月イチツアー「信仰の里・佐久間を歩く」報告

なんやかんやで10月です。もう秋ですね。昨年は、10月に台風が来て、館山・南房総の海岸線
は、かなりダメージがありました。今年は、今までの大きな台風が来ていますので、もう台風は来
ないで欲しいと願っています。

さて、9月の月一ツアー「信仰の里・佐久間を歩く」を開催しましたので、報告です。
当日は、雨が降りそうな天気でしたが、なんとか開催する事ができました。基本的に、また旅倶楽
部のウォーキングツアーは、平坦な道や舗装している道を巡るコースが多いので、基本的には、
小雨決行です。

出発地点は、鋸南町さんにご協力いただきまして、旧佐久間小学校をお借りしました。
出発する前に佐久間地区のお話しを少し・・・
佐久間の郷とは、いつごろ成立したかは定かではありませんが、里見分限帳によりますと、全地域が
一村となって佐久間村となり、江戸時代(1603~1867)には佐久間下村。佐久間中村と称し、後に大崩
村と奥山村が分郷したと考えられています。里見氏が滅亡したあと、上・下に分郷し、上組は萩原源
左エ門善雅の知行地となり、下組は旗本杉岡佐渡守能連の知行地となり代々子孫によって治められま
した。

まず向かったのは、旧佐久間小学校の裏手にある白旗神社。

祭神は、誉田別命(はおんだわけのみこと)。社歴不明。石棒が5本あります。

次は、十王堂へ。

本尊は地蔵菩薩座像ですが、十王10体を安置するところから十王堂と称します。十王堂に安置され
ている木造十王坐像は、ヒノキ材寄木造りで、高さ約34cmで、各像底に室町中期の永享8年(1436)
から12年(1440)の墨書があり製作時期が明らかな点や10体揃っている点などから、鋸南町の重要な
文化財になっています。
お盆のころ、佐久間の祭礼には地域の人たちが、こぞってお参りするのが、十王様です。
ここで、十王様のお話しをしておきます。
十王とは、冥界において死者の生前における罪を裁く、言わば十人の裁判官です。人は死ぬと、初七日
より七日ごとに十王の前へ召し出され、罪状を吟味されます。その判決によって、六道(天・人間・修羅
・畜生・餓鬼・地獄)のいずれかへ行くことが決定します。
平安時代末期ごろから広まり、十王堂が各地で作られ、それらを祀ることで、少しでも罪を軽くすることを
祈ったのが十王信仰です。
亡くなってから、通夜~6日目までは、抜け出した魂はやがて真っ暗なトンネルに入っていき、そこを抜け
ると、今度は「死出の山」と呼ばれる距離3200㎞の険しい山が現れます。暗闇の中、不安で登っていると、
どこからか家族や友人の声(お経)が聞こえてきて、それらの声に励まされ、ひたすら暗い山道を登ってい
きます。やがて峠を越えると、ようやく明るくなり、見下ろす山の麓には、曼珠沙華と曼茶羅華の美しい花
畑が広がっていて、あの世でしか見る事ができない風景だそうです。
山を降りると、大きな川が見えてきて、この川がこの世とあの世の境目となる「三途の川」です。その河岸
は「賽の河原」と呼ばれ、そこでは父母より先に死んだ罪で、あの世に行けない子供らが罪を償うために小
石を積み続けていますが、石を積み上げればすぐに鬼が壊しに来るのでなかなか完成しないのです。お地蔵
様はそのような子らを救済し、あの世に導いてくれます。
三途の川は川幅4000kmもあるそうです。渡る場所は生前に犯した罪の深さで決まり。罪の浅い者は、山水
瀬や七宝飾りの美しい橋を渡ることができ、罪の深い者は、激流の江深淵を泳いで渡るそうです。また、
善人用の渡し舟(六文船)も用意されているそうです。
対岸に渡ると「奪衣婆」と「懸衣翁」の二人の老人があなたの衣服をはぎ、衣領樹の木にかけ、その濡れ具
合で罪の重さを計ります。
三途の川を渡るといよいよ十王による審査が始まります。
7日目には、まず第一の王「秦広王」が生前の殺生、つまり虫や動物に無駄な殺生をしなかったかを調べま
す。続いて14日目に「初江王」が盗みについて、21日目に「宋帝王」が不貞について、28日目に「五
官王」がウソについての聞き取り調査を行います。ここで生前の悪行を後悔しても手遅れで、正直に話さな
いと罪は重くなるそうです。35日目は「閻魔王」からの審判が下り、来世が言いわたされます。
閻魔王は太陽のようにまぶしい眼と、雷光のように恐ろしい声であなたの罪を読み上げ、「浄玻璃鏡」に現
世での行いが映し出され、「閻魔帳」に罪が書き留められています。また「人頭幢」は、悪の本質を見抜き
ます。来世の行先が決まれば、42日目の「変成王」により生まれかわる細かい条件が加えられます。そし
て49日目はいよいよ六道の淵です。「泰山王」が六つの世界の中からあなたの行く先を選びます。
この日は、現世ではあなたの家族が法要を勤め、死者の良い来世を祈っています。
ちなみに、「金輪際」という言葉を使いますが、これは地獄の淵のことを言うそうです。
六道には、地獄道・畜生道・餓鬼道・修羅道・人道・天道です。
地獄道は、別名「奈落」とも呼ばれ、その罪の深さにより八つの種類に分けられ、細かく分類すると合計
136種類の地獄があり、自殺者や殺人者は必ずこの地獄へ落とされます。罪の順に、①等活地獄、②黒縄
地獄、③衆合地獄、④叫喚地獄、⑤大叫喚地獄、⑥焦熱地獄、⑦大焦熱地獄、⑧無間地獄となります。
畜生道は、本能や欲望のおもむくままに生きてきた者の末路です。自分だけの利益を求めるエゴイストは
狐に、猜疑心が強く、残忍で執念深い人は蛇に、ごう慢な生活をした人は豚に、その品性の低さにあった
動物に生まれ変わります。
餓鬼道は、飢えと渇きに苦しむ日々が続きます。食べ物や飲み物を口にすると、それが火に変わり体中を
焼きます。欲深く、富や権力に執着した者の末路です。現世では、この餓鬼道に苦しむ者を救うため、お
盆に「施餓鬼法要」が行われます。他の命を奪って自分が生きていることを知り、感謝する機会でもあり
ます。
修羅道は、阿修羅が住む世界です。阿修羅は帝釈天との争いで善心を見失い、妄執の悪となって天道を追
われ、修羅の世界を作りました。ここでは毎日戦闘が繰り返され、心の休まる間がありません。ここに来
るのは、現世で戦争や争い事をしていた人だけとは限りません。平和に生きていても、心の内側で強い自
尊心や競争震を持っていた人は修羅におちます。
人道は、人間の世界です。大半の人は衣食住苦労なく暮らせますが、ご存じのように、楽しいように見え
て実はストレスや煩悩だらけの苦しみの多い世界です。この世界に来るとき、その人の生前の行いにより
幸せな暮らしが出来たり、病気で苦しんだり、様々な条件がつけられます。
天道は、多くの善行を積んだ者だけが辿り着ける世界です。ここには「弁才天」「大黒天」「毘沙門天」
などの「天部」と呼ばれる様々な神が住み、彼らは特別な力を与えて仏の手伝いをしています。ちなみに
「聖天」は象の顔をした開運の神ガネーシャがモデルですが、実は天部のほとんどはヒンドゥー教を司る
神々が仏身なのです。そのため、この世界の公用語はサンスクリット語となります。俗に言う「天国」は、
ここの天道のことですが、仏教ではさらに上の浄土をめざします。
六道で思わぬ世界に落ちてしまったとしても、この世の供養により救われる場合もあります。百日目には
「平等王」、二年目(一周忌)には「都市王」、三年目(三回忌)には「五道転輪王」が現れ、死者を再
審し、最後のチャンスを与えます。ただし家族や親族の供養がなければいかなる救済も受ける事が出来
ないそうです。
追善供養は、残された者が法要を勤めることにより、この世からあの世へと「善を送る」ことです。法要
を重ねることで故人の善が増し、罪が軽減されます。またそれは同時に法要を勤める人の徳にもなり、自
身の善行としても積み重ねられます。(諸説あります)

ズラズラと書いてしまいましたが、昔の人は、ここに書かれた事を信じ信仰をしていたのだなと。。。
法要もそのためなんだなぁ~と考えさせられました。生きている内に徳を積もうと思うお話しでした。

次に向かったのは、密蔵院ですが、その少し手前にあ不動橋と呼ばれる橋があります。

石積のアーチ橋です。明治42年(1909)架設。半円形のアーチリングで、アーチクラウン(要石)は五角形
で、明治期のアーチ橋の面影を残しています。

密蔵院です。

真義真言宗智山派宝珠院末。本尊は不動明王坐像。木像等身大、秘仏として公開しません。
古来「谷の不動尊」として名高く、弘化3年(1846)火災にあい嘉永年間(1848~1853)に再建されました。
本尊の不動明王は良弁僧都(宝亀元年(770))の作で、相州大山不動と同木同作と言われています。
源頼朝が石橋山の戦いで安房に逃れた時、この不動尊に参詣し、その後天下を取ったことから、立身不動
として名高く、里見氏以来20石の御朱印寺でした。
境内にある山車小屋には、谷地区の担ぎ屋台(明治20年頃)の彫刻は、4代目伊八・武志信明の作。
正面の唐破風や欄間にスサノウノミコト神話や唐子、波などが彫刻されています。

さて次は、往生寺(密厳院)です。

真言宗智山派の寺院で、山号を金清山。安房国札観音霊場第十番です。
寺伝によれば寛仁元年(1017)恵心僧都が創建。裏山山頂近くに数百坪の平地があり、かつてそこに観音堂
がsりました。西側は墓域で往生寺住職及び密厳院住職の墓があります。
長い年月が経ち、往生寺は廃寺となりましたが、現在の観音堂は明治2年(1869)、密厳院本堂脇奥に阿弥陀
堂として建てられたもので、明治42年(1909)に現在地へ移築して観音像を安置しました。

写真右が密厳院です。本尊は阿弥陀如来立像。開基、縁起は不詳。里見氏から30石・宝珠院の黒印寺で
あり徳川から御朱印を与えられていたといいます。宝永4年(1707)に寺普請を行ったことが知られていて、
やがて衰退し明治2年(1869)字堂下から山麓の本寺近くに移築され、その後、明治42年(1909)現在地へ
移し修復されました。

次に向かったのは、日枝神社です。

祭神は大山咋命。創建不詳。寛文7年(1667)・享保18年(1733)・文政18年(1819)・慶応元年(1865)
・明治22年(1889)の棟札が残っています。

次は、金銅寺へ。

真言宗の寺院で、山号は奇雲山。本尊は、和銅2年(709)、行基菩薩が自ら刻んだ聖観世音菩薩。
安房国札第11番札所です。由緒によれば、和銅2年(709)に現在の場所より北方の小萩坂に協議が観音
菩薩像を刻んで創建したといいます。その後、荒廃し草原となってしまいましたが、弘安3年(1280)、
小萩坂から一筋の光明が輝き、それが白雲となって立ち昇ったのを近くに住む僧、玄助がみつけました。
光に導かれ、草むらをかき分けたところ、金銅の聖観世音像が現れ、萩を束ねてはしらとし、茅で屋根を
葺き観音像を安置したとされています。奇雲が立ち込めたところに金銅仏が現れたことから、奇雲山金銅
寺とされました。文安5年(1448)、村人が協力して現在地に堂宇を建立。本尊は、昭和13年頃盗難に
あい、後に埼玉県において発見し取り戻しましたが、すでに金ぴかに塗り替えられていました。
また、境内にある町指定文化財の梵鐘は、寛政元年(1789)に大山(鴨川市)の鋳物師・藤原忠直の作で、
戦時中供出されましたが、山梨県の長生寺にあることが判り、昭和58年約40年ぶりに戻されました。
一度失われたものが現れるという、不思議なご利益があるお寺です。

次は、今はなくなってしまった梅胤寺跡を通り正法院へ。

臨済宗円覚寺派の寺院で、本尊は地蔵菩薩坐像。開基その他は不詳です。

次は、光明寺へ。

曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来。里見実堯が、三芳本織に延命寺を建立した時、吉州梵貞和尚を招いて開山
とし、その後、和尚は延命寺を弟子に譲って佐久間へ来て、光明寺を建立し第一祖となりました。寛政初期、
火災で全焼しましたが、同11年(1799)再建されました。
明治初年12世住職大州貞忍は、寺小屋の師匠として教授し、墓地内に筆子塚があります。その後、明治22
年まで小学校が置かれ、佐久間地区の教育に寄与しました。

境内には、曽根静夫の墓地があります。

曽根静夫は、1845年安房郡平郡奥山村(現:鋸南町奥山)で、農業・曽根良助・婦美夫婦の三男として生
まれました。農業なお傍ら、読み書きを光明寺の住職・貞忍に、算術を高見桂蔵(九重村水岡在住)に学びま
した。明治3年頃、東京に上京し、そば屋の出前、医師の書生などとなります。明治5年(1872)、北条県(岡
山県東北部)十五等出仕となり、地租改正の試験実施を担った。1873年、北条県で血税一揆が発生し、その
対処に尽力しました。1876年、内務省地理寮九等出仕となり、地租改正事務局に転じました。1877年、
西南戦争の最中、鹿児島県一等属を命じられ赴任。のち租税課長兼庶務課長を務める。書いているとキリがない
ので、途中省きます。
1893年、大蔵省国債局長心得となり国債局長に就任。1896年、新設の拓殖務北部局長に就任。高島鞆之
助拓殖大神から乃木希典台湾総督に推薦され、1897年、台湾総督府民政局長に就任し、されに、同府財務局
長を兼務しましたが、乃木総督の退任に伴い、1898年に辞職し、同年6月に山形県知事に就任し、1899
年4月まで在任しました。同ねん5月、北海道拓殖銀行建立委員に命じられ、1900年、同行建立後に初代頭
取となり、在任中の1903年に死去(57歳)しました。奥山の生家にあった墓地は、光明寺墓地入口正面に
移されました。
安房地域から、偉大な人が多く出てるんですね。

後は、出発地にもどるのみです。鋸南町の佐久間地域は、今回歩いた6キロの間に神社仏閣が8つほどあります。
それだけ、信仰が盛んな場所だったのでしょう。
今回のガイドの独り事は、長い話が多くて読みにくかったと思いますが、勘弁して下さい。

お散歩ツアー「民宿の町・岩井を散策」報告

皆さま、ご無沙汰しております。なんとかこの夏の猛暑を過ごす事ができました。
夏の間は、ウミホタル観察会を開催しておりまして、9月に入り、なんだかバタバタと忙しい
日々をありがたいことに送らせていただきまして、10月に入ってしまいましたが、9月11日
に行いましたお散歩ツアーの報告をします。

お散歩ツアー「民宿の町・岩井を散策」の報告をします。
集合場所は、道の駅富楽里。ここからスタートです。
スタート地点から少し歩くと恩田原古墳があった場所になります。

今は田んぼとなっていますが、5世紀後半のものと推定されています。安房地域でも、古墳時代
中期になると、本格的な古墳文化が始まります。安房地域では、前方後円墳で埴輪を持った古墳が、
2ヶ所確認されていて、ここ恩田原古墳と旧丸山町にある永野台古墳です。
大正7年(1918)の鉄道開通時の工事によって、学術調査を待たずに破壊されてしまいました。
墳形・内部主体・副葬品などの基本的な記録は残っていなく、人物埴輪や円筒埴輪の破片のみが散乱
していたといいます。当時の遺物として確認できるのは、館山市立博物館に寄託された円筒埴輪の破
片及び南房総市が保管する人物埴輪の顔面の一部のみです。

次に向かったのは、戦争遺跡「久枝陸軍補給廠跡」です。
久枝陸軍補給廠は、本土決戦の様相が濃くなった昭和18年ころから、陸軍の補給廠の工事が開始さ
れました。広い水田だったところを、天満山・峰岸山の山肌を削り取り埋め、そこに軍用円形道路が
でき、山肌をコンクリートで巻いた貯油タンクが造られましいた。
下の写真は、貯油タンクの跡です。イメージ的には、大きな石油のタンクローリー車のタンク部分が
並んでいた感じだったそうです。

もう一つは、門柱があります。片面からも撮りたかったのですが、現在の政治的な宣伝ポスターがあった
ので撮る事を断念しました。

次は、ツアー名の「民宿の町」の心臓部に入って行きます。
漁師町でもある岩井の町は、やはり狭い道だったり、入り組んでいたりと初めてでは迷子になってしまい
そうな感じです。
細い路地を入ったところに、いぼとり地蔵が祀られています。

このいぼとり地蔵は、道に背を向けて祠が建てられています。正面には、大きな座ったいぼとり地蔵、その
周辺には、雨風に耐えたお地蔵様が合祀されています。

次に向かったのは天満神社。

祭神は藤原道真。元は、天神山(現天満山)の中腹に鎮座し、社殿12坪に藤原大神が祀られていました。
しかし、大平洋戦争中、この地域一帯に陸軍施設が造られ、立ち入ることが出来なくなり、そのため、軍
の命令により社殿は取り壊され、昭和18年、現在地に新社殿の造営工事が始まり、翌19年に完成、神
霊を移転奉納しました。旧社の創建は、約400年前の天正時代以前と考えられています。手水石は、安
政3年(1856)、狛犬は安政4年(1857)、石灯籠は天保14年で、旧社境内より移転してきたものです。

次は蓮台寺へ。

浄土宗金台寺末の寺院で、金乗山九品院蓮台寺といいます。本尊は、阿弥陀如来。永和年間(1375~1379)
南北朝の時代、到阿上人によって開創されました。
本堂前には、南房総市天然記念物の「蓮台寺の大いちょう」があります。夫婦いちょうと呼ばれ約
500年前に植えられたと伝わっています。

境内には、産科の名医で「産科発明」の著述者でもある奥澤軒中のお墓があります。

薬師堂は、昭和61年に新たに建立され、安房国四十八薬師如来の北口第九番札所になっています。

次に向かったのは、JR内房線の岩井駅近くにあります伏姫と八房の像を見学し、福聚陰へ。

福聚院は、曹洞宗の寺院で、慈眼山福聚院燿沢寺といいます。本尊は釈迦如来。

明和8年(1771)に火災により焼失、安永9年(1781)に再建しました。大正12年関東大震災では、
本堂が倒壊し、現在の本堂は、昭和38年に落成しました。

道路からでも目につくのが、山門です。山門は勝山藩酒井忠国の父忠朝が、寛文元年(1661)に市部村
に社式を構え隠居していました。忠朝の死後、酒井家より、屋敷の門が寄進されました。
山門の左手には、酒井氏が寺へ来る時用いた駕籠を置いた場所があります。山門・駕籠置きは、市の
文化財に指定されています。

本堂の欄間には、初代武志伊八郎信由作の彫刻があります。

本日最後の見学場所、もう1つの天満神社へ。

祭神は藤原道真。別当寺であった福聚院が、明和8年(1771)の火災によって焼失したため、天満
神社の創建・由緒等は、一説では不詳と伝えられていますが、寛文12年(1672)、勝山藩祖酒井
忠国が、若狭小浜藩の藩主の奥方の安産祈願をするために社殿を造営したものでとも言われています。

あとは、出発地の富楽里へと戻ります。
民宿の町岩井は、中に入ってみると面白い場所でした。是非みなさんも歩いて発見してみて下さい。

月イチツアー「国札観音巡礼道」報告

夏本番です。毎日、猛暑が続いております。館山・南房総は、都内に比べると少し涼しい気が
します。海風のおかげでしょうか?
観光シーズンが始まって、海も賑わいをみせておりますが、くれぐれも事故には気を付けて下さい。

さて、このクソ暑い・・失礼しました。猛暑の中、月イチツアー「国札観音巡礼道」を開催しまし
た。実は、暑い日が続いていたので、申込が来ないかと思っていたら、開催日に近づくと申込みの
方が増えまして、ありがたい事です。

出発は、道の駅「鄙の里」からです。救護班を残し、元気に出発しましたが、最初から暑い。
最初の場所は、諏訪神社。

祭神は建御名方神。境内には天明3年(1783)、享保20年(1735)の庚申塔二基の他に、猿田彦大神
(明治17年)の碑もあります。

次は、安房国札22番にあたる勘修院。


真言宗智山派の寺院で、本尊は行基菩薩作と伝えられている千手観音菩薩です。山号は道場山。
元は寺の背後のリョウガイ山と称するところにあったと伝えられています。宝暦2年(1752)に
現在地に移されたといわれ、旧跡地には今も観音堂の痕跡が残っているそうです。
大正12年(1923)の関東大震災により、諸堂は全壊し、同14年に旧本堂と庫裏が再建されました。
境内には光明真言五百万遍供養塔や天明8年(1788)女性行者・貞信尼による廻国供養塔があります。

墓地には、漢学者・中村時中や、力士・常盤戸文吉の墓があります。

次は、薬王寺へ。

真言宗の寺院で、本尊は薬師如来。由緒は不詳です。現在は、音楽活動をされている方が、借りて
活動しています。

次は、三芳エリアのメインストリートを歩いて長谷寺を目指しますが、途中には、頼朝伝説が残され
ているので、少しお話ししながらあるきました。
少し紹介しておきます。県道88号線沿いには、千代(せんだい)という地名があります。
頼朝がここを通りかかった時、「源氏が千代に八千代に栄えるように」と命名した土地だといいます。
後に千代「ちよ」が「せんだい」という呼び名になりました。
同じく県道88号線沿いに「百不取」という場所があります。ここで頼朝軍の数が九十騎程になりま
した。百騎には足らなかったのでここを百騎不足(きゃっきたらず)と呼ぶようになり、やがて百不足
(ひゃくたらず)となり、百不取(ひゃくとらず)となったといいます。

頼朝伝説を説明し、県道88号沿いから少し入ると、小瀧先生遺徳之碑があります。

小瀧先生は滝田村下滝田の人です。幼くして、昼は農業に夜は読書に励み、明治10年に助教となり
訓導兼校長に累進し、29年にわたり本織村の教育に従事しました。病気で明治44年に亡くなりました。
享年59歳。昭和12年教え子により先生の偉業を称え碑が建てられました。

小瀧先生の碑から少し行くと、山が削られている所に、馬頭観音・青面金剛等の石造があります。
古い物は、文化14年(1817)のものがあります。

次は、長谷寺(ちょうこくじ)へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は十一面観音。由緒は不詳ですが、安房国札13番の札所です。
行基菩薩の開基と伝えられて、当初は近くにある観音山という山頂にありましたが、弘化3年(1846)
頃に今の場所へ移転されました。

ここで昼食です。今日は、道の駅三芳鄙の里内にあるます、カントリーマムのお弁当です。今回は、諸
事情により、私のお弁当はなかったのですが、美味しそうなお弁当でした。残念。

今回は、猛烈な暑さのため、ここで帰る人とまだ歩く人で分かれました。

歩く方は、滝田神社へ。

元諏訪神社といい、祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)。寛永2年(1625)の創建と伝えられて
います。棟札によると、現在の滝田神社は、明治41年に八雲・滝田・厳島・諏訪の4社を諏訪神社に合
祀し、滝田神社と命名したものです。裏山に琴平宮が祀られています。

あとは、県道88号線を道の駅三芳・鄙の里へと帰ります。
今年は、暑さがかなり厳しいかったので心配しましたが、みなさん無事に帰って来られました。

8月は、ウォーキングツアーはお休みです。9月からまた再開しますので、よろしくお願いします。

お散歩ツアー「いにしえの広瀬を探る」報告

本格的な夏に突入してしまいました。暑さで睡眠不足気味になってきていますが・・・
なんとかこの文書もがんばって書いております。

今回は、お散歩ツアー「いにしえの広瀬を探る」を開催しましたので報告です。
当日は曇り予報でしたが、晴天で暑いのなんのって・・・でも、今回は、半日なのでゆっくり
歩きます。出発地は、安房地域医療センターから三芳に向かったところの民家の駐車場をお借
りして出発しました。

武田石翁の生家があった場所の前を通り、東福院へと向かいます。

真言宗智山派の寺院です。本尊は薬師瑠璃光如来。創建は不詳ですが、境内には武田家(武田石翁
生家)の菩提寺です。
武田家の墓域には、文政9年(1826)、石翁48歳作の如意輪観音を刻んだ実相妙鏡大姉の墓碑があります。

武田石翁(たけだせきおう)の説明を少し・・・
本名は、小瀧周治(又は秀治)といいます。安房国平郡本織村宇戸(現南房総市本織)に鎌田四郎左
衛門金明の末子として、安永8年(1779)に生まれました。寛政3年(1791)、13歳の時に、安房国
平郡元名村(現鋸南町元名)の石工小瀧勘蔵に弟子入りし、23歳の時、師匠の小瀧勘蔵の娘いちを
妻とし、小瀧家の養子になりました。養子に入った後も、「鎌田周治」と名乗り、後には、「武田石
翁」と名乗るようになりました。

東福院から少し歩いた所に、狐塚があった場所を見る事ができます。

この樹々がある場所は、広瀬の字狐塚といいます。腰越地区(館山市)の青年館の横にある狐塚から、
いくつもの塚がが連続してありました。この塚は「いなり様」と呼ばれていて、砂丘の先端にあり、
塚の周辺からは土師器、須恵器の破片が出土して古墳時代の遺跡と言われています。また、里見氏の
内乱の決戦場にもなったと言われています。

次は、八幡神社へ。

広瀬の鎮守で、八雲神社(牛頭天王)と湯沢神社(湯沢権現)を合祀しています。境内には、阿弥陀
如来の種字「カーン」と刻んだ念仏供養塔や、青面金剛の庚申塔、浅間講碑、力石があります。

ここで、お客様から衝撃な話を聞きました。お客様が子供の頃(約70年前)この拝殿の下にお亡く
なりになられていた人が居たそうです。(ちょっと柔らかく書きました)
お子さんだったお客様は衝撃だったようで、記憶に残っていて、私に話してくれました。その後、
どうしたのかはお聞きしませんでしたが、ビックリです。

次は、釈迦寺へ。

臨済宗の寺院で、江戸時代初期・元和時代(1615~1624)に地元広瀬の徳山居士という人が開基したと
いいます。開山は道硯和尚。境内には享保5年(1702)の如意輪観音像、享保16年(1731)の地蔵尊、
安永8年(1779)の三界万霊塔があります。

次は、杉間の堂へ。

字杉間にある日蓮宗のお堂です。館山城跡で掘り出されたという観音菩薩が祀られています。
このお堂の裏の方の集落を市場といい、右手の田を字井戸場といいます。井戸場は問場のことです。
この周辺が、中世の荘園だった頃に流通の中心地だったと思われます。奈良の都から出土した735年の
年貢の荷札(木簡)にすでに「安房国広湍郷」の地名があります。

次は、宝積院へ。

真言宗智山派の寺院で、南房総市府中の宝珠院の末寺です。本尊は地蔵菩薩。創建は不詳ですが
寺伝によれば、寛永8年(1631)、本織の豪農「武田四郎左衛門」が発願して開基となりました。
後に寛文7年(1667)に法印頼運を要請し開山としました。

最後に本織神社へ。

昭和39年本織地区にあった六社を住吉神社の鎮座地に合祀しました。六社とは、今回の本織神社、
荒神社(字市場)、稲荷神社(字延命寺)、天満神社(字本織根方)、住吉神社(字番場)、熊野
神社(字不入斗)です。訪れた本織神社は旧社地ですが、現在この地にも神社が鎮座しているとい
のはなぜなのか?社号碑も新しいくなっているので・・・周りに人が居ないいので聞く事ができま
せんでした。因みに、三芳村史にも、跡地があるという事が書いてありました。

境内には、武田石翁誕生之碑が建てられています。説明文もありましたが、ところどころ消えかか
っていて読みづらいのなんの・・・

色々な思いを残しながら、出発地点へと戻りました。
なかなか暑い日でしたが、田んぼにたまに吹く風が気持ち良い日でもありました。
今月は、月イチツアーが1本残っております。熱中症に気を付けて歩きたいと思います。

あっ!8月は、暑いので歩きませんが、8月11日(土)・18日(土)25日(土)とウミホタル
観察会を開催します。お申込み方法等は、イベントで確認して下さい。お盆以外は比較的まだ申込み
が少ないようです。お待ちしております。

月イチツアー「正木氏の郷」報告

急に暑くなってきました。気が付けば、もう7月。夏本番です。
今年の夏は暑くなりそうですね。 夏と言えば、当倶楽部は、今年も4回ウミホタル観察会を
開催します。是非、お子さん・お孫さんに夏の館山の体験をさせてみてはいかがでしょうか?
HPのイベント案内に、詳しく載せておりますので御覧ください。

月イチツアー「正木氏の郷」を開催しました。当日は、梅雨明け前だったので、出発時間ちょっと
前から雨が降り出してしまいましたが、今回は、山の方に入るわけではないので、雨の中、開催し
ました。(という事で、掲載する写真は、下見の際に撮ったものになります)

今回は、勝浦正木氏に関係する南房総市和田町の中三原・小川地区なので、勝浦正木氏の話を
入れながら書いていきたいと思います。
「正木氏ってけっこう出てくるよね~」って思ってる方が多いかと・・・結構、「??」
ってなる事が多い私ですが、房総正木氏は、大きく分ける2つの系統に。内房の正木氏と外房
の正木氏です。ここから、外房の正木氏は、さらに小田喜正木氏と勝浦正木氏と一宮正木氏に
分かれます。これ以上細かく書いてしまうと、なかなか前へ進まないので・・・
今回は、勝浦正木氏に関係する場所を巡ります。

最初に訪れたのは、正木時忠の菩提寺でもあります正文寺へ。
まずは、正木時忠についてご紹介したいと思いますが、諸説ありますのでその1つだと思って
下さい。安房里見氏の家臣であった正木通綱の三男として生まれます。里見氏のお家騒動のあと、
里見義堯・義弘の下で、功績をあげてきましたが、兄の時茂の死後、正木氏の実力者となって
いき、里見氏からの自立を目指すようになり、永禄7年(1565)に離反し、北条氏康に接近しま
す。翌年、北条氏政が両総に侵攻すると、時忠は逸早く参陣しました。その時、子の時長(正
木頼忠)を人質として差し出しました。北条氏が駿河国を巡って甲斐武田氏との抗争を繰り広
げるようになると、思うような支援がえられなくなったため関係は悪化しました。天正2年
(1574)には北条領の上総国大坪に正木氏は侵攻していますので、この頃までには里見氏に帰参
したものと考えられます。その後、時忠は今回訪れた、三原の地隠退して、天正4年(1576)三
原城で51歳で亡くなりました。


左側が本堂、右側が祖師堂です。
日蓮宗大本山小湊誕生寺の末寺で、本尊は本堂の日蓮聖人奠定大曼荼羅です。安元・治承(1175~
1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺でしたが、天正2年(1574)に
勝浦城主だった正木頼忠が父正木時忠の菩提を弔うため、亡くなったこの三原の地に日蓮宗として
再建したと伝えられています。

正木頼忠は、時忠の五男です。時忠が里見氏を裏切り北条氏に属した時、頼忠は人質として小田原
城におくられました。頼忠は小田原で北条氏隆の娘と結婚し、直連・為春・於万をもうけました。
時忠と兄の時通が北条氏を見限って里見氏に再属してしまい、頼忠は北条氏の縁戚であるので殺害
はされなかったものの、その日常生活は厳しく監視されていたそうです。
兄にの時通が急死、父も死去したため、天正6年(1578)頃、勝浦城に戻り、勝浦正木氏の家督を相
続しましたが、妻や子どもたちは小田原に残すことになりました。いろいろあり、直連・為春を上総
に呼び戻し、母は蔭山氏広の室となり於万は氏広の養女となしました。
その後、慶長元年(1596)於万は、徳川家康に見初められ側室になりました。於万17歳、家康54歳。
慶長7年(1602)に長福丸(後の徳川頼宣)、翌年に鶴千代(後の徳川頼房)を産みました。

祖師堂には、於万の方寄進の科註箱(高座の説教の時に教本・道具を入れておく箱)があります。また、
駕籠もあったようですが・・・今は、担ぎ棒が残されています。

正文寺境内には、いろいろなものがあります。

大檀那正木環斎(頼忠)の墓(市指定史跡)があります。
子の為春が紀州藩徳川頼宣の家老となり、里見氏改易後に紀州へと赴いて元和8年(1622)没しました。


いぼ観音です。
砂岩で出来ています。十一面観音と思われますが、風化がすすんでいて、頭部の化仏がいぼのように見
えるので、いぼ観音と呼ばれています。耳が蛎殻のように見えるので、耳の悪い人が願をかけ、病が癒
えるとお礼に蛎殻を納める信仰が伝わっています。


やぐら・磨崖阿弥陀三尊像です。
奥の壁面に三体の仏像が浮彫にされ、一部彩色が残されています。中世の阿弥陀三尊像と思われますが、
仏像は大きく破損しています。


やぐら・磨崖五輪塔(市指定史跡)です。
14世紀(鎌倉~南北朝期)に造られたと推定されるやぐらで、五輪塔の浮彫が奥壁に1基、左側に2基、
右側に1基あります。中世にこの地を支配して真田氏(三浦氏一族)の墓所という伝承があります。

他にもありますが、正文寺だけで終わってしまいそうなので、次にいきます。
三原城跡・大庭遺跡へ。

正木時通の居城と言われています。勝浦城主の正木時忠は家督を時通に譲り、古里の三原に隠退してこの
地で亡くなりました。また台地の畑は大庭遺跡といわれ、縄文土器片や黒曜石が出土したそうです。

次は、小社(おちょうや)へ。

境内には、天保年年間の石灯篭、弘化4年(1847)の手水石があります。

三原川を渡り、日枝神社へと向かいます。
写真を撮り忘れてしまいましたが、祭神は大山咋神。元禄3年(1690)に小川村向根組の信徒が勧請したと
いわれ、地域の人々は「山王様」と呼んでいます。

日枝神社のすぐそばに、やぐら・磨崖五輪塔がひっそりとあります。

15席(鎌倉~南北朝期)頃に造られたそ推定されるやぐらが3基あり、13基の五輪塔がそれぞれ時代
を異にして彫られています。

近くには、和田の真浦地区に抜けるトンネルがあり、内部には防空壕があります。

中には、牛頭観音が祀られています。

近くにいたおばあちゃんやご近所さんに少しお話しをうかがうと、「昔はここから真浦の海に泳ぎに行っ
たんだよ」とか、「牛を飼っていた家が多かったので、牛が死んでしまうと、ここに石仏を置いたんだよ」
とか、空襲警報がなると、「小川地区の人も、真浦地区の人もこの防空壕に避難したんだよ」とか、「変な
人が入ったら困るから防空壕は入れないようにしてもらった」とかお話を聞くことができました。

次は、常宣院殿妙達尊尼の墓へ。
ツアー当日は雨だったので、墓までは行きませんでしたが、下見時に撮ったので、ご紹介します。

正木頼忠の妹で、上総国東金城主酒井氏に嫁した女性のお墓です。父の菩提寺が見える場所に造ったと
言われています。

次は、天御中主神社(あめのみなかぬしじんじゃ)へ。

千葉氏の末流とされるこの地の豪族境井氏が創建したといわれ、戦乱で荒廃した社殿を正木頼忠が
慶長年間(1596~1615)に修復しました。天御中主命はむかしから妙見尊星王とし崇敬され、千葉氏
の守護神としてお祀りされています。また妙見菩薩は主として日蓮宗で崇敬されています。

次は、妙達寺へ。

日蓮宗の寺院で、正木頼忠の妹で東金城主酒井氏に嫁いだ、常宣院殿妙達尊尼の菩提寺です。
慶長17年(1612)に、正木頼忠が菩提を弔うために建立しました。本堂の向拝には、三代後藤義光
の彫刻があります。

後は、正文寺へと戻ります。朝は、裏から正文寺に行きましたので、帰りは仁王門から入ります。

宝暦5年(1755)、第14世住職日証の代に建立され、その時仁王尊が誕生寺からおくられました。
頭部が大きく六頭身ということで、室町期の作と考えられています。
仁王尊は、小湊浦から舟に乗り、真浦へ。そこから人が背負ってこの地に運ばれたと伝えられてい
ます。

本当は、もう1カ所行く予定でしたが、雨が強くなる予報も出ていたのと、雨では滑りやすくなって
いるので、ここで終了しまいた。

行く予定だったのは、お塚という場所で、正文寺から少し行った場所にあります。そこは、紀州三浦
氏の遠祖・三浦義同(道寸)及び正木時忠・時道らの供養塔と旗本正木家代々の墓があります。

三浦義同と正木時忠・時通の供養塔は、紀州藩家老だった三浦長門守為積が建てたもので、旗本正木家
代々の墓は、寛政元年(1789)、正木左膳によって建てられました。

なぜ紀州藩の家老が・・・と思われたでしょうが、正木頼忠の子供の於万の方は、家康の子供を産んだ
というお話をしましたが、一人は、初代紀州徳川家、もう一人が初代水戸徳川家なのです。
里見氏改易の後、正木為春(正木頼忠の子・於万の方と兄弟)が紀州藩家老となり、三浦姓に戻したと
いいます。
さぁ、ここでなぜ三浦姓なのか・・・三浦義同(道寸)は戦国時代初期の武将で、東相模の小大名でした。
永正13年(1516)三浦義同(道寸)は、北条早雲に攻められ新井城(現神奈川県三浦市)で自害しました。
その子時綱が房州に逃れて里見氏に仕え正木姓を名乗ったと言われています。(諸説あります)
里見氏改易後、正木為春が三浦姓を名乗ったそうです。

書いてても頭の中が、ごちゃごちゃになってしまってますが・・・ちょっとお分かりいただけましたで
しょうか? 色々と考えると「?????」になってしまうので、この辺にしておきますが、三浦義同の
話は諸説あります。

今日はこれまでとさせていただきます。ありがとうございます。

お散歩ツアー「田原地区の石造物を巡る」報告

なんだかスッキリしない天気が続いていますね。梅雨が無い方がいいですが、作物の事
を考えると必要なんですよね。田んぼの稲もだんだんと大きくなってきて田んぼの緑が
綺麗になってきています。

今回は、お散歩ツアー「田原地区の石造物を巡る」を開催しましたので、報告します。
出発地点は、プロ野球ロッテのキャンプ地でもあり、女子サッカーのオフカ鴨川FCの
ホームグランドでもあります、鴨川市総合運動場からスタートです。

まずは、加茂川を渡り太尾にある滝山寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王です。創立年代は不明ですが、天文9年(1530)
室町時代の棟札があり、「安房国長狭郡寺院明細帳」は、慶長13年(1608)安土桃山時代、
滝山寺再興を伝えていて、また、薬師堂に安置されている釈迦如来立像と薬師如来立像は
13世紀後半の作といわれることから、滝山寺は中世すでに建立されていた寺院だといえ
るそうです。
お寺には、昭和51年(1976)に鴨川市文化財にしていされた棟札6枚と薬師如来像・釈迦
如来像があいます。もう一つ指定された、薬師堂の縁日のにぎわいを描いた宝暦10年
(1760)銘の「諸人参詣の図」と「街道殷賑の図」という絵馬が2枚奉納され、本堂に掲げ
られていました。この絵馬には、参詣する人々の姿や街道に屋台店を広げる商人、それに
踊りやなどを披露する大道芸人が描かれていたそうで、風俗を描いた絵馬は県下でも数が
すくなく、当時の風俗を知るのに貴重なもとされ指定されたのですが、平成元年(1989)
11月9日の本堂の火災で焼失してしまったそうです。

薬師堂です。

こちらの木造薬師如来立像は、13世紀後半の作であろうという事です。
像高は、163cm、両手先は欠損しているので印相は不明です。特徴は、頭髪は一般的な
螺髪ではなく縄状の髪型をしています。京都・清涼寺の釈迦如来と同じ形式だそうです。

今回は、拝見する事はできませんでしたが、なにか拝見できる機会があったら、見たいもの
です。

薬師堂の下に降りると、鴨川石造物百選に選ばれた地蔵菩薩があります。

享保13年(1728)に鈴木作佐衛門を本願人とする念仏講の人たちによって造られました。
石材は、地元嶺岡山系で産出する蛇紋岩を用いていて、頭部に比べて、腰から下が短すぎる
ため、全体として四頭身に近い姿になっています。イボを治してくれるご利益があるとされ、
「イボ地蔵」として地元の人たちに親しまれています。

境内には、他にも嘉永6年(1852)の子安講中や元禄元年(1688)の六地蔵があります。

滝山寺を後にし、来秀五輪塔群へと向かいます。
途中、道の脇の草むらに霊神様と書かれた石があります。

この石造物は、歩いてるだけでは見逃してしまうのですが、下見に訪れた際に石造物の周辺
で「ガサガサ」という音がしてそこを見たら、この石造物がありました。なにか見つけて欲し
かったのでしょうか?

霊神様から少しいくと、来秀五輪塔群があります。

こちらは、小林家が、周辺に散在していたものを集めて供養したといいます。
石を積み重ねた形式のものが4基・舟形に五輪塔1基を浮彫にしたものが26基・2基を並べて
浮彫にしたものが2基、総数32基あります。南房総板碑型に属し、室町時代後期であり、地元
嶺岡の蛇紋岩で造られています。記年銘が確認されているものが4基あり、最も古いものに「永
正五年戊辰三月十八日」「青壽」とあり、戦国時代に造られたものだとわかります。
先に行った滝山寺の天文9年(1540)の棟札に、仏像の奉納者として鈴木出羽守・滝山飛騨守・伊
丹伊勢守・鈴木伯耆守などの名がみられ、これらの人物は官名を名乗るところから、当時この地
を支配していた土豪と思われ、来秀の32基の五輪塔は、彼らの家族や一族の供養塔か墓標として
造られたものだと考えられています。

谷を越えて次に向かったのは、満光院です。

真言宗智山派の寺院で山号は西方山。本尊は不動明王です。
創建の年は明らかではありませんが、「寺院明細帳」によれば、正徳元年(1711)6月に焼失し、
享保元年(1716)に源祐法印という僧が再建して中興第一世になったといいます。
明治7年(1874)来秀村・川代村・大里村を一学区として来秀小学校が開設されたとき、満光院
が仮校舎として使用されました。
長狭観音巡礼第16番で、如意輪観音がありましたが、数十年前、盗難にあってしまったそうです。

境内には、享保12年(1727)湯殿山碑・正徳3年(1713)の青面金剛・文化4年(1807)光明真言塔
などがあります。

次は、お隣の天満神社へ。

祭神は藤原道真。通称は天神様。別当寺は満光院。
創建の年や由緒は明らかではありません。貞享4年(1687)に領主保科正静から天神免田の寄進が
あったとされています。拝殿の「龍」の彫刻は、弘化4年(1847)三代武志伊八郎信秘の作です。

こちらの手水鉢は可愛らしい。

水盤に亀4匹と子供が添えられています。

子供たちが亀を覗いているのでしょうか?なかなかユーモアがあります。職人の遊び心かしら
と思ってしまいます。

ここですこし、この地の事をお話ししました。
来秀及びその周辺地区には、6500年ほど前の縄文時代早末期から前期にかけての時代に
人々が住みはじめ、その生活の痕跡として縄文土器や石鏃が見つかりました。平成8年の
調査では、遺物のみで住居跡などの遺構は発見されませんでしたが、数千年前の一時期に満
光院や天満宮のある台地上で、石器時代人が生活していたと思われます。その後、人々は
なにかの理由で他に移動したのか、生活の痕跡はみられなくなったそうです。
長い年月を経て、古墳・奈良・平安時代に入ると、人々の生活の営みがはじまったそうです。
今回の調査で、8世紀から10世紀ころと思われる奈良・平安時代の竪穴住居の跡が発見され、
当時使われていた素焼きの土器や大陸伝来の技術をもって製作された硬質の須恵器が多く出土
しました。遺物の中には、糸を紡ぐための紡錘車や鍛冶に使用したフイゴの羽口、それに鉄を
取り出したあとの鉄滓なども発見されました。
11世紀から13世紀ころの平安末期・鎌倉時代の掘立柱の建物跡が発見され、柱穴が重複し
ているので何度か建て直しながら使われたものと考えられます。掘立柱を使っているので、土
豪層の屋敷跡だと考えられます。
想像するとワクワクしてきます。鎌倉時代とかどんな感じだったのかな?

さて、次に向かいます。次は、来秀共同墓地にある虫供養塔(鴨川の石造物百選)です。

嶺岡産の蛇紋岩を利用しています。上部の蓮座が浮彫りにされ、月輪(円形)を表現しています。
中に薬研彫りで胎動界大日如来の梵字アーンクが刻まれてあり、下半部に虫供養塔と天明元年
と刻まれています。
県内各地に虫送りの行事が伝わっています。この塔からは、五穀成就のため村をあげて害虫駆除
が行われたこと、駆除された虫たちの鎮魂儀礼が営まれたことがわかります。日付は「霜月吉穀旦」
とあり、収穫が終わった11月に虫の供養と豊穣への感謝の気持ちを造塔へ現したのだと思われます。

他にも9人の子供が彫られている子安地蔵尊があります。

わかりますか? 楽しそうなお顔をしていました。

次は、遠目から真福寺へ大里八幡神社の説明をして集合場創へと戻ります。
雨も降らず、曇り空だったので、暑くもなく楽しく半日を歩く事ができました。

月イチツアー「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」報告

梅雨に入りましたね。館山・南房総では、スッキリしない天気になってきました。
これからのウォーキングツアーは、天気の心配をするのが大変です。

さて、今回の月イチツアー「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」を開催しました。3度
目の正直で、前2回は雨で中止となっていましたが、今年は無事に開催する事ができました。

集合場所は、岩井海岸海水浴場駐車場です。

駐車場から少し海岸線を歩くと、文豪菊池寛の碑があります。

昭和48年(1973)建立の歌碑には、「遠あさの海きよらかに子等あまた群れあそびゐる岩井よ
ろしも」と刻まれています。菊池寛一家が、昭和3年(1928)~昭和8年(1933)にかけて、岩井
のよねや旅館に滞在していたそうです。
菊池寛(きくちかん 明治21年(1888)~昭和23年(1948))は、小説家・劇作家・ジャーナ
リストです。文藝春秋社をを創設した人です。

ここから、岩井川の橋を渡り、大蘇鉄へと向かいます。
大蘇鉄まで行く間に、難しい名前の橋と成田講の燈篭を発見しました。

端馬橋(だんばばし)です。


成田講の燈篭です。個人のお家にありました。

いよいよ大蘇鉄です。

石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に落ちのびたとき、このソテツの威容を称えたといわれて
います。一般にソテツは大きくなると横に広がりますが、このソテツは五本の主幹と支幹とも直
立し、樹高は約8m、根回りは約6.5mです。樹齢は一千余年と伝えられ、当家代々の祖により
家宝として育てられています。昭和10年(1935)に千葉県指定天然記念物になりました。

次は、辻にあるあさひ地蔵へ。

山から出てきたものをこちらでお祀りしているとの事です。右側にあるのは、馬頭観音です。
やはり辻にあるので、馬の行き来があったのでしょうね。

次は、頼朝橋へ。

岩井川の支流にかかる橋です。丸太の橋だったのを、村人が板を渡し、ムシロを敷いて、頼朝
を出迎えたと伝わっています。

岩井神社へと向かいます。岩井神社の脇に山車小屋があります。

5地区の山車小屋が並んでるんですね。中でも高崎浜下屋台は、南房総市指定文化財です。
屋台の作者は、当町の宮大工青木松治郎です。この屋台の制作には、3年という年月を費やし
明治24年(1892)に完成しました。その間、初代後藤利兵衛義光は青木家に逗留して制作にあ
たり八岐の大蛇や竜などを彫刻しました。今回は見る事ができませんが、8月の20日以降の
岩井の祭りで見る事ができます。

岩井神社です。

磐井郷の総社として治安3年に創建。牛頭天王八雲大社と称したといいます。社宝に、鎌倉時
代の「懸仏」(四面)が残っています。「懸仏」というのは、平安時代の中頃、神仏習合の信
仰から生まれたものです。柱や壁にかけて礼拝しました。形はだんたい円形で、表面には仏像
が彫ってあり、銅や鉄の板でできています。また「獅子頭」(三頭)があります。これは、昔
富山の「ふうり祭」(雨乞い祭)に使われたものです。獅子頭をかぶり、鞨鼓(太鼓)を腹の
前に付けて、軽快に舞うものです。これを「鞨鼓獅子舞」といいます。富山の雨乞い祭も、明
治時代の終わり頃には行われなくなったようです。

境内には、弓道場があります

この弓道場には言われがあります。
源頼朝が、治承4年(1180)8月石橋山の合戦に敗れ、安房国へ逃れて、馬集(ばせ、高崎)に
て馬を集め、不入斗牛頭天皇の社殿に戦勝祈願をしました。当時の安房国は、安西・神余・丸・
東条・長狭の5氏がほぼ5分し支配していましたが、長狭氏を除く4氏が敗戦の頼朝を擁立して
幕府創設の基礎を築きました。建久3年(1192)征夷大将軍になり、懐かしの安房国を偲び、不入
斗に八幡宮を建立し、武士の弓術を奨励しました。その後安房国は里見氏が治め、6代義堯は、
岩井神社修復の際し、境内に矢場を造り弓術を奨励しました。このことがあり、昭和25年青少
年の健全育成と精神修養の場として弓道場を作り、広く一般にも開放し、、清く明るい心の滋養
を念じ「洗心館」と命名したそうです。

あと境内には、石宮群や金比羅宮があります。

次は、頼朝旗竿藪へ。

かつてこの場所に、熊野神社とその別当寺・満能院がありました。治承4年(1180)、源頼朝たち
がこの地を通り丸村に向かう途中、熊野神社に戦勝祈願のため参籠した時、この社の近くにある満
能院の住職が寺の庭に自生している節のそろったふたまたの竹を切ってきて、頼朝に献上しました。
頼朝は喜び、住職に「めでたく源氏が再興した時には必ず住職の恩に報いるであろう。何か希望が
あれば遠慮せずに申せ。」と言い、住職は「弓を射てその矢の届いただけの土地をいただき、いつ
までもこの竹やぶのある堂をお守りし、土地の人たちのお役に立つことができますならば何よりと
思います。」と話したといいます。頼朝はこの竹を旗竿としました。
以来、満能院では、毎年2本の竹を鎌倉将軍家に献上したと伝えられています。満能院は、明治に
なって廃寺となり、熊野神社は岩井神社に合祀されました。

次に、木の根峠の入口にある湯屋薬師堂へ。の途中に、やぐらがあります。

五輪塔が掘られています。

湯屋薬師堂です。

通称湯浴堂(ゆあんどう)は、元「名の内(みょうのうち)」にありましたが、鉄道敷設のため、
現在は高崎谷口に移転されました。創設等不詳ですが、吉野家文章によれば、宝暦2年(1752)のこ
ろ、湯屋薬師堂壱ヶ所御除地とあり、薬師如来を祀り、湯浴堂を設け、この地域に湧出する鉱泉を
利用して医療を行ったようです。現在は井戸だけ残っています。また、文政8年(1825)奉納の句額
には、小林一茶の句や安房を代表する俳人たちの句があります。

いよいよ木の根峠を目指していきます。

木の根峠は、南房総市高崎から富浦・丹生の間の峠道です。治承4年(1180)源頼朝が安房の国に来た
頃、すでに木の根峠は、石井郷(岩井)と達良郷(富浦)を結ぶ路でした。勝山藩が成立し寛文8年
(1668)藩主の酒井は、木の根峠の管理に当たりました。文化2年(1805)頃になると人々の往来。物資
の運搬もようやく盛んになり、天保10年(1840)房総沖に黒船が現れたとき、江戸幕府は、江戸湾防
備のため各藩に房総警備を命じたので、木の根街道は交通の要路となりました。明治16年に「素掘り
のトンネル・木の根隧道」を掘りはじめ、明治18年に開通しました。大正7年に鉄道が開通すると木
の根隧道の利用者はすくなくなりました。鉄道工事の建設道路として、線路に沿うように、素掘りのト
ンネルが掘られ、小浦村、南無谷村を結ぶ国道127号の元祖ができました。

写真ではわかりづらいと思いますが、かなりの斜面です。昔の人は、足腰が強かったのですね。
木の根峠の付近には、馬頭観音や仏像などがあります。

今日は、景色の良い場所でお弁当です。
 

昼食が終わり、次は、御目井戸です。

頼朝がここを通った時、湧き出る水で顔を洗い、喉を潤したと伝わっています。別名「頼朝井戸」
といい、現在は、民宿「御目井戸荘」さんの裏庭にあります。今回は、許可を頂き見学させてい
ただきました。ありがとうございます。

あとは、駐車場に戻ります。天気にも恵まれて、無事にウォーキングツアーを終了しました。
これから暑くなりますので、ウォーキングも暑さに負けそうになりますが、暑さに負けずにがんばり
ますので、是非みなさんもご参加下さい。

お散歩ツアー「鴨川市石造物百選を巡る」報告

新緑が綺麗な時期になりました。まだ5月なのに、気温が高く夏になったらどうなるのか
心配です。館山・南房総では、気温が高くても、海風が吹くので少しは楽かもしれません。

さて、今回はお散歩ツアー「鴨川市石造物百選を巡る」の報告です。
6年目ともなりますと、新しいコースを考えるのが一苦労でして・・・段々と、鴨川市の
方へとコースが増えてきていますが、なかなか鴨川市の方も素晴らしいものが多くて、
開催している当倶楽部でも、新しい発見があります。

集合場所は、鴨川市の大賀蓮の里駐車場です。ここから出発し、田植えの終わった田んぼ
の景色を楽しみながら、笠塔婆のある場所へ。

この笠塔婆は、亡くなった人を供養するためにに作られた石製の塔です。上に笠のような
石がのっているので、笠塔婆といいます。年代等は、解読できませんでしたが、この辺り
の豪農だった佐生夫婦の為のものです。塔婆は故人の追善供養として建てられますが、
塔婆を立てることは善を積み重ねることとなり、故人の供養と、自分の善を積むことにな
るので、自分の為にもなるものです。
長狭街道を通っているとこの大きな石造物が気になっていた方が多かったみたいです。

長狭街道の下の小さなトンネルを通って、川岸公会堂へ。
川岸公会堂には、鴨川市石造物100選に選ばれた3つがあります。
まず歩いて来て見えるのが、1つめの子安地蔵です。

近くで見るとこんな感じです。

この小安地蔵は、嶺岡山系産出の蛇紋岩で作られたものです。安房地域最大級のもので、
宝暦2年(1752)に地元の佐生家などが願主となり造立されました。
頭の上にはもともとは木製の笠が被せられていましたが、朽ちてしまったので、石で作
りかえられました。大きな体ですが、お顔のせいか、人を圧する印象ではなく、穏やか
な気持ちになります。胸の前には可愛らしい童子が膝上やふところから顔をのぞかせて
いて、子供たちを温かく見守るお地蔵様です。

2つ目は、堅牢地神(けんろうじしん)です。

年号は確認でいませんが、宝暦頃のものと考えられています。
頭に宝冠様のかぶり物をつけ、両手に花を盛った鉢を奉持する女人形の立像です。像の
両脇に「奉請堅牢土地神天」「田畑繁茂百穀成就」と刻まれています。
像容を刻んた地神は神奈川県に多いそうで、千葉県では、像容を刻んだ例は他に確認さ
れていないそうです。
堅牢地神とは、天部十二天のことで、地を象徴する神をさします。堅牢地神を祀る目的
は、土のパワーで様々な恩恵を受けるためです。大地の神とされ、土に関する恵をもた
らす神として祀られています。ルーツは平安時代以降始まった地蔵信仰の一形態となり
ます。堅牢地神は、その家の土地の守り神として存在し、五穀豊穣を叶える農業の神と
して信仰され、その信仰がさらに厚いものになったのは、江戸時代半ばの頃です。たび
たびの凶作飢饉にみまわらた人々は、堅牢地神に豊作を願うようになったそうです。

3つ目は、二十三夜塔(勢至菩薩陽刻)です。

宝暦3年(1753)に造立。蛇紋岩を成形し、前面を平面仕上げした上に、勢至菩薩が蓮座
の上に座り静かに合掌する姿です。頭上には、勢至を示す梵字「サク」が刻まれ、像の脇
には日天子・月天子の尊名と二十三夜の本尊に対する祈願文が彫られています。
ちょとここで勢至菩薩の説明を少し・・・勢至菩薩は、うま年生まれの人の守り神です。
阿弥陀三尊として祀られることがほとんどで、観音とともに脇侍を勤めています。
仏の智恵の光を持って、衆生が無知により地獄界・餓鬼界に落ちないように救う仕事をし
ています。「大勢」の衆生から苦を取り除く道に「至」らせるという意味です。

農道を通り次の場所へと向かいますます。

ここの景色が素敵で撮ってみました。北海道みたいじゃないですか?

次は、大徳寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を福聚山。本尊は、観世音菩薩。宮山の長安寺の末寺。
社寺明細帳には、「長安寺第八世の齢山和尚は、大徳寺の開山(創立者)にして、文禄5年
(1596)8月に没したと記録にあるのみで、創立の年月は不詳である」と書かれています。
この記録から天正年間(1573~1591)の創建ではないかと考えられています。

次に向かったのは、北小町堰を脇を通り水陸塔へ。

北小町堰の土手に水陸塔があります。

千葉県下で二例目の水陸塔です。寛延4年(1751)4月吉日の紀年銘があり、施主が当村中です。
塔は、2m近い大きさで地元の自然石を使って造られています。正面の上には、大きな月輪をあ
しらい、中に梵字で「ア」が表現されています。その下に、「仏法僧」と刻まれ、中央に「水陸
修会供養塔」の文字が彫られています。一番下の部分には「虫」の字も確認できます。
水陸修会とは、「施餓鬼」を意味する言葉で、悪道に堕ちて飢えに苦しむ、水陸の餓鬼に飲食物
を施すことを意味しています。村中がみんな一緒に施餓鬼の法要を行った事がわかります。
下に虫の字があることで、虫供養も兼ねていたのかも知れません。
他にも「万難消除」「福寿延長」の祈願文が刻まれています。

次は、主基斎田跡へ。

主基斎田は、明治天皇の即位最初の新嘗祭である大嘗祭に斎田として選ばれた場所です。
大嘗祭に用いられる新穀はト定(ぼくじょう・・占いで定める事)され、悠紀(由基)と主基(次)
の2ヶ所の斎田から献上されます。明治4年の大嘗祭悠紀斎田が甲斐国巨摩郡に、主基斎田は安房
国長狭郡北小町村字仲ノ坪にト定されました。村では斎田周辺には青竹を立てた、注連縄を張り、
垣をめぐらせて厳重に囲いました。また、隣地には八神殿、稲実殿などを設け、番屋で花房藩の役
人が警備しました。大嘗祭に先立ち神祇省から抜穂使ら8人が多くの従者を従えて訪れ、抜穂式は
厳かに行われました。現在はその栄誉を記念して碑が建立され、主基斎田址公園として整備されて
います。中には、お米のオブジェがありました。

ちゃんと精米したお米の形をしています。

この周辺の地名は、明治2年に北小町村を含む5ヶ村の合併の際に大嘗祭にちなみ由基村とされ、
大正4年に主基村と改称されました。
後の昭和56年、明治神宮の大祭を機に、地域の人々から主基斎田の誇りを次世代に伝えていく
為、また、大切に守り保つために力を入れていこうという声から「鴨川市明治神宮崇敬講」が発足し、
毎年、神にその年の新穀を捧げ豊穣を感謝する祭りとして11月23日に行われる明治神宮の新嘗祭
に、主基斎田で収穫した新穀と、その米で造った白酒(亀田酒造)を奉納しています。仕込式には、
明治神宮宮司をはじめ、関係官庁、地元有力者によって行われます。亀田酒造は、明治神宮献上酒指
定蔵になっていて、献上は末代までの指定となっているそうです。

次は、長泉寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を南谷山。長安寺の末寺で、本尊は薬師如来。もとは寺内の薬師堂の本尊で
あったと言います。寺伝によれば、天文9年(1540)5月に、佐久間豊後守時春という人物が創建
したといいますが、宗派は明らかではありません。時春のひ孫に当たる仙室宗鶴が、長泉寺の住職
を勤めた時に、曹洞宗に改修して長安寺の末寺になったと伝えられています。明治7年(1874)9月、
北小町小学校が開校した時、長泉寺が仮校舎として使用されました。
当日は、ご住職がいらしたので、お参りさせていただき、お寺の紹介もしていただきました。
ありがとうございます。

次は、熊野神社へ。

熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の祭神を勧請した神社です。
熊野本宮大社の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)・熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)
・熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと)。熊野速玉大社は、熊野速玉大神(かまのはやたまのおお
かみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)。熊野那智大社は、熊野権現を主祭神としています。
境内には、明治38年の三山碑(月山・羽黒山・湯殿山)があり、また、境内下には、右から嘉永6年
(1853)・天保9年(1838)・文政3年(1820)の三山碑があります。

最後は、古代蓮の里へ。
大賀ハスは、千葉市の東京大学農学部検見川厚生農場で昭和26年に発掘された約2000年前のハスの実
から発芽、開花した古代ハスです。発芽を成功させたハス博士の大賀一郎氏の姓をとって「大賀ハス」と
命名されました。北小町の大賀ハスは、市内の篤志家が種を自宅で育て、水田に移植して一般公開したも
のを、平成22年に水田ごと鴨川市に寄贈しました。


まだこんな感じですが、今年も綺麗にさいてくれるといいですね。

あとは、駐車場に戻り、終了です。今回のコースでは、鴨川市石造物百選の4つを見る事ができました。
当倶楽部のウォーキングツアーでは、36制覇できました。
6月のお散歩ツアーでは、3つを見学しに行きます。

月イチツアー「林道の八重桜のトンネルでリフレッシュ」報告

GWはいかがお過ごしだったでしょうか?天候的には、お出かけ日和があったりと、房総半島は、
他県ナンバーの車も多く見かけられました。

そんなGWの初日に、月イチツアー「林道の八重桜のトンネルでリフレッシュ」を開催しました。
天候にも恵まれ、日差しが温かいので歩いていると暑い位でしたが、風はまだちょっとひんやりと
していました。

集合場所は、南房総市の三芳エリアにある正林寺さんです。今回は、お寺さんの駐車場をお借りし
ました。駐車場の所や正林寺さんの所には、八重桜の木が植えられていますが、今年は、桜の開花
が早かったせいで、ツアー当日は、桜がほぼ終わってしまいました。

下見の時は、こんな感じでした。

正林寺のご説明を・・・

浄土宗の寺院で、山号は三峰山。本尊は木造の弥陀三尊像で、中尊の阿弥陀如来座像は、寺伝によ
ると恵心僧都(942~1017)作とされています。寺は応永年間(1394~1427)に開山と伝えられ、当初
は、本織(現三芳中学校)にあったそうです。その後、現在地の海老敷に移り、天保8年(1837)の
火災や、震災などを経て、現在の本堂は大正15年に再建されたものです。

正林寺の境内は、素敵な空間がありお寺のアミューズメントパークみたいな場所があります。
山門から階段を上がった所に「安心羅漢堂」があります。

ここには、粘土造りの羅漢像を千体納めてあります。この羅漢像はご住職がお造りになったそうです。

お堂の前には、「身代わり地蔵」があります。

他にも「水かけ蛙」

「河童池」

河童の頭に入れものがあって、ここにお賽銭を投げチャリンと音がすれば幸福ありとの事なので、
下見の時も、ツアー当日もチャレンジしてみましたが・・・また訪れてません。

さて、気を取り直して、墓地を抜け、次の見学場所の無量院へと向かいます。

本当に新緑の綺麗な日です。

無量院です。

浄土宗の寺院で、本尊は十一面観音です。寺伝によると、円光大師(法然上人)25霊場の第11番
の寺院といわれ、寛永年間の開基、承応3年(1654)の開山にして、天保14年(1843)に焼失してしま
い、同15年に再建したといいます。

次に向かったのは、天満神社です。

山下地区の鎮守で、祭神は藤原道真。天明5年(1785)に創建されたと伝えられています。
参道並び境内には、庚申塔や古峰神社祠などがあります。

林道へ向かう途中、立派な如意輪観音様が祀られてました。

ツアー当日、こちらの地区の方から少しお話しをお聞きしまして・・・
この如意輪観音は、安産をお願いするものだそうです。入口に筒状に作られた袋がぶら下がって
います。

次はいよいよ、林道増間・御門線を登っていきます。
林道増間・御門線は、昭和61年から8年あまりの年月をかけて整備されました。林道を作るために
山肌を掘削した際の残土を捨てた場所に、桜をうえようと地元の発案で千葉県から苗木の提供を受け
ました。また、地元有志が苗木を購入して植えました。八重桜のほかにソメイヨシノ・ウコンサクラ
等があります。

写真は下見の時のものですが、時期があえば八重桜を楽しむ事ができます。

ちなみに、ツアー当日はフジの花が咲いていました。

3㎞近く林道の坂道を上がって行くと、二反森という場所に着きます。今回はここで昼食です。
昼食の後は、1㎞先に行くと富士山が見えるポイントになるんですが、そこへ行きます。ですが・・
この時期は霞んでしまって見る事ができませんでした。
二反森の場所に引き返し、そこから林道上滝田大学口線へと入っていき、海老敷の金毘羅山へと
目指していきます。

海老敷金比羅山の標高は、208.5mです。
景色はこんな感じです。

頂上には、琴平神社が祀られています。

金比羅様を祀る石宮があり、境内はあたかも城郭のようで、入口は虎口の形をしていて、他に例を
見ない造りになっています。祭神は、大物主命です。社伝によると、天明3年(1783)創立、慶応元
年(1865)再建したといいます。

林道を下っていき、途中にある甚平様をへと向かいます。
林道から外れて行くので、ちょっと危険な場所にあります。イノシシ用?のくくり罠が仕掛けてあり
ました。

この石像は、昔から山下区の人々に、親しまれ「甚平様」として崇められていました。
しかし、この石像は何の石像なのかあらわすものが分からなったのですが、昭和58年
、三芳村史編さん委員の調査の結果、「役ノ行者」であることがわかりました。
作られた時代や作者は不明ですが、房州産の凝灰岩質の砂岩を使用し精巧につくられて
います。

後は、出発地点の正林寺へと戻ります。
少しだけ、下見の時に撮りました桜の写真を・・・

ツアー当日は、まだ八重桜が咲いていると予想していたのですが、今年は早かったので
桜を楽しむ事ができませんでした。残念です。

お散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」報告

4月ももう中旬です。今年は、サクラの開花もはやく、山で採れるワラビやフキも育ちが速い
ようです。花粉の時期もスギからヒノキに代わって、なんだかヒノキの花粉の方が、症状がひ
どく感じるのですが・・・早く、この時期が終わってくれればと願うばかりです。

さて、30年度最初のウォーキングツアー・お散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」を開催
しました。スタートは、道の駅ローズマリー公園の近くにある、リバーサイド駐車場です。

丸山川沿いを通り、リバーサイドプラザがあった場所を通り、子安神社へと向かいます。

祭神は豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)・大山袛命(おおやまつみのみこと)・飯綱大神
です。明治44年(1911)に、近くの字取田原の山神社と飯綱者を合祀しました。
子安神社が海発神社と呼ばれていた頃に、古老の口伝を元に書いた「海発神社縁起」が保存され
ていて、縁起による、南三原村村社は、昔から子安大明神と称した元海発村の守護神です。その
社殿の創建は明らかではありませんが、遠く承久(1219~1222)の時代には、すでに村人たちが崇
め敬っていたと書かれています。また、昔から伝説が残っていて、村里の子供たちが海発神社の御
神体を運び出し、付近の川で流して楽しく遊んでいるのを見た村人が、驚いて急ぎ御神体を社殿に
安置し、固く鍵を掛けると、その夜、ご神体が村人の夢枕に立ち「吾、幼童と共に河の流れに戯れ
るは、幼童の溺死を護らん為なり、汝は吾を封じ込め、吾が意に逆らうなり」とお告げになったそ
うです。その村人は恐れおののき再び御神体を開帳したといいます。

拝殿の向かって左側にある石は子授かり石で、お子さんが欲しい方は子安様にお願いし、男の子が
欲しい人は長細い石を、女の子が欲しい人は丸い石を後ろ向きにとってお願いして帰ります。大願
成就した際には、それぞれ2個の石を戻して御礼参りをするそうです。

手水鉢の所にある蛇口が、カエルになっていました。

カエルを嫌いな人にはダメだと思いまが、私的にはかわいいと思いました。ナイスなセンスだと・・・

境内には、多くの碑が残されていますが、独り事では説明を省略します。

次は、浅間様へ。

富士塚の上に浅間石宮が祀られています。山包講の文字がかすかに見えています。
金比羅様・大日如来像などが一緒に祀られています。

次に向かったのは、建福寺。

真言宗智山派の寺院で山号を海光山といいます。本尊は阿弥陀如来で、開創は室町時代と言われ
ています。本堂の他に薬師堂がありましたが、関東大震災で両堂とも倒壊して、今の本堂は昭和
9年に再建されました。本堂の向拝の龍の彫刻は、後藤喜三郎橘義信の作です。

建福寺を後にし少し歩いて行くと、六地蔵と馬頭観音があります。

辻の所にあり、六地蔵は安永14年(1776)のものです。

辻のお地蔵さんから旧道を歩いていくと自性禅院に着きます。
厚着のお地蔵様が入口で迎えてくれます。

階段を上がって行くと、本堂が見えてきます。

臨済宗建長寺派の寺院で山号を海発山。本尊は十一面観世音菩薩。開創は元徳元年(1329)。
寶冥和尚が開山してより、衰微(すいび)の一途をたどり、260年余り年を経て、慶長年間
に、本間兵庫頭義秀の外護により安室富和尚これを中興し面目を一新しました。その後、元禄・
大正の二回に亘る震災にあい古記録・古文書等は散失し、その間の栄枯盛衰を判断はできません。
近年、明治35年、当院鎮守として本山奥山半僧坊大権現を拝請し、漁民の信仰を集め、また
明治44年には本堂庫裏新築落成をみたところ、大正12年の大地震によりことごとく崩壊し、
以来再建に努め、ようやく昭和9年に落成をしました。
大正4年4月から同11年4月までの7年間地方青年中等教育の塾として自彊学舎(石渡塾)
が自性院内に開設され、安房各町村から男子塾生が多数集まり、論語、孟子など四書五経その
他の学問を学びました。

本堂の向拝には、すばらしい龍の彫刻があります。

梁に龍が巻き付いているんですが・・・わかりますか?なかなか見ない彫刻です。

裏から410号線に出て、いったん南三原の駅へと。その後、正運寺へ。

奥に見える建物が、正運寺です。なぜか?写真を撮り忘れていました。
天台宗の寺院で、山号は福和山。本尊は、不動明王です。
天台宗第三代慈覚大師が石堂寺に来錫された折に開山(仁寿元年(851))されたといいます。
関東大震災で焼失してしまいました。境内の左側に、勝軍地蔵の石像があります。これに祈れ
ば戦に勝つというお地蔵様で、鎌倉時代以後、武家の間で信仰さらました。
この写真を撮ってこないのはイタイです・・・

次はすぐ裏にある教会へ。

コルバン夫人が晩年を過ごした教会です。
コルバン夫人は、房州の人々に親しまれた英国女性です。
コルバン夫人が館山の地を初めて来たのは、明治38年(1905)頃です。北海道函館で宣教活動
中に病に倒れた夫のコルバン医師の療養のため、温暖な土地を求めてのことでした。
ともに英国生まれの2人は医療を通じたキリスト教の伝道を目指し、イギリス聖公会の宣教師
として赴任した香港で出会い、結婚。その後赴任先を函館に変え、病院を設け貧しい人々へ医
療とキリスト教の教えを伝えました。
当初は、夫の体調が良くなったら函館へと戻る予定でしが、夫の体調が良くならず、函館市街
を襲った大火災で病院は再建困難になってしまいました。一旦は日本を離れ、母国へと戻りま
したが、母国の気候が夫の療養に適さないことがわかり、夫人は自給宣教師として決意し、明
治45年、再び館山へ戻ってきました。夫の看病のかたわら、市内で祈りの集会を開くととも
に、当時不治の病とされていた結核患者のための施設「養生院」を館山市八幡の海岸沿いの自
宅にもうけました。患者の滞在費や薬代はすべて無料で提供したといいます。大正4年(1915)
に夫がこの世を去り、同12年に関東大震災で養生院が倒壊。65歳の時には、インフルエン
ザの後遺症で両目を失明しました。晩年の夫人は、ここの教会に拠点を置き、日曜学校の開催
など幼児教育に力を注ぐようになりました。コルバン夫人は78歳で息を引き取りました。
夫人が建てた南房総市和田町仁我浦の和田幼稚園には、博愛精神をしのび、地元の人々が建立
した彰徳碑があります。

次に向かったのは、牛乳處理工場。

大正11年(1922)、極東煉乳がこの地(南三原村海発)に乳製品工場を設置しました。昭和2年、
極東煉乳(株)南三原工場を(株)和光堂が買収し、同社南海工場として房州へ進出し、バターや乳
製品の製造を始めました。戦時中は統制会社「千葉県酪農会社」の委託工場として操業していまし
たが、同25年3月再び和光堂直営に復帰、ペニシリン製造などで将来を期待されましたが、昭和
26年7月森永乳業(株)に工場を譲渡しました。現在は、酪農家の組合で使用されています。
ちなみに・・極東煉乳は、明治乳業の全身です。和光堂は、大正6年(1917)に、国産第1号の育児
用ミルク「キノミール」を販売しました。みなさんご存じのシッカロールは、和光堂薬局が明治39
年(1906)に発売したものです。今は色々なメーカーからベビーパウダーとして販売されていますが、
白い粉自体がシッカロールって言うんだと思ってましたから・・・

次は、裏側から和田海底ケーブルの建物を。

施設名は、リーチ・ネットワークス 和田海底ケーブル陸揚局といいます。当初は、レベルスリー・
コミュニケーションズが建設した陸揚局でしたが、今は香港に本社があるリーチネットワークスの陸揚
局になっています。

ここまでが今回の見学場所になります。あとは、農地整備した場所をテクテク歩いて戻ります。

海発という字を何度も書いていますが、なんと読むでしょうか?
「かいはつ」と読んでしまうと思いますが、正解は「かいほつ」です。地域名の読み方は難しいですね。

30年度一弾は無事終了しました。今年度も、色々安房地域を巡りますので、是非ご参加下さい。