お散歩ツアー「幻の波太富士に登ろう」報告

今年もあと数日になってしまいました。
また旅倶楽部の1年を振り返ってみると、雨の心配が多かった1年だったような・・・
そんな1年でした。

さて、今年最後のツアー お散歩ツアー「幻の波太富士に登ろう」を開催しましたので、
報告です。この日は、とても良い天気で、ウォーキング日和でした。
出発は、鴨川市の魚見塚一戦場公園。
この公園は、嶺岡牧の東端の位置にあり自然を活かしてつくられた公園です。その昔、
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房に逃れて来た時に、この場所で地元の豪族長狭六郎
常伴との戦いに勝ち天下取りの足掛かりを作ったという暦の残る場所です。

高台にある一戦場公園から下って行きます。途中に、波太富士が見えます。

ちょっと逆光になってて分かりづらいですが、少し富士山の形に見えるかと・・・

もう少し下に降りて、採石場だった所へと。現在は採石は行っていませんが、私有地なの
で、お断わりして中に入らせてもらいました。
敷地に残されていた岩。これが枕状溶岩と呼ばれるものです。

この枕状溶岩は、太平洋の海底火山から噴出したものが、大平洋プレートに乗って房総半島まで
移動したものです。マグマが水中(海底)に放出される際に、急速に冷やされて枕状(俵状)
になった火成岩を言います。中心部から放射状に節理(割れ目)ができるのが特徴です。

因みに、鴨川の枕状溶岩は県指定天然記念物になっていて、鴨川青年の家敷地内にあります。
鴨川青年の家周辺はすべて枕状溶岩もしくはその類似した岩塊に覆われていて指定地位はその
一部で、鴨川青年の家の下方の海岸にありますが、解説板や碑は青年の家入り口に設置されています。

さて、いよいよ波太富士に登って行きます。

古い文章によると、「弁天島という弧島から見ると、前面に高い磯山がある。名前は「波太富士」
という。」という文書が残されています。また明治時代の迅速図をみると、大きな岩塊に覆われて
います。その様子は、安井曾太郎氏の描いた「外房風景」に残されています。
昭和7・8年頃から採石が行われ、「波太富士」が削られ昭和40年代に西尾根の大部分が切崩さ
れ、東側も「県立鴨川青年の家」の建築の際に崩されてしまいました。

登って行きますと、途中に石像物があります。

木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)の石像物です。
神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬で出会い求婚されます。
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出しましたが、ニニギノミコト
は醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナサクヤヒメとだけ結婚しました。オオヤマツミ
はこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子の
命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄す
るだろうと誓約を立てたからである。コノハナサクヤヒメだけと結婚すれば、天津神の御子の命
は木の花のようにはかなくなるだとう」と告げました。
コノハナサクヤヒメは一夜で身篭りますが、ニニギは国津神の子ではないかと疑いました。疑い
を晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事
に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ・ホスセリ・ホオリの三柱の子を産みました。
ホオリの孫が初代天皇の神武天皇です。
っという神話があります。

足場の悪い所を登っていきますと頂上付近には、浅間講の大きな石宮があります。

なかな立派な石宮です。かつては、大勢の人々の信仰があったと感じられます。

少しだけ登ってみると一番高いところへと行けますが、登りきった場所がもう崖になっているの
で恐る恐る覗いてみると、素晴らし景色がみられます。

鴨川松島と言われる場所が、バッチリ見る事ができます。
鴨川松島は、荒島・弁天島・鵜島・雀島・波濤根島・猪貝島・海獺島の大小7つの島が点在して
います。島々から昇る朝日の被写体は、写真愛好家の王道を極めるといいます。
波太富士の頂上からは、朝日を撮るには、足元が悪いので難しいと思いますので、八岡海岸から
なら安全です。

来た道を戻って帰りますが、これがまた足場が良くないので神経を使いなが降りていきます。

来た道に戻り、波太富士の崩された壁を見にいきます。

ここでロッククライミングが出来るそうです。

あとは、少し坂道を登って一戦場公園へ。お疲れ様でした。
今回、ご紹介したお散歩ツアーのコースの一部は、私有地が含まれていて、許可を頂き通らせて
もらいましたことを、お話ししておきます。

2017年、つたない文章にお付き合いいただきありがとうございます。
来年も頑張っていこうと思いますので、是非、また旅倶楽部のウォーキングツアーにご参加いただき、
地域の歴史や文化を感じていただければと思います。来年もどうぞよろしくお願いします。
皆さま、良いお年を・・・

月イチツアー「二部・仏谷の伝承を訪ねる」報告

もう1年が終わろうとしています。館山・南房総では、寒くなり西風の吹く時期に
なりまいた。いつも穏やかな鏡ケ浦も、西風が吹くと白波が立ち、海岸線は砂が飛
んできます。結構やっかいなんですが、富士山の景色を楽しむにはもってこいの季
節です。寒さと風に負けずに、景色を楽しんでみては・・・

そんな師走に月イチツアー「二部・仏谷の伝承を訪ねる」を開催しました。
当日は、絶好のウォーキング日和でした。
出発地は、南房総市の道の駅富楽里。こちらの道の駅は、オープン前からお客様が
並んで、開店を待っていました。

まず最初に向かったのは、松尾神社。

祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。「松尾さま」の愛称で全国的に崇められる
酒づくりの神様です。

この日は、イチョウの葉が境内に落ちていて綺麗でした。

次に向かったのが、仏谷にある勝善寺。
本堂へと向かう手前の高いところに鐘楼があります。

そこから少し登り坂を行くと、勝善寺があります。

ご住職がお出迎えして下さいました。
勝善寺は、真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像。建久元年(1190)、天台宗の
僧永範が検儀谷原黒石山に一宇を建立し、柳島院(後、龍燈院)と称したことが始ま
りと言われています。元仁元年(1224)、永範は、親鸞聖人に帰依し浄土真宗に改宗し
ました。天正8年(1580)、火災に遭い、検儀谷原腰掛に移り仮堂を建立しましたが、
慶長年間(1596~1615)幕府の命により、二部仏谷に移り東本願寺の末寺になりました。
明治2年(1869)に本堂が火災で焼失しましたが、明治19年(1886)に落慶しました。
その後、明治35年(1902)に向拝を付け加え初代後藤義光の彫刻が施されました。
勝善寺には、江戸時代の浮世絵師、菱川師宣に関する史料が残っています。菱川師宣
過去帳は千葉県有形文化財です。


初代後藤義光晩年の88歳の作品です。義光は明治35年この仕事を終えて没して
います。最後の作品と言われています。

次は、とみやま水仙遊歩道へと向かいます。

スイセンも出荷が始まったみたいです。

遊歩道の頂上には展望台があり、先ほど行った勝善寺の旧跡地です。
景色を楽しみながら、ここで昼食です。

今日のお弁当は、富山地区の青倉商店さんにお願いしました。

いつもお弁当は、開催地でお弁当を頼みます。リュックに入れるので、小さくして欲しいと
無理なお願いをして作ってもらいました。おかずは、地産地消のお弁当です。
参加者からの評判はとても良かったです。
こちらのお惣菜は、道の駅富楽里の2階?にお惣菜屋さんとして出店しています。

お腹もいっぱいになったところで、後半戦へとまいります。
まずは、頂上にある石碑から。

この石碑は、勝善寺のあった場所に建てられているものです。
勝善寺さんのホームページより(訳文)
黒石山勝善寺古址記
此の地は、勝善寺旧址である。勝善寺、本は天台宗に属し僧永範が開基するところである。
謹んで古い記録を調べるてみると、武芸の誉れ高い鎮守府将軍源義家の末孫に又太郎頼綱
子、與次郎昌綱は、信州井上城に居住し、「井上」を氏としていた。昌綱、事情があって
武士身分を去り比叡山に登り僧となり、永範と名のったということである。
永範は多年にわたり諸国をめぐり、建久元年(1190)に安房国検儀谷原黒石山の地を選び、
雑木林や草むらを伐り開き一宇の精舎(寺院)を建立した。これが黒石山龍燈院勝善寺の
始まりである。
元仁元年(1224)に、親鸞聖人が伊豆国から舟で安房国へと渡ろうとした際、つむじ風が
吹き舟が転覆しそうになった。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の六字名号を書いて海に投げ
入れると風波はおさまり舟は安房国龍島に着いた。親鸞聖人は、やがて黒石山勝善寺に
たどり着くと、自ら袈裟を洗って松の木に掛け乾かした。その松の木を「袈裟掛松」と
言う。その時に水を汲んだ井戸を「御手洗井」と言い、今も存在している。
永範は、聖人に帰依し弟子となると、明空と名を改めた。親鸞聖人は、感ずるところが
あって自ら仏谷の竹を截り、阿弥陀仏像を作り、明空に授けた。それが現在は、大勝院
に祀られている「籠阿弥陀如来」である。天正8年(1580)に、本堂が火災に遭い焼失した。
そこで勝善寺は、ふもとの検儀谷腰掛けに移転した。俗に「天正屋敷」と呼ばれていると
ころである。さらに慶長年間(1596~1614)に、幕府の命令で現在地二部村仏谷の地に移転
した。しかし、籠阿弥陀如来は腰掛けに安置し、今も古本尊として崇敬している。
その時以来、黒石山の地は人々から忘れられた、ただ青山は鬱蒼とし灌木が生い茂り、黒
石山上から遠く見渡せば、伊豆国相模国が霞んで見え、海は渺々と果てしなく広がり際無き
が如しである。その木々の梢の下に一つの大石がある。青黒く大きな十余囲ほどある。それ
を「黒石山」と称していす。その石の上に古松がある。曲がりくねった大きな枝は頭の大き
な龍が天に騰がるように見える。それが袈裟掛松である。その東に泉があり、清らかでつや
つやした水が石の割れ目からきらきらと流れ出ている。それが御手洗井である。
同志の者と相談したところ、ここが親鸞聖人の旧跡であると石に刻んで後世に伝えようと、
私に文章は任された。私は開祖明空の法統二十六世を継ぐ者である。七百余年後に生まれ
法門隆盛の時に遇い、さらにこの挙に会う。これ以上の幸せはあるだろうか。そこで文才の
無いことを顧みず勝善寺旧址の概略をここに記した。
明治二十九年(1896)秋九月 勝善寺第二十六世井上弘昌文を作る。
正四位文學博士重野安繹額を書く。榴堂東南家賢て字を書く。本鶴仙字を鐫る。

長い文章でしたが、お付き合いありがとうございました。言い伝えていくための碑でした。

次は、とみやま水仙遊歩道を通り下山し、検儀谷神社へ。
ちょっと見落としてしまいそうな、急な階段を上がります。

上にたどり着く拝殿が見えます。拝殿の天井には、御神輿が乗せられ?ていました。

なんででしょうか?担当のガイドもわからないそうです。
もしこれをご覧になっている地元の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

次は、すぐお隣にある大勝院へ。
本堂の写真を撮り忘れてしまった!!!入口にあるお地蔵様でお許し下さい。

浄土宗の寺院で、山号を本誓山。本尊は阿弥陀如来。
元和2年(1616)、雄譽霊巌上人が開山となり創建されました。本尊の阿弥陀如来は、慶長
14年(1609)、勝善寺が、検儀谷の「峯」と呼ばれる山頂から今の地に移された後、大勝
院に安置されました。昭和20年(1945)までは、秘仏で、盆と正月以外は拝めませんでし
たが、信者の要望により、常時開帳礼拝できるようになりました。仏像としては珍しく、
房州竹で編みこまれているので、籠阿弥陀様と呼ばれています。「籠」は「加護」に通じ、
耳の不自由な人は、この仏様にお参りして錐(キリ)を頂き、快方に向かうと、御礼の志
に新しい錐を添えて、そのご利益奉謝するという民間信仰が昔から伝えられています。

本堂も窓越しですが、拝見させて頂きました。すてきな阿弥陀様です。

さて、出発地点へと戻ります。
今回のコースは彫刻・花・仏様と楽しめるコースです。
ここで紹介していますが、水仙は、農家さんが出荷するために栽培していますので、勝手に
採ったりしないようにしてください。また、神社仏閣は、地域の信仰の場です。ルールを
守ってお参りして下さい。

番外編・リベンジツアー「佐久間ダム」報告

もう師走に入ってしまいました。この間、年賀状の作成したと思っていましたが、また
年賀状を書く時期になってしまいました。この時期は、車もなんだか増えるような感じ
で、上手な運転ではない人が増えてるような気がします。皆さんも、十分気を付けて下
さい。

さて、今回は番外編として、6月に行いましたお散歩ツアー「佐久間ダム」が大雨で
景色を楽しむ事があまりできなかったので、リベンジツアーとして11月30日に
開催しました。今回も、予報では雨予報が出ていて心配しましたが、雨も降らずに開催
する事ができました。

今回のガイドの独り事は、細かい解説は書きませんので、6月に行いました内容を
ご覧下さい。
お散歩ツアー「佐久間ダム」報告 http://matatabiclub.com/?p=4444

というわけですので、写真をちょっと載せておきます。

乙井沢の滝


越の下の滝周辺


越の下の滝から宮田の滝に向かう林道


宮田の滝周辺。イノシシの罠があります。


スイセンの花もちらほら咲きはじめています。歩いていてもスイセンの香がしていました。

もう少しだけ紅葉を楽しむ事ができるんじゃないかな?って思います。
咲きはじめたスイセンを楽しみながらもみじ狩り。林道を歩いて、木々と川からのパワーをもらった
半日でした。是非、年末忙しくなる前に、心と体をリフレッシュしてみてはいかがでしょうか?
今回の独り事は、この辺で・・・・