12月も残り少なくなってきました。道端には水仙の花も咲き始めました。
ガイドの独り言も追い込みにで公開しております。
(最初からちゃんと書いてればいいのに)
10月29日に月イチツアー「千倉瀬戸を巡る」を開催しましたので報告します。
集合場所は、瀬戸海岸駐車場です。
出発し、瀬戸川を渡ったところに旧千歳村白子の石碑があります。
少し行くとハクダイ食品があり、ちょうどその時は、くじらのたれの天日干しをしていました。
「くじらのたれ」は、南房総市に江戸時代から伝わる伝統的なくじらの食べ物です。くじらの肉を大きめにスライスし、醤油や塩をベースとした独特なタレで一晩漬け、天日で干したものです。昔は保存食として食べられていたようです。昔から伝わるくじらのたれは硬いものですが、現在はソフトなものがあり、そちらの方が売れているそうです。軽くあぶって食べます。
私的には、ソフトのくじらのたれをあぶって、マヨネーズに七味唐辛子をいれた物に付けて食べています。
くじらのたれは、安房地域の食文化です。
次は、顕本寺へ。
日蓮宗の寺院で本尊は日蓮像。正長元年(1428)天台州を、日蓮宗に改宗しました。慶長15年(1610)に現在の地に移転しました。昭和22年9月8日、列車の煤煙によって、本堂庫裡・稲荷堂及ぶ重要書類を焼失してしまいました。昭和25年本堂を再建しました。
次は、慶崇院へ。
浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。創建は元禄16年1月23日。由緒等は不明ですが、徳川歴代将軍の位牌を安置しているそうです。
次に、地蔵院へ。
真言宗智山派の寺院で、本尊は地蔵菩薩像。治承3年(1179)大納言平時忠の息子・信時が継母のざん言により当国に追放、その時嵯峨大覚寺の上人が信時を憐れみ恵心僧都作の地蔵菩薩像を伴僧に所持させました。道中恙無を願って愛宕権現を遙拝して下向、途中事なく当地に到着し、自宅の傍に草庵を結び地蔵菩薩像を安置しました。前の山頂に祠を建て山城国愛宕大権現火結の神を祀り、朝夕礼拝し、その後元亀年間(1570~1573)国守里見義弘に一寺一社になるべく願い出て、許可され寺を地蔵院、社を改めて大権現を勧請し愛宕社と号しました。どの語、宝永年間(1704~1711)火災で焼失、宝永8年(1711)に寺を再建、神社は安永2年(1773)造立、明治のはじめ寺を愛宕山白雲寺地蔵院と名付けました。
次に、愛宕神社へ。
祭神は火結命(ほむすみのみこと)。
由緒は、地蔵院で説明していますので、ここでは省略します。
幾多の変遷を経て、明治5年(1872)神仏分離に際し愛宕神社とし、同時に村社として現在に至ったとの事です。
神社には、安永2年(1773)「波と竜」武志伊八郎23歳の作、文政11年(1828)「賓頭盧尊者立像」「大黒天立像」後藤利兵衛橘義光14歳の作、明治18年(1885)「富士巻狩図波」明治19年(1886)「天孫降臨神神話図」川名楽山の作があり、南房総市指定文化財です。
次に、浅間神社へ。
祭神は木花咲耶比売命(このはなさくやひめ)。創立は長享元年(1487)。由緒は不詳です。
次は、八剱神社へ。
祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)。創立は長享元年(1573)2月吉日。由緒は不詳です。
次は、下立松原神社&御霊白幡大明神へ。
祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)・言筥比売命(ことはこひめのみこと)・月読命(つくよみ)。
神社は牧田の段丘上海抜約30mのところにあり、昔は一面の松原であったと言われています。神社の北東約250mにある社山(じゃやま)の北麓にある垂迹宮(すいじゃくのみや)跡が元社寺とされ、江戸時代末期まで垂迹さまと呼ばれていました。
社記などの伝承によると、神武天皇即位の辛酉年、天富命に従って安房にやってきた阿波忌部の子孫美努射持命(みぬいもちのみこと)が祖神天日鷲命を祀ったのが始まりとされ、延喜式(927年完成)の神名帳に記された安房国六社のうち小四社のひとつにあたる古い神社です。
源頼朝が石橋山の合戦に敗れ安房に逃れたきた時、豪族丸五郎の案内で戦勝祈願したといわれ、その折敗戦の身をはばかり鳥居をさけて脇から入ろうとしたところ、氏子たちが鳥居を取り除き招き入れたとのことで、以来鳥居はつくられることがなく、鳥居のない神社となりました。
境内の十八社宮碑。
境内に祀られている18社すべての社名が書いてあります。下立松原陣屋のほか、合祀された駒形・浅間・垂迹神社、御霊白幡大明神、境内別殿四社、六所明神、歯神、最後に疱瘡神とあります。
歯神は人が生きるために大切な「歯」を守る神です。疱瘡神は「疱瘡(天然痘)」が昔は疫神によるものと信じられたため、この神を祀る風習がありました。
歯神は、初めて見た気がします。あと、天然痘と聞くと「貞子」を思い出すのは、私だけでしょうか?
御霊白幡明神
社殿によると、源頼朝が元暦2年(1185)に安西三郎景益に命じて、源氏の祖源頼義と八幡太郎義家父子を祀るために創建し、朝夷郡の鎮守としてといいます。また、頼朝は文治年間(1185~1190)も安西氏を使いとして頼義・義家の木像、薬師如来像、自ら写経したという大般若経600巻を奉納したと伝えられています。社殿には伊八の彫刻があります。
境内には、経塚(えい経石函碑)があります。
頼朝が奉納した大般若経は、毎春転読されて武運長久・国家安穏を祈っていましたが、破損がひどくなったため、明和9年(1772)に石函に納めてこの下に埋められました。碑は牧田村名主神作戸右衛門父子が建立しました。
あと、頼朝公の馬洗池跡もあります。
頼朝が、下立松原神社に立ち寄った際に池で馬を洗ったとの言い伝えが残っています。また例祭で行われていた流鏑馬・競馬の馬もここで洗っていたといいます。
両方とも写真を撮ったつもりだったのですが・・・ありませんでした。どこに消えたのでしょう?
あとは、出発地点へと戻ります。
今年も、残り少なくなってしまいましたが、あと1コースかければと思っていますが・・・どなることやら。