梅雨に入りましたね。館山・南房総では、スッキリしない天気になってきました。
これからのウォーキングツアーは、天気の心配をするのが大変です。
さて、今回の月イチツアー「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」を開催しました。3度
目の正直で、前2回は雨で中止となっていましたが、今年は無事に開催する事ができました。
駐車場から少し海岸線を歩くと、文豪菊池寛の碑があります。
昭和48年(1973)建立の歌碑には、「遠あさの海きよらかに子等あまた群れあそびゐる岩井よ
ろしも」と刻まれています。菊池寛一家が、昭和3年(1928)~昭和8年(1933)にかけて、岩井
のよねや旅館に滞在していたそうです。
菊池寛(きくちかん 明治21年(1888)~昭和23年(1948))は、小説家・劇作家・ジャーナ
リストです。文藝春秋社をを創設した人です。
ここから、岩井川の橋を渡り、大蘇鉄へと向かいます。
大蘇鉄まで行く間に、難しい名前の橋と成田講の燈篭を発見しました。
端馬橋(だんばばし)です。
いよいよ大蘇鉄です。
石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に落ちのびたとき、このソテツの威容を称えたといわれて
います。一般にソテツは大きくなると横に広がりますが、このソテツは五本の主幹と支幹とも直
立し、樹高は約8m、根回りは約6.5mです。樹齢は一千余年と伝えられ、当家代々の祖により
家宝として育てられています。昭和10年(1935)に千葉県指定天然記念物になりました。
次は、辻にあるあさひ地蔵へ。
山から出てきたものをこちらでお祀りしているとの事です。右側にあるのは、馬頭観音です。
やはり辻にあるので、馬の行き来があったのでしょうね。
次は、頼朝橋へ。
岩井川の支流にかかる橋です。丸太の橋だったのを、村人が板を渡し、ムシロを敷いて、頼朝
を出迎えたと伝わっています。
岩井神社へと向かいます。岩井神社の脇に山車小屋があります。
5地区の山車小屋が並んでるんですね。中でも高崎浜下屋台は、南房総市指定文化財です。
屋台の作者は、当町の宮大工青木松治郎です。この屋台の制作には、3年という年月を費やし
明治24年(1892)に完成しました。その間、初代後藤利兵衛義光は青木家に逗留して制作にあ
たり八岐の大蛇や竜などを彫刻しました。今回は見る事ができませんが、8月の20日以降の
岩井の祭りで見る事ができます。
岩井神社です。
磐井郷の総社として治安3年に創建。牛頭天王八雲大社と称したといいます。社宝に、鎌倉時
代の「懸仏」(四面)が残っています。「懸仏」というのは、平安時代の中頃、神仏習合の信
仰から生まれたものです。柱や壁にかけて礼拝しました。形はだんたい円形で、表面には仏像
が彫ってあり、銅や鉄の板でできています。また「獅子頭」(三頭)があります。これは、昔
富山の「ふうり祭」(雨乞い祭)に使われたものです。獅子頭をかぶり、鞨鼓(太鼓)を腹の
前に付けて、軽快に舞うものです。これを「鞨鼓獅子舞」といいます。富山の雨乞い祭も、明
治時代の終わり頃には行われなくなったようです。
境内には、弓道場があります
この弓道場には言われがあります。
源頼朝が、治承4年(1180)8月石橋山の合戦に敗れ、安房国へ逃れて、馬集(ばせ、高崎)に
て馬を集め、不入斗牛頭天皇の社殿に戦勝祈願をしました。当時の安房国は、安西・神余・丸・
東条・長狭の5氏がほぼ5分し支配していましたが、長狭氏を除く4氏が敗戦の頼朝を擁立して
幕府創設の基礎を築きました。建久3年(1192)征夷大将軍になり、懐かしの安房国を偲び、不入
斗に八幡宮を建立し、武士の弓術を奨励しました。その後安房国は里見氏が治め、6代義堯は、
岩井神社修復の際し、境内に矢場を造り弓術を奨励しました。このことがあり、昭和25年青少
年の健全育成と精神修養の場として弓道場を作り、広く一般にも開放し、、清く明るい心の滋養
を念じ「洗心館」と命名したそうです。
次は、頼朝旗竿藪へ。
かつてこの場所に、熊野神社とその別当寺・満能院がありました。治承4年(1180)、源頼朝たち
がこの地を通り丸村に向かう途中、熊野神社に戦勝祈願のため参籠した時、この社の近くにある満
能院の住職が寺の庭に自生している節のそろったふたまたの竹を切ってきて、頼朝に献上しました。
頼朝は喜び、住職に「めでたく源氏が再興した時には必ず住職の恩に報いるであろう。何か希望が
あれば遠慮せずに申せ。」と言い、住職は「弓を射てその矢の届いただけの土地をいただき、いつ
までもこの竹やぶのある堂をお守りし、土地の人たちのお役に立つことができますならば何よりと
思います。」と話したといいます。頼朝はこの竹を旗竿としました。
以来、満能院では、毎年2本の竹を鎌倉将軍家に献上したと伝えられています。満能院は、明治に
なって廃寺となり、熊野神社は岩井神社に合祀されました。
次に、木の根峠の入口にある湯屋薬師堂へ。の途中に、やぐらがあります。
五輪塔が掘られています。
湯屋薬師堂です。
通称湯浴堂(ゆあんどう)は、元「名の内(みょうのうち)」にありましたが、鉄道敷設のため、
現在は高崎谷口に移転されました。創設等不詳ですが、吉野家文章によれば、宝暦2年(1752)のこ
ろ、湯屋薬師堂壱ヶ所御除地とあり、薬師如来を祀り、湯浴堂を設け、この地域に湧出する鉱泉を
利用して医療を行ったようです。現在は井戸だけ残っています。また、文政8年(1825)奉納の句額
には、小林一茶の句や安房を代表する俳人たちの句があります。
木の根峠は、南房総市高崎から富浦・丹生の間の峠道です。治承4年(1180)源頼朝が安房の国に来た
頃、すでに木の根峠は、石井郷(岩井)と達良郷(富浦)を結ぶ路でした。勝山藩が成立し寛文8年
(1668)藩主の酒井は、木の根峠の管理に当たりました。文化2年(1805)頃になると人々の往来。物資
の運搬もようやく盛んになり、天保10年(1840)房総沖に黒船が現れたとき、江戸幕府は、江戸湾防
備のため各藩に房総警備を命じたので、木の根街道は交通の要路となりました。明治16年に「素掘り
のトンネル・木の根隧道」を掘りはじめ、明治18年に開通しました。大正7年に鉄道が開通すると木
の根隧道の利用者はすくなくなりました。鉄道工事の建設道路として、線路に沿うように、素掘りのト
ンネルが掘られ、小浦村、南無谷村を結ぶ国道127号の元祖ができました。
写真ではわかりづらいと思いますが、かなりの斜面です。昔の人は、足腰が強かったのですね。
木の根峠の付近には、馬頭観音や仏像などがあります。
昼食が終わり、次は、御目井戸です。
頼朝がここを通った時、湧き出る水で顔を洗い、喉を潤したと伝わっています。別名「頼朝井戸」
といい、現在は、民宿「御目井戸荘」さんの裏庭にあります。今回は、許可を頂き見学させてい
ただきました。ありがとうございます。
あとは、駐車場に戻ります。天気にも恵まれて、無事にウォーキングツアーを終了しました。
これから暑くなりますので、ウォーキングも暑さに負けそうになりますが、暑さに負けずにがんばり
ますので、是非みなさんもご参加下さい。