お散歩ツアー「幻の波太富士に登ろう」報告

今年もあと数日になってしまいました。
また旅倶楽部の1年を振り返ってみると、雨の心配が多かった1年だったような・・・
そんな1年でした。

さて、今年最後のツアー お散歩ツアー「幻の波太富士に登ろう」を開催しましたので、
報告です。この日は、とても良い天気で、ウォーキング日和でした。
出発は、鴨川市の魚見塚一戦場公園。
この公園は、嶺岡牧の東端の位置にあり自然を活かしてつくられた公園です。その昔、
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房に逃れて来た時に、この場所で地元の豪族長狭六郎
常伴との戦いに勝ち天下取りの足掛かりを作ったという暦の残る場所です。

高台にある一戦場公園から下って行きます。途中に、波太富士が見えます。

ちょっと逆光になってて分かりづらいですが、少し富士山の形に見えるかと・・・

もう少し下に降りて、採石場だった所へと。現在は採石は行っていませんが、私有地なの
で、お断わりして中に入らせてもらいました。
敷地に残されていた岩。これが枕状溶岩と呼ばれるものです。

この枕状溶岩は、太平洋の海底火山から噴出したものが、大平洋プレートに乗って房総半島まで
移動したものです。マグマが水中(海底)に放出される際に、急速に冷やされて枕状(俵状)
になった火成岩を言います。中心部から放射状に節理(割れ目)ができるのが特徴です。

因みに、鴨川の枕状溶岩は県指定天然記念物になっていて、鴨川青年の家敷地内にあります。
鴨川青年の家周辺はすべて枕状溶岩もしくはその類似した岩塊に覆われていて指定地位はその
一部で、鴨川青年の家の下方の海岸にありますが、解説板や碑は青年の家入り口に設置されています。

さて、いよいよ波太富士に登って行きます。

古い文章によると、「弁天島という弧島から見ると、前面に高い磯山がある。名前は「波太富士」
という。」という文書が残されています。また明治時代の迅速図をみると、大きな岩塊に覆われて
います。その様子は、安井曾太郎氏の描いた「外房風景」に残されています。
昭和7・8年頃から採石が行われ、「波太富士」が削られ昭和40年代に西尾根の大部分が切崩さ
れ、東側も「県立鴨川青年の家」の建築の際に崩されてしまいました。

登って行きますと、途中に石像物があります。

木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)の石像物です。
神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬で出会い求婚されます。
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出しましたが、ニニギノミコト
は醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナサクヤヒメとだけ結婚しました。オオヤマツミ
はこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子の
命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄す
るだろうと誓約を立てたからである。コノハナサクヤヒメだけと結婚すれば、天津神の御子の命
は木の花のようにはかなくなるだとう」と告げました。
コノハナサクヤヒメは一夜で身篭りますが、ニニギは国津神の子ではないかと疑いました。疑い
を晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事
に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ・ホスセリ・ホオリの三柱の子を産みました。
ホオリの孫が初代天皇の神武天皇です。
っという神話があります。

足場の悪い所を登っていきますと頂上付近には、浅間講の大きな石宮があります。

なかな立派な石宮です。かつては、大勢の人々の信仰があったと感じられます。

少しだけ登ってみると一番高いところへと行けますが、登りきった場所がもう崖になっているの
で恐る恐る覗いてみると、素晴らし景色がみられます。

鴨川松島と言われる場所が、バッチリ見る事ができます。
鴨川松島は、荒島・弁天島・鵜島・雀島・波濤根島・猪貝島・海獺島の大小7つの島が点在して
います。島々から昇る朝日の被写体は、写真愛好家の王道を極めるといいます。
波太富士の頂上からは、朝日を撮るには、足元が悪いので難しいと思いますので、八岡海岸から
なら安全です。

来た道を戻って帰りますが、これがまた足場が良くないので神経を使いなが降りていきます。

来た道に戻り、波太富士の崩された壁を見にいきます。

ここでロッククライミングが出来るそうです。

あとは、少し坂道を登って一戦場公園へ。お疲れ様でした。
今回、ご紹介したお散歩ツアーのコースの一部は、私有地が含まれていて、許可を頂き通らせて
もらいましたことを、お話ししておきます。

2017年、つたない文章にお付き合いいただきありがとうございます。
来年も頑張っていこうと思いますので、是非、また旅倶楽部のウォーキングツアーにご参加いただき、
地域の歴史や文化を感じていただければと思います。来年もどうぞよろしくお願いします。
皆さま、良いお年を・・・

月イチツアー「二部・仏谷の伝承を訪ねる」報告

もう1年が終わろうとしています。館山・南房総では、寒くなり西風の吹く時期に
なりまいた。いつも穏やかな鏡ケ浦も、西風が吹くと白波が立ち、海岸線は砂が飛
んできます。結構やっかいなんですが、富士山の景色を楽しむにはもってこいの季
節です。寒さと風に負けずに、景色を楽しんでみては・・・

そんな師走に月イチツアー「二部・仏谷の伝承を訪ねる」を開催しました。
当日は、絶好のウォーキング日和でした。
出発地は、南房総市の道の駅富楽里。こちらの道の駅は、オープン前からお客様が
並んで、開店を待っていました。

まず最初に向かったのは、松尾神社。

祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。「松尾さま」の愛称で全国的に崇められる
酒づくりの神様です。

この日は、イチョウの葉が境内に落ちていて綺麗でした。

次に向かったのが、仏谷にある勝善寺。
本堂へと向かう手前の高いところに鐘楼があります。

そこから少し登り坂を行くと、勝善寺があります。

ご住職がお出迎えして下さいました。
勝善寺は、真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像。建久元年(1190)、天台宗の
僧永範が検儀谷原黒石山に一宇を建立し、柳島院(後、龍燈院)と称したことが始ま
りと言われています。元仁元年(1224)、永範は、親鸞聖人に帰依し浄土真宗に改宗し
ました。天正8年(1580)、火災に遭い、検儀谷原腰掛に移り仮堂を建立しましたが、
慶長年間(1596~1615)幕府の命により、二部仏谷に移り東本願寺の末寺になりました。
明治2年(1869)に本堂が火災で焼失しましたが、明治19年(1886)に落慶しました。
その後、明治35年(1902)に向拝を付け加え初代後藤義光の彫刻が施されました。
勝善寺には、江戸時代の浮世絵師、菱川師宣に関する史料が残っています。菱川師宣
過去帳は千葉県有形文化財です。


初代後藤義光晩年の88歳の作品です。義光は明治35年この仕事を終えて没して
います。最後の作品と言われています。

次は、とみやま水仙遊歩道へと向かいます。

スイセンも出荷が始まったみたいです。

遊歩道の頂上には展望台があり、先ほど行った勝善寺の旧跡地です。
景色を楽しみながら、ここで昼食です。

今日のお弁当は、富山地区の青倉商店さんにお願いしました。

いつもお弁当は、開催地でお弁当を頼みます。リュックに入れるので、小さくして欲しいと
無理なお願いをして作ってもらいました。おかずは、地産地消のお弁当です。
参加者からの評判はとても良かったです。
こちらのお惣菜は、道の駅富楽里の2階?にお惣菜屋さんとして出店しています。

お腹もいっぱいになったところで、後半戦へとまいります。
まずは、頂上にある石碑から。

この石碑は、勝善寺のあった場所に建てられているものです。
勝善寺さんのホームページより(訳文)
黒石山勝善寺古址記
此の地は、勝善寺旧址である。勝善寺、本は天台宗に属し僧永範が開基するところである。
謹んで古い記録を調べるてみると、武芸の誉れ高い鎮守府将軍源義家の末孫に又太郎頼綱
子、與次郎昌綱は、信州井上城に居住し、「井上」を氏としていた。昌綱、事情があって
武士身分を去り比叡山に登り僧となり、永範と名のったということである。
永範は多年にわたり諸国をめぐり、建久元年(1190)に安房国検儀谷原黒石山の地を選び、
雑木林や草むらを伐り開き一宇の精舎(寺院)を建立した。これが黒石山龍燈院勝善寺の
始まりである。
元仁元年(1224)に、親鸞聖人が伊豆国から舟で安房国へと渡ろうとした際、つむじ風が
吹き舟が転覆しそうになった。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の六字名号を書いて海に投げ
入れると風波はおさまり舟は安房国龍島に着いた。親鸞聖人は、やがて黒石山勝善寺に
たどり着くと、自ら袈裟を洗って松の木に掛け乾かした。その松の木を「袈裟掛松」と
言う。その時に水を汲んだ井戸を「御手洗井」と言い、今も存在している。
永範は、聖人に帰依し弟子となると、明空と名を改めた。親鸞聖人は、感ずるところが
あって自ら仏谷の竹を截り、阿弥陀仏像を作り、明空に授けた。それが現在は、大勝院
に祀られている「籠阿弥陀如来」である。天正8年(1580)に、本堂が火災に遭い焼失した。
そこで勝善寺は、ふもとの検儀谷腰掛けに移転した。俗に「天正屋敷」と呼ばれていると
ころである。さらに慶長年間(1596~1614)に、幕府の命令で現在地二部村仏谷の地に移転
した。しかし、籠阿弥陀如来は腰掛けに安置し、今も古本尊として崇敬している。
その時以来、黒石山の地は人々から忘れられた、ただ青山は鬱蒼とし灌木が生い茂り、黒
石山上から遠く見渡せば、伊豆国相模国が霞んで見え、海は渺々と果てしなく広がり際無き
が如しである。その木々の梢の下に一つの大石がある。青黒く大きな十余囲ほどある。それ
を「黒石山」と称していす。その石の上に古松がある。曲がりくねった大きな枝は頭の大き
な龍が天に騰がるように見える。それが袈裟掛松である。その東に泉があり、清らかでつや
つやした水が石の割れ目からきらきらと流れ出ている。それが御手洗井である。
同志の者と相談したところ、ここが親鸞聖人の旧跡であると石に刻んで後世に伝えようと、
私に文章は任された。私は開祖明空の法統二十六世を継ぐ者である。七百余年後に生まれ
法門隆盛の時に遇い、さらにこの挙に会う。これ以上の幸せはあるだろうか。そこで文才の
無いことを顧みず勝善寺旧址の概略をここに記した。
明治二十九年(1896)秋九月 勝善寺第二十六世井上弘昌文を作る。
正四位文學博士重野安繹額を書く。榴堂東南家賢て字を書く。本鶴仙字を鐫る。

長い文章でしたが、お付き合いありがとうございました。言い伝えていくための碑でした。

次は、とみやま水仙遊歩道を通り下山し、検儀谷神社へ。
ちょっと見落としてしまいそうな、急な階段を上がります。

上にたどり着く拝殿が見えます。拝殿の天井には、御神輿が乗せられ?ていました。

なんででしょうか?担当のガイドもわからないそうです。
もしこれをご覧になっている地元の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

次は、すぐお隣にある大勝院へ。
本堂の写真を撮り忘れてしまった!!!入口にあるお地蔵様でお許し下さい。

浄土宗の寺院で、山号を本誓山。本尊は阿弥陀如来。
元和2年(1616)、雄譽霊巌上人が開山となり創建されました。本尊の阿弥陀如来は、慶長
14年(1609)、勝善寺が、検儀谷の「峯」と呼ばれる山頂から今の地に移された後、大勝
院に安置されました。昭和20年(1945)までは、秘仏で、盆と正月以外は拝めませんでし
たが、信者の要望により、常時開帳礼拝できるようになりました。仏像としては珍しく、
房州竹で編みこまれているので、籠阿弥陀様と呼ばれています。「籠」は「加護」に通じ、
耳の不自由な人は、この仏様にお参りして錐(キリ)を頂き、快方に向かうと、御礼の志
に新しい錐を添えて、そのご利益奉謝するという民間信仰が昔から伝えられています。

本堂も窓越しですが、拝見させて頂きました。すてきな阿弥陀様です。

さて、出発地点へと戻ります。
今回のコースは彫刻・花・仏様と楽しめるコースです。
ここで紹介していますが、水仙は、農家さんが出荷するために栽培していますので、勝手に
採ったりしないようにしてください。また、神社仏閣は、地域の信仰の場です。ルールを
守ってお参りして下さい。

番外編・リベンジツアー「佐久間ダム」報告

もう師走に入ってしまいました。この間、年賀状の作成したと思っていましたが、また
年賀状を書く時期になってしまいました。この時期は、車もなんだか増えるような感じ
で、上手な運転ではない人が増えてるような気がします。皆さんも、十分気を付けて下
さい。

さて、今回は番外編として、6月に行いましたお散歩ツアー「佐久間ダム」が大雨で
景色を楽しむ事があまりできなかったので、リベンジツアーとして11月30日に
開催しました。今回も、予報では雨予報が出ていて心配しましたが、雨も降らずに開催
する事ができました。

今回のガイドの独り事は、細かい解説は書きませんので、6月に行いました内容を
ご覧下さい。
お散歩ツアー「佐久間ダム」報告 http://matatabiclub.com/?p=4444

というわけですので、写真をちょっと載せておきます。

乙井沢の滝


越の下の滝周辺


越の下の滝から宮田の滝に向かう林道


宮田の滝周辺。イノシシの罠があります。


スイセンの花もちらほら咲きはじめています。歩いていてもスイセンの香がしていました。

もう少しだけ紅葉を楽しむ事ができるんじゃないかな?って思います。
咲きはじめたスイセンを楽しみながらもみじ狩り。林道を歩いて、木々と川からのパワーをもらった
半日でした。是非、年末忙しくなる前に、心と体をリフレッシュしてみてはいかがでしょうか?
今回の独り事は、この辺で・・・・

月イチツアー「津森山・ふるさと峠でリフレッシュ」報告

いやぁ~最近、天気に恵まれてなくて・・・・
9月のお散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」は大雨警報が出て中止、10月の月イチ
ツアー「信仰の里・佐久間を歩く」は台風で中止。(両コースとも来年度にやります)
11月の月イチツアー「津森山・ふるさと峠でリフレッシュ」はツアー前日から雨予報。
予報をチェックして午前中が0.1mm、午後から晴れなので大丈夫と思って、朝起きたら・・・
ザーザー振り。雷も鳴って、予報では小雨だったのに・・・9時から雨が止むという予報にかけて、
現地へと向かうと、だんだんと雲が切れて青空が見えるようになり、無事に開催する事ができました。

集合場所は、平塚区民センター(鴨川市)だったんですが、使えなくなってしまって・・・
ひらつか地域活性化協議会のT氏にご心配いただき、区民センター近くの地主さんにお願いしても
らってお借りする事ができました。ありがたい事です。
ご協力いただいた、「ひらつか地域活性化協議会」の簡単なご紹介を・・・
鴨川市平塚地区の農家さん等の有志で立ち上げた協議会です。にぎわいを呼び込もうと、都市部
からくるハイカーたちに目を付け、地区内にハイキングコースを整備し、おすすめコース3コース
をコース別に色分けした順路標示板を建て、景観や眺望を損ねる雑木などを伐採し、東京湾や富士山、
伊豆大島など一望するビューポイントを整備等の活動をしています。お弁当とかも早めに連絡すると
作ってくれるそうです。毎月第三日曜日(9:00~12:00)には、地元の野菜などの販売をする
朝市を開催しています。

さて、ツアーの報告へと戻ります。
駐車場からまず最初に向かったのは、ぼけ除地蔵。

地蔵盆・地蔵祭・地蔵絵といわれるのは、地蔵菩薩の縁日で毎月24日に行われます。路傍の
お地蔵さんや辻地蔵さんに信仰する風習で、お地蔵尊の廻りに赤い幢が建てられています。

中をのぞいてみると、木彫りのお地蔵様がいらっしゃいました。

お地蔵様に念入りにお参りして、急な坂を上って行きます。

石畑部落へと行くと、里山の景色を見る事ができます。

この景色を見れる場所から少し行くと天竺堂へ。
こちらには、僧侶像墓があります。

次に西禅寺に行くかと思ったのですが、今回は下からのみに。

曹洞宗の寺院で観世音菩薩を安置しています。

西禅寺入口と目と鼻の先に、土砂崩れ現場がありました。

台風等の大雨の影響で、崩れてしまったそうです。もう少しギリギリに行こうかと思いましたが、
ブルーシートが濡れてて、滑りそうで怖かったので安全策をとりました。自然の恐ろしさを知る
事ができました。

上ったり下ったりを繰り返し西畑部落と法明部落の間に光明真言塔があります。

光明真言は、密教系の仏教で唱える言葉です。梵字や陀羅尼を翻訳せずに読誦するのが通例で、23の
梵字から成っています。最後の休止符を加えて24の梵字を連ねています。
これを唱えると、過去・現在・未来の三世が救われると言われ、古来から唱和されてきました。

だんだん津森山へと近づいてきました。法明部落からの景色です。

里山の景色は最高!!です。静かな場所です。

津森山までの道のりは、ほぼ舗装された道です。頂上までは、山の道を10分程度登っていきます。
頂上からの景色は、こんな感じです。

もっと天気が良かったら富士山も見えたんでしょうが・・・三浦半島を見ながら昼食タイムです。

津森山の説明を・・・

古い文献によると積(つもり)山と書かれています。養老2年(718)に安房の国が分国された際、
役人がこの山に登って分界を見積もったことに由来されるといいます。山頂には、木花開耶姫碑・
金毘羅・御嶽碑が建てられています。

津森山を下山し、来た道を少し戻りふるさと峠の方へと下ったり上ったりして行きます。

ちょっと横になっちゃってますが、丸太でできた看板があります。
「ふるさと峠」は、近年、鴨川市の有志によって温もりのある名前が付けられました。かつて近郷
の人々が、見晴らしの良しところの峠に集まって、サツマイモやトウモロコシなどを持ち寄って
団欒を楽しんだといいます。

あとは、下るだけです。

途中、山田組集会所の所にお地蔵さんがいらっしゃいました。

分かりますか?木の根元にお地蔵さんが居るんです。

ひっそりと佇んでいます。
集会所の裏には、墓地があるので、元はお堂だったようです。

あとは、平塚区民センターまで平坦な道を歩いて戻ります。
なんとか天候に恵まれて帰ってくる事ができました。ひらつか地域活性化協議会の方にも
ご協力いただき助かりました。ありがとうございます。

お散歩ツアー「白蛇伝説と蛇喰集落散策」報告

10月も後半になりました。今年も残すところ2か月ちょっとです。
なんだかあっと言う間に、今年も終わりです。
また旅倶楽部では、来年度のコースを考えています。なにか良いコースありますかねぇ~。
あまり険しいコースはダメなんですけどね。お話ししながら笑いながら歩けるコースで、ちょっと
疲れた感のコースがあればメールにて教えて下さい。←わがままですね。

今回は、10月のお散歩ツアー「白蛇伝説と蛇喰(じゃばみ)集落散策」開催いたしました。
長雨になる前に開催したので、当日は晴天に恵まれ、とても良い半日になりました。
集合場所は、南房総市平久里中にあります平群天神社です。ここから、スタートします。

祭神は、藤原道真公、木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)天照大日霎貴命(あまてらす
おおひるめのむちのみこと)、建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
文和2年(1353)室町時代、細川相模守が霊夢により京都北野天神をこの地に勧請しました。天正14年
(1588)里見義頼の命で大工飛騨守家助により本殿が改築され、貞享4年(1678)幣殿拝殿が改築され、さ
らに文化5年(1808)神照寺法印宥弘により再建され、明治6年(1873)郷社となりました。学問の神とし
て広く信仰され、通称天神様と呼ばれ親しまれています。


この狛犬は、武田石翁の作といわれています。神照寺の住職宥弘の時に氏子の寄進によって建立されました。

境内の奥には、安房国札観音霊場第14番、朝日山神照寺の観音堂があります。
ご詠歌は「朝日さす 夕日かがやく 神照寺 たのみをかくる 伊予のゆうだち」です。

創建された時期は不明ですが、天神社が勧請された時、その本地仏である十一面観音菩薩像が安置され、
隣接の神照寺が別当寺になったといいます。明治5年(1872)に廃寺となり、観音堂と十一面観音菩薩は
近くの泉龍寺の管理となりました。

観音堂の前には、光明真言供養塔があります。

天保14年(1843)に神照寺の住職宥弘が、天下泰平・国土安穏と五穀成就・万民豊楽を願って建てたも
のです。境内には、色々な碑が建てられています。

境内から参道に行くと大きなくすの木があります。

このくすの木は、夫婦くすの木といわれ、昭和39年(1964)に南房総市天然記念物に指定されました。
約千年前に住民が植えたものだと言い伝えられ、神社寄りのものは「男木」と呼ばれ幹周4.25m、樹高
25m、もう一本は「女木」と呼ばれ、幹周4.35m、樹高15mで、2本あわせて「夫婦クスノキ」と呼ば
れ御神木となっています。
このくすの木には、天狗の伝説が残されています。せっかくなので紹介します。
昔むかし、天神社の裏山に天狗が棲んでいて、夜な夜な人里に舞い降りては、米や鶏や野菜などを、手
当たりしだい盗み回りました。村人たちは困り、名主と相談してあることをしました。それは、大昔か
ら神社の境内などに生えている巨木には、不思議な力を持った霊が宿っているそうなので、天神社の参
道のクスでも良いだろうと注連飾りを結び、「村の暮らしが穏やかになるよう、天狗を追い出して下さ
い。」と、悪い天狗追放の願を懸けたのです。願懸けの効果はてきめんで、その次の夜から天狗は人里
に姿を現さなくなりました。それからしばらくしてですが、ある満月の夜、名主がクスの所にいきます
と、突然大きな音がして女木の注連飾りが切れ、根回りの一部が裂け、ぽっかり穴が空き、そこから天
狗の形をした白い雲が、天神社の方向へ流れて行ったのです。名主から話を聞いた村人たちは、「その
雲は天狗だ。クスが天狗を懲らしめるために、しばらく幹の中へ閉じ込めておいたんだっぺ」と噂をし
たそうです。いまも女木のクスには幹に大穴があいており、昔のように注連飾りが結ばれています。
(南房総市の昔話より)

次に向かったのは、泉龍寺です。

曹洞宗の寺院で山号を富士山。本尊は釈迦牟尼如来。創建は不詳ですが、元禄年間より以前といわれて
います。神照寺が廃寺になったとき、観音様とお堂の管理を引き継ぎました。

境内には、地蔵菩薩像があります。

優しいお顔の地蔵菩薩です。

いよいよ蛇喰(じゃばみ)集落へと旧道を通って向かいきます。
旧道からは、とても素晴らし眺めを楽しむ事ができました。

のどかな景色です。

蛇喰城跡です。

「房総の古城址めぐり」によると、里見義実が築いた城だといいます。
現在は、民家や田んぼ・畑となっているので耕作地化しているので、城跡といった遺構もわからない
状況となっています。

蛇喰集会所の場所でお題にもなっております、白蛇伝説のお話しを紹介。

平久里下区に「蛇喰(じゃばみ)」と呼ぶ集落があります。その蛇喰の中央にある小高い山の頂に、
むかし、お城がありまして、そこには、たいそう美しく、しかも、心優しいお姫様がおりました。
ある年の秋祭りのことですが、お城のお姫様が氏神様参りをしての帰り道、一匹の白蛇の無惨な死骸
に目をとめたのです。お姫様は、その白蛇の死を哀れみ、城内の高台に蛇塚を建てると、お寺の僧に
お経をあげてもらい、ねんごろに供養しました。そうしますと、お姫様の慈悲深い気持ちがつうじた
のか、お城のまわりにたくさんの蛇が棲みつき、お姫様を禍から守るようになったのです。
蛇喰の集落では、今も大小さまざまの蛇が野山はもちろん、農家の母屋や物置に棲みつき、冬でも暖
かい日には、田畑や路上や家の庭先で見ることができますが、不思議なことに、むかしから蛇に噛ま
れた者は、一人も無いというのです。それは、お城のお姫様に供養された白蛇の霊が、恩返しとして、
後の世の住人たちも守っているからです。(南房総市の昔話より)

民話に残る蛇塚は、ちょっと探す事はできませんでしたが、下見の時に会ったおじいちゃんは、違う
お話をしてました。おじいちゃんは、蛇喰地区に悪い事が起きていたので、安房神社にお参りに行き、
お願いをすると、その夜から蛇喰地区の家の各玄関先に蛇がとぐろを巻いていたそうです。蛇のおか
げで、蛇喰地区で悪い事が起きなくなったそうです。
どちらのお話しも蛇が悪い事を喰うという事で、蛇喰なんでしょうかねぇ~

次にむかったのは、竜泉寺です。
真言宗智山派の寺院で本尊は不動明王。創建は不詳ですが、開山は法印源海となっています。2世法
印頼宥が延宝元年(1673)に81歳で還化しているので、1600年代の開山と推定されます。
現在、本堂は建て替え中ですが、以前の本堂は、廃寺になった神照寺の本堂を明治14年に移築再建
したものでした。

参道から見上げた景色です。脇から道があり本堂へと行けるので、この階段はあまり使われてないん
のか、味がある階段です。

あとは、出発地点へと戻ります。
南房総市の平久里地域には、多くの民話が残されています。伊予ケ岳には天狗伝説などもあり、おも
しろいエリアでした。

10月の月イチツアー「信仰の里・佐久間を歩く」は台風21号接近の為、中止にしました。
来年度、このツアーは開催します。乞うご期待。

月イチツアー「幻の「皆倉」の滝と日本最古の「柱木牧」を訪ねる」報告

すっかりご無沙汰しております。
1ヶ月近く更新をしておりませんで・・・すみません。

今回は、9月の月イチツアー「幻の「皆倉」の滝と日本最古の「柱木牧」を訪ねる」の報告です。
お題が長すぎて、題名もうまく表示されるか心配ではありますが・・・

開催したのは9月10日(日)です。天気に恵まれ暑い位の日でした。当日、私は別件の仕事をして
いましたので、下見の時の記憶を辿って書こうと思います。
集合場所は、珠師ケ谷八幡神社です。そこから、車を移動させ、今回ご協力いただきました佐久間さん
のお家の近くまで行き、そこからウォーキングをスタートします。

スタートして少し歩くと、石仏があります。

なかなか素敵な馬頭観音様です。

大沢林道を途中まで行き、分岐点から珠師ケ谷線へと入っていきます。

少し急な坂道を上がって行くと、幻の滝「皆倉の滝」の場所につきます。
この滝は、皆倉堰から放水する時にだけ現れる滝で、普段は見る事ができませんが、今回は、珠師ケ谷
区の方のご厚意により堰をあけていただきました。
どんな時に見れるかというと、温石川の水量が不足して、珠師ケ谷から石堂の水田と和田三原の水田の
灌漑用に放水せれるときだけ見れるそうです。
下見の時はこんな感じでした。

当日は、こんな感じ。

来られた方は、皆さん感動していたそうです。ちなみに、この日は読売新聞の方も取材に来られてました。

滝から100mほど登ったところに、皆倉の旧集落の跡があります。

昭和30年から40年頃にかけて、ここから移転した住宅跡が残っています。
この場所から、山越えをして毎日石堂寺の小学校まで通ったという話を聞きましたが、ここまで上がって
来ただけでも大変なのに、まだ先まで行くなんて、想像しただけで登校拒否になりそうです。
お年寄りの人が元気なのは、子供の頃に足腰を鍛えてたからなんだなぁ~と思いました。

そこから、珠師ケ谷から和田町を結んだ古道を歩いていきます。こんなところなの?と思う所もあります
が、途中、古道だった面影のお地蔵様や馬頭観音が残されています。和田町から珠師ケ谷へと魚の行商が
通った道でもあります。

次に経塚山方面へと向かいます。(経塚山には登りません)
途中、4等三角点を見に行きます。

三角点は、明治初期から陸軍参謀本部の陸地測量部が設置し、以後、国土交通省が管理しています。
標柱の大きさは12cmで1等三角点は18cmになってるそうです。

ここから、柱木牧を通り大沢林道へと向かいます。

柱木牧は、平安時代(905年ころ)の文献に残っていて、8代将軍徳川吉宗のころから馬と白牛の
放牧地として明治43年まで、江戸幕府・明治政府により管理されていました。野馬土手、水飲み場、
馬捕り場などの遺構が残されています。
馬捕り場は、3区画に分かれており、下段が「追い込み場」、中段が「溜め込み場」、上段が「払い
込み場」となっています。追い込んだ馬を、溜め込み場で選別し、払い込み場から江戸幕府(武士用)
に送り出し、残りを農民に払い下げしたり再度牧に放牧したそうです。

牧を下り、大沢林道へ。

なかなか雰囲気がいいところです。
途中、大沢隧道があったりと・・・

この林道は、温石川の上流から沿って通っている道です。

温石川は2級河川です。温石というのは、暖を取るために懐に入れて温めた石のことで、その昔
この川がそうした石の産地であったため、温石川となったといいます。

温石川には、鉱泉が流れています。

石のまわりが白くなってるのが分かるかと思います。支流の所に、かつて珠師ケ谷区の人達が
鉱区を設定し、塩ビ管でドラム缶に集め、これを集落の人が利用していたそうです。今は利用し
なくなったそうです。
秘境温泉なんていうのが出来るかも?なんて考えたりなんかしちゃいました。

あとは、出発地点へと戻ります。
今回、お手伝いいただいた佐久間さんのお家の井戸は、茶色い水が出ていました。
やっぱり鉱泉の関係なんでしょうか、手を洗わせてもらったら手がスベスベになりました。

今回のコースは、健脚コースでしたが、皆さん元気に到着できました。下見の時には、
ハチに襲われたのでしたが、本番は大丈夫だったそうです。
ご協力いただいた皆様、ありがとうございます。良い1日が過ごせました。

9月のお散歩ツアーは、荒天の為中止となりました。

※お願いがあります。ガイドの独り言を見て訪れる方がいるようですが、山道に関しましては、
自己責任でお願いします。また、神社仏閣に関しましては、信仰の場ですのでルールを守って
お参りして下さい。よろしくお願いします。

「大人の学習旅行」報告

もう9月も後半になってしまいまた。この文章を書きはじめたのが、9月に入ってからで、
色々な事をやっていたら、安房地域の最大なお祭り「やわたんまち」が終わってしまい台風も
過ぎ去っていきました。被害に遭われた地域の方の、早くの復興を願うばかりです。

さて、また旅倶楽部では毎年恒例の「大人の学習旅行」を開催しました。
昨年度は空(機体工場見学)、その前が海(防衛大と横須賀港)ということで、今年度は
JAXA筑波宇宙センター(宇宙)にお邪魔してきました。一応、「大人の学習旅行」なの
でテーマを決めて企画してるんです。ってかっこいい事言ってますが、ただ行きたかったか
らなんですけどね。

当日は、館山を朝7時出発し、アクアラインから首都高速道路、常磐道で守谷SAで休憩して
JAXA筑波宇宙センターへと向かいます。目だった渋滞もなく予定していた時間よりも早く
無事に着きました。見学ツアーを予約しているので、時間に着かなかったらどうしよう・・・
なんて気が気ではありませんでした。

まずは、見学ツアー受付へと向かいます。

こちらで、身分証明書を出し身分確認です。なにも悪い事をしていないのですが、身分確認って
なんかドキドキします。

身分確認が済み、見学ツアー開始まで少し時間があったの、自由行動へ。んでもって私は、ミュージ
アムショップへと・・・

まだ見学もしていないのに、お土産なんかを選んでみたりしました。やっぱり宇宙食は一度食べて
みたいと思っていたので、たこやきとエビグラタンを買ってみました。

見学ツアースタート5分前には、決められた部屋にいないといけないので、トイレに入って移動です。
時間になると、スタッフの方の誘導で視聴覚室へと向かいます。
ここから、本当のツアーがスタートで、まずは紹介ビデオを観ます。

ビデオを観終わるといよいよ敷地内の「きぼう」運用管理室、宇宙飛行士養成エリアの見学です。
乗ってきたバスに乗り、スタッフの方の誘導で核心部へと入っていきます。
まずは「きぼう」運用管理室へ。
ここでは、カメラ・携帯電話は持ち込み禁止になっていまして、一旦スタッフの方に預けます。
撮っても大丈夫な所だけ撮らせてもらいました。

この「きぼう」は、国際宇宙ステーション(ISS)で地上から約400㎞上空に建設された、
人類史上最大の宇宙施設だそうです。大きさはほぼサッカー場程の大きさで、質量は約420トン
にもなるそうです。地球1周約90分で自由落下しながら回っているそうです。っという事は、
90分で1回、朝と夜が来るという事になりますね。
このISS計画には、アメリカ・ロシア・ヨーロッパ・カナダ・日本の15か国が参加しいつそうです。
この運用管理室は24時間体制で監視・運用しているそうです。
私たちが行った時は宇宙飛行士たちは、お休みの時間(朝3時)だったので活動はしていませんでした。

次に向かったのは宇宙飛行士養成エリアです。

棟の中に入るとNASAの宇宙服のレプリカがお出迎えしてくれます。

中に入って説明を聞きます。

この部屋には、1994年に向井宇宙飛行士と一緒に宇宙に行った「宇宙メダカ」の子孫がいます。

なぜ?メダカが宇宙へ行ったかのかの説明がありました。宇宙放射線の影響や筋肉萎縮を調査するため、
メダカは遺伝子解析が終わっていたので、どの部分が気づ付けばどのような影響が出るのかを知る事が
できる生物で、世代交代のサイクルが早いので子孫までどのような影響が及ぶのかを早く見ることができ
るためにもよい生物だという事です。メダカの寿命は3年で3か月で成魚になり、1年で4回世代が変わる
のだそうです。
同じ部屋の中には、こんな解説も。

メダカの写真を撮るのに必死で、話をすべて聞いてなかったので、看板で理解して下さい。

隣の部屋には、宇宙食や部屋着などが展示されていました。

今度は、宇宙飛行士の訓練に使われている機械がある場所へ。

閉鎖環境適応訓練施設 

国際宇宙ステーションの閉鎖環境を模擬した設備です。ここでは、閉鎖された環境で長時間一緒に過ごし
ストレスフルな環境の下でもチームで課題を乗り越えていく様子をモニターでチェックされて宇宙飛行士
の選抜試験などが行われるそうです。

ちょっと宇宙飛行士の募集要項を調べてみました。
最後に行われたのは平成20年度になり、採用人数は宇宙飛行士候補者3名以内。
応募条件は
1.日本国籍 2.大学(自然科学系)卒業以上 3.自然科学系分野において研究・開発等に3年以上
の実務 4.経験宇宙飛行活動等に円滑かつ柔軟に対応できる能力 5.訓練時に必要な泳力(75m泳
げる。また10分間立ち泳ぎ可能) 6.円滑な意思の疎通が図れる英語能力 7.医学的特性(身長
158cm以上190cm以下。船外活動を行うには約165cm以上が必要、体重50㎏~95㎏、
血圧:最高140以下かつ最低90以下、視力:両眼とも矯正視力1.0以上、色覚正常、聴力正常) 
8.心理学的特性(強調性、適応性、情緒不安性、意志力等国際的チームの一員として両機関の宇宙飛行
士業務に従事できる心理学的特性を有すること。 っとまだまだ応募条件はありますが・・・・

職務内容は、
1.訓練業務 採用後2年間程度NASAの宇宙飛行士候補者訓練を受け、宇宙飛行士に必要な科学・技術
の知識、ISS等のシステムの概要等を学び、英語、ロシア語の会話能力を習得します。
候補者訓練の修了後、訓練結果の評価により、JAXA宇宙飛行士に認定されます。その後、ISS計画に
参加する日本、米国、ロシア、欧州及びカナダの宇宙機関にてISS各システム及びその操作技術等を学
ぶ。ISSに搭乗が決定すれば、ミッションに必要なISS操作手順、実験操作手順等の訓練及び有人輸送
機(ロシア宇宙船ソユーズなど)の操作訓練等を1年半程度行います。これらの訓練を修了した後、最長
6ヶ月程度の期間、ISSに滞在することとなります。なお、宇宙飛行士になるための訓練には、航空機
操縦訓練、ジェット機や潜水による無重力体感訓練、サバイバル訓練等身体的にも厳しい訓練が含まれま
す。搭乗業務などまだまだありますが、本当に、宇宙飛行士になるには文武両道な人でないと無理だとい
う事が分かりました。
こんな苛酷な訓練や業務があるのに、採用時のお給料はというと大卒30歳で約30万円だそうです。
こんだけの人材だったら一般企業でももって稼げるのに・・・っと思ってしまいます。
夢はお金じゃないんですね~。

見学ツアーはここまでで、終わりです。この後は、私たちはJAXA内の写真食堂の中で昼食です。
今回は、団体なのでお弁当の手配をしておきました。一般の方も手続きをすれば中で食事が取れます。
なんだかバタバタしすぎで、お弁当も食堂も写真が撮れなかった~。

昼食を済ませ許可のいる施設を出て、ロケットの前で記念撮影です。

写っている方は、写真をダウンロードしてください。

ここからは、出発まで展示館「スペースドーム」などの自由見学です。

日本の宇宙開発のJAXAの歩みと今が紹介されています。ここだけでもワクワクします。

思い思いに見学やお土産なんぞを買ったりしてJAXA筑波宇宙センターをあとにします。
今日1日、担当で大変でしたが、勉強になった1日になりました。

近況報告

ご無沙汰しております。8月に入り変な天気が続いていたと思うと、もう8月も終わりになりました。
お盆休みの頃は、雨が降ったりと夏らしくない気候で、海で遊んでいるお客様が少なかったような気
がしますが・・・。今になって暑かったりと・・・・

そんな、8月でしたが、また旅倶楽部はなにをしてたかといいますと、今年も「夏休み・ウミホタル
観察会」を開催していました。7月22日・8月5日・8月11日・12日の4回開催しましたが、
前半の2回はお申込みの人数が少なく少し苦戦、8月に入り天候不順や台風でお天気の心配と、運
営するには心配続きでしたが、なんとか4回開催出来ました。

観察会当日は、渚の駅たてやまの海の広場前で受付し、みなさんが集まってからウミホタルについて
のお話しが始まります。

子供たちの中には、自由研究にする子たちもいて真剣に聞いてくれています。その後、採取の仕方
のお話しを聞き、館山夕日桟橋へと移動して採取が始まります。

最初の採取は、色々なところから歓声が上がります。

今年は、ウミホタルが大漁なのか?1つの採取ビンだけでもこれだけ光を出してくれます。
ちょっと写真で撮るのは難しいので、綺麗なのがお伝えできませんが・・・
因みに、フラッシュを使ってしまうと・・・

こんな感じです。夜や光ものの撮影は難しいです。

約45分位採取をし、最後に皆さんの手の平にのせてもらいます。網の中でも感動しますが、実際に
手にとって触るとまた違う感動があります。
その後、ウミホタルを放流して終了になります。(事情により放流しない時もあります)
採取の時間は、スタッフとの会話を楽しんでもらったりしています。自由研究の子には、「学校に行っ
たらいっぱい「面白かった」って言ってね」なんて宣伝してもらうようにお願いしたりして・・・

観察会を開催する時のスタッフの仕事も少し紹介しておきます。
スタッフは開催日当日に採取が出来ないといけないので前夜にはウミホタルを採取しに行きます。
当日は、採取ビンの中にウミホタルの餌になる臭い魚をセットしたり、桟橋での採取する準備を
したり、終わった後は、餌を出して再度冷凍したりと、色々な準備と片付けがあるんですね。
桟橋を利用するには、県に申請書を出したりもしています。
あっ!ウミホタルについても勉強をしていますよ~。
そんな裏方の仕事をお話ししましたが、私たちまた旅倶楽部だけでなく、館山市の職員の方のご協
力もあり、みなさんに楽しんでもらえるようにみんなで頑張って無事に4回終わる事が出来ました。

来年もたぶんやると思いますが、その際には是非体験しに来て下さい。

お散歩ツアー「小浦越えの古道秘話」報告

いつの間にか梅雨明けしてしまった館山・南房総です。梅雨という梅雨を感じないまま
梅雨明けしてしまい、山の中の田んぼでは、天水で稲作をやっているので、苗の周りが
カラカラになってひび割れ、農家さんは水の心配してました。
多く降るのも大変ですが降らないのも困りものです。
丁度いいがいいのですが、こればっかりは自然なので・・・・

梅雨明した日に、お散歩ツアー「小浦越えの古道秘話」を開催しました。一応、また旅
倶楽部は、これから約1ヶ月はウォーキングツアーはお休みになります。

集合場所は、岩井海岸駐車場です。ここは、南房総市の旧富山町にありますが、岩井海岸
の駐車場というのは、岩井海岸は広いので、集合場所が分かりずらいかったようで・・・・
道路からの標識は「IWAI BEACH」って書いてあるのです。皆さんなんとか合流
できまして出発です。
駐車場からは、小浦の地域へと向かいます。国道127号線を館山方面に向かっていくと
トンネルのちょっと手前にお堂があります。小浦地蔵堂です。

小浦地蔵堂には、悲しい民話が残されています。
昔々、ある初夏の日、娘を連れた老父が岩井の小浦の海に沿った崖路を通りかかりましたが、
その親子はよほど疲れていたのか、狭くて危ない道なのに腰をおろして休んでいると、農婦
が声をかけました。娘が、父が目が悪く、体も弱っているという話をすると、農婦が山から
採ってきた枇杷を渡し、娘の前掛けに入れてあげました。親子は喜んで食べようとすると、
娘の手から枇杷が落ち崖の方へ転がって行ったのです。親子は枇杷を追って手を伸ばすと、
突然海から強い風が吹き付け足をすくわれ、崖から転げ落ちてしまったのです。翌朝、崖下
の海面に哀れな親子の姿が見つかりました。娘の手には、落とした枇杷がしっかりと握られ
ていました。(枇杷落とし哀話より)
この地蔵堂は、このお話しに出てくる親子の霊を哀れんで建てたものだそうです。

次に向かいう場所も民話が残されている場所で、六部供養塔です。

崖の上に、六部供養塔と首なし地蔵が草むらの中に祀られています。六部供養塔は、法華経
を六十六部書写し、日本六十六ヶ国の霊場に納めて歩く行脚僧を供養したものです。
いつの頃かわからない大昔、道をとぼとぼと一人の六部が歩いていましたが、突然の大きな
波しぶきをあび、不幸にも海中へ転げ落ちてしまったのです。その近くの船から見た漁師が、
急ぎ船を寄せて救い上げましたが、六部はすでに息絶えていました。そのとき六部の胸に掛け
ていた頭陀袋の中に、いくつか熟れた枇杷が入っていましたので、それを知った小浦の村人た
ちが、六部の供養のために、その枇杷の種を取り、近くの山に植えますと、すくすく成長し、
やがて見事な実がなるようになりました。おかげで小浦は豊になり、後に村人たちは、六部の
墓を建てたといいます。(六部の枇杷より)
こちらも枇杷にまつわるお話しです。っという事は、お話しの流れからいいますと、六部のお話
しの後に、親子のお話しという事になるのかな?なって思ったりしています。
この供養塔とかは、この時期、草に覆われて見る事ができないのです。ウォーキングツアーの為
に、事前にスタッフが刈ってくれました。

次に向かったのは、小浦稲荷です。

宝暦(1751~)以前に創建さたと言われている稲荷神社です。

旧道を通っていくと、途中に辻の地蔵があります。

道筋に自然石をくり抜いた岩屋にお地蔵様が祀られています。古くは岩井から館山へ通じる木の根
街道の裏街道であった海街道は、海まで幾重にも迫り出す尾根に阻まれた難所を超える険しい街道
でした。辻のお地蔵様で旅立ちの無事を祈り、帰着を感謝する道祖神でもありました。

次は、旧小浦トンネルです。

ここは、現在は払い下げになっていて、私有地になっています。
このトンネルを抜けると旅館弁天鉱泉があります。

次に向かったのは、小浦厳島神社へ。

治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房へ渡り、この場所を通貨するとき、池で手を清め
江の島を眺めると、神霊が現れたので、弁天社を建立し、池を影向池(ようこういけ)と称しました。
影向とは、神仏が仮の姿をもって現れることや、神仏の来臨のことをいいます。池は社の後ろにあり、
深さ1メートル、岩窟は数百メートルつづいているそうです。

小浦厳島神社に向かう途中に、旅館弁天鉱泉の源泉があります。

昭和36年、釣りの途中に弁財天にお参りした弁天鉱泉の初代鈴木進氏は、この地に偶然湧き水を
見つけました。昔からこの地は、別名「清水」と言い、湧き水が沢山出ていた場所で、その湧き水
の1つが白く変色していたのを見つけ井戸にし、たくさんの方々に利用してもらえたらと昭和37年
に弁財天の名前をとって、この地に「旅館 弁天鉱泉」を開業したそうです。
一日に数回色の変わる源泉は硫黄臭を放ち全国的にも珍しいとされています。
ご興味のある方は、検索サイトで「南房総市 弁天鉱泉」で調べて下さい。

次は、小浦集落を歩き神明神社へ。

祭神は、天照大御神。本殿の脇にすごい地層がありました。

次は、すぐお隣にある薬王堂へ。

安房国四十八ヶ所薬師如来霊場の北口8番になります。
浄土宗の寺院で、本尊は薬師如来像です。この薬師如来像は、行基が小浦に逗留した際に、刻んだと
されています。
最後の見学場所を終えて、出発地点へと戻ります。
暑い中のお散歩でしたが、小浦集落には民話などが語り継がれています。
いつもなら、車で新道を通ってしまいますが、少し車を停めて歩いてみるのもいいものです。

また旅倶楽部のウォーキングツアーは、安全面に配慮して8月はお休みです。
無理して歩いても楽しくないですし・・・・これから夏本番になってきますので、皆様も体調管理に
は気を付けて、楽しい?夏をお過ごしください。

月イチツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」報告

7月に入りました。九州・山陰地方では記録的な大雨が降って多大な被害に遭われている方々が
いて・・・TVで映像を見ますが早く元の生活に戻れればと願うばかりです。

館山・南房総は梅雨なのに、ここ数日晴れていて、蒸し暑い日が多くなってきました。
梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、月ツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」を開催し
てきました。今回は、先月の月イチツアーと反対側の天津地区の浜荻エリアを歩きました。

集合場所は、前回と同じ二タ間駐車場です。
ここから、今回のコースもスタートします。まず最初にむかったのは、浅間神社。
二タ間川の橋の上で、お山の説明を。

前に見えている、左側が引土浅間山です。別名、天津小富士と呼ばれ、標高88mです。
右側が、葛ヶ崎城跡です。築城時期は不明ですが、天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見美頼の
抗争、天正の内乱により廃城となりました。という事は、その前からあったという事がわかります。

今回、登るのは引土浅間山です。ちょうど浅間神社の山開きの例祭が行われた後だったので、集会所に
は多くの地元の人達がいらっしゃり、のぼりも立っていました。

ここから、登っていきます。

少し登ると祠があります。

安波の神様を祀っていて、海の恵みをもたらし、海難から人々を守ってくれる神様です。

また少し登ると・・・

下浅間です。頂上まで行けない人の為に祀られています。

そこから4合目付近にも石宮がありますが、写真を撮り忘れてしまいました。すみません。
そこの石宮は、日当たり様と言われて、漁師が海の状況をみる場所に祀られています。

ゆっくり登っていきます。

頂上に着くとこんな景色が見えます。

もう少し天気が良ければよかったのですが、大平洋が遠くまで見渡せます。気象条件がよければ
富士山も見る事が出来るそうです。

頂上の浅間神社です。

祭神は、木花咲耶姫命(このはなのさくやひめ)。山の神の総元締である大山津見神(おおやまづみ
のかみ)の娘で、天照神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日継の御子を生む母神です。

この祠の下に、梶原景時が隠れたという伝説が残っている洞窟があります。

少し梶原景時について説明します。平安時代末期から鎌倉幕府初期の武将で、鎌倉幕府の御家人です。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、山中のししどの岩屋(現湯河原町)の倒木の洞窟へ隠れました。
大庭景親が捜索に来て、倒木が怪しいといい、梶原景時が洞窟の中に入ってみると、源頼朝がいました。
頼朝はこれまでと思い自害しようとしましたが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝った
ときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て「蝙蝠ばかりで誰もいない。向こうの山が
怪しい」とさけびました。大庭景親は怪しみ自ら洞窟に入ろうとすると、景時はたちふさがり、「私を
疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄り、大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は
九死に一生を得ました。その後、頼朝は安房に逃げ再起をはかり鎌倉に入りました。その後、景時は土肥
実平を通じて頼朝に降伏し、頼朝と対面し御家人に列しました。弁舌が立ち、教養がある景時は頼朝に
信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられました。
頼朝の死後、いろいろありまして、「梶原景時の変」がおこり失脚し滅亡してしまいました。

こんな感じの人ですが、なぜ?ここの洞窟に隠れたのか?、地元の人は、頼朝も一緒に隠れたという話
をしていたので、「????」が増えてきて、考えれば考えるほど、疑問が出て来てしまいますが、
伝説なので、そのままでいいのだと思う事にしました。

山を下り、次に向かうは弁天堂です。
お堂の写真はありませんが、お堂には弁財天、釈迦、観音、阿弥陀の各像があり、不動明王像もある
とことから真言系のお堂であったと考えられます。
お堂の前には、「亀龍神(キリュウジン)」の碑があります。

この碑には、慶応2年(1868)5月15日に、酒屋惣八が亀の拾ってきて祀った事が刻まれています。
海に関する漁民の信仰の様子を伝えるもので、近隣の漁師は、豊漁を願ってお参りしているそうです。
このような、海の生物に関する碑の調査をしている、東海大学海洋研究所によると、魚類供養碑は、
全国各地にあるそうで、上位10都道府県のうち、千葉県は第2位で86基あるそうです。
ちなみに1位は秋田県の88基です。1位になるには2基足りなかったですね。

海岸線を歩き、次はロシア人来航の地の碑へ。

あまり知られていないようですが、鎖国下にあった江戸時代の元文4年(1739)5月19日(ロシア暦
1739.6.19)、ロシアのオホーツク探検事業として、シュバンベルグが率いる船団のうち1隻、ヴェリ
トン大尉が指揮するガブリエル号の乗組員数名がボートで天津村布入の地に上陸しました。漁民たちから、
水や野菜などをもらい、ロシア側は、銀貨や数珠玉を渡したといいます。北海道を除く我が国で初めて
ロシア人の上陸した場所になります。

次に向かいますのが、日蓮聖人とゆかりのある創洗井戸へと向かいます。
途中、天津の消防団の詰所の前を通ると、封筒が落ちていました。ゴミが落ちてると思い拾ってみると
なんと!!お金が・・・福沢諭吉様がいらっしゃいまして・・・
この消防団の人の誰かが落としたんだろう?と思い、声をかけお金を置いてきました。
あとから、「違がったらどうする?」と言われ「げっ!!落として困ってる人が居たら」なんて考え
てしまいました。やっぱり交番に届けた方が良かったのかな?預けた人の名前聞いてくればよかったかな?

良い事をした後に着いたのが、創洗井戸です。

元々は井戸ではなく姥が池だったのですが、明応の大津波により姥が池は土砂にうもれてしまったので、
井戸に改修したそうです。
姥が池は、北浦忠吾・忠内という兄弟の邸内にありました。房総一帯で疫病(せきの病)が流行し、
北浦兄弟は、日蓮聖人に疫病平癒を嘆願しました。聖人は、姥が池のほとりに祀られている姥神を
せき止め守護神とし、疫病平癒を祈念し、姥が池に、せき止めのお経を記した経石を沈め、「せき
病に悩む人に池の水を与えよ」と。その後、病人がこの水を飲むと霊験あらたかに病は治ったそうです。
文永元年(1264)、小松原法難の際、地頭の東条景信から襲撃をうけ、眉間に3寸余りの刀傷を負い、
ここで疵の養生をしたと言われています。傍らにある石は、日蓮聖人が腰掛けたという伝説があります。

次は、多聞寺へ。

日蓮宗の寺院で、山号を光玉山と言います。本尊は十界本尊。
伝説によると、文永元年(1264)8月、日蓮聖人が鎌倉遊学より故郷小湊へ帰る途中の夕方、
浜荻の地にさしかかった時、美しい童子が聖人の御前にあらわれ「一夜の宿をご共養申し上げます。」
と聖人を寺に導き、住職に引き合わすと共に姿を消しました。不思議に思った聖人は、住職にご本尊
を聞くと「毘沙門天である」と答えたのです。聖人は「毘沙門天一童子に変じてのご供養」と報恩読誦
をしました。法華経の教えに感銘を受けた住職は、その夜、土地の郷士・北浦忠吾・忠内兄弟を招き、
聖人の教えを請い両人と共に改宗しました。毘沙門天の別名「多聞天」の名を賜り、寺号を「多聞寺」
と改称したそうです。

本堂の後ろには、北浦忠吾・忠内、両内室のお墓があります。

さっきから北浦兄弟の話がでていますが、この人は何ぞや??とお思いでしょう。少し少し説明します。
工藤吉隆の家臣で、小松原法難の際、日蓮聖人を救い、自邸に匿い、ともに岩高山に逃げ込んだとされる
人物です。

境内には、東条藩初代藩主西郷正員の母の墓があります。 写真を撮り忘れてしまいましたが、解説だけ
でも・・・西郷氏は下総生実(千葉市)で5千石を知行する旗本でしたが、里見氏所領没収後、元和6年
(1620)9月、安房東条1万石の大名となりました。藩主の西郷正員の祖母は徳川家康の側室となり、2代
将軍秀忠の生母、西郷の局です。 

写真を撮れなかったのは、これがあったからで・・・・

今回のお弁当のです。この受け取りがあったので、写真が取れませんでした。

多聞寺さんにお願いをしてお弁当を境内で食べさせていただきました。ありがとうございます。
多聞寺さんの境内には、大きなちょっと変わった木があるんです。

松の木のようななんの木なのか???海外の木らしいです。教えてもらったのですが、覚えられ
なかったです。

さぁ~お腹もいっぱいになったので、次の貴船神社へと向かいます。

祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。譽田別命(ほんだわけのかみ)・猿田彦命(さるたひこのかみ)
の三神です。弘安5年(1282)北浦忠吾・忠内が発願して、村中の協力で創建した神社と伝えられてい
ます。昔は、多聞寺境内にありましたが、現在の場所に移したといいます。明治6年郷社に列しました。
昭和16年1月11日失火の為、社殿・社務所等が焼失してしまい、手水舎のみ残りました。

次に向かったのは、薬師堂です。

堂内には、本尊と思われる薬師如来ほか、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍とした三尊形式の阿弥陀如来、
多聞天、如意輪観音とともに弘法大師像などが安置されていることから、真言系のお堂であったと
考えられます。

次は、角田丹後守の墓へ。
この墓の場所が、下見の時になかなかわからなくて、民家の庭先にあるとは思いもしなかったです。

葛ヶ崎城は角田丹後守一明の居城でした。天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見義頼の抗争、
天正の内乱(正木憲時の乱)。城主の角田丹後守一明が岡本城に出仕している隙を衝いて正木憲時
が攻めてきました。城主の代理を任されていた弟の角田丹波守一元は熱病にかかっていて病に伏せ
ていました。敵の兵数は700、味方の兵数は100と圧倒的に不利な状況で、丹波守一元は奮戦
の末討死し葛ヶ崎は落城したといいます。しかし、里見義頼軍が岡本城から出撃したとの報に,憲
時は軍を退いて大多喜城へ退去したといいます。里見義頼による葛ヶ崎の奪還後、正木憲時は天正
9年(1581)9月、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定されました。
そんな事があった人の墓ですが、私的ないは、病で床に伏していた弟の墓を建ててあげればよかった
なんで思っちゃいました。やっぱり家督を継いだ人が偉いんですね。

さて、最後の見学場所大師堂へ。

弘法大師を祀った堂で、この大師像の胎内には、多くの写経が納められているそうです。
弘法大師像を祀られていることから、この堂は真言系のお堂であったと思われます。

あとは、駐車場に戻ります。蒸し暑い中、無事にウォーキングツアーを終了する事ができました。
8月の月イチツアーは、暑さでガイドが倒れちゃうと困るのでお休みします。
お散歩ツアーは7月19日(水)に開催します。是非、暑い中歩いて、いっぱい汗をかき、体の
ダルさを吹き飛ばしましょう!!