お散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」報告

今年も残り少なくなってきました。朝晩はだいぶ冷え込んできました館山・南房総は、太陽さえ出てれば陽だまりはあったかです。
12月のお散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」を開催しましたので、報告します。

今回の集合場所は、増間コミュニティーセンター。増間地区のご協力を得てお借りすることができました。ありがとうございます。

増間コミュニティーセンターは、増間小学校があった場所です。増間小学校は、明治7年(1874)に善通寺にて生徒20名にて開校しました。先生は、川名元岱。増間村の代々医者殿といわれる川名家に産まれました。学校開校するお時、増間山間はへき地でなかなか先生を頼むのに困難な為、自分たちの村から先生をとの村民の強い希望により、資格取得のため戸長名儀により師範学校へ「入学嘆願書」なるものを提出し、入学を許可され、修学が終わって増間小学校に就任したといいます。
明治22年に町村制施行により滝田村が誕生し、明治23年に滝田尋常小学校が本校となり、増間尋常小学校は分校となりましたが、法令改正により10月には、増間尋常小学校として独立しました。明治32年9月に、校名を済美小学校と改めましたが、明治40年学校令改正により、済美小学校は廃止され、二葉分校となり、尋常4年までの児童を収容し、5年以上は本校の滝田小学校へと通学するようになりました。昭和47年に、旧三芳村の国府・滝田・稲都の三小学校が統合して三芳村立三芳小学校となり、二葉分校は廃校となりました。
敷地には、二葉分校の碑があります。

出発地から、沢山不動へと進んでいきますが、出発と同時に目に入って来たのが土砂崩れの後です。

9月からの台風の影響で地盤が緩んでいる所に、10月の大雨で山が崩れてしまったそうです。

この山の麓に、馬頭観音があります。

この馬頭観音さんは、地元の方に大切にされているようで、いつもきれいになっていて、カッパも着ていました。
観音様というと女性的な美しい表情であることが多いのですが、馬頭観音は憤怒の形相で表されています。怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ災難を取り除くとされています。また、家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様として信仰されています。昔は、武家や農民にとって、馬は生活の一部となっていたので、馬を供養する仏としても信仰されました。

湯の沢口というところに、お地蔵様と常夜燈があります。

お地蔵様はわかりませんでしたが、常夜燈は、天保5(1834)年12月のものです。
お地蔵様の地蔵とは大地からあらゆる命を蔵するよに、苦悩の人々を無限の慈悲の心でつつみ、救うがゆえについた名といわれています。インドの方では、次のような伝承が残されているそうです。
昔々、インドに大変慈悲深い2人の王様がいました。一人は自ら神になることで人を救おうと考え、一切智威如来という仏となりました。もう一人の王様は、神になる力を持ちながら、あえて仏となることをやめ、自らの意思で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩と、さまよい続ける魂を救おうとしました。それが地蔵菩薩です。地蔵菩薩の霊験は大変多く、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代りになって救済するという説話があります。

沢山不動入口の近くには、集乳所の跡があります。

沢山不動入口から沢山不動へと緩やかな坂を約40分上っていきます。途中には、炭焼き小屋などがあり、下をみると栗が落ちてたり、どんぐりが落ちてたりと山を楽しむ事ができます。

やっとお堂が見えました。

左奥が沢山不動尊で手前はお手洗いです。歩きながら撮ったので、ブレてしまいました。

お堂の少し手前の山側 には、馬頭観音があります。

文化7年(1810)のもので、文字で彫られています。

沢山不動です。

密教の寺院で、本尊は不動明王。創立縁起は不明ですが、昔から「沢山の不動さま」と呼ばれ、安産・商売繁盛・学業成就などのご利益があるとされています。縁日は、毎月28日に行われ、特別に2月と8月に護摩行事があります。
里見公が守本尊にしたとの話がり「里見公守り給ひし 不動尊 残す宝は ここに勝つ勝つ」という古歌が残っています。

不動堂は、普段は開いていませんが、お堂を開けて頂いていました。縁日ではない限り、見る事が出来ないのですが、地元紙に載ったおかげで、堂守さんが開けてくださったみたいで、感動です。ありがとうございます。

本堂向拝の龍の彫刻は、後藤義孝の作です。

後藤義孝は、三代目後藤義光の弟です。大正12年(1922)関東大震災後に建てられた歌舞伎座や明治座の装飾彫刻に腕を振るい、昭和11年(1936)に完成した国会議事堂参議院の玉座を飾る大鳳凰も義孝の作です。

不動堂の下の長沢川には「七つ滝」と呼ばれる滝があります。不動滝・棒滝などがありますが、全景を見通すことが出来ません。
最上段の滝横には不動尊の石像が安置されていて、行者の水行をした場所です。

お堂の正面には、かじか橋があります。平成10年に千葉県が建設したもので、房州では1番のつり橋です。

この吊り橋と、不動堂は、TBSのドラマ「ナポレオンの村」の撮影地にもなりました。

吊り橋の上から下を覗くとこんな感じです。

三段になった滝が見えます。渓谷になっているので、結構な高さがあります。冬場は、橋が凍結していると滑りやすくなるので、注意が必要です。

お堂の反対側は、Zワンダー公園という名になっていて、川の方へ下って行く階段があり、川へ近づく事ができます。

川底に降りたという事は、ここから、階段を上って行かなくてはなりせんが、ゆっくり上れば大丈夫です。
整備されていますが、この階段が擬木なので、擬木の上に乗ると滑りやすいので、注意が必要です。なるべく乗らずに歩いて下さい。因みに棒滝ですが、現在は道が荒れてしまって見る事ができません。あっ、増間地域には、増間七滝というのが増間川上流にありまして、坊滝・やげんの滝・狩人の滝・乙女の滝・乙坊の滝・前蔵引の滝・後蔵引の滝の7つ滝があります。増間ダムの脇にある林道を行くとあるんです。なので、沢山不動にある棒滝と間違えないでください。

あとは、出発地点に戻ります。
そうそう、出発地点の増間地区ですが、平家の隠れ里とか、豊臣家の落人の里とか言われ、落人が身を隠すため馬鹿をよそおい世間の目を逃れたという伝説があり、「増間のばか話」として伝えられています。
南房総市の昔話より、ご紹介します。

「馬がかわいそう」
 むかし、増間村の久兵衛という百姓が住んでいました。あるとき石臼が棚から落ち、割れてしまったので、薪を売って新しいものを買おうと、馬にいつもの倍の薪を積み、那古の街へ出かけました。そして、薪を売ったお金で石臼を買ったのですが、久兵衛は気の優しい男でしたから、街で薪を積んできた馬に、また重い目にあわせるのは、かわいそうだと思い、「けえり道は、おらが石臼をしょっていぐべぇかにゃー」と独り言を言いながら、自分が背負い歩きだしたのですが・・・。しかし、久兵衛は、いくらも歩かぬうちに、石臼が我慢できないほど重たくなりましたので、馬に向かって「おめえに、石臼持つのを交代して貰いてぇが、くたびれていてかわいそうだかんよ、やっぱおらが、家までしょって行ぐが、そのかわり、おらを乗っけて行ってくんにゃーか。」と言って、石臼を背負ったまま、馬に乗り、家にに帰りました。久兵衛は、帰り道の途中で人に会うたび、「石臼を直に馬に乗せて行けば、おめえさんも楽なのに。」と言われたそうですが、そのたびに、「馬がかわいそうだかんよ。」と返事そしたということです。

「土産の蝋燭」
 昔むかし、増間村の名主が江戸見物に行き、土産に蝋燭を買ってきました。そして、村中の家に配りました。 ところが蝋燭をもらった村人たちは、蝋燭を生まれて初めて見たので、てっきり江戸の食べ物と思い、皆が食べてしまったのです。それを知った名主は、驚いて村人たちを集めて言いました。「わしは江戸でみてきたが、蝋燭は頭から火を出して燃える物だ。火の元は注意が肝心だから、蝋燭を食べた者は早く向こうの川の中に入って水をかぶれ。」 名主の話に、村人はびっくり仰天。「体が火事になれば、家にも火が移る。」と大騒ぎになり、皆が川に行くと深みのところに飛び込んだのです。名主は、連れてきた村の火消し人夫といっしょに川を見下ろし、「早く知れてよかった。もう少し遅いと、村中が丸焼けになるところだった。」と言いました。

最後は、増間のばか話ではありませんが頼朝伝説が残されています。
 治承4年(1180)、伊豆の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に逃れてきましたが、そのときのある日、頼朝とその従者たちが増間にさしかかると、夕方になったので、一軒の民家を訪ね、一夜の宿を乞いました。ところが、その家の主は、頼朝一行の風体を見て怪しみ、家に泊めることを断ったのです。困った頼朝は、幾たびも乞いながら奥の寝どころに数枚のむしろが重ねておいてあるのを見つけると、その一枚だけでも貸して欲しいといったのです。それでも家の主は、「これは普段使うむしろではなく、大切なお客のためか、正月でなければ使用しない。」と言って断りました。頼朝と従者たちは、やむなくその民家の軒下にごろ寝しました。不思議なことに、それ以来その一家は今に至るまで、むしろを敷くことができなくなったといい、またそれは一族一統にとどまらず、増間村全体が同じです。無理にむしろを使用すれば、必ずその家に災難が起こるというのです。

増間地区だけでも30話位の民話が残されて、これからも語り継がれていって欲しいですね。

今回は、ここまでになります。なんやかんやで、地域のみなさんたちに助けられ感謝のツアーとなりました。増間地区の皆さん、沢山不動の堂守さんありがとうございました。

月イチツアー「特攻・捕鯨・勝山藩等の歴史を探る」報告

今年も残すところ1ヶ月となりました。いつも、綺麗な紅葉を見せてくれるイチョウも、今年は度重なる台風の被害で見る事ができません。台風の爪跡がまだまだ残っている館山・南房総ですが、頑張っていきます。

今回は、台風15号で、甚大な被害を受けた鋸南町を歩いてきました。開催するかどうかは、色々葛藤がありましたが、下見の際に出会った人からの言葉があったので、開催する事にしました。
当日は、雨模様でした。雨雲レーダーを見ると、雨雲がかかっていないのに、ずっと雨が降っている状況で、雨雲レーダーまでも千葉南部を見捨ててるのかと思うほどでした。

出発地から、まず最初に尋ねたのは、大乗院です。

新義真言宗智山派の寺院で、本尊は、不動明王立像。残存する寺誌によれば「二浜邑(にばまむら)内宿東光山薬師王大乗院は、抑々醍醐ノ宮御門徒にて、鎌倉三代将軍実朝公治世の御時(1205~1219)二浜邑主台命ありて建立」と書かれています。
安房国百八箇所の、第16番札所になっています。

本殿右手にある一石六地蔵は、文化3年(1806)に造立されたものです。

隣にあるのが、白幡神社です。

祭神は、誉田別命。創建等は不詳。

境内には、町有形文化財山王系庚申石祠があります。

石祠は、寄棟造で、瓦棒を克明に表現し塔身を四区割、正面上部二区画に窓を開け背面に銘文が刻まれています。材質が地元の凝灰石なので、風蝕に弱いので、銘文が読めないところがあるそうですが、寛永19年(1642)の物だそうです。
内部には、天保7年(1836)銘で、山王三神の文字と三猿を彫像した石造物が納められています。

ちょっと中をのぞいてみました。

少しお猿さんが見えるかと思います。

次に向かったのは、鯨塚。板井ヶ谷の弁財天と同じところにあります。

弁財天は、勝山藩酒井家のの分家で竜島の殿様(3000石)と言われた旗本酒井家の弁財天だったそうです。弁財天は水神であり、財産を司る副神だと言われています。

その隣に鯨塚はあります。

鯨塚は、房総捕鯨発祥の地ならではなのかもしれません。
鯨を解体するのが出刃組と呼ばれる専門部隊でした。彼らは漁期が終わるごとに、鯨への感謝と供養の為に小さな石宮を建てていきました。これが鯨塚と呼ばれる石宮です。100基ほどあったと言われていますが、現在は52基。供養碑のおおきさにより捕鯨数が分ると言われています。

次は、岩井袋へ。岩井袋は、岩井袋特攻基地があった場所になります。
昭和20年(1945)7月22日沖縄作戦が終了し、24日零時までに本土決戦体制を整える事が発せられました。予想される相模湾上陸に備え、東京湾入口には横須賀鎮守府直属の第一特攻戦隊・第18突撃隊(嵐部隊)が置かれ、勝山震洋基地の他に、岩井袋に特殊潜航艇に基地が構築され、海龍隊・咬龍隊・回天隊の兵員1700人規模の部隊が配備されました。岩井袋港を囲む形で、横穴式の特攻艇格納庫や発電所・燃料庫などが設置されました。現在は、網などで塞がれ入る事が出来ないようになっていたり、倉庫になっていたりします。


咬龍格納庫を覗いてみたら、咬龍の残骸かと思いきや、要らなくなったボート?が格納されていました。

次は、最誓寺へ。

浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来像。
江戸時代初期の寛永6年(1629)下野国(現栃木県)に創建され、寛永15年(1638)領主・佐倉藩主堀田氏がこの地へ引き移った時に、加知山村(現鋸南町)へ移転し慈光山最誓寺と称しました。
堀田氏は、旧地より持ってきた聖徳太子16歳の像である「孝養太子像(行基作)」を安置するため、太子堂を建立し、安房の国における「太子講」の礎を築きました。その後、明和年間の大火、明治34年の大火等による火災・天災に見舞われましたが、門信徒により再建改修されてきたそうです。明治に入って、現在地(板井ヶ谷)に土地を買い求め、仮本堂をおきました。かつて、板井ヶ谷には、勝山藩の陣屋の一部があり、現在も本堂裏には、茶の湯に用いるための水を汲んだ井戸が残されています。

勝山藩陣屋跡を通りながら、古峯神社へと向かいます。
古峯神社です。

北の大黒山に対し、南の小さな山は恵比須山と呼ばれています。天然の石段の上に小さな古峯神社が祀られ、石段の入口には恵比須様が祀られています。恵比須山は、標高25mで、子供の入山は出来ません。見るからに、大人が上るのも大変そうなのに、子供では、危ないですね。今回は、上る事はしませんでした。

次は、いさな通りを歩き長谷寺へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は十一面観世音。安房国札観音霊場第6番。
由緒によると、聖武天皇が病気平癒を祈願してなら長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基菩薩が2体の観音像を彫り安置しました。そのうち一体は、足利尊氏が武運長久祈願のため帰依し、当地にお堂を建て安置しました。その後4代将軍足利利義持が僧の木鐸とともに応永13年(1406)に開創したと言われています。大黒山中腹には、初代醍醐新兵衛の墓があります。

次は、水月堂(大智庵)へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は千手観世音。安房国札観音霊場の番外です。
お堂は、文和4年(1355)創建と言われています。元禄16年(1703)に起きた大津波で流出、大勢の死没者がでました。そこで立ち上がったのが、三代目醍醐新兵衛明定でした。元文5年(1740)死没者の冥福を祈るため、そして助かった父や祖父、自分たちに対する仏の加護に感謝するために、江戸の仏師に千手観音立像を依頼し、初代醍醐新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て、観音様を安置したとのことです。
水月堂下の祠は、やすらぎ地蔵の祠です。

浄蓮寺へ。

浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。開創は元和2年(1616)。元禄の大津波により本堂・古記等を流失してしまい、詳細は不明です。万延元年(1860)に本堂を再建しましたが、関東大震災で倒壊、庫裡のみ再建しました。本堂は昭和34年に改築、客殿は平成7年に改築されました。
俳人・小林一茶は、文化年間(1804~1818 第11代徳川家斉)にたびたび安房に足をのばしていて、その折りには浄蓮寺を宿としていたようです。一茶44歳の時には、8泊して何句か詠んだ記録が杉谷徳三蔵著書「小林一茶と房総の俳人たち」にあります。

妙典寺へ。

日蓮宗の寺院。本尊は、十界曼荼羅・日蓮坐像。醍醐新兵衛家の菩提寺です。元禄元年(1688)に初代醍醐新兵衛定明と2代明廣が、持地700坪を寄進し、荒廃してしまった田子の台妙典台にあった妙典寺を再建しました。田子の台妙典台は、日蓮説法の跡妙典寺の前身と伝えられています。

妙典寺入口入ってすぐの場所に、幕末の戊辰戦争で戦った勝山藩士の碑があります。

戊辰戦争は、薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中心とする「新政府軍」と、徳川幕府や会津を始めとする奥羽越列藩同盟を含む「旧幕府軍」との間に起こった日本の内戦の事です。
慶応4年(1868)、江戸幕府が滅びましたが、それを不服とする旧幕府軍の一部が挙兵し、上総請西藩(木更津市)藩主・林忠崇は、義軍と称し、幕府遊撃隊の人見勝太郎、伊庭八郎らとともに、内房諸藩に援軍を求め南下し、勝山藩にも援軍を迫りました。抵抗すれば勝山は戦火に巻き込まれことになり、勝山藩は苦慮のすえ、福井小左衛門、楯石作之丞ら31名を半ば公認、半ば脱藩の形で義軍に参加させました。館山から海路伊豆へ渡り、小田原藩にも協力を要請しますが、あいまいな態度を繰り替えし続けました。林軍は、伊豆周辺を転々としていたが、箱根の関所を占拠、これを知った官軍は、小田原藩に林軍掃討を命じられ、箱根湯本の山崎で衝突しました。この時、勝山藩士は、人見勝太郎率いる第一軍の一番隊に組み込まれてしまいました。一番隊と言ったら、最前線に立たされるという事です。勝敗はすぐに決定し、勝山藩士は、戦死15名、戦傷10名、行方不明2名とほぼ全滅でした。生き残った林軍は、海路再び館山に戻り、内房諸藩の兵はここで下ろされ、戦える者のみで東北へ転戦します。勝山藩士で帰藩したのは19人と記録されています。新政府は、義軍に荷担した内房諸藩に責任追及し、各藩首謀者の切腹を命じました。勝山藩では帰藩していた福井・槍石が佐貫の三宝寺で切腹し同寺に葬れました。
明治23年(1890)に彼らの義を讃えて勝山藩ゆかりの人々の発起により義士の碑が建立されました。

ここまで書いておいて、なんなんですが・・・勝山藩について少し書いておきます。
勝山藩は、慶長19年(1614)に里見忠義が安房国を没収され、以後、安房国は小藩や旗本領など細分化かされました。勝山の地は、館山藩領の接収に従事した上総国佐貫藩主内藤政長に与えられ、4万5千石の所領の一部となりました。元和8年(1622)内藤政長が磐城平藩に移るとその所領は分割され、内藤清政が3万石を与えられ、勝山城の麓に陣屋を構えました。。元和9年(1623)清政が死去し、弟の正勝は16歳だったので、幼少であるとして安房勝山藩は一時的に除封されました。寛永3年(1626)、正勝が兄の遺領のうち2万石を継承し、再度勝山に入封しますが、寛永6年(1629)に死去してしまいます。嫡子の重頼はまだ2歳だったため。5000石に減封され、安房勝山藩は廃藩となりました。
内藤氏改易後、勝山一帯は若狭小浜藩主酒井忠勝の所領となりました。酒井忠勝は、江戸初期に幕府大老を務めました。
長男の忠朝は、若年寄まで務めましたが、廃嫡の身となり、酒井家所領の市部村(現・南房総市市部)で薄幸の障害を終えました。寛文8年(1668)、小浜藩主酒井忠直(忠朝の弟)は、父忠勝の遺言に従って、甥の忠国(忠朝の子)に対して1万石を分けて、忠国は大名に取り立てられました。こうして勝山藩は、小浜藩酒井家の支藩として誕生しました。以来、勝山に陣屋を置くとともに、越前国敦賀郡と上野国群馬郡の飛び領地に代官所を置き、明治維新まで9代200年間この地を治めました。

最後の訪問先は、加知山神社。

祭神は縦速須佐之男命。元禄大地震(1703)により仁浜天王塚牛頭天王が浪欠したものを、2代目醍醐新兵衛昭廣が自身の地所の日月に天王の社地を開き、社祠を再建し還座しました。旧称は牛頭天王で、慶応4年(1868)に八雲大神と改称、明治2年(1869)に加知山神社と改めました。社殿内には、加知山神社・浮島神社・八幡神社の3社の御神体が合祀されています。
勝山地区の祭礼の時には、浮島神社へ御霊を移す島渡しが行われています。

あとは、スタート地点へと戻りました。
今回は、雨模様でしたので、早めの切り上げでした。鋸南町も、9月の台風で甚大な被害がありました。まだまだ、ブルーシートが目立っていますが、是非、街を歩いてみて下さい。

お散歩ツアー「保台ダム周辺歩道」報告

ご無沙汰しております。館山・南房総では、度重なる台風被害に遭い、被災された方も多くいらっしゃいました。当倶楽部のガイドメンバーには、幸いにも大きな被害がなく雨漏りぐらいでしたが、館山市の布良・相浜・西岬地区は、甚大な被害がおきました。事務所も瓦が飛ばされ、数日間電気も止まった状態でしたので、電話・FAX・PCと使えずお休みせざるを得ない状態でした。電気が戻り、事務所を開ける事ができましたが、予定していたウォーキング・バスツアーも中止とさせていただいておりましたが、11月よりウォーキングツアーを開催することになりました。

今回は、お散歩ツアー「保台ダム周辺歩道」報告です。
台風19号の後に下見をしましたが、その後に21号の影響で大雨が降ってしまって、大丈夫かな?なんて心配もありましたが、歩くには大丈夫でした。

まずは、保台ダム駐車場へ。
ダム周辺の古道などを遊歩道として整備し、地域活性化しようと「保台古道保存会」が発足されていて、「ダム周回コース」や関東ふれあいの道に接続するコースが整備されました。今回は、ダム周回コースを歩きます。

保台ダムは、農業用水と上水道用兼用のダムで、昭和60年度に多目的ダムとして採択され、昭和54年の予備調査開始から平成10年の完成まで19年間の歳月を経ています。平成2年ダム工事着工、平成10年ダム完成。
元清澄山(標高344m)の南面を流下する2級河川の待﨑川に、安房地方最大規模の重力式コンクリートダムを建設しました。工事費52.9億円。総事業費は121億1200万円です。起業者は千葉県・施工社は清水建設です。保台ダムの貯水池より、鴨川市240ha
の農業用水と上水道用水が賄われます。総貯水量2,740,00㎥、有効貯水量2,540,000㎥、最大水深41mです。

今回は、ダムの周遊コースなので、解説があまりありませんが、参加者の方で、色々な山を歩いている方がいらっしゃいましたので、保台古道の説明をしていただきました。

説明されている場所から、古道へと入っていきます。先には、手彫りのトンネルがあったりと面白いコースだそうですが、災害の後、房総の山をみると、いたるところで倒木や21号の時の豪雨で山が崩れたりしていますので、どうなっているか分かりません。行かれる方は、自己責任でお願いします。

ダムの貯水部分には、昔の道を見る事ができます。

少しダム周辺を外れて歩いて行くと、ダム建設前に整備された看板があります。

この看板の先の道を行くと元清澄山に辿り着くそうですが、道を知ってる人と歩く方が安心だとそうです。結構、房総の山は似た感じの所が多いので、遭難する場合があるそうです。この先の道でも以前遭難した方がいたそうです。因みに、ここでは携帯電話の電波が入りません。

看板の場所から引き返して、舗装されたダム周辺へと戻ります。
ダムには、何本か橋が架けられています。一つ一つ名前がついているので、面白いかと思います。

なかでも1つの橋には、「蜘蛛橋」があります。ダムが出来る前には、蜘蛛滝があったそうです。地元の人達は、「くもったき」と言っていたそうで、昔ばなしも残されています。
「ウンと昔のことだ、東条村の和泉に親孝行な若もんがおったんよ。ポカポカとぬくい春の日、若けいのがあさから近くの川に釣りに出掛けた。きっと、こんな日はいっぺえ穫れるに違いねえ、と思ったんだっぺ。ところがよ、案に相違して、ちっとも釣れねえ。ちっけいの一匹穫れねえで、ピーピーださ。うんざりした若けいのは、いっぷくして、もうちっとばあり川上に行ってみるべえ、と考んげえた。だけんが、あーんも穫れねえ、どっか魚のいそうな淵はねえもんかと、場所を変えているうちに、とうとう山奥まで来ちまった。ふと、耳を澄ますと、滝の音がするでねえか。若けえのは、夢中で音のするほうに行ってみた。うっそうとした茂みのかげに、薄気味悪いほど青く澄んだ滝壷があるでねえか。ようし、ここで釣るべえ。若けえのは、早速素足になって水にへえり、糸を垂れた。すると、穫れるわ穫れるわ、いままで誰もきたことがねえせいか、ハヤだのヤマメが、おもしれえように釣れた。そのうち、足元がやけに重ったるいのに気が付いて、水んなかを見ると、一匹の蜘蛛が若もんの足にグルグル糸を巻きつけているでねえか。おかしなことをする蜘蛛でねえかと、しばらく釣るのも忘れて眺めていたが、蜘蛛はいっこう止める気配がねえ。このまま蜘蛛の好きなようにやらせとくと、がんじがらめになって、身動きもとれなくなりそうだ。こいつはえれえこんだ。若もんはゾッとして、大慌てでそばにあった大きな木の根っこに糸の束を移し逃げ出した。やれやれと思って、一服しながら滝壷をみつめていると、突然でっけい音がしておおきな根っこが滝壷の底深く引っ込まれてしまった。すんでんのところで命拾いした若もんは、根がのーてんきだったが、このときばかりは驚いたのなんの、すっとんで村に帰って、みんなに一部始終を話して聞かせた。村では、若けえのが孝行もんだったから、神様が危険を知らせてくれたに違げえね、というわけで大評判になった。それ以来、名めえのなかった滝は、「蜘蛛滝」と呼ばれるようになったとさ。」(市立図書館発行「鴨川風土記」を参考)

若干ですが、豪雨の後などが残っていましたが、ちょっと山の上にもみの木?があって、周りを整備して、飾りをつければりっぱなクリスマスツリーが出来そうな木がありました。冬の名所にすればいいのに・・なんて思ったり。

ダム周遊もあと少しの所で、上の方で「ゴソゴソ」音がするなぁ~と見上げてみると、お猿さんが上からのぞいてました。

写真で判るかなぁ~何匹もいて、子ザルまでいました。人間がなにやってるのか見に来たのかな?

最後は、ダムの上へ。

ゲッ~引き込まれる!!放水したらどうなるんだろ?なんて、台風災害があったから少し心配になりました。

最後に、この川、待﨑川は、治承4年(1180)8月、石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れた源頼朝が、東条地区で上総介平広常の合流を待ったといいます。待﨑の地名と川の名はこれに由来すると言われています。待﨑川河口付近には、合流を待つ間にに白旗を掲げた松を旗懸松といいます。太い幹の松でしたが、天保年間に枯死してしまい、古幹が小祠に祀られています。

という事で、今回は、災害で少し心が疲れていたので、笑いながらたのしく歩けたのではないでしょうか?
まだ館山・南房総は、キズは残っていますが、前を向いて進んでいます。是非、館山・南房総へ遊びに来て下さい。ついでに、倶楽部のウォーキングにもご参加下さい。

「夏休みウミホタル観察会」報告

ご報告が遅くなりましたが、4年目となりました夏休みの「ウミホタル観察会」が、事故無く無事に終える事ができましたので、報告します。
ウミホタル観察会は、最初、別の団体が開催していましたが、メインの方に御不幸があり、引き受ける事になりました。私たちの団体も初めての経験でしたので、渚の駅たてやまに勤務している海の先生に、レクチャーを受け各自勉強して今の状態になりました。
今回の観察会は、ご家族向けで夏休みに日にちを決めて開催をしていますが、普段は、学校や団体向けなどにもやっています。夜の時間帯が難しいという場合は、昼に渚の駅たてやまのレクチャールームを利用して発光体験をやる事が可能です。(今のところ、団体向けになってしまいます。)

さて、ウミホタル観察会の当日の流れをお話します。
まずは、渚の駅たてやまの海の広場前で、受付を行い、お子さんには、ウミホタルの絵で見る解説資料をお渡ししています。リピーターさんとか、一度来た方から「すごくいいから」とすすめられてきた方とか、「子供の自由研究に」という方などが、来てくれています。
時間になったら集合してもらい、ウミホタル観察会の注意事項やウミホタルの生態・採集方法などをお話しします。私たちの団体では、餌はイワシなどの魚を使って採取しています。インターネットとかには、カニカマや魚肉ソーセージ・レバーなどと説明されている所もありますが、なぜ?魚を使って採集するのかを子供達に説明をしています。子供達には、「海の中にカニカマをいますか?魚肉ソーセージはありますか?」などと質問して。観察会には、ウミホタルを大切にする活動も含まれていますので、海の先生からの教えてもらった事を伝えています。その後は、ウミホタルの生態についてお話ししていきます。
ウミホタルは、太平洋沿岸(北は東北・南は沖縄)に生息していますが、館山湾には、多くのウミホタルが生息しています。なぜかといいますと、館山湾が綺麗で砂にもぐりやすいので、ウミホタルにとって生活しやすい場所だからだそうです。ウミホタルは、海にいるミジンコ(動物プランクトン)で、貝をもった2枚貝のミジンコです。オス・メスともに1年くらいしか生きられなく、館山湾にいるウミホタルの大きさは、オス2.8㎜前後、メス3.2㎜前後です。ホタルイカや陸上のホタルなどは、体中発光ですが、ウミホタルは体外発光になります。そんなお話しをしてから、採集場所(たてやま夕日桟橋)へ移動し、採集します。

1組に二つの採集ビンをセットしてありますので、各自、海へと投入していきます。
10分程度沈めておき、その後引き揚げます。ウミホタルをあけるバケツは2組で1セットなので、お互い協力しながら体験してもらいます。ウミホタル1つで、初めての人ともすぐにコミュニケーションが取れる体験になります。


ビンから網にあけると、こんな感じでウミホタルが観れます。この状態では、明るいので発光しててもコスモブルーの輝きは見れません。

電気を消して、少し刺激を与えると、コスモブルーに輝きます。

直接手の上に乗せて刺激を与えるとこんな感じです。

ウニウニ動くので、気持ち悪いなんて声もありましすが、子供も大人も楽しそうに体験していました。
スタッフと海の話や、星が出てると星の話などしながら、何度か繰り返し採集し、最後は、海へと感謝を込めて返します。桟橋の上から返すので、海面には少しの間光っているので綺麗で、無事に砂の中に帰っていくのを願いながら、解散になります。
写真を撮るのもなかなか難しく、フラッシュをたいてしまうと、コスモブルーの輝きは見るこことできなく、フラッシュをたかないと、手振れがしてボケちゃったりします。ミラーレス一眼レフを持っていくのですが、技術がないので上手く撮れません。今回載せている写真は、全てスマホ撮影です。3年前のスマホでも撮れるので、最新のスマホだったらもっと上手く撮れるのかと・・・

今年は、ふるさと納税でのご参加も増え、TVの取材なんか来たりして、インタビューなんかも受けたのですが、カットされていました(笑)市役所のふるさと納税の担当者が、市役所内でインタビューされてましたが・・・(笑)

来年の夏も開催予定ですので、是非、みなさんもご自身の目で、コスモブルーの輝きを見に来て下さい。
日程とかは、またホームページ上でお知らせします。

お散歩ツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」報告

梅雨真っ只中の館山・南房総。週末になると、いろいろなところでお祭が開催されています。
さっさと梅雨が明けてくれないと困ります。

さて、もう7月なのですが、5月のお散歩ツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」を開催しましたの
で報告します。
今回の集合場所は、鴨川市のフィッシャリーナ鴨川の駐車場です。
加茂川を渡り、釈迦寺へ。向かう途中にお稲荷さんを発見。ご近所の方に進められ、お参りしてみました。

詳細は不明ですが、隣には、古峯社も祀っています。景色は、港を一望できて眺めが良い場所でした。

釈迦寺へ。

日蓮宗に属し茂原の藻原寺の末寺です。創建は、平安時代の天長2年(825)に慈覚大師円仁の開基と伝えられていますので、当初は天台宗の寺院だったと思われます。その後、衰退した同寺を日蓮聖人六老僧の一人日向が、鎌倉時代末期の徳治2年(1307)に、日蓮宗の寺院として中興開山したと伝えられています。
釈迦寺には、次のような縁起が伝えられています。釈迦寺の前身は、唐から帰国した天台僧円仁が、諸国巡歴中、磯村の地に開いた道場です。それから長い年月を経た鎌倉時代の末ごろ、磯村前面の海に異変が起こりました。それは漁師の網に釈迦像が3度もかかったことです。しかし、漁師は不思議に思いながらもそのつど海に戻していました。それからというもの海鳴りが続き高波が起こり、夜ごと海中が光輝き、人々は恐れて漁にもでられぬ有様でした。たまたま日向上人は誕生寺に滞在していて、ある夜霊夢を感じました。霊夢は「当国磯村に続く小島(現荒島)近くの海中に釈迦如来の尊像がましますので、速やかに迎え祀り奉れ」というお告げでした。日向上人はお告げに従い直ちに磯村沖の小島に渡り、座を清める香る花を献じて読経すること17日間に及んだ。ついに釈迦如来像を得て、村にもどり、里人に堂舎の所在を尋ねたところ、里人は「昔、慈覚大師の草創と伝える寺がありました。しかし、今は、大日堂と申すお堂が残るのみです」と答えた。日向上人はお堂を釈迦堂と名を代え、尊像を安置しました。そして日蓮宗寺院に改め徳治寺と名付けた。日向上人が釈迦像を安置してからは、波も穏やかになり海中の不気味な光も消え、日夜大漁が続きました。人々はお釈迦さまの慈悲に感銘し、いつしか釈迦寺と呼ぶようになったといいます。

次に、金剛院へ。

真言宗智山派の寺院で山号を海満山といいます。鴨川市川代の勝福寺の末寺で、本尊は観世音菩薩と阿弥陀如来(元・光福寺本尊)です。寺伝によれば、承和13年(846)の秋、慈覚大師円仁が諸国巡礼の途中、磯村の海岸に差し掛かった時、海中が突然光明に輝き、弁財天が姿を現し、「汝を待つこと久し、吾ここに長くとどまりて、一切衆生を救わん」と円仁に告げました。そこで円仁が早速に観世音と弁財天の尊像を彫上げ、海に近い磯村字山の腰に一寺を建立して海満山金剛院と名付けて、尊像を安置しました。その後、年を経て衰微しました。建久4年(1193)に中興開山したのが、祐海法印と伝えられています。江戸時代の中頃までは山の腰に有りましたが、高潮などによって度々境内地が削られる被害を受けたので、宝暦元年(1751)も台地の北町に寺院を移したといいます。明治6年(1873)に山の腰の光照寺を合併し、同42年(1909)に横渚の光福寺を合併しました。
本堂に続く参道には、鴨川の石造物百選の宝塔があります。

鴨川市域に残る希少な中世の宝塔で応永10年(1403)の造立です。かろうじて、塔身・笠・相輪の一部が残っています。塔身には、金剛界四仏の梵字と紀年銘と施主名が刻まれています。十五世紀初頭の宝塔です。
この宝塔には、梶原景時あるいは景清の墓であるとの伝承が残っていますが、景時は正治2年(1200)に駿河で敗死し、景清は景時の父でさらに前代の人なので、年代の開きが大きく供養塔と考えてもおかしいと言われています。銘文に大施主善阿弥とあるので、時宗系の法名を持つ在地豪族による先亡供養塔の造塔と思われるとの事です。この塔は、なぜか勝負事に加護があるとの話が起こり、賭博に走る人々が欠いていったといいます。

お隣の妙昌寺へ。

日蓮宗の寺院で、山号を永長山。本尊は日蓮聖人と三宝です。
明徳2年(1392)に誕生寺第4世貫主日様上人の弟子、妙昌院日教上人によって改宗開山されました。江戸時代後期の地盤沈下によって、ほとんどの歴史的記録や文献などが海の底へ沈んでしまい、わずかに残された口伝と赤い門の「仁王門」だけとなってしまいました。現在、仁王門は平成29年の秋に人的被害の恐れがあるため、仁王像を取りだし解体してしまいましたが、第34世住職を筆頭に総代・檀信徒によって、山門改修工事を進めています。山門の前にあった大きな四爪錨は、今は山門の工事の為別の所にありますが、錨は、漁師の網が綿からナイロン製に変わり強度が上がった時に、引き揚げられたものです。先代の住職曰く「沖合で沈没した船の乗組員の念が錨についている、今まで見つけてもらいたくて網に引っかかっていたから目立つ通り沿いに朽ちるまで皆に見てもらって供養してあげよう」と言われ、置かれているそうです。山門の工事が終われば、また見る事ができるかと思います。

妙昌寺の脇の坂道を登り、八雲神社へ。

祭神は天照大神・須佐之男命・事代主命の三神を合祀しています。八雲神社の創建の記録は残されていませんが、南北朝時代の永和3年(1377)に出雲大社の分霊を移したもものだそうです。八雲神社ははじめ、神仏習合の教えにより、スサノオの化身である牛頭天皇を祭神としてので、天王宮(天皇様)と呼ばれていました。明治になり新政府の神仏分離令を受けて社名を八雲神社と改称しました。やはりこちらの神社もたびたびの波浪に襲われ壊れたり、社地も削られたりしたので、天保2年(1831)に立て直し、嘉永元年(1848)には本殿前に拝殿を造営しましたが、その後も波浪の被害が続いたので、安政2年(1855)に大規模な修復を加えましたが、その後も波浪を防ぐことが出来ず、現在の地に移し再建しました。
拝殿向拝の龍の彫刻は、三代目武志伊八郎信美の作です。

八雲神社の手水石は、鴨川の石造物百選です。文政3年(1820)、武田石翁が43歳の時に製作したものです。「壽秀」の刻銘が刻まれています。真ん中に巴の紋を配し、戯れる二匹の獅子が刻まれています。獅子の口の開き方が、阿・吽像一対のを意識した構成であることが窺われます。石材は伊豆方面で産出される安山岩が用いられています。

港町独特の路地を通り、福田寺へ。
浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は恵日山。本尊は阿弥陀如来です。由緒などは全く不詳です。
福田(ふくだ)と書いてふくでんといいます。結構ふくだじと読まれてしまうそうです。
本堂に上げさせていただきました。

福田寺から少し坂を上ると、本覚寺に。

浄土真宗本願寺派の陣で、山号は松風山。本尊は阿弥陀如来です。
創建について「明細帳」は、「岩代国(現福島県)会津に所在した、為信寺の十二世善照が元和2年(1616)2月当時に至り、貝渚川口の地に一寺を開き海岸山本覚寺と名付けた」と書いてあります。明治34年(1901)に火災にあい、明治44年に再建されたといいます。「明細帳」には、更に、「境内に仏堂があり、太子堂という聖徳太子を祀る。文久2年(1862)8月に建てられたお堂である」と書かれています。
今回は、ご住職と副住職にお話しをお聞きする事ができました。
お参りさせていただく事を下見の時にお願いしたところ、お話しもしていただける事になったんです。当日も、待っててもらってありがたかったです。
お焼香の仕方とか、じゅっぱひとからげの語源だとか、「なるほど」と思う話をお聞きできました。
1つ前に訪れた福田寺と兼務という事で、ふくでんの意味も聞く事ができました。
お坊さんがいつも身につけている袈裟。また、袈裟の一種である絡子の事を別名、福田衣(ふくでんえ)と言いうそうです。「福田」とは仏教で、善き行為の種子を蒔いて、功徳の収穫を得る日という意味で用いるそうです。
なるほど、そこから来てるのですね。
ご住職・副住職さんに感謝をし、次へと向かいます。

歩いて3分で白幡神社へ。先ずは、敷地内にある観音堂に。

観音堂の前には、鴨川の石仏百選の五智如来を石造に刻んだものがあり、安房地方で唯一だそうです。
板碑型に成形した石材に五智如来を浮彫りにし、中央に金剛界の大日如来が確認でき、最上部には「五智」の文字と尊像にはそれざれ上部に梵字で尊名が刻まれています。尊像下のスペースには中央に「三界萬霊」の文字があります。

階段を上り白幡神社へ。

祭神は日本武尊(やまとたける)。創建は、平安時代初期の弘仁2年(811)正月と伝えられています。創建当時は、海に近い新浜の地に建てられていたといいます。承徳2年(1098)6月に激しい波によって社地が大きく崩れ、その後も激しい波にさらされたので、時期は不詳ですが、高所である現在地に移したと伝えられています。
治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房に逃れて来た時、白幡神社に立ち寄り平家打倒と源家再興を祈願し、源家の旗である白幡一流を納め白幡大明神を称しました。この事によって、以後白幡神社と呼ばれるようになりました。
宝暦10年(1760)に拝殿が造営され神輿が奉納され、安永9年(1780)6月には本殿の改修と石段・石垣などの整備が行われました。その際の彫刻師として武志伊八郎信由(波の伊八)の名が見えます。
因みに向拝正面の彫刻は、初代後藤義光の作品です。

次も歩いて3分位の所、心巌寺へ。

浄土宗の寺院で、館山市の大厳寺の末寺で、山号は寿慶山。本尊は阿弥陀如来です。文永2年(1256)に長狭郡西部の北風原村に創立し、天文2年(1533)の「里見氏の内乱」によって焼失したといいます。天正5年(1577)に里見氏の一族・正木義房とその妻(里見義弘の娘)が、禅師の高風に帰依し、磯村に移転開山しました。
寛政11年の火災・大正の火災等で荒廃、本堂内陣から月を見ることが出来たといいます。そこで昭和5年(1930)第24世の達隠上人が、現在地石子山に移転開山しました。
境内には、正木義房(出家して道俊)と夫人(法号、寿慶大姉)の二人の供養塔ががあります。

心巌寺に伝来する浄土曼荼羅3点は、昭和51年(1976)に鴨川市の文化財に指定され、行道面は、平成7年(1995)に県の文化財に指定されました。曼荼羅は、極楽浄土において阿弥陀如来が諸菩薩のために説法する様子を描いた仏画です。行道面は、寺院の法令や供養の再に用いる面のことで、古い面の作成時期は室町時代と考えられています。
本堂の前には、鴨川の石造物百選の一つ、釈迦如来像があります。

釈迦如来を丸彫りにした石仏で、寛文4年(1664)のものです。肉髻や螺髪をを表し、胸の前で禅定印を結び蓮座上にすわり静かに冥想する姿に造られています。すごくいいお顔をしている釈迦如来です。

次は、心巌寺の脇?の石子山へ。
ここにも鴨川の石造物百選の1つ、磨崖仏があります。

石子山の崖に成形し、壁面を造り最上部に梵字「ユ」が大きく薬研彫りされています。「ユ」の梵字は弥勒菩薩を表すものです。弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億700万年の後にと兜率天(とそつてん)よりこの未来のこの世に下り、苦しむ衆生の救済をする菩薩です。
梵字の下に「奉移四国霊場供養塔」と刻まれ、四国霊場88カ所を移した供養であることが分ります。下部には多くの人命や村名が刻まれています。江戸時代中期、享保元年(1716)のものです。

最後は、これまた歩いて3分程度の所にある永泉寺です。

曹洞宗の寺院で、鴨川市内にある長安寺の末寺です。本尊は華厳三聖木像です。三聖の像とは、華厳経の三聖者とされる毘廬遮那如来とその脇士、文殊菩薩と普賢菩薩を加えた三菩薩の像のことです。
はじめは市内磯村字西の崎に建てられていましたが、高潮被害が激しく大正末期(1923)頃に貝渚の石子山の地に移転しました。
向拝の龍は、昭和13年後藤吉徳の作品です。
こちらでも、ご住職からお話しをお聞きしました。ありがとうございます。

あとは、出発地へともどります。鴨川の港町には、多くの神社仏閣がありました。
皆さまも住んでる地域の歴史に少し触れてみるのも面白いと思います。

大人の学習旅行「加曽利貝塚と東京湾アクアライン探検」報告

もうとっくに新年度になっていますが、平成30年度最後に行った「大人の学習旅行」の報告です。
毎回好評の大人の学習旅行を3月の終わりに開催しました。今までの大人の学習旅行で海・空・宇宙とやってきましたので、今度は地下という事を考え、「加曽利貝塚と東京湾アクアライン探検」を開催してきました。ここ近年、インフラツーリズムなんて言葉があるように公共施設などの裏がを見学するツアーが人気なようです。

先ずは、館山から千葉市若葉区にある千葉市立加曽利貝塚博物館へ向けて出発です。
加曽利貝塚について少しお話しをします。
縄文時代、日本列島の沿岸部では、数多くの貝塚がつくられました。東京湾周辺はとくに多い地域のひとつで、湾の奥にある千葉市周辺には、直径100mを越えるような大型の貝塚が集中しています。その中でも最も大きい貝塚が加曽利貝塚なんです。
加曽利貝塚は、直径約130mの北貝塚と、長径約170mの南貝塚が連結し、全体では8の字形となる形状をしています。面積は約13.4ヘクタールで、世界でも最大規模の貝塚です。現在は、敷地は加曽利貝塚公園として管理されていて、千葉市立加曽利貝塚博物館が設置されていて、貝塚周辺には縄文中期の小型貝塚や住居跡が広く分布しています。
加曽利貝塚は、明治20年(1887)に上田英吉の「下総国千葉郡介墟記」によって学界に初めて紹介されました。明治40年(1907)、東京人類学会の調査で、「本邦第一の貝塚」であることが確認されました。
昭和38年(1963)頃、加曽利貝塚のある土地を企業が買収して整地作業を始め、南貝塚の一部を破壊した事を機に、保存運動が高まっていきました。昭和39年(1964)、千葉市は北貝塚の5ヘクタール余りの用地を買収し公園として整備、昭和41年(1966)に、土器や石器、骨など出土品を展示する博物館が開館しました。その後、昭和47年(1972)にかけて南貝塚の土地も買収されました。昭和46年(1971)に北貝塚が国の史跡に指定され、昭和52年(1977)には南貝塚が追加指定され、貝塚のほぼ全域が保存されることになりました。平成29年(2017)に、貝塚として初めて国の特別史跡に指定されました。

加曽利貝塚公園入口で、ガイドさんと待ち合わせをし、4班に分かれガイドツアー開始です。私たちの班は、復元集落から見学です。

貝塚だけでなく、集落跡としても極めて価値が高く、同じ場所で2000年間(5000~3000年前)暮らし続けていたそうです。自然に左右される狩猟採集中心の生活をしながら、同じ場所に住み続けられたのは、自然と共に生きる文化を育み、持続可能な社会を築いていた証拠だそうです。
復元した家の中には、違うガイドさんがいてお話ししてくれました。
しかしながら、今の私たちの生活から考えられないような・・寒くなかったのかしら?

公園内を歩いて移動していると、いたるところに貝の破片が落ちています。

次に案内してもらったのが、北貝塚竪穴住居跡群観覧施設です。
発掘調査当時の様子を保存科学の技術を用いて昭和43年(1968)から公開しています。貝層の下からは、竪穴住居がいくつも重なって発見されました。

この日は、苔などの駆除をしていました。やはり、光が当たり人の出入りがあるので、苔などが生えてしまうそうです。

次には、北貝塚貝層断面観覧施設を見学。

貝層断面観覧施設を見学。

巨大貝塚を造り上げた貝は、現在70種ほどが確認されているそうです。特にイボキサゴの数は全体の8割を占めています。
北貝塚竪穴住居群では約7000年前の住居跡が発見されていますが、当時の貝塚は残されていません。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期です。加曽利北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)に作られたものです。初期には小規模な貝塚と住居があったが、後にその上に直径約130メートルのドーナツ形の貝塚が約1000年かけて作られました。縄文後期になると北貝塚は利用されなくなり、その南側に南貝塚が作られ始めました。加曽利南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)のもので、約1000年かけて長径約170メートルの馬蹄形の貝塚が作られた。イヌの骨が人間とともに葬られていることが確認され、話題を呼びました。
イヌの骨が人間とともに葬られていると聞くと、犬好きの私には興味深々です。
貝塚からは他の動物の骨も大量に出てきたそうですが、全てバラバラの部分で、食べられた後のゴミでした。縄文人にとっての犬は、現代人の関係と同じようだったと考えられています。因みに、弥生時代の遺跡からは、犬の骨はバラバラなのもが出土しているそうです。
動物考古学の権威の方が言うには、
日本では紀元前7000年から8000年くらいのイヌの骨が、愛媛と神奈川県の遺跡で見つかっていますから、縄文時代の当初から日本にいたことは明らかです。そして、彼らはイヌをとても大切にしたんです。人間と同じように埋葬されていましたが、稀に解体した痕のある骨は見つかることがあり、それは食料とされたということも推測されます。ですが、基本的には食料とされずに、狩猟犬として扱われていたようです。怪我して狩猟犬として役に立たなくなっても大切に育てられていたようです。弥生時代になるとガラリと変わって、ほとんど埋葬されなくなり、骨もバラバラの状態で出土されているので、狩猟犬としてより食料とされていたのだと言っています。
なるほど。今でも、犬を食べている国はありますが、昔からイヌは私たちの生活の中の身近な動物だったんですね。

次に南貝塚貝層断面観覧施設を見学。

最後は、博物館内を見学し、現地ガイドさんとはお別れし、旧大須加家住宅でお弁当タイムです。

もともとは幕張町にあった住宅で、昭和43年に千葉市に寄贈され民族資料の保存のためこの場所に移築されました。江戸時代、幕張町は天領に属し、北町奉行配下にあり、大須賀家はその代官所にあてられ、俗称「北の代官所」と呼ばれていたといいます。この屋敷は、寛保から寛延年間(1741~1750)の建造と思われ、一部には近年の改造のあとが見られます。
ちょっと、バタバタしていて、表の写真を撮るのを忘れていまいました。

お腹もいっぱいになりましたので、東京湾アクアラインに向けて出発です。
予定より早く着きましたので、海ほたるを自由散策。その後、集合しいよいよ東京湾アクアライン裏側探検へと出発です。
まずは、アクアラインの歴史のDVDを見ていきます。


東京湾横断道路の構想は昭和36年(1961)から構想が始まり、30年以上の歳月を経て平成9年(1997)に実現しました。建設工事は東京湾横断道路株式会社が東京湾アクアラインの海上部にあたる約14.3km区間を担当し、日本道路公団は、事業調整・用地買収等のほかに、川崎市と木更津市の陸上部の建設を受持ちました。東京湾の海底は、ヘドロ層の軟弱な地盤であることに加え、地震も頻繁に起こる海底トンネルとしては悪条件が重なったことから、技術上の問題を多くかかえました。工事に用いた鋼材は約46万トン、セメントは約70万トンが使用され、総工費は約1兆4000億にも達しました。
川崎側は、シールドトンネル、木更津川は橋梁を採用しています。昭和46年(1971)頃の構想では、川崎側と木更津側の両側を橋梁構造とし、中央部をシールドトンネルではなく沈埋トンネルとするものでした。トンネルを採用したのは、船舶及び航空機という東京湾の海上及び上空の既存交通との兼ね合いがありました。全ての区間を橋梁構造にすると大型船舶の航行に支障をきたしてしまい、橋梁で大型船舶を通過させるだけの高度を確保すると羽田空港を離着陸する航空機の生涯となってしまうので、大型船舶を高校可能とするトンネル部分を設ける必要がありました。いろいろな事がありましたが、シールドトンネル(東京湾アクアトンネル)と橋梁(アクアブリッジ)は、長さ約650m、幅約100mの木更津人口島(海ほたるPA)で結ばれ、アクアブリッジの橋げたは、海ほたる付近で総トン数2000トンの船舶が航行可能な径間の確保と、桁下部分のクリヤランスを確保するため高くなっています。また、耐震性と走行性の向上を図るため、日本国内には前例がない最多11径間となる多径間連続化が図られました。
東京湾アクアトンネルの掘削は、浮島、川崎人工島(風の塔)、および木更津人工島の3カ所から発進した世界最大径となる、外径14.14mの合計8機のシールドマシンによって進められました。川崎人工島は、トンネルの中間地点に位置するドーナツ型の縦穴基地で、シールドマシンを発進させるため最初に木更津人工島とともに建築されました。川崎人工島は供用開始後トンネルの換気塔のためにも使用され、その忠心には排気ガスと新鮮な空気を入れ替える設備があります。川崎人工島の構造物の素材には、羽田空港を離着陸する飛行機が発するレーダー波を乱反射しないものが採用されています。トンネルの換気塔は川崎側にも設置され、浮島換気口として機能をしています。浮島換気口は羽田空港D滑走路供用開始時には換気口上部が航路の障害となったため、2009年に上部の12mを取り払う改修工事が行われました。
シールド工法の断面は円状ですので、東京湾アクアトンネルの車道下側に、緊急車両などが通る管理用道路や光ファイバーなどの通信ケーブルが設置されています。この車道下側は避難用通路としても機能するように、気圧を0.1%高めるころで火災発生時の煙の侵入を防いでいて、車道からスロープでおりられるようになっています。車道は300m置きに避難口があり、避難用通路には道路管制センターにつながる直通の非常電話も設置されています。
さぁ~実際に避難通路へと移動していきます。
私の班は、最初に将来的に6車線化が可能な構造で建設しているので、その増やせるトンネルの入口へと行きます。

トンネルの先には、いくつものドアがあります。そこから入って行くと避難通路へと入っていきます。

ドアを何枚か抜けていくと、いよいよ避難路へと辿りつきます。

アクアトンネルの防災システムなどのお話しをききます。

東京湾アクアトンネルは、約10㎞の長大トンネルです。「道路トンネル非常用施設設置基準」に基づきAA級トンネルとして十分な対策を行っています。このトンネルの特徴を踏まえた、床版下空間を活用した新しい防災システムを構築しています。この床版下空間は、緊急避難路兼管理用通路(避難・救急・救助及び消防活動への支援)として機能をはたしています。
トンネル内にはCCTV(監視カメラ)は、施設制御室のモニター画面で順次自動切り替えで監視を行っていて、非常電話、火災探知機、押しボタン式通報装置があります。

地上へは非常用階段120段位をのぼり、出てきて資料館を見学。

その後、シールドマシンのオブジェ?を見学し、消防者の車庫へ。

アクアライン消防車庫です。

普通の街の中で活動している消防車両より少し小さいものです。やはり緊急避通路は、高さ幅ともに狭いので、この車両が活動します。

橋梁部分上り・下り線とアクアトンネルの上り線は、木更津市の消防、アクアトンネル下り線は、川崎市の消防が活動するそうです。アクアライン開通後に1度だけ活動をしたそうです。ちなみに、アクアラインの消防車庫には、隊員は常駐していないので、火災等があると近くの消防署より出動してくるそうです。

見学後は、アンケートに答え終了です。

あとは、館山へと戻っていきます。
今回の大人の学習旅行もいろいろと勉強できました。

令和元年の今年度は、どこに勉強に行くか検討中です。楽しみにして下さい。

今回のガイドの独り言で、平成30年度は終わります。令和元年も頑張って報告いたしますので、よろしくお願いします。

月イチツアー「館山地区名所旧跡めぐり」報告

あっという間に5月も終盤になりました。皆さまGWはいかがお過ごしでしたか?
私の場合、11連休でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。
観光地に居るので、ちょっと外にでれば観光客気分を味わえます。

そんなこんなで、4月の月一ツアー「館山地区名所旧跡めぐり」を開催しましたので、ご報告します。
ツアー当日は、暑い日になりました。出発は、花見の人達でにぎわう城山公園から出発です。
まずは、天王山・大膳山経由で妙音院をめざします。
天王山、御霊山は里見氏がいた時代に物見として隅櫓の役目を果たし、大膳山へと続く尾根と鹿島堀は館山城の外郭でした。里見以前から宿場があり社寺を多数配置し外部からの侵略に備えました場所です。

説明をしながら、妙音院へ。

高野山金剛峰寺の直末の寺院で古儀真言宗の寺院です。里見時代には161石の寺領があり。徳川の世でも紀州徳川の繋がりで75石を安堵されていました。阿弥陀堂香炉には葵の紋が残っています。境内敷地内には88ヶ所の写しが祀られ、霊場巡りができます。
5月26日(日)午後から火渡りと人形供養が行われます。火渡りは、最初の方だと熱いですが、終盤は大丈夫ですので、是非お参りに行って下さい。

次は慈恩院へ。

曹洞宗の寺院です。里見家代々の持仏堂をして館山城内に創建したのが始まりで、天正9年に里見家康の弟玉峰和尚が、城内に祀られていた千手観世音菩薩と聖観世音菩薩を本尊として現在地へ移しました。慶長8年(1603)に義康が没するとその菩提寺となり、慈恩院となりました。

里見義康の墓と句碑です。

慶長8年(1603)11月16日没、31歳でした。宝篋印塔の墓の裏に建つ「当山開基」の標柱と周囲の石垣は、明治42年(1909)の里見氏墓域整備のときのものです。右側に建つ句碑には、整備に関わった正木貞蔵(号月舟)の句が刻まれています。

次は、十二天神社へ。
境内に茂るビャクシンは千葉県最大で高さ17m、推定樹齢800年と伝わっています。社殿には館山藩絵師・川名楽山が奉納した後藤義光作の龍の彫刻があります。

谷奥には、つとるば祭祀遺跡があり、土製の模造祭祀道具が多数出土したことから、大寺山の遺跡の祭祀場だった可能性が考えられます。本物を使う副葬品に対して祭祀用の土製模造品は本物そっくりに精巧に作られた使い捨ての祭祀道具と考えられています。

次は、沼地区にある天満神社へ。

祭神は、藤原道真公。嘉保3年(1096)安房国司であった源親元が京都天満宮より歓請したと伝えられています。古くは寺を建立する時は、災除けの神社を先に建てる習わしがありました。その名残で天満神社と総持院は同じ梅鉢の紋です。境内には川名楽山の碑があります。

次は、石塚やぐらへ。
古くは地蔵堂があった場所です。崖面を掘りこんだヤグラ内に五輪塔の浮彫が施されていて、鎌倉時代から室町時代のこの地域の武士の墓だと考えられています。道端には馬頭観音や六地蔵も立っています。

次は、総持院へ。
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。平安時代の国司源親元が永長2年(1097)に建てたと伝えられています。地元では「沼の大寺」と呼ばれています。

裏山には、大寺山洞窟遺跡があります。昭和34年(1956)住職が発掘をはじめ、平成4年~10年千葉大が調査を始めました。
館山湾を望む標高25mの沼Ⅰ面にある3本の海蝕洞窟郡で、標高30mの1洞は奥行き25mあり、古墳時代中期に舟葬墓として再利用され200年に渡り利用され、12基以上の舟棺がありました。古墳を造らず海人独自の海上他界観をもった葬送儀式が行われていた事を確認できた初めての遺跡です。副葬品も東国の古墳にも劣らない貴重な短甲、剣、漆塗棺、銅製鈴などが出土し海上交通を支配していた豪族の墓とされています。2洞は、奥行き5m、高さ2mで水が溜まり奥まで調査されていません。3洞は、奥行き10m、高さ4mで沼Ⅱ面の海蝕洞窟形成時(4000~3000)年前漁撈生活の番屋であったらしく、漁労道具・生活用品が数多く出土し、骨角器の制作道具や加工中の材料もあり工房もあったようです。

次は、北下台へ。

北下台のところには、昭和10年(1935)、築港建設に伴う道路開削工事中に発見された、海蝕洞で奥行き30mと推定される北下台縄文遺跡があります。須恵器・碧玉の管玉・瑪瑙の勾玉・海外交易品の銅釧(腕輪)などの副葬品が出土し古墳時代に埋葬遺構として使用されていました。標高的には沼Ⅳ面(1500~700)年前の海蝕棚にあたりますが、沖の島遺跡と同じ海退時の縄文遺跡かもしれません。北下台頂上の露岩にヤグラが掘られ五輪塔が浮彫され、納骨穴、建具取り付け溝跡が残っています。時代的には、鎌倉・室町時代の遺跡です。

あとは、出発地点の城山へと戻りますが、途中、館山神社へと寄り道。

無事に出発地点へと戻りました。城山公園周辺には、すご~く昔からの歴史が多く残っているなぁ~と思ったコースでした。
こんなのもありました。

ヒカリモ

天満神社の牛

田んぼ道からの城山

総持院からの城山

のどかな景色が楽しめるコースでした。

お散歩ツアー「日蓮聖人ゆかりの妙福寺とその周辺を歩く」報告

新年度最初のツアーは、お散歩ツアー「日蓮聖人ゆかりの妙福寺とその周辺を歩く」を開催しました。開催日当日は、お日様には恵まれたのですが、少し風の強い日でした。

集合場所は、南房総市南無谷地区にある豊受神社の境内をお借りしての出発です。
当日は、地元の方が南無谷地区のお話しをしていただきました。

現在の南無谷は、大昔、泉澤村と呼ばれていました。理由は、2つあるそうで・・
1つは、湧水が沢山出ている沢があったため
2つは、泉澤氏という郷士が住んでいたところだったため
どちらかの理由にようるものか定かではありません。
南無谷に変わったのは、日蓮聖人と関係があります。建長5年(1253)の5月に清澄山を出た日蓮が鎌倉に渡ろうと、この地に来たのですが、波浪が厳しく渡る事ができなかったため、3日ほど泉澤権頭太郎の家に泊まりました。日蓮は日蓮宗を日本国中に広めようとしていましたので、泉澤家の人たちにも熱心に法華経を説き聞かせました。老母ふく、権頭太郎、その弟、二郎、三郎はともに教えを信じ、特に老母ふくは、妙福という法名をを授かったほどでした。やがて風波は静まり、日蓮は無事に鎌倉近くの米ヶ浜に上陸したのです。日蓮はこれが縁で文永元年(1264)小松原法難後、再び泉澤家を訪れたといいます。間もなく、村中に日蓮宗が広まり、村の名が南無妙法谷村(まむみょうほうやむら)となりましたが、長すぎるので南無谷となったそうです。

集合場所でもある豊受神社です。

祭神は豊受大神。和久産巣日神(わくむすびのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)の子で五穀をつかさどる女神です。イザナミの孫になります。伊勢神宮の社伝では、雄略天皇(第21代)の夢枕に天照大神が現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井にある御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼びなさい」と言われ、天皇はあわてて伊勢の内宮に近い山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったのが始まりです。

最初に訪れたのは、山の神です。

一般的に山の神とは山を支配する神の事です。しとぎやお神酒、おこぜ等を備えますが、地方によっては異なっています。祭神は不明です。鳥居は平成元年に再建し、形は神明鳥居です。本殿と拝殿はかなり古いようですが、いつ造られかは不明です。
拝殿の腰板に船の古材を利用している場所があります。

次は、朝日地蔵へ。

地元ではいぼ地蔵とも言われています。線香の灰をいぼにつけて願いをかけると、いぼが取れるといいます。

次は、川止用水。

消防用に利用するために人工的に川を堰き止めた場所です。

本日のクライマックスは、七面山。

七面山はむかし浅間山と呼ばれていましたが、のちに領主の小浜八太夫が雨乞いの祈祷所として山林を奉献し、七面堂が建てられました。七面堂には、元禄12年(1699)に、身延33代日亨上人が勧請した木造七面大天女が祀られています。
まずは、七面堂まで階段を登っていきます。解説には、222段の石段とありましますが、数えなが上っていくと5段少なく登れました。下の部分がコンクリートで坂道となってしまっていたので、そこで階段が少なくなってしまったのかなぁ~なんてみなさんと話てました。
七面堂に到着しますと、七面堂を守っている妙福寺のご住職が、お堂を開けて下さいました。いつもは、閉まっているのですが、下見に行った際に、檀家さんにお会いしお話しをしたところ、開けてもらえる事になりました。これもなにかの縁です。七面大天女が導いてくれたのかしら?

お堂に上げていただき、ご住職に経を唱えていただき七面大天女を特別に拝ませていただきました。それだけでもありがたいのに、お守りを頂きました。お守りは、七面大天女様が着られている着物を細かくし物が入っています。この着物は、毎年5月の18日と10月の18日に絹衣のお召し替えの儀式が行われるので、天女様が着たものです。
通常は、この日にしか七面大天女のお顔を拝見する事ができません。是非、直接お参りをされたい方は、是非、絹衣のお召し替えの時に、参拝しに行って下さい。

ここで、この七面天女のお話しを・・・
日蓮聖人が身延の谷(山梨県)で弟子や信者に説法をしていると、その中に美しい女性が熱心に聴聞していました。一同は不審に思っていると、日蓮が女性にむかって「皆が不思議に思っていす。あなたの本当の姿を見せなさい。」すると女性は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えると、日蓮は傍らにあった水差しの水を一滴、その女性に落としました。すると今まで美しい姿をした女性は、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の姿に変じて仰った。「私は、七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。未法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎを満足与えます」と言い終えるや否や、七面山山頂へと天高く飛んでいきました。日蓮は、「いつか七面山に登って七面大明神を祀ろう」と考えていましたが、生きている間には叶いませんでした。日蓮聖人入滅後16年目に弟子の日朗上人は日円と共に、七面大明神をお祀りするために、初めて七面山に登り、永仁5年(1297)に七面山奥ノ院を開創しました。以来、日蓮宗の守護神とされ、本地は福徳を授ける吉祥天で、鬼門の一方だけを閉じ七面を開くといいます。

奥ノ院の方に上がっていきますと、素晴らしい景色を見る事ができます。

次は、妙福寺さんへ。

本堂・祖師堂にお参りしてから、泉沢さんのお墓へと上がらせていただきました。

妙福寺は、日蓮宗の寺院で、山号を成就山といいます。由緒によると、日蓮聖人が建長5年(1253)、鎌倉に向かう途中、富浦の岡本浦から鎌倉へ船で渡ろうとしたころ、嵐で足止めをよぎなくされました。近くの岬に登って一心に祈願すると嵐が治まりました。並みの僧でないことを感じたこの地の泉沢権頭太郎は自宅に招いて3日間、母親と2人の弟と共にお世話をし、直接教えを受けたと伝わっています。別れにあたり日蓮聖人は、お世話になった母親の願いを受けて「妙福」の二字を法号として授けました。
時は経ち弘安2年(1279)、権頭太郎が身延山に隠居していた日蓮聖人を訪ねました。日蓮聖人は権頭太郎にお世話になったお礼として、衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子に彫刻させ、その裸体の像とお題目の掛け軸を添えて授けました。
権頭太郎は帰郷したあと、その像と掛け軸を安置するためお堂を建立し、聖人の弟子であった日頂上人の弟子日念上人を初代住職として迎えます。そしてお寺の名前を、母親が授かった「妙福」を頂き「成就山妙福寺」となりました。6月と10月の13日には、日蓮聖人像の衣替えが行われます。

やはりご住職からお話しを聞くとありがたい気持ちになります。当倶楽部のガイドもちゃんと勉強してるんですけどね。なんででしょう?修行されている人とにわかの人との差かもしれませんね(笑)

次に、衣を洗った井戸へ。

少し前までは、看板があったのですが、私有地かなにかで、足を運ぶ事がなかったのですが、今回は、見学できるようになっていたので、見学してきました。

あとは、海岸に出て、出発地へともどります。

今回のコースは、日蓮聖人と関係のある場所を多く巡りました。妙福寺のご住職にも大変お世話になり、いつもは拝見出来ない七面天女様にもお会いできて、充実したお散歩ツアーになりました。ご住職の暖かいご配慮、この場を借りて感謝を伝えたいと思います。ありがとうございます。

南房総市 妙福寺さんのホームページです。ご興味のある方はどうぞご覧ください。
https://www.akafunkun.net/
ヨガなんかもやられているそうです。

月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」報告

4月の新年度に入りました。
平成31年度もみなさまお世話になりました。今年度のウォーキングツアー予定表は、リピーター様には、お送りいたしましたが、まだ道の駅などには配れていません。ちょっとなんとかGW前までには、安房地域の道の駅等に置かせてもらいますので、もう少しお待ちください。

さて、平成31年度最後の月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」を開催しましたので報告します。

集合場所は、JA稲都支店跡地を貸していただきそこからスタートしました。
ツアータイトルにもあります、山名地区は、昔、山名村と呼ばれ呼ばれていました。里見氏時代のまた末は709石余、慶長19年(1614)から幕府領、その後寛永15年(1638)旗本三枝勘解由が三代将軍家光から、山名村をはじめ房州で一万石を賜り、御鉄砲頭を仰せ付けられ、大名に列せられました。後に、忍藩領、前橋藩領などを経て、明治の6年(1873)に千葉県所領となる。明治8年「御庄村」と連合村をつくるが、明治22年(1889)の町村制施行によって、「池之内村」「中村」「御庄村」とともに「稲都村」となり、その大字となりました。ちょっと山名地区を勉強したところで、最初に訪れたのは、天徳寺です。

曹洞宗の寺院で、後で行く智蔵寺の末。本尊は、不動尊です。寛文年間(1661~1673)に智蔵寺の九代通珊良撤和尚の創立と言われています。その後、正徳元年(1711)に御庄村を所領した「万石騒動」で知られる北条藩屋代越中守が改修工事をしたという記録があります。
大日如来坐像・天部像・地蔵尊・三山碑などがあります。

山名地区に向かって歩くと、途中にひっそりとお堂があります。ここは、下見の時に見つけた場所で、近くにいた農家の方に聞いたのですが、わからないとの事でした。

詳細は、不明ですが、祭神は櫛石窓神・豊石窓神。

智蔵寺の手前や周辺には、馬頭観音などがありますが、説明していると辿り着かないので、細かな石仏は、今回は省略します。

智蔵寺へは、苔の生えた石段を登っていきます。

山門をくぐり、本堂へお参りします。

曹洞宗の寺院です。本尊は地蔵菩薩。文亀3年(1503)、前甲信太守「武田次郎三郎源信勝」の開基、開山を太巌存高大和尚といい、その後、中興の開基を「印東采女」となっています。夷隅郡御宿町上布施の宝蔵山真常寺の末寺ですが、小本寺と称することを認められていて、俗称を山名の大寺といいます。
寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼の嫡男で、天目山を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。また、中興の開基は、里見奉行印東采女平忠康とされています。徳川時代初期の寛永15年(1638)、旗本三枝守昌は、安房の国で一万石を賜って大名に列し、陣屋を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所としました。次の守全は、再び旗本となりましたが、その後天保13年(1842)まで204年の間、山名は、三枝氏の知行所でした。寺内には、三枝守昌の墓(宝篋印塔)とその子、諏訪頼増の墓(板碑)があります。
本堂の欄間には、翼をもった小竜が波間に飛んでいる彫刻は、初代武志伊八郎信由58歳の作です。南房総市文化財です。
墓地に上がっていくと、溝口八郎右衛門の墓があります。

八郎右衛門が生前出羽三山に参拝登山する際の行者姿を彫刻した武田石翁作のお墓です。
天保12年(1841)頃の作といわれ、右手に酒杯、左手に徳利を持ち、右膝を立て、酒樽に座った姿を表現した珍しいものです。八郎右衛門は、天保14年(1848)90歳で亡くなり、時世の歌として、「百の銭90はここで飲みわかれ、6文もって永の道中」と残しました。「6文あればたくさんだ」という意味でしょう。6文は三途の川の渡し賃の値段です。

次は、山名の鎮守熊野神社へ。

祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。文亀2年(1502)正月9日の創立と伝えられています。明治16年(1883)の山名誌によると、当初安房水上神社と称されていましたが、安房と冠するのは安房神社だけであるとの抗議があっと水上神社と改めたと伝えられています。
境内には、日清・日露戦争戦没者碑や三山講碑・出雲大碑などが建立されています。
参道を登りつめた先に、下の農道と立体交差する石橋があります。明治期の作と思われ、切り出した石材を巧みに組み合わせ、お互いに支えあって出来ている一眼のめがね橋です。

石は山名の寺山石を使用しているといいます。

次に訪れた場所は、山頭神社。

詳細は不詳ですが、参道石段下に、行人堂(行堂)があります。講参り(出羽三山講)の前後、ここでお篭りをしたところで、郡市内では現存しているのは、ここの行堂だけです。
行堂は、普段は飯出集会所として利用されています。
明治初期に書かれたものと言われる文書には、飯出谷の者が文久2年(1862)に鎮守の森の杉の大木一本を智蔵寺に断りなく切って、二両二分で売り、社殿の修理費にしようとしたことから起こった事件があり、結局和解しますが、このことによって山頭神社は、以前は今の飯出行堂の傍の平地にありましたが、山崩れに遭ったことで、仙元山の山裾の現在地の地所を智蔵寺から借りて移ったなど、書かれています。

次は、智光寺へ。
真言宗智山派の寺院で、安房国札21番観音霊場です。本尊は、不動明王を本尊とする長楽山智光寺と、千手観音を本尊とする光明寺(宝暦13年再建)、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂(安永4年再建)とが、江戸時代中期に合併したものと考えられます。
21番の御詠歌「こうみょう寺 のぼりのどけき はるの日に 山名のはなの りつぞおしさよ」と詠われています。
その後、智光寺は大きな火災に見舞われ、仁王門から出た火は、参道沿いの家並みを伝い、お寺の建物を全て焼き尽くしました。この時の教訓から、周辺の家々は母屋を互い違いに建てて類焼を防ぐ工夫をし、その面影は今も残っています。その後、お堂は宝暦14年(1763)に再建され、阿弥陀堂は安永4年(1775)に建築され現在にいたります。

まず、目立つのが仁王門です。

仁王門は、間口5.45m、奥行き3.62m、高さ6m。左右の金剛座には、筋骨隆々の「阿像・吽像」の木造金剛力士像がたっています。製作年代は不詳ですが、言伝えによると、江戸時代の承応年間(1652~1655徳川家綱の時代)に火災に遭いましたが、他の仏像と共に、付近の女性たちの手で搬出され、災難を逃れたといいます。女性の方は力があったんですね。
木像金剛力士像は、平成7年(1995)に南房総市の文化財に指定されました。

参道の脇には、山名学校跡があります。今は畑となっています。山名学校は、明治6年(1873)当初は、智蔵寺に創設された学校で、2年後には、智光寺に移転し、さらに同年西隣の平坦地に校舎を新設しました。明治15年(1882)には、高等小学校を設置し、その際村民から「高等科出願二付誓約書」が提出され、内容は学区資金無尽作って、村民一致して運営に当たるというものです。明治19年に教育令が改正され、山名尋常小学校に改称されました。明治36年(1903)に「御庄学校」と合併し、「稲都尋常小学校」となりました。

その上には、陣屋跡があります。
土地の人は「ごじんや」と呼んでいます。ここは江戸時代の寛永15年(1638)に一万石大名となって、この地に封じられた三枝勘解由守昌の陣屋を置いたところです。陣屋とは、一般的には、城郭のない小さな藩の大名の居所をいいます。大名は実際に、江戸に居た方が多かったようです。なお、三枝守昌は、安永16年に死去し、子息二人が遺領を分割相続して大名から旗本になりますが、山名の知行は、次男諏訪氏に引き継がれ、天保13年(1842)まで続きました。

やっと、智光寺の境内に辿りつきました。

まずは、阿弥陀堂です。

阿弥陀堂は、安永4年(1775)に建築されました。木造阿弥陀如来座像は、像高105cm。胎内背部の墨書銘によって、元和2年(1616)に奈良仏師の井上助一良の作であることがわかります。江戸時代初期の仏像の代表的なもので、館山市大網の大厳院の阿弥陀如来像とほぼ同年代のものです。左右に天部像がいます。昭和55年に市の文化財に指定されています。

観音堂には、木造千手観音立像があります。像高100cm、江戸期の元文2年(1937)に造られました。厨子に入っているので、見る事は出来ませんでした。

寺宝は、木造不動明王立像です。高さ160cmで両脇侍に「こんがら童子、せいたか童子があります。不動明王は南北朝期の作と推定され、両脇侍は江戸期のものです。不動明王は昭和62年、死の文化財に指定されました。

ここで少し、寛政8年(1796)におきた事件についてお話しします。
「門学殺害事件」
「秋山家文書」と三芳村中の吉田周蔵翁が残した「覚書」によってこの事件の内容がわかったのです。
寛政8年(1796)、江戸幕府・11代将軍徳川家斉の時代、7月29日の朝5つ時、加茂の南の坂で、虚無僧一人が二人の山伏に殺害され、二人は山伝いに加茂から竹原・中・御庄を経て、山名に逃れ、山名本郷の智光寺の庫裡に隠れました。だが、逃げ切れないと知った山伏の一人が、仲間を騙し討ちにし「これが犯人!」とその首を持って庫裡から出て来て捕えられた事件で、この騙し討ちにあった山伏が門覚でした。
加茂坂で殺された虚無僧は至龍といい、下総国小金(松戸市小金)の普化宗の本山永福寺の役僧で、房総の虚無僧の取り締まり役でした。殺した山伏の人は、水野圓治といい、本名は筑紫我童で豊前国中津の奥平藩の浪人で、若くして酒や女遊びにふけ、公金を横領して国元を逃げ出し行方をくらまし、水野圓治と名を代え、武者修行と称して諸国を放浪していました。もう一人の山伏は、門学といい、日向国佐土原の生まれ、房州国分村萱野修験寺大釈院(廃寺)で水野と出会い、共に九州出身なことから意気投合しました。
事件の発端は、虚無僧取締役の至龍が、平郡高崎村で偽虚無僧に扮して徘徊していた水野に出会い、普化宗のかいこうの奏笛をしましたが、偽者の水野は返礼の奏笛が出来ませんでした。無鑑札の偽者であることを見破られ、宗規によってその天蓋、尺八を没収、大衆の面前で水野ははずかしめられました。この事で深く恨み、報復を謀ったのです。7月29日の朝、加茂坂で待ち伏せをして、水野と門学の二人は至龍を殺害しました。
殺害を目撃した百姓が名主方に知らせて大騒ぎとなり、二人は山中に逃げ込み、智光寺の住職にかくまってもらおうとしましたが、住職が不在で止むなく庫裡に隠れました。追手は手に鉄砲、竹槍などをもって殺到し、庫裡を包囲しました。万事休すの状態です。
水野は自己の欲しんを図るため門学に向かい「自分は貴殿の助短刀で至龍を打ち取り、高崎での恥辱をそそぐことができた。ここで百姓どもに捕えられ、縄目の恥を受けるより潔く自害するから介錯を頼む。至龍殺しの下手人として自分の首を追手に示せば、貴殿は許されるであろう。自分が自害する間、戸を押さえていてくれ」と真しやかに申しでたので、門学はその言葉を信じ一心に戸を押さえていました。水野は自害を装って門学の背後にまわり、門学の首を打ち落としたのです。水野は、門学の生首をひっさげて悠々と追手の前に現れ、「加茂坂で虚無僧を殺害したのはこの門学で、自分は同行したのみである。門学は逃れることのできないことを知って、自分に介錯を頼んで潔く自害した。これが門学の首である。」と大声疾呼したが、恐れて誰も近づく者もなかったそうです。水野は夕方縄目に就き、翌日大井村に送られ、大井村を知行する旗本小笠原若狭守の家臣小倉忠右衛門及び山名村を知行する旗本三枝百助の家臣佐藤宗助(惣助)の取り調べを受けた後、江戸送りとなりました。
白洲における水野の陳述は実に卑怯でした。「自分は浪人して武術修行のため廻国の途次、門学と知り合い親交を結んだ。門学は郷里で兄が虚無僧紫竜斎なる者に討たれ、その仇を討つつため関東に下り、紫竜斎が下総小金の永福寺の役僧となっていることをつきとめたが、紫竜斎は武芸の達人であるので自分に助太刀を懇請した。加茂坂で紫竜斎に遭遇したので義によって助太刀し、門学に本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げた上は直ちにお上にその旨を届け出て、後の処置を待つべきであったが、何分群衆の騒ぎが大きく不本意ながら智光寺まで逃げ、住職に会って事情を述べ罪を待つ心算であった。住職は不在で、追手の追及が急で猶予が与えられなかったので、門学は逃れることができないと観念して自刎した。自分は文覚の頼みによって介錯した次第である。」と言葉巧みに陳述した。吟味役の島田小文治は、水野の陳述に深い疑いをもったが、外に証拠もないので、水野を江戸及び房州両地方追放に処しただけで、一応事件の落着でした。
その後、至龍の門弟らは水野を師の仇とねらい、翌寛政9年(1797)、下総国を流浪中の水野を見つけ、遂に利根川の支流将監川の堤で暗殺し、その死骸は川に流されて魚腹に葬られたと伝えられています。
智光寺の庫裡で非業の死を遂げた門学は、純朴な村人達の同情を集めて鄭重に葬られ、明治41年には墓碑も建てられました。

っというお話が残っています。ちょっとびっくりな事件です。

次は最後の見学場所、八雲神社へ。

明治4年(1871)の「山名村明細取調書上帳」によると、八雲神社は八坂神社として「牛頭天皇」を祀り、祇園社とも呼ばれ、須佐之男命が祭神と記されています。八雲神社と呼ばれるようになったのは大正期に入ってからです。また延享2年(1745)の棟札に「別当長楽山智光寺住宥運謹書」と書いてあったことから、智光寺が別当寺であったことが分ります。

後は、出発地点へと戻りますが、途中には馬頭観音やツナツリがありました。
ウォーキングツアー当日は、御庄地区の神輿が新しくなったので、お披露目の為に御庄の集会所に出ていました。地域の方たちが、大切にしている文化も見学できて楽しい1日でした。

お散歩ツアー「館山市・南条エリアの歴史を巡る」報告

あっという間に2月も終わりに近づいてしまいました。来年度のウォーキングツアーのチラシ作りをしないと、間に合わなくなってしまう今日この頃です。
さて、少し春らしい気候になってきた館山・南房総ですが、やはり朝晩は冷え込みます。っといっても、あぜ道などには、フキノトウが顔を出してきています。花粉も飛び始めていて、花粉症の私にはツライ日々が始まりました。

お散歩ツアー「館山市・南条エリアの歴史を巡る」を開催しましたので、報告します。
集合場所・出発地点は、南条八幡神社。

祭神は、譽田別命(ほんだわけのみこと)です。創建は不明ですが、伝承によると古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病が流行りました。その為、難病を免れるための神を祀ったのがはじまりと伝わっています。その後、源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から平を挙げる時、村人が京都石清水八幡宮の御霊を勧請し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿が建立したそうです。戦国時代の天文2年(1533)、南条城主鳥山弾正左衛門大夫時貞が崇敬し、居城の東方に社殿を造営し、守護神としました。

右の写真は、社務所です。大東亜戦争当時診療所として利用されていまし。
大平洋戦争末期、昭和20年に入ると陸海軍部隊の本格的な疎開が始まり、館山市の大賀・笠名にあった洲ノ埼海軍航空隊も兵舎等を解体し半数以上が、豊房村はじめ館山近郊に疎開しました。南条八幡神社付近には、司令部・副官部・通信科・主計科などの洲ノ空の指揮中枢部門が集中していました。

境内の本殿の裏山には、開口した大小38個の横穴があります。いずれも古墳時代の横穴墓で、昭和初期の神社改築の際、数個の横穴を崩したと言われています。

他にも、常明燈(明治26年(1893)建立)は、石工は山荻の安西久三郎ですが、左右の基壇に彫られている牡丹と獅子は後藤義光80歳の時の作で、義光が石に彫刻した数少ない作品です。また、狛犬(明治26年(1893))も遅くは白浜の宇山慶治と祖父によって作成されますが、精密な部分は後藤義光の手になることが刻まれています。

いよいよ、南条城跡へと登っていきます。道は、もう悪いのなんの。勝手にアドベンチャーコースなんて名前付けていますが、細い、滑る、足場が悪いの3点セットです。慣れている方なら問題ないのですが、慣れてない方だと大変だったのではないかな?と心配しました。

西側の頂上?には、戦時中の貯水槽が残っています。空襲時の停電に備えた緊急用の配水池として建設されたものだそうです。

あとは、尾根を下っていき、下っていく途中に、浅間様が祀られています。


明治8年(1875)に奉納した富士講「山三」の石宮のほかに4基の石宮が祀られています。他に、明治11年(1878)に講中で建立した安房百八浅間のうちの第百七番の石碑もあります。

山を下り、一般道路へと出ます。出た所の山側には、文政10年(1827)の出羽三山碑、宝暦8年(1758)の青面金剛庚申塔、明治22年(1889)の光明真言六百万遍供養塔、同年奉納の不動明王などがあります。

次は、姫塚へ。

姫塚は、里見家の天文の内乱(1534)で、里見義豊が里見義堯に敗れたとき、義豊の正室である、一渓妙周も自害し、乳母によって父の居城鳥山城(南条城)の近くに葬られたという伝説があります。姫塚は、その女性の塚だといわれ、昔昔、そこに正室の菩提を弔うための一渓寺があったといい、移転して古茂口の福生寺になったといいます。福生寺にはその女性の墓と伝わる大きな五輪塔があります。
この姫塚は、民家の人に許可を頂いて見学させてもらっています。以前は、堰を回って行けたそうですが、藪やら竹やらで行けなくなってしまいました。

次は、大網にある戦争遺跡へ。


大平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲などが置かれていました。今回は、砲台の方には行かず、周辺にある弾薬や食糧などの物資貯蔵用の壕を見学です。壕の中には、正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えにくくしたものもあります。
壕は、2011年公開角川映画「日輪の遺産」のロケ地になった場所です。
「日輪の遺産」は、浅田次郎の長編小説です。2011年に浅田次郎の原作とし映画化されました。ストリーは、終戦間近の昭和20年8月10日、主人公の真柴(堺雅人)が帝国陸軍トップらに呼集され、「山下将軍がフィリピンで奪取した900億円(現在で約200兆円)ものマッカーサーの財宝を、秘密裡に武蔵小玉の南多摩陸軍火工廠へ移動し隠蔽せよ」と重大な密命を帯びます。その財宝は、敗戦を悟り祖国復興を託した軍資金でした。極秘任務を遂行する為、20名の12~13歳の少女達を勤労動員先から徴用され、新型砲弾といわれ財宝隠しに加担させられます。任務の終わりが見えた頃、上層部によって彼女らに非常きわまる命令が下されたふしがありましたが、無効命令であることが確認されましたが、終戦の詔勅とその前に米軍機からばらまかれた終戦ビラに動揺した少女達とその少女達を救おうとしていた真柴らとの間で思いもよらない手違いがあり、悲しい運命が起きてしまいました・・・数年たち、やがて郡全にも米軍工兵が遺産の在処を発見するが、マッカーサーが見たものは言葉を失わせる壮絶な情景でした。っというストーリーです。
映画の中では、財宝を隠した壕として使われています。

たぶんこの壕が、映画で財宝を隠した壕だと思われます。

次に訪れたのは、国登録有形文化財になりました小原家へ。


小原家は代々農業を営んでいましたが、七代目小原金治は、政治家・実業家としての道に進み、県会議員や衆議院議員を務めたほか、房総遠洋漁業(株)や安房銀行(千葉銀行の前身)の経営にと携わっていました。
金治の孫の謹治は、椿の研究家。約20年にわたり洋種など700種以上を手掛け、自らも10種ほど品種改良しました。椿の研究を始めたきっかけは、館山市の木に指定された時に同級生にすすめられて仲間6人でやりだしたのがきっかけだったそうです。
私が小学校の入学の時に椿の木をもらっていて、今でも大輪な花を咲かせています。その苗は、小原家からの物だったんですね。
小原金治・・安政3年(1859)~昭和14年(1939)
小原謹治・・明治43年(1910)~平成11年(1999)

国登録有形文化財に平成29年に指定された建物は、主屋・離れ・米蔵・文庫蔵・旧長屋門
です。主屋は、寄棟造の主体部に台所部や土間部が接続していて、近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れの内部が、座敷と茶室からなり、座敷には床脇の円窓など独自の意匠がみられます。主屋の西に米蔵や文庫蔵が建ち、敷地の南側には旧長屋門が建っています。表門は重量感のある造りで家紋入りの屋根瓦を用いています。
・主屋・・安政6年(1859)/明治29年改修、昭和前期増築
・離れ・・昭和4年頃
・米蔵・・弘化2年(1845)
・文庫蔵・昭和前期
・旧長屋門・・江戸後期/明治中期改修

あとは、出発地点へと戻ります。お散歩コースといいながら、今回は山を攻略したので、少し大変だったと思います。