あっという間に2月も終わりに近づいてしまいました。来年度のウォーキングツアーのチラシ作りをしないと、間に合わなくなってしまう今日この頃です。
さて、少し春らしい気候になってきた館山・南房総ですが、やはり朝晩は冷え込みます。っといっても、あぜ道などには、フキノトウが顔を出してきています。花粉も飛び始めていて、花粉症の私にはツライ日々が始まりました。
お散歩ツアー「館山市・南条エリアの歴史を巡る」を開催しましたので、報告します。
集合場所・出発地点は、南条八幡神社。
祭神は、譽田別命(ほんだわけのみこと)です。創建は不明ですが、伝承によると古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病が流行りました。その為、難病を免れるための神を祀ったのがはじまりと伝わっています。その後、源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から平を挙げる時、村人が京都石清水八幡宮の御霊を勧請し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿が建立したそうです。戦国時代の天文2年(1533)、南条城主鳥山弾正左衛門大夫時貞が崇敬し、居城の東方に社殿を造営し、守護神としました。
右の写真は、社務所です。大東亜戦争当時診療所として利用されていまし。
大平洋戦争末期、昭和20年に入ると陸海軍部隊の本格的な疎開が始まり、館山市の大賀・笠名にあった洲ノ埼海軍航空隊も兵舎等を解体し半数以上が、豊房村はじめ館山近郊に疎開しました。南条八幡神社付近には、司令部・副官部・通信科・主計科などの洲ノ空の指揮中枢部門が集中していました。
境内の本殿の裏山には、開口した大小38個の横穴があります。いずれも古墳時代の横穴墓で、昭和初期の神社改築の際、数個の横穴を崩したと言われています。
他にも、常明燈(明治26年(1893)建立)は、石工は山荻の安西久三郎ですが、左右の基壇に彫られている牡丹と獅子は後藤義光80歳の時の作で、義光が石に彫刻した数少ない作品です。また、狛犬(明治26年(1893))も遅くは白浜の宇山慶治と祖父によって作成されますが、精密な部分は後藤義光の手になることが刻まれています。
いよいよ、南条城跡へと登っていきます。道は、もう悪いのなんの。勝手にアドベンチャーコースなんて名前付けていますが、細い、滑る、足場が悪いの3点セットです。慣れている方なら問題ないのですが、慣れてない方だと大変だったのではないかな?と心配しました。
西側の頂上?には、戦時中の貯水槽が残っています。空襲時の停電に備えた緊急用の配水池として建設されたものだそうです。
あとは、尾根を下っていき、下っていく途中に、浅間様が祀られています。
明治8年(1875)に奉納した富士講「山三」の石宮のほかに4基の石宮が祀られています。他に、明治11年(1878)に講中で建立した安房百八浅間のうちの第百七番の石碑もあります。
山を下り、一般道路へと出ます。出た所の山側には、文政10年(1827)の出羽三山碑、宝暦8年(1758)の青面金剛庚申塔、明治22年(1889)の光明真言六百万遍供養塔、同年奉納の不動明王などがあります。
次は、姫塚へ。
姫塚は、里見家の天文の内乱(1534)で、里見義豊が里見義堯に敗れたとき、義豊の正室である、一渓妙周も自害し、乳母によって父の居城鳥山城(南条城)の近くに葬られたという伝説があります。姫塚は、その女性の塚だといわれ、昔昔、そこに正室の菩提を弔うための一渓寺があったといい、移転して古茂口の福生寺になったといいます。福生寺にはその女性の墓と伝わる大きな五輪塔があります。
この姫塚は、民家の人に許可を頂いて見学させてもらっています。以前は、堰を回って行けたそうですが、藪やら竹やらで行けなくなってしまいました。
次は、大網にある戦争遺跡へ。
大平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲などが置かれていました。今回は、砲台の方には行かず、周辺にある弾薬や食糧などの物資貯蔵用の壕を見学です。壕の中には、正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えにくくしたものもあります。
壕は、2011年公開角川映画「日輪の遺産」のロケ地になった場所です。
「日輪の遺産」は、浅田次郎の長編小説です。2011年に浅田次郎の原作とし映画化されました。ストリーは、終戦間近の昭和20年8月10日、主人公の真柴(堺雅人)が帝国陸軍トップらに呼集され、「山下将軍がフィリピンで奪取した900億円(現在で約200兆円)ものマッカーサーの財宝を、秘密裡に武蔵小玉の南多摩陸軍火工廠へ移動し隠蔽せよ」と重大な密命を帯びます。その財宝は、敗戦を悟り祖国復興を託した軍資金でした。極秘任務を遂行する為、20名の12~13歳の少女達を勤労動員先から徴用され、新型砲弾といわれ財宝隠しに加担させられます。任務の終わりが見えた頃、上層部によって彼女らに非常きわまる命令が下されたふしがありましたが、無効命令であることが確認されましたが、終戦の詔勅とその前に米軍機からばらまかれた終戦ビラに動揺した少女達とその少女達を救おうとしていた真柴らとの間で思いもよらない手違いがあり、悲しい運命が起きてしまいました・・・数年たち、やがて郡全にも米軍工兵が遺産の在処を発見するが、マッカーサーが見たものは言葉を失わせる壮絶な情景でした。っというストーリーです。
映画の中では、財宝を隠した壕として使われています。
たぶんこの壕が、映画で財宝を隠した壕だと思われます。
次に訪れたのは、国登録有形文化財になりました小原家へ。
小原家は代々農業を営んでいましたが、七代目小原金治は、政治家・実業家としての道に進み、県会議員や衆議院議員を務めたほか、房総遠洋漁業(株)や安房銀行(千葉銀行の前身)の経営にと携わっていました。
金治の孫の謹治は、椿の研究家。約20年にわたり洋種など700種以上を手掛け、自らも10種ほど品種改良しました。椿の研究を始めたきっかけは、館山市の木に指定された時に同級生にすすめられて仲間6人でやりだしたのがきっかけだったそうです。
私が小学校の入学の時に椿の木をもらっていて、今でも大輪な花を咲かせています。その苗は、小原家からの物だったんですね。
小原金治・・安政3年(1859)~昭和14年(1939)
小原謹治・・明治43年(1910)~平成11年(1999)
国登録有形文化財に平成29年に指定された建物は、主屋・離れ・米蔵・文庫蔵・旧長屋門
です。主屋は、寄棟造の主体部に台所部や土間部が接続していて、近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れの内部が、座敷と茶室からなり、座敷には床脇の円窓など独自の意匠がみられます。主屋の西に米蔵や文庫蔵が建ち、敷地の南側には旧長屋門が建っています。表門は重量感のある造りで家紋入りの屋根瓦を用いています。
・主屋・・安政6年(1859)/明治29年改修、昭和前期増築
・離れ・・昭和4年頃
・米蔵・・弘化2年(1845)
・文庫蔵・昭和前期
・旧長屋門・・江戸後期/明治中期改修
あとは、出発地点へと戻ります。お散歩コースといいながら、今回は山を攻略したので、少し大変だったと思います。