お散歩ツアー「明治から昭和の旧館山町を巡る」報告

新年が明けてからだいぶたちますが、今年もボチボチ更新していきますので、よろしくお願いします。

年末から寒い日が続いています館山・南房総です。めったに雪が降らない地域ですが、年末から3日程雪を観測しています。なにか気候がおかしいかと・・・でも、おひさまが出ればひだまりは暖かく、春を感じることができます。フキノトウも出ている場所もあります。

ウォーキングツアーの報告をしますが、実は・・・まだ12月分が書き終えていないのですが、新年最初ということで、1月のお散歩ツアー「明治から昭和の旧館山町を巡る」を報告します。

集合場所は、渚の駅たてやまの隣にある新井海岸駐車場です。
まずは、館山桟橋のところから。

写真は、現在の夕日桟橋ですが、その隣に昔の桟橋の残骸?が残されています。
館山桟橋は、明治11年(1878)、館山の辰野安五郎が「安全社を創設し、東京霊雁島と館山間に汽船「通快丸」を就航させ、約5時間で結んだそうです。汽船の発着桟橋も作り桟橋会社の前に設置さ、桟橋は「館山湾桟橋株式会社」の所有物でした。明治15年(1889)、「内湾汽船」が東京~館山を1日5便運航していました。
明治22年(1889)、東京湾を航行する安房汽船株式会社(第二房州汽船)と内国通運(現・日本通運)など、東京湾内の汽船を運航する4社が事業統合し、東海汽船の全身の「東京湾汽船会社」が誕生、館山航路の進出し、この年の11月から年間を通して運航されました。
明治27年(1894)、「東京湾汽船会社」と「安房汽船」が合併し、「東海汽船」となりました。大正11年(1922)12月、辰野安五郎が東京湾汽船会社と館山町等の共同出資で「館山桟橋株式会社」を設立。この年度に沖合200mほどの長さの鉄筋コンクリート支柱の桟橋が作られました。
大正12年(1923)、初代「橘丸」が就航。館山桟橋の拡張工事が完了しました。(長さ226m)同年9月、関東大震災で館山桟橋は大きく破損し、先端部の灯台だけが立っていたそうです。その後、陸軍工兵隊の演習を利用し除去しましたが、一部露出していたといいます。
大正15年(1926)、館山町が旧桟橋から約10m南隣に、新たに館山桟橋を造ります。(長さ270m、幅5.5m)工事費46,637円11銭の内、県補助30,424円、桟橋会社16,213円11銭、町負担なしで造られました。新しい桟橋は、館山桟橋会社が館山町から使用権を得て使用しました。
昭和に入り、菊丸・葵丸・2代目橘丸などが就航しましたが、橘丸は軍に徴用されてしまいます。
昭和24年(1949)に館山航路が復活し、菊丸・淡路丸、夏季には黒潮丸・あけぼの丸なども就航しました。昭和25年7月には、橘丸の東京ー館山間の夏季航路が復活し、昭和36年には館山桟橋の改築工事が完成し、昭和38年には、東京湾高速船(株)が東京ー勝山ー館山間を1時間半で結ぶ水中翼船を運航しましたが、昭和42年、水中翼船は解散、昭和46年、夏前に東海汽船の東京~館山間の運行が廃止され、昭和48年東海汽船の館山航路が最終となりました。
大正8年(1919)5月、安房北条駅が誕生。運賃は船の方が安かったといいますが、風雨の日にも安心して東京に行きかえりできるので、汽車を利用する人が多くなったといいます。
その後桟橋は、平成22年(2010)4月、旧館山桟橋の北隣に館山港多目的観光桟橋「館山夕日桟橋」(海岸から500m、幅6.5m)が完成しました。

館山桟橋前には桟橋会社があり、今ののグラッチェあたりになります。当時は、木造2階建ての洋風建物で1階は会社の事務所、2階は食堂でした。建物は関東大震災にも耐えたといいます。
昭和20年までは、館山桟橋(株)が食堂や氷給水、倉庫として使用。また桟橋会社旅館部、汽船取扱所、房州水道、銚子測候所館山出張所も入っていました。戦後は、館山桟橋(株)ほか、房州白土共販(株)、房州水道(株)、房州海運(株)が入っていました。

次は千葉県水産試験場跡へ。

大正11年(1922)、那古町から移転してきました。昭和6年(1931)、県立安房水産高校が創立され、県水産試験場内に校舎を設置。昭和22年(1947)9月4日、謎の出荷で多くを焼失し、北下台下の水産講習所を仮庁舎として利用、昭和23年(1948)、焼け跡に無線局を設置、12月庁舎を復活しました。昭和42年(1967)5月に千倉分場を開設し、アワビの種苗生産を始めます。昭和49年9月、千倉分場隣に本場を移転しました。移転後、跡地は安房水産高校に移管され、南側にテニスコート、北側に栽培漁業用施設にしました。
写真の石垣は、当時のままの石垣で、入口の門柱も当時のままのものです。

次は、海岸ホテル跡へ。(写真は、住宅なのでありません)
海岸ホテルは、大正11年(1922)木造2階建てで、80室の洋風ホテルでした。大正12年(1923)の関東大震災で、一部が破損しました。関東大震災後の9月6日に、戒厳令が施行され、安房郡内に軍隊が派遣され、陸軍歩兵学校、佐倉歩兵連隊、県警察から来援した際、海岸ホテルが本部になり、治安維持に当たったといいます。戦時中は、海軍が将校の懇親会や来賓接待所として利用していました。
大正15年’1926)、島崎藤村は療養中の恋人に会うために来館した際、宿泊したといいます。昭和40年代に老朽化が進む中、東邦大学医学部のヨット部が合宿場として利用していました。

次は安房水産高校へ。(現館山総合高校)

大正11年(1922)2月15日、安房郡立農業水産学校として創立。4月10日、館山に水産学校分校として開港しました。大正12年(1923)4月27日、県令告示第128号をもって、県立安房水産学校が設立しました。昭和6年(1931)4月6日、水産試験場正門側に木造2階建て新校舎完成しましたが、昭和22年、9月4日に謎の出火で校舎全焼してしまいました。昭和23年4月1日、新学制の実施により、県立安房水産高等学校と改称、昭和23年、旧館山海軍基地内の兵舎2棟を改造し、仮校舎としました。昭和32年10月30日、現在地に新校舎新築落成しました。
平成20ンrン(2008)4月1日に、県立館山高等学校に統合され、校名も県立館山総合高等学校に改名、水産の建物は水産校舎となりました。

次は富士見橋へ。

大正8年(1919)、汐入川河口域に初めて私設の木橋が架けられました。しかし、関東大震災で崩壊、昭和初年、上流側に新たな橋が架けられるまで、仮橋でした。昭和25年(1950)、木造の新橋が作られました。
昭和33年には、日活映画「嵐の中を突っ走れ」の中で、木造の橋をバイクに乗った石原裕次郎と芸子役の白木マリが、橋の上で再開する場面が撮影されたそうです。
昭和45年(1970)6月、海水浴場に大腸菌が多いことが報道されたため、橋(この時は架設橋)の下流部に県下で初めて河川水滅菌浄化装置を付け、昭和50年5月、コンクリート橋となりました。

次は、市立第二中学校、現在は館山中学校へ。

昭和22年(1947)3月31日、新しい教育基本法が可決されたことにより、4月1日から6・3・3・4の学校制度ができました。昭和24年(1949)4月1日、館山中学校と北条中学校が合併し、館山市立第二中学校が誕生しました。校舎は笹子工務店が館山海軍砲術学校を解体した材料を使い、校庭の東側に2階建て校舎を、南北方向に1棟を建てました。砲術学校の学生舎を再利用した房南中学校と同じように、校舎内は中央に廊下があって教室等がに分かれて並んでしました。当時の学級数は31(他に特2)で、生徒数は1,293名でした。
昭和30年に新校舎建設工事着手、昭和32年に東西校舎増築完成、昭和36年、北校舎が完成しました。昭和47年(1972)5月4日、校舎の火災があり半焼してしまいました。
昭和52年(1977)、2月28日、鉄筋3階建ての防音校舎が全館完成しました。昭和55年、館山第二中学校より北条地区を分離し、館山市立第三中学校が開校しました。同じに豊房中学と神余中学が二中に統合され、昭和57年には西岬中学が統合されました。
令和3年、第二中学校と第三中学校が合併し、「館山中学校」が誕生しました。第三中学校校舎を取り壊した跡地に新校舎ができるまでの間、第二中学校の現校舎が使用されています。

次は、汐留橋へ。

関東大震災で損傷しましたが、倒壊は免れました。館山海軍航空隊の開設にあたり、駅と航空隊間を結ぶ道路が改修された際に、この橋も昭和4年(1923)3月に改築されました。昭和後期に橋の付け根および橋脚を部分的に補強工事が行われていますが、令和3年(2021)3月から、橋脚全体の補強工事を行いました。平成8年(1996)12月、汐留橋の北側に橋長24m、橋幅4.8m、中央部7.8mの歩道橋(汐留いこい橋)が完成しました。
汐留橋のたもとには、館山郵便局がありました。昭和43年10月、館山駅に近い北条地区に局舎を新築し移転しました。館山郵便局の始まりは、明治5年(1872)、北条郵便取扱所として開設。明治22年(1889)に館山郵便局と改称しました。大正12年(1923)の関東大震災で損壊したため、昭和2年(1927)に現在の館山商店街協同組合(TSCホール)に移転しました。

次は三福寺へ。

浄土宗の寺院です。文明3年(1471)に相蓮社順譽上人によって開山に浄土宗佛道場として創建されました。元禄16年(1703)の大津波の後、新井浜から現在地に移ったという伝承があります。
里見義康が館山の城下町を造るために新井浦の土地を割り振る際に、寺の土地をとりあげたため、三福寺は代替地として汐入川河川を与えましたが、砂地で作物はできず。その上、朱印地もなかったので檀徒はそれを嘆いて、「御上地に宛行なしの三福寺」ということわざが生まれたといいます。しかし、汐入川河口なお利用は流通に関する権利を持つことを要求したのであり、先見の明と当時の権力者と深く結びついていたことを示すことわざとも言えます。元禄16年(1703)の大地震や大正12年(1923)の関東大震災による焼失等度々災難にあい、寺宝、過去帳や文献等が失われていますが、境内には、館山ゆかりの偉人や碑や墓があります。

境内の碑等を少し紹介します。
まずは、魚鱗供養塔

享保15年(1730)建立。正面には「浄土三部経 為減生魚鱗等 離苦得楽 一石一字」と刻まれているので、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三つの経典を小石に一文字づつ書き写して埋め建立した塔です。新井浦は昔、漁村であったので、魚を苦笑するために漁民達が建立しました。

次は、石造釈迦如来三尊坐像

石工は館山町楠見の俵光石による釈迦三尊像です。礎石を含めた高さ3.85m。伊豆の小松石を用いて螺髪や口髭を付け、ふっくらした顔で脇侍を従えています。座った姿で、右手は膝に置き、その指が大地に触れている形の降魔印を結んでいます。釈迦像の下には、獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られています。裏面上部には、「明治36年11月建立 當山廿9世頂譽圓順代」同下部に発起人16名の名と「高村光雲門下の俵光石の彫刻等を刻まれています。

次に、宮司政吉君の碑

明治40年(1907)建立。館山町に生まれ、明治37年(1904)2月に開戦した日露戦争に翌月

新井文山の碑

新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14歳の時、住職の援助で江戸に出て、遊学。昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)に入門し儒学を学び、28歳で帰郷して塾を開き、地域の教育に力を注ぎました。天保7年(1836)館山藩主稲葉公に仕え、天保13年(1842)に目付兼郡奉行となりました。
石碑は、中央が文山、左に先妻、右に後妻の法名が書かれています。文山は嘉永4年(1851)73歳で亡くなりました。碑銘は嘉永6年(1853)、次男の可大に請われた昌平黌教官の佐藤坦の撰文で、保田の武田石翁により刻まれています。

次は錦岩波五郎の墓です。

新井出身の江戸大相撲の力士で慶応3年(1867)に亡くなったそうです。下に錦岩と彫られていますが、詳しいことは不明です。

次は、長福寺へ。
真言宗の寺院で本尊は不動明王。寛正元年(1460)、伝忠法師が中興開山したとされています。館山観音として親しまれ、安房国札観音2番、西口薬師2番、西口六地蔵、南房総七福神(福禄寿)の札所です。
観音堂内に千手十一面観世音菩薩があります。元は、北下台にあったのですが、関東大震災後、ここに移されました。
館山小学校開校の地で、明治5年(1872)の学政令発布の翌年に寺小屋だった当寺に開校しました。
墓地内には、館山藩ご典医の宮川元斎の墓や中世の石造地蔵尊、宝筐印塔、戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに出陣した館山藩関係者の供養塔「寄子萬霊塔」、庚申塔、館山藩士だった千葉家、高梨家などのほか、遭難した仙台藩士の墓があります。

長福寺の南側には、かつて館山劇場がありました。(現館山グリーンはいつ)この劇場は、市の中心域が北条に移ったころに閉鎖されています。館山劇場があった時代の下町・仲町周辺には、料亭や芸姑置屋、検番撞玉場(ビリヤード)等が軒を並べ、歓楽街として賑わっていたといいます。

次は、源福院跡へ。

仲町集会所奥の隣接地に三福寺の末寺(源福寺=隠居寺)の御堂がありました。明治21年(1888)の館山の大火で焼失してしまいました。

上仲町児童公園の場所は、上町と仲町の諏訪神社があった場所になります。大正12年(1923)関東大震災で壊れたため、後に館山神社に合祀されました。
上仲町児童公園から大通りに行った左手に仙台藩役所跡があります。現在は、新しい家が建っています。廻船役所だったので、藩の年貢米などを輸送する船の改めや、船が難破した際、世話をするところで、藩士2名が詰めていたといいます。
大通りをわたり、海の方に向かう途中に池田荘があります。もとは松岡旅館でしたが、昭和43年(1968)1月に池田氏が購入して池田荘に改称しました。令和2年(2020)秋に解体されてしまいました。昭和20年(1945)2月16日の朝8時頃、館山基地に駐屯し、茂原の本部を置く第252海軍航空隊所属の零戦が松岡旅館裏に墜落しました。当時、館山に本部を置く第903海軍航空隊の記録によると、館山基地に着陸しようと、南方上空から降下してきた2機の零銭が、湾内に停泊していた輸送船から銃撃を受けました。これにつられて南の山の対空陣地からも撃たれ、1機が墜落しました。この墜落により火災が発生した様です。なお、乗員の生死は不明。この日は、早朝から館山航空隊や関東地方の飛行場を目標にした、アメリカ海軍空母艦載機による日本本土最初の奇襲攻撃でした。

池田荘から海に方に向かうと、昭和電工館山工場跡に。現在は、NTT東日本館山サービスセンターの関連会社とおどやがあります。

昭和電工館山工場は、安房郡内では唯一カジメを材料にヨードを製造していいました。昭和初期の館山町では、最も大きな工場で、敷地4,839坪、建物1,046坪、従業員は昭和20年(1945)56人、昭和23年70人を数えました。しかし、昭和25年には残務整理の5人となってしまいました。
館山獅子によると、大正8年(1919)代に東信電気株式会社がヨードを製造していました。昭和6年(1931)に満州事変が起こると、海藻を焼いて出来るヨード灰が火薬の原料となる為、需要が高まり、カジメ・アラメが大量に求められました。昭和13年(1938)の国家総動員法制定をきっかけに、翌、昭和14年(1939)6月、「昭和肥料」と「日本電気工業」が合併、「昭和電工(株)」が森矗昶により創立されました。昭和16年(1941)8月16日、軍部から乾燥したカジメ・アラメを昭和電工に渡すように命令が出されました。千葉県漁連は、関係漁協に対し「カジメ採集に関する件」を通知、カジメ採取量を割り当てました。軍指定工場になった館山工場は、乾燥カジメ・アラメを焼いて、乾燥灰(ケルプ)からヨードを製造し、ほかにも塩化カリ、粗製沃土も作っていました。
昭和20年(1945)10月、館山工場は、占領軍の命令により生産を中止、昭和21年には、代用醤油の生産を始め、昭和22年4月、ヨード、塩化カリの生産を再開しましたが、輸入品の圧迫により不採算に、昭和23年8月、アミノ酸への進出を図ります。昭和45年、天然ガス採取の副産物として、容易にヨードが算出されるようになったことから、館山工場はその使命を終えました。
館山工場内には、当初赤レンガの八角形煙突(推定高さ20m)が2本ありましたが、内1本が関東大震災で倒壊してしまいました。
工場が取り壊された後、敷地が分割され、南側が昭和47年日本電信電話公社に売買され、現在はNTT東日本館山サービスセンター関連会社の(株)協和エクシオンに代わっています。一方北側は、昭和53年9月に坂本利政氏から昭和54年10月、(株)サカモト百貨店に、その後平成3年7月には(株)サカモトと名義変更され、食品と衣類を販売していました。平成18年9月には、(株)おどやに譲渡され、「スーパーおどや海岸店」になりました。

次は、黒島稲荷神社へ。

かつて、この場所は館山湾に浮かぶ岩礁で、高の島、沖の島、黒島が「鏡ケ浦3島」と呼ばれていました。元禄地震後、1.7m隆起するなど内陸化しました。横の用水路も館山城新堀の用水路跡で、北下台の陰になっていた楠見浦という水軍の拠点でした。

ところどころ説明しながら、渚の駅たてやまへ。

昭和39年代、千葉県(教育庁)が水産高校の実習施設(共同実習所)開設のため、埋め立てしました。昭和40年(1965)、県水産共同実習所が落成。(1階は水族館、2~3階は実習室)昭和48年(1973)、国体夏季大会で館山湾がヨット会場になり、皇太子殿下および皇太子妃(現上皇・上皇后)が博物館2階から競技を視察しました。同年11月23日、共同実習所北側に県立安房博物館が開館。平成21年3月31日県立博物館および、県水産共同実習所が廃止になり、4月1日館山市に全域移譲。平成23年県立博物館を館山市立博物館分館として、渚の駅を開設。平成24年、ミニ水族館を含め、「渚の駅たてやま」をオープンしました。

今回は、館山町の歴史の散策をしてきました。住んでいても知らないことばかりで、ついこの間まで建物があったのに・・・ここなんだったけ?な状態なんですが・・・
これからも、いろいろな歴史が生まれてくるんだと思います。

月イチツアー「日蓮誕生の地を巡る」報告

ご無沙汰しております。新型コロナウィルスの感染拡大で、ウォーキングツアーを中断していましたが、10月の終わりからウォーキングツアーを再開しました。安房地域でもこの夏は、新型コロナウィルスの感染が拡大してしまいましたが、現在では、感染者0の状態が続いていてホッとしています。

11月に入り、寒い日もありますが、日中は、ポカポカ日和の日もあります。そんな11月の月イチツアーは、安房の偉人「日蓮聖人」の生まれた場所・小湊エリアの日蓮ゆかりの地を日蓮御降誕800年という事もあり、巡ってきました。

まずは、少し日蓮の話を・・・
貞応元年(1222)2月16日に現在の鴨川市天津に漁師の子として生まれました。
日蓮誕生の日は早朝より晴れ渡り、穏やかな波に旭が輝く中、珠のような男の子が大きな産声を上げてて生まれました。産声に応えるように、庭には突如清らかな水が湧き出し、浜辺には青蓮華が次々と咲き始め、浅瀬には無数の鯛が群れをなして集まってきました。湧き出しばかりの清水は生まれたばかりの赤子の産湯としました。両親はこの珠玉のような赤子に「善日麿」と名付けました。
元福元年(1133)5月12日、12歳になった善日麿は清澄寺へと修学に上がり、「薬王丸」の稚児名が授けられました。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」となりました。
若き日蓮は、清澄寺に本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひらすら勉学に励みました。10数年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住む清澄寺に向かった日蓮は、建長5年(1253)4月28日早朝、清澄山の旭森山頂に立ち、太平洋にからる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、立教開宗の宣言をし伝道の誓願を立てたのです。このとき日蓮32歳、同時に名を「日蓮」と改めました。
その後、度重なる困難(松葉ケ谷法難(1260)・伊豆法難(1261~1263)・小松原法難(1264)・瀧口法難(1271))を受けて、日蓮は文永8年(1271)10月10日、依智(神奈川県厚木市)の佐渡国の守護代の館を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。厳寒の気候に加え、衣類や食料も乏しい中、佐渡の念仏者などから命を狙われるという厳しい状況に置かれました。文永11年(1274)2月赦免され3月に佐渡を出発し鎌倉へと戻りました。
文永11年(1274)5月に身延山に入山し、6月17日より鷹取山の麓の西谷に構えた草庵を住処としました。これ以来足掛け9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、弘安4年(1281)11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名しました。
建治3年(1277)の暮れに胃腸系の病を発し、医師に治療を受け、一時的に回復しても病状は次第に進行していきました。日蓮の病状は弘安5年(1282)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を越す事は難しいとみられる状況になってしまい、門下が話し合い、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになりました。9月8日、門下とともに身延を出発し常陸の国(現茨城県)に向かいましたが、18日武蔵国荏原郡(現東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着、衰弱が進んでその以上の旅は不可能となりました。日蓮が池上邸に滞在していることを知って、主要な門下が集まってきまsた。9月25日に門下を前に「立正安国論」の講義を行いう、これが日蓮の最後の説法となりました。10月8日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6日の本弟子(六老僧)と定めました。10月13日、多くの門下に見守られながら、その61歳の生涯を閉じました。日蓮の遺言のとおり、その遺骨は身延山に捧げられ、心霊とともに祀られました。その後、身延山久遠寺は日蓮の本弟子である六老僧の一人、日向上人とその門流によって継承され、約200年後の文明7年(1475)、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い日谷から現在の場所へと移転し、伽籃の整備が進められました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護受けて栄え、宝永3年(1706)には皇室勅願所とにもなっています。

いよいよ出発します。最初に訪れた所は、高生寺。

日蓮宗の寺院で、創建は寛文3年(1663)。
建長5年(1253)3月、立教開宗宣言のため清澄山の山頂で行うため、両親にお別れをしましたが、親を想う心は強く、山道にさしかかると足が前へ進まなくなりました。再び両親の顔を見ることができるであろうかと見返り合掌し、口の中でお題目を何回も唱えたそうです。この事から両親見送りの跡を、後世に残すためもの地に建立されました。元は、寄浦の朝日山にある「朝日堂」でした。

境内には、日蓮の銅像があります。

高さ約1.8m、重さ百貫(375㎏)、寛延3年(1750)に造られたもので、聖人の立像としては日本最古といいます。2020年には、塗り直し(修復)が行われ、綺麗な像になっています。

次は、西蓮寺へ。

天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。創建は天安2円(858)、天台宗高僧円仁(慈覚大師)によると伝えられています。境内の薬師堂の本尊は薬師如来坐像は、円仁の作と伝えられ、開創のときから秘仏とされ、かつては60年に一度の開帳でしたが、現在は、12年に1度、寅年の初薬師法要の際に開帳されます。
戦国時代の天正年間(1573~1582)、里見氏と北条氏の戦乱の際、里見氏の家臣正木憲時の陣屋が設けられ、薬師堂のみ残して焼失してしまい、江戸時代に入り、鐘楼・客殿等を再建しました。
西蓮寺は、日蓮が清澄寺で修行をする前の幼少期、師匠・道善房と共に12年間過ごした霊跡でもあり、日蓮の乳母・雪女(ゆきめ)の墓も現存しています。


雪女は、当地の有力者の娘といわれています。道善房はこの娘にお給料を払って善日麿(日蓮)の乳母としました。雪女は、大変な教養の持ち主で、善日麿に対して厳しいしつけと教育をしたそうです。日蓮が清澄へ上がることができたのは雪女の負うところが大きいのではないかと言われています。田舎の漁師の子供が地元の名刹である清澄寺へ勉学に上がるなど、並大抵のことではなかったからです。雪女は、善日麿が12歳の時に病床に伏し、帰らぬ人となってしまいました。善日麿は痛く悲しみ、墓前に一本の桜の苗を植えて「乳母桜」と名付け、また追善供養の為に、ご自身の勉学姿を手彫りし、西蓮寺薬師如来の御宝前に奉安したそうです。

日蓮は本当は高貴な方の御落胤ではないかという説があります。日蓮が生まれる前年に「承久の乱」が起こりました。その事変によって「後藤羽上皇」はじめ、多くの貴族が島流しにされてしまいました。西蓮寺は天台宗のお寺ですが、代々その住職は、誕生寺で行われる宗祖御降誕会などの大きな法会に、必ず来賓として呼ばれ、上座に参列されている習慣が今も残されています。
西蓮寺には興味深い伝承が残されています。「ある日、早朝、御堂の裏で赤子の泣き声が聞こえてくるので、何かと思い声のする方へ行ってみれば、ただならぬ気高さを備えた赤子がそこに捨てられていた」という話です。その時に赤子を包んでいた豪華なおくるみは「錦の茵(にしきのしとね)」と呼ばれ、今なお西蓮寺宝物として大切にされています。しかも西蓮寺史によれば、その当時の住職とは、何と後に日蓮の師となる「道善房」であったと伝えられています。伝えによれば、道善房の前身は天皇に仕える「北面の武士」であったと言われていて、出家の後にさる所願あって全国行脚に出て、日蓮誕生の数年間に西蓮寺を訪れ、そのまま住職として小湊の地に定住したとされています。
西蓮寺は天台宗のお寺ですが、不思議なことに代々その住職は、誕生寺で行われる宗祖御降誕会などの大きな法会に、必ず来賓として呼ばれ、上座に参列されている習慣が今も残されています。

境内には、鴨川石造物百選の馬頭観音があります。

武田石翁の作で、台座部分に「壽秀」という刻銘があります。三面六臂の像で彩色がされています。「壽秀」銘の作品は、安房地域には、3例のみだそうです。石翁の作の馬頭観音も現在のところ本像のほかに1例が知られています。

次は、吾妻神社へ。

祭神は橘姫命。神社の言い伝えによれば、日本武命(やまとかけるのみこと)が天皇から東国の征伐を命じられ、相模(現神奈川県)の浜から走水の海(浦賀水道)を渡り房総半島に行こうとしたとき、海の神に妨害され、船が進まなくなった。このとき、タケルの妃(きさき)タチバナヒメは海中に身を投じて海の神の怒りを鎮め、船を進ませました。タケルは無事に房総に上陸し、東征(とうせい)の役目を果たすことができました。その後タチバナヒメの遺体が当所に流れ着いたので、住民は手厚く葬ったといいます。タケルも東征の帰路当地に立ち寄り、ヒメを追慕(ういぼ)し社殿を建て笄(こうがい(かんざし))1個、鏡八面を神宝(じんぽう)として納めたと伝えられています。現在の社殿は延享3年(1746)に修築したといいます。
大正6年(1917)にまとめられた「湊村誌」には、神社に仕える人が数人おり、朝な夕な社務を執っていた。朝に勤務する社人の居所するところを開戸(かいと)(貝戸)と称し、暮れに勤務する社人の居所するところを合戸と称した。今、神社付近にその地名が存在する。江戸時代の前期に社人に代わって天台宗西蓮寺が、吾妻神社に別当となって明治維新を迎えるまで、同社を管理した。
この神社の参道は、線路が通っており、参拝に行く時は、気を付けて線路を渡って下さい。

次は、若宮神社。

祭神は、大雀命・天照大神の二神。創建年代は不詳ですが、徳川時代初期に西国から漁労のために来房し土着した人々が、大雀命を奉祀し創建したと言われています。

次は、いよいよ誕生寺へ。

日蓮宗の大本山。
日蓮の誕生と母梅菊女の蘇生延寿を祈念して、弟子の寂日房日家上人が建治2年(1276)に日蓮の誕生地とされる、現在の蓮華が渕に寺院を建立し、日蓮を開山に定め、日家を二世としました。創建から222年後の明応7年(1498)8月、東海沖を震源とする巨大地震が発生し、大津波による甚大な被害を受け、蓮華が渕の日蓮誕生寺の諸堂の多くも壊滅的打撃を受けました。そこで、寺地を妙の浦の丘に移し、堂宇を再建しました。戦国時代末期の天正8年(1580)には、勝浦城主正木頼忠の保護を受け、寺領の寄進を受けています。寛文5年(1665)12月に徳川幕府の慈悲により寺領70石を拝領しました。
元禄16年(1703)11月、房総沖を震源とする巨大地震(元禄地震)で、大津波に見舞われ、誕生寺の諸堂宇は倒壊流出し、寺地は海中に沈んだといいます。誕生寺は、早速再建に取り掛かり、新しく山あいの現在地を寺地に選び、多くの信徒から寄せられた浄財や水戸徳川氏などの炎上によって、ようやく再建となりましたが、宝暦8年(1758)の大火によって誕生寺の伽籃は仁王門を除いて、ほとんどが焼失しました。その後、寺の復興は順次進められましたが、祖師堂の再建には、莫大な費用を要するところから、とりあえず仮祖師堂を建立されたといいます。弘化3年(1846)3月に完成した祖師堂は、総欅造り雨落ち18間(32m)四面、高さ95尺(約28.5m)。堂内に52本の欅の柱と用材は江戸城改築用として伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難した物を譲りうけたmものです。平成3年、聖人像を修理する為、解体したところ、胎内より今から600数十年前の造立を記す貞治2年(1363)4代日静上人筆の古文書と薬草が発見されました。古文書には、「生身の祖師」の名と祖師誕生の時と所が記されていました。
明治期の皇族・宮家と、関係の深い寺院で、明治23年(1890)に有栖川宮家の御霊屋である龍王殿が、境内の一面に完成しています。翌明治24年(1892)には、宮中の女官方が有栖川宮家の名代として誕生に参詣しています。祖師堂の正面向拝の両脇に、大きな天水桶が据えられています。これは、明治25年(1892)に柳原愛子・園祥子ら6人の宮中の女官が寄進したものです。

仁王門は、千葉県指定有形文化財です。平成9年3月21日に指定されました。
宝永3年(1706)に建立されたもので、仁王門は5間3戸の楼閣門で、下層に和様三手先、上層に唐様三手先の組物を持ち、本蟇股の中備としています。いくつかの装飾の中でも、楼上に見える般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられています。いく度かの修復を経て、部分的な改変はあるものの全体として創建当時の様子をとどめていて、県内では最大規模の仁王門です。仁王像は享保15年(1730)松崎右京作で、昭和50年(1975)松久朋琳師により修復されました。

誕生寺には、鴨川石造物百選があります。
先ずは、井筒。

井筒とは、井戸の地上部分を囲ったものです。この井筒は、日蓮聖人が誕生した際に産湯に用いられたと伝えられる誕生水の井戸の上部を囲っています。寛永18年(1675)に造られた物で、1辺が1m27㎝の正方形で、高さは53㎝ですが、最近造られた囲みに埋められた部分えお含めると75.5㎝あり、厚みは20cmもありかなり大きなものです。複数の石材を組み合わせているのではなく、1個の石材をくり貫いて造られたものです。
誕生水は、日蓮聖人が産声を上げた貞応元年(1222)2月16日午刻。不思議なことに生家の辺りで清水が湧き出しました。家人は、早速清水を汲んで産湯に使いました。こんこんと湧き出る水は、どのような日照りにもかれることがなかったといいます。その後、明応・元禄と二度の地震・津波によって、海底に沈んでしまいましたが、調査により海中に有り、今現在も清水がわいていることがわかっています。現在地に再建されましたが、不思議にも新たに清水が湧き出しました。そこで旧地を偲んで名を襲い、日蓮聖人誕生の奇瑞を伝えています。

日待塔。

日天子を奉斎するもので、元禄5年(1692)に小湊日待講中が建立したものです。日待ちとは、夜明かしをして籠り日の出を待つ行事をいいます。日蓮聖人は、日天子について「法華経の行者あれば心に歓喜し、行者をにくむ国あれば天眼をいからして其国をにらむ給ふ」と、法華経信者を守護する善神であることを明らかにし、曼荼羅本尊にも「大日天王」として勧請しました。日蓮宗では三光天子を仏教の守護神として信仰しています。

他にも、手水石や題目塔・三重層塔があります。

まだまだ、誕生寺のお話しはありますが、誕生寺だけになってしまいますので、この辺にしておきます。もっと知りたいかたは、誕生寺の宝物館に「小湊山史の散策」が販売していますので、是非、ご購入下さい。

次は、小湊神社へ。

祭神は天照大神。小湊字祓山に所在。創立年は不詳。古来、社地を神明山と称し、小湊村の氏神でした。
現在は誕生寺から独立していますが、本来は誕生寺を守護する神である神であると伝えられ、法華経の守護神三十番神にちなんで、通称を番神社ともいいます。
三十番神は、1ヶ月30日の間、毎日交替の当番で国家や法華級の信仰者を守護する、日本国中に祀られている神々のことです。社殿には、この三十番神の神像が一つの厨子に安置され、毎月1日や祭礼に誕生寺の役僧が祖師堂で読経し、その後、社殿に出向いて、「海上安全」「大漁満足」の祈願を込めて読経しています。
旧社殿は、天明は天明3年(1783)3月に再建されたものですが、大正14年(1925)3月の火災で焼失してしまい、昭和2年(1927)に社殿を再建しました。

次は、妙蓮寺へ。
妙蓮寺参道入口付近に道標(鴨川の石造物百選)があります。

この道標は、妙蓮寺への道筋を案内するため、天保12年(1842)に建てられてものです。一般的な道標とは違う感じですが、道標としての内容を満たしています。

妙蓮寺です。

日蓮宗の寺院で、日蓮聖人の両親のご廟所です。ご廟所ということで「両親閣」として広く知られています。誕生寺末寺で筆頭の格式を持つ寺として江戸時代には誕生寺の代理を務め、住職がしばしば江戸城に登城したという由緒ある寺院です。
日蓮聖人の乳は、貫名次郎重忠、母は梅菊といいます。建長5年(1253)立教開宗した日蓮は、第一に父母を教化し、父に「妙日」、母に「妙蓮」という法名を与えました。父は正嘉2年(1258)2月14日、母は文永4年(1267)8月15日に亡くなり、この地に葬られました。
開山の日静上人は誕生寺を引退ののち、この地に異常し、御尊母の蘇生祈願の、御本尊を掛けられた御霊木を材とし、宗祖ならびにご両親の御尊像を刻まれました。この御像は、天拝感応の祖師として古来より尊崇され、又、蘇生の妙符は不思議の奇蹟を現し、今も参詣の人が絶えないそうです。

墓地には、沼野玄昌の碑文があります。

沼野玄昌は、天保7年(1836)、旗本万年差十郎の次男として江戸に生まれました。嘉永元年(1848)に母の実家である小湊村の沼野家の養子となりました。沼野家は代々医業を家業とし、第16代目玄昌を名乗ることになりました。安政2年(1856)、西洋医学を学ぶため、佐倉の順天堂に入門し、医学を徹底して学び、元治元年(1864)10月に小湊に帰りました。その後、慶応3年(1867)に江戸の医学所で種痘法を学んでいます。明治9年(1876)、漢方医を主な対象にした医学講習会が全国で開催され、玄昌は講師の一人として加わり、解剖学の説明に自宅近くの墓地から掘り出されたといわれる人骨を用いました。このため、前原警察署に留置され、千葉裁判所に送られましたが、医学上の解剖に関する法律が未整備だったことと、玄昌の医学への熱意をくみ取り、不問にしました。
明治10年に長崎に上陸したコレラは、西南戦争の帰還兵とともに全国に広がったといわれ、千葉県では年末までに627人の患者を出し、346人が死亡しました。同年9月には貝渚村でコレラが発生し、前原町・横渚村へと広がりました。玄昌は、公立千葉病院(現千葉大学医学部付属病院)の「御雇医」として、死者の仮想や井戸の消毒等を行っていました。玄昌は自ら薬を含んで、衰弱した患者の口に移したり、病気を恐れて誰も手を出そうとしない患者を背負て運んだと言われています。
同じ年11月21日、貝渚にある旅宿の宿泊者がコレラとわかり、玄昌と巡査が旅宿を訪れました。コレラは死亡率が高く、住民たちはコレラの恐怖心が高まっていました。玄昌が金もうけのために井戸に毒を入れたり、高価な生き肝を患者から切り取るという噂が広がりました。旅宿に玄昌がいると知ると、殺気だった住民たちは、棒や鎌で玄昌を襲いました。玄昌はその場を逃れましたが、住民たちは鐘を鳴らして仲間を加茂川河川の権現橋や河原に集めました。玄昌は加茂川を渡り小湊へ逃げようとしましたが果たせず、遺体は今の汐留公園あたりに流れ着いたそうです。遺体は頭骨に達する傷が数か所と全身打撲を負っていました。このとき玄昌42歳でした。
汐留公園には昭和53年(1978)に鴨川市長や小湊町長らによる「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」が建立されました。

現在は、全世界的に新型コロナウィルスが猛威を振るっている中で、色々な情報が新聞やTV・インターネットで情報を得る事ができますが、昔は、なかなか情報を得るのは難しかったんだと・・・今も、ネットでは間違った噂とかも流れていますが、この時代の間違った噂で、沼野玄昌は殺されてしまいました。なんだか考えさせられる話だなぁ~なんて思ってしましました。沼野玄昌を殺しちゃった住民たちは、どなったのかな?なんて疑問も残りますね。

次は、八雲神社へ。

祭神は、素戔嗚命。通称「市川の天正宮」。もと釈迦の仏殿である祇園精舎の守護神牛頭天王を祀る天王宮と呼ばれていましたが、明治初年の神仏分離令によって素戔嗚命を祭神とする八雲神社に改められました。「覚帳」によれば、守護牛頭天王の尊像は、源頼朝が祇園社(八坂神社)の分霊を勧請し、源家再興のため品々を添え、滝口兵庫を宮守として市川の地に安置したものです。それから歳月が流れて天正のころ(1573~1590)、里見太郎義頼公が、源頼朝ゆかりの神社であることを耳にして参詣した。社殿が傷んでいるのを見て本殿と拝殿を再建しました。江戸時代の正徳年間(1711~1715)に幕府代官樋口又兵衛家次配下の大橋勝太夫・中川平左衛門の両人が、検分に訪れ、牛頭天王像の素晴らしさを賞賛し、大切に管理し信仰するように言われました。安政5年正月の火災によって本殿が類焼。総代人はいち早く駆け付け、尊像を持ち出し、人々を呼び集めて神輿を運び出しました。

最後は、日蓮の父、貫名次郎重忠公漂着の地へ。

昭和46年(1971)建立の石柱に、建仁3年(1203)に北条時政により当時へ流されたが、代官滝口兵庫朝家が世話をしたと書かれています。
民家の敷地にあるので、見過ごしてしまう可能性があります。

さて、出発地へともどり終了です。

最後に誕生寺周辺に残る3つの不思議を紹介します。
①妙の浦の鯛。
深い海を回遊している鯛が浅い所に住みついていることで国の特別天然記念物に指定されています(昭和42年)
日蓮誕生の時、鯛が水面を飛び跳ね舞い踊ったと伝えられています。その時より、地元では800年に渡り、日蓮のお使いとして殺生禁断、大切に保護、餌付けされて来ています。
エピソードがあります。
殺生禁断とされた妙の浦の鯛ですが、近年、世の中の考え方も変わりはじめ、鯛は鯛、魚だろうと初めて食べた人が居ます。その人は、「やめた方がいい」という家族の制止を振り切り食べ、しばらくすると体調に異変が現れ、苦しそうにのたうちまわり、その姿はまるで鯛が陸に上げられ、跳ねているようであったことから、鯛の浦の鯛を食べた罰であるのではと、日頃信仰していた尼さんに相談したところ、誕生寺のお坊さんに御祈祷してもらう事になりました。程なく体調が戻り、事なきを得たそうです。
これ以降、死んで浜に打ち上げられた鯛や網にかかって死んだ鯛も鯛の浦遊覧船協業組合の冷凍庫に大事に保管され、丁重に供養・火葬の後、誕生寺境内の鯛の墓へ納骨され、きちんと供養しているそうです。毎月6日は鯛供養の日として、鯛の浦遊覧船協業組合により鯛の供養と、海上安全の祈願が行われています。

②五色の砂
砂に夜露が降り水滴となった所に朝日が当たると乱反射して、とてもきれいに見える事から、五色の砂と呼ばれています。お盆の頃、ご先祖様の眠るお墓の清掃が終わった時に、お清めとして撒き敷く習慣があります。お題目を唱え日蓮とご先祖への感謝、そして家内安全、家門永昌を願っています。蓮華ケ淵の日蓮大聖人誕生三奇瑞の蓮華が咲いたと言われる所の周辺の砂を、むやみに取らないようにしているそうです。
エピソードでは、モルタルに鮑やサザエの貝殻を砕いて混ぜるて塗ると螺鈿細工の様になる工法があります。綺麗だからと、この蓮華ケ淵から流れついた五色の砂を使った人がいました。家を新築した際に、モルタルの外壁の仕上げに、五色の砂を混ぜて化粧仕上げにしました。完成間もなく、家は火災となり、五色の砂を塗った壁も家もすっかりきれいに燃えて無くなってしまったそうです。これは罰であると、神聖な五色の砂は個人の為に使ってはいけないとあらためて戒めになったそうです。

③誕生水
日蓮誕生の時に、産湯として使われた清水(湧水)があります。その場所は、明応・元禄と2度の地震により水没してしまいましたが、調査により海中に有り、今現在も清水(真水)が湧いていることがわかっています。同じ水脈の井戸を総門脇に作り、誕生水として大切に守っています。

日蓮について調べてみると色々と面白いなぁ~と思ってしまいます。宗教の関係もあって、敬遠されてしまうかもしれませんが、安房偉人の日蓮につては、宗教関係なく調べてみるのも良いかと思います。

お散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」報告

ご無沙汰しております。なんだか、時がたつのが早くて・・・
新型コロナウィルスの感染が止まらない状況です。館山・南房総でも、7月の終わりから感染者の人数が増えてきていています。夏のイベントのウミホタル観察会も、千葉県の緊急事態宣言発令に伴い、他県への往来自粛要請が出ていることに考慮して、千葉県以外の方には、ご遠慮をいただく事になりました。楽しみにしていた方もいらっしゃると思いますが、とにもかくにも、感染者の減少を優先する事になりました。館山・南房総地域は、高齢者も多くいて、ワクチン接種も進んでいるのですが、デルタ株が接種しても感染する可能性があるので、苦渋の選択でした。
早く、感染の拡大が治まる事を願っています。

さて、大変遅くなりましたが、7月のお散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」を開催しましたので、報告します。
集合場所は、館山コミュニティセンターの駐車場です。
最初に訪れた場所は、天神山へ。

天神様を祀ってある岩山を天神山といいます。山の上には、自警団が使っていた半鐘があります。これは大網大巖院の常念仏堂にあった鐘で、元禄13年(1700)のものです。昭和17年(1942)の戦時中に金属供出からまぬがれるため、安布里の自警団が使用していた半鐘を供出し、代わりにこの鐘を自警団で使用することになり残されました。

次は、蓮幸寺へ。

日蓮宗の寺院で、興光山蓮幸寺といい、文明元年(1469)創建といいます。墓地の入口に中世の五輪塔の笠石や宝篋印塔の笠石があります。江戸時代はじめの宝篋印塔があり、里見家臣の田山左衛門介正常の墓と伝えられているものがあります。
門前には館山の大正・昭和期の俳人佐藤光雲の句碑があります。

境内には、日蓮宗の守護神を祀る七面大天女堂があり、周辺には、古墳時代の横穴墓が5基確認できます。

次は、舎那院へ

真言宗の寺院。本堂より高いところにお大日様と呼ばれる磨崖の大仏があります。


磨崖仏です。凝灰質砂岩に、高さ196㎝、膝張150㎝の如来形の坐像が彫られています。天保年間の火災で文書が焼失してしまい、磨崖仏も風雨にさらされもとの姿がわかりにくいので詳細は不明ですが、伝承によると、この磨崖仏は室町時代以前に作られたとされています。
この磨崖仏を地元の人は「お大日様」と呼んでいて、毎月27日にお年寄りの人たちが食べ物を持ち寄って、お堂でお篭りを行っていたそうです。
昔は、磨崖仏を覆うお堂が建てられていたそうです。江戸時代末期に館山湾の漁船が東の山から赤い光が立ち昇るのを見て、占者がこの山の上にある仏が風霜にさらされているためと指摘し、驚き怖れた土地の人たちが、広さ六畳ほどの瓦葺のお堂を建てたそうです。大正12年の震災で倒壊するまでは、高床式で扉がついた大きなお堂がだったそうです。
お大日さまは、前面にある穴に大豆を投げて、穴に大豆が入ると子ども授かるという信仰や、病気になった人がいるときは7人がお堂にこもって祈願をすると病気が治るという信仰など、様々な信仰を集めていました。

すごく趣のある場所です。

次は、大網砲台(大日山高角砲台)跡へ。

太平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲台などがおかれていて、いまも凹地の塹壕などが残されています。周辺には、弾薬や食料などの物資貯蔵用の壕が掘られ、なかには壕の正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えなくしたものがあります。軍事資料では、大網砲台と書かれていますが、大巌院慰霊碑には大日山と刻まれています。

次は、小原家へ少し寄り道

国登録有形文化財の小原家の門の所までお邪魔しました。
小原家は代々農業を営んでいました。7代目小原金治さんは政治家・実業家としての道を歩み、県会議員や衆議院議員を務めたほか房総遠洋漁業(株)や安房銀行の経営にも携わっていました。主屋の主体部は明治29年に、離れは昭和4年に、いずれも金治さんが建築しました。主屋は寄棟造でげやびしを廻らし玄関を付す主体部の西に台所部や土間部を接続しています。土間部は安政6年(1859)頃に三代目小原金兵衛が建築し、明治29年に建築された主体部は6間取で、奥座敷は床の間の両側に床脇を設けた豪壮な意匠。台所部は昭和前期の増築です。近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れの内部が座敷と茶室からなり、座敷には床脇の円窓など独自の意匠が見られる良質な建物です。主屋の西には米蔵、文庫蔵、敷地南には旧長屋門が建っています。

次は、観音寺へ。

真言宗の寺院で、南養山観音寺といいます。境内に入ってすぐ左手にある石造の地蔵尊は、高村光雲の弟子で館山楠見の石彫家俵光石の作品です。明治33年(1900)の作で、台座に地獄極楽の図が刻まれています。
門柱にはモダンなガス灯があります。

次は、日枝神社へ。

下真倉の鎮守で、むかしは山王権現と呼ばれていました。社殿のなかには万里小路通房が明治30年(1897)に書いた「本宮」の額、大正4年(1915)の鏡ケ浦時の絵馬などがあります。

最後の見学場所、大巌院へ。

浄土宗の寺院で、仏法山大網寺大巌院というのが正式名所です。本尊は木造阿弥陀如来坐像で館山市指定文化財です。開山は雄誉霊巖上人で、慶長8年(1603)に安房国主里見氏9代義康の帰依により、大網一村を寺地として与えられ、大巌院を創建しました。江戸時代、大巌院は42石の寺領を有し、末寺22ケ寺を擁し、安房における浄土宗の触頭でした。当初の本堂は雄誉上人が建て、現在の本堂は安永元年(1772)に第8世到誉俊察上人の代に茅葺で本堂を再建したことが棟札から分かります。昭和39年に本堂を改築して茅葺を瓦葺にしました。
現在の本堂の窓には、来迎図や蓮華浄土図がステンドグラスで描かれています。

山門の側には四面石塔があります。(千葉県指定有形文化財)

元和10年(1624)に建立した、総高2.19m、玄武岩で作られている四面石塔です。4面すべてに刻字されていることから四面石塔と呼ばれています。四面石塔は県内でも類例が少なく、なかでもこの石塔は、四面に「南無阿弥陀仏」の6字を、日本漢字・印度梵字・中国篆字、ハングルの4か国語で刻んでいるのが特色です。

境内には、雄誉上人墓(館山市指定史跡)があります。

天文23年(1554)に駿河国沼津で今川一族の沼津土佐守氏勝の三男として誕生しました。11歳で浄運寺(沼津市)で出家し、15歳で大巌寺(千葉市)に入寺し修行を重ね、天正15年(1587)大巌寺三世住職となりました。天正18年に故あって大巌寺を辞し東海道方面に旅立ち南都に霊巖寺(現在の奈良市霊巖院)などを開創しました。その頃、伏見城に滞在していた徳川家康より大巌寺再住を命じられ、文禄2年(1593)に大巌寺へ戻り、五井領主松平家信の援助を得て堂宇の改築をしました。慶長8年(1603)再び大巌寺を辞し、伊豆大島、安房を巡教し、安房国主里見義康の帰依により大巌院を創建しました。慶長18年内藤政長の請いにより佐貫(富津市)善昌寺に転住しました。寛永元年(1624)隅田川河口の沼地を埋め立てて霊岸島(東京都中央区)を築き、霊巖寺を創建しました。寛永6年将軍徳川家光の命により総本山知恩院32世となりますが、同10年知恩院が火災に遭うと、家光から諸堂再建を命じられました。寛永13年に大洪鐘を鋳造しますが、これが除夜の鐘で中継される大鐘です。寛永18年(1641)諸堂造営が成就すると、御礼のため江戸へ下向し、江戸城で法談を行いましたが、9月1日江戸霊巖寺で88年の生涯を閉じました。

大網砲台の所で説明しました、大巌院の慰霊碑です。

下の部分に亡くなられた方の場所とか書かれていて、なんだか読むと切なくなってしまいます。

あとは、出発地点に戻ります。
7月ともあって、暑く蒸し暑い日でしたが、無事に出発地点へと戻る事ができました。この時期のウォーキングは、厳しくなってきます。なので、8月はウォーキングをお休みして9月からになります。しかし・・・緊急事態宣言が延長になった場合、どうするか悩み中です。館山・南房総エリアの感染者が少なくなっていたら開催する予定です。
今年も、我慢の夏になりました。早く、終息して楽しく夏を過ごしたものですね。

月イチツアー「田原地区散策」報告

6月も終わりですね。1年の半分が過ぎようとしています。
館山・南房総は梅雨入りしていて、梅雨らしい天気になっています。最近では、メガマウスが館山に現れたり、東京湾にシャチが現れたり、珍しい現象が起きています。海の中で、なにか起きていないか心配になります。

さて、6月の月イチツアー「田原地区散策」を開催しましたので、報告します。
出発地はJA虹のホール鴨川の駐車場をお借りして出発です。
先ずは、前にも行きました田原交差点付近にある道標へ。

鴨川市の石造物百選に選ばれた道標です。兜巾型の道標で、塔身正面の上部に、舟形の龕の中に如意輪観音が刻まれています。下部には「西大山道」と大山寺への道筋が示されています。左右に紀年銘がありますが、年号の最初の部分がわからないですが、文政か安政で、像容や形態からみると文政4年(1821)に造られた物かと思われます。むかって右側面には「右いそむら前はら道」、左側面は「左清すみ天津道」とあり、磯村・前原それに清すみ天津の現在地名が刻まれています。

次は、愛宕神社へ

祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・建御名方命(たけみなかたのみこと)・保食神(うけもちのみかみ)など八柱の神が合祀されています。これは、明治末年の政府の神社合祀政策によって、明治44年(1911)に周辺の無格社の神社を合祀しました。祭神のカグツチは火の神。ウケモチは穀物の神です。
愛宕信仰は、京都の右京区に鎮座する愛宕神社を中心とする信仰で、火伏の神・防火の神として信仰されました。また、仏が多くの人々を迷いの世界から救うために神の姿となって現れるとする本地垂迹説によって、愛宕神社の本地仏は勝軍(将軍)地蔵とされてので、軍神として武士の信仰を集めたといいます。勝軍(将軍)地蔵の由来は、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って、鎧・兜を身に着けた軍馬にまたがる地蔵菩薩を造ったことによると伝えられています。
ここ愛宕神社の字名は、将軍といいます。勝軍地蔵にちなんだものと思われています。


向拝の彫刻は4代伊八(信明)の作品です。

境内には、忠魂碑や日露戦争記念碑などがあります。

次は西福寺へ。
曹洞宗の寺院で、鴨川市宮山の長安寺の末寺です。本尊は阿弥陀如来。
由緒は不明ですが、寺院明細帳によりますと、永禄2年(1559)に長安寺五世の続翁禅師が創建したとあります。里見時代には四石の寺領が寄進されました。
本堂の欄間には、「波に竜」と「七福神」の彫刻があり、波の伊八(武志伊八郎信由)の作です。安永6年(1777)、信由26歳の時に弟子の磯八と共に彫上げた作品です。彫刻は、昭和52年(1977)に鴨川市の文化財に指定されました。
いつも開いてないのですが、修繕の関係で開いていたので、中を見せていただきました。

明治7年(1874)に竹平村・押切村・京田村・池田村・坂東村を一学区として竹平小学校が開設されたとき、西福寺が仮校舎として使用されました。明治末にアララギ派の歌人・古泉千樫が隣接する小学校の教師をし、一時寄宿していたお寺でもあります。

境内には、宝篋印塔があります。年代は不明ですが、世話人 伊八という文字があります。彫刻が伊八なので、波の伊八?と思ってしまいますが、波の伊八の可能性は低いとの事でした。通常、住んでいる所の場所の村名が銘記されますが、なにもないので、ここの村の人の可能性が高いそうです。伊八の生まれた打墨村には、4~5人位、伊八という名の人がいたそうです。

次は、地蔵院へ向かいますが、途中、愛宕神社に合祀された八雲神社を道からみます。

祭神は素戔嗚命。明治44年(1911)4月に合祀されました。向拝の彫刻は、千倉町後藤作とあります。民家の敷地を通って行くので、今回は、遠くから見学です。

次は地蔵院へ。

曹洞宗の陣で、西福寺と同じ長安寺の末寺です。本尊は地蔵菩薩。お寺の由緒は不明です。
地蔵信仰は、釈迦入滅の後、弥勒菩薩が現れるまでの間、人々を救済するという地蔵菩薩への信仰です。平安時代から人々に支持され、とくに子供を守護するため、しばしば童身になって現れると考えられ、民間信仰として広がりました。

次は勝蔵院へ。

真言宗智山派の寺院で、川代の勝福寺の末寺です。本尊は延命地蔵菩薩。
創立年は不詳ですが、寺伝によれば、天正年間(1573~1591)に里見氏から寺領一石の寄進をうけたといいます。このことから、天正年間以前に創立した寺院と考えられます。その後衰微したので、慶長19年(1614)に成円という僧侶が中興開山して第一世になりました。元和2年(1616)に江戸幕府から改めて一石の寺領を安堵されました。
向拝の龍の彫刻は、後藤喜三郎橘義信 翁68で、大正3年7月です。

次は、楞厳寺へ。

真言宗の寺院で、本尊は不動明王。
創建は寛弘年間(1004~1011)ですが、再三火災に遭い年月などは分かりません。本尊の不動明王は、平安時代中期に天台宗の学僧として名をのこした名僧源信(恵心僧都)の作と言われています。境内の不動堂に安置されている不動仏は、奈良時代の高僧・良弁の作と伝えられています。
本堂欄間の「十六羅漢像」は、四代武志伊八郎信明が明治38年(1905)に作成したものです。「十六羅漢」とは、仏語で仏の命を受け、ながくこの世にとどまって、正しい教えを守護する16日の聖者のことです。お釈迦様の弟子で徳に優れた代表的な16人の弟子です。
因みに、五百羅漢は、初めて経典編集に集まった弟子たちで、いずれもお釈迦様の教えを後世に伝える大切な役割を担っています。昔からたくさんある羅漢さまを一体一体ゆっくり眺めていくと、必ず自分の親やしっている人によく似たものが見つかると言われています。

最後の見学場所の御嶽神社へ。

祭神は大己貴神(おおたむちのかみ)。オオナムチは神話に登場する大国主神の別名です。創建年や由緒は不明です。
御嶽信仰は、聖なる山とされた木曾の御嶽に対する信仰で、近世以降に御嶽講が各地に結成され、富士山とともに庶民の信仰を集めたといいます。
社殿裏には、湯殿山供養塔があります。

舟光背型の石材に、金剛界大日如来の坐像が浮彫りされています。上の部分には、胎蔵界の大日如来を示す梵字アークンが彫られ、その下には湯殿山供養塔と像脇には、享保13年(1728)の紀年があります。高さは105㎝、横52㎝、奥行き24㎝です。鴨川の石仏百選に選ばれています。

後は、出発地点へと戻りますが、コラボ企画としてJA虹のホール鴨川で説明会です。

会社の説明や葬儀についてなどのお話しを聞きました。エンディングノートなども貰いまして・・・
個人的な感想ですが、葬儀って急な事なのでどうしたらいいのかわからない状況になるのでパンフレットを貰えてよかったです。

段々と暑くなってきています。マスクを着けて、暑い時期に歩くのはかなり厳しいです。新型コロナウィルスの対策と熱中症の対策をしないといけません。みなさんも気を付けて下さい。

7月は、7日(水)お散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」を開催します。その後は、9月までウォーキングはありませんが、ウミホタル観察会を開催します。HPのイベント案内をご覧いただき、お申込み下さい。

月イチツアー「平舘古道(堰・滝&平舘浅間編)」報告

なんだか天気が良くないと体調もすぐれませんね。蒸し暑かったり、梅雨寒だったりと、体調管理が大変です。
新型コロナウィルスも感染力の強い変異ウィルスも出てきていますので、体調管理とコロナ対策をしっかりしていきたいものです。

さて、5月の終わりに月イチツアー「平舘古道(堰・滝&平舘浅間編)」を開催しました。今回は、千倉町平舘地区の区長さんたちにご協力いただきました。

出発場所は、千倉漁村センターから平舘稲荷神社へ向かいます。

祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)安永2年(1773)徳蔵院が京都の伏見稲荷より名戸川の地に勧請し、戦後平舘稲荷と改めました。また笠間稲荷の移しという石板があります。向拝の龍は初代後藤利兵衛橘義光83歳の作品です。
今年の始め記録的な少雨のため、南房総市の小向ダムで飲料水のピンチが続き、全国版のニュースになりました。平舘稲荷山は雨乞い塚であるため、区長の呼びかけで異例の雨乞い神事が行われました。効あって3日後に雨に恵まれたようです。
その稲荷山へは、神社の裏から登る事ができますが、狭い場所なので気を付けて登ります。

稲荷山からの景色はこんな感じです。

景色の良い場所です。

次は、名戸川原の奇石と呼ばれているつぶて石と神楽石を見て、いよいよ古道へと入ります。

名戸川原の奇石については、あとで話ます。

いよいよ古道に入っていきます。今回は写真でおおくりします。

滝へと進んでいきます。

下の滝・・第2の堰から直瀑で落差約3m

上の滝・・第1の堰からオーバーフローして落水。ナメ滝で落差約6m
滝は、堰がオーバーフロー、または水田用に落水した時に現れるそうです。なかなか見る事は難しいかな?

堰の周辺には、石切場が色々あります。

第1堰のところで、平舘区長さんが説明してくれました。

石切り場の痕跡は多く残されています。

次は天神社へと向かいます。

祭神は少名毘古那命とも、土地の人は藤原道真公と伝えられています。境内に馬の背の奇石があります。
ここで、南房総市の昔話より、「名戸川原の物語」お伝えします。

 大昔、名戸川原は雷神が雷を落とすなどして、我が物顔に暴れ廻っていたので、人の住めない状態でした。そこへ天王様(牛頭天王)という神が来て、雷神を鎮めようとしたのですが、雷神は天王様の言うことを聞かないで、出雲の国から八雲の神(素戔嗚尊)を招きました。八雲の神は力が強く政治力に富んだ神でしたが、雷神を鎮めようすると、反対に住まいを壊され、下の洞窟に逃げ込むとこを繰り返す有様でした。
 天王様は次に高天原から、お祭りに堪能な神明神(天照大神)を招いて、お祭りで雷神を鎮めようとしたが、それも効き目がないので、今の能蔵院の先祖の能楽に長けた人に獅子と大蝦蟇を連れてこさせ、能楽を名戸川原で演じさせたが、それも束の間で、忽ち獅子と大蝦蟇は石にさせられました。
 今も名戸川原の中に、その獅子と大蝦蟇が助けてと、能蔵院の方へ向かって大口を開けた姿の石が有ります。
 雷神の暴挙は鎮まることはなく、稲荷山を崩しにかかったので、次は稲荷(倉稲魂)を連れてきてその山を守らせ、狐を使っていろいろ宥めようとしたが、それもままならず、次は天神(高皇産霊尊)を呼びました。天神が名戸川原の中心にある小さな岡に、住み処の祠を作ろうと馬に乗って来ると、雷神は怒って、その馬の首を落としました。ところが、その馬の首が雷神の尾に食い付いて離れず、そこで困った雷神が天神に鳴いて謝罪したので、天神は雷神に名戸川原で二度と暴れ廻らないよう約束させて、尾に食い付いた馬の首を離してやりました。天神の乗っていた馬は、現在、馬の背と呼ばれ、鞍を付けた形の石になっています。
 雷神は天神に約束したとおり、名戸川原で暴れなくなり、雷を落とさなくなったので、人が住むようになりました。その時に、村へ男の子が生まれたので、天王・八雲・神明・稲荷・天神の五神の五を戴いて五平と名付けました。その子は成長するに従い人徳者になったので、村人から「五平どん」と呼ばれるようになり、今もその家の屋号になっています。
 当時、原の見廻り役をした人の家が、「名戸川原」。浜の見張りをした人の家が「浜」という屋号で残っています。村人たちは天王様の德を慕って、死後も守って貰いたいという願いを込めて、天王様の廻りに墓地やお籠り小屋を作りました。その小屋を、天王様の德を戴いて「德蔵院」と名付け、一方、お能に堪能だった住者の家は、能の字を戴いて「能蔵院」になったと言われ、村人に尊敬され現在に至っているのです。

こんなお話しです。
次は、平舘コミュニティーセンターへ。区長さんの計らいでお借りする事になりました。
ここで、昼食です。お昼休憩には、平舘の方による紙芝居が行われました。先にお話しした昔話です。

その後、平舘浅間山についてお話しがありました。

午後からは永﨑堂へ。

もと徳蔵院があったところです。「徳蔵院旧地に泉あり。その清水殊の外美味なるにより、福泉といい山号を福泉徳蔵院という。」本尊は不動明王。階段下に富士講の碑があり、中間に修験道の祖役小角の石造があります。

この脇の小道から浅間山へと登っていきます。

平舘浅間山は、富士山写しの遺構になっています。標高約15mの位置にある縄文時代の海食洞穴を利用した御人穴があります。

浅間大神の本地仏・金剛界大日如来坐像が祀られています。
※人穴は富士山西麓標高約700mにある溶岩洞穴。富士講創始者「角行藤仏(長谷川角行)」の修行の場で、富士講の聖地です。
少し富士信仰の話を・・・
富士信仰を具体的に起こした人は、戦国時代の行者角行でした。その後、江戸時代に行者食行身禄は角行の教えを元に富士信仰を広め、飢餓に苦しむ庶民を救うため富士山中で断食行をして入滅しました。そして富士信仰は弟子によって江戸を中心に関東一円に大流行しました。浅間神社は富士山を仰ぎ見る場所にあり、富士山そのものを拝むようになっています。漁をする人の目印になったり、雨乞いの山になったり地域の守り神としての役割を持っています。

富士山経ケ岳を模したものもあります。

本家は富士山の五合五勺目の天地の境といわれるお中道にあります。日蓮聖人は文永6年(1269)に富士山に登り、横穴「姥ケ懐」で国家安泰を祈念して百日間読経し、法華経8巻を埋納したといいます。日蓮宗の聖地でもあります。

結構険しい道になっています。

道中には、やぐらや・手水石・元祖室やその道標石などがあります。
山頂には富士山の神を祀った祠があります。

仙元大菩薩を祀った祠があります。仙元とは江戸時代後期に平舘の先達が祀ったと思われています。関東大震災で破損し昭和2年に修繕されました。近くには頭部が失われた大日如来石像が安坐しています。行者・修験者・山伏等の信仰大正として富士山には神様だけでなく、火口には大日如来がいるとされています。

後は、出発地点に戻ります。
結構大変な登山でしたが、無事に終了することができました。今回の写真もガイドの庄司が撮ったものです。私の写真よりいい感じです。次回は、復活できるように安静に過ごします。

お散歩ツアー「曽呂地区歴史探訪」報告

6月も後半です。館山・南房総も梅雨入りしています。雨が降ると嫌な気分になりますが、雨がないと困りますから我慢しないといけませんね。でも大雨だけは勘弁してほしいものです。

さて、5月のお散歩ツアー「曽呂地区歴史探訪」を予定していた日が雨でしたので1日ずらして開催しました。
「曽呂」は鴨川市にある地区です。「曽呂」という地名の由来は、昔、寺院が多く建てられ、僧侶も多く棲んでいたので、人々は僧侶を敬って僧侶の人偏をとって「曽呂」と名付けたと伝わっています。現在曽呂地区には、13軒のお寺があります。今回は、その一部を巡ってきました。

出発地点は、曽呂郵便局の隣にあるJA安房さんの倉庫の敷地をお借りして出発です。

最初は金光寺。

曹洞宗の寺院で本尊は十一面観世音菩薩。社寺明細帳には、天正元年(1573)12月の創建とあります。由緒は不明です。
本尊の十一面観世音菩薩は、衆生がその名を唱える声を聞き、慈悲の心をもって人々の願いを満足させる仏として広く信仰されています。こちらの現在の檀家数は30軒ほどだそうです。

次は宝昌院へ

曹洞宗の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。長狭郡南部における曹洞宗の地方小本寺としての寺格を持つ寺院でした。曽呂地区の東善寺・慈眼寺・神宮寺・林秀院・地済院・宝寿寺・東福寺・宝泉寺・宝寿院の曹洞宗九か寺を末寺としていました。宝昌院の本寺は三芳本織の延命寺です。創建は永禄元年(1558)と言われています。由緒については、不明な点が多くありますが、曽呂村役場が大正年間(1912~1926)に村内の寺社について、名所や本尊・祭神・由緒なろをまとめた「社寺明細帳」には、「創立は永禄元年(1558)」と書かれています。永禄元年は木下藤吉郎が織田信長に仕えたと伝えられる年で、信長が今川義元を撃ち破った桶狭間の戦いの2年前のことです。

ここは、三井ダイレクト損保のCMセカンドライフ編の撮影に使用されたそうです。なかなかの景色でした。

次は八雲神社へ

祭神は須佐之男命。享禄年間(1528~1531)に武州(武蔵国)から勧請したと言われています。
江戸時代から伝わる伝統行事「牛洗い」が6月の第一日曜日に行われています。
「牛洗い」は神社に安置されている白い陶製の「白牛」(全長44cm)を神社から約200m先の曽呂川へ、役員を先頭に歩き川のほとりで、ササの葉を使って丁寧に水で清めるという珍しい行事です。かつてこの地域に広がる幕府直轄の嶺岡牧には牛や馬が放牧されていて、酪農発祥の地でもあります。地元では白牛から徳川吉宗との関係があるのではないか?と言われていて、また6月7日まで牛の背中を汚すなとも言われていました。牛は農耕牛として農家にとって大切なもので、この神事は農耕牛に感謝しながら川で洗うことで、牛の無病息災や豊作、家内安全を祈るものです。

本殿脇には、庚申塔があり鴨川の石造物百選になります。

三猿と二鶏を大きく表現した庚申塔です。上部に瑞雲上の日月、中段に二鶏、下段には三猿が行儀よく正面を向いて並んでいます。貞享改元天拾月吉祥日となっています。銘文には「奉請山王供養成就者也」「願主江中講仲間敬白」と解読できます。
銘文から山王系の庚申塔と判断できます。

次は、林浄院へ

真言宗の寺院で、本尊は不動明王。創建・由緒不明です。南房総市千倉町の円蔵院の末寺です。現在は、寺守さんが住んでいます。

次は地済院へ。

曹洞宗の陣で、本尊は聖観世音菩薩。創建は延享2年(1745)です。
境内には、三嶋天神が祀られています。

こちらにも鴨川の石造物百選に選ばれている地蔵菩薩があります。

二体の地蔵尊が祀られていますが、一体は近世の地蔵尊で、もう一体が石造物百選に選ばれている地蔵尊(左)です。
石材は蛇紋岩、舟光背型に成形さらた正面に、地蔵菩薩坐像が浮彫りされています。面立ちは目をかるく閉じ、口元をややすぼめたユニークな表情をしています。記年銘は確認できませんが、15世紀前半(室町時代中期)の作と考えられます。

あとは、出発地点へと戻ります。最初に曽呂の名の由来をお話しましたが、お寺はまだまだあります。今回は、4カ所ですが、曽呂川を挟んだ場所にも多くあります。無住の所も多いのですが・・・・地元の方の話では、戦時中、お寺を借りて疎開していた人も居たそうです。新緑を楽しみながら、無事に終わりました。

月イチツアー「新・旧加茂坂」報告

新年度が始まりました。新年度一発目は4月14日のお散歩ツアーを予定しておりましたが大雨で中止となり、さい先の悪いスタートとなってしまいました(汗)新型コロナウィルス感染症の先行きがまだ不安ですが、安房地域でもワクチンの接種が始まりましたので、少し兆しが見えてきたような・・・でも油断は禁物です。ワクチン接種しても感染したという方もいたみたいで・・・マスク着用は必須なんでしょうね。

さて、4月24日に「新・旧加茂坂」を開催いたしました。当日は、天気が良くてよかったです。っと言ってもこれを書いている私は、腰痛&股関節痛で距離を歩く事が出来ない状態でして・・・写真はガイドの庄司さんに撮ってきてもらいました。

出発地点は、日運寺からです。

日蓮宗の寺院で、本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗の説も)の小堂でしたが、文永元年(1264)日蓮聖人が鎌倉から小湊に帰る途中、この堂に止宿したことが縁で、当時の住職が日蓮の門下に改宗したそうです。約300年後、里見の重臣正木時通と弟・頼忠は村の押本右京亮と図り、元亀2年(1571)に勝栄坊を再興、勝栄山日運寺としました。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大旦那として主君里見義頼に願い出て寺領を寄進、その後徳川幕府からも寺領10石の御朱印を賜っています。
大正12年(1923)の大震災では本堂など倒壊焼失し、昭和12年(1937)に現本堂ぞ造営しました。昭和56年(1981)に日蓮聖人七百遠忌記念事業として、仁王門の屋根改修、七面堂再建などを行いました。昭和45年(1970)には2万株のあじさいが境内に植樹され、房州のあじさい寺と呼ばれるようになりました。

日運寺の境内に、正木時通・頼忠の墓があります。

勝浦城主正木時通は、元亀元年(1570)戦いに敗れて伊豆の寺に蟄居、数ヶ月後に出家帰房して日運寺を開き中興の祖になったといいます。天正3年(1575)没。墓は宝篋印塔で第7世日性が建てたものです。
頼忠は時通の弟で、時通死後の勝浦城主です。加茂村の所領から寺領を寄進しました。徳川家康の側室で水戸・紀州両徳川家の生母お万の方の父です。元和8年(1622)没。笠塔婆の墓が寛文2年に建てられました。南房総市指定文化財になっています。

少し上の方に行くと日艦上人入定窟があります。

第18世日鑑は、現在の館山市広瀬の出身で、住職として29年間在職していました。寛政3年(1791)に、光格天皇皇后の病気平癒の祈願のため上洛して導師をつとめ、その功で幕府から10万石の格式を与えられました。また、、天明5年(1785)夏の旱魃で村人が困り、上人は21日間の雨乞祈願をし、村人をすくいました。晩年には窟に断食入定し、文化5年(1808)入滅しました。
入定窟は、南房総市指定文化財です。中には石造武人像などが安置され、昔は清正公ヤグラと呼ばれていたといいます。

その後、ひょうたん淵地蔵の前を通り春光寺へ
ひょうたん淵地蔵

日本全国の廻国巡礼をしていた河内国蚊谷振郷(大阪府八尾市)の安蔵という人の廻国供養塔です。巡礼の途中、ここの瓢箪淵に落ちて死んでしまったと伝えられています。嘉永5年(1852)のものです。
この道は、加茂坂を越える旧道で、幕末の馬頭観音も並んでいます。岩肌には穴があり、昭和30年代ごろまで牛をつないでいたものだそうです。

春光寺です。

曹洞宗の寺院で、北条藩主の初代屋代忠正が室の昌泉院の供養のために承応3年(1654)に建てたと言われていますが、中世の宝篋印塔が数基分ありますので、それ以前からあった寺のようだと思われます。屋代家三代(忠正・忠興・忠位)の菩提を弔っています。

春光寺の裏山の明星山が戦国時代の城跡と伝えられ、鎌倉時代の多々良庄(富浦町)のご家人多々良氏の子孫である薦野氏の居城とされています。戦国時代、薦野神五郎時盛の娘が里見義弘の側室となって頼俊を生み、頼俊は薦野家を継いで、慶長年間は里見一門として、竹原を中心に2500石を知行しました。明星山城は内房と外房をつなぐ道を管理する役割があったと考えられています。

相賀地蔵堂前を通り、いよいよ旧加茂坂へとはいっていきます。
途中には、トーチカが残されています。

浅間山トーチカ


大峯山トーチカと横穴

この辺は加茂坂陣地といわれています。通称「旗立山」の三角点の下に昭和19年本土決戦にむけて、千倉白子海岸、館山鏡ケ浦よりの米軍上陸に備えて、陸軍東京湾兵団の地下陣地が始まりました。監視所や作戦室、垂直壕を備えた地下壕は、迷路のような通路で結ばれていて、入口も爆風除けの小山で隠されています。
トーチカはロシア語で、鉄筋コンクリート製の防御陣地を示す軍事用語です。

旧加茂坂を抜けて、日運寺まで戻ります。

お散歩ツアー「鋸南・吉浜・大六地区の歴史探訪」報告

ご無沙汰しちゃっています。もう更新しないまま新年度に入ってしまいました。
春から初夏な感じの陽気になってきました。緊急事態宣言が出てたりしていて、なかなか外に出る機会がなくなってしまって春の
楽しみのフキノトウの天ぷらも食べられなくなってしまいました。
新型コロナウィルスの影響で、昨年度は主催のウォーキングツアーの中止や、修学旅行・一般団体の受入も中止となってしまていて・・・継続するのも大変ですが、今年度のウォーキングツアーの予定が出来ましたので、今年度もよろしくお願いします。

本当に遅くなってしまいましたが、3月11日のお散歩ツアー「鋸南・吉浜・大六地区の歴史探訪」を開催しましたのでご報告いたします。

集合場所の道の駅きょなんから吉浜神社へ向かいます。

祭神は、天照大神と八幡神。妙本寺の守護神としてきた面を護る神社で、建武2年(1335)に第六天神社と共に創建されました。保田の合同例祭には、大杉の山車で出祭します。大杉様と呼ばれ航海の神、豊漁の神として漁民の信仰を集めて関東に広まりました。航海安全、大漁祈願、疱瘡除けを願い杉の木に飾りを付け曳きまわします。

次に妙本寺へ。
国道127号沿いにある大門跡を通り、少し行くと吉浜小学校跡があります。

昭和42年(1967)まで吉浜小学校がありました。開校は明治7年(1874)で、明治20年に跡地碑の建つ場所に校舎が新設されました。それまでは、妙本寺客殿続きの学寮が校舎として使われ、疎開児童の像か塔頭の久円坊、山本坊、西の坊の一部も校舎として使われました。昭和42年に保田小学校と統合され、吉浜小学校の93年の歴史は幕を閉じました。

少し行くと踏切と吉浜隧道があります。

木更津以南北条までの北条線が、明治45年(1912)に測量開始され、7年の歳月を経て、大正8年(1919)5月24日に全区間のかいつをしました。浜金谷~安房勝山間の開通は対象6年のこと。鉄路と延長131.770mの吉浜隧道が竣工しました。

妙本寺です。

日蓮宗富士門流の本山。本尊は十界曼荼羅。江戸時代には日向国(宮崎県)27か寺をはじめ40か寺の末寺があったといいます。日郷上人が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮聖人の誕生の地を慕って房州に下ると、房州保田の地頭佐々宇左衛門尉から寺地の寄進を受け、建武2年(1335)にここに開創したものです。背hン獄時代に小田原北条氏と対立した頃には、里見氏に城砦として寺地を提供し、対北条氏との戦いにおいて最前線基地になっていたと、里見氏の古文書などから明らかにされています。岸辺に突き出した山の上は、太鼓打ち場と呼ばれています。里見氏からは51石余の寺領を受け、その後徳川家から50石余の寺領を与えられ保護されてきました。

本堂を通り墓地の奥に行くと中世の石造宝塔2基があります。

開基檀那の佐々宇左衛門尉夫婦の墓と言われてる14世紀終わりから15世紀初めの室町時代初期の様式を持つ宝塔です。
仏崎で海中に沈んだ後に海から引き揚げられ、近くの万灯塚に安置後、現在の場所に移されたといいます。また、別の場所にあった開山日郷上人の供養塔との説もあるそうです。

客殿には、鋸南町指定文化財の向拝彫刻があります。

客殿は、江戸時代末の元治元年(1864)に造営されました。向拝の龍と蟇股の彫刻は、後藤利兵橘義光の作で、邪鬼・獅子鼻等の貯穀は伊丹喜内の作です。また天井画の孔雀は渡辺雲洋の作といわれています。

次は第六天神社へ

妙本寺の南面で仏教を守護する神社です。創建は吉浜神社と同じ建武2年(1335)の創建。第六天欲界の王「他外自在天」を祀っています。御神体は法華経八巻で、神道であっても南無妙法蓮華経と唱えます。
大六の地名は第六天から来ているそうです。ウォーキング当日は、おさるさんが木の上から見ていました。

次は二柱神社へ。

二柱御霊宮と呼び、イザナミ・イザナギを祀っています。鉄道建設の折、発破で社殿が破壊され現在地に還座しました。

次は竜島神明神社へ。

祭神は天照大御神。竜島の村社。源頼朝が上陸した後、神社で神主・村人から接待を受け、ここから安西景益に手紙をしたため上総広常の元へと出立します。多くの兵が左右から加勢に駆け付けるようにと祈願し神主に左右加(そうか)の名を与えました。

次は、源頼朝上陸地へ。

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、現在の真鶴岬から小舟で安房国へ逃れてきました。安房国に逃れて来た時に頼朝が上陸した場所です。

後は、出発地点へと戻ります。
途中の海がとてもきれいでした。

飛び込みたくなりますね。

次回は、新年度になります。なるべく更新していきますので、どうぞよろしくお願いします。

月イチツアー「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」報告

寒かったり、暖かかったり、気温の差が大きくて体調を崩しそうな気候ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
新型コロナウィルスの感染状況により、色々と制限が出ていて困ったものです。

緊急事態宣言が出る前に、昨年予定していて、大風&雨で途中まで行ったコース「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」」を再度開催しました。本来ならば、1月にアップしているはずだったのですが・・・今見たら、アップされてなかったので、ビックリです。

昨年、報告した続きから今回は書いて行きます。
昨年の分は、↓をご覧ください。
月イチツアー「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」」報告

今年は、沼蓮寺さんも新型コロナウィルス感染対策としてご接待を中止されていましたが、その代わりにお札を頂けました。ありがとうございます。因みに、私は、今年も達磨を授かってきました。昨年は金運の黄色で、今年は万能の紫にしました。

沼蓮寺&八幡神社を後にして、次に向かったのは八雲神社です。

祭神は須佐之男命。創建年暦は不詳ですが、慶長19年(1614)に再建されたと伝えられています。社前には文化元年(1804)の石灯籠と文化5年(1822)の狛犬があります。厨子の象鼻・龍の彫物があり、龍の彫刻の裏には「彫工 長サ下打墨住 武志氏 信由作」の銘があります。明和7年(1770)頃の作です。

八雲神社から次の八幡神社に向かう途中、牛年だけに牛舎をみながら進んで行きますと、切割りの所に素敵な青面金剛があります。

安政7年の物です。

八幡神社です。

祭神は誉田別命。寛文元年(1661)、東条藩主西郷若狭守の時、神田として3畝歩免ぜられました。寛文3年(1663)に社殿を改築、正徳元年(1711)拝殿造営、享保2年(1717)本殿建立し、安永3年(1774)本殿内宮修築、慶応2年(1866)社殿改修、明治35年(1902)に修理、明治37年(1904)参籠殿改築と、修繕・改築などを繰り返し現在に至ります。
拝殿向拝の獅子の彫刻は後藤義光作で、左柱の獅子には「彫工後藤義光」、右柱の獅子には、「彫工後藤利兵衛橘義光」の銘があります。拝殿正面の社号額は、後藤喜三郎義信の作です。社殿内には、社宝として三番叟の面があり、かつて例祭日に三番叟の舞が奉納され、大勢の人でにぎわったといいます。

次は、和田氏屋敷跡へ

和田ヶ崎にある高台の畑をムカイヤシキといいます。和田一族の古い屋敷があったそうです。何十年か前に刀がでたことがあります。一画には通性の五輪塔があります。
豊田村誌には、大聖寺と和田氏の関係について書いてあります。「安政年間松平肥後守の代官石岡喜左衛門・赤塚常之助・三澤吉次郎等により永代護摩料を寄進す。抑々当山観音堂に安置せる胎中観音は和田義盛戦場に臨む毎に護身仏として身辺を離さざりしと云う二寸の金像なり。蓋し義盛戦利非ずして安房に来たり時齎す所ならん。且其常に愛用せしと云う盃及横笛を和田伊右衛門の家に伝ふ。外に和田を姓とするもの9戸あり。義盛後裔なりと称す。附近の和田﨑となづくる耕地より腐食せる太刀薙刀及古塔を発掘したることあり。今に和田一類にては畑にモロコシを植えず。植えれば必ず不祥ありとの口碑を信ずるによる。蓋し和田義盛北条氏と戦ひて一敗地に塗れ一族鎌倉諸越ヶ原に滅亡す。蜀沗(もろこし)、諸越両音相通ずるが故なるべし。」とあります。

次は大聖寺へ。

真言宗智山派の寺院で創建は明らかではないですが、和田助右衛門の開創と伝えられています。その後暦応3年(1340)悦翁誾和尚が再興し、享保6年(1721)四国の行者松岸道寿なる者が供養仏を勧請したと言われています。
年代は明らかではないのですが、境内地東方の山麓に本堂に相対して観音堂を新築し十一面観世音菩薩を祀りました。この本尊十一面観世音の胎中には、高さ5㎝ほどの小観音像が納められています。
和田一族は、かつて大聖寺の檀家であって、当山を護持してしていましたが、いかなる理由か今では全戸が離檀し、慈雲寺の檀家となっています。

少し和田義盛を紹介しますと・・・
相模の豪族、三浦義明の孫にあたり義宗の子です。三浦氏は、三浦半島和田に居住したことから和田の姓を名乗っていました。義盛は剛勇多力で弓の名人だったといいます。源頼朝が石橋山に兵をあげた時、頼朝に味方し畠山重忠と戦いましたが敗れ、夜陰に乗じて安房に逃れ岩糸に住んだといいます。頼朝の鎌倉幕府創設後は、数々の戦功により侍所別当の要職に就き権勢をふるっていました。頼朝の死後、建保元年(1213)陰謀があったとして一族が逮捕されたことから端を発し、同年5月蜂起し幕府にせまったが多勢に無勢、和田一族はついに敗北し、じりじり追い詰められ、鎌倉諸越が原にて全滅しました。(和田合戦)
現在、岩糸には和田姓を名乗る家が10軒ありますが、和田義盛の後裔であると称され、付近に小字「和田ヶ崎」の地名が現存しています。

観音堂跡地をみて、赤道?峠道?を通って次へ向かいます。

孝子高梨金右衛門碑です。
碑文は、恩田城山の撰によるものです。高さ275㎝ 幅64㎝。
簡単に説明しますと、金右衛門さんのお父さんは全身不随でした。金右衛門さんは農業と余暇の時に古銅鉄を行商していました。家業に出ている時にも父を思い途中より家に帰り安否を確認し再び家業に就くなど、お父さんに看病に尽くしていたそうです。時の領主から賞され、後に松平下総守からも夫婦の善行を賞されました。
孝子の碑は、安房地域に結構あるような気がします。

後は、出発地点へと戻ります。

緊急事態宣言により、1月の月イチツアーから2月までウォーキングツアーは中止しております。楽しみにしていただいた皆様には、申し訳ありません。倶楽部としても苦渋の選択でした。早く、良い方向になるといいです。

月イチツアー「鋸南保田を歩く」報告

新しい年になり、数日たってしましました。書いている私が、喪中の為、新年のご挨拶はご遠慮させていただきます。
昨年は、新型コロナウィルスで1年振り回され、昨年暮れから感染者数が大変な状況で、緊急事態宣言が出てしまいました。
安房地域も感染者が多く出てしまいましたので、仕事以外の不要不急の外出しないようにしたいと思います。

さて、昨年最後の月イチツアー「鋸南保田を歩く」を開催しましたので報告します。
出発場所は、道の駅「保田小学校」の第二駐車場からです。
最初に訪れたのは、鶴ケ浜八幡神社。

祭神は誉田別尊(応神天皇)創建は延元4年(1339)以前と推測されています。
棟札は、江戸時代初期の慶長11年(1606)、杉板製墨書で、頂部は山形、中世後期の特徴を備えています。町有形文化財に指定されています。

次に向かうのは、信福寺。

安房国札所第9番の寺院です。保田川から約400mのコンクリートの坂道をあがり、39段の階段を上るとお堂があります。結構キツイ坂道ですが、途中、木の間から見える富士山は素晴らしいです。
曹洞宗の寺院で、本尊は如意輪観世音。平安時代の天安年間(857~859)に、慈覚大師が草創したと言われています。戦国時代の弘治元年(1555)に野火の災いに遭い、寛文9年(1699)から同13年にかけて、観音堂を再興したといわれています。如意輪観音菩薩挫創は、延宝元年(1673)、京仏師を招いて再興したとのことです。御詠歌は「しんぷく寺、のぼりて岸を ながむれば ほたのかわせに たつは白波」です。
本尊の如意輪観音は、別名「子授け観音」と呼ばれ、かつては京浜地方からも参拝者がありました。また、約30km内の酪農家が競って参拝していたそうです。

観音堂の格天井には、県内で稀な「算木」の絵があります。

境内には、正和5年(1316)建立の、武蔵式板石塔婆が建てられています。(町有形文化財指定)

典型的な武蔵式(関東型)の梵字板碑で、頭部は山形、その下に二条線を刻み、身部の枠線内に大きく薬研彫によるキリーク(弥陀)、一段低く右にサ(観音)、左にサク(勢至)の両脇侍を配するもので、この弥陀3尊を蓮台上に刻んでいます。安房地方では珍しいものとされ、秩父産の緑泥片岩を加工して作られているため、青い色をしているのが特徴です。紀年は諸説に分かれますが、昭和43年夏、再鑑定の結果、碑の刑場から見て、鎌倉末期のもので、一応、正和5年(1316)丙辰と推定されました。鎌倉武士の信仰と深い関わりがあるとされています。残念ながら身部は二つに割れていますが、昭和53年にブロック製の鞘に納めて建て直しました。

また、境内には子を抱く高さ43cmの石仏もあります。

お堂下の木の間から富士山を見る事ができます。

山を下り、次は、存林寺へ向かいますが、途中、紫花山荘の説明を。(撮影中だったので、近くまで行けませんでした。)
(赤い屋根です。)
この地はかつて、相対性理論のアインシュタインの弟子であり、アララギ派の歌人であった石原純と美貌の女流歌人原阿佐緒が駆け落ちし、ここに新居を建てて暮らしたところです。
大正10年(1921)10月、保田神社前にあった旅館「松音楼」で半年自炊、大正11年5月に保田小学校裏山に新居「愛日荘(紫花山房=原が名付けた)」を建設しました。この二人の関係は、当時「恋愛事件」としてセンセーショナル的に新聞紙上をに賑わせました。しかし二人の生活は、日に日にギクシャクしたといわれ、昭和3年(1928)に原は、石原に無断で保田を去り、実感の宮床村(宮城県大和町宮床)に帰っていきました。7年間続いた石原と原の保田での生活は終わり、再び顔を合わすことはありませんでした。
現在は、別の片が土地を購入し、建物は昭和44年(1969)に取り壊され、新たに貸山荘を建て、その屋根には愛日荘の屋根瓦を使用しています。

次は、存林寺へ。

曹洞宗の寺院で本尊は釈迦牟尼仏。
元和7年(1621)4月、日本寺に属する院坊で修行した鶴庵存林上座が創立したと伝わっています。もとは鋸山西麓の寺坂にあり、天福寺と称しましたが、江戸初期の慶長15年(1610)現在地に移り亀福山存林寺に改称しました。寛政6年(1794)に火災に遭いましたが、同9年に本堂が再建するも、大正12年の大震災で崩壊、昭和42年、内陣を鉄筋コンクリート、屋根を銅板葺その他大改修しました。
法堂の格天井の墨絵「十六羅漢図」は往時のもので狩野派の筆法で、法堂須弥壇の彫刻は武志伊八郎信由作で、正面が「波と兎図」、両側面が「波と宝珠図」です。火災除けに験ありとされた波と兎の取り合わせで、本堂再建時のものだとすると、寛政9年、信由46歳の時の作です。

境内には、武田石翁の墓があります。

武田石翁は、江戸時代中期から後期の石仏・狛犬・根付の石工で、旧本織村に生まれ、元名村の石工の小瀧勘蔵に弟子入りし、見込まれて婿養子となりました。この墓も自ら彫ったものです。

次は、汐止橋へ。

汐止橋は、明治28年(1895)3月竣工、元名川に架設された橋長13.4m、橋幅3.7mで、地元保田石を使ったアーチ橋です。アーチの外壁石(スパンドレル部)は、方形に成形した大きな石を、目が横に通るように四重に積み上げており、スパンドレル部は布積みになっています。布積みは、水面に対して兵工に積まれますが、この橋は各切石がアーチリングに向かって斜めに積まれる珍しい方法で造られ、アーチリングの石は、直方体のように横長の石が用いられ、これらは非常に特徴的です。
平成21年(2009)11月1日、アーチを形成する切り石の積み方や形状が特徴で、技術・意匠の面も高いレベルであることや、使用されている石が地元産(房州石)など、地域性に優れているとして、土木学会から土木遺産に認定されました。

次は、鶴ヶ崎神社へ。

祭神は、譽田別命(応神天皇)。通称八幡神で、源氏の氏神でもあります。江戸時代初期に、元名村名主岩崎家が屋敷内に祀り、のちに村持ちになったと伝わっています。
御神体は、天明年間(1781~1788)大野英令が、伊豆石を用い、刀を帯び右手に弓を持った高さ60cmの彩色坐像です。

拝殿には、大絵馬源義経弓流し図があります。

桐板製、屋根形作り、縦137.5㎝、横166.5㎝。源平合戦中、屋島の戦いで、海中に乗り入れた馬上の源義経が、合戦中に落とした弓を鞭でかき寄せている義経弓流しの場面を描いた大絵馬です。義経の姿を見た家来が、「そんな弓は捨て置いて下さい」と言うと、義経は「私は弓が惜しくて拾っているのではない。この弓が敵方に渡り、こんなひ弱な弓が、源氏の総大将の弓か、と嘲笑されるのがいやで、かき集めているのだ」と言ったそうです。
この図は石仏師 大野英令の画です。大野英令は、上総桜井(木更津市)の名匠で、江戸後期の安永9年(1780)日本寺曹洞第9世の高雅愚伝禅師の発願によって、寛政10年(1798)の死に至るまで、門下と共に鋸山の羅漢像の造立に携わりました。
この大絵馬は英令最晩年の作であり、また現存する唯一の絵馬と考えられます。

海岸に出て昼食をとり、次は房州海水浴場発祥の碑へ。

夏目漱石が明治22年(1889)8月7日、満22歳の時に学友ら4人と房州を旅した際、保田に10日間滞在し水泳を楽しんだことを記念して昭和61年(1986)に建立しました。詩人西条八十も早稲田中学校時代に保田にたびたび避暑に訪れ、海水浴を楽しんだ浜であり、保田でお幸という少女に出会い、童謡「かなりや」を創作、大正7年(1981)に児童雑誌「赤い鳥」に発表。26歳の八十が世に出るきっかけになった名作、「唄をわすれたかなりや」は彼女がモデルといいます。

次は、別願院へ。

浄土宗の寺院で本尊は来迎院を結ぶ阿弥陀如来立像。通称浜の寺と言い、元和5年(1619)本郷村保田町の住人が霊巌上人に願って造立したと伝わっています。

境内には、菱川師宣の墓があります。

この地域では半檀家制があり、檀那寺は他寺であっても、墓はここに置く風習があり、菱川家もその例です。
菱川師宣の忌日は長い間不明でしたが、妹オカマの嫁ぎ先である勝善寺(南房総市二部)、江戸で葬儀が行われた浅草誓願寺の支院徳寿院、保田の菱川家の菩提寺である昌龍寺(鋸南保田)など関係寺院の過去帳の発見により、元禄7年(1694)6月4日、戒名「勝誉即友居士」と判明しました。江戸で没した師宣は、故郷保田の別願院に遺骨が移され、墓石が建てられたと思われますが、死後9年後に起こった元禄の大地震の大津波により房総沿岸は大打撃を受け、別願院も流失、当時の記録も墓石も失われてしまったそうです。現在の墓石は、白御影の墓碑は、昭和2年、東京の井上書店主らによって建てられ、中央の仏像型の墓碑は平成5年、師宣三百回忌に子孫の菱川岩吉氏らによって建てられました。
亡くなる直前の、元禄7年5月、親族の追善供養のため、別願院に梵鐘を寄進しました。残念ながらその梵鐘は、太平洋戦争の際、供出させられてしまいましたが、鐘楼跡の基壇は残っています。

また、元禄海嘯菩提地蔵尊があります。

元禄16年(1703)10月23日午前2時頃、房総半島沖を震源地とする大地震が発生しました。地震により発生した海嘯(津波)で、東京湾や九十九里海岸を始め、関東各地は甚大な被害を受けました。ここ保田地区でも、319人の方が亡くなられ、別願院に埋葬されました。この津波により、本堂が流失し、師宣を含む多くの墓石が海底に沈んだと伝えられています。津波罹災者追福の為、茅葺の地蔵堂が建てられましたが、これも流失や焼失が重なり、その後犠牲者を合祀した石仏地蔵となり、「元禄海嘯菩提地蔵尊」と名付けられました。現在のお地蔵様は、明治期に寄進されたものです。また、このお地蔵様は地元住民からは、霊験あらたかな「いぼとり地蔵さん」としても長い間親しまれています。

次にむかったのは、菱川師宣誕生地。

菱川師宣は、縫箔刺繍業の父吉左衛門と母オタマの間7人兄弟の第4子長男として誕生。正ねんは不詳ですが寛永中期(1630年頃)と推定されています。家業を手伝うかたわら、独学で画技を磨きました。その後、江戸に出て延宝~元禄初期(1673~1694)、版画絵師として活躍。当時は一部の人々しか鑑賞できなかった絵画を、木版画により広く庶民に普及させた事で評価されました。
また、庶民風俗を題材とした新しい絵画様式「浮世絵」を確立。師宣の描く美人画は、当時「菱川ようの吾妻おもかげ」と世にもてはやされました。
ちなみに、師宣の父は、京都から移住した縫箔師で、道茂入道光竹と号しました。師宣の長男諸房も浮世絵師です。

次は保田神社へ。

祭神は大和武尊。天文4年(1535)創始。
保田の海中から上がった神鏡を日本武尊の御霊として、桜の馬場と言われていたこの地に祀ったのが始まりと言われています。
古くは八所御霊宮としょうしましたが、明治になり保田神社と改称されました。

境内には、自衛隊空挺レンジャー部隊発祥の地碑があります。

昭和33年、この地で空挺レンジャー教育が開始されました。ここが、教育適地の中心地であったことや、当時の神社氏子が快く境内を提供したことによるそうです。碑は、平成5年に鋸南町・中道台区・レンジャー終了者有志によって建てられたものです。

道路は挟んで反対側の観音寺へ。

本尊は聖観世音菩薩です。
里見義実が安房一円を巡回の折、鋸山を展望し、霊山なるを知り、麓に一宇を建立した記念願を起こされ、文明3年(1471)6月17日義実結縁の為の祈願所として、ここに本尊として聖観世音菩薩を安置させました。この仏像は、新田義貞より譲り受けたもので、弘法大師の作と伝えれれています。その当時は真言宗の寺院でしたが、現在は曹洞宗昌竜寺の境外仏堂となりました。
第二次大戦のときは本堂が茅葺だったため、空襲の被害を避ける目的で解体、現在のお堂は昭和30年に新築され、令和元年の台風により甚大hな被害を受け、令和2年大規模修理が行われました。
堂内の象鼻と獅子鼻の彫刻は初代武志伊八郎の作品です。
観音寺は、安房国札観音霊場の番外札所になっていて、番外になった理由として、観音霊場決定の集まりに遅れたからという「朝寝の観音」伝説が伝えられています。

境内には、力士・雲ノ戸重右衛門という力士の墓があります。

享保年間の頃、この地で相撲の興業があったとき、力士・雲ノ戸が開いての滝見山に逆手で投げ殺されてしまいました。のちに雲ノ戸の息子・桂川力蔵が、苦心惨憺の末に滝見山を土俵の上で討ち果たし、仇討を遂げたといわれています。

崇徳院へ。

曹洞宗の寺院で本尊は聖観世音菩薩坐像。寛文元年(1661)に開創。昭和26年豊山和尚が郡内に先駆けて、魚供養の行事をし、以来、朝夕これに用いたアワビをたたいて供養したので、一時は「アワビの寺」と親しまれたといいます。
保田小学の始めでもあります。

西門は、房州石で造られたアーチ門があります。

なかなか風情のある門です。

次は、大行寺へ。

日蓮宗の寺院で、本尊は十界勧清の曼荼羅。応永16年(1409)11月に開基。
現在の本殿は、文政5年(1822)再建、昭和12年(1937)に庫裡を新築。同37年本堂を瓦葺に改修しました。
本堂の欄間の「波と龍」は天明13年(1783)武志伊八郎信由32歳の作です。

大行寺には、江戸時代後期の俳人小林一茶が訪れた寺でもあります。一茶はたびたび房総を訪れています。保田では、同門の元名村名主、岩崎善右衛門(俳号児石)のもとへ泊りましたが、文化9年(1811)児石が亡くなってからは、保田での宿は大行寺でした。文化12年11月29日と文化14年4月27日の2回、大行寺に泊まっています。この時、一茶は住職の願いで、直筆の短冊を大行寺に残しました。「身の上の鐘としりつつ夕涼み 一茶」これば故郷の信州で詠んだ句です。当時、一茶の句としてしられていた名句なので、この寺に残したものかもしれません。

小林一茶は、房総の門下の葛飾派の人たちをたずねて、鋸南にも多く訪ねてきています。元名の名主、岩崎児石や勝山の名主、醍醐新兵衛の家を訪ね、句会を開いたりしていました。日記によると、一茶はかなり好奇心が強かったようで、珍しい樹木が実をつけたという噂で見にでかけたり、鯨漁の見学をしたりしています。
存林寺には、文化11年(1814)10月8日に児石のお墓参りをしています。

最後は、日枝神社へ寄り、出発地点へともどります。

鋸南町保田地域は、道の駅保田小学校がお客詮でいっぱいですが、そこだけでなく、少し歩いてみると色々な歴史があります。是非、歩いてみて下さい。(緊急事態宣言が解除になったらですけど・・・)