安房の偉人 日蓮聖人(小松原法難編パート1)

まだまだ暑い日が続きますねぇ~
少し前から、企画を考えてた事がありまして・・・・
それは・・・
安房の偉人「日蓮聖人」について、今更ながら向き合ってみようと・・・
そのきっかけになったのが、四大法難の1つの、「小松原法難」(鴨川市)から今年で750年
というのが、きっかけだったんです。
「宗教色が強い」とか言われてしまうかもしれませんが、安房の偉人の日蓮聖人を知るという
のは、この地域の歴史として知っておいてもいいかな?と・・・・
そんな風に思って、先日、小松原法難の霊場六ヶ寺巡り+αを下見の下見してきました。

※小松原法難とはなに?
文永元年(1264)11月11日夕方、東条松原(現鴨川市)にて以前から恨みをもって
いた長狭郡東条郷の地頭で念仏信者の東条景信が日蓮聖人を襲い弟子の鏡忍房日暁と信者で
天津の領主・工藤吉隆が殺され、日蓮も額を斬られ、左手を骨折、重症を負いました。
斬りつけた東条景信も落馬し、逃亡、日蓮は難を逃れました。

小松原法難の霊場六ヶ寺めぐりのアイテムを紹介
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六ヶ寺をイラストと法難の縁起で紹介した「報恩参拝の証」(500円)に、お寺さんで華葩
(散華)をいただき参拝の記念にするものです。(たぶん今だけのことです。)

では、この報恩参拝の証の順に「ガイドの独り事」で2回にわたりご紹介。
1.岩高山日蓮時(がんこうざんにちれんじ)
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疵をおわれた日蓮聖人を工藤吉隆公の家臣の案内により一旦小湊の岩山に身を潜め、谷間の湧水
で疵を洗い、身を隠した洞窟では読経三昧の中に岩砂を取り、その砂を頭部の疵につけると不思議
な効により痛みが消え出血もとまったといいます。お市という老婆が、寒さに疵が痛んではいけな
いと「綿帽子」を供養したという事も伝えられています。

駐車場から、階段を登り直ぐの場所に疵洗井戸があります。

疵洗い井戸

疵洗い井戸


しばらく階段を登りやっと見えてきたのが、養疵窟(おいわや)。
養疵窟内部

養疵窟内部


少しのぼり本堂です。
本堂・宗祖御尊像

本堂・宗祖御尊像


本堂までの階段数は208段という事です。
お寺さんのお話ですと、こちらに住んでおられ、階段を登り降りしているそうです。買い物とかした
場合は、下の駐車場から背負い籠を担いで上がってくるそうです。大変です。
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ここでは、日蓮聖人も使った血止めの砂を手に入れました。
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2.明星山日澄寺(みょうじょうざんにっちょうじ)
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日蓮聖人の帰郷に随行した日澄上人は、法難に殉じた天津の領主・工藤吉隆の菩提寺の住持と宗論し、
真言より法華に転ぜしめた。寺号は宗祖の命名で日澄寺と改称され、日澄上人は宗祖を開祖と仰ぎ、
日玉上人(工藤吉隆)を二祖とし、自らを三祖と定めた。吉隆の遺子日隆上人は父の菩提のために館
跡に菩提寺を移したのが創建の由来です。寺には日玉上人の墓所が設けられました。吉隆公の法勲を
今に伝える宗門史跡です。

本堂の前には稲荷大明神があります。
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ちょっとかわいい撫でお狐さん
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本堂の入口には天井絵も。
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大事なものを撮るのを忘れてしまいました。工藤吉隆公の墓所を・・・
やってしまった(汗)

3.光玉山多聞寺(こうぎょくざんたもんじ)
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寺伝によれば、文永元年(1264)8月、毘沙門天が童子に変じ、帰郷した日蓮聖人を出迎え当山に導
いたという。時の住持は聖人の教化により即座に天台宗より改宗し、寺号も多聞寺と改称された。
工藤吉隆の家臣・北浦忠吾・忠内は法難の知らせを受け吉隆に随従して駆けつけ、ひとたび難を避けて
聖人を自邸に匿い、邸内の姥が池で疵を洗い手当を施したという。明応年間の津波に没した池は改修され、
創洗いの井戸(疵洗い井戸)として伝えられている。
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創洗いの井戸は、日蓮聖人の疵を洗った場所だけでなく、房総一帯で疫病(咳の病)が流行している時に、
北浦忠吾・忠内が聖人に疫病平癒を嘆願し、聖人は「姥が池に経石を沈め病に悩む人に水を与えよ」と仰せ
になりました。病人がこの水を服すと病がなおったというお話も残されています。

今回は、この辺で・・・次回は、残りの3ヶ寺です。

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