月イチツアー「源頼朝ゆかりの地を巡る」報告

師走です。冬らしい気候になってきました館山・南房総。
ガイドの独り言を更新していなくて、気が付けば12月中旬。慌てて、ガイドの独り言を更新します。
さて、10月1日の月イチツアー「源頼朝ゆかりの地えお巡る」を開催しましたので、報告します。

今年は大河ドラマが鎌倉時代のものだったので、安房地域には源頼朝に関係する場所が多く残されてい、少し大河ドラマにあやかっておこうと思い源頼朝ゆかりの地を案内することになりました。
集合場所は、那古海岸駐車所。そこから那古寺へと向かいます。

いつも観音堂の写真を使っていますが、今回は本坊の写真を。

真言宗智山派の寺院で本尊は千手観世音菩薩。坂東三十三観音第33番札所(結願寺)で安房国札観音霊場第1番札所です。
奈良時代の養老元年(717)春、この地を訪れた行基という高僧が、那古の海中から得た霊木で観世音菩薩の像を刻み、天皇の病気平癒を祈願したと伝えられています。
その後、荒廃した寺を慈覚大師が承知14年(847)に復興。かつて那古山の山上にありましたが、元禄16年(1703)の大地震で倒壊し、宝暦9年(1759)現在地である中腹に再建されましたが、平成の大修理によって、享保・天文年間(1730年代)にほぼ完成していたことがわかりました。

源頼朝は、安房滞在中、源家再興祈願に訪れ、観世音の祥瑞をこうむったとして、鎌倉幕府開府後、山上に七堂を建立、仏供数料拾町歩を寄進したと伝えられています。七堂の本堂、三重塔(多宝塔)、地蔵堂、鐘楼、仁王門、阿弥陀堂、閻魔堂は、頼朝の安房への七騎落ちにちなんだと言われています。

観音堂の前の階段から下がると阿加井があります。

説明書きに、
「そもそもこの井戸は、あか井と称し仏様にお供えする浄水をあかという、その井戸をあか井と称する。
当地に観音堂が再建された時、伊勢屋甚右工門が伊豆石を運び、井戸に石組して宝暦11年 つるべで水を汲み観音堂へ奉納した。
境内には、水神の弁財天が祭られいる安房路を巡る旅人は、この霊水で渇きをいやし喉を潤したものである。信者は遠方よりこの霊験あらたかな万病に効くあか井の水を汲みに、参詣する。
この下の部落を赤井下といい、那古寺本坊前の部落、寺町とあわせて寺赤町内会と称し門前町として観音様に貢献している。 寺赤町内会」
とかかれています。

阿加井から、階段を降りて行くと右手に願い石があります。

石に願いを書いて、先ほどの阿加井のところか神社の所に置くと願いが叶うそうです。

次は金毘羅神社へ。

祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。創建年代は不詳ですが、四国から来た漁師が江戸時代に建てたと伝えられています。

次に千日堂へ。

修験等覚院の隠居所として、戦国時代初期に建てられたといいます。本尊は江戸時代初期の地蔵菩薩坐像。船形村名主の墓所に、江戸時代の寛永年号の古い墓もあります。入口に享保18年(1733)の三界万霊塔、文政8年(1825)の弘法大師供養塔があります。

那古観音から長勝寺に向かう、那古山北側の水田の一面に残っている小字があります。小字名が頼朝免(らいちょうめん)と言われ、源の頼朝から授かった土地という言い伝えがあります。

次は長勝寺へ。

真言宗智山派の寺院で本尊は地蔵菩薩。本尊の地蔵菩薩は、南北朝期の木造坐像です。明治5年(1872)に金剛宥性が選定した安房百八地蔵尊の第10番札所で、ご詠歌の額が掲げられています。
本堂向拝には、三代後藤義光の龍と獅子の彫刻があります。
頼朝伝説をご紹介します。
源頼朝は那古観音参拝のあと、この寺に立ち寄りました。頼朝は、本尊が勝軍地蔵であることに興味をもち、「長く生きることは、長く勝つことに通じ、縁起のよい寺だ」と、それまで長生寺という寺名を長勝寺に改めさせたといいます。

船形藩陣屋跡・名主古屋敷を通り、木の根道切通しへ。

写真は切通しになっていなくてすみません。
木の根道切通しは、房総半島めぐる中心的な往還の一部で、千葉方面から内房を通って館山へ続く道です。

通り抜ける場所には、忍足佐内殉難の碑があります。

忍足佐内は(享保14年(1729)~明和8年(1772))は、江戸時代中期の農民で、安房勝山藩領金尾谷(現富浦町福沢)の名主でした。旱魃や飢餓が続き農民が苦しんでいました。各地区の名主たちは勝山の役所に年貢の減免を訴えましたが、役人は賄賂を贈ってない金谷尾村と小原村は願いが聞き入れられませんでした。そこで忍足佐内は、3村の名主とともに勝山藩酒井大和守の江戸屋敷に直訴しました。この件により奉行・代官達は賄賂を求める悪政が露見することを恐れ、勝山陣屋の石牢に投獄し、四方引き回しの上、白塚川(現福沢川)にて処刑されてしまいました。忍足佐内は正義感が強く村民を救うため身を挺して上訴したのです。享年44歳でした。これに対して遺族らは、奉行や代官の悪政を訴え、佐内の汚名返上を願い出ました、この願いは藩により聞き入れられ、奉行や代官の悪事を認め、佐内の名誉が回復されました。忍足佐内殉難の碑は、南房総市の文化財に指定されています。

次は常光寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は薬師瑠璃光如来。養老元年(717)、行基菩薩が薬師如来を彫刻し本山として開基しました。しかし元亀年間(1570~1573)に火災のため焼失、現在の薬師如来は、平安時代後期の作といわれ、南房総市の文化財に指定され、富浦町最古といわれています。また、弘法大師が日光・月光の木造の両菩薩立像を彫刻して奉納したと伝えられています。安房国四十八薬師霊場の南口十二薬師、1番札所で寅年の大開帳には多くの巡礼者でにぎわうそうです。

次は西行寺へ。

浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。開基は長徳2年(996)。
西行寺に伝えられている「西行因縁記」には、西行とその妻「呉葉の前」の悲しい伝説が書かれています。
西行は鳥羽上皇の北面の武士として活躍し、呉葉の前を妻としましたが、ほどなく出家し、諸国行脚の旅に出ます。呉葉の前は2人の子供とと寂しく日々を送っていましたが、子供たちが病気で亡くなってしまい、自らも出家し旅に出ました。やがて安房に入った呉葉の前は、船形に庵を結んで念仏を称える日々を送っていましたが、若くして亡くなってしまいました。村人たちが呉葉の前の死を悼み、塚を築いて一本の柳の木を植えたので、この地を柳塚というようになりました。その後、西行がここを訪れ、呉葉の前の菩提のために西行寺を建てたといいいます。
寺の裏山は戦国時代の船形城跡で、安西氏がいたと言われています。

次は、大福寺・崖観音へ

真言宗智山派の寺院で、本尊は大日如来。創建は養老元年(717)で開山は行基菩薩と言われています。境内の船形山の中腹に浮かぶ朱塗りの観音堂は「崖の観音」と呼ばれています。観音堂の本尊は、十一面観世音菩薩です。この本尊は、養老元年(717)に行基が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁師の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に十一面観世音菩薩を彫刻したと言われています。その後、慈覚大師が当地に来錫した折に堂宇が創建されたと言われています。十一面観世音菩薩は、県内最古の摩崖仏と言われ、昭和45年に館山市の有形文化財に指定されました。
江戸時代になり、承応2年(1653)に観音堂が火災にあい、朱印・什宝・伝記等すべて焼失してしまいました。正徳5年(1715)には観音堂が再建されましたが、明治43年の大豪雨により土砂崩れにあい本堂・庭園とも倒壊してしまいました。さらに大正12年の大地震で観音堂・本堂が倒壊し、観音堂は大正14年に、本堂は昭和元年に建てられました。本堂正面には、獅子と龍の向拝の彫刻があります。昭和3年国分の彫工後藤義房の作品です。

隣にある諏訪神社へ、
写真がありませんが、解説を・・・・

船形地区の総鎮守で祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。養老元年(717)行基菩薩が、信濃の諏訪大社を勧請したと伝えられています。船形住民の氏神としてあがめられています。
2017年3月4日放火により本殿と拝殿が全焼してしましまいました。焼失前の本殿と拝殿は関東大震災で倒壊後、昭和2年(1927)に再建され、拝殿の向拝の龍の彫刻は後藤義光の弟子、後藤義房の作で、社号額が後藤義信の作とされていましたが、ご神体の鏡などとともに焼失してしまいました。
2022年に地元の方々の努力で再建されました。
境内にある狛犬は安政2年(1855)武田石翁の作です。
ここにも頼朝伝説があるのでご紹介します。
船形を訪れた頼朝を、この地の十八という漁師の網元が招きもてなしをしました。そのお礼に頼朝から白旗をもらったといい、現在も子孫の家で大切に保存しているそうです。洲崎神社まで船を出したのは十八だとも言われいます。かつては船形地区の祭礼には、諏訪神社に白旗が掲げられていました。

もう1つ頼朝伝説を
崖の観音の下あたりで休息したとき、団子やの主人が談義を献上したところ、頼朝が「うまい団子を食べさせてもらい、うれしかったぞ」と言ったところから、以後、嬉賀という姓を名乗ったといい、団子やいう屋号が残っているそうです。
またほかに、この辺りに立ち寄った頼朝がうれしいと言ったことから「うれしくぼ」という集落名になった説、洲崎から円山岬に上陸した頼朝が、世話をしたくれた村人に、うれしいという気持ちから嬉賀という姓を与えられたという説があります。

海岸線を通ってくると安政築堤があります。

草が生い茂りわからない状況ですが・・・
磯崎湊と呼ばれた場所に江戸時代末の安政2年(1855)につくられた堤防があります。一度台風で崩れて明治6年(1873)に再建したようで、大正12年(1923)の関東大震災で現在の場所まで上がってきました。

あとは、出発地点へと戻り、終了です。

ガイドの独り言で、頼朝の伝説を書いていると、2022年の大河ドラマで大泉洋が頼朝をやっていたのが思い浮かんできてしまい笑いそうになってしまいました。
石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、安房の地から再起を図り進んでいきました。安房地域には、頼朝伝説が多く残されています。是非、巡ってみてはいかがでしょうか?
大泉洋の頼朝を思い出しながら巡るのも面白いかと・・・

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