月イチツアー「潮騒を聞きながら漁師町天津を歩く」報告

梅雨入りしましたねぇ~。なんだか、梅雨だと心がブルーになってきて、腰の調子も良くなくなり
ます。事務所に閉じこもってると・・・やっぱり梅雨は嫌ですね。
そんな梅雨入りした館山・南房総ですが、ウォーキングツアーを開催しました。なんとか雨も降らず
楽しいウォーキングになったかと思います。

今回は、鴨川市にあります天津エリアを散策してきましたので、報告します。
出発は、二タ間駐車場。鴨川市の駐車場になるんですが、ここがまた説明するのが大変でして・・・
また旅倶楽部が企画するとコースの都合上なんかで、駐車場が難しくなっちゃうんでですよ・・・
すみません。

さて、本題に戻りまして、二タ間駐車場から出発し、最初に行くのは閻魔堂です。

通称「芝堂」と呼ばれています。堂内には阿弥陀如来、閻魔王、奪衣婆の三体の像が祀られています。
奪衣婆(だつえば)ですが、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る
老婆の鬼です。奪衣婆が剥ぎ取った衣服は、懸衣翁(けんえおう)という老爺によって衣領樹にかけら
れます。剥ぎ取った衣の重さによって死後の処遇が決められるとされています。
江戸時代末期には、奪衣婆を祀ったお堂などが建立され、民間信仰では奪衣婆は、疫病除け・咳止め、
特に子供の百日咳に効き目があると言われていました。(諸説あります)
こちらのお堂には、奪衣婆からはじまって、閻魔王に裁きを受け、最終的に阿弥陀如来によって極楽
浄土へと導いてもらうという、像の構成になっているんですね。

お堂の入口の両脇には六地蔵立像が建立されています。

このお地蔵様は天津小湊地域の中で最も大きな六地蔵様です。200年以上前から見守っています。

次は、萬福寺と須賀神社へ。

天台宗の寺院で蔵王山観音院と号します。本尊は聖観世音菩薩。厨子の中には、本尊と四天王が安置され
ており、脇立は、不動明王と毘沙門天が立ち、厨子前には聖観音が立っています。


御詠歌を刻む額は、初代後藤義光の作です。以前は外にあったそうですが、今は本堂内に掲げられています。
奥様に、中を見させていただきました。ありがとうございます。

すぐ隣には、須賀神社があります。

祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。後に行きます、天津神明宮の主祭神である天照皇大御神の弟にあたる
素戔嗚尊が祀られています。御神輿は、外房一帯でも大きく重い大神輿です。暴れ神輿とも有名で、7月の
最終金・土・日に祭礼が行われ、大神輿が町を練り歩きます。


鳥居は、天津神明宮と同じに式年鳥居の神事の際にあわせて建て替え神事が行われます。

次は、海福寺へ。

真言宗智山派の寺院で山号を宝蔵山と言います。本尊は阿弥陀如来三尊像です。
室町時代初期の応永4年(1397)の創建と伝えられている法蔵山海福寺が、昭和45年近隣にあった同宗
同派の久光山吉祥院・東光山宝泉寺・普光山持明院の三ヵ寺と合併し、山号を宝蔵山と改めて現在のお寺
になりました。旧海福寺は、江戸時代初期の正保4年(1647)に徳川家から清澄寺を賜った頼勢法印によっ
て中興され、旧天津村の正蓮坊・弁天堂・地蔵堂(現大師堂)を管理しましたが、文政7年(1824)の天津
村大火によって、御本尊こそ救い出したものの、吉祥院・宝泉寺と共に堂宇のほとんどを焼失してしてし
まったそうで、寺歴を語る史料がないそうです。江戸期の様子は、本寺にあたる勝福寺(鴨川市川代)の
史料などによって知るだけになってしまっています。
本堂には、本尊の阿弥陀如来三尊像のほか、厨子の右袖に長狭観音札所の本尊千手観世音菩薩、左袖に安房
国地蔵札所の本尊の地蔵菩薩があります。

境内には、いろいろな石造物があります。

宝篋印塔と大乗妙典塔。


筆子塚。

宝篋印塔。天津地域で最も高い宝篋印塔です。

庚申塔。天津地域で、最も古い延宝8年(1680)のものです。

あと境内にはお堂も建てられています。

真ん中のお堂が「大日堂」向かって右が「淡嶋堂」、左が「稲荷社」です。

大日堂

堂内には、真言宗密教の中心仏の「大日如来」、真言宗の宗祖「弘法大師空海」、防火防止の
守護神「愛宕明神」の三尊をお祀りしています。

淡嶋堂

江戸時代にこの地に進出してきた関西漁民が、紀州の淡嶋明神を歓請したのが始まりと伝えられ
ています。古来から、お飾りしなくなったお雛様や使われなくなった裁縫針を納める信仰があります。

稲荷社

旧吉祥院が京都の伏見稲荷から歓請した正一位稲荷と旧海福寺にあった福徳稲荷をお祀りして
います。
まだまだ、ありますがこの辺で次へと向かいます。

すぐお隣にある善覚寺へ。

浄土真宗の地震で本尊は阿弥陀如来。もとは、近江国高島郡(現滋賀県高島市)に慶安元年(1648)
4月3日の創立。慶安4年(1651)3月4日に現在地へ移転しました。鴨川市指定有形民俗文化財
「善覚寺の近世文書」は、関西漁民の関東出漁を伝える貴重な思慮としてのこっており、墓地には
紀州出身者の墓石が多く見られます。
先ほど行った海福寺には、淡嶋堂も関西漁民が勧請していたので関西漁民が信仰していたことが
わかります。


本堂向拝の彫刻は、武志伊八郎信常(二代伊八)によって1840年頃製作されました。
二代伊八は初代伊八の実子として、天明6年(1786)頃に生まれました。
二代伊八の詳細は不明ですが、初代伊八のそばで技術を磨いたと推測されています。
初代伊八の弟子・島村久八郎由勝らとともに重要なメンバーとして工房の活動を支えていたと考え
られます。二代伊八の確実な作例は以外と少ないため、彼の諡号の全体像を把握することは困難で
す。銘を記した作品も少ないため、こちらな信常の銘が記載された作品は、基準作にも位置づけ
られる貴重な作品なんだそうです。

次は日澄寺です。

日蓮宗の寺院で、本尊は十界勧請の大曼荼羅。開創は日蓮聖人。
文永元年(1264)11月11日、小松原法難の折に殉職した天津領主工藤左近将監吉隆公の居館
でしたが、その嫡子刑部阿闍梨長栄坊日隆上人が父の菩提を弔うために建立しました。吉隆公
は、鎌倉幕府出仕中に四条金吾公、池上宗仲公等とともに日蓮聖人に深く帰依しました。文永
元年秋、日蓮聖人は母の病気見舞いに小湊へ帰りましたが、花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆
公の館を訪ねる道すがら、東条の小松原で地頭・東条景信の伏兵に襲撃されました。これが「
小松原法難」です。この法難で、日蓮聖人は頭部に三寸余りの刀傷をうける危難にあい、救援
に駆け付けた吉隆公は討死しました。聖人は、吉隆公の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆
院日玉上人の法号を与えました。

本堂の裏手には、吉隆公のお墓があります。

ご住職に少しお話ししていただきました。ありがとうございます。

そろそろお腹がすいてきました。お弁当までのひと踏ん張り天津神明宮へと向かいます。

祭神は天照皇大神・豊受大神・八重事代主神(えびす様)。大山祇大神ほか七柱の神を合祀して
います。神代の昔、天孫降臨(天照大神の御孫が地上を治めるために高天原から降臨したこと)
に当たり国譲りした事代主神が海路でこの地に移り、東方鎮護の神として鎮座し、これを「もう
け明神」と崇敬したことが始まりと伝えられています。
その後、治承4年(1180)石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れた源頼朝が源氏の再興を伊勢神宮に祈
願し、みごと成就したことにより、天下平定ののち、寿永3年(1184)、伊勢より神霊を歓請し、
もうけ明神とともにお祀りされてのが「房州伊勢の宮」と仰がれるようになりました。


境内にある「まるばちしゃの木」です。安房以西、四国、九州、沖縄、相碗などの暖地に自生する
落葉小高木です。天津小湊地域の数箇所で自生していますが、この地域がまるばちしゃの木の北限
とされています。境内にはこの木が4本あり、まるばちしゃの木の中でも古木に属し、大きいもの
は、幹回り1.5mにもなります。千葉県の天然記念物に指定されています。

さぁ~昼食の時間になりました。今回は天津神明宮さんのご厚意により、椅子を使わせていただき
ました。宮司さんもいらっしゃいまして、昔の天津のお話しなど、楽しくお聞かせ下さいました。
ありがとうございます。

お腹もいっぱいになったところで、次の正蓮坊へと出発です。

本尊は閻魔王。堂内の中央の厨子には、閻魔王像が安置され、十王、奪衣婆像、弘法大師が祀られ
ています。正蓮という僧が建立したという伝承から「正蓮坊」と呼ばれています。

堂の入口には、正蓮法師の霊を祀った石碑があります。

あとは、海岸線を通り駐車場までの道を行きます。途中、明神の鯛へ寄り道。

この明神の鯛は、千葉県指定天然記念物です。天津漁港と二タ間海岸の間の沖合200m
ほどのところに明神礁と呼ばれる岩礁があります。この付近は水深5mほどと浅いのですが、
多くの魚類が生息しています。大正時代に、この海域に群れて生息するクロダイを保護し、
鑑賞するために地元から天然記念物の要請があり、県は昭和10年(1935)に指定しました。
昭和8年には禁漁区となり、タイ見物船も出て町の観光拠点として賑わったそうです。船べ
りを叩くと、いっせいに魚が集まる様子は壮観だったといいます。タイ見学船は、第二次世界
大戦で中断されましたが、昭和38年(1963)に復活し、その後10年間ほど行われていました。

あとは駐車場へと戻るだけです。今回のツアーも見どころ満載で、ガイドの独り言を書くのが
大変です。だけど、狭いエリアに多くの神社仏閣があり、それだけ信仰していたことが分かる
地域でした。7月の月イチツアーは、反対側の浜荻地区を歩きます。天津小富士と呼ばれる
引土浅間山も登っちゃいます。

お散歩ツアー「正木の里・村の鎮守と野仏めぐり」報告

だんだんと暑い日が多くなっています。田んぼの苗は、すくすく育って来て圃場一面が深緑に
なって綺麗です。

今回は、お散歩ツアー「正木の里・村の鎮守と野仏めぐり」の報告します。
出発地は、若夫婦でイチジク農園を経営しています「館山パイオニアファーム」さんの駐車場
をお借りして、出発です。

館山パイオニアファームさんは、いくつかの品種のイチジクを栽培していて、8月中旬ごろから
イチジク狩りを楽しむことができます。イチジク狩りのオフシーズンは、イチジクの苗作り体験
やイベントなども開催しています。建物の所では、いちじくのアイスクリームやパウンドケーキ
・ジャムなども販売しています。詳しくはHPで御覧ください。https://www.pioneer-farm.jp/

最初に向かうのは、姫塚です。

ちょっと塚が見えませんが、田んぼのあぜ道の脇にひっそりと石宮と五輪塔が祀られています。
地元では、里見の姫を葬ったものと伝えられています。昔は、一段低い田の中にあったといい、
農地改良により現在の場所に移されました。

次に向かうは、六所神社。

創建年代や由緒・祭神は不明です。安房国総社とされています。総社とされるのは、近辺の地名に
府中があり、府中の近くにある社号を持つ神社ということが根拠となっています。神社が所在する
西郷は、里見氏時代の府中を東国府と称したことに対する、国府の西側という意味ともされています。

境内には、明治18年(1885)に建てられた浅間祠があります。

本殿向かって左側には、クジラの骨を祀った祠があります。

クジラの骨わかりますか?
少し残念なのが、だれもお参りにきていないのでしょうか?草が茂っていて・・・・

次の場所に行く道の途中に祠があります。

祠は白山社で、祭神は白比咩大神(しらひめおおかみ)で五穀豊穣の神様です。地元では歯の神様
としても信仰を集めています。

次は、新御堂(にいみどう)へと向かいます。

現在の新御堂の場所は、元は、真言宗秀満院があった場所です。関東大震災で倒壊し廃寺となり、
昭和42年に青木根から新御堂が再建し移転してきました。本尊は、聖観音立像で、室町時代の
作と伝えられています。

隣には、八幡神社があります。

亀ヶ原の鎮守で、祭神は譽田別命(応神天皇)。
創建は、室町時代の文明年間(1469~1487)と伝えられています。戦国時代には、里見氏の信仰を
集め徳川幕府より社領2石が認めらられました。
江戸時代初期、元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されています。

次は、亀ヶ原八幡神社の裏にある西郷堰を見に。

平久里川のにあります。ここは古代安房の水門の入江だった場所で堰を築き、この地域を潤し
ました。

亀ヶ原八幡神社と西郷堰の間には、アンゴ岩があります。

アンゴとは方言でカエルの事で、カエルににた形をしているからアンゴ岩と呼ばれてるいます。

県道296号線に出るところに六地蔵があります。

正徳4年(1714)江戸時代中期頃に建て替えられたもので、それ以前は、宗春という人物が建てた
ものがあったと刻まれています。元は、古観音巡礼道が横根峠を越えた街道沿いの村境に建てら
れておたと思われます。なので六地蔵の向きが残念なことになっています。

次は、新御堂跡地向かいます。が・・・その少し手前に亀井戸があります。

亀井戸は、亀ヶ原の地名の発祥と言われ新御堂の閼伽井でもあります。
亀ヶ原の名主であった飯沼家は享保16年(1731)、亀井の泉水で酒作りを始め、銘酒亀井は
130年も続く作り酒屋として栄えました。

新御堂跡地の階段です。

今回は雑草に覆われてしまっているので行きませんが、跡地には、江戸時代の石造地蔵菩薩立像
や句碑などもあります。御詠歌は「にいみどう 見上げてみれば 峯の松 くびこい鶴(汲み越え
つる)に亀井戸の水」です。

さあ~今回のお散歩ツアーは見どころ満載です。次は、外輪堂です。

亀ヶ原区下台集落の共同墓地で、木造阿弥陀如来座像を本尊とるすお堂です。
入口にビー玉などの数珠を首からかけた六地蔵があり、なんだか微笑ましいお堂です。

なんか子供のころに読んだ童話の挿絵に出てくるようなお地蔵さんたちです。
また道の際に三山碑があります。

天保2年両度登山とあるのは、二度三山詣でを行った三山行人の供養塔で、地獄・餓鬼・修羅の
三悪道に落ちないと言われ、供養塔が街道に面して建てられているのは、通行人も手を合わせれば
功徳があると言われているからだそうです。

次は、若宮神社へ。

正木向の鎮守です。古くは若宮八幡大権現と言っていました。社は正木向にあった中嶋弁天の社
を移築したもので、祭壇下に弁天の石宮も相殿で祀られています。

次は朝日山大泉寺へ。

浄土宗金台寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来三尊です。

大泉寺の入口の地蔵尊です。

街道になっていて、那古清澄古道と呼ばれていました。

次は、正木下の熊野神社へ。

創建は不詳、江戸時代初期の元和元年(1615)に再建されたと伝えられています。

残す見学場所の西光寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を正木山といいます。本尊は銅製十一面観音立像。江戸時代初期の
里見忠義のとき、本山を真倉慈恩院に寺領の一部として与えられていました。

見学箇所はすべて終わり、あとは駐車場へ向かいます。
お散歩ツアーですが、内容が盛りだくさんあって書くことがいっぱいになってしまいました。
ちょっと最後の方は、手抜きになっていますが・・・・ごめんなさい。

駐車場に向かうと、館山パイオニアファームさんが、お休みにも関わらず、お店をあけて
くれました。終了後、参加者のみなさんは、いちじくアイスクリームを食べたり、いちじくソーダ?
を飲んだり、お土産にパウンドケーキを買ったりとしてました。

次回は、鴨川市の天津エリアの月イチツアーです。こちらも面白いツアーになりそうです。

月イチツアー「里見八犬伝のふるさと「富山」を歩く」報告

空が高くなってきました。空だけみると夏の空のようですが・・・・
日差しは強くて暑いのですが、風が涼しいです。

今回は、南房総市にある富山(とみさん)に上ってきました。
富山は標高349.5mです。富山の名前は、古代神話に登場する安房開拓の祖「天富命」の逝去の
地であることにより名づけられたと言われています。この山は北の峰と南の峰の二の頂上があること
から動物の耳を形容した双耳峰という特徴があります。古くから航海の目標とされています。
題目にもあるように、江戸時代の作家・曲亭馬琴が28年の歳月をかけ刊行しました、南総里見氏の
史実等を参考に書かれた伝記小説「南総里見八犬伝」の舞台と言われています。簡単にお話しします
と・・・里見義実の娘「伏姫」と敵将の首を取ってきた妖犬「八房」が富山(物語ではトヤマと呼ば
れる)の中腹にある洞窟に籠り生活をし、義実と家臣・金碗大輔に見つけられ、八房は金碗大輔が放
った銃弾に倒れ、その流れ弾にあたって伏姫も倒れてしまいます。伏姫はこの時、八房の気によって
妊娠していましたが、犬畜生と交わったわけではないと身の潔白を示すため自害すると、白煙が立ち
上がるとともに、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉が飛び散り、その後、犬の姓や体の一部に
ぼたんのあざとその霊玉を持つ八犬士が登場します。功成り名を遂げた八犬士は、富山山頂の観音堂
の傍らに庵を建て、凡そ20年間風月を友として老後を楽しみ、里見の姫との子供たちに見守られな
がら仙人となり、頂上より雲の彼方に消えていったといいます。
そんな「南総里見八犬伝」のお話しの舞台となった場所へと行きます。

出発は、南房総市富山観光駐車場からです。
富山へは、何本か登って行くルートがありますが、今回は伏姫籠穴から登って行きます。
駐車場から20分程度で伏姫籠穴の登り口に到着します。

伏姫籠穴への入口です。入口の近くには、八房が眠るという「犬塚」があります。

ここから、10分程度登って行くと、伏姫が籠っていた洞窟があります。
伏姫籠穴の写真がどうしても見つからないので、どうしちゃったのか・・・すみません。

さて、気を取り直して、山道へと進んでいきます。
途中、滝を見る事ができました。この滝は、あまり見る事ができないのですが、時期によって見る事
ができます。

この滝は、合戸の滝と呼ばれていて、季節限定の滝です。合戸地区のため池(合戸堰)から、田植え
の時期に放水されるだけらしいので、タイミングよく見る事ができました。
結構、迫力がある滝でした。

さて、いよいよ山らしい道に入っていきます。

ここの場所に、頂上まで45分と書かれていましたが、ゆっくり登って行くのでもう少し時間がかか
りました。登っていくと、頂上付近にY字路があり、最初に北峰の方へ行くので左へと進みます。
少し進むと杉の巨木と鐘を見る事ができます。

樹齢300年以上と推定され、普通よりも葉が丸みを帯びていることから「ボタンスギ」と呼ばれて
います。地元では、古くから縁結びにご利益があるとして親しまれていますので、別名「縁結びの杉
の木」とも呼ばれています。樹高28m、幹周り3.43m。(ちょっと写真では、見えないですが・・)
ボタンスギの近くには「愛の鐘」が設置されています。平成11年(1999)皇太子ご夫婦が登山された
後、富山は「愛の山」と広く知られるようになり、ここを目指して登るカップルが多くいるそうです。
地元では、登山者に「愛の音」が広がるように、この富山に「愛の鐘」を設けたそうです。
一応鳴らしてみましたけど・・・(笑)

少し歩いて行くと、金毘羅宮があります。

創建年月不明で、文久年間(1860年代前半)地元の房州屋栄吉が先達となり、江戸講仲間が参詣寄進
します。堂の大修理の際、普賢菩薩白象台座が発見されました。

いよいよ頂上へ。

三角点とは違うところに、展望台がありますが、今回は撮り忘れてしまいましたが、展望台広場には
皇太子両殿下の散策記念碑が建てられています。

展望台に上って写真を撮ってみました。

天気が良ければ富士山をはっきりと見る事ができます。
江戸警備のために訪れた会津藩主松平容保は、富山登山記においてこの景色を「嘉永6年4月8日
当日快晴11州余眼下に迫り絶景、言語につくしがたし」と詠んでいます。
11州は、安房、下総、上総、常陸(ひたち)、上野(群馬)、下野(栃木)、武蔵(東京・埼玉
神奈川の一部)、相模(神奈川)、伊豆(静岡)、駿河(静岡)、甲斐(長野)。
昔は、山の樹々が燃料(まき)として使われていたので、樹々が今みたいに高くなかったのかな?
なんて思ってしまいます。だから先まで見えていたのかな?なんて・・・

ここで、昼食休憩して南峰へと向かいます。 
途中、ニリンソウや樹々の木漏れ日の中を歩いていきます。

しばらく歩くと階段が見えてきます。

この階段を上ると観音堂があります。

奈良時代、聖武天皇の祈願により天平3年(703)行基菩薩の創建。昭和30年(1955)8月17日
原因不明の失火により全焼してしまいました。その3~4年後、仮堂が建てられ現在に至ります。

境内には、いろいろな石仏等が残されています。

ちょっと寂しい感じです。

もう一つ、大正時代の童話作家・巌谷小波が馬琴を讃えて作った詩の石碑があります。

ちょっと文字はわかりづらくなっていますが、「山高きゆえに貴からず 曲亭翁の霊筆によりて
この山の名長しへに高く尊し」「水茎の香に山も笑いけり」と書かれています。

この石碑の裏側を少し上ると、南峰の頂上になります。ここにはあずまやらしき物があったみたい
ですが、樹々が伸び景色はまったく良くなかったです。

さて、いよいよ下山していきます。登った分下らなければいけないのが山です。
段差のある階段を下りていきます。途中、こんな石仏があります。なんか和ましてくれる石仏です。

階段が終わると坂道になるのですが、これがまた・・・スクワットしているかのように
降りて行くんです。転ぶと大変なので慎重に下って行くと、福満寺にで着きます。

福満寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は十一面観音。
天平3年(731)に行基により開創されました、はじめは1合目の大房(おおぼう)というところに、
地蔵堂・子安社・蔵王権現等が祀られていましたが、焼失、再建を繰り返し、元治元年(1864)、
現在地に本堂が再建されました。観音堂は富山山頂にあり(先ほど見てきた場所です)、享保14年
(1729)に再建され、寛政元年(1789)に仁王門と仁王像も建立されましたが、昭和30年(1955)の失火
により全焼し、観音像も焼失してしまいました。現在の福満寺本尊十一面観音お札が観音巡礼にご開帳
されます。山頂にあった仁王像は、平成10年福満寺山門に移されました。

福満寺の入口には大正元年の登山道標があります。

「ふもとに伏姫籠穴あり」と八犬伝の案内があります。
あとは県道を通り、駐車場へ。

今回は天気にも恵まれて、楽しいハイキングができました。いつも流れていない滝も見れたし・・・
次回の月イチツアーは、鴨川市の天津地区を歩きます。是非ご参加下さい。

お散歩ツアー「伊戸で懸崖滝の不思議発見」報告

新緑の季節になりました。フジの花やツツジが綺麗咲いていて外に出るのが良い季節
となりました。今回は、お散歩ツアー「伊戸で懸崖滝の不思議発見」の報告です。

今回のお散歩ツアーは、地震で隆起した地形を確認しながら歩いて行くコースです。
房総半島南部では、6000年~7000年前は、現在の標高23~26m位のところに
海水面がありました。幾度にもおよぶ地震で隆起が繰り返され現在の地形になりました。
隆起した所を確認しながら歩いていきます。
出発地点は、館山市西岬地区にあります西岬地区公民館分館からのスタートです。
まずは平砂海岸を目指し畑の道を抜ける途中に珍しいお墓を発見。

長方形の墓石の下に盃のような形のものがあります。飲んべえの方のお墓かと思いきや、
女性の方のお墓でした。この盃の様な形はなんだろう?と思いながら平砂浦を目指します。


平砂浦海岸の端です。
平砂浦海岸には、いろいろな植物があります。

海岸線の民家の下には、ハマダイコンの薄紫色の花が咲いています。

平砂海岸から国道に出る手前は坂になっていて、元禄地震の際に隆起した場所を見る事
ができます。写真ではわかりづらいですが、小さな滝になっています。

漁師町の細い道を抜け、次に向かったのは伊戸台場跡。
残念なことにここでトイレ休憩してぼーっとしてたら写真を撮るのを忘れてしまいましたが、
現在の台場跡は、伊戸だいぼの駐車場になっています。

次も、花畑だった?脇の小道を通り、子育て地蔵へ。

古くは磯浜の小高い所に賽の神として祀られていた場所に、石宮・墓石と共に子育て地蔵が
祀られています。お地蔵さんの肩に乗った子供が宝珠を撫でていたり、衣の裾に絡みつく子
供の仕草が微笑ましいお地蔵様です。

次は、圓光寺へ。

真言宗智山派の寺院で医王山と号します。このお寺には、明治の洋画家・青木繁と縁があります。
明治38年(1905)、代表作「海の幸」製作の翌年、圓光寺に恋人の福田たねと滞在し、本堂の板戸
4枚に焼いた釘で、伊戸からみたと景色と思われる作品を残しました。残念なことにこちらには残っ
ていなくブリヂストン美術館が所蔵しているそうです。

圓光寺の墓地には、地蔵板碑があります。

次は、道路上から伊戸の滝を見学

以前は、滝近くまで行けたそうですが、現在は草に覆われ道がわからなくなっています。
地元では「お滝」と呼ばれているそうです。40年近く前に滝の上に灌漑用の貯水池を
造ったため、大雨が降って貯水池の水があふれないかぎり豊かな落下水は見る事ができ
ないそうです。

次はもう1つの滝があります御嶽神社へ。

祭神は日本武尊。文化3年(1806)の手水鉢や天保9年(1838)の石燈篭があります。

本殿左側に滝があります。

懸崖滝ですが水量が少ないため、滝面の浸食はほとんど進んでいません。昔は滝行の行場
があったらしく滝の中段には不動明王の石像が祀られています。

あとは、出発地点へと帰ります。今回のお散歩ツアーは伊戸の地域を散策しました。
こんな所に滝があるんだぁ~と思ったり・・・・まだまだ面白いところがあるんです。
次回は、5月の月イチツアーで「富山(とみさん)」に登ります。

月イチツアー「丸氏の郷へ」報告

新年度になりました。また旅倶楽部の活動も6年目に突入しました。
まだまだ頑張っていきたいと思っていますので、今年度もよろしくお願いします。

さて、今年度の1発目は月イチツアー「丸氏の郷へ」です。以前、雨で中止となったコース
の復活です。天気に恵まれましたが、風が強くて・・・・桜の花吹雪状態でスタートします。

出発地点は石堂寺です。

石堂寺について説明します。
天台宗の寺院です。寺伝によれば、奈良時代神亀3年(726)、行基菩薩が仏法弘通のため東国に下
りこの地に来られたとき、谷間の草庵の中から法華経を読誦する声が聞こえてきました。訪ねてみ
ると3人の僧侶が仏舎利を棒持し経を唱えていました。行基はそのいわれを聞き、この地こそを海
内無双の霊場であると確信し、自ら一刀三礼して十一面観音菩薩の御尊像を彫り本尊とし、大塚山
に石塔寺を建立して天下泰平・万民快楽を祈願したといいます。
仏舎利は宝塔に納められて、その昔インドにおいてマウルヤ王朝アシャカ王が釈迦入滅後、その骨
を八万四千の塔に納められ、全世界に配分されてものの一つだと伝えられています。日本では、こ
の宝塔が三基あり、滋賀県の阿育王山石塔寺と、群馬県の白雲山石塔寺(現・廃寺)とここ石堂寺
です。創建当時の寺名は石塔寺でした。


仁王様は「蛭取り仁王」と言われ、石堂地区の農民を悩ますヒルを退治して、その後この地区には
ヒルが居なくなったという民話が残されています。

本堂へと階段を上がっていきます。以前、聞いた話によると本堂までの階段の数は108段で、本
堂に着くまでに煩悩を取り除いてくれると聞いたので、煩悩のなくしながら上がっていきます。

境内には、文化財が多くあります。左側の本堂と右側の多宝塔は国指定重要文化財です。
本尊の十一面観世音菩薩立像・厨子も国指定文化財です。
多宝塔は、天文14年(1545)、住職宗海を大本願、丸珠師谷氏を大旦那とした丸一族が、里見義堯
・正木時茂等の協力をえて建立しました。中には鎌倉時代の千手観音像が安置されています。(県指定)


左側の鐘楼堂は市指定文化財です。真ん中の山王堂は県指定文化財です。
まだありますが、今回はこの辺で・・・・

次に向かうのは石堂城跡へ。遊歩道ができていて歩きやすい道になっています。
余り城跡という感じがしないのですが、頂上にたどり着くと丸氏の郷が一望できます。

次は、石堂寺の中にある旧尾形家へ。

江戸時代中期の享保13年(1728)の建築で、分棟型と呼ばれる形式で、居間・座敷・寝室等から
なる主屋と、かまや・作業場として利用される土間とがそれぞれ棟を別に建てられています。
尾形家は、旧丸山町珠師ヶ谷で江戸時代に中条流の医師をしていた尾形宮内を初代とし、その後この
地で名主をつとめたころもある家柄の旧家です。昭和46年・47年度に解体移築されました。
この場所は、以前小学校のあった場所だそうです。戦時中は軍が使っていたそうです。

次は、丸郷神社へ。

養老年間(717~724)の創建と伝えられて、元諏訪大明神と号しました。丸氏滅亡後、里見氏の領する
に至り、丸の郷の大社として祀られました。明治2年社号を改め丸郷神社と呼ばれています。
今回は一の鳥居の所で終わりですが、ここから約500m先の山に本殿があります。

次は、丸氏の菩提寺安楽寺へ。

天台宗の寺院で称号は吉祥山極楽院安楽寺。本尊は虚空蔵菩薩・阿弥陀如来です。寺伝によると、宝亀
年間(770~780)鴨川市の清澄寺の開基である不思議法師の創建であると伝えられ、本尊の虚空蔵菩薩は
法師が清澄寺で柏樹に彫られたものであると言われています。その後、慈覚大師がこの地を巡錫し堂塔
伽藍を修復しましたが、幾歳月かは草が茂り、伽藍は破壊され荒れ果てました。その後、この地の豪族
丸氏によって、現在地に移し開山し、丸一族の菩提寺としました。
中雀山門は、茅葺円柱の四脚門で享徳元年(1452)の建造と言われて、市指定文化財です。


本堂裏山の中腹には岩窟があり、中に墓石が残されていて、丸氏の墓だと伝えられています。

こちらで、昼食を取って善性寺へと向かいます。
途中、石仏群があり、地域の信仰を見る事が出来ます。

善性寺です。

天台宗の寺院で本尊は薬師如来です。昔は別の所にありましたが、元和2年(1617)に現在の場所に
移したといいます。この地は、丸一族の中でも最も有力であった咒師谷(しゅしがやつ)殿の屋敷
跡地とされ、境内のやぐらには、宝篋印塔や五輪塔が数奇あり、咒師谷殿の累代の墓だと伝えられ
ています。市指定文化財

境内には、大黒天が祀られていて、この大黒天の裏側に「後藤利兵衛橘義光作七拾ご翁」の銘が
あります。

次に向かったのは諏訪神社です。

祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)。長野県諏訪市の上諏訪神社と下諏訪神社の二社を歓
請した神社です。弘治3年(1557)里見義堯が津久井右馬允を代官として当社を再建しています。

最後の見学場所は、普賢寺跡へ。

現在は、石堂青年館になっていて、敷地内には普賢寺跡碑文が残されています。
普賢寺は、永興山多聞院普賢寺といい天台宗でした。昭和42年薬師如来ならびに不動明王を
石堂寺客殿に合祀して寺の歴史を閉じました。

出発地点へと戻り、今回のウォーキングツアーは終了しました。
この南房総市の丸山地域のエリアだけでも古いお寺が多く残されています。
平成29年度、まだまだ面白いコースがありますので、ご興味のある方、是非ご参加ください。

お散歩ツアー「三芳・中堰歴史と自然探訪」報告

新年度に入りました。桜の時期も終わり新緑の季節に入ってきました。
今年度のウォーキングの下見を開始していますが、新芽もでてきて歩くのにはいい季節になりました。

さて、3月の終わりに、28年度の最後のお散歩ツアー「三芳・中堰歴史と自然探訪」を開催しまし
たので、報告です。
中堰の駐車場から出発します。

まずは中堰の周囲を歩きます。

中堰は、旧三芳村の中地区にあります。昭和初期に農業用水源として造られました。その後、平
成9年度から10年度にかけて、ため池の保全と田んぼの用水の安定的な確保のため、県による
土地改良事業の一環として大々的な改修工事が行われました。周囲約1㎞の中堰周辺には、様々
の樹々が植えられ、色々な生き物が生息し、自然を感じられる貴重な場所になっていて、中堰親
水公園(游遊の里)と呼ばれています。地域の方が主体となり、月1回の里山わんぱく子供塾な
どが開催され、自然体験教育活動が実施されています。

3月の下旬という事もあって、桜を見れるかな?と期待していたのですが、今年は遅くまだ固い
つぼみの状態でした。

ゆったりのんびり堰の周辺を歩き次に向かうのは、九兵衛さんお墓碑。中堰から墓碑まで約1㎞
の間に、石仏が4カ所あります。

壊れてしまったものなどもありますが、お花も供えられ信仰されています。

九兵衛さんの墓碑です。(墓碑が見えませんが・・・)

吉田九兵衛さんって誰?という事で、この人は、正徳元年(1711)の万石騒動で、27カ村の一つ
でした中村の名主さんです。九兵衛さんは、一揆の頭取腰押の一人と見られて捕えられて入牢し
ました。斬罪は免れましたが、江戸10里四方と安房国追放の刑に処せられてしまいました。
墓碑の中央には吉田九兵衛と刻まれています。
万石騒動は、江戸時代中期の正徳元年(1711)に安房国北条藩1万石の所領27ケ村全体の農民が
起こした一揆です。

墓碑の脇には、急な階段があります。

この階段を登ると愛宕神社ですが、ちょっと足場が悪いので今回は登りませんでした。

次は、駒形神社へと向かいます。

祭神は、蒼稲魂命(あおいねのみたまのみこと)で食物の神と言われています。
「駒形」の名でよばれているのは、かつて神馬を差し出した競馬をおこなったことからと思われます。
天保14年(1843)の「仲村差出明細書」等によると、当時の江田村、御庄村、竹原村、山名村と仲村
の名前があり、毎年9月9日に竹原村山王神社の祭礼に参加し、競馬をおこなっていたことがわかり
ます。駒形神社の創立年月日等は不明です。
境内には、三山講碑や御嶽大神、「宗吾大神」の石碑があります。

ちょっとこちらの狛犬さんは、マンガチックでかわいいので写真を載せておきます。

阿の狛犬さんの方が可愛いと思います。

今回は、お散歩ツアーという事もあり見学場所はここまでです。あとは中堰へと戻ります。
後になってしまいましたが、中地区の歴史について少し書いておきます。
「平久里川」の支流「山名川」の中流左岸、沖積平野に展開する集落で、仲村とも記され
ました。里見氏時代末、御隠居様(里見義康の母)の地行所で386石余でしたが、慶長
19年(1614)に里見氏の改易後は幕府の直轄領となりました。寛永年間(1614~1643)、
村は東組と西組に分郷し、その後、旗本大嶋氏と小笠原氏の相給、屋代越中守領、忍藩松
平氏領などを経て、明治元年(1868)長尾藩本多領となります。その後、周辺の村で連合村
を作り、自治行政をおこない、町村製施行令で「稲都村」の大字となります。
鎮守は「駒形神社」で、寺院は「正安寺」(大正6年に廃寺)のほかに地蔵堂、堅牢地神
があります。

平成28年度は、このお散歩ツアーが最後です。全部で23コースで2コース中止でした
が、怪我なく無事に終わる事ができました。ありがとうございます。
また、変な文章でお伝えしています、ガイドの独り言も読んでいただきありがとうございます。
平成29年度も23コース開催しますので、是非、ご興味のある方、運動不足の方等々、
一緒に楽しく歩きましょう。

月イチツアー「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」報告

春らしい日が多くなってきました。しかしながら、花粉が多く飛びはじめ、ティッシュの
消費が多い季節ともなっています。薬もだんだんと効かなくなってるような・・・

花粉に負けずに今回は、「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」のツアーを開催し
ました。花粉に負けずにと書きましたが、その日はあいにくの雨模様だったので、花粉の量
は少なかったので楽でしたが、雨だとちょっと歩くのにブルーな気持ちになります。今回は、
3月6日に西の大黒様を拝見できるという事で、雨にも負けずに歩いてきました。
(今回の写真は、下見の際に撮った写真を多く使わせていただきます。)

集合場所は、千葉県酪農のさと。この日は休館日だったのですが、申請書を書き貸していた
だく事ができました。

ここは、酪農の発祥の地です。戦国時代(1500年代)に国守里見氏の軍馬を育てる目的で嶺岡
牧場をつくりました。その後、江戸幕府が嶺岡牧場を直轄し、8代将軍徳川吉宗が馬の改良に
力を入れ外国産の馬を輸入し、その際、インドの白牛3頭が入ってきました。白牛は年々繁殖
し、1793年からは搾った牛乳から白牛酪が作られるようになり、生産量も増え寛政8年
(1796)に、日本橋「玉屋」から白牛酪が売りだされるようになりました。このことが日本の酪
農の始まりです。明治の初めは、政府の管理下にあり、その後、有志により設立した嶺岡牧社
は牛馬を購入し、繁殖、改良を進め、明治22年には嶺岡畜産(株)が発足し、アメリカより短
角種50頭及びホルスタイン種雌雄2頭を輸入し、安房におけるホルスタイン種輸入の発端に
なりました。その後、短角種からホルスタイン種へ移行され、ホルスタイン種の乳用化が進み
ました。明治20年安房種畜組合の設立、明治28年安房畜産会結成、明治39年には安房郡
産牛組合の発足と、畜産の普及と活況にあわせて組織も発展しました。

酪農のさとを後にし、国道410号線を少し歩き、嶺岡林道へと入り坂道を登っていき八丁陣
屋へと向かいます。坂道を登っている頃はまだ小雨でした。

八丁陣屋に着くころには、雨が多くなってきました。

嶺岡牧経営の管理は、嶺岡牧のほぼ中央部に享保20年(1735)に造られた八丁陣屋で行ってい
ました。番屋の他、牛舎、厩舎が建っており、馬を洗う池もあったそうです。明治時代には建
物は焼失し、池は戦後埋められてしまったそうですが、井戸跡や陣屋裏の山に祀られた稲荷な
どに八丁神社の名残をみることができます。


稲荷社です。

次は、水田氏の生家へと向かいます。
向かう道には、桜の木が植えられていて、途中には水田桜記念碑があります。

水田桜記念碑は、水田三喜男氏が地域の活性化と嶺岡林道を美しく整えるために、地元の方と
500本の桜を植えられました。そして水田氏が設立した城西国際大学が鴨川市に観光学部を
開設したことを機に、水田桜を守ろうと「嶺岡林道桜並木修復プロジェクト」を立ち上げ、毎
年多くの桜を植樹しました。創立20周年の時に、この記念碑を建てたそうです。

記念碑から下へと下っていくと、水田氏の生家があります。長屋門の所から、管理をされてい
る佐藤様にご説明いただきました。

長屋門です。

長屋門は桁行16.4m、梁間5.5m規模の寄棟造、桟瓦葺、出桁造の建物で、全体的に太い
材が使われています。正面右1室と左2室を牛小屋とする点に特徴があります。江戸時代以来の
酪農地である嶺岡牧場の歴史を伝える建物として貴重なものです。建設年代は、江戸後期か明治
初期と推測されます。(登録有形文化財)

母屋です。

母屋は、桁行15.8m、梁間11.1mの茅葺の寄棟造で、東側を土間とし、床上は囲炉裏を
切った15畳の座敷を中心に5室あります。西側に縁側、南面には瓦葺の下屋を差し掛けるなど
房総民かの特色を以ています。建設年代は江戸後期と推測されます。茅葺屋根の形がネコの背に
似ていることから、ねこぜと言われるそうです。(登録有形文化財)

母屋の中も見学させていただきました。

囲炉裏にも火を入れてもらいました。ありがとうございます。

ここで、今回サプライズな事が・・・水田氏の御親戚の方からおみやげをいただきました。倶楽
部のガイドと水田氏の御親戚の方が知り合いで、お伺いするお話しをしたのが、このサプライズ
になりました。みなさん喜んでいました。ありがとうございました。

ここまで書いてきましたが、水田氏って誰?と思う方もいらっしゃるかと・・・
まずは、水田家の由来を・・・
旧水田家が存する旧曽呂村(鴨川市)は、嶺岡山脈の南麓を東から西へ通じる道を中心とした五
百戸余りの山村です。江戸時代からこのあたりでは毎年5月、たいへんなにぎわいの中、馬捕り
の行事が行われており、そこに幕府の役人が来て牛馬を見定めする場所を陣屋と称したが、庄屋
のような役割を果たし、村の指導的立場にあった水田家は、この陣屋と地続きとなっていました。
水田家は、400年以上前に四国讃岐から移ってきたものといわれています。明治中頃の水田家
当主水田竹蔵は、英国から初めて輸入されたホルスタイン種牡牛を飼育したことによって、酪農
史にその名を残しています。塾で学んで帰った当時の新知識人でもあり、初代の戸長、村長とし
て信望を集めていました。その息子信太郎も村長をつとめ、その在任中、県下にさきがけて村内
の学校数校を一校に統合、近代校舎を建て、村の教育に貢献しました。信太郎には6男2女が生
まれましたが、男兄弟だけでなく姉妹2人を含む8人全員がその当時の高等教育を受け、この山
村から中央に出て、財界、政界、教育界で活躍したのです。そのなかの3男が、のちに通産大臣
や大蔵大臣を歴任し、城西大学を創立した水田三喜男氏です。ここで生まれ、安房中学校まで過
ごしました。(パンフレットより)

では、水田三喜男氏のことを・・・
日本の政治家で、城西大学創立者です。大蔵大臣を数度に亘り務め、戦後日本の代表的な財政家
です。生まれは、千葉県曽呂村(現鴨川市)。旧制安房中学校(現県立安房高等学校)、旧制水
戸高等学校(茨城大学の前身校)を経て、京都帝国大学法学部に入学。1931年卒業後、東京
市の職員、専修大学講師、北越石油監査役等を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に
当選、以後13回連続当選を果たしました。1953年に経済審議庁長官として初入閣し、その
後、通産相や大蔵大臣を数回努め、第34回衆議院議員総選挙で13回目の当選を果たし直後
71歳で急逝しました。曽呂村尋常小学校卒業後、8里(32㎞)離れた名門安房中学校に進み
ました。安房中は軍港があった館山にあり、カッパ中学と言われるほど水泳が必須でしたが、水
田氏はカナヅチで、泳げないものだけが着ける赤ふんどしを義務づけられていたそうです。
水田氏の銅像が、館山市の鶴ケ谷八幡宮に建っています。

水田氏の事を少し知っていただいたところで、次の西神社へと向かいます。
西神社は、水田氏が通っていました曽呂小学校分教場の隣にあります。

祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)。勧請年歴は不詳。社殿の横に鴨川市指定天然記念物
の大杉があります。樹高約25m、目渡り幹囲約6m、推定樹齢300年以上。

狛犬たちも立派です。

石工さんははっきりしませんが、曽呂村仲区鈴木磯吉さんが手がけたもとだと推測されます。

次は曽呂小学校分教場跡へ。

身次7年(1874)に西尋常小学校として建設。同時期にこの地域で4つの小学校が造られました。
明治42年(1909)、村内の4校を統合し曽呂尋常小学校が誕生しましたが、西尋常小学校だけ
曽呂尋常小学校分教場として残されました。通学バスのない当時、子供の足で片道6㎞通うのは
大変だということで、1年生から4年生まで分教場、5年生から本校に通う事になりました。
昭和42年(1967)に廃校となり役目をおえました。この尋常小学校には、水田三喜男氏も通って
いました。
昭和42年に廃校となって現在は、このような状態です。2枚目の写真は、廃校後、公民館とし
て利用していたので、くずれ方が違います。
ここで、食事休憩です。またお弁当の写真を撮り忘れてしまいましたが、今回のお弁当は南房総
市和田町の「くすの木」のお弁当です。旬な山菜の天ぷらなどが、入っていてとてもおいしかっ
たです。

お腹もいっぱいになったところで、最後の見学場所、蓮華院へとむかいます。っと言っても目と
鼻の先ほどの距離ですが・・・・


真言宗智山派の寺院で、山号を宮本山といいます。大黒弁財天(大黒尊天)は、大正9年(1920)、
真野寺の分体としてここ蓮華院に安置され、西の大黒様とよばれています。例祭の3月6日には、
家内安全、厄除、商売繁盛、開運を願って開尊されます。
写真は下見の時の本堂です。当日は、すべての扉が外され、大黒様もお顔が見れるよう、前の方
へと出してきてあります。
その大黒様がこちら。

ガラスの中に納められているので、写真を撮ると反射してしまって・・・難しいです。

雨でも御近所さんたちが来られて賑わっていて、甘酒や豚汁、お赤飯のおにぎりなど振るまわれ
ていました。13:30?~は落語が聞けたり、14:00~は福くじの当選発表、14:30
~は福もち投げがあります。毎年3月6日に行われますのでご興味のもった方は、是非来年行っ
てみてはいかがでしょうか?

さぁ~落語は聞かず、ここから、出発地点へと戻りますが、本来ならば約3キロ歩いて帰るので
すが、雨も強くなり冷えてきてしまったので、救護班の車に数名乗り込み、車をお寺に移動させ
て、みなさんを出発地点へと送迎し、終了となりました。
雨でもありましが、なんとか無事に終わる事ができました。

今年度は、お散歩ツアーを1本残しております。来年度のウォーキング予定表も印刷の段階に入
りました。出来上がりましたら、道の駅とかに置かしてもらいます。

お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」報告

この所、寒かったり暖かかったりと気温の変化がありますが、皆さま体調の方は大丈夫ですか?
花粉の時期でもあり、山を見ると杉がいっぱいです。花粉に耐えながら、がんばってウォーキング
してます。

大人の学習旅行の二日後に、お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」を開催しましたので
報告です。今回のツアーは、館山市神余地区に関係のある、金丸氏のゆかりのと地へと向かう
コースです。
出発前に、少し金丸氏についてお話しします。
房州初代金丸氏は、甲斐の国(現・山梨県)巨麻金麿(こまかなまろ)の住民で、天児屋命(あ
めのこやねのみこと)を祖神とする名門藤原一族で、東国鎮護の時に坂上田村麿将軍に仕え、活
躍したので神余の地をもらい、延暦23年(804)に甲斐より移転してきました。
名前は、金丸巨麻太藤原宗光(かなまるこまたふじわらのむねみつ)と名乗りました。9代目か
ら源親元の任期を除き、安房の国司を歴任し、16代昌孝は、源頼朝に従い鎌倉幕府設立に貢献
しました。26代景貞の時謀反が起こり山下定兼に国を奪われ、それ以降里見氏の家臣となりま
した。この景貞が山下に国を奪われた話が、南総里見八犬伝のモデルになったとも言われています。
(※諸説あります)

さぁ~出発します。出発地は、神余地区にありますキッチン&カフェマリヌスさんの裏からです。
この道はグリーンラインに抜ける道ですが、交通量が少なくついつい車が来ることを忘れてしまう
道です。途中、土手の土がえぐれている場所があります。昔の人?と思うと思いますが、「土どろ
ぼう」なんです。赤土は、稲の準備をする時に使うらしく、結構みなさん農協さんとかで買うん
ですが、ここに堀にきちゃってるんですね。

航空無線標識所跡の下を通っていきます。元々は、大きな塔があったのですが、このツアーの少し
前から解体が始まていて、塔が無くなってしまいました。
少し行くと民家・林道へと続く道を歩き、地蔵畑に到着します。

石のお地蔵様が2基あるので、地蔵畑といわれるようになりました。室町時代中期に、金丸景貞が
自害した時の介錯人の自性坊がこの岩屋に自性院を創建しました。元禄の大地震で崩れたあとは、
現在の場所に移ったとの事です。地蔵立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸末年
十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とあります。


お地蔵様の前の場所は平らになっていて、お堂があったのではないかな?と思われます。

次に向かうのは、御腹やぐらです。こちらは私有地の中にありますので、事前にお願いして見学
させてもらいました。

間口3m高さ2mのやぐらがあり、内部には宝篋印塔があります。
応永24年(1417)正月元旦、家臣山下定兼の一族が神余城に攻め込みました。正月3日、金丸景貞
は「もうここまで」と覚悟を決め、息子満孝(後、茂詮)に「里見家基をたよって逃げよ」と言い残
し、山深い地蔵畑の岩屋で自性坊に介錯を頼み切腹しました。
時はたち嘉𠮷元年(1441)5月安房の豪族安西・丸連合軍の加勢を得て山下城を攻撃、ついに山下定兼
の首をとり、父が切腹した場所に報告したと言われています。
のちに村人は、景貞が切腹した洞窟を御腹やぐらと呼ぶようになりました。(※諸説あります)

元来た道を通り、山道に入ると見晴らしのいい場所に到着します。個人の山ですが、許可をいただき
休憩タイム。ここで、少し皆さんに、金丸氏の紙芝居を・・・

天気が良ければ富士山が見えるのですが・・・大房岬やその後ろに三浦半島、城ヶ島もはっきりわかり
ます。天気が良ければもっとよかったのですが・・・

紙芝居を見て、一休みしたところで、最後の目的地、浅間神社へと向かいます。

社号碑から登り木でできた鳥居をくぐり登って行くと、祠が見えてきます。

神余地域は浅間信仰の盛んな土地柄で、浅間祠が何カ所もあります。こちらは京塚山の浅間神社です。
手水鉢には、安楽院が願主で安政6年(1859)に奉納されています。
京塚山は神余地区の最高峰で、海抜161mあり、戦時中、海軍の飛行機が墜落して山火事が発生した
そうです。
帰りは、古道を通り出発地へと戻ります。
今回のツアーを行う前に、同じコースで神余小学校の皆さんをご案内しました。自分の生まれた地区の
歴史を散策するという事でご案内しました。子供たちの記憶に少しでも残って、将来、自分たちの地区
はこんな歴史があるんだと思い出して語り継がれたらいいなぁ~と思います。
他の地区の皆さんも、是非、自分の生まれた場所の歴史に触れてみてはいかがでしょうか?
なぁ~んて宣伝してしまいましたが、今回も楽しくお散歩ツアーを開催する事ができました。
あと今年度は2回で終わりです。来年度も面白いツアーを計画しています。新しい案内は、3月下旬には
お目見えできると思います。

大人の学習旅行編

また旅倶楽部のメンバー&常連さんとで和気あいあいと大人の学習旅行へ行ってきました。
本当は、2016年8月に行く予定だったのですが、台風の直撃にあい断念し、やっと2月
20日に行く事ができましたが、その日もTVでは「台風並みの強い風」と言っているじゃ
ないですかぁ~。朝からドキドキものでしがた、なんとか出発する事ができました。

前おきが長くなりましたが、今回の大人の学習旅行は「川崎大師とANA機体工場見学」。
朝のアクアラインは、規制がありましたが通る事ができましたが、すごい風でバスのドライバー
さんは大変だったと思います。海ほたるにトイレ休憩で寄りましたが、作業している方の
雰囲気が通行止めになりそうな感じでした。

そんなこんなで、川崎大師の駐車場へ無事到着、歩いて参拝に行きます。

真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺が正式名称です。本尊は厄除弘法大師。開創は大治3年(1128)。
崇徳天皇(在位1123~1142)の時代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により
生国尾張を追われ、諸国を放浪し、この川崎の知に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮ら
しを立てていました。ある夜、ひとりの高僧が兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、
わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁に人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを
供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられ
ました。兼乗は海に出て、光輝いている場所に網を投げますと、一躰の木像が引き揚げられ、ささ
やかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が
諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊いお像と、これにまつわる霊験奇譚に感泣し、
力をあわせて大治3年(1128)に一寺を建立しました。兼乗の姓、平間を以て平間寺(へいけいじ)
と号し、ご本尊を厄除け弘法大師と称し奉りました。(川崎大師HPより)

うん~館山市の小塚大師の話だと・・・
弘仁6年(815)に弘法大師が東国行脚の際、静寂で霊験あらたかな山に立ち寄り、密教の道場として
一字の草案を建てたのが始まりです。ある日、布良崎に鎮座する太玉命が現れ大師に告げました。
「師がこの地に来たり給うは、土民の願い、師は今年42歳の厄年に当たる。一つには自分のため、
一つには衆生のためにどうか災難除け勝業を営むべし。師の住む庵の後峯に霊木がある。これを用い
て刻み祈誓したならば、あらゆる災難やわざわいはその像が身代わりとなって、師の心身は安らか
である。なお、あらゆる衆生を救うとの誓いを像にこめ、永くこの地にのこし結縁の者に厄難を除
かしめられよ。私もまた師の影に随って擁護しよう」と語り終えると、たちまち姿が見えなくなりま
した。お告げに従い霊木を探し、自ら二体刻み開眼供養をして、「願わくは有縁の衆生と共に福智円
満せしめん。当初鎮守を始め奉り、本朝の諸大神祗・三世十方の諸仏・諸菩薩証明加護し給えへ」と
誓い、その内の一体を布良崎の浜より流しました。その後、幾年かたって対岸の武州橘樹郡に流れ着
き、現在の川崎大師平間寺に祀られたと伝えられています。(小塚大師HPより)

両方の話を合わせると、弘仁6年(815)に弘法大師が、彫った2体のうち一体を布良崎から流したの
が、300年近くたって平間兼乗に引き揚げられて、川崎大師を作ったという事になるのだと私、
個人的に理解したのですが・・・でも、平間寺の方に唐で彫ったとなってるので、どうでしょう?

境内に着いたら、自由時間です。お参りしたり、お土産買ったり、昼食したりと皆さんご自由にお過ご
しいただきましたが、担当ガイドが言うには、「みちしるべ」があるので、それは見ておいてという事
だったので、見てきました。


川崎市の重要歴史記念物に指定されています。作られたのは江戸時代の寛文3年(1663)です。
大師への参詣路を表す標識で、もともとは川崎宿の万年屋の脇、東海道から大師道への分岐点に建てら
れていましたが、戦後、平間寺境内に移されました。高さ171cm、幅52cm、厚さ47cm。

あとは、私のおすすめは、西解脱門への道沿いにある「しょうづかの婆さん」と呼ばれる像が祀られ
ている場所です。

「しょうづか」とは「葬頭河(そうづか)が訛ったものだそうで、三途の川を渡る死者の衣服を剥ぎ取る
「奪衣婆」のことです。この「しょうづか婆さん」にお参りすれば、歯の痛みを止めたり、容貌を美しく
してくれたりといわれ、昔から信仰を集めたそうです。

皆さん思い思いに散策・食事などを楽しんだあとは、「ANA機体工場見学」に出発です。
まずは、講堂にて飛行機と整備についてのや整備のビデオなどを見ます。
いよいよ、3班に分かれて機体工場へと進んで行きます。
まずは、ビル3階分の位置からの見学です。

機体を見ただけで、なんだかワクワクしますねぇ~。皆さんも目の輝きが違ってました。

上から見たあとは、階段を下りて地上へ。

すごい迫力です。

最後は、参加者全員で写真を撮ってもらいました。

あと少しで機体工場の見学は終わりです。私の班を案内して下さった方は、元客室乗務員だった
方で、お話しも上手で面白かったです。最後に、整備士の方が工場内で使っている自転車を紹介
してくれました。

このNO1のピカチューは、見学時に見る事ができないらしく、これを見るといい事があるという
お話しでした。ラッキーアイテムらしいので、写真を撮ってみました。
他にの番号ごとに違うポケモンのキャラクターが描かれていました。

楽しい時間はあっという間に終わってしましたした。受付の所にあるコンビニに、ANAグッズが
売っていて、お土産を買って帰ります。
本当は、もう少し写真を撮ってあるのですが、ブログやSNSへの写真の掲載はANAの許可が必要
なのです。今回は、5枚しか許可の申請をだしていないので、掲載はできません。
ANA機体工場見学は、6ヶ月前から予約ができます。見学は平日のみです。

館山へと帰りますが、その日はあいにくの天気でアクアラインが通行止めになってしまいました。
岡回りで帰ってきたのですが、途中の高速道路も風が強く土煙が舞っていました。
かなり、ドライバーさんは大変だったと思いますが、無事に館山へと到着しました。

次年度の大人の学習旅行も計画しております。昨年度は防衛大学と横須賀港クルーズ、今年度は、
飛行機工場っときたので、次は○○なのでしょうか?皆さん近くなったらお知らせします。

今回の大人の学習旅行にご協力いただいた皆さまありがとうございましす。

特別編「木更津市公民館様ガイド」

花粉のシーズンに入ってきました。
房総の山を見れば杉だらけ。花粉症の人は大変なことになっております。
皆さんはいかがでしょうか?

さて、今回は月イチツアーの報告ではなくて、木更津市某公民館様からご依頼いただきま
した、ガイドの報告します。
なぜ?って、木更津市さんに同行したので、月イチツアーのネタが残念ながらないのです。
月イチツアーの報告を楽しみにしたいた方には、申し訳ありません。

某公民館様は今回で3回目のお申込みで、前2回は後藤義光の彫刻などをご案内したので、
今回は伊八の作品のご案内です。

待ち合せ場所は、道の駅三芳・鄙の里です。最初に向かったのは、南房総市山名にある
曹洞宗の智蔵寺へ。山名の大寺とも呼ばれています。

寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼(父・武田信玄)の嫡男で、天目山
を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。開山の太巌存高和尚は信勝の
舎弟英丸といわれています。また、中興の開基は里見の奉行、印東采女平忠康とされています。
徳川時代初期の寛永十五年(1638)、旗本三枝守昌は安房ノ国で一万石を賜って大名に列し、陣屋
を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所とした。次の守全は再び旗本となりましたが、その後、天保
13年(1842)まで204年の間、山名は三枝氏(その傍系諏訪氏)の知行所でした。(寺伝より)

本堂の欄間には「波と竜」の彫刻三面は、武志伊八郎信由と弟子森久八の作です。(文化5年)

墓地のエリアには、武田石翁が手掛けた石仏があります。

今回はバスが上まで登れたのですが、本当ならば苔むした階段を上がってお参りします。

とても雰囲気の良いお寺さんで、今回は、ご住職が本堂内をご案内していただきました。
貴重なお時間をありがとうございます。

次に向かったのは、石堂寺です。

天台宗の寺院で、長安山東光院石堂寺です。和銅元年(708)、奈良の僧・恵命、恵照がインドの
阿育王(あしょかおう)の仏舎利を携えてこの地に草庵を結んだことに始まり、神亀3年(726)
に行基菩薩がこの地に訪れて大塚山に堂宇を建立し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊にしたと伝え
られています。阿育王の仏舎利宝塔を祀っているので、日本三石塔寺と呼ばれています。
仁寿元年(851)には、慈覚大師が七堂伽藍を整備して、天台宗比叡山延暦寺の末になったそうです。
文明19年(1487)に夜盗による火災に遭い、当地の豪族丸氏や里見氏によって永正10年(1513)に
堂宇を現在地に移して最高されました。国指定の文化財建造物が4棟、仏像が1躰あり、県・市の
文化財も数多く残されています。

今回も、石堂寺のご住職に客殿に保存してある初代伊八の彫刻をご案内していただきました。
こちらは、写真撮影禁止なので写真はありません。(伊八の彫刻を見る場合は拝観料がかかります)
作品は、寛政3年(1791)、伊八39歳頃のものだと言われています。もとは、多宝塔につけられて
いたのですが、平成の大修理の時に元に戻されたので(多宝塔建立時には彫刻が無かったので)、
現在は屋内に保存・展示してあります。

当日は、ご住職はインドから帰ってきたばっかりだったんですが、いろいろ楽しくお話しが聞けました。
イノシシとの争いなど、ありがとうございます。

少し時間があったので、本堂の裏にある旧尾形家も見学に。

尾形家は珠師ケ谷村(旧丸山町)の旧家で、昭和46年・47年度に解体され移築されました。
江戸時代中期の享保13年(1728)の建築、居間と土間を別棟にした南方系の特色をもつ分棟型
の代表的な民家です。普段は中を見る事ができませんが、初縁日の日に見学する事ができます。
季節によって色々な花を見る事ができます。

次に向かったのは、捕鯨の町和田へ。せっかく南房総に来たので、クジラ料理なんかを食べて
いただこうか?とご紹介したのが、道の駅和田浦WA・O!!。こちらで昼食をとっていただき
ました。この時期は、お花が盛んな地域もありストックなどお安く購入する事ができます。

お腹いっぱいになったところで、真野寺へと向かいます。

真野寺は、真言宗智山派の寺院で、正式には「高倉山実相院真野寺」といいます。地元では、
「真野の大黒」と通称で親しまれています。
お寺の歴史は、神亀2年(725)に、行基菩薩によって開山されました。建永元年(1206)には野火
により焼失してしまいましたが、翌年に大黒天の信仰厚い北条義時が私財を投じて七堂伽籃を再
建し、覆面千手観音と大黒天像を安置しました。
本尊の覆面千手観音は行基の御霊作といわれ、霊験がとても高く、参拝者に少しでも疾しい心が
あると重い仏罰を下しました。それがあまりに厳しかったため参拝者も絶えていってしまいました。
貞観2年(860)、遊行中の慈覚大師(円仁)が立ち寄り、行堂面を彫ってかぶせたところ、以降、
優しく慈悲深い仏様になったといいます。
大黒天像は、貞観2年(860)慈覚大師(円仁)が、参籠中の旧正月六日、朝日昇天の中に大黒天が
出現し、大師はこの大黒天を直ちに一刀三礼により彫り上げたといわれています。朝日開運大黒天と
称され、毎年2月6日には、大黒様の出現を記念して大黒天福祭りが行われています。
現在の本堂は、元禄の大地震・大正の関東大震災と二度の被害をうけましたが再建し、昭和35年に
落成しました。

では、伊八の作品を。

大黒天祈祷所にあります。作品です。

「松に鶴」です。阿吽になってるのがわかりますか?

次は観音堂の作品です。

「波に宝珠と火焔龍」です。大黒天祈祷所と同じ時期の伊八57歳ごろと言われています。

こちらもお寺の方が説明していだきました。ありがとうございます。
覆面千手観音様のお話しは、ビックリです。覆面はしていますが、ちゃんと目の所に穴が
空いているので、しっかり参拝者を見る事ができるんです。

今回ご紹介いたしました寺院は、事前に見学のお願いをしてあります。ガイドの独り言を
見て行かれる場合は、お参りをしてからマナーを守って見学させてもらって下さい。
最近、勝手に本堂の中に入ったりする方がいらっしゃるようです。また法事中に中を見せて
とかいう方や、鍵をあけて見せろとか・・・自分勝手の人が多いと聞いています。
また、仏像が盗まれたり彫り物が盗まれたりという話も聞きます。
皆さま、地域資源でもあります神社仏閣に訪れる際は、マナーを守って参拝して下さい。