安房の偉人 日蓮聖人(千光山清澄寺)

いよいよ小松原法難750年、特別企画の調整が進んできました。
特別企画ツアーの中には、入っていないのですが、立教開宗をしたお寺を少し紹介します。

千光山清澄寺(せんこうざんせいちょうじ)日蓮宗大本山
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(仁王門)
神武天皇の御代、此処に天富命を奉祀したのに始まります。山号寺号の由来は、山の上に清く澄んだ
池があって、長雨の時でも濁らないことから「清澄」と名付け、池の側の大きな柏の木が夜な夜な光
を放つので「千光」と名付けられたそうです。
宝亀2年(771)一人の法師が、千光を発する柏の木で「虚空蔵菩薩」の仏像をほり、その仏像の
前で21日間修行した事に始まります。その法師は、修行がおわってから誰にも知れず立ち去ってし
まったので、「不思議法師」と名付けられました。
承和3年(836)、天台宗比叡山延暦寺の中興の祖慈覚大師円仁師がこの地を訪ね、その仏像の前
で21日間の修行をしました。それ以来、天台宗のお寺となり次第に栄えていきました。
ところが、室町~江戸期に度重なる火災と戦により衰退と復興を繰り返し、大正期に入り日蓮聖人の
銅像が完成したことで、お参りの信者が増え、真言宗智山派と日蓮宗との間で改宗の話し合いがもた
れ、昭和24年日蓮宗に改宗し、宗門直轄の大本山となりました。

では、少し境内の中をご紹介します。
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本堂・・・摩尼殿(まにでん)と称し、天和2年(1682)の完成。中央宮殿には「曼荼羅御本尊」が
勧請され、その前には、天端和尚作「虚空蔵菩薩像」を安置しています。

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祖師堂・・・昭和46年落慶。正面に安置されている日蓮聖人像は、徳川家康公の側室であったお万
の方の奉納と伝えられています。(写真がボケててすみません。)

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中門・・・正保4年(1647)建立。二度ほど改修されていますが、当時の姿を残しています。
千葉県指定有形文化財です。

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庫裡・・・正保4年(1647)建立。桃山風造りで釘が1本も使われていません。

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鎮火牛・・・「ひぶせのうし」と呼ばれ、庫裡の土間に入った右手にあります。昔、この山には火事
が多くお寺は何度も全焼しました。これを耳にした旅の匠が火が鎮まることをいのりながら彫った一
刀彫りの牛をお寺に奉納したところ、それ以来、山から火事はでなくなりました。左甚五郎と伝えら
れ、虚空蔵菩薩が丑寅の守り本尊であることから牛を彫ったそうです。左甚五郎の作には、日光の「
眠り猫」があります。

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日蓮聖人銅像・・・大正12年8月30日建立。渡辺長男氏の力作で、立教開宗の聖人を力強く表して
います。

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千年杉・・・大正13年に国の天然記念物に指定されました。高さが約47メートル、幹周りは約15メートル
あり、樹齢およそ800年といわれています。昭和29年に発生した台風により、並んで立っていたもう一本の
大杉が倒れ、現在残っている大杉の南側の枝を落としてしまいました。

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凡血の笹・・・日蓮聖人は16歳で出家し、虚空蔵菩薩に「日本第一の知者となし給え」という願をかけ、
21日間の断食行を行いました。満願の日にお堂から出てきた日蓮聖人が吐かれた血が笹の葉に飛び散り、
今でも葉には黒い斑点があります。人々は「いらなくなった凡人の血を吐かれたのだ」と考え『ぼんけ
つのささ』と呼ぶようになったそうです。

ここが、日蓮聖人の原点になる場所なんです。立教開宗の後、東条景信に追われ花房の蓮花寺へ行き、
その後、鎌倉へ渡ます。10数年後、母の見舞いに来た時も蓮花寺により、そこから、工藤吉隆邸に
向かう時に、法難に遭いました。
まだまだ、安房に残した日蓮聖人の足跡がありますので、取材次第報告します。

月イチツアー「槙の回廊と那古の式部夢山道」報告

少しばかり報告が遅くなりましたが、9月8日に行いました、月イチツアー
「槙の回廊と那古の式部夢山道」の報告をします。

出発時間までは、雨が降っていましたが、出発と同時に雨もやみました。
日頃の行いがいいのか、晴れ男・女がいたのか不明ですが・・・

北条海岸から出発し、安房高校をめざします。
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何年か前に甲子園に出場しました時の記念碑が建っています。

稲荷神社により、槙の生垣が続く道へ。
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祭礼の前という事もあり、生垣はきれいに刈られてました。

鶴谷八幡宮は、祭礼の準備中でした。
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槙の回廊を歩きながら、湊薬師堂へ。
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ここでは、万石騒動の際に、刑死した三義民のひとり湊村名主秋山角左衛門の墓が
あります。
万石騒動とは、正徳元年(1711)北条藩屋代家の領内で起きた一揆の事。
屋代家の用人、川井藤左衛門が、不作にもかかわらず、例年の2倍もの年貢を課したため、農民の不満
がひろがり一揆に発展しました。その為、首謀者として名主3名が処刑され、騒動は、農民側の勝訴と
なり騒動はおさまりました。犠牲となった名主3名は三義民と呼ばれるようになりました。

次に、八雲神社へ。
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芝堂から那古寺へ。
潮音台からの景色。
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式部夢山道を通り、那古海岸に出て、海岸線を歩いて、北条海岸へ目指しました。
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少しロングコースでしたが、みなさん無事に到着しました。
天気もなんとか大丈夫でよかったです。

安房地区最大のおまつり

この3連休はいかがお過ごしでしたか?台風で大変な地域の方もいらっしゃったと思います。
9月14・15日は、安房地区最大のおまつりが行われました。地元では「やわたんまち」と
言っています。昔は、「稲刈りをやわたんまちまでにやっちまう!!」なんて、祭りの為に
農作業を終わらせるという風でした。今もそうですが・・・
鶴谷八幡神社は館山市内にありますが、となりの南房総市からも神輿が来ます。
今は、遠い所の御神輿は、トラックに乗って近くまで来ていますが、昔は、担いで神社まで
来ていたそうです。今だと歩いてくるだけでいっぱいいっぱいです。昔の人は、体力があった
のですね。

地元の人達は、このお祭りの楽しみ方がいろいろあります。御神輿を見に行く人、山車を見に
行く人、お祭りに参加する人といろいろです。なかには、ひいきな地区があってそれだけ追っか
ける人もいます。

お参りも兼ねて、八幡神社に・・・
神社に一番に入ってくるのは、安房一宮の安房神社。
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御輿の前を神社総代・猿田彦(天狗)・神主・巫女などが入ってきます。
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御輿は、一の鳥居から体制を整えて走って入ってきます。
神様が乗っているわけですから、落としたら大変です。
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八幡神社の本殿の前まで行き、そこで「さし」ます。さすというのは、御神輿を高く掲げる
という事です。

その後、洲宮神社の御神輿が入ってきました。この御神輿は、安房神社の連れ合いの神様を
乗せています。
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その後、二基でのもみさしを繰り替えしました。
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すぐそばにいた人は、神奈川県から来られた方で、「たまたまきたらおまつりやってたので、見に
きたらこんなに立派なおまつりだなんて・・・来てよかった」と言ってました。

さぁ~神社を後にして、駅前の交差点へ。
ここは、御神輿や山車が通る場所で、1か所で各地区が見れる場所なんです。
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下立松原神社(南房総市白浜)

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山宮神社(館山市東長田)

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山荻神社(館山市山荻)

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蛭子神社(南町)山車

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諏訪神社(六軒町)山車

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神明神社(神明町)山車

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神明神社(三軒町)山車

その後、神明神社(神明町)に5基の山車・お舟が集まります。
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ここから、市役所前の通りを通り、蛭子神社へ。
駅前で撮れなかったお舟。
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神明神社(新宿)お舟

1日目に見れなかった御神輿は、2日目へ持越しです。
と普段ならそうなんですが、今年は、訳あって見に行く事ができませんでした。
是非、みなさん来年は見に来てみませんか?

このお祭りは、千葉県指定無形民俗文化財です。

安房の偉人 日蓮聖人(小松原法難編パート2)

日蓮聖人の小松原法難編パート2をお話します。
(小松原法難に関しましては、パート1をご覧ください。)

では、早速。。。。
4.袈裟山掛松寺(けさざんけいしょうじ)
法難直後に川のほとりで長い一夜を凌いだ霊場。この川は現在も夜長川と呼ばれて
います。松の木に袈裟を掛けたことから袈裟山掛松寺と号します。
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(残念な事に本堂の前に車が止まっていましたな(泣))

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四代目袈裟掛けの松。

5.花房山蓮華寺(はなぶさざんれんげじ)
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昭和56年日蓮聖人七百遠忌に日蓮宗により再興された宗門史跡。
立教開宗により清澄寺を追われた日蓮聖人は一時この寺に逃れていました。
帰郷の際も、当寺に寄宿され、住僧・浄円坊に宛てて念仏無間を説いた書簡を認めており、旧師・道善房
との再会も果たしている。この寺にも疵洗いの井戸がある。当時、当地花房は東条とも西条とも表記され
ているが、清澄から山伝いに人目に付かず往来できる地であり、景信の手が及びにくい場所だった。

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門前の疵洗い井戸。

6.本山 小松原山鏡忍寺(こまつばらさんきょうにんじ)
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日蓮聖人の小松原法難の地に弘安4年(1281)に創立された名刹です。開基は法難の時、聖人を援け
に来て戦死した工藤吉隆の忘れ形見、長栄房日隆上人です。

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総門(山門)は三間三戸様式の棟造り門。

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仁王門は十界曼荼羅を祀る2階部分を持ち、瓦屋根の下に長く飛び出た垂木、尾垂木等を持つ
三間一戸様式の門。仁王像は昭和の名横綱双葉山をモデルにした金剛力士像。

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祖師堂。弘安4年(1281)日隆上人の創立。現在の建物は平成19年に再建された。
外陣欄間を飾る彫刻と外面蟇又(かえるまた)は旧祖師堂のもので初代「波の伊八」
武志伊八郎信由の作品。

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降神槙。日蓮聖人の一行が東条景信の一団に襲われた際に、路傍の樹の上に鬼子母神が現れ、
危うく難を逃れたと伝えられるマキは鴨川市の天然記念物に指定され、今でも境内に大きく
枝を広げています。

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上人塚。鏡忍寺から少し離れた場所にあります。
日蓮は、工藤吉隆の死を悔やみ日玉の法号をおくり、この地に葬ったと伝えられています。
明和5年(1768)年に23世日長が塚の上に碑を建てました。道路拡張により昔の約
三分の一の大きさになっています。

パート1とパート2で小松原法難の霊場6ヶ寺をご紹介しました。
今年は、節目の年です。みなさん宗派関係なく巡ってみてはいかがでしょうか?
また旅倶楽部では、特別ツアーとして企画中です。決まりしだいHPにてお知らせします。
しばらくお待ちください。

※念のため、また旅倶楽部は、宗教団体でも動物愛護団体でもありません。

安房の偉人 日蓮聖人(小松原法難編パート1)

まだまだ暑い日が続きますねぇ~
少し前から、企画を考えてた事がありまして・・・・
それは・・・
安房の偉人「日蓮聖人」について、今更ながら向き合ってみようと・・・
そのきっかけになったのが、四大法難の1つの、「小松原法難」(鴨川市)から今年で750年
というのが、きっかけだったんです。
「宗教色が強い」とか言われてしまうかもしれませんが、安房の偉人の日蓮聖人を知るという
のは、この地域の歴史として知っておいてもいいかな?と・・・・
そんな風に思って、先日、小松原法難の霊場六ヶ寺巡り+αを下見の下見してきました。

※小松原法難とはなに?
文永元年(1264)11月11日夕方、東条松原(現鴨川市)にて以前から恨みをもって
いた長狭郡東条郷の地頭で念仏信者の東条景信が日蓮聖人を襲い弟子の鏡忍房日暁と信者で
天津の領主・工藤吉隆が殺され、日蓮も額を斬られ、左手を骨折、重症を負いました。
斬りつけた東条景信も落馬し、逃亡、日蓮は難を逃れました。

小松原法難の霊場六ヶ寺めぐりのアイテムを紹介
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六ヶ寺をイラストと法難の縁起で紹介した「報恩参拝の証」(500円)に、お寺さんで華葩
(散華)をいただき参拝の記念にするものです。(たぶん今だけのことです。)

では、この報恩参拝の証の順に「ガイドの独り事」で2回にわたりご紹介。
1.岩高山日蓮時(がんこうざんにちれんじ)
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疵をおわれた日蓮聖人を工藤吉隆公の家臣の案内により一旦小湊の岩山に身を潜め、谷間の湧水
で疵を洗い、身を隠した洞窟では読経三昧の中に岩砂を取り、その砂を頭部の疵につけると不思議
な効により痛みが消え出血もとまったといいます。お市という老婆が、寒さに疵が痛んではいけな
いと「綿帽子」を供養したという事も伝えられています。

駐車場から、階段を登り直ぐの場所に疵洗井戸があります。

疵洗い井戸

疵洗い井戸


しばらく階段を登りやっと見えてきたのが、養疵窟(おいわや)。
養疵窟内部

養疵窟内部


少しのぼり本堂です。
本堂・宗祖御尊像

本堂・宗祖御尊像


本堂までの階段数は208段という事です。
お寺さんのお話ですと、こちらに住んでおられ、階段を登り降りしているそうです。買い物とかした
場合は、下の駐車場から背負い籠を担いで上がってくるそうです。大変です。
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ここでは、日蓮聖人も使った血止めの砂を手に入れました。
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2.明星山日澄寺(みょうじょうざんにっちょうじ)
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日蓮聖人の帰郷に随行した日澄上人は、法難に殉じた天津の領主・工藤吉隆の菩提寺の住持と宗論し、
真言より法華に転ぜしめた。寺号は宗祖の命名で日澄寺と改称され、日澄上人は宗祖を開祖と仰ぎ、
日玉上人(工藤吉隆)を二祖とし、自らを三祖と定めた。吉隆の遺子日隆上人は父の菩提のために館
跡に菩提寺を移したのが創建の由来です。寺には日玉上人の墓所が設けられました。吉隆公の法勲を
今に伝える宗門史跡です。

本堂の前には稲荷大明神があります。
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ちょっとかわいい撫でお狐さん
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本堂の入口には天井絵も。
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大事なものを撮るのを忘れてしまいました。工藤吉隆公の墓所を・・・
やってしまった(汗)

3.光玉山多聞寺(こうぎょくざんたもんじ)
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寺伝によれば、文永元年(1264)8月、毘沙門天が童子に変じ、帰郷した日蓮聖人を出迎え当山に導
いたという。時の住持は聖人の教化により即座に天台宗より改宗し、寺号も多聞寺と改称された。
工藤吉隆の家臣・北浦忠吾・忠内は法難の知らせを受け吉隆に随従して駆けつけ、ひとたび難を避けて
聖人を自邸に匿い、邸内の姥が池で疵を洗い手当を施したという。明応年間の津波に没した池は改修され、
創洗いの井戸(疵洗い井戸)として伝えられている。
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創洗いの井戸は、日蓮聖人の疵を洗った場所だけでなく、房総一帯で疫病(咳の病)が流行している時に、
北浦忠吾・忠内が聖人に疫病平癒を嘆願し、聖人は「姥が池に経石を沈め病に悩む人に水を与えよ」と仰せ
になりました。病人がこの水を服すと病がなおったというお話も残されています。

今回は、この辺で・・・次回は、残りの3ヶ寺です。