舎として使用されました。
長狭観音巡礼第16番で、如意輪観音がありましたが、数十年前、盗難にあってしまったそうです。

境内には、享保12年(1727)湯殿山碑・正徳3年(1713)の青面金剛・文化4年(1807)光明真言塔
などがあります。

次は、お隣の天満神社へ。

祭神は藤原道真。通称は天神様。別当寺は満光院。
創建の年や由緒は明らかではありません。貞享4年(1687)に領主保科正静から天神免田の寄進が
あったとされています。拝殿の「龍」の彫刻は、弘化4年(1847)三代武志伊八郎信秘の作です。

こちらの手水鉢は可愛らしい。

水盤に亀4匹と子供が添えられています。

子供たちが亀を覗いているのでしょうか?なかなかユーモアがあります。職人の遊び心かしら
と思ってしまいます。

ここですこし、この地の事をお話ししました。
来秀及びその周辺地区には、6500年ほど前の縄文時代早末期から前期にかけての時代に
人々が住みはじめ、その生活の痕跡として縄文土器や石鏃が見つかりました。平成8年の
調査では、遺物のみで住居跡などの遺構は発見されませんでしたが、数千年前の一時期に満
光院や天満宮のある台地上で、石器時代人が生活していたと思われます。その後、人々は
なにかの理由で他に移動したのか、生活の痕跡はみられなくなったそうです。
長い年月を経て、古墳・奈良・平安時代に入ると、人々の生活の営みがはじまったそうです。
今回の調査で、8世紀から10世紀ころと思われる奈良・平安時代の竪穴住居の跡が発見され、
当時使われていた素焼きの土器や大陸伝来の技術をもって製作された硬質の須恵器が多く出土
しました。遺物の中には、糸を紡ぐための紡錘車や鍛冶に使用したフイゴの羽口、それに鉄を
取り出したあとの鉄滓なども発見されました。
11世紀から13世紀ころの平安末期・鎌倉時代の掘立柱の建物跡が発見され、柱穴が重複し
ているので何度か建て直しながら使われたものと考えられます。掘立柱を使っているので、土
豪層の屋敷跡だと考えられます。
想像するとワクワクしてきます。鎌倉時代とかどんな感じだったのかな?

さて、次に向かいます。次は、来秀共同墓地にある虫供養塔(鴨川の石造物百選)です。

嶺岡産の蛇紋岩を利用しています。上部の蓮座が浮彫りにされ、月輪(円形)を表現しています。
中に薬研彫りで胎動界大日如来の梵字アーンクが刻まれてあり、下半部に虫供養塔と天明元年
と刻まれています。
県内各地に虫送りの行事が伝わっています。この塔からは、五穀成就のため村をあげて害虫駆除
が行われたこと、駆除された虫たちの鎮魂儀礼が営まれたことがわかります。日付は「霜月吉穀旦」
とあり、収穫が終わった11月に虫の供養と豊穣への感謝の気持ちを造塔へ現したのだと思われます。

他にも9人の子供が彫られている子安地蔵尊があります。

わかりますか? 楽しそうなお顔をしていました。

次は、遠目から真福寺へ大里八幡神社の説明をして集合場創へと戻ります。
雨も降らず、曇り空だったので、暑くもなく楽しく半日を歩く事ができました。

月イチツアー「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」報告

梅雨に入りましたね。館山・南房総では、スッキリしない天気になってきました。
これからのウォーキングツアーは、天気の心配をするのが大変です。

さて、今回の月イチツアー「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」を開催しました。3度
目の正直で、前2回は雨で中止となっていましたが、今年は無事に開催する事ができました。

集合場所は、岩井海岸海水浴場駐車場です。

駐車場から少し海岸線を歩くと、文豪菊池寛の碑があります。

昭和48年(1973)建立の歌碑には、「遠あさの海きよらかに子等あまた群れあそびゐる岩井よ
ろしも」と刻まれています。菊池寛一家が、昭和3年(1928)~昭和8年(1933)にかけて、岩井
のよねや旅館に滞在していたそうです。
菊池寛(きくちかん 明治21年(1888)~昭和23年(1948))は、小説家・劇作家・ジャーナ
リストです。文藝春秋社をを創設した人です。

ここから、岩井川の橋を渡り、大蘇鉄へと向かいます。
大蘇鉄まで行く間に、難しい名前の橋と成田講の燈篭を発見しました。

端馬橋(だんばばし)です。


成田講の燈篭です。個人のお家にありました。

いよいよ大蘇鉄です。

石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に落ちのびたとき、このソテツの威容を称えたといわれて
います。一般にソテツは大きくなると横に広がりますが、このソテツは五本の主幹と支幹とも直
立し、樹高は約8m、根回りは約6.5mです。樹齢は一千余年と伝えられ、当家代々の祖により
家宝として育てられています。昭和10年(1935)に千葉県指定天然記念物になりました。

次は、辻にあるあさひ地蔵へ。

山から出てきたものをこちらでお祀りしているとの事です。右側にあるのは、馬頭観音です。
やはり辻にあるので、馬の行き来があったのでしょうね。

次は、頼朝橋へ。

岩井川の支流にかかる橋です。丸太の橋だったのを、村人が板を渡し、ムシロを敷いて、頼朝
を出迎えたと伝わっています。

岩井神社へと向かいます。岩井神社の脇に山車小屋があります。

5地区の山車小屋が並んでるんですね。中でも高崎浜下屋台は、南房総市指定文化財です。
屋台の作者は、当町の宮大工青木松治郎です。この屋台の制作には、3年という年月を費やし
明治24年(1892)に完成しました。その間、初代後藤利兵衛義光は青木家に逗留して制作にあ
たり八岐の大蛇や竜などを彫刻しました。今回は見る事ができませんが、8月の20日以降の
岩井の祭りで見る事ができます。

岩井神社です。

磐井郷の総社として治安3年に創建。牛頭天王八雲大社と称したといいます。社宝に、鎌倉時
代の「懸仏」(四面)が残っています。「懸仏」というのは、平安時代の中頃、神仏習合の信
仰から生まれたものです。柱や壁にかけて礼拝しました。形はだんたい円形で、表面には仏像
が彫ってあり、銅や鉄の板でできています。また「獅子頭」(三頭)があります。これは、昔
富山の「ふうり祭」(雨乞い祭)に使われたものです。獅子頭をかぶり、鞨鼓(太鼓)を腹の
前に付けて、軽快に舞うものです。これを「鞨鼓獅子舞」といいます。富山の雨乞い祭も、明
治時代の終わり頃には行われなくなったようです。

境内には、弓道場があります

この弓道場には言われがあります。
源頼朝が、治承4年(1180)8月石橋山の合戦に敗れ、安房国へ逃れて、馬集(ばせ、高崎)に
て馬を集め、不入斗牛頭天皇の社殿に戦勝祈願をしました。当時の安房国は、安西・神余・丸・
東条・長狭の5氏がほぼ5分し支配していましたが、長狭氏を除く4氏が敗戦の頼朝を擁立して
幕府創設の基礎を築きました。建久3年(1192)征夷大将軍になり、懐かしの安房国を偲び、不入
斗に八幡宮を建立し、武士の弓術を奨励しました。その後安房国は里見氏が治め、6代義堯は、
岩井神社修復の際し、境内に矢場を造り弓術を奨励しました。このことがあり、昭和25年青少
年の健全育成と精神修養の場として弓道場を作り、広く一般にも開放し、、清く明るい心の滋養
を念じ「洗心館」と命名したそうです。

あと境内には、石宮群や金比羅宮があります。

次は、頼朝旗竿藪へ。

かつてこの場所に、熊野神社とその別当寺・満能院がありました。治承4年(1180)、源頼朝たち
がこの地を通り丸村に向かう途中、熊野神社に戦勝祈願のため参籠した時、この社の近くにある満
能院の住職が寺の庭に自生している節のそろったふたまたの竹を切ってきて、頼朝に献上しました。
頼朝は喜び、住職に「めでたく源氏が再興した時には必ず住職の恩に報いるであろう。何か希望が
あれば遠慮せずに申せ。」と言い、住職は「弓を射てその矢の届いただけの土地をいただき、いつ
までもこの竹やぶのある堂をお守りし、土地の人たちのお役に立つことができますならば何よりと
思います。」と話したといいます。頼朝はこの竹を旗竿としました。
以来、満能院では、毎年2本の竹を鎌倉将軍家に献上したと伝えられています。満能院は、明治に
なって廃寺となり、熊野神社は岩井神社に合祀されました。

次に、木の根峠の入口にある湯屋薬師堂へ。の途中に、やぐらがあります。

五輪塔が掘られています。

湯屋薬師堂です。

通称湯浴堂(ゆあんどう)は、元「名の内(みょうのうち)」にありましたが、鉄道敷設のため、
現在は高崎谷口に移転されました。創設等不詳ですが、吉野家文章によれば、宝暦2年(1752)のこ
ろ、湯屋薬師堂壱ヶ所御除地とあり、薬師如来を祀り、湯浴堂を設け、この地域に湧出する鉱泉を
利用して医療を行ったようです。現在は井戸だけ残っています。また、文政8年(1825)奉納の句額
には、小林一茶の句や安房を代表する俳人たちの句があります。

いよいよ木の根峠を目指していきます。

木の根峠は、南房総市高崎から富浦・丹生の間の峠道です。治承4年(1180)源頼朝が安房の国に来た
頃、すでに木の根峠は、石井郷(岩井)と達良郷(富浦)を結ぶ路でした。勝山藩が成立し寛文8年
(1668)藩主の酒井は、木の根峠の管理に当たりました。文化2年(1805)頃になると人々の往来。物資
の運搬もようやく盛んになり、天保10年(1840)房総沖に黒船が現れたとき、江戸幕府は、江戸湾防
備のため各藩に房総警備を命じたので、木の根街道は交通の要路となりました。明治16年に「素掘り
のトンネル・木の根隧道」を掘りはじめ、明治18年に開通しました。大正7年に鉄道が開通すると木
の根隧道の利用者はすくなくなりました。鉄道工事の建設道路として、線路に沿うように、素掘りのト
ンネルが掘られ、小浦村、南無谷村を結ぶ国道127号の元祖ができました。

写真ではわかりづらいと思いますが、かなりの斜面です。昔の人は、足腰が強かったのですね。
木の根峠の付近には、馬頭観音や仏像などがあります。

今日は、景色の良い場所でお弁当です。
 

昼食が終わり、次は、御目井戸です。

頼朝がここを通った時、湧き出る水で顔を洗い、喉を潤したと伝わっています。別名「頼朝井戸」
といい、現在は、民宿「御目井戸荘」さんの裏庭にあります。今回は、許可を頂き見学させてい
ただきました。ありがとうございます。

あとは、駐車場に戻ります。天気にも恵まれて、無事にウォーキングツアーを終了しました。
これから暑くなりますので、ウォーキングも暑さに負けそうになりますが、暑さに負けずにがんばり
ますので、是非みなさんもご参加下さい。