月イチツアー「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」報告

春らしい日が多くなってきました。しかしながら、花粉が多く飛びはじめ、ティッシュの
消費が多い季節ともなっています。薬もだんだんと効かなくなってるような・・・

花粉に負けずに今回は、「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」のツアーを開催し
ました。花粉に負けずにと書きましたが、その日はあいにくの雨模様だったので、花粉の量
は少なかったので楽でしたが、雨だとちょっと歩くのにブルーな気持ちになります。今回は、
3月6日に西の大黒様を拝見できるという事で、雨にも負けずに歩いてきました。
(今回の写真は、下見の際に撮った写真を多く使わせていただきます。)

集合場所は、千葉県酪農のさと。この日は休館日だったのですが、申請書を書き貸していた
だく事ができました。

ここは、酪農の発祥の地です。戦国時代(1500年代)に国守里見氏の軍馬を育てる目的で嶺岡
牧場をつくりました。その後、江戸幕府が嶺岡牧場を直轄し、8代将軍徳川吉宗が馬の改良に
力を入れ外国産の馬を輸入し、その際、インドの白牛3頭が入ってきました。白牛は年々繁殖
し、1793年からは搾った牛乳から白牛酪が作られるようになり、生産量も増え寛政8年
(1796)に、日本橋「玉屋」から白牛酪が売りだされるようになりました。このことが日本の酪
農の始まりです。明治の初めは、政府の管理下にあり、その後、有志により設立した嶺岡牧社
は牛馬を購入し、繁殖、改良を進め、明治22年には嶺岡畜産(株)が発足し、アメリカより短
角種50頭及びホルスタイン種雌雄2頭を輸入し、安房におけるホルスタイン種輸入の発端に
なりました。その後、短角種からホルスタイン種へ移行され、ホルスタイン種の乳用化が進み
ました。明治20年安房種畜組合の設立、明治28年安房畜産会結成、明治39年には安房郡
産牛組合の発足と、畜産の普及と活況にあわせて組織も発展しました。

酪農のさとを後にし、国道410号線を少し歩き、嶺岡林道へと入り坂道を登っていき八丁陣
屋へと向かいます。坂道を登っている頃はまだ小雨でした。

八丁陣屋に着くころには、雨が多くなってきました。

嶺岡牧経営の管理は、嶺岡牧のほぼ中央部に享保20年(1735)に造られた八丁陣屋で行ってい
ました。番屋の他、牛舎、厩舎が建っており、馬を洗う池もあったそうです。明治時代には建
物は焼失し、池は戦後埋められてしまったそうですが、井戸跡や陣屋裏の山に祀られた稲荷な
どに八丁神社の名残をみることができます。


稲荷社です。

次は、水田氏の生家へと向かいます。
向かう道には、桜の木が植えられていて、途中には水田桜記念碑があります。

水田桜記念碑は、水田三喜男氏が地域の活性化と嶺岡林道を美しく整えるために、地元の方と
500本の桜を植えられました。そして水田氏が設立した城西国際大学が鴨川市に観光学部を
開設したことを機に、水田桜を守ろうと「嶺岡林道桜並木修復プロジェクト」を立ち上げ、毎
年多くの桜を植樹しました。創立20周年の時に、この記念碑を建てたそうです。

記念碑から下へと下っていくと、水田氏の生家があります。長屋門の所から、管理をされてい
る佐藤様にご説明いただきました。

長屋門です。

長屋門は桁行16.4m、梁間5.5m規模の寄棟造、桟瓦葺、出桁造の建物で、全体的に太い
材が使われています。正面右1室と左2室を牛小屋とする点に特徴があります。江戸時代以来の
酪農地である嶺岡牧場の歴史を伝える建物として貴重なものです。建設年代は、江戸後期か明治
初期と推測されます。(登録有形文化財)

母屋です。

母屋は、桁行15.8m、梁間11.1mの茅葺の寄棟造で、東側を土間とし、床上は囲炉裏を
切った15畳の座敷を中心に5室あります。西側に縁側、南面には瓦葺の下屋を差し掛けるなど
房総民かの特色を以ています。建設年代は江戸後期と推測されます。茅葺屋根の形がネコの背に
似ていることから、ねこぜと言われるそうです。(登録有形文化財)

母屋の中も見学させていただきました。

囲炉裏にも火を入れてもらいました。ありがとうございます。

ここで、今回サプライズな事が・・・水田氏の御親戚の方からおみやげをいただきました。倶楽
部のガイドと水田氏の御親戚の方が知り合いで、お伺いするお話しをしたのが、このサプライズ
になりました。みなさん喜んでいました。ありがとうございました。

ここまで書いてきましたが、水田氏って誰?と思う方もいらっしゃるかと・・・
まずは、水田家の由来を・・・
旧水田家が存する旧曽呂村(鴨川市)は、嶺岡山脈の南麓を東から西へ通じる道を中心とした五
百戸余りの山村です。江戸時代からこのあたりでは毎年5月、たいへんなにぎわいの中、馬捕り
の行事が行われており、そこに幕府の役人が来て牛馬を見定めする場所を陣屋と称したが、庄屋
のような役割を果たし、村の指導的立場にあった水田家は、この陣屋と地続きとなっていました。
水田家は、400年以上前に四国讃岐から移ってきたものといわれています。明治中頃の水田家
当主水田竹蔵は、英国から初めて輸入されたホルスタイン種牡牛を飼育したことによって、酪農
史にその名を残しています。塾で学んで帰った当時の新知識人でもあり、初代の戸長、村長とし
て信望を集めていました。その息子信太郎も村長をつとめ、その在任中、県下にさきがけて村内
の学校数校を一校に統合、近代校舎を建て、村の教育に貢献しました。信太郎には6男2女が生
まれましたが、男兄弟だけでなく姉妹2人を含む8人全員がその当時の高等教育を受け、この山
村から中央に出て、財界、政界、教育界で活躍したのです。そのなかの3男が、のちに通産大臣
や大蔵大臣を歴任し、城西大学を創立した水田三喜男氏です。ここで生まれ、安房中学校まで過
ごしました。(パンフレットより)

では、水田三喜男氏のことを・・・
日本の政治家で、城西大学創立者です。大蔵大臣を数度に亘り務め、戦後日本の代表的な財政家
です。生まれは、千葉県曽呂村(現鴨川市)。旧制安房中学校(現県立安房高等学校)、旧制水
戸高等学校(茨城大学の前身校)を経て、京都帝国大学法学部に入学。1931年卒業後、東京
市の職員、専修大学講師、北越石油監査役等を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に
当選、以後13回連続当選を果たしました。1953年に経済審議庁長官として初入閣し、その
後、通産相や大蔵大臣を数回努め、第34回衆議院議員総選挙で13回目の当選を果たし直後
71歳で急逝しました。曽呂村尋常小学校卒業後、8里(32㎞)離れた名門安房中学校に進み
ました。安房中は軍港があった館山にあり、カッパ中学と言われるほど水泳が必須でしたが、水
田氏はカナヅチで、泳げないものだけが着ける赤ふんどしを義務づけられていたそうです。
水田氏の銅像が、館山市の鶴ケ谷八幡宮に建っています。

水田氏の事を少し知っていただいたところで、次の西神社へと向かいます。
西神社は、水田氏が通っていました曽呂小学校分教場の隣にあります。

祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)。勧請年歴は不詳。社殿の横に鴨川市指定天然記念物
の大杉があります。樹高約25m、目渡り幹囲約6m、推定樹齢300年以上。

狛犬たちも立派です。

石工さんははっきりしませんが、曽呂村仲区鈴木磯吉さんが手がけたもとだと推測されます。

次は曽呂小学校分教場跡へ。

身次7年(1874)に西尋常小学校として建設。同時期にこの地域で4つの小学校が造られました。
明治42年(1909)、村内の4校を統合し曽呂尋常小学校が誕生しましたが、西尋常小学校だけ
曽呂尋常小学校分教場として残されました。通学バスのない当時、子供の足で片道6㎞通うのは
大変だということで、1年生から4年生まで分教場、5年生から本校に通う事になりました。
昭和42年(1967)に廃校となり役目をおえました。この尋常小学校には、水田三喜男氏も通って
いました。
昭和42年に廃校となって現在は、このような状態です。2枚目の写真は、廃校後、公民館とし
て利用していたので、くずれ方が違います。
ここで、食事休憩です。またお弁当の写真を撮り忘れてしまいましたが、今回のお弁当は南房総
市和田町の「くすの木」のお弁当です。旬な山菜の天ぷらなどが、入っていてとてもおいしかっ
たです。

お腹もいっぱいになったところで、最後の見学場所、蓮華院へとむかいます。っと言っても目と
鼻の先ほどの距離ですが・・・・


真言宗智山派の寺院で、山号を宮本山といいます。大黒弁財天(大黒尊天)は、大正9年(1920)、
真野寺の分体としてここ蓮華院に安置され、西の大黒様とよばれています。例祭の3月6日には、
家内安全、厄除、商売繁盛、開運を願って開尊されます。
写真は下見の時の本堂です。当日は、すべての扉が外され、大黒様もお顔が見れるよう、前の方
へと出してきてあります。
その大黒様がこちら。

ガラスの中に納められているので、写真を撮ると反射してしまって・・・難しいです。

雨でも御近所さんたちが来られて賑わっていて、甘酒や豚汁、お赤飯のおにぎりなど振るまわれ
ていました。13:30?~は落語が聞けたり、14:00~は福くじの当選発表、14:30
~は福もち投げがあります。毎年3月6日に行われますのでご興味のもった方は、是非来年行っ
てみてはいかがでしょうか?

さぁ~落語は聞かず、ここから、出発地点へと戻りますが、本来ならば約3キロ歩いて帰るので
すが、雨も強くなり冷えてきてしまったので、救護班の車に数名乗り込み、車をお寺に移動させ
て、みなさんを出発地点へと送迎し、終了となりました。
雨でもありましが、なんとか無事に終わる事ができました。

今年度は、お散歩ツアーを1本残しております。来年度のウォーキング予定表も印刷の段階に入
りました。出来上がりましたら、道の駅とかに置かしてもらいます。

お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」報告

この所、寒かったり暖かかったりと気温の変化がありますが、皆さま体調の方は大丈夫ですか?
花粉の時期でもあり、山を見ると杉がいっぱいです。花粉に耐えながら、がんばってウォーキング
してます。

大人の学習旅行の二日後に、お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」を開催しましたので
報告です。今回のツアーは、館山市神余地区に関係のある、金丸氏のゆかりのと地へと向かう
コースです。
出発前に、少し金丸氏についてお話しします。
房州初代金丸氏は、甲斐の国(現・山梨県)巨麻金麿(こまかなまろ)の住民で、天児屋命(あ
めのこやねのみこと)を祖神とする名門藤原一族で、東国鎮護の時に坂上田村麿将軍に仕え、活
躍したので神余の地をもらい、延暦23年(804)に甲斐より移転してきました。
名前は、金丸巨麻太藤原宗光(かなまるこまたふじわらのむねみつ)と名乗りました。9代目か
ら源親元の任期を除き、安房の国司を歴任し、16代昌孝は、源頼朝に従い鎌倉幕府設立に貢献
しました。26代景貞の時謀反が起こり山下定兼に国を奪われ、それ以降里見氏の家臣となりま
した。この景貞が山下に国を奪われた話が、南総里見八犬伝のモデルになったとも言われています。
(※諸説あります)

さぁ~出発します。出発地は、神余地区にありますキッチン&カフェマリヌスさんの裏からです。
この道はグリーンラインに抜ける道ですが、交通量が少なくついつい車が来ることを忘れてしまう
道です。途中、土手の土がえぐれている場所があります。昔の人?と思うと思いますが、「土どろ
ぼう」なんです。赤土は、稲の準備をする時に使うらしく、結構みなさん農協さんとかで買うん
ですが、ここに堀にきちゃってるんですね。

航空無線標識所跡の下を通っていきます。元々は、大きな塔があったのですが、このツアーの少し
前から解体が始まていて、塔が無くなってしまいました。
少し行くと民家・林道へと続く道を歩き、地蔵畑に到着します。

石のお地蔵様が2基あるので、地蔵畑といわれるようになりました。室町時代中期に、金丸景貞が
自害した時の介錯人の自性坊がこの岩屋に自性院を創建しました。元禄の大地震で崩れたあとは、
現在の場所に移ったとの事です。地蔵立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸末年
十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とあります。


お地蔵様の前の場所は平らになっていて、お堂があったのではないかな?と思われます。

次に向かうのは、御腹やぐらです。こちらは私有地の中にありますので、事前にお願いして見学
させてもらいました。

間口3m高さ2mのやぐらがあり、内部には宝篋印塔があります。
応永24年(1417)正月元旦、家臣山下定兼の一族が神余城に攻め込みました。正月3日、金丸景貞
は「もうここまで」と覚悟を決め、息子満孝(後、茂詮)に「里見家基をたよって逃げよ」と言い残
し、山深い地蔵畑の岩屋で自性坊に介錯を頼み切腹しました。
時はたち嘉𠮷元年(1441)5月安房の豪族安西・丸連合軍の加勢を得て山下城を攻撃、ついに山下定兼
の首をとり、父が切腹した場所に報告したと言われています。
のちに村人は、景貞が切腹した洞窟を御腹やぐらと呼ぶようになりました。(※諸説あります)

元来た道を通り、山道に入ると見晴らしのいい場所に到着します。個人の山ですが、許可をいただき
休憩タイム。ここで、少し皆さんに、金丸氏の紙芝居を・・・

天気が良ければ富士山が見えるのですが・・・大房岬やその後ろに三浦半島、城ヶ島もはっきりわかり
ます。天気が良ければもっとよかったのですが・・・

紙芝居を見て、一休みしたところで、最後の目的地、浅間神社へと向かいます。

社号碑から登り木でできた鳥居をくぐり登って行くと、祠が見えてきます。

神余地域は浅間信仰の盛んな土地柄で、浅間祠が何カ所もあります。こちらは京塚山の浅間神社です。
手水鉢には、安楽院が願主で安政6年(1859)に奉納されています。
京塚山は神余地区の最高峰で、海抜161mあり、戦時中、海軍の飛行機が墜落して山火事が発生した
そうです。
帰りは、古道を通り出発地へと戻ります。
今回のツアーを行う前に、同じコースで神余小学校の皆さんをご案内しました。自分の生まれた地区の
歴史を散策するという事でご案内しました。子供たちの記憶に少しでも残って、将来、自分たちの地区
はこんな歴史があるんだと思い出して語り継がれたらいいなぁ~と思います。
他の地区の皆さんも、是非、自分の生まれた場所の歴史に触れてみてはいかがでしょうか?
なぁ~んて宣伝してしまいましたが、今回も楽しくお散歩ツアーを開催する事ができました。
あと今年度は2回で終わりです。来年度も面白いツアーを計画しています。新しい案内は、3月下旬には
お目見えできると思います。

大人の学習旅行編

また旅倶楽部のメンバー&常連さんとで和気あいあいと大人の学習旅行へ行ってきました。
本当は、2016年8月に行く予定だったのですが、台風の直撃にあい断念し、やっと2月
20日に行く事ができましたが、その日もTVでは「台風並みの強い風」と言っているじゃ
ないですかぁ~。朝からドキドキものでしがた、なんとか出発する事ができました。

前おきが長くなりましたが、今回の大人の学習旅行は「川崎大師とANA機体工場見学」。
朝のアクアラインは、規制がありましたが通る事ができましたが、すごい風でバスのドライバー
さんは大変だったと思います。海ほたるにトイレ休憩で寄りましたが、作業している方の
雰囲気が通行止めになりそうな感じでした。

そんなこんなで、川崎大師の駐車場へ無事到着、歩いて参拝に行きます。

真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺が正式名称です。本尊は厄除弘法大師。開創は大治3年(1128)。
崇徳天皇(在位1123~1142)の時代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により
生国尾張を追われ、諸国を放浪し、この川崎の知に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮ら
しを立てていました。ある夜、ひとりの高僧が兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、
わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁に人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを
供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられ
ました。兼乗は海に出て、光輝いている場所に網を投げますと、一躰の木像が引き揚げられ、ささ
やかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が
諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊いお像と、これにまつわる霊験奇譚に感泣し、
力をあわせて大治3年(1128)に一寺を建立しました。兼乗の姓、平間を以て平間寺(へいけいじ)
と号し、ご本尊を厄除け弘法大師と称し奉りました。(川崎大師HPより)

うん~館山市の小塚大師の話だと・・・
弘仁6年(815)に弘法大師が東国行脚の際、静寂で霊験あらたかな山に立ち寄り、密教の道場として
一字の草案を建てたのが始まりです。ある日、布良崎に鎮座する太玉命が現れ大師に告げました。
「師がこの地に来たり給うは、土民の願い、師は今年42歳の厄年に当たる。一つには自分のため、
一つには衆生のためにどうか災難除け勝業を営むべし。師の住む庵の後峯に霊木がある。これを用い
て刻み祈誓したならば、あらゆる災難やわざわいはその像が身代わりとなって、師の心身は安らか
である。なお、あらゆる衆生を救うとの誓いを像にこめ、永くこの地にのこし結縁の者に厄難を除
かしめられよ。私もまた師の影に随って擁護しよう」と語り終えると、たちまち姿が見えなくなりま
した。お告げに従い霊木を探し、自ら二体刻み開眼供養をして、「願わくは有縁の衆生と共に福智円
満せしめん。当初鎮守を始め奉り、本朝の諸大神祗・三世十方の諸仏・諸菩薩証明加護し給えへ」と
誓い、その内の一体を布良崎の浜より流しました。その後、幾年かたって対岸の武州橘樹郡に流れ着
き、現在の川崎大師平間寺に祀られたと伝えられています。(小塚大師HPより)

両方の話を合わせると、弘仁6年(815)に弘法大師が、彫った2体のうち一体を布良崎から流したの
が、300年近くたって平間兼乗に引き揚げられて、川崎大師を作ったという事になるのだと私、
個人的に理解したのですが・・・でも、平間寺の方に唐で彫ったとなってるので、どうでしょう?

境内に着いたら、自由時間です。お参りしたり、お土産買ったり、昼食したりと皆さんご自由にお過ご
しいただきましたが、担当ガイドが言うには、「みちしるべ」があるので、それは見ておいてという事
だったので、見てきました。


川崎市の重要歴史記念物に指定されています。作られたのは江戸時代の寛文3年(1663)です。
大師への参詣路を表す標識で、もともとは川崎宿の万年屋の脇、東海道から大師道への分岐点に建てら
れていましたが、戦後、平間寺境内に移されました。高さ171cm、幅52cm、厚さ47cm。

あとは、私のおすすめは、西解脱門への道沿いにある「しょうづかの婆さん」と呼ばれる像が祀られ
ている場所です。

「しょうづか」とは「葬頭河(そうづか)が訛ったものだそうで、三途の川を渡る死者の衣服を剥ぎ取る
「奪衣婆」のことです。この「しょうづか婆さん」にお参りすれば、歯の痛みを止めたり、容貌を美しく
してくれたりといわれ、昔から信仰を集めたそうです。

皆さん思い思いに散策・食事などを楽しんだあとは、「ANA機体工場見学」に出発です。
まずは、講堂にて飛行機と整備についてのや整備のビデオなどを見ます。
いよいよ、3班に分かれて機体工場へと進んで行きます。
まずは、ビル3階分の位置からの見学です。

機体を見ただけで、なんだかワクワクしますねぇ~。皆さんも目の輝きが違ってました。

上から見たあとは、階段を下りて地上へ。

すごい迫力です。

最後は、参加者全員で写真を撮ってもらいました。

あと少しで機体工場の見学は終わりです。私の班を案内して下さった方は、元客室乗務員だった
方で、お話しも上手で面白かったです。最後に、整備士の方が工場内で使っている自転車を紹介
してくれました。

このNO1のピカチューは、見学時に見る事ができないらしく、これを見るといい事があるという
お話しでした。ラッキーアイテムらしいので、写真を撮ってみました。
他にの番号ごとに違うポケモンのキャラクターが描かれていました。

楽しい時間はあっという間に終わってしましたした。受付の所にあるコンビニに、ANAグッズが
売っていて、お土産を買って帰ります。
本当は、もう少し写真を撮ってあるのですが、ブログやSNSへの写真の掲載はANAの許可が必要
なのです。今回は、5枚しか許可の申請をだしていないので、掲載はできません。
ANA機体工場見学は、6ヶ月前から予約ができます。見学は平日のみです。

館山へと帰りますが、その日はあいにくの天気でアクアラインが通行止めになってしまいました。
岡回りで帰ってきたのですが、途中の高速道路も風が強く土煙が舞っていました。
かなり、ドライバーさんは大変だったと思いますが、無事に館山へと到着しました。

次年度の大人の学習旅行も計画しております。昨年度は防衛大学と横須賀港クルーズ、今年度は、
飛行機工場っときたので、次は○○なのでしょうか?皆さん近くなったらお知らせします。

今回の大人の学習旅行にご協力いただいた皆さまありがとうございましす。

特別編「木更津市公民館様ガイド」

花粉のシーズンに入ってきました。
房総の山を見れば杉だらけ。花粉症の人は大変なことになっております。
皆さんはいかがでしょうか?

さて、今回は月イチツアーの報告ではなくて、木更津市某公民館様からご依頼いただきま
した、ガイドの報告します。
なぜ?って、木更津市さんに同行したので、月イチツアーのネタが残念ながらないのです。
月イチツアーの報告を楽しみにしたいた方には、申し訳ありません。

某公民館様は今回で3回目のお申込みで、前2回は後藤義光の彫刻などをご案内したので、
今回は伊八の作品のご案内です。

待ち合せ場所は、道の駅三芳・鄙の里です。最初に向かったのは、南房総市山名にある
曹洞宗の智蔵寺へ。山名の大寺とも呼ばれています。

寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼(父・武田信玄)の嫡男で、天目山
を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。開山の太巌存高和尚は信勝の
舎弟英丸といわれています。また、中興の開基は里見の奉行、印東采女平忠康とされています。
徳川時代初期の寛永十五年(1638)、旗本三枝守昌は安房ノ国で一万石を賜って大名に列し、陣屋
を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所とした。次の守全は再び旗本となりましたが、その後、天保
13年(1842)まで204年の間、山名は三枝氏(その傍系諏訪氏)の知行所でした。(寺伝より)

本堂の欄間には「波と竜」の彫刻三面は、武志伊八郎信由と弟子森久八の作です。(文化5年)

墓地のエリアには、武田石翁が手掛けた石仏があります。

今回はバスが上まで登れたのですが、本当ならば苔むした階段を上がってお参りします。

とても雰囲気の良いお寺さんで、今回は、ご住職が本堂内をご案内していただきました。
貴重なお時間をありがとうございます。

次に向かったのは、石堂寺です。

天台宗の寺院で、長安山東光院石堂寺です。和銅元年(708)、奈良の僧・恵命、恵照がインドの
阿育王(あしょかおう)の仏舎利を携えてこの地に草庵を結んだことに始まり、神亀3年(726)
に行基菩薩がこの地に訪れて大塚山に堂宇を建立し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊にしたと伝え
られています。阿育王の仏舎利宝塔を祀っているので、日本三石塔寺と呼ばれています。
仁寿元年(851)には、慈覚大師が七堂伽藍を整備して、天台宗比叡山延暦寺の末になったそうです。
文明19年(1487)に夜盗による火災に遭い、当地の豪族丸氏や里見氏によって永正10年(1513)に
堂宇を現在地に移して最高されました。国指定の文化財建造物が4棟、仏像が1躰あり、県・市の
文化財も数多く残されています。

今回も、石堂寺のご住職に客殿に保存してある初代伊八の彫刻をご案内していただきました。
こちらは、写真撮影禁止なので写真はありません。(伊八の彫刻を見る場合は拝観料がかかります)
作品は、寛政3年(1791)、伊八39歳頃のものだと言われています。もとは、多宝塔につけられて
いたのですが、平成の大修理の時に元に戻されたので(多宝塔建立時には彫刻が無かったので)、
現在は屋内に保存・展示してあります。

当日は、ご住職はインドから帰ってきたばっかりだったんですが、いろいろ楽しくお話しが聞けました。
イノシシとの争いなど、ありがとうございます。

少し時間があったので、本堂の裏にある旧尾形家も見学に。

尾形家は珠師ケ谷村(旧丸山町)の旧家で、昭和46年・47年度に解体され移築されました。
江戸時代中期の享保13年(1728)の建築、居間と土間を別棟にした南方系の特色をもつ分棟型
の代表的な民家です。普段は中を見る事ができませんが、初縁日の日に見学する事ができます。
季節によって色々な花を見る事ができます。

次に向かったのは、捕鯨の町和田へ。せっかく南房総に来たので、クジラ料理なんかを食べて
いただこうか?とご紹介したのが、道の駅和田浦WA・O!!。こちらで昼食をとっていただき
ました。この時期は、お花が盛んな地域もありストックなどお安く購入する事ができます。

お腹いっぱいになったところで、真野寺へと向かいます。

真野寺は、真言宗智山派の寺院で、正式には「高倉山実相院真野寺」といいます。地元では、
「真野の大黒」と通称で親しまれています。
お寺の歴史は、神亀2年(725)に、行基菩薩によって開山されました。建永元年(1206)には野火
により焼失してしまいましたが、翌年に大黒天の信仰厚い北条義時が私財を投じて七堂伽籃を再
建し、覆面千手観音と大黒天像を安置しました。
本尊の覆面千手観音は行基の御霊作といわれ、霊験がとても高く、参拝者に少しでも疾しい心が
あると重い仏罰を下しました。それがあまりに厳しかったため参拝者も絶えていってしまいました。
貞観2年(860)、遊行中の慈覚大師(円仁)が立ち寄り、行堂面を彫ってかぶせたところ、以降、
優しく慈悲深い仏様になったといいます。
大黒天像は、貞観2年(860)慈覚大師(円仁)が、参籠中の旧正月六日、朝日昇天の中に大黒天が
出現し、大師はこの大黒天を直ちに一刀三礼により彫り上げたといわれています。朝日開運大黒天と
称され、毎年2月6日には、大黒様の出現を記念して大黒天福祭りが行われています。
現在の本堂は、元禄の大地震・大正の関東大震災と二度の被害をうけましたが再建し、昭和35年に
落成しました。

では、伊八の作品を。

大黒天祈祷所にあります。作品です。

「松に鶴」です。阿吽になってるのがわかりますか?

次は観音堂の作品です。

「波に宝珠と火焔龍」です。大黒天祈祷所と同じ時期の伊八57歳ごろと言われています。

こちらもお寺の方が説明していだきました。ありがとうございます。
覆面千手観音様のお話しは、ビックリです。覆面はしていますが、ちゃんと目の所に穴が
空いているので、しっかり参拝者を見る事ができるんです。

今回ご紹介いたしました寺院は、事前に見学のお願いをしてあります。ガイドの独り言を
見て行かれる場合は、お参りをしてからマナーを守って見学させてもらって下さい。
最近、勝手に本堂の中に入ったりする方がいらっしゃるようです。また法事中に中を見せて
とかいう方や、鍵をあけて見せろとか・・・自分勝手の人が多いと聞いています。
また、仏像が盗まれたり彫り物が盗まれたりという話も聞きます。
皆さま、地域資源でもあります神社仏閣に訪れる際は、マナーを守って参拝して下さい。

月イチツアー「観音巡礼道」報告

気が付けば2月。館山・南房総では、陽だまりは暖かいのですが、房州名物の大西が吹く日数
が多くなってきています。この大西が吹くと、海岸線なんかは歩くのが大変です。車も潮でシオ
シオになってしまいます。ご興味のある方は、体験しに来てください。

さて、1月の月イチツアー「巡礼観音道」を開催いたしましたので報告します。
出発は、南房総市和田町にある正文寺さんの駐車場からです。
まず最初に向かったのが、お塚と呼ばれる場所です。

このお塚には、正木氏の子孫で江戸御三家・紀州藩家老になった正木為春は三浦姓に戻し、
その子孫が文化5年(1808)に建てた、正木家遠祖の三浦義同(道寸)の供養塔や、正木時忠・
時通の供養塔があります。
ここで少し解説を・・・正木為春は、徳川家康の側室になったお万様のお兄さんです。お万様は、
徳川御三家の紀州徳川の頼宣、水戸徳川の頼房の生母なのです。そんなこんながあり、徳川家康
から正木姓を改め三浦姓に復することを許されたそうです。
三浦義同(道寸)は三浦半島で活躍した武士で永正13年(1516)北条早雲に攻められ自害しまし
た。その義同(道寸)の子・時綱が房総に逃れ正木姓を名乗ったとされています。

そんなお塚を後にして、寺谷普門寺跡入口へとむかいます。

宝暦4年(1754)、鈴木氏(普門家)が建てた普門寺の参道入口の道標と普門家の鈴木正彦氏が
平成元年に建てた普門寺沿革です。

ここから普門寺跡へと向かいます。

途中、ちょっと険し登りがありますが、問題なく登って行くことができました。

普門寺跡です。岩屋になっていて、ここにお堂があったそうです。
ここで、普門寺の説明を・・・
安房国札観音札所普門寺は、天平19年(747)、行基の開基と伝えられています。本尊は聖観世音
菩薩で行基作と言われています。当初、普門家(鈴木)裏の伊豆山山頂付近の横穴に、聖観世音立
像を祀っていましたが、文化年間(1804~1817)、当主鈴木粂衛門は普門山の中腹に岩屋を設けて寺
を移転しました。その後、飛騨の国より一千カ寺参りをしていた仁兵衛は、普門家東側に居を定め、
岩屋を改修し、天保11年(1840)より弘化2年(1845)にかけて、下向道を開鑿しました。また弘化
2年より嘉永6年(1853)にかけて堂面隧道までに参道を拓き、名主角田勘右衛門が中心となって皇
極天皇碑を建立し参道供養を行ったそうです。
 皇極天皇碑
江戸時代末期には、無住になり、堂屋が赤忠を頭目とする夜盗たちの根城になり、被害は多々にお
よび当主鈴木安造は寺を正文寺に寄進し堂屋は取り壊されました。
赤忠?とお思いの方、説明します。
赤忠は村々の金持ちばかりを襲って金銭・衣類・米を盗み、日々の生活が苦しい人々に盗んだ金品を
恵んだことから「義賊」と評判になりました。役人たちの捜索にもかかわらずなかなか捕まえる事が
出来なく、正木(那古地区)のワラ小屋に潜んでいるところを発見され逮捕となりました。
明治の初めに打ち首となったそうです。赤忠は岩糸村(旧丸山町)出身で本名は忠蔵、酒を好みいつも
赤い顔をしていたといいます。

堂面隧道を通り次に向かったのは諏訪神社。

この堂面隧道は迅速図上で公道に隧道の記号があるのは、安房では館山市小原と荒川・平塚間3箇所だ
けのようです。

堂面隧道から少し行くと、石に彫られた祠を見る事ができます。

古道を通り、裏から諏訪神社へ。

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)
貞応年間(1222~1224)、真田氏が社殿を創建。永禄年間(1558~1570)に里見氏が戦乱依頼の社殿を
修築し、慶長19年(1614)に村民によって再建されました。その後、社屋の造営・修造等があり、
現在の本殿・幣殿は昭和4年に新築されました。


狛犬と手水鉢は嘉永元年(1848)のものです。

諏訪神社の参道は、なんか清々しい気持ちになります。

諏訪神社を後にし、唐ケ作地区・神田地区を通って出発地点の正文寺へと行きます。
 仁王門
宝暦5年(1755)に建立され、その時仁王尊が誕生寺から贈られました。安政年間に現在の門
が再建されました。

 本堂
正文寺は、日蓮宗で小湊誕生寺の末寺。本尊は日蓮聖人奠定(てんてい)大曼荼羅です。
安元・治承(1175~1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗のお寺
でしたが、天正2年(1574)に勝浦城主であった正木頼忠(環斎)が父・正木時忠の菩提
のため日蓮宗として再建したと伝えられています。
大正6年(1917)の雷火で祖師堂以外は焼失し、昭和8年(1933)に本堂が再建されました。

 祖師堂
宗祖日蓮聖人を祀っています。正木環斎(頼忠)自刻と伝わる日蓮聖人像や、正木家累代の
位牌、お万の方寄進の科註箱(高座の説教の時に教本・道具を入れてお箱)などがあります。


外陣正面には明治21年(1888)、館山の川名楽翁によってかかれた絵馬「日蓮鎌倉帰着之図」
が掲げられています。

っという事で、今回のウォーキングツアーも無事に終わりました。
次回は2月12日の月イチツアー「頼朝伝説と民話のふるさと「大高尾」を訪ねよう」です。

お散歩ツアー「洞穴に大昔の生活に思いを馳せる」報告

遅ればせながら、新年あけませしておめでとうございます。本年も「ガイドの独り事」にお付き
合いいただきありがとうございます。本年もよろしくお願いします。

新年、第一弾を先日開催しましたので報告します。
今回のツアーは、お散歩ツアー「洞穴に大昔の生活に思いを馳せる」でした。
開催日は大寒波が来る前だったので、歩きやすい天候で、お正月でなまった体を動かすにはちょう
どいい感じでした。

出発は、豊房公民館からです。まずは、豊房の大戸という地域の鎮守、白幡神社へ。

祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)。創建した年は定かではありませんが、寛永元年(1624)
に大円寺が創建されたので、その頃村人によって奉納されたものではないかと言われています。
白幡神社というのは、鎌倉鶴岡八幡宮の末社で源頼朝を祀る白旗神社を勧請したもので、祭神は
本来ならば頼朝なのですが、鶴岡八幡宮の祭神である応神天皇(譽田別命)を白幡神社の祭神に
していることが多く、この地域も鎌倉御家人から分けてもらったものと思われます。
明治19年に、住民から向拝の龍、牡丹、唐獅子、千鳥の彫刻が奉納されました。向拝の龍は、
房州後藤流初代義光の弟子の、北条の後藤正三郎忠明の作です。

次に向かったのは、お隣にある大円寺。
浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。江戸時代初め頃の寛永元年(1624)の創建で、それ以前は
禅宗のお寺だったといいます。境内には、東長田無駄の善兵エさんと母親が文化11年(1814)に供
養した十三仏があります。

仏教では輪廻転生という考えがあり、命日から四十九日の間に、故人が次に生まれ変わる来世が決ま
るとされています。来世とは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道の事です。
この間故人は七日ごとに、生前の行いに対して閻魔大王をはじめとする十王から裁きを受けるとされ
れていて、この六道の世界はどこへ行っても煩悩の苦しみがあり、それを超越した世界が極楽浄土と
されているので、残された家族は、故人が極楽浄土に行けるように、この裁きを受ける七日ごとに故
人に善を送る法要を営みます。十三仏は初七日から三十三回忌までの合わせて十三回の法要の守護仏
で、故人は十三仏に守られて極楽浄土に導かれ成仏するとされています。室町時代頃から始まった信
仰だと言われています。
通常は、掛け軸などに描かれていることが多いのですが、大円寺には石に彫られている珍しい物です。

次に向かったのは、福寿院です。

真言宗の寺院で本尊は不動明王です。詳細は不明。境内に元禄8年(1695)に建てられた如意輪観音像
があります。

さて次は、お題にもなっております熊野横穴群へと進んで行きます。
以前は、地元の小学生が見学に来ていたそうですが、最近は来なくなってしまって、簡単に歩いて行け
る道も無くなってしまったそうですが、地元の方にご協力をいただき歩く場所を作っていただきました。

東長田横穴古墳は、白幡神社から東の方に入った地域が東長田の熊野・角口の両地区で、標高52mほど
の丘陵の西麓にあります。この丘陵の南斜面に約37個の横穴が開口しています。
古墳時代に作られた横穴墓群は、長田保(東長田・西長田)が14世紀から15世紀(鎌倉時代~室町時
代頃)にかけて円覚寺(鎌倉)の寺領になり、横穴墓をやぐらとして再利用し、近世祠として再利用した
ものと思われます。
なかなか、横穴墓とヤグラの区別は難しそうです。横穴墓からやぐらにリフォームしているケースがある
そうです。

横穴墓を作れる人は、権力者が多く、作られる場所も眺めが良い場所に造られています。

長田保の見渡せる場所です。回りの樹々が大きくなってしまったので、少し邪魔をしていますが、当時は、
田畑を見渡せる景色だったんだなと想像できます。

さて、次に向かったのは千田城跡です。
千田城は長田城とも呼ばれ、里見義実によって築かれた城と言われています。
義実は白浜城を居城としまし、安房国を統一しましたが、白浜城では南に偏りすぎていて、
治世の上に不便でしたので、白浜城より10㎞ほど北のこの長田の地に居城を移したとい
います。城山は南方からきた山脈の突端で高さ70m、山上には平坦な畑地があり、これ
が本丸の地で今ジョウ山とよんでいます。本丸からは、東京湾も一望でき見晴らしが良い
場所です。

本丸から堀切を隔たて場所に、諏訪神社があります。

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。創建は江戸時代初期の元和4年(1618)の創
建と伝えられています。


明治14年(1881)、区民の有志により後藤義信作の龍神の彫刻が奉納されました。

諏訪神社から下ってくると、一つの石で作られた宝篋印塔があります。

左側の地蔵菩薩は、江戸時代中期と後期のものと考えられ、右側2つの宝篋印塔は、16世紀
以前のものと思われます。2基とも相輪部(上部)を欠失していて、違う物がのっています。

千田般若寺跡へ。
以前は尼寺の般若寺がありました。門前を白浜へ通じる道があったといわれています。

街道沿いに建てられたお地蔵さんはイボ取り地蔵と伝えられています。他にも不動明王石像
が祀られています。

次は、最後の見学先の千田やぐらへ。

千田城跡の西側民家の裏には、室町時代のヤグラがあり、五輪塔が4基並ぶものと、宝篋印塔
と五輪塔が混在して5基並ぶものと2カ所ありますが、今回は宝篋印塔と五輪塔が混在している
場所見学しました。通常は、民家の裏にありますので、見れない場所ですが特別に見学させて
いただきました。

あとは、出発地点へと戻り終了です。今回の、横穴墓群と千田やぐらは通常は見学できない場所
です。地域の方々によって見学させていただきました。これからも大事に保存してほしい場所です。
ご協力ありがとうございました。

月イチツアー「文人・漱石や子規の歩いた道」報告

年の瀬になりました。なにかと忙しくなってきます。
最近では、車の運転のマナー?が悪かったりとか慌てて運転してる人が居ますので、交通事故に
合わないように、ゆとりある運転を心掛けていこうと思っています。
皆さんも気を付けて下さいね。

さて、今年最後の月イチツアー「文人・漱石や子規の歩いた道を辿ってみよう」を開催しました。
夏目漱石と正岡子規は親友でした。学生時代にそれぞれが房総を旅していて、その時の事を書いた
のが「木屑録」(漱石)・「かくれ蓑」(子規)の作品です。
なので、今回、二人が通ったであろう道を歩いてきました。

出発地は妙音院(館山市)です。

高野山金剛峰寺直末の古義真言宗の寺院。本尊は如意輪観音。里見義康発願により、天生17年
(1589)紀州高野山の直轄別院として、この地へと里見家の祈願寺として開山しました。
里見氏から白浜・真倉などに161石の寺領を与えられ保護されました。その後、徳川の時代に
なりますが、徳川からも同様に保護されました。境内には、安房高野山八十八ヶ所霊場があります。
妙音院さんで旅の安全をお願いして、出発です。

まずは、長光寺へ。

曹洞宗の寺院です。天文元年(1532)の開山で富士山津梁院といって里見氏から10石の寺領を与え
られていました。この寺には里見義康と忠義親子の供養塔があります。

ここから、豊房の岡田地区に入り風早不動尊へと向かいます。
途中には、馬頭観音やお地蔵様などの石仏があります。

風早不動尊まであと少しの所の不動明王像があります。

風早不動尊です。(今回の写真は、開催日のより3週間前に撮った写真を使います。イチョウの落葉で黄色く
染められていて綺麗だったので・・・)

天正18年(1590)2月創建されたと伝えられている不動尊です。特に、子宝・安産・良縁祈願の
ご利益がるお不動様です。子宝・安産をお願いしたい場合は、本堂にある犬のぬいぐるみをお借り
して家に持ち帰り、願いがかなった時には新しい犬のぬいぐるみと2体一緒に納めるそうです。
隠れた子宝のお不動様です。
向拝の龍の彫刻は、後藤義光78歳の作です。

本堂に向かって左手を流れる小さな滝の近くに、不動明王の利剣にかみつき飲み込もうとする俱利伽羅
竜王の石塔と出羽三山碑があります。

本堂の左手にある小さな滝です。

大正時代まで2階建ての行屋があり、修行の場となる5m程の不動ノ滝が流れおちていたそうです。
関東大震災で地下水の流れが変わり水が枯れてしまったといいます。
現在流れている滝は、近年復興されたものです。

いよいよ、漱石や子規が通ったと思われる道へと入っていきます。

もう道は、こんな感じになっています。。
道の途中には、当時、お茶屋があったそうです。

ちょっと写真ではわかりにくいかと・・・・

途中には、昔の穴?があります。たぶん白土を採った穴だと思われます。

大きなつるもあります。時を感じさせる道です。

ちょっとスタッフにぶら下がってもらいました。

この道の最後は、どこに出るかといいますと、国道410号線沿いの昔ホテルがあった
場所にでます。

あとは、出発地点に帰るだけだったのですが・・・せっかくなので、真倉地区にある浅間様
へと登ってきました。あまり地区の人にも知られていないそうです。
今回は、残念ながら写真を撮る事ができませんでした。

浅間様を後にし、出発地点の妙音院へ。
今年最後のウォーキングツアーは無事に終わる事ができました。

次は、1月12日のお散歩ツアー「洞穴に大昔の生活に思いを馳せる」です。
いやぁ~、ここは、是非来てほしいと思います。古墳時代から7世紀に造られた、東長田横穴
古墳群を見ることができます。今回、地主さんや地元の方に荒れてしまった山を整備していた
だき、見せていただけることになりました。昔は、豊房小学校の生徒さんとかも見学していた
そうですが・・・月日が経ってしまうと・・・大事な資源ですので、是非、この機会にツアー
に参加してください。

今年も、また旅倶楽部にお付き合いいただきありがとうございます。来年も、益々精進し、楽しい
ウォーキングガイドツアーを開催していきますので、よろしくお願いします。
皆さま、良いお年を・・・・・

お散歩ツアー「旧真倉切割と大神宮街道」報告

もう師走ですねぇ~。1年がたつのが速く感じる今日この頃です。
また旅倶楽部では、29年度のコースを企画中です。まだまだ安房地域には、面白い
ところがありますので、コースのパンフレットが出来るまでお待ち下さい。

今回は、お散歩ツアー「旧真倉切割と大神宮街道」の報告です。
出発場所は、館山市の藤原地区にある館山運動公園です。
今日は、珍しいお客様?っと思いましたが、こちらの公園にお住まいの恐竜さんでした(笑)

まずは、ツアータイトルになっています「旧真倉切割」へと向かいます。途中国道を
通って行きますが、白線の内側を通ろうとしても、内側が狭すぎで少し自動車の道に
出てしまうので危険ですが、がんばって歩いて行きます。
少し歩くと、国道からそれる道があります、そこを入っていくと民家があり、ちょっと
ひとのお家にお邪魔しちゃったような感がありますが・・・進んでいくと

木が生い茂ってる道。なんかワクワクしてきました。

この緩やかなカーブを抜けると・・・

おぉ~すごい!!
切割の最後まで行って、切割について説明を。

房総半島は低い丘陵地がとはいえ、比高差があり半島内を移動するには、苦労していました。
尾根上を移動する道が造られますが、山道は狭く曲がりくねっていて、川には橋がなく、海岸
では砂浜や磯を歩くことになったりで、牛馬や荷車では荷物を運ぶこともできない道ばかりで
した。江戸時代は治安維持のため、あえて道の改良をしませんでしたが、明治時代になると情
報伝達や迅速化と流通の発展のため、県をあげて道路改良が進められ、明治20年前後から、
館山市から周辺町村へ向かう幹線に隧道(トンネル)や切割が造られ始められました。館山か
ら神戸への切割が完成し、真倉側の谷と神戸側の谷を直線で結ぶ平坦なルートとして開削した
ものです。現在の切割は明治16年の海軍砲術学校開設に合わせて新しく拓いたものです。
新しい道が出来たことで、この道は使われなくなりました。

来た道を振り返ってみると、やっぱり素敵な景色です。

本当はまっすぐ抜けられる道なのですが、約70年も使われていない道なので、藪やら木やら
で今は通り抜けられません。まして、落葉の堆積の量が半端ないので、同じ道へと戻ります。

次は、岡田口前不動へ。

石造りの不動尊と文化3年(1806)馬頭観音像と文化5年(1808)の地蔵尊が祀られています。
地蔵尊には往来安全を願う文字があります。
ここはかつての館山と神余・白浜や、館山と神戸佐野・安房神社を結ぶ街道がありました。
安房神社のお神輿が八幡の祭り(やわたんまち)に通った道でもあり、安房神社往還と呼ばれ
ました。元はもう少し北側に残る旧道から不動は下がる分かれ道にあったのですが、道の付
け替えによって移動されました。

いよいよ旧道に入っていきます。
この旧道は、別荘地になっていて、旧道なの?と思う道ですが・・・旧道なのです。
途中の景色はこんな感じです。

平砂の海が見えています。ずっと奥には、大島がうっすらと・・・
景色最高です。

旧道という痕跡は、辻のお地蔵さんです。

谷藤原からお神輿を担いで山道にさしかかる辻󠄀にある道しるべのお地蔵さまです。
お神輿を担いで通った道と考えると、山あり谷ありで、八幡神社に行くまで大変な道のり
を通ってたんだなぁ~と感心させられます。いまでは、車に乗せてシューっと行くんですが、
当時の人達の脚力の強さに驚かされます。

谷藤原へと進んで行くと、またしてもお地蔵様。

村境を守るお地蔵様で、いぼとり地蔵と呼ばれています。村の境目には道祖神やお地蔵様
が安置されていて、往来の人々や村人を見守っています。

次は谷藤原・荒神社へ向かいます。

火伏の荒神様を祀る神社です。古くは谷藤原が地区の中心でした。地震隆起で耕地
が広がると、藤原・佐野方面に村民が移動し、荒神社も藤原神社に合祀されました。

この苔むした階段を上がって行こうかと思いましたが・・・今回はやめました。

出発地へと戻りますが、国道を通るのも危険ですので、旧道へともどり、出発地点を目指し
ますが、やはり、お地蔵様がいらっしゃいました。

無事に出発地点に戻ってまいりました。今回のツアーのみどころ「旧真倉の切割」は、
足元が大変な事になるかもしれませんので、もし行かれる際は気を付けて下さい。
また、静かな場所ですので、大声をだしたり、ごみを捨てたり、落書きしたりしない
で下さい。(当たり前の事ですが・・・)

次回は、12月17日(土)月イチツアー「文人・漱石や子規の歩いた道を辿ってみよう」
です。房総半島に来た時に歩いたと言われる、道の一部を歩きます。
是非、ご興味のあるかたはご参加下さい。

お散歩ツアー「水軍末裔の湊まち」報告

めっきり寒くなってきたと思ったら、もう11月です。
朝、布団から出るのが嫌な季節になってきました。

今回のウォーキングは、お散歩ツアー「水軍末裔の湊まち」の報告です。
スタートは、安房一之宮洲崎神社からです。
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お参りは戻って来てからという事で、階段の下から無事をお願いして出発します。

フラワーラインを通り持明院へ向かいます。なんだか人の家に行ってしまうような道を
通っていくと見えてきます。
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持明院は、真言宗智山派で、安房郡札三十三観音(辰歳観音)の二十六番目になる寺院です。
本尊は、聖観世音菩薩です。

次は、すぐそばにある福蔵寺へ。
こちらの寺院も真言宗智山派です。残念なことに写真を撮るのを忘れてしまいました。

この西川名地区には、二つの寺院があります。

さて、次に向かうのは、吾妻神社です。
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吾妻神社までの途中は、かつて花造りが盛んだったと思われる畑の道を歩いていきます。
花の栽培する人もすくなり、だんだんと畑も荒れてしまっています。

畑を抜け、いったん民家のある場所を通り、坂を上がっていきます。
途中に祠があります。
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これな、吾妻神社の本殿まで参拝に行けない人々がこちらで参拝できるようにという事で
設けられています。

またまた、畑の道を通り、本殿へ。
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祭神は、弟橘媛(おとたちばなひめ)。弟橘媛は、日本武尊の妃。日本武尊が東国征伐の折、
相模湾から上総に渡ろうとしたとき、海上で嵐に襲われ、弟橘媛が海に身を投じつことで嵐
を鎮めたという伝説があります。
本殿前で少し休憩をとり、階段をおりて行きます。
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結構、急な階段ですが、途中の景色は最高なんです。
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雲ってはいたのですが、大島・利島・新島が見えていました。

次に向かったのは、厳島神社。
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祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)。毎年1月の第二日曜日に湯立神事が行われます。
海上安全・大量祈願の神事で、「ツオマツリ」とも呼ばれています。
湯立神事は、神前での祭典の後、境内にある直径約60cmの大釜に煮立ったお湯を、白装束
の神官役が笹で周囲の人たちにふりかけます。この湯を浴びると厄払いになるといいます。
終了後は、各自持ってきたタオルなどを釜の湯に浸し、持ち帰って家族の体を拭いて無病息災
を祈るそうです。

海岸線を通り、洲崎神社の御神石へと向かいます。
途中、クコの実が沢山なっていました。
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洲崎神社の御神石です。
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この御神石は、竜宮から洲崎大明神に奉納された2つの石の一つだと言われ、もう1つは対岸
の三浦半島にある安房口神社に祀られています。安房口神社の石は口を開いていることから
「阿形」、洲崎神社の石は裂けめの形から「吽形」にたとえられ、この2つの石で東京湾の
入口を守っているのだと言われています。
もとは、もう少し海の方にあったのですが、整備され現在の所に祀られています。

あとは、スタート地点へと戻ります。
一応、洲崎神社へ戻って終わりなのですが、洲崎神社が初めてのお客様がいらっしゃいました
ので、厄払い坂を上り本殿へ向かい、養老寺の方にでて駐車場へと戻りました。

月イチツアー「東条歴史探訪」報告

朝晩寒くなってきた館山・南房総。陽だまりは暖かいのですが、吹いてくる風が冬の気配を
感じます。そんな中、先日、鴨川市の東条地区を散策してきましたので、報告します。

まずは、鴨川市役所に集合し、東条公民館へ車で移動します。
今日の出発地は東条公民館からです。

最初に訪ねた場所は、閻魔堂です。
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参道には大日様の石仏や、三界萬霊塔や六地蔵があります。

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こちらはひっそりとお堂があり、中には閻魔様が祀られているそうです。

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閻魔堂の墓地には、俳号「雲水堂椿山」のお墓があります。
本名は、久保七左衛門で、文政7年(1824)、長狭郡広場村上人塚(鴨川市)生まれ。
江戸で刊行される俳家番付にもしばしば顔を出すほどの人物です。明治31年(1898)
8月24日に没。75歳。「我の外旅人見えず秋のくれ」と辞世の句を残しています。

次に向かってのは上人塚です。
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文永元年(1264)11月11日、小松原法難の際に日蓮聖人を救おうと殉職した天津
城主・工藤吉隆の墓。日蓮聖人は吉隆公を弟子の一人に加え「妙隆院日玉上人」と
号し出家の礼を以て葬りました。法難後、工藤家によって碑が建立されています。

次は、ちょっと裏道に入り御嶽神社へ。
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こちらの御嶽神社は、ちょっと調査不足で詳しい事はわかりませんが、境内に亀井講の
大型石碑が多く残されています。
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次は、新田地蔵堂へ。
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こちらのお地蔵様はイケメンのお地蔵さんです。
ここで、お弁当到着時間の調整でしばし休憩。

調整が終わったところで、永明寺へ。
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曹洞宗の寺院で、山号は慧日山。弘化2年(1279)に東条景信により創建されました。
当所は別の場所にありましたが、元禄の大地震により津波の被害を受け、現在の場所
に移動しました。
本堂の向拝の彫刻は、五代伊八(高石伊八郎信月)です。この人のお父さん四代伊八郎
信明と一緒に柴又帝釈天の作品に従事したそうです。

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向唐門です。この門は鴨川市の文化財に指定されています。
切妻造り萱葺で、棟札から文化9年(1812)に改築されていることが判ります。
県内にこのような形式を持つ建築の残存率が少なく、山門建築の推移を知る上で重要な
ものです。

山門の手前には、可愛らしい六地蔵があります。
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こころがほっこりするお地蔵様です。
ご住職のご厚意により境内で、昼食をとらせていただきました。
ありがとうございます。

普段は通らない道を通ると色々な発見があります。
今回の発見は、国指定文化財の鈴木邸です。なにかの本で見たことがあったのですが、
住所もなく、どこにあるのかな?っと思っていたら、今回のコース上にありました。
とても、素晴らしい茅葺屋根の母屋。近くで見る事ができないので、門の所から見させて
いただきました。いつかここが見学できる日が来る時には、場所とかご紹介したいと
思いますので、今回は文章だけですみません。

さて、次は古墳があった場所を歩きます。現在は、宅地として家が建ってるのでどこに
あったかは想像するだけになってしまいます。
大正15年、後広場1号墳から古墳時代後期のくり抜式舟形石棺が発見されました。
凝灰質砂岩製で、千葉県唯一の資料です。石棺の内部には人骨1体と、金銅製大刀を含む
7振の直刀、刀子、鉄鍬が副葬されていました。
石棺は、鴨川郷土資料館の方にあります。

さて、次は鏡忍寺へ。
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日蓮宗本山。日蓮聖人四大法難の一つ、小松原法難の霊場です。
いつも法難とか普通に書いていましたが、今回は法難について説明したいと思います。
日蓮聖人は一生のうち生命にかかわる法難を4回、小さい法難は無数にありますが・・・
四大法難というのは、40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」
43歳のときに房州小松原で地頭東条景信の一軍に襲撃された「小松原法難」
50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されそうになった「龍口法難」
同じ年、佐渡遠流の難にあったのが「佐渡法難」です。
今回の鏡忍寺は、小松原法難の舞台となった場所なんです。
伊豆法難後、許されて鎌倉に戻りました。文永元年(1264)秋、久ぶりに故郷小湊に帰って
きました。父のお墓詣りや母の病気見舞い、恩師道善坊を訪ねました。
しかし、かねてから日蓮聖人を恨んでいた地頭東条景信は、聖人の帰国を知り、聖人を亡き
者にしようと、機をうかがっていました。そして11月11日の夕刻、小松原で日蓮聖人の
一行を数百人で待ち伏せし襲撃しました。弟子の鏡忍房、天津領主工藤吉隆は討死し、九死
に一生を得た日蓮聖人も額に刀傷を負ったのでした。後に日蓮聖人は、2人の菩提を弔うた
めに日隆上人に命を下さい開創されたのが鏡忍寺の始まりです。

境内には「降神の槙」があります。
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この槙は、鴨川市天然記念物に指定されている槙で、樹齢千数百年と言われています。
日蓮聖人の法難の際、危ういところを鬼子母神が降臨されて救ったと伝わっています。

上の写真の左が祖師堂です。祖師堂の欄間には、「波の伊八」の作品、七福神の彫刻三面
があります。市の有形文化財に指定されています。

また、江戸時代初期から中期頃の建立と推定される切妻萱葺き屋根の向唐門も鴨川市の有形
文化財です。
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鏡忍寺を後にして、今回最後の見学場所八坂神社へ向かいます。
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祭神は須佐之男命。伝承によれば久保又右衛門という者が、自分の屋敷内に牛頭天王を祀って
いました。近隣の人たちも崇拝するようになったので、京都の八坂神社より分霊して社殿を
造営して氏神として祭祀したのが起源だと伝えられています。
本殿の向拝の龍は、三代伊八の作です。
本日の見学場所はここまでです。あとは、出発地点へ帰ります。

色々な事がありましたが、なんとか無事にたどり着きました。
いろいろな地域にいろいろな歴史があります。歩くことで新たな発見があります。
是非、ガイドウォーキングツアーにご参加下さい。