ご無沙汰しております。もう秋?になってしまいました。
本当に、ガイドの独り言を更新していなくて、申し訳ありません。なんとか無事に、細々と倶楽部運営しています。
なかなか、自分の足で長距離?を歩くことができなくて、実際に見てないものを書くのは難しく・・・・更新してない状況が続いてました。
今回は、事務所から近く、自転車で回ることができたので、皆さんにご報告します。
今回ご報告するのは、6月お散歩ツアー「豊富な水と豊かな実りある豊房地区」です。
当日は、曇りでも蒸し暑く、6月だというのに暑さが染みる日でした。
出発は、南条地区にある八幡神社
祭神は応神天皇(譽田別命(ほんだわけのみこと))。伝承によれば古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病が流行したため、その病難を免れるための神を祀ったのが始まりと言われています。治承4年(1180)源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から兵を挙げるとき、村人が京都石清水八幡宮の御霊を勧請し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿を建立したそうです。
戦国時代には南条城主鳥山弾正左衛門大夫時貞は、居城にお東方にあたる東山に社殿を造営し守護神として崇敬しました。その後、いろいろあり、現在に至ります。
神社の背後にある山腹には、社殿改築のため何基か潰されてしまいましたが、古墳時代の横穴墓38基があります。東山横穴群と呼ばれています。
館山千倉線から少し道をそれて、向かったのは、内田の地蔵尊。
山の所の石がんないに祀られている地蔵尊で、安永9年(1780)に建立されたものです。
次に向かったのは、堂ノ下のやぐら。
集会所の裏にやるやぐらは、安永8年(1779)の出羽三山供養塔のほかに、出羽三山関連の享保19年(1734)の大日如来像が祀られています。やぐらの正面と両脇の壁面には、風化が著しいが五輪塔9基の浮彫りが確認できます。内1基は、他で例を見ない蓮華座がある五輪塔で、室町時代の陽刻五輪塔です。外は、近世前期のスリムな形をしています。
次は、女堰へ。
汐入川の水を堰で止めて用水路へ流し、南条・上真倉・下真倉の水田へと流しています。宝永元年(1704)には修理をしているので、それ以前からあった堰だと思われます。
この堰には、悲しい話が残されています。この川は何度も塞き止め工事をしても、水流のために破壊されました。そこで村人は巫女に聞いたところ、「女性を堰止めに使うべし」と言われました。村人たていは村の女性を人柱にすることができず、巫女を捕らえて川に投げ入れ、堰を完成させることができたと伝えられています。そのことから女堰という名がついたと伝えられています。
次は、福生寺へ。
曹洞宗の寺院で、延命寺の松寺。本尊は聖観世音菩薩。寺伝によると、南北朝時代、西国の守護大名大内義弘(1399没)の子孫無々遠公(むむえんこう)大和尚が、永正15年(1518)頃、薩摩国から来て開山したと言われています。開基は里見義豊の妻である福生寺殿一溪妙周大姉とされています。慶長11年・15年の里見家分限帳では、寺屋敷がある南条の地において高2石の土地を与えられ、また徳川家からも同様の安堵がありました。
一溪妙周とは、「天文の内乱(1533~1534)」で夫の里見義豊が討ち死にしたことを知り、17歳で自害してしまったそうです。遺体は、南条城跡の北側山麓に葬られれ、福生寺の前身とされる一溪寺が建てられたといわれています。今は、姫塚が残されているだけですが、私有地を通ってしか行けず、お参りする人も少なくなってしまい道がなくなりつつあります。
境内には、石井弥五右衛門盛次夫婦の墓があります。江戸時代前期の様式を持つ2基の宝篋印塔は、水戸光圀の大日本誌編纂事業に加わり安房先賢偉人の碑のひとりに挙げられる石井三朶花の祖父母の墓があります。盛次は、元亀2年(1571)生まれとされ、里見義堯のひ孫にあたる里見家の家臣です。慶長19年(1614)、里見家没落の際、幕府代官から手代頭に採用され、里見氏転封後の安房国の民政処理にあたりました。その尽力により、房州の寺社98か所の所領が没落前とほぼ同様に保障されたといいます。
他にも、一渓妙周大姉の五輪塔があります。
次は、泉福寺へ。
曹洞宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺伝では、慶長15年(1619)の創建で、開山は位置有全慶と伝えられていますが、中興開山ではないかと思われます。敬ぢあには中世の五輪塔があり、里見氏から南条村で3石余の地を与えられていました。
参道の地蔵菩薩は、石工が「元名村周治」とあるので、安房の名工武田石翁の作です。
(台座に座っている方のお地蔵さんです)
次に、小谷(こやつ)の地蔵尊へ。
小谷久美の地蔵尊2体と如意輪観音像・十一面観音像が祀られています。片隅には、中世の五輪塔や宝珠1点と宝篋印塔の返花座なども確認できます。
次は、阿弥陀堂へ。
お堂に上がる参道の石段中程には、宝暦3年(1753)の地蔵菩薩像と宝暦4年(1754)の聖観音菩薩像があります。
階段下には、込縄(こみな)の地蔵尊があります。
元禄6年(1693)と明治24年(1891)の地蔵尊2体がありますが、いずれも墓碑です。
その脇には、やぐらがあります。
詳細は、不明ですが、たぶんやぐらです。
次は、館山・千倉線を渡り、田んぼの方の道を歩き出発地点へと戻りながら、田仲の馬頭観音群へ。
笠沼川沿いに馬頭観音等が10基並んでいます。平成の圃場整備で、古茂口に散在していたものが寄せられました。馬頭観音像を刻んだものは、文政2年(1819)・嘉永元年(1848)など6基あります。
今回のお散歩ツアーは、ここまでです。ムシムシした気温でしたが、曇っていたので、日照りよりも歩きやすかったかと思います。