お散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」報告

ご無沙汰しております。なんだか、時がたつのが早くて・・・
新型コロナウィルスの感染が止まらない状況です。館山・南房総でも、7月の終わりから感染者の人数が増えてきていています。夏のイベントのウミホタル観察会も、千葉県の緊急事態宣言発令に伴い、他県への往来自粛要請が出ていることに考慮して、千葉県以外の方には、ご遠慮をいただく事になりました。楽しみにしていた方もいらっしゃると思いますが、とにもかくにも、感染者の減少を優先する事になりました。館山・南房総地域は、高齢者も多くいて、ワクチン接種も進んでいるのですが、デルタ株が接種しても感染する可能性があるので、苦渋の選択でした。
早く、感染の拡大が治まる事を願っています。

さて、大変遅くなりましたが、7月のお散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」を開催しましたので、報告します。
集合場所は、館山コミュニティセンターの駐車場です。
最初に訪れた場所は、天神山へ。

天神様を祀ってある岩山を天神山といいます。山の上には、自警団が使っていた半鐘があります。これは大網大巖院の常念仏堂にあった鐘で、元禄13年(1700)のものです。昭和17年(1942)の戦時中に金属供出からまぬがれるため、安布里の自警団が使用していた半鐘を供出し、代わりにこの鐘を自警団で使用することになり残されました。

次は、蓮幸寺へ。

日蓮宗の寺院で、興光山蓮幸寺といい、文明元年(1469)創建といいます。墓地の入口に中世の五輪塔の笠石や宝篋印塔の笠石があります。江戸時代はじめの宝篋印塔があり、里見家臣の田山左衛門介正常の墓と伝えられているものがあります。
門前には館山の大正・昭和期の俳人佐藤光雲の句碑があります。

境内には、日蓮宗の守護神を祀る七面大天女堂があり、周辺には、古墳時代の横穴墓が5基確認できます。

次は、舎那院へ

真言宗の寺院。本堂より高いところにお大日様と呼ばれる磨崖の大仏があります。


磨崖仏です。凝灰質砂岩に、高さ196㎝、膝張150㎝の如来形の坐像が彫られています。天保年間の火災で文書が焼失してしまい、磨崖仏も風雨にさらされもとの姿がわかりにくいので詳細は不明ですが、伝承によると、この磨崖仏は室町時代以前に作られたとされています。
この磨崖仏を地元の人は「お大日様」と呼んでいて、毎月27日にお年寄りの人たちが食べ物を持ち寄って、お堂でお篭りを行っていたそうです。
昔は、磨崖仏を覆うお堂が建てられていたそうです。江戸時代末期に館山湾の漁船が東の山から赤い光が立ち昇るのを見て、占者がこの山の上にある仏が風霜にさらされているためと指摘し、驚き怖れた土地の人たちが、広さ六畳ほどの瓦葺のお堂を建てたそうです。大正12年の震災で倒壊するまでは、高床式で扉がついた大きなお堂がだったそうです。
お大日さまは、前面にある穴に大豆を投げて、穴に大豆が入ると子ども授かるという信仰や、病気になった人がいるときは7人がお堂にこもって祈願をすると病気が治るという信仰など、様々な信仰を集めていました。

すごく趣のある場所です。

次は、大網砲台(大日山高角砲台)跡へ。

太平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲台などがおかれていて、いまも凹地の塹壕などが残されています。周辺には、弾薬や食料などの物資貯蔵用の壕が掘られ、なかには壕の正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えなくしたものがあります。軍事資料では、大網砲台と書かれていますが、大巌院慰霊碑には大日山と刻まれています。

次は、小原家へ少し寄り道

国登録有形文化財の小原家の門の所までお邪魔しました。
小原家は代々農業を営んでいました。7代目小原金治さんは政治家・実業家としての道を歩み、県会議員や衆議院議員を務めたほか房総遠洋漁業(株)や安房銀行の経営にも携わっていました。主屋の主体部は明治29年に、離れは昭和4年に、いずれも金治さんが建築しました。主屋は寄棟造でげやびしを廻らし玄関を付す主体部の西に台所部や土間部を接続しています。土間部は安政6年(1859)頃に三代目小原金兵衛が建築し、明治29年に建築された主体部は6間取で、奥座敷は床の間の両側に床脇を設けた豪壮な意匠。台所部は昭和前期の増築です。近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れの内部が座敷と茶室からなり、座敷には床脇の円窓など独自の意匠が見られる良質な建物です。主屋の西には米蔵、文庫蔵、敷地南には旧長屋門が建っています。

次は、観音寺へ。

真言宗の寺院で、南養山観音寺といいます。境内に入ってすぐ左手にある石造の地蔵尊は、高村光雲の弟子で館山楠見の石彫家俵光石の作品です。明治33年(1900)の作で、台座に地獄極楽の図が刻まれています。
門柱にはモダンなガス灯があります。

次は、日枝神社へ。

下真倉の鎮守で、むかしは山王権現と呼ばれていました。社殿のなかには万里小路通房が明治30年(1897)に書いた「本宮」の額、大正4年(1915)の鏡ケ浦時の絵馬などがあります。

最後の見学場所、大巌院へ。

浄土宗の寺院で、仏法山大網寺大巌院というのが正式名所です。本尊は木造阿弥陀如来坐像で館山市指定文化財です。開山は雄誉霊巖上人で、慶長8年(1603)に安房国主里見氏9代義康の帰依により、大網一村を寺地として与えられ、大巌院を創建しました。江戸時代、大巌院は42石の寺領を有し、末寺22ケ寺を擁し、安房における浄土宗の触頭でした。当初の本堂は雄誉上人が建て、現在の本堂は安永元年(1772)に第8世到誉俊察上人の代に茅葺で本堂を再建したことが棟札から分かります。昭和39年に本堂を改築して茅葺を瓦葺にしました。
現在の本堂の窓には、来迎図や蓮華浄土図がステンドグラスで描かれています。

山門の側には四面石塔があります。(千葉県指定有形文化財)

元和10年(1624)に建立した、総高2.19m、玄武岩で作られている四面石塔です。4面すべてに刻字されていることから四面石塔と呼ばれています。四面石塔は県内でも類例が少なく、なかでもこの石塔は、四面に「南無阿弥陀仏」の6字を、日本漢字・印度梵字・中国篆字、ハングルの4か国語で刻んでいるのが特色です。

境内には、雄誉上人墓(館山市指定史跡)があります。

天文23年(1554)に駿河国沼津で今川一族の沼津土佐守氏勝の三男として誕生しました。11歳で浄運寺(沼津市)で出家し、15歳で大巌寺(千葉市)に入寺し修行を重ね、天正15年(1587)大巌寺三世住職となりました。天正18年に故あって大巌寺を辞し東海道方面に旅立ち南都に霊巖寺(現在の奈良市霊巖院)などを開創しました。その頃、伏見城に滞在していた徳川家康より大巌寺再住を命じられ、文禄2年(1593)に大巌寺へ戻り、五井領主松平家信の援助を得て堂宇の改築をしました。慶長8年(1603)再び大巌寺を辞し、伊豆大島、安房を巡教し、安房国主里見義康の帰依により大巌院を創建しました。慶長18年内藤政長の請いにより佐貫(富津市)善昌寺に転住しました。寛永元年(1624)隅田川河口の沼地を埋め立てて霊岸島(東京都中央区)を築き、霊巖寺を創建しました。寛永6年将軍徳川家光の命により総本山知恩院32世となりますが、同10年知恩院が火災に遭うと、家光から諸堂再建を命じられました。寛永13年に大洪鐘を鋳造しますが、これが除夜の鐘で中継される大鐘です。寛永18年(1641)諸堂造営が成就すると、御礼のため江戸へ下向し、江戸城で法談を行いましたが、9月1日江戸霊巖寺で88年の生涯を閉じました。

大網砲台の所で説明しました、大巌院の慰霊碑です。

下の部分に亡くなられた方の場所とか書かれていて、なんだか読むと切なくなってしまいます。

あとは、出発地点に戻ります。
7月ともあって、暑く蒸し暑い日でしたが、無事に出発地点へと戻る事ができました。この時期のウォーキングは、厳しくなってきます。なので、8月はウォーキングをお休みして9月からになります。しかし・・・緊急事態宣言が延長になった場合、どうするか悩み中です。館山・南房総エリアの感染者が少なくなっていたら開催する予定です。
今年も、我慢の夏になりました。早く、終息して楽しく夏を過ごしたものですね。