月イチツアー「清澄寺の境内を巡る」報告

皆様ご無沙汰しております。気が付けばもう7月です。
梅雨中なのに、雨が降らず、暑い日が続いています。梅雨寒なんて言葉はどこに行ってしまったのでしょうか?
天候がおかしい今日この頃で、腰・首の悪い私には、堪えます。

さて、報告がいつも遅くなってしまいますが、令和5年度の最後の月イチツアー「清澄寺の境内を巡る」の報告させていただきます。

コース説明に入る前に、清澄寺についてお話しておきます。
清澄寺、鴨川市清澄にある日蓮宗の大本山で、山号は千光山。本尊は十界曼荼羅。
日蓮聖人が出家得度及び立教開宗したお寺とされています。総本山久遠寺・大本山池上本門寺・大本山誕生寺とともに日蓮宗四霊場と呼ばれています。
およそ1200年の前、「不思議法師」と名付けられた僧侶が千光を発する柏の木で虚空蔵菩薩の仏像を彫り、その仏像の前で21日間修行をしたことが始まりと言われています。
山号の名前の千光山は、山頂近くに怪しく千光を発していたことから山号となり、柏の木の下に水の涸れた池があり、そこで加持すると清泉がたちまち沸いたことから寺号の清澄寺としたといいます。
承和3年(836)、天台宗比叡山延暦寺の中興、祖慈覚大師円仁師がこの地を訪れ、その仏像の前で21日間修行をして以来、天台宗のお寺となり、栄えていきました。
ところが、室町から江戸期には度重なる火災と戦いにより衰退と復興を繰り返し、元和4年(1618)に、徳川秀忠の命により智積院の頼勢が入寺し真言宗に改宗されました。大正期に入り日蓮聖人の銅像が完成したことでお参りの信者が増え、真言宗智山派と日蓮宗との間で改宗の話があいがもたれ、昭和224年(1949)に日蓮宗になりました。

鴨川市営清澄第二駐車場から出発です。
最初に訪れたのは、涕涙石。

もとは、女人堂跡地にありましたが、道路拡張工事により、現在は土中深く埋められていて見る事ができませんが、現在は記念碑が建てられています。
聖人に会えない悲しさから、母梅菊が堂の近くの石に座り、善日麿の無事を祈って涙し、その涙の跡が石の表面に残っていると言い伝えがあります。

次は女人堂跡へ、

昔、女性は清澄山内に入ることができませんでした。その為、12歳で出家した日蓮聖人はここで母親の梅菊と会っていましたが、「生まれ故郷が恋しくなり勉学に励めなくなるので会いに来ないでほしい」と母親に伝えたそうです。梅菊は聖人の志と後の大成を思い、泣く泣く従ったというところです。

旧道を通り、清澄寺へ。

文久3年(1863)に建てられたものです。正面に向かって右の口を開けている阿像(那羅延金剛)は一切の法の最初を表し、左の口を閉じている吽像(密迹金剛)は一切の法の窮極を表しています。

大堂(本堂)へ。

摩尼殿と称し、江戸初期、天和2年(1682)に完成。中央に曼荼羅本尊があり、その前に不思議法師作の虚空蔵菩薩を胎内仏とした能満虚空蔵菩薩像が祀られています。
虚空蔵菩薩の両側には日天子、月天子、その外側には不動明王と毘沙門天、正面右手奥には六老僧の一人、日向上人、左手奥は妙見菩薩の遙拝諸としています。
宮殿や厨子は江戸の彫刻大工・嶋村唐四郎の作です。堂内の欄間には、十六羅漢とその弟子が智慧の宝珠を授かる一場面や、東端は持国王、西端は広目天、宮殿斜め上には唐獅子牡丹が彫られています。
正面頭上には、後藤義光作の梵字額が飾られています。
虚空蔵菩薩は、智慧と福徳を人々に授ける菩薩とされています。日蓮聖人も幼少の頃から、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」と願いをかけ、ある時、虚空蔵菩薩が聖人の前に高僧となって現れ、智慧の宝珠を与えられたと言われています。
現在の虚空蔵菩薩は、江戸時代の1716年に天端和尚によって作られたものです。高さは約8尺、一刀一礼をもって彫られ、12600拝に至ったと伝えられています。日蓮聖人の拝された虚空蔵菩薩像はこの仏像の胎内に納められていると伝えられています。

祖師堂

昭和48年(1973)に日蓮聖人聖誕750年慶讃事業として作られました。正面に安置されている日蓮聖人像は、徳川家康公の側室であったお万の方の奉納と伝えられています。
地面から2メートル近く上がっている床は、お釈迦様の神通力によって空中で法華経が説からた虚空会を表し、堂内の柱が6本なのは日蓮聖人の本弟子六老僧を表しているそうです。これは、建築家内井昭蔵氏が法華経の世界観、日蓮聖人の軌跡を設計に取入れています。

本堂と祖師堂の間を通り凡血の笹へ。

16歳で出家した日蓮が、虚空蔵菩薩に「日本第一の知者となし給え」と願をかけ、21日間の断食行を行いました。21日目に虚空蔵菩薩より智慧の宝珠を授けられます。
お堂から出てきた日蓮聖人は、血を吐かれ笹の葉に飛び散り、今でも葉には黒い斑点があります。人々は「いらなくたった凡人の血を吐かれたのだ」と考え「ぼんけつのささ:と呼ぶようになったそうです。

当時は雨模様。晴れていれば行く予定だった、妙見堂をご紹介します。

清澄山山頂の奥ノ院には、北辰妙見大菩薩が祀られています。妙見大菩薩は北極星を神格化したもので、星の中で最尊とされています。開運の守護神として昔から深く信仰されていて、除災招福・開運隆昌・海上安全・眼病平癒等のご利益があります。毎年7月21日・22日の年に1度だけの開帳があり、多くの人々がお参りに来て賑わいをみせます。快晴時には山頂で富士山を眺める事が出来るそうです。

妙見堂の途中には、県指定文化財でもあり鴨川石造物100選でもある石幢があります。

石幢は、仏堂内に掛ける旗の形から考えられたもので、石製の場合「石幢」と呼ばれています。中国を起源とし、わが国では鎌倉時代初期から盛んに作られるようになったと言われています。
幢身に仏像や梵字を刻んだ例が多くみられます。この石幢は八角形で、総高約2.08m。銘文から経典を納めたと思われますが、清澄寺では近年まで得度した僧の髪を納めていたことから、髪塚と呼ばれています。幢身に日本では他に類例のない六字大明王真言「唵麼抳鉢訥銘吽」が刻まれていて、注目されています。
基礎に彫られた複弁の反花と格狭間の彫りが良く残っていて、室町時代の特徴をあらわしています。

次は中門。

正保4年(1647)に創建され、天保8年(1837)に改宗されています。一門一戸の四脚門で茅葺切妻造りで、棟を高くするため組手は簡素ですが、江戸初期の建築様式が残っています。
千葉県指定有形文化財です。

中門をくぐり本院と宝物殿。
右が本院、左が宝物殿。
現在の本院は、平成29年4月27日、第13代別当・二宮日敬猊下の代に完成しました。
本院の入口をあけると斜め上に「鎮火牛(ひぶせのうし)」と呼ばれる牛の彫刻があります。火災で何度も焼失しており、通りかかった旅の匠が、火が鎮まるようにと願いを込めながら、牛を一刀彫で仕上げ奉納するとと去っていきました。それ以来、火災が出なくなりました。鎮火の牛は、左甚五郎作と伝えられています。
(現在)
(以前の本堂にあった物)

次は、宝篋印塔と梵鐘

宝篋印塔は、総高1.57m。地元の嶺岡山系で産出する蛇紋岩で作られています。塔身の4面には、半肉彫の金剛大日如来坐像、他の3面は開敷華王・無量寿・天鼓雷音の格如来種子が刻まれています。笠上の隅飾りが外傾し、相輪も一々刻んたというよりは選を刻んで示したという感があるなど、室麻時代の特色をよく表れています。台石に応永14年(1407)4月の紀年銘が刻まれています。造立年代や趣旨が明確で、宝篋印塔の標識的遺品として重要です。(県指定有形文化財・鴨川の石造物百選)

梵鐘は、高さ123.2cm、口径66.7cmの大きさで、3段組で鋳造されています。県内の文化財に指定されている梵鐘の中では2番目に大きいものです。
乳は4段5列があり、鐘の上部にある上帯には優美な飛雲文を、下部にある下帯には唐草文を施しています。2個の撞座は竜頭と平行して位置していますが、ともに壊れて元々あった蓮華文様は不鮮明です。池の間の第一区には「房州千光山清澄者」で始まる銘が刻んであり、第三区には「明徳三年八月」(1392)の年紀と、当時の清澄寺の別当が前大僧正法印大和尚弘賢で、源朝臣清貞、比丘明了、比丘恵闇が檀那となって寄進したことや、この梵鐘の鋳造に携わった武州塚田道禅の名前が見えます。
銘文には、清澄寺が慈覚大師の草創になることや、その時以来の梵鐘が壊れてしまったので、新たに鋳造されたことなどが記されています。(県指定有形文化財)

次は、観音堂

観音堂は明治13年(1880)に再興。十一面観音を祀り、安房国三十四観音の第十七番札所になっていて、丑年と午年に開帳されます。
安房の国札三十四ヵ所観音霊場巡礼は、鎌倉時代、後堀河天皇在位の貞永元年(1232)、悪疫が流行し、飢餓に襲われ、世情が百鬼夜行の惨憺たる有様だったことに心を痛めた時高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。

次は、清澄の大スギ(千年杉)

清澄の大スギは、古くからq「千年杉」と呼ばれ地域の人々から御神木として親しませてれてきました。千年杉と呼ばれていますが、樹齢は不明で、400年とする説もあります。樹高は約44m、幹回り14.2m、東西の枝張り20mに達します。右側は昭和29年(1954)の台風の際に、並んで立っていた同等に大きなスギがこのスギの幹をなめるように倒れ、その時に太い枝が落とされ、幹にも傷を残しています。
スギは国の特産で、本州、四国、九州に自生しています。昭和63年に環境庁が行った第4回自然環境保全基礎調査(巨樹・巨木調査)では、清澄の大スギは幹回りで上位に位置付けされ、スギだけに限れば堂々の国内第9位にランクされています。(国指定天然記念物)

次は、錬行堂

日蓮聖人が若き日に修行した場所です。傍らには、錬行の井戸もあり、この井戸の浄水を浴びて錬行をする僧俗は絶えなかったといわれています。

次は、仏舎利塔

仏舎利塔は、日本山妙法寺のものです。仏舎利塔が建立されたのは昭和44年(1969)4月27日。高さ30mで、ドーム状の建造物の上に相輪をもつ白亜の塔です。

次は、日蓮聖人銅像と旭が森

旭が森は、日蓮聖人が建長5年(1253)4月28日、朝日に向い、初めて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え立教開宗した場所です。
日蓮聖人銅像は、大正12年8月30日建立。彫刻師・渡辺長男氏の力作で、立教開宗の聖人を力強く表しています。

次は、道善房墓所

天福元年(1233)、日蓮聖人が12歳の時に清澄寺に勉学に入りました。その時の師匠が道善房でした。道善房は安房国東条郷清澄寺の住職。天台・真言の教義を教えました。諸国遊学から帰ってきた日蓮聖人は、立教開宗した直後、地頭の東条景信から迫害され、清澄寺を退去させられます。道善房は蔭で日蓮を守りながら、景信と争うことも日蓮に帰依することもありませんでした。日蓮は幼少の頃の師の恩を忘れず、道善房の死後、報恩抄をしたため同門の兄弟子である浄顕房・義浄房のもとへ送り、報恩の心をあらわされています。
道善房は建治2年(1276)3月16日に亡くなりました。

次は、天富神社

創建は不詳ですが、古老の口碑によれば、天富命が当国に渡り国土を経営された時、当山に登られたといわれ、その旧跡に住民が社殿を建てて命を祀られたのが創始であるといいます。昔は清澄山頂妙見山にあり、清澄山が社僧でしたが、神仏分離に際し、現在の地に移ったといいます。

当日は雨が強くなってしまったので、極真空手発祥の地に行けなかったのですが・・・ご紹介しておきます。

極真空手の創始者・大山倍達(1923~1994)が、1948年、清澄山において一年半におよぶ山籠もり修業を行いました。「山籠り生活の中で私の念頭や胸中には「極真空手」の理念や構想が次第くっきりと視えてきた」(大山倍達著「自分に勝て!わが性格改造論」より)後に著書の中でこう述べてるように、清澄山は極真空手発祥の原点と言うべき聖地だということで、平成19年、国際空手道連盟極真会館館長・全国支部長等によって建てられました。令和元年の台風被害により倒壊してしまいましたが、令和3年に現在の物に建て替えられました。

大山倍達は、1923年に日本占領下の韓国(朝鮮全羅北道金堤市(ちょうせんぜんらほくどうきむじぇし)で生まれました。(1922年生まれという説もあります。)韓国名は「崔永宜(チェ・ヨンウィ)」。実家は大きな農家で、使用人を雇うような比較的裕福な家でした。その使用人の中にボクシング経験者がいたことがきっかけでボクシングを始めました。中学生になると、地元を離れてソウルの中学校に入学し、そのころから本格的にボクシングを習い始め、市民大会で優勝したこともあったそうです。学生時代は暴力事件を起こして、学校を退学処分になり、親にも勘当されています。1939年、17歳だった大山倍達は、兄が留学していた日本へ行くことを決心します。日本に行くには、「密航」という手段しかありませんでしたので、大山倍達は働いたお金を貯めて準備し、日本に密航します。
大山倍達は、日本軍人を志し、山梨航空技術学校に入学し、学びながら、士官学校入学のための受験勉強をし、さらに肉体労働をして学費等を稼ぎます。しかしながら、士官学校に入ることができませんでした。その後は、色々な説があり、拓殖大学に入学(在籍照明なし)や朝鮮半島の民族運動に参加した、政治の道を志したとかあります。
確かなことは、1943年頃から武術の道に進み始めたという事です。日本に初めて本土に空手を紹介した船越義珍(ふなこしごちん)の門下生となります。1年3カ月で初段に昇進・その後、密航前からの知り合いである山口剛玄に空手の剛柔流を学びました。
朝鮮人徴用令によって、千葉県館山の飯場に配属され。そのまま終戦を迎えました。
終戦後は、民団(在日本大韓民国民団)の前身、建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)の訓練部長(戦闘部長)兼千葉県本部委員長として、朝連(朝鮮総連の前身)との抗争、暴力団の用心棒をしたり、アメリカ兵に暴行を加えたことで逮捕されることもありました。
逮捕後は脱走して、衆議院議員の天引きで身延山に身を隠し、その後は清澄山で山籠もりの修行をしています。
1948年、清澄山にて1年半(1年8カ月)に及ぶ山籠もり修行を行いました。飢えと孤独に克ち下山。修行中は、自分の心がへこたれないように眉毛を片方そりおとしてしまったそうです。
下山後は、館山に居を構え、1950年11月、館山市の八幡海岸にて記録映画「牛殺し」で猛牛と対決。47頭の牛を倒し、うち4頭は一撃で即死したと言われています。
館山警察と館山市民が囲む中、大山氏の戦いが収録されています。
1952年に渡米して全米各地を回り、空手の演武とデモンストレーションを行い、空手をアピール。その後もたびたび世界各国を歴訪し、演武と指導行い、空手を世界に広めました。プロレスラーをはじめ、あらゆる格闘家と真剣勝負を行い全勝。その技は「ゴッドハンド=神の手」と絶賛されました。1954年に創設された大山道場を前身として、1964年、国際空手道連盟極真会館が発足し大山は国際空手道連盟総裁、極真会館館長に就任しました。1969年には「直接打撃制(フルコンタクト)」を提唱し、第1回全日本空手選手権大会を開催。1975年には通称「カラテオリンピック」と呼ばれる第1回全世界空手道選手権大会を開催し、全世界に極真空手ブームを巻き起こしました。世界120か国に公認道場を持ち1200万人の門弟の総裁としてその生涯を極真空手に捧げ、1994年4月26日、肺がんのため急逝しました。
大山倍達は空手を世界に広めた立役者の1人であり、漫画「空手バカ一代」の主人公のモデルとして、少年たちの憧れの的でした。

以上3月の月イチツアーの報告でした。
また、ご報告します。