月イチツアー「林道・山中線」報告

年内最後の報告となるかと思います。なんだか、溜めて書いてるので、手抜き感が出ているような・・・
誤字脱字もあると思いますが・・・大きな心でお許し下さい。

さて、今年最後の月イチツアー「林道・山中線」を開催しましたので、報告します。
今回は、富津市へと進出してきました。

集合場所は、もみじで有名なもみじロードの道路沿いにある竹ノ内米店前です。
今回は、竹ノ内米店さんのご協力で駐車場を利用することができました。ありがうございます。

最初に林道・山中線を歩いていきます。

(写真は11月14日のものです)
林道山中線は、3年前の台風でがけ崩れなどがあり一時通行止めでしたが、一度開通するも今年に入り再度がけ崩れがあり通行止めになっていましたが、開催日は通行止めが解除になっていました。
モトクロスバイクの人とかが林道を楽しんでいるようです。
下見の時は、こんな感じでした。

林道をすすんでいくと、中沼地区に出てきます。

小さいながら集落が形成していましたが、今は住民もわずかです。

中沼地区から長狭街道へと続く道を歩いていきます。
中沼地区に住んでいる人がいないため、市境の峠までの林道も補修されていません。
地すべりで道が寸断されていたりとまぁ~大変な道になっていました。

長狭街道に出てもみじロードに向かっていくと、奥畑地蔵堂があります。

詳細等は不明。堂内に地蔵菩薩と閻魔大王が安置されています。

次に住吉神社へ。

祭神は住吉三神(底筒男命(そこつつおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・上筒男命(うわつつのおのみこと))。創建年代等不詳。鳥居が独特で、柱が白色ですが、貫と島木、笠木が朱色で塗られています。
江戸時代には、石の鳥居があったそうで、崩れたら危ないからという事で、木の鳥居になったと近所の方が話してました。色についてはわからないとの事でした。

次は、阿夫利神社へ。
長狭街道から、山をのぼっていきます。

祭神は日本武尊・弟橘姫。創建年は不詳ですが、中世に創建されたと思われ、相模の大山阿夫利神社を勧請したといわれています。
標高270mの石尊山の山頂に鎮座する神社で、別名天降神社とも呼ばれています。

景色はこんな感じです。

次は、顕徳寺へ。

日蓮宗の寺院。建武元年(1334)開基。鋸南町の妙本寺の末寺です。十界曼荼羅御尊が安置されています。

長狭街道からもみじロードへ入っていきます。
入った場所辺りが志駒川の源流になります。

もみじロードからほんの少し入ったところに、天神社があります。

祭神は藤原道真。嘉永16年(1639)領主松平出雲守勝隆、山中村名主三平五右衛門、本願主白石太右衛門等が再建。明治6年宮本白石太右衛門、祠掌松本由寿外氏子中、本殿を大石祠に改めました。別名菅原神社とも称します。

あとは、出発地点の竹ノ内米店さんまで歩いていきます。
開催日は、若干紅葉が残っていて、楽しむことができあました。

この日は、出発地点で犬に会い、途中でサルに会い、帰りにキジに会いました。これって!!桃太郎のお供にすべて会えた一日でした。

今年も残り少なくなってきました。1年間、また旅倶楽部を応援いただきありがとうございます。来年もなんとか活動していきますので、応援よろしくお願いします。
皆様にとって、良い年でありますように。

お散歩ツアー「秋の安房中央ダム周辺散策」報告

朝晩冷え込みが強くなってきた館山・南房総。私の住んでいる場所は、朝霜がおりたりしはじめました。外にある車のフロントガラスは凍ってしまっていたりと、本格的な冬到来です。

さて、12月のお散歩ツアー「秋の安房中央ダム周辺散策」を開催しましたので報告します。
集合場所は、鯨岡駐車場。まずは、王子神社へと向かいます。

途中には、馬頭観音があります。

王子神社です。

祭神は王子命(おうじのみこと)。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱を相称して「王子大神」と呼びます。
詳細等不詳ですが、丸山町史によると、継体天皇の御代・丸子皇子が東国に使いして御殿山を巡行したとき、皇子の名を御子神に止まらせたこの地を支配させました。王子が後にこの地に神社を建立したといいます。

次は、小野次郎右衛門忠明生誕の地公園へ。

小野次郎右衛門忠明の生誕の地としてつくられた公園で、公園内には、小野派一刀流の刀をモチーフとしたモニュメントがあります。

小野次郎右衛門忠明は、永禄12年(1569)(又は永禄8年(1565))に生まれました。前名は神子上 典膳で、後に母方の小野姓を名乗りました。
はじめ里見義康に仕えていましたが、その後、剣豪伊藤一刀斎が上総を訪れてたさいに試合を申し込みましたが、敗れ弟子入りします。その翌年再び上総を訪れた一刀斎に誘われ、里見家を出奔(逃亡して跡をくらますこと。失踪。)して諸国修行の旅に随行します。
一刀斎の元には善鬼という兄弟子がいましたが、やがて一刀斎の命で後継者の座をかけた決闘を行い、善鬼を倒しました。決闘の後、一刀斎は自身の差料瓶割刀を授け姿を消し、その後の消息は不明だといいます。
「武芸小伝」によると、かねてから善鬼を殺害したいと思っていた一刀斎は、事前に秘術夢想剣の極意を授け典膳の勝利を助けたとあります。
その後、一度故郷に戻ったのちに江戸に移り、駿河台ある本郷に居住したといいます。文禄2年(1593)江戸近郊の膝折村で人を殺して民家に立てこもった剣術者を倒したことで徳川家康に認められ、200石の禄高をもらって旗本となります。徳川家では徳川秀忠付となって剣術を指南しました。このとき姓を神子上から改めました。秀忠が二代将軍に就任したことで、一刀流は柳生新陰流と並ぶ将軍指南役として大いに栄えました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されましたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で螫居を命じられ、その後結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石となった。その後一刀流の秘事を秀忠に伝授した褒美として、備前勝光の脇差、御料の羽織、黄金等を恩寵され、さらに秀忠から一字を賜り忠明と改名しました。
慶長年間の大阪冬の陣・夏の陣のあと色々ありまして、寛永5年(1628)11月7日、60歳で死去。下総国埴生郡寺台村、永興寺に葬られました。現在の千葉県成田市にある成田高等学校・付属中学校の裏山に墓があります。忠明の後は嫡男の忠常が継ぎ、200石の加増を受けて800石となりました。小野家は旗本として明治維新まで代々続きました。

公園を後にし、安房中央ダムへと向かいます。

なんか工事していました。

鍛冶畑隧道。

暗いトンネルを抜けて少し行くと山入集会所があります。

入口には、石造物があります。

二の滝橋。

二つの滝があったとか・・

橋の上から見た安房中央ダム(ダム湖)

安房中央ダムは、昭和33年(1958)安房中央土地改良区が設立。千葉県の県営かんがい排水事業である安房中央用水改良事業の一環として建設され、昭和45年(1970)に完成しました。高さ36mのアースダムで、有効貯水量202.4万㎥の干害を目的とするダムです。ダム湖の名前は丸山湖です。

二の滝橋を渡りトンネルを抜けると犬切橋です。

この橋の名前になっている犬切には、伝説が残されています。
川谷区有文書では、川谷犬切出身の鈴木留吉氏の「犬切考」と青木貞次郎翁の「房州犬切縁起」と二つありますが、2説とも「里見八犬伝」の影響があります。「犬切考」では、旅の女性が犬に支えられながらこの地にやってきました。村人は、気の毒のあまり声をかけ休ませてあげましたが、女性は起き上がることができなくなってしまいました。犬はというと、立派な忠犬で、昼も夜も主人のそばからはなれず、食事も主人以外の人からは一食も食べませんでした。しばらくして主人の女性が亡くなり、墓標として楓の木を植え傍らに葬られました。犬は主人の埋められた辺りに行っては涙も声も枯れ果てる程悲しみ鳴いていました。日数が経つにつれ、犬は狂態し、墓を掘り起こしたり、犬や猫・馬・牛・人間にまで飛びかかってくるようになり、村人達は可哀そうだが仕方なく殺してしまうほか手段がないという事になり、犬を殺してしまい、刀を持っている人々に一太刀ずつ切られ、最後に川へ投げ落とされてしまいました。この地域には犬射り場や犬鳴かせ・犬抛り崎・太刀洗井戸などの場所が語り継がれています。

なんか切ないお話です。

犬切橋を渡って国道410号沿いに大きなお地蔵さんがあります。

あとは、駐車場へと戻ります。

この時期のダム湖は、水が溜まっていないので、昔の土手?道?なようなものが見えます。あともう少し早く開催していれば紅葉も楽しめたかと・・・
犬切のお話も、あまり知られていないお話じゃないかと思っています。地域の名前にもなっているので、地域の人で伝えて、残して行ってほしいです。

月イチツアー「千倉瀬戸を巡る」報告

12月も残り少なくなってきました。道端には水仙の花も咲き始めました。
ガイドの独り言も追い込みにで公開しております。
(最初からちゃんと書いてればいいのに)

10月29日に月イチツアー「千倉瀬戸を巡る」を開催しましたので報告します。
集合場所は、瀬戸海岸駐車場です。
出発し、瀬戸川を渡ったところに旧千歳村白子の石碑があります。

少し行くとハクダイ食品があり、ちょうどその時は、くじらのたれの天日干しをしていました。

「くじらのたれ」は、南房総市に江戸時代から伝わる伝統的なくじらの食べ物です。くじらの肉を大きめにスライスし、醤油や塩をベースとした独特なタレで一晩漬け、天日で干したものです。昔は保存食として食べられていたようです。昔から伝わるくじらのたれは硬いものですが、現在はソフトなものがあり、そちらの方が売れているそうです。軽くあぶって食べます。
私的には、ソフトのくじらのたれをあぶって、マヨネーズに七味唐辛子をいれた物に付けて食べています。
くじらのたれは、安房地域の食文化です。

次は、顕本寺へ。

日蓮宗の寺院で本尊は日蓮像。正長元年(1428)天台州を、日蓮宗に改宗しました。慶長15年(1610)に現在の地に移転しました。昭和22年9月8日、列車の煤煙によって、本堂庫裡・稲荷堂及ぶ重要書類を焼失してしまいました。昭和25年本堂を再建しました。

次は、慶崇院へ。

浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。創建は元禄16年1月23日。由緒等は不明ですが、徳川歴代将軍の位牌を安置しているそうです。

次に、地蔵院へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は地蔵菩薩像。治承3年(1179)大納言平時忠の息子・信時が継母のざん言により当国に追放、その時嵯峨大覚寺の上人が信時を憐れみ恵心僧都作の地蔵菩薩像を伴僧に所持させました。道中恙無を願って愛宕権現を遙拝して下向、途中事なく当地に到着し、自宅の傍に草庵を結び地蔵菩薩像を安置しました。前の山頂に祠を建て山城国愛宕大権現火結の神を祀り、朝夕礼拝し、その後元亀年間(1570~1573)国守里見義弘に一寺一社になるべく願い出て、許可され寺を地蔵院、社を改めて大権現を勧請し愛宕社と号しました。どの語、宝永年間(1704~1711)火災で焼失、宝永8年(1711)に寺を再建、神社は安永2年(1773)造立、明治のはじめ寺を愛宕山白雲寺地蔵院と名付けました。

次に、愛宕神社へ。

祭神は火結命(ほむすみのみこと)。
由緒は、地蔵院で説明していますので、ここでは省略します。
幾多の変遷を経て、明治5年(1872)神仏分離に際し愛宕神社とし、同時に村社として現在に至ったとの事です。
神社には、安永2年(1773)「波と竜」武志伊八郎23歳の作、文政11年(1828)「賓頭盧尊者立像」「大黒天立像」後藤利兵衛橘義光14歳の作、明治18年(1885)「富士巻狩図波」明治19年(1886)「天孫降臨神神話図」川名楽山の作があり、南房総市指定文化財です。

次に、浅間神社へ。

祭神は木花咲耶比売命(このはなさくやひめ)。創立は長享元年(1487)。由緒は不詳です。

次は、八剱神社へ。

祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)。創立は長享元年(1573)2月吉日。由緒は不詳です。

次は、下立松原神社&御霊白幡大明神へ。

祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)・言筥比売命(ことはこひめのみこと)・月読命(つくよみ)。
神社は牧田の段丘上海抜約30mのところにあり、昔は一面の松原であったと言われています。神社の北東約250mにある社山(じゃやま)の北麓にある垂迹宮(すいじゃくのみや)跡が元社寺とされ、江戸時代末期まで垂迹さまと呼ばれていました。
社記などの伝承によると、神武天皇即位の辛酉年、天富命に従って安房にやってきた阿波忌部の子孫美努射持命(みぬいもちのみこと)が祖神天日鷲命を祀ったのが始まりとされ、延喜式(927年完成)の神名帳に記された安房国六社のうち小四社のひとつにあたる古い神社です。
源頼朝が石橋山の合戦に敗れ安房に逃れたきた時、豪族丸五郎の案内で戦勝祈願したといわれ、その折敗戦の身をはばかり鳥居をさけて脇から入ろうとしたところ、氏子たちが鳥居を取り除き招き入れたとのことで、以来鳥居はつくられることがなく、鳥居のない神社となりました。

境内の十八社宮碑。

境内に祀られている18社すべての社名が書いてあります。下立松原陣屋のほか、合祀された駒形・浅間・垂迹神社、御霊白幡大明神、境内別殿四社、六所明神、歯神、最後に疱瘡神とあります。
歯神は人が生きるために大切な「歯」を守る神です。疱瘡神は「疱瘡(天然痘)」が昔は疫神によるものと信じられたため、この神を祀る風習がありました。
歯神は、初めて見た気がします。あと、天然痘と聞くと「貞子」を思い出すのは、私だけでしょうか?

御霊白幡明神

社殿によると、源頼朝が元暦2年(1185)に安西三郎景益に命じて、源氏の祖源頼義と八幡太郎義家父子を祀るために創建し、朝夷郡の鎮守としてといいます。また、頼朝は文治年間(1185~1190)も安西氏を使いとして頼義・義家の木像、薬師如来像、自ら写経したという大般若経600巻を奉納したと伝えられています。社殿には伊八の彫刻があります。

境内には、経塚(えい経石函碑)があります。
頼朝が奉納した大般若経は、毎春転読されて武運長久・国家安穏を祈っていましたが、破損がひどくなったため、明和9年(1772)に石函に納めてこの下に埋められました。碑は牧田村名主神作戸右衛門父子が建立しました。

あと、頼朝公の馬洗池跡もあります。
頼朝が、下立松原神社に立ち寄った際に池で馬を洗ったとの言い伝えが残っています。また例祭で行われていた流鏑馬・競馬の馬もここで洗っていたといいます。

両方とも写真を撮ったつもりだったのですが・・・ありませんでした。どこに消えたのでしょう?

あとは、出発地点へと戻ります。

今年も、残り少なくなってしまいましたが、あと1コースかければと思っていますが・・・どなることやら。

月イチツアー「源頼朝ゆかりの地を巡る」報告

師走です。冬らしい気候になってきました館山・南房総。
ガイドの独り言を更新していなくて、気が付けば12月中旬。慌てて、ガイドの独り言を更新します。
さて、10月1日の月イチツアー「源頼朝ゆかりの地えお巡る」を開催しましたので、報告します。

今年は大河ドラマが鎌倉時代のものだったので、安房地域には源頼朝に関係する場所が多く残されてい、少し大河ドラマにあやかっておこうと思い源頼朝ゆかりの地を案内することになりました。
集合場所は、那古海岸駐車所。そこから那古寺へと向かいます。

いつも観音堂の写真を使っていますが、今回は本坊の写真を。

真言宗智山派の寺院で本尊は千手観世音菩薩。坂東三十三観音第33番札所(結願寺)で安房国札観音霊場第1番札所です。
奈良時代の養老元年(717)春、この地を訪れた行基という高僧が、那古の海中から得た霊木で観世音菩薩の像を刻み、天皇の病気平癒を祈願したと伝えられています。
その後、荒廃した寺を慈覚大師が承知14年(847)に復興。かつて那古山の山上にありましたが、元禄16年(1703)の大地震で倒壊し、宝暦9年(1759)現在地である中腹に再建されましたが、平成の大修理によって、享保・天文年間(1730年代)にほぼ完成していたことがわかりました。

源頼朝は、安房滞在中、源家再興祈願に訪れ、観世音の祥瑞をこうむったとして、鎌倉幕府開府後、山上に七堂を建立、仏供数料拾町歩を寄進したと伝えられています。七堂の本堂、三重塔(多宝塔)、地蔵堂、鐘楼、仁王門、阿弥陀堂、閻魔堂は、頼朝の安房への七騎落ちにちなんだと言われています。

観音堂の前の階段から下がると阿加井があります。

説明書きに、
「そもそもこの井戸は、あか井と称し仏様にお供えする浄水をあかという、その井戸をあか井と称する。
当地に観音堂が再建された時、伊勢屋甚右工門が伊豆石を運び、井戸に石組して宝暦11年 つるべで水を汲み観音堂へ奉納した。
境内には、水神の弁財天が祭られいる安房路を巡る旅人は、この霊水で渇きをいやし喉を潤したものである。信者は遠方よりこの霊験あらたかな万病に効くあか井の水を汲みに、参詣する。
この下の部落を赤井下といい、那古寺本坊前の部落、寺町とあわせて寺赤町内会と称し門前町として観音様に貢献している。 寺赤町内会」
とかかれています。

阿加井から、階段を降りて行くと右手に願い石があります。

石に願いを書いて、先ほどの阿加井のところか神社の所に置くと願いが叶うそうです。

次は金毘羅神社へ。

祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。創建年代は不詳ですが、四国から来た漁師が江戸時代に建てたと伝えられています。

次に千日堂へ。

修験等覚院の隠居所として、戦国時代初期に建てられたといいます。本尊は江戸時代初期の地蔵菩薩坐像。船形村名主の墓所に、江戸時代の寛永年号の古い墓もあります。入口に享保18年(1733)の三界万霊塔、文政8年(1825)の弘法大師供養塔があります。

那古観音から長勝寺に向かう、那古山北側の水田の一面に残っている小字があります。小字名が頼朝免(らいちょうめん)と言われ、源の頼朝から授かった土地という言い伝えがあります。

次は長勝寺へ。

真言宗智山派の寺院で本尊は地蔵菩薩。本尊の地蔵菩薩は、南北朝期の木造坐像です。明治5年(1872)に金剛宥性が選定した安房百八地蔵尊の第10番札所で、ご詠歌の額が掲げられています。
本堂向拝には、三代後藤義光の龍と獅子の彫刻があります。
頼朝伝説をご紹介します。
源頼朝は那古観音参拝のあと、この寺に立ち寄りました。頼朝は、本尊が勝軍地蔵であることに興味をもち、「長く生きることは、長く勝つことに通じ、縁起のよい寺だ」と、それまで長生寺という寺名を長勝寺に改めさせたといいます。

船形藩陣屋跡・名主古屋敷を通り、木の根道切通しへ。

写真は切通しになっていなくてすみません。
木の根道切通しは、房総半島めぐる中心的な往還の一部で、千葉方面から内房を通って館山へ続く道です。

通り抜ける場所には、忍足佐内殉難の碑があります。

忍足佐内は(享保14年(1729)~明和8年(1772))は、江戸時代中期の農民で、安房勝山藩領金尾谷(現富浦町福沢)の名主でした。旱魃や飢餓が続き農民が苦しんでいました。各地区の名主たちは勝山の役所に年貢の減免を訴えましたが、役人は賄賂を贈ってない金谷尾村と小原村は願いが聞き入れられませんでした。そこで忍足佐内は、3村の名主とともに勝山藩酒井大和守の江戸屋敷に直訴しました。この件により奉行・代官達は賄賂を求める悪政が露見することを恐れ、勝山陣屋の石牢に投獄し、四方引き回しの上、白塚川(現福沢川)にて処刑されてしまいました。忍足佐内は正義感が強く村民を救うため身を挺して上訴したのです。享年44歳でした。これに対して遺族らは、奉行や代官の悪政を訴え、佐内の汚名返上を願い出ました、この願いは藩により聞き入れられ、奉行や代官の悪事を認め、佐内の名誉が回復されました。忍足佐内殉難の碑は、南房総市の文化財に指定されています。

次は常光寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は薬師瑠璃光如来。養老元年(717)、行基菩薩が薬師如来を彫刻し本山として開基しました。しかし元亀年間(1570~1573)に火災のため焼失、現在の薬師如来は、平安時代後期の作といわれ、南房総市の文化財に指定され、富浦町最古といわれています。また、弘法大師が日光・月光の木造の両菩薩立像を彫刻して奉納したと伝えられています。安房国四十八薬師霊場の南口十二薬師、1番札所で寅年の大開帳には多くの巡礼者でにぎわうそうです。

次は西行寺へ。

浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。開基は長徳2年(996)。
西行寺に伝えられている「西行因縁記」には、西行とその妻「呉葉の前」の悲しい伝説が書かれています。
西行は鳥羽上皇の北面の武士として活躍し、呉葉の前を妻としましたが、ほどなく出家し、諸国行脚の旅に出ます。呉葉の前は2人の子供とと寂しく日々を送っていましたが、子供たちが病気で亡くなってしまい、自らも出家し旅に出ました。やがて安房に入った呉葉の前は、船形に庵を結んで念仏を称える日々を送っていましたが、若くして亡くなってしまいました。村人たちが呉葉の前の死を悼み、塚を築いて一本の柳の木を植えたので、この地を柳塚というようになりました。その後、西行がここを訪れ、呉葉の前の菩提のために西行寺を建てたといいいます。
寺の裏山は戦国時代の船形城跡で、安西氏がいたと言われています。

次は、大福寺・崖観音へ

真言宗智山派の寺院で、本尊は大日如来。創建は養老元年(717)で開山は行基菩薩と言われています。境内の船形山の中腹に浮かぶ朱塗りの観音堂は「崖の観音」と呼ばれています。観音堂の本尊は、十一面観世音菩薩です。この本尊は、養老元年(717)に行基が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁師の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に十一面観世音菩薩を彫刻したと言われています。その後、慈覚大師が当地に来錫した折に堂宇が創建されたと言われています。十一面観世音菩薩は、県内最古の摩崖仏と言われ、昭和45年に館山市の有形文化財に指定されました。
江戸時代になり、承応2年(1653)に観音堂が火災にあい、朱印・什宝・伝記等すべて焼失してしまいました。正徳5年(1715)には観音堂が再建されましたが、明治43年の大豪雨により土砂崩れにあい本堂・庭園とも倒壊してしまいました。さらに大正12年の大地震で観音堂・本堂が倒壊し、観音堂は大正14年に、本堂は昭和元年に建てられました。本堂正面には、獅子と龍の向拝の彫刻があります。昭和3年国分の彫工後藤義房の作品です。

隣にある諏訪神社へ、
写真がありませんが、解説を・・・・

船形地区の総鎮守で祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。養老元年(717)行基菩薩が、信濃の諏訪大社を勧請したと伝えられています。船形住民の氏神としてあがめられています。
2017年3月4日放火により本殿と拝殿が全焼してしましまいました。焼失前の本殿と拝殿は関東大震災で倒壊後、昭和2年(1927)に再建され、拝殿の向拝の龍の彫刻は後藤義光の弟子、後藤義房の作で、社号額が後藤義信の作とされていましたが、ご神体の鏡などとともに焼失してしまいました。
2022年に地元の方々の努力で再建されました。
境内にある狛犬は安政2年(1855)武田石翁の作です。
ここにも頼朝伝説があるのでご紹介します。
船形を訪れた頼朝を、この地の十八という漁師の網元が招きもてなしをしました。そのお礼に頼朝から白旗をもらったといい、現在も子孫の家で大切に保存しているそうです。洲崎神社まで船を出したのは十八だとも言われいます。かつては船形地区の祭礼には、諏訪神社に白旗が掲げられていました。

もう1つ頼朝伝説を
崖の観音の下あたりで休息したとき、団子やの主人が談義を献上したところ、頼朝が「うまい団子を食べさせてもらい、うれしかったぞ」と言ったところから、以後、嬉賀という姓を名乗ったといい、団子やいう屋号が残っているそうです。
またほかに、この辺りに立ち寄った頼朝がうれしいと言ったことから「うれしくぼ」という集落名になった説、洲崎から円山岬に上陸した頼朝が、世話をしたくれた村人に、うれしいという気持ちから嬉賀という姓を与えられたという説があります。

海岸線を通ってくると安政築堤があります。

草が生い茂りわからない状況ですが・・・
磯崎湊と呼ばれた場所に江戸時代末の安政2年(1855)につくられた堤防があります。一度台風で崩れて明治6年(1873)に再建したようで、大正12年(1923)の関東大震災で現在の場所まで上がってきました。

あとは、出発地点へと戻り、終了です。

ガイドの独り言で、頼朝の伝説を書いていると、2022年の大河ドラマで大泉洋が頼朝をやっていたのが思い浮かんできてしまい笑いそうになってしまいました。
石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、安房の地から再起を図り進んでいきました。安房地域には、頼朝伝説が多く残されています。是非、巡ってみてはいかがでしょうか?
大泉洋の頼朝を思い出しながら巡るのも面白いかと・・・