梅雨入りしましたねぇ~。なんだか、梅雨だと心がブルーになってきて、腰の調子も良くなくなり
ます。事務所に閉じこもってると・・・やっぱり梅雨は嫌ですね。
そんな梅雨入りした館山・南房総ですが、ウォーキングツアーを開催しました。なんとか雨も降らず
楽しいウォーキングになったかと思います。
今回は、鴨川市にあります天津エリアを散策してきましたので、報告します。
出発は、二タ間駐車場。鴨川市の駐車場になるんですが、ここがまた説明するのが大変でして・・・
また旅倶楽部が企画するとコースの都合上なんかで、駐車場が難しくなっちゃうんでですよ・・・
すみません。
さて、本題に戻りまして、二タ間駐車場から出発し、最初に行くのは閻魔堂です。
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通称「芝堂」と呼ばれています。堂内には阿弥陀如来、閻魔王、奪衣婆の三体の像が祀られています。
奪衣婆(だつえば)ですが、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る
老婆の鬼です。奪衣婆が剥ぎ取った衣服は、懸衣翁(けんえおう)という老爺によって衣領樹にかけら
れます。剥ぎ取った衣の重さによって死後の処遇が決められるとされています。
江戸時代末期には、奪衣婆を祀ったお堂などが建立され、民間信仰では奪衣婆は、疫病除け・咳止め、
特に子供の百日咳に効き目があると言われていました。(諸説あります)
こちらのお堂には、奪衣婆からはじまって、閻魔王に裁きを受け、最終的に阿弥陀如来によって極楽
浄土へと導いてもらうという、像の構成になっているんですね。
お堂の入口の両脇には六地蔵立像が建立されています。
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このお地蔵様は天津小湊地域の中で最も大きな六地蔵様です。200年以上前から見守っています。
次は、萬福寺と須賀神社へ。
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天台宗の寺院で蔵王山観音院と号します。本尊は聖観世音菩薩。厨子の中には、本尊と四天王が安置され
ており、脇立は、不動明王と毘沙門天が立ち、厨子前には聖観音が立っています。
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御詠歌を刻む額は、初代後藤義光の作です。以前は外にあったそうですが、今は本堂内に掲げられています。
奥様に、中を見させていただきました。ありがとうございます。
すぐ隣には、須賀神社があります。
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祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。後に行きます、天津神明宮の主祭神である天照皇大御神の弟にあたる
素戔嗚尊が祀られています。御神輿は、外房一帯でも大きく重い大神輿です。暴れ神輿とも有名で、7月の
最終金・土・日に祭礼が行われ、大神輿が町を練り歩きます。
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鳥居は、天津神明宮と同じに式年鳥居の神事の際にあわせて建て替え神事が行われます。
次は、海福寺へ。
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真言宗智山派の寺院で山号を宝蔵山と言います。本尊は阿弥陀如来三尊像です。
室町時代初期の応永4年(1397)の創建と伝えられている法蔵山海福寺が、昭和45年近隣にあった同宗
同派の久光山吉祥院・東光山宝泉寺・普光山持明院の三ヵ寺と合併し、山号を宝蔵山と改めて現在のお寺
になりました。旧海福寺は、江戸時代初期の正保4年(1647)に徳川家から清澄寺を賜った頼勢法印によっ
て中興され、旧天津村の正蓮坊・弁天堂・地蔵堂(現大師堂)を管理しましたが、文政7年(1824)の天津
村大火によって、御本尊こそ救い出したものの、吉祥院・宝泉寺と共に堂宇のほとんどを焼失してしてし
まったそうで、寺歴を語る史料がないそうです。江戸期の様子は、本寺にあたる勝福寺(鴨川市川代)の
史料などによって知るだけになってしまっています。
本堂には、本尊の阿弥陀如来三尊像のほか、厨子の右袖に長狭観音札所の本尊千手観世音菩薩、左袖に安房
国地蔵札所の本尊の地蔵菩薩があります。
境内には、いろいろな石造物があります。
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宝篋印塔と大乗妙典塔。
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筆子塚。
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宝篋印塔。天津地域で最も高い宝篋印塔です。
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庚申塔。天津地域で、最も古い延宝8年(1680)のものです。
あと境内にはお堂も建てられています。
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真ん中のお堂が「大日堂」向かって右が「淡嶋堂」、左が「稲荷社」です。
大日堂
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堂内には、真言宗密教の中心仏の「大日如来」、真言宗の宗祖「弘法大師空海」、防火防止の
守護神「愛宕明神」の三尊をお祀りしています。
淡嶋堂
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江戸時代にこの地に進出してきた関西漁民が、紀州の淡嶋明神を歓請したのが始まりと伝えられ
ています。古来から、お飾りしなくなったお雛様や使われなくなった裁縫針を納める信仰があります。
稲荷社
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旧吉祥院が京都の伏見稲荷から歓請した正一位稲荷と旧海福寺にあった福徳稲荷をお祀りして
います。
まだまだ、ありますがこの辺で次へと向かいます。
すぐお隣にある善覚寺へ。
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浄土真宗の地震で本尊は阿弥陀如来。もとは、近江国高島郡(現滋賀県高島市)に慶安元年(1648)
4月3日の創立。慶安4年(1651)3月4日に現在地へ移転しました。鴨川市指定有形民俗文化財
「善覚寺の近世文書」は、関西漁民の関東出漁を伝える貴重な思慮としてのこっており、墓地には
紀州出身者の墓石が多く見られます。
先ほど行った海福寺には、淡嶋堂も関西漁民が勧請していたので関西漁民が信仰していたことが
わかります。
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本堂向拝の彫刻は、武志伊八郎信常(二代伊八)によって1840年頃製作されました。
二代伊八は初代伊八の実子として、天明6年(1786)頃に生まれました。
二代伊八の詳細は不明ですが、初代伊八のそばで技術を磨いたと推測されています。
初代伊八の弟子・島村久八郎由勝らとともに重要なメンバーとして工房の活動を支えていたと考え
られます。二代伊八の確実な作例は以外と少ないため、彼の諡号の全体像を把握することは困難で
す。銘を記した作品も少ないため、こちらな信常の銘が記載された作品は、基準作にも位置づけ
られる貴重な作品なんだそうです。
次は日澄寺です。
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日蓮宗の寺院で、本尊は十界勧請の大曼荼羅。開創は日蓮聖人。
文永元年(1264)11月11日、小松原法難の折に殉職した天津領主工藤左近将監吉隆公の居館
でしたが、その嫡子刑部阿闍梨長栄坊日隆上人が父の菩提を弔うために建立しました。吉隆公
は、鎌倉幕府出仕中に四条金吾公、池上宗仲公等とともに日蓮聖人に深く帰依しました。文永
元年秋、日蓮聖人は母の病気見舞いに小湊へ帰りましたが、花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆
公の館を訪ねる道すがら、東条の小松原で地頭・東条景信の伏兵に襲撃されました。これが「
小松原法難」です。この法難で、日蓮聖人は頭部に三寸余りの刀傷をうける危難にあい、救援
に駆け付けた吉隆公は討死しました。聖人は、吉隆公の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆
院日玉上人の法号を与えました。
本堂の裏手には、吉隆公のお墓があります。
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ご住職に少しお話ししていただきました。ありがとうございます。
そろそろお腹がすいてきました。お弁当までのひと踏ん張り天津神明宮へと向かいます。
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祭神は天照皇大神・豊受大神・八重事代主神(えびす様)。大山祇大神ほか七柱の神を合祀して
います。神代の昔、天孫降臨(天照大神の御孫が地上を治めるために高天原から降臨したこと)
に当たり国譲りした事代主神が海路でこの地に移り、東方鎮護の神として鎮座し、これを「もう
け明神」と崇敬したことが始まりと伝えられています。
その後、治承4年(1180)石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れた源頼朝が源氏の再興を伊勢神宮に祈
願し、みごと成就したことにより、天下平定ののち、寿永3年(1184)、伊勢より神霊を歓請し、
もうけ明神とともにお祀りされてのが「房州伊勢の宮」と仰がれるようになりました。
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境内にある「まるばちしゃの木」です。安房以西、四国、九州、沖縄、相碗などの暖地に自生する
落葉小高木です。天津小湊地域の数箇所で自生していますが、この地域がまるばちしゃの木の北限
とされています。境内にはこの木が4本あり、まるばちしゃの木の中でも古木に属し、大きいもの
は、幹回り1.5mにもなります。千葉県の天然記念物に指定されています。
さぁ~昼食の時間になりました。今回は天津神明宮さんのご厚意により、椅子を使わせていただき
ました。宮司さんもいらっしゃいまして、昔の天津のお話しなど、楽しくお聞かせ下さいました。
ありがとうございます。
お腹もいっぱいになったところで、次の正蓮坊へと出発です。
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本尊は閻魔王。堂内の中央の厨子には、閻魔王像が安置され、十王、奪衣婆像、弘法大師が祀られ
ています。正蓮という僧が建立したという伝承から「正蓮坊」と呼ばれています。
堂の入口には、正蓮法師の霊を祀った石碑があります。
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あとは、海岸線を通り駐車場までの道を行きます。途中、明神の鯛へ寄り道。
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この明神の鯛は、千葉県指定天然記念物です。天津漁港と二タ間海岸の間の沖合200m
ほどのところに明神礁と呼ばれる岩礁があります。この付近は水深5mほどと浅いのですが、
多くの魚類が生息しています。大正時代に、この海域に群れて生息するクロダイを保護し、
鑑賞するために地元から天然記念物の要請があり、県は昭和10年(1935)に指定しました。
昭和8年には禁漁区となり、タイ見物船も出て町の観光拠点として賑わったそうです。船べ
りを叩くと、いっせいに魚が集まる様子は壮観だったといいます。タイ見学船は、第二次世界
大戦で中断されましたが、昭和38年(1963)に復活し、その後10年間ほど行われていました。
あとは駐車場へと戻るだけです。今回のツアーも見どころ満載で、ガイドの独り言を書くのが
大変です。だけど、狭いエリアに多くの神社仏閣があり、それだけ信仰していたことが分かる
地域でした。7月の月イチツアーは、反対側の浜荻地区を歩きます。天津小富士と呼ばれる
引土浅間山も登っちゃいます。