月イチツアー「日蓮誕生の地を巡る」報告

ご無沙汰しております。新型コロナウィルスの感染拡大で、ウォーキングツアーを中断していましたが、10月の終わりからウォーキングツアーを再開しました。安房地域でもこの夏は、新型コロナウィルスの感染が拡大してしまいましたが、現在では、感染者0の状態が続いていてホッとしています。

11月に入り、寒い日もありますが、日中は、ポカポカ日和の日もあります。そんな11月の月イチツアーは、安房の偉人「日蓮聖人」の生まれた場所・小湊エリアの日蓮ゆかりの地を日蓮御降誕800年という事もあり、巡ってきました。

まずは、少し日蓮の話を・・・
貞応元年(1222)2月16日に現在の鴨川市天津に漁師の子として生まれました。
日蓮誕生の日は早朝より晴れ渡り、穏やかな波に旭が輝く中、珠のような男の子が大きな産声を上げてて生まれました。産声に応えるように、庭には突如清らかな水が湧き出し、浜辺には青蓮華が次々と咲き始め、浅瀬には無数の鯛が群れをなして集まってきました。湧き出しばかりの清水は生まれたばかりの赤子の産湯としました。両親はこの珠玉のような赤子に「善日麿」と名付けました。
元福元年(1133)5月12日、12歳になった善日麿は清澄寺へと修学に上がり、「薬王丸」の稚児名が授けられました。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」となりました。
若き日蓮は、清澄寺に本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひらすら勉学に励みました。10数年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住む清澄寺に向かった日蓮は、建長5年(1253)4月28日早朝、清澄山の旭森山頂に立ち、太平洋にからる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、立教開宗の宣言をし伝道の誓願を立てたのです。このとき日蓮32歳、同時に名を「日蓮」と改めました。
その後、度重なる困難(松葉ケ谷法難(1260)・伊豆法難(1261~1263)・小松原法難(1264)・瀧口法難(1271))を受けて、日蓮は文永8年(1271)10月10日、依智(神奈川県厚木市)の佐渡国の守護代の館を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。厳寒の気候に加え、衣類や食料も乏しい中、佐渡の念仏者などから命を狙われるという厳しい状況に置かれました。文永11年(1274)2月赦免され3月に佐渡を出発し鎌倉へと戻りました。
文永11年(1274)5月に身延山に入山し、6月17日より鷹取山の麓の西谷に構えた草庵を住処としました。これ以来足掛け9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、弘安4年(1281)11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名しました。
建治3年(1277)の暮れに胃腸系の病を発し、医師に治療を受け、一時的に回復しても病状は次第に進行していきました。日蓮の病状は弘安5年(1282)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を越す事は難しいとみられる状況になってしまい、門下が話し合い、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになりました。9月8日、門下とともに身延を出発し常陸の国(現茨城県)に向かいましたが、18日武蔵国荏原郡(現東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着、衰弱が進んでその以上の旅は不可能となりました。日蓮が池上邸に滞在していることを知って、主要な門下が集まってきまsた。9月25日に門下を前に「立正安国論」の講義を行いう、これが日蓮の最後の説法となりました。10月8日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6日の本弟子(六老僧)と定めました。10月13日、多くの門下に見守られながら、その61歳の生涯を閉じました。日蓮の遺言のとおり、その遺骨は身延山に捧げられ、心霊とともに祀られました。その後、身延山久遠寺は日蓮の本弟子である六老僧の一人、日向上人とその門流によって継承され、約200年後の文明7年(1475)、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い日谷から現在の場所へと移転し、伽籃の整備が進められました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護受けて栄え、宝永3年(1706)には皇室勅願所とにもなっています。

いよいよ出発します。最初に訪れた所は、高生寺。

日蓮宗の寺院で、創建は寛文3年(1663)。
建長5年(1253)3月、立教開宗宣言のため清澄山の山頂で行うため、両親にお別れをしましたが、親を想う心は強く、山道にさしかかると足が前へ進まなくなりました。再び両親の顔を見ることができるであろうかと見返り合掌し、口の中でお題目を何回も唱えたそうです。この事から両親見送りの跡を、後世に残すためもの地に建立されました。元は、寄浦の朝日山にある「朝日堂」でした。

境内には、日蓮の銅像があります。

高さ約1.8m、重さ百貫(375㎏)、寛延3年(1750)に造られたもので、聖人の立像としては日本最古といいます。2020年には、塗り直し(修復)が行われ、綺麗な像になっています。

次は、西蓮寺へ。

天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。創建は天安2円(858)、天台宗高僧円仁(慈覚大師)によると伝えられています。境内の薬師堂の本尊は薬師如来坐像は、円仁の作と伝えられ、開創のときから秘仏とされ、かつては60年に一度の開帳でしたが、現在は、12年に1度、寅年の初薬師法要の際に開帳されます。
戦国時代の天正年間(1573~1582)、里見氏と北条氏の戦乱の際、里見氏の家臣正木憲時の陣屋が設けられ、薬師堂のみ残して焼失してしまい、江戸時代に入り、鐘楼・客殿等を再建しました。
西蓮寺は、日蓮が清澄寺で修行をする前の幼少期、師匠・道善房と共に12年間過ごした霊跡でもあり、日蓮の乳母・雪女(ゆきめ)の墓も現存しています。


雪女は、当地の有力者の娘といわれています。道善房はこの娘にお給料を払って善日麿(日蓮)の乳母としました。雪女は、大変な教養の持ち主で、善日麿に対して厳しいしつけと教育をしたそうです。日蓮が清澄へ上がることができたのは雪女の負うところが大きいのではないかと言われています。田舎の漁師の子供が地元の名刹である清澄寺へ勉学に上がるなど、並大抵のことではなかったからです。雪女は、善日麿が12歳の時に病床に伏し、帰らぬ人となってしまいました。善日麿は痛く悲しみ、墓前に一本の桜の苗を植えて「乳母桜」と名付け、また追善供養の為に、ご自身の勉学姿を手彫りし、西蓮寺薬師如来の御宝前に奉安したそうです。

日蓮は本当は高貴な方の御落胤ではないかという説があります。日蓮が生まれる前年に「承久の乱」が起こりました。その事変によって「後藤羽上皇」はじめ、多くの貴族が島流しにされてしまいました。西蓮寺は天台宗のお寺ですが、代々その住職は、誕生寺で行われる宗祖御降誕会などの大きな法会に、必ず来賓として呼ばれ、上座に参列されている習慣が今も残されています。
西蓮寺には興味深い伝承が残されています。「ある日、早朝、御堂の裏で赤子の泣き声が聞こえてくるので、何かと思い声のする方へ行ってみれば、ただならぬ気高さを備えた赤子がそこに捨てられていた」という話です。その時に赤子を包んでいた豪華なおくるみは「錦の茵(にしきのしとね)」と呼ばれ、今なお西蓮寺宝物として大切にされています。しかも西蓮寺史によれば、その当時の住職とは、何と後に日蓮の師となる「道善房」であったと伝えられています。伝えによれば、道善房の前身は天皇に仕える「北面の武士」であったと言われていて、出家の後にさる所願あって全国行脚に出て、日蓮誕生の数年間に西蓮寺を訪れ、そのまま住職として小湊の地に定住したとされています。
西蓮寺は天台宗のお寺ですが、不思議なことに代々その住職は、誕生寺で行われる宗祖御降誕会などの大きな法会に、必ず来賓として呼ばれ、上座に参列されている習慣が今も残されています。

境内には、鴨川石造物百選の馬頭観音があります。

武田石翁の作で、台座部分に「壽秀」という刻銘があります。三面六臂の像で彩色がされています。「壽秀」銘の作品は、安房地域には、3例のみだそうです。石翁の作の馬頭観音も現在のところ本像のほかに1例が知られています。

次は、吾妻神社へ。

祭神は橘姫命。神社の言い伝えによれば、日本武命(やまとかけるのみこと)が天皇から東国の征伐を命じられ、相模(現神奈川県)の浜から走水の海(浦賀水道)を渡り房総半島に行こうとしたとき、海の神に妨害され、船が進まなくなった。このとき、タケルの妃(きさき)タチバナヒメは海中に身を投じて海の神の怒りを鎮め、船を進ませました。タケルは無事に房総に上陸し、東征(とうせい)の役目を果たすことができました。その後タチバナヒメの遺体が当所に流れ着いたので、住民は手厚く葬ったといいます。タケルも東征の帰路当地に立ち寄り、ヒメを追慕(ういぼ)し社殿を建て笄(こうがい(かんざし))1個、鏡八面を神宝(じんぽう)として納めたと伝えられています。現在の社殿は延享3年(1746)に修築したといいます。
大正6年(1917)にまとめられた「湊村誌」には、神社に仕える人が数人おり、朝な夕な社務を執っていた。朝に勤務する社人の居所するところを開戸(かいと)(貝戸)と称し、暮れに勤務する社人の居所するところを合戸と称した。今、神社付近にその地名が存在する。江戸時代の前期に社人に代わって天台宗西蓮寺が、吾妻神社に別当となって明治維新を迎えるまで、同社を管理した。
この神社の参道は、線路が通っており、参拝に行く時は、気を付けて線路を渡って下さい。

次は、若宮神社。

祭神は、大雀命・天照大神の二神。創建年代は不詳ですが、徳川時代初期に西国から漁労のために来房し土着した人々が、大雀命を奉祀し創建したと言われています。

次は、いよいよ誕生寺へ。

日蓮宗の大本山。
日蓮の誕生と母梅菊女の蘇生延寿を祈念して、弟子の寂日房日家上人が建治2年(1276)に日蓮の誕生地とされる、現在の蓮華が渕に寺院を建立し、日蓮を開山に定め、日家を二世としました。創建から222年後の明応7年(1498)8月、東海沖を震源とする巨大地震が発生し、大津波による甚大な被害を受け、蓮華が渕の日蓮誕生寺の諸堂の多くも壊滅的打撃を受けました。そこで、寺地を妙の浦の丘に移し、堂宇を再建しました。戦国時代末期の天正8年(1580)には、勝浦城主正木頼忠の保護を受け、寺領の寄進を受けています。寛文5年(1665)12月に徳川幕府の慈悲により寺領70石を拝領しました。
元禄16年(1703)11月、房総沖を震源とする巨大地震(元禄地震)で、大津波に見舞われ、誕生寺の諸堂宇は倒壊流出し、寺地は海中に沈んだといいます。誕生寺は、早速再建に取り掛かり、新しく山あいの現在地を寺地に選び、多くの信徒から寄せられた浄財や水戸徳川氏などの炎上によって、ようやく再建となりましたが、宝暦8年(1758)の大火によって誕生寺の伽籃は仁王門を除いて、ほとんどが焼失しました。その後、寺の復興は順次進められましたが、祖師堂の再建には、莫大な費用を要するところから、とりあえず仮祖師堂を建立されたといいます。弘化3年(1846)3月に完成した祖師堂は、総欅造り雨落ち18間(32m)四面、高さ95尺(約28.5m)。堂内に52本の欅の柱と用材は江戸城改築用として伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難した物を譲りうけたmものです。平成3年、聖人像を修理する為、解体したところ、胎内より今から600数十年前の造立を記す貞治2年(1363)4代日静上人筆の古文書と薬草が発見されました。古文書には、「生身の祖師」の名と祖師誕生の時と所が記されていました。
明治期の皇族・宮家と、関係の深い寺院で、明治23年(1890)に有栖川宮家の御霊屋である龍王殿が、境内の一面に完成しています。翌明治24年(1892)には、宮中の女官方が有栖川宮家の名代として誕生に参詣しています。祖師堂の正面向拝の両脇に、大きな天水桶が据えられています。これは、明治25年(1892)に柳原愛子・園祥子ら6人の宮中の女官が寄進したものです。

仁王門は、千葉県指定有形文化財です。平成9年3月21日に指定されました。
宝永3年(1706)に建立されたもので、仁王門は5間3戸の楼閣門で、下層に和様三手先、上層に唐様三手先の組物を持ち、本蟇股の中備としています。いくつかの装飾の中でも、楼上に見える般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられています。いく度かの修復を経て、部分的な改変はあるものの全体として創建当時の様子をとどめていて、県内では最大規模の仁王門です。仁王像は享保15年(1730)松崎右京作で、昭和50年(1975)松久朋琳師により修復されました。

誕生寺には、鴨川石造物百選があります。
先ずは、井筒。

井筒とは、井戸の地上部分を囲ったものです。この井筒は、日蓮聖人が誕生した際に産湯に用いられたと伝えられる誕生水の井戸の上部を囲っています。寛永18年(1675)に造られた物で、1辺が1m27㎝の正方形で、高さは53㎝ですが、最近造られた囲みに埋められた部分えお含めると75.5㎝あり、厚みは20cmもありかなり大きなものです。複数の石材を組み合わせているのではなく、1個の石材をくり貫いて造られたものです。
誕生水は、日蓮聖人が産声を上げた貞応元年(1222)2月16日午刻。不思議なことに生家の辺りで清水が湧き出しました。家人は、早速清水を汲んで産湯に使いました。こんこんと湧き出る水は、どのような日照りにもかれることがなかったといいます。その後、明応・元禄と二度の地震・津波によって、海底に沈んでしまいましたが、調査により海中に有り、今現在も清水がわいていることがわかっています。現在地に再建されましたが、不思議にも新たに清水が湧き出しました。そこで旧地を偲んで名を襲い、日蓮聖人誕生の奇瑞を伝えています。

日待塔。

日天子を奉斎するもので、元禄5年(1692)に小湊日待講中が建立したものです。日待ちとは、夜明かしをして籠り日の出を待つ行事をいいます。日蓮聖人は、日天子について「法華経の行者あれば心に歓喜し、行者をにくむ国あれば天眼をいからして其国をにらむ給ふ」と、法華経信者を守護する善神であることを明らかにし、曼荼羅本尊にも「大日天王」として勧請しました。日蓮宗では三光天子を仏教の守護神として信仰しています。

他にも、手水石や題目塔・三重層塔があります。

まだまだ、誕生寺のお話しはありますが、誕生寺だけになってしまいますので、この辺にしておきます。もっと知りたいかたは、誕生寺の宝物館に「小湊山史の散策」が販売していますので、是非、ご購入下さい。

次は、小湊神社へ。

祭神は天照大神。小湊字祓山に所在。創立年は不詳。古来、社地を神明山と称し、小湊村の氏神でした。
現在は誕生寺から独立していますが、本来は誕生寺を守護する神である神であると伝えられ、法華経の守護神三十番神にちなんで、通称を番神社ともいいます。
三十番神は、1ヶ月30日の間、毎日交替の当番で国家や法華級の信仰者を守護する、日本国中に祀られている神々のことです。社殿には、この三十番神の神像が一つの厨子に安置され、毎月1日や祭礼に誕生寺の役僧が祖師堂で読経し、その後、社殿に出向いて、「海上安全」「大漁満足」の祈願を込めて読経しています。
旧社殿は、天明は天明3年(1783)3月に再建されたものですが、大正14年(1925)3月の火災で焼失してしまい、昭和2年(1927)に社殿を再建しました。

次は、妙蓮寺へ。
妙蓮寺参道入口付近に道標(鴨川の石造物百選)があります。

この道標は、妙蓮寺への道筋を案内するため、天保12年(1842)に建てられてものです。一般的な道標とは違う感じですが、道標としての内容を満たしています。

妙蓮寺です。

日蓮宗の寺院で、日蓮聖人の両親のご廟所です。ご廟所ということで「両親閣」として広く知られています。誕生寺末寺で筆頭の格式を持つ寺として江戸時代には誕生寺の代理を務め、住職がしばしば江戸城に登城したという由緒ある寺院です。
日蓮聖人の乳は、貫名次郎重忠、母は梅菊といいます。建長5年(1253)立教開宗した日蓮は、第一に父母を教化し、父に「妙日」、母に「妙蓮」という法名を与えました。父は正嘉2年(1258)2月14日、母は文永4年(1267)8月15日に亡くなり、この地に葬られました。
開山の日静上人は誕生寺を引退ののち、この地に異常し、御尊母の蘇生祈願の、御本尊を掛けられた御霊木を材とし、宗祖ならびにご両親の御尊像を刻まれました。この御像は、天拝感応の祖師として古来より尊崇され、又、蘇生の妙符は不思議の奇蹟を現し、今も参詣の人が絶えないそうです。

墓地には、沼野玄昌の碑文があります。

沼野玄昌は、天保7年(1836)、旗本万年差十郎の次男として江戸に生まれました。嘉永元年(1848)に母の実家である小湊村の沼野家の養子となりました。沼野家は代々医業を家業とし、第16代目玄昌を名乗ることになりました。安政2年(1856)、西洋医学を学ぶため、佐倉の順天堂に入門し、医学を徹底して学び、元治元年(1864)10月に小湊に帰りました。その後、慶応3年(1867)に江戸の医学所で種痘法を学んでいます。明治9年(1876)、漢方医を主な対象にした医学講習会が全国で開催され、玄昌は講師の一人として加わり、解剖学の説明に自宅近くの墓地から掘り出されたといわれる人骨を用いました。このため、前原警察署に留置され、千葉裁判所に送られましたが、医学上の解剖に関する法律が未整備だったことと、玄昌の医学への熱意をくみ取り、不問にしました。
明治10年に長崎に上陸したコレラは、西南戦争の帰還兵とともに全国に広がったといわれ、千葉県では年末までに627人の患者を出し、346人が死亡しました。同年9月には貝渚村でコレラが発生し、前原町・横渚村へと広がりました。玄昌は、公立千葉病院(現千葉大学医学部付属病院)の「御雇医」として、死者の仮想や井戸の消毒等を行っていました。玄昌は自ら薬を含んで、衰弱した患者の口に移したり、病気を恐れて誰も手を出そうとしない患者を背負て運んだと言われています。
同じ年11月21日、貝渚にある旅宿の宿泊者がコレラとわかり、玄昌と巡査が旅宿を訪れました。コレラは死亡率が高く、住民たちはコレラの恐怖心が高まっていました。玄昌が金もうけのために井戸に毒を入れたり、高価な生き肝を患者から切り取るという噂が広がりました。旅宿に玄昌がいると知ると、殺気だった住民たちは、棒や鎌で玄昌を襲いました。玄昌はその場を逃れましたが、住民たちは鐘を鳴らして仲間を加茂川河川の権現橋や河原に集めました。玄昌は加茂川を渡り小湊へ逃げようとしましたが果たせず、遺体は今の汐留公園あたりに流れ着いたそうです。遺体は頭骨に達する傷が数か所と全身打撲を負っていました。このとき玄昌42歳でした。
汐留公園には昭和53年(1978)に鴨川市長や小湊町長らによる「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」が建立されました。

現在は、全世界的に新型コロナウィルスが猛威を振るっている中で、色々な情報が新聞やTV・インターネットで情報を得る事ができますが、昔は、なかなか情報を得るのは難しかったんだと・・・今も、ネットでは間違った噂とかも流れていますが、この時代の間違った噂で、沼野玄昌は殺されてしまいました。なんだか考えさせられる話だなぁ~なんて思ってしましました。沼野玄昌を殺しちゃった住民たちは、どなったのかな?なんて疑問も残りますね。

次は、八雲神社へ。

祭神は、素戔嗚命。通称「市川の天正宮」。もと釈迦の仏殿である祇園精舎の守護神牛頭天王を祀る天王宮と呼ばれていましたが、明治初年の神仏分離令によって素戔嗚命を祭神とする八雲神社に改められました。「覚帳」によれば、守護牛頭天王の尊像は、源頼朝が祇園社(八坂神社)の分霊を勧請し、源家再興のため品々を添え、滝口兵庫を宮守として市川の地に安置したものです。それから歳月が流れて天正のころ(1573~1590)、里見太郎義頼公が、源頼朝ゆかりの神社であることを耳にして参詣した。社殿が傷んでいるのを見て本殿と拝殿を再建しました。江戸時代の正徳年間(1711~1715)に幕府代官樋口又兵衛家次配下の大橋勝太夫・中川平左衛門の両人が、検分に訪れ、牛頭天王像の素晴らしさを賞賛し、大切に管理し信仰するように言われました。安政5年正月の火災によって本殿が類焼。総代人はいち早く駆け付け、尊像を持ち出し、人々を呼び集めて神輿を運び出しました。

最後は、日蓮の父、貫名次郎重忠公漂着の地へ。

昭和46年(1971)建立の石柱に、建仁3年(1203)に北条時政により当時へ流されたが、代官滝口兵庫朝家が世話をしたと書かれています。
民家の敷地にあるので、見過ごしてしまう可能性があります。

さて、出発地へともどり終了です。

最後に誕生寺周辺に残る3つの不思議を紹介します。
①妙の浦の鯛。
深い海を回遊している鯛が浅い所に住みついていることで国の特別天然記念物に指定されています(昭和42年)
日蓮誕生の時、鯛が水面を飛び跳ね舞い踊ったと伝えられています。その時より、地元では800年に渡り、日蓮のお使いとして殺生禁断、大切に保護、餌付けされて来ています。
エピソードがあります。
殺生禁断とされた妙の浦の鯛ですが、近年、世の中の考え方も変わりはじめ、鯛は鯛、魚だろうと初めて食べた人が居ます。その人は、「やめた方がいい」という家族の制止を振り切り食べ、しばらくすると体調に異変が現れ、苦しそうにのたうちまわり、その姿はまるで鯛が陸に上げられ、跳ねているようであったことから、鯛の浦の鯛を食べた罰であるのではと、日頃信仰していた尼さんに相談したところ、誕生寺のお坊さんに御祈祷してもらう事になりました。程なく体調が戻り、事なきを得たそうです。
これ以降、死んで浜に打ち上げられた鯛や網にかかって死んだ鯛も鯛の浦遊覧船協業組合の冷凍庫に大事に保管され、丁重に供養・火葬の後、誕生寺境内の鯛の墓へ納骨され、きちんと供養しているそうです。毎月6日は鯛供養の日として、鯛の浦遊覧船協業組合により鯛の供養と、海上安全の祈願が行われています。

②五色の砂
砂に夜露が降り水滴となった所に朝日が当たると乱反射して、とてもきれいに見える事から、五色の砂と呼ばれています。お盆の頃、ご先祖様の眠るお墓の清掃が終わった時に、お清めとして撒き敷く習慣があります。お題目を唱え日蓮とご先祖への感謝、そして家内安全、家門永昌を願っています。蓮華ケ淵の日蓮大聖人誕生三奇瑞の蓮華が咲いたと言われる所の周辺の砂を、むやみに取らないようにしているそうです。
エピソードでは、モルタルに鮑やサザエの貝殻を砕いて混ぜるて塗ると螺鈿細工の様になる工法があります。綺麗だからと、この蓮華ケ淵から流れついた五色の砂を使った人がいました。家を新築した際に、モルタルの外壁の仕上げに、五色の砂を混ぜて化粧仕上げにしました。完成間もなく、家は火災となり、五色の砂を塗った壁も家もすっかりきれいに燃えて無くなってしまったそうです。これは罰であると、神聖な五色の砂は個人の為に使ってはいけないとあらためて戒めになったそうです。

③誕生水
日蓮誕生の時に、産湯として使われた清水(湧水)があります。その場所は、明応・元禄と2度の地震により水没してしまいましたが、調査により海中に有り、今現在も清水(真水)が湧いていることがわかっています。同じ水脈の井戸を総門脇に作り、誕生水として大切に守っています。

日蓮について調べてみると色々と面白いなぁ~と思ってしまいます。宗教の関係もあって、敬遠されてしまうかもしれませんが、安房偉人の日蓮につては、宗教関係なく調べてみるのも良いかと思います。