月イチツアー「丸氏の郷へ」報告

新年度になりました。また旅倶楽部の活動も6年目に突入しました。
まだまだ頑張っていきたいと思っていますので、今年度もよろしくお願いします。

さて、今年度の1発目は月イチツアー「丸氏の郷へ」です。以前、雨で中止となったコース
の復活です。天気に恵まれましたが、風が強くて・・・・桜の花吹雪状態でスタートします。

出発地点は石堂寺です。

石堂寺について説明します。
天台宗の寺院です。寺伝によれば、奈良時代神亀3年(726)、行基菩薩が仏法弘通のため東国に下
りこの地に来られたとき、谷間の草庵の中から法華経を読誦する声が聞こえてきました。訪ねてみ
ると3人の僧侶が仏舎利を棒持し経を唱えていました。行基はそのいわれを聞き、この地こそを海
内無双の霊場であると確信し、自ら一刀三礼して十一面観音菩薩の御尊像を彫り本尊とし、大塚山
に石塔寺を建立して天下泰平・万民快楽を祈願したといいます。
仏舎利は宝塔に納められて、その昔インドにおいてマウルヤ王朝アシャカ王が釈迦入滅後、その骨
を八万四千の塔に納められ、全世界に配分されてものの一つだと伝えられています。日本では、こ
の宝塔が三基あり、滋賀県の阿育王山石塔寺と、群馬県の白雲山石塔寺(現・廃寺)とここ石堂寺
です。創建当時の寺名は石塔寺でした。


仁王様は「蛭取り仁王」と言われ、石堂地区の農民を悩ますヒルを退治して、その後この地区には
ヒルが居なくなったという民話が残されています。

本堂へと階段を上がっていきます。以前、聞いた話によると本堂までの階段の数は108段で、本
堂に着くまでに煩悩を取り除いてくれると聞いたので、煩悩のなくしながら上がっていきます。

境内には、文化財が多くあります。左側の本堂と右側の多宝塔は国指定重要文化財です。
本尊の十一面観世音菩薩立像・厨子も国指定文化財です。
多宝塔は、天文14年(1545)、住職宗海を大本願、丸珠師谷氏を大旦那とした丸一族が、里見義堯
・正木時茂等の協力をえて建立しました。中には鎌倉時代の千手観音像が安置されています。(県指定)


左側の鐘楼堂は市指定文化財です。真ん中の山王堂は県指定文化財です。
まだありますが、今回はこの辺で・・・・

次に向かうのは石堂城跡へ。遊歩道ができていて歩きやすい道になっています。
余り城跡という感じがしないのですが、頂上にたどり着くと丸氏の郷が一望できます。

次は、石堂寺の中にある旧尾形家へ。

江戸時代中期の享保13年(1728)の建築で、分棟型と呼ばれる形式で、居間・座敷・寝室等から
なる主屋と、かまや・作業場として利用される土間とがそれぞれ棟を別に建てられています。
尾形家は、旧丸山町珠師ヶ谷で江戸時代に中条流の医師をしていた尾形宮内を初代とし、その後この
地で名主をつとめたころもある家柄の旧家です。昭和46年・47年度に解体移築されました。
この場所は、以前小学校のあった場所だそうです。戦時中は軍が使っていたそうです。

次は、丸郷神社へ。

養老年間(717~724)の創建と伝えられて、元諏訪大明神と号しました。丸氏滅亡後、里見氏の領する
に至り、丸の郷の大社として祀られました。明治2年社号を改め丸郷神社と呼ばれています。
今回は一の鳥居の所で終わりですが、ここから約500m先の山に本殿があります。

次は、丸氏の菩提寺安楽寺へ。

天台宗の寺院で称号は吉祥山極楽院安楽寺。本尊は虚空蔵菩薩・阿弥陀如来です。寺伝によると、宝亀
年間(770~780)鴨川市の清澄寺の開基である不思議法師の創建であると伝えられ、本尊の虚空蔵菩薩は
法師が清澄寺で柏樹に彫られたものであると言われています。その後、慈覚大師がこの地を巡錫し堂塔
伽藍を修復しましたが、幾歳月かは草が茂り、伽藍は破壊され荒れ果てました。その後、この地の豪族
丸氏によって、現在地に移し開山し、丸一族の菩提寺としました。
中雀山門は、茅葺円柱の四脚門で享徳元年(1452)の建造と言われて、市指定文化財です。


本堂裏山の中腹には岩窟があり、中に墓石が残されていて、丸氏の墓だと伝えられています。

こちらで、昼食を取って善性寺へと向かいます。
途中、石仏群があり、地域の信仰を見る事が出来ます。

善性寺です。

天台宗の寺院で本尊は薬師如来です。昔は別の所にありましたが、元和2年(1617)に現在の場所に
移したといいます。この地は、丸一族の中でも最も有力であった咒師谷(しゅしがやつ)殿の屋敷
跡地とされ、境内のやぐらには、宝篋印塔や五輪塔が数奇あり、咒師谷殿の累代の墓だと伝えられ
ています。市指定文化財

境内には、大黒天が祀られていて、この大黒天の裏側に「後藤利兵衛橘義光作七拾ご翁」の銘が
あります。

次に向かったのは諏訪神社です。

祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)。長野県諏訪市の上諏訪神社と下諏訪神社の二社を歓
請した神社です。弘治3年(1557)里見義堯が津久井右馬允を代官として当社を再建しています。

最後の見学場所は、普賢寺跡へ。

現在は、石堂青年館になっていて、敷地内には普賢寺跡碑文が残されています。
普賢寺は、永興山多聞院普賢寺といい天台宗でした。昭和42年薬師如来ならびに不動明王を
石堂寺客殿に合祀して寺の歴史を閉じました。

出発地点へと戻り、今回のウォーキングツアーは終了しました。
この南房総市の丸山地域のエリアだけでも古いお寺が多く残されています。
平成29年度、まだまだ面白いコースがありますので、ご興味のある方、是非ご参加ください。

お散歩ツアー「三芳・中堰歴史と自然探訪」報告

新年度に入りました。桜の時期も終わり新緑の季節に入ってきました。
今年度のウォーキングの下見を開始していますが、新芽もでてきて歩くのにはいい季節になりました。

さて、3月の終わりに、28年度の最後のお散歩ツアー「三芳・中堰歴史と自然探訪」を開催しまし
たので、報告です。
中堰の駐車場から出発します。

まずは中堰の周囲を歩きます。

中堰は、旧三芳村の中地区にあります。昭和初期に農業用水源として造られました。その後、平
成9年度から10年度にかけて、ため池の保全と田んぼの用水の安定的な確保のため、県による
土地改良事業の一環として大々的な改修工事が行われました。周囲約1㎞の中堰周辺には、様々
の樹々が植えられ、色々な生き物が生息し、自然を感じられる貴重な場所になっていて、中堰親
水公園(游遊の里)と呼ばれています。地域の方が主体となり、月1回の里山わんぱく子供塾な
どが開催され、自然体験教育活動が実施されています。

3月の下旬という事もあって、桜を見れるかな?と期待していたのですが、今年は遅くまだ固い
つぼみの状態でした。

ゆったりのんびり堰の周辺を歩き次に向かうのは、九兵衛さんお墓碑。中堰から墓碑まで約1㎞
の間に、石仏が4カ所あります。

壊れてしまったものなどもありますが、お花も供えられ信仰されています。

九兵衛さんの墓碑です。(墓碑が見えませんが・・・)

吉田九兵衛さんって誰?という事で、この人は、正徳元年(1711)の万石騒動で、27カ村の一つ
でした中村の名主さんです。九兵衛さんは、一揆の頭取腰押の一人と見られて捕えられて入牢し
ました。斬罪は免れましたが、江戸10里四方と安房国追放の刑に処せられてしまいました。
墓碑の中央には吉田九兵衛と刻まれています。
万石騒動は、江戸時代中期の正徳元年(1711)に安房国北条藩1万石の所領27ケ村全体の農民が
起こした一揆です。

墓碑の脇には、急な階段があります。

この階段を登ると愛宕神社ですが、ちょっと足場が悪いので今回は登りませんでした。

次は、駒形神社へと向かいます。

祭神は、蒼稲魂命(あおいねのみたまのみこと)で食物の神と言われています。
「駒形」の名でよばれているのは、かつて神馬を差し出した競馬をおこなったことからと思われます。
天保14年(1843)の「仲村差出明細書」等によると、当時の江田村、御庄村、竹原村、山名村と仲村
の名前があり、毎年9月9日に竹原村山王神社の祭礼に参加し、競馬をおこなっていたことがわかり
ます。駒形神社の創立年月日等は不明です。
境内には、三山講碑や御嶽大神、「宗吾大神」の石碑があります。

ちょっとこちらの狛犬さんは、マンガチックでかわいいので写真を載せておきます。

阿の狛犬さんの方が可愛いと思います。

今回は、お散歩ツアーという事もあり見学場所はここまでです。あとは中堰へと戻ります。
後になってしまいましたが、中地区の歴史について少し書いておきます。
「平久里川」の支流「山名川」の中流左岸、沖積平野に展開する集落で、仲村とも記され
ました。里見氏時代末、御隠居様(里見義康の母)の地行所で386石余でしたが、慶長
19年(1614)に里見氏の改易後は幕府の直轄領となりました。寛永年間(1614~1643)、
村は東組と西組に分郷し、その後、旗本大嶋氏と小笠原氏の相給、屋代越中守領、忍藩松
平氏領などを経て、明治元年(1868)長尾藩本多領となります。その後、周辺の村で連合村
を作り、自治行政をおこない、町村製施行令で「稲都村」の大字となります。
鎮守は「駒形神社」で、寺院は「正安寺」(大正6年に廃寺)のほかに地蔵堂、堅牢地神
があります。

平成28年度は、このお散歩ツアーが最後です。全部で23コースで2コース中止でした
が、怪我なく無事に終わる事ができました。ありがとうございます。
また、変な文章でお伝えしています、ガイドの独り言も読んでいただきありがとうございます。
平成29年度も23コース開催しますので、是非、ご興味のある方、運動不足の方等々、
一緒に楽しく歩きましょう。