月イチツアー「東条歴史探訪」報告

朝晩寒くなってきた館山・南房総。陽だまりは暖かいのですが、吹いてくる風が冬の気配を
感じます。そんな中、先日、鴨川市の東条地区を散策してきましたので、報告します。

まずは、鴨川市役所に集合し、東条公民館へ車で移動します。
今日の出発地は東条公民館からです。

最初に訪ねた場所は、閻魔堂です。
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参道には大日様の石仏や、三界萬霊塔や六地蔵があります。

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こちらはひっそりとお堂があり、中には閻魔様が祀られているそうです。

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閻魔堂の墓地には、俳号「雲水堂椿山」のお墓があります。
本名は、久保七左衛門で、文政7年(1824)、長狭郡広場村上人塚(鴨川市)生まれ。
江戸で刊行される俳家番付にもしばしば顔を出すほどの人物です。明治31年(1898)
8月24日に没。75歳。「我の外旅人見えず秋のくれ」と辞世の句を残しています。

次に向かってのは上人塚です。
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文永元年(1264)11月11日、小松原法難の際に日蓮聖人を救おうと殉職した天津
城主・工藤吉隆の墓。日蓮聖人は吉隆公を弟子の一人に加え「妙隆院日玉上人」と
号し出家の礼を以て葬りました。法難後、工藤家によって碑が建立されています。

次は、ちょっと裏道に入り御嶽神社へ。
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こちらの御嶽神社は、ちょっと調査不足で詳しい事はわかりませんが、境内に亀井講の
大型石碑が多く残されています。
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次は、新田地蔵堂へ。
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こちらのお地蔵様はイケメンのお地蔵さんです。
ここで、お弁当到着時間の調整でしばし休憩。

調整が終わったところで、永明寺へ。
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曹洞宗の寺院で、山号は慧日山。弘化2年(1279)に東条景信により創建されました。
当所は別の場所にありましたが、元禄の大地震により津波の被害を受け、現在の場所
に移動しました。
本堂の向拝の彫刻は、五代伊八(高石伊八郎信月)です。この人のお父さん四代伊八郎
信明と一緒に柴又帝釈天の作品に従事したそうです。

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向唐門です。この門は鴨川市の文化財に指定されています。
切妻造り萱葺で、棟札から文化9年(1812)に改築されていることが判ります。
県内にこのような形式を持つ建築の残存率が少なく、山門建築の推移を知る上で重要な
ものです。

山門の手前には、可愛らしい六地蔵があります。
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こころがほっこりするお地蔵様です。
ご住職のご厚意により境内で、昼食をとらせていただきました。
ありがとうございます。

普段は通らない道を通ると色々な発見があります。
今回の発見は、国指定文化財の鈴木邸です。なにかの本で見たことがあったのですが、
住所もなく、どこにあるのかな?っと思っていたら、今回のコース上にありました。
とても、素晴らしい茅葺屋根の母屋。近くで見る事ができないので、門の所から見させて
いただきました。いつかここが見学できる日が来る時には、場所とかご紹介したいと
思いますので、今回は文章だけですみません。

さて、次は古墳があった場所を歩きます。現在は、宅地として家が建ってるのでどこに
あったかは想像するだけになってしまいます。
大正15年、後広場1号墳から古墳時代後期のくり抜式舟形石棺が発見されました。
凝灰質砂岩製で、千葉県唯一の資料です。石棺の内部には人骨1体と、金銅製大刀を含む
7振の直刀、刀子、鉄鍬が副葬されていました。
石棺は、鴨川郷土資料館の方にあります。

さて、次は鏡忍寺へ。
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日蓮宗本山。日蓮聖人四大法難の一つ、小松原法難の霊場です。
いつも法難とか普通に書いていましたが、今回は法難について説明したいと思います。
日蓮聖人は一生のうち生命にかかわる法難を4回、小さい法難は無数にありますが・・・
四大法難というのは、40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」
43歳のときに房州小松原で地頭東条景信の一軍に襲撃された「小松原法難」
50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されそうになった「龍口法難」
同じ年、佐渡遠流の難にあったのが「佐渡法難」です。
今回の鏡忍寺は、小松原法難の舞台となった場所なんです。
伊豆法難後、許されて鎌倉に戻りました。文永元年(1264)秋、久ぶりに故郷小湊に帰って
きました。父のお墓詣りや母の病気見舞い、恩師道善坊を訪ねました。
しかし、かねてから日蓮聖人を恨んでいた地頭東条景信は、聖人の帰国を知り、聖人を亡き
者にしようと、機をうかがっていました。そして11月11日の夕刻、小松原で日蓮聖人の
一行を数百人で待ち伏せし襲撃しました。弟子の鏡忍房、天津領主工藤吉隆は討死し、九死
に一生を得た日蓮聖人も額に刀傷を負ったのでした。後に日蓮聖人は、2人の菩提を弔うた
めに日隆上人に命を下さい開創されたのが鏡忍寺の始まりです。

境内には「降神の槙」があります。
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この槙は、鴨川市天然記念物に指定されている槙で、樹齢千数百年と言われています。
日蓮聖人の法難の際、危ういところを鬼子母神が降臨されて救ったと伝わっています。

上の写真の左が祖師堂です。祖師堂の欄間には、「波の伊八」の作品、七福神の彫刻三面
があります。市の有形文化財に指定されています。

また、江戸時代初期から中期頃の建立と推定される切妻萱葺き屋根の向唐門も鴨川市の有形
文化財です。
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鏡忍寺を後にして、今回最後の見学場所八坂神社へ向かいます。
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祭神は須佐之男命。伝承によれば久保又右衛門という者が、自分の屋敷内に牛頭天王を祀って
いました。近隣の人たちも崇拝するようになったので、京都の八坂神社より分霊して社殿を
造営して氏神として祭祀したのが起源だと伝えられています。
本殿の向拝の龍は、三代伊八の作です。
本日の見学場所はここまでです。あとは、出発地点へ帰ります。

色々な事がありましたが、なんとか無事にたどり着きました。
いろいろな地域にいろいろな歴史があります。歩くことで新たな発見があります。
是非、ガイドウォーキングツアーにご参加下さい。

お散歩ツアー「館野・萱野・滝川の歴史散策」報告

2週連続でお散歩ツアーを開催しました。
今回は、「館野・萱野・滝川の歴史散策」という事で、館山市の館野地区を歩いて
きました。

出発は館野地区公民館。天気はというと、台風が来るとかいう話でしたが・・・
少し不安定な雲行きでしたが出発しました。
まずは、橋本地蔵尊へ。
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外房と内房を結ぶ街道の所にあり、滝川用水堀を渡る橋のたもとの地蔵尊です。
寛政10年(1798)に日本廻国行者が建てた道標や、明治24年(1891)の孝子塚への案内標、
大正14年(1925)に国分青年団が建てた三義民刑場跡への案内標があります。

次は、滝川用水の滝川分水堰へ。
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滝川用水の分水池、国分・高井・上野原・長須賀の水田への灌漑用水として使われていた
そうです。
この滝川用水というのが次に行く、三義民刑場跡のお話しに関わってくるんです。
では、その前に少し、この事件についてお話しします。

時は、正徳元年(1711)、徳川6代将軍家宣の時、安房国北条藩で起こった農民一揆。
北条藩1万石の所領27ケ村全体の農民が参加したことから、万石騒動という名前が付いた
のです。この万石騒動は、北条藩は1万石の小藩でしたが、藩主の屋代忠位は幕府の百人組
大番頭などを歴任していました。このことは財政難に繋がり、忠位は職を辞して財政再建を
図らざるを得なくなりました。そこで、新規に召抱えた家臣に、川井藤左衛門という人物に、
忠位は、御用人・上席家老として財政再建のために全権を与えました。川井は宝永6年(1709)
に北条陣屋に派遣され、元禄地震で隆起した北条海岸に新田を開発、灌漑用水路(滝川用水)
の開削して増産を図りました。また、鶴ケ谷の保護林の伐採・売却した他、酒屋・糀屋の運
上金の取立てを行い増収を図りましたが、農繁期の労役や、苛酷な増徴策の強行は、領民に
とって負担の大きいものでした。川井が各村に割り当てた年貢量は、従来の2倍近いものでし
た。これに対して、農民600名が北条陣屋に押し寄せて減免を求めましたが、川井の部下は
取り合わず、川井は江戸屋敷に名主を呼び出し圧力を加え、首謀者を探りました。
600名の農民は江戸に出て、江戸屋敷にいる藩主への門訴をおこないました。川井は、いったん
農民の要求を呑んだように装い、年貢減免の墨を与え農民たちを国許に帰しましたが、農民たち
を追う形で、川井は北条屋敷に赴き、名主を陣屋に呼び出し墨付の奪還を図り、6名を投獄、
6名のうち3名を国分村萱野の刑場で処刑、その妻子を追放し家財は没収するという弾圧をし
ました。また、農民に協力した代官行貝弥五兵衛国定及び息子を処刑しました。行貝は国分村
出身で地代官でした。
名主の投獄を受け、農民側は再び江戸で訴えを起こすことを決め、代表者が江戸に上り、老中
秋元喬知に駕籠訴を行いましたが、却下されてしまいました。今度は老中阿部正喬への駕籠訴
を行い結果、幕府は訴えを取り上げて審議が行われることになりました。評定所は、農民の訴え
をほぼ認め、川井は投獄されました。正徳2年(1712)、幕府の裁断が下され、川井は息子と共に
死罪、北条藩屋代家は改易になり、農民側も、捕えられたままであった3名が追放に処せられま
した。

という事で、三義民刑場跡へ。
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大正14年(1925)に三人が処刑された場所に三義民殉難之跡という石碑が建てられました。

その後、平成22年には義の伝承碑が建てられました。
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今でも、名主3名の命日(11月26日)には供養が行われ、語り継がれています。

次に行ったのは、稲荷神社。
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神社のある周辺は、明治元年から4年まで、館山周辺を支配した大名、長尾藩本多氏の
家臣たちの屋敷地として開発されました。その一画に本多氏の氏神であった稲荷神社が
祀られています。手水石は旧藩士たちが、明治9年に奉納しています。

次は孝子塚です。
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平安時代の初め、承和元年(836)に、安房郡の伴直家主(とものあたい やかぬし)と
いう人が居まして、朝廷から親孝行を表彰されました。(「続日本後記」巻五の承和三
年十二月七日の条にその徳行が記されています)
江戸時代になり、石工の武田石翁が、「家主」の事を調べ、その墓を探して、この塚が
孝子塚と推考し、嘉永3年(1850)、自らここに孝子「家主」に碑を刻み、その遺徳を顕
彰しました。さらに翌年、孝子に関係ある国分寺境内にも同様の碑を建てて顕彰し、そ
の後、地元有志者の尽力で整備が進められ、大正3年(1914)頃、現在のような形となり
ました。市指定史跡になっています。

伴直家主は、優しい心をもった真面目な人でした。両親が生きているうちに大切にし、親
孝行をつくしました。その両親がなくなると、今度は自分の食事や生活をきりつめて、親
のために立派なお墓を建ててあげ、両親の像までもつくり、生きていた時と同じように食
事を供え、供養を怠ったことはなく、いつまでも続いたので、人々に知れ渡り、やげて都
にいる朝廷の耳にまで届きました。感激した朝廷は、「この者を孝子と呼んで、生涯その
税を免状してあげるように」といい、身分も三階という位を授け、その家の入口には朝廷
から下された「孝子の門」という大きな旗があったといいます。そんなお話しです。

次に滝川のびゃくしんへ。
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館山市天然記念物に指定されているびゃくしんです。
このビャクシンは、後から行く木幡神社の北方の河岸段丘上にあり、一帯は木幡神社創建
の地とされ、御神木としての言い伝えがあります。
びゃくしんは雄木で、目通り樹周4m30cm・樹高10m35cm・枝下2m70cm
(指定当時)、東西約11m、南北約12mの巨樹です。

びゃくしんの側にある三善寺へ。
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浄土宗の寺院です。鎌倉時代の木造如来座像と南北朝時代の銅造観音・勢至菩薩立像が
ありますが、ともに市立博物館で保管されています。
この日は、安房国四十八ヶ所薬師如来霊場申歳中開帳の初日でしたので、薬師如来像を
拝見する事ができました。

次は、石橋供養塔のある場所へ。
かつて石橋が架かっていたようで、道の端に文政5年(1822)の石橋供養塔があります。
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その脇の大きなお地蔵さんがありますが、顔がなくなってしまっています。

次は、木幡神社へ。
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滝川地区の鎮守で、主祭神は天照大神の子とされる天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)
で、その妻と子も祀られています。神社の縁起によると、大化改新(645)以前、中央
政権によって地方官として任命された大伴氏一族が安房に着任した際、現在の館山平
野の中央に館を建て、そこを館野原といい、支配の中心としたとされています。当時
着任地に氏神をまつる風習があり、それが木幡神社の起こりだといいます。

次は、伝説の石を見に。
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この石は、立石と呼ばれ、鎌倉時代の武将、朝夷郡に育った朝比奈三郎義秀が投げた
ものだという伝承があります。以前、千倉を訪れた際も、朝比奈三郎が投げた石があ
りました。

次は、地蔵堂です。
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本尊は木造地蔵菩薩。地蔵菩薩像は文明13年(1481)に造られたものです。
境内には江戸時代に建てられた鉄丸石の大きな出羽三山碑があります。
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今日の見学場所はここまでで、出発地点へと戻ります。
半日コースですが、見る場所が満載でした。いやぁ~三義民も地域の人たちが、ずっと
言伝えて言ってほしいお話しです。まだまだ知らないことが多くあります。
みなさまも、是非、お住まいの地域を散策してみてはいかがでしょうか?
あっ!また旅倶楽部のウォーキングに参加して一緒に探しましょう。

お散歩ツアー「巴川流域の伝説を訪ねる」報告

皆さまご無沙汰しております。ガイドの独事を更新するのは、久しぶりです。
今年の8月は、ウォーキングツアーの計画はなくて、企画ツアーだけでしたが、
のそ企画ツアーが、台風上陸という最悪な状況になり、企画ツアーが延期と
なってしまいました。
夏にまた旅倶楽部は何してたの?とお思いだと思いますが、館山市主催の「ウミ
ホタル観察会」の講師やらサポートやらで、活動をしていました。

久々のお散歩ツアー「巴川流域の伝説を訪ねる」として館山市の神戸地区を散策
してきました。最近は、天気が悪い日が続いていましたが、開催した9月28日
は天気もよく暑い一日でした。

まずは、出発の館山野鳥の森から、千祥寺へ。
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こちらは、天和2年(1682)に領主の非法を訴えて処刑された7人の農民を供養した
という七人様供養碑があります。

次は、笠登墓地へ。
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ここには、天田やぐらから出た室町時代の五輪塔や宝篋印塔が祀られています。
これは、大正14年に村人の夢枕に、「裏山に埋もれているので、供養してほしい」と
言われ、山を掘ってみるとおびたただしい五輪塔や宝篋印塔が発見さ、この場所に
供養され、記念の供養塔が建てられました。

次は、中里八坂神社です。
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祭神は、須佐之男命(スサノオノミコト)です。むかしは、牛頭天王と呼ばれていました。
社殿の裏には、青面金剛像を刻んだん庚申塔や牛頭天王の石宮、右には浅間様の小さな祠
があります。こちらのお神輿の彫刻は、初代後藤義光です。
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次に金蓮院。
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真言宗智山派の寺院で、金剛山慈眼寺金蓮院としいます。本尊は大日如来。
平安時代に造立された木造地蔵菩薩が安置されています。安房国札観音霊場
の第29番で、安房国88か所弘法霊場の第5番です。開創は不明で、江戸
初期に頼忠が中興しています。
本堂の裏には、飛錫塚とよばれる岩山があります。
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古文章によると、文治元年(1185)、頼智(らいち)という高僧が行基作の観音菩薩像を
携えて、伊豆から海を渡り犬尾崎(平砂浦)に着きました。東の方が明けて来た時、一匹
の白犬が現れ、僧の法衣を引いて東の方へ導くと、金剛山の麓まで来ました。犬が離れない
ので、錫杖う振ったところ、犬が消えたといいます。別のお話しでは、麓まで来て犬は動か
なくなり、頭をなでると犬ではなく石だったというお話しもあります。

飛錫塚の上には竜宮からあがったと伝えられる枕字石や、塚の端には、享保19年(1734)に
一石に一文字づつ経文を書いて19500個の石を埋めた経塚があります。

次は、犬石権現へ。
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ここにも民話が残されています。
昔、西岬地区の鉈切神社の洞穴からひとりの僧が犬を連れて入りましたが、僧は出てくる事
が出来ず、犬は青年館にある岩の裏の穴から、赤肌になって出てきてすぐに石になってしま
ったというお話しが残されています。犬石の地名からか、この周辺には犬や石にまつわる伝
説が多くあります。
これが、穴です。
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次は、犬石神社へ。
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祭神は倉稲魂神(うかのみたまのみこと)。稲の精霊が神格化したもので、五穀、食物をつか
さどる神様です。「日本書記」では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみの
みこと)の子です。「古事記」では須佐之男命と神大市比姫の子で、宇迦之御魂神と書きます。

次に向かったのは、巴橋です。
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この巴橋は、明治39年(1906)の建築です。構造は石造アーチ形上路橋。規模は橋長11m、
幅員3m、1径間アスファルト路面です。地元、犬石の職人、島田岩𠮷が設計して築いた橋
だと伝えられています。大正12年(1923)の関東大震災で、巴川を逆流した津波は、すごい
勢いで巴橋を飲み込みましたが、石積みのこの橋は、津波の勢いに負けなかったそうです。
また、太平洋戦争中、近くの佐野にあった旧館山海軍砲術学校の戦車がこの橋を渡っても、
重さに耐えたと伝えられています。国登録有形文化財建造物です。

次には蓮寿院。
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浄土宗の寺院です。境内には、元禄地震(1703)で亡くなった地元の人たちを供養するために、
正徳5年(1715)に建てられた名号石塔があります。

蓮寿院から相浜神社の途中、玉杉稲荷があります。
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今はこんな感じですが、ここには、民話が残っていますので、ご紹介します。
ここはかつて白浜街道でした。明治の頃は新道山と呼ばれる昼も薄暗い山道でした。
ここにあるお稲荷さんには、お杉とお玉の2匹が棲んでいました。暗くなって村人が通りかか
ると、狐火で明るくして送ってくれたり、村を守り、浜の大漁を叶えてくれるお稲荷さんで、
お供えはいつも鯛が上がる位大切にされていました。富浦の正善院(現愛宕神社)の修験僧が、
相浜の波切不動の修験僧(感満寺、現相浜神社)に難題を持ちかけ追い出そうと企てていまし
た。それを知ったお杉とお玉は、巴川のほとりで、頭に葉っぱを乗せ老婆に変身しようと準備
していました。そこへ正善院の修験僧が現れ、「そんなものでは俺はだまされないぞ」と馬鹿
にしました。すると、「あなたを騙すつもりはありません。不動堂の修験に悪戯して馬の糞の
団子を食べさせに行くところです。一緒に行きますか?」っと誘われ、不動堂の節穴から中を
覗くと、老婆から勧められた馬の糞団子を修験僧がおいしそうに食べているではないですか。
「狐に騙される修験なぞ修行が足りない半端者め」っと笑っていると、突然後ろから「バカモ
ン!!蹴飛ばされて死ぬぞ!」と怒鳴られ気が付くと馬のお尻の穴を覗いている自分に気が付
き、大慌てで富浦に逃げ帰りました。狐が相浜の波切不動を守ったという地元に伝わるお話し
です。

そんな民話ののころ場所を後に、六地蔵がある場所へ。
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昔は、行場だったそうで、水路と井戸が残っています。岩山には六地蔵があり、行場の雰囲気が
わずかに残っています。
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こんな感じです。

次は、見学場所最後の大神宮観音堂へ。
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安房郡札22番観音堂です。かつては白浜古道に沿った霊場でした。
郡札観音霊場は国札霊場が遠くて回れない人のために沼の大寺(総持院)から始まる近場の
観音霊場です。

今回のウォーキングは、お散歩コースだったので、半日で終わりです。
天気にも恵まれ、楽しいウォーキングができました。やっと涼しくなってきましたので、
皆さんもウォーキングしてみてはいかがでしょうか?