お散歩ツアー「鶴谷八幡宮を中心に開けた土地を歩く」報告

急に秋めいてきました、館山・南房総です。9月10月はなんだかバタバタしていて、ガイドの独り事もなかなか更新できずにいました。9月10月のウォーキングツアーの報告が溜まってしまっているので、頑張って報告したいと思います。

暑い時期にお休みしていましたウォーキングツアーを9月10日に再開しました。今回は、「やわたんまち」として知られる鶴谷八幡宮の周辺を散策してきました。

集合場所は、当初予定していた場所が使えなくなってしまったので、鶴谷八幡宮の駐車場をお借りして出発です。

安房の総社とされ、例祭の9月14日・15日には安房国内から古社10社の神輿が渡御して「やわたんまち」が行われます。もとは安房国府が所在した旧三芳村府中に鎮座していたとされ、鎌倉時代に源頼朝が現在地に遷宮したという説と、室町時代の里見義実によって遷宮されたという説があります。
里見氏の篤い信仰によって保護され、政治的にも利用されました。江戸時代の社領は171石余りで、別当の那古寺が管理していました。八幡の祭りは府中にある元八幡神社でお水取をしてから始まることになっています。

本殿や向拝の天井の彫刻は市の指定文化財で、彫刻は百態の龍と呼ばれる後藤義光の作品です。

次は、神社の裏にある千灯院へ。

真言宗智山派の寺院。江戸時代には八幡宮の別当を務めていた那古寺の支配下で、八幡宮の領地から6石の配当を受け、社僧が住み、仏事で八幡宮を奉仕したお寺です。境内には、寛政5年(1793)の廻国供養塔や、天保12年(1841)の一億万遍念誦塔があります。

次は、阿弥陀堂へ。

現在は八幡地区の墓地のお堂になっていますが、明治になるまでは八幡神社の本来の姿である阿弥陀如来を祀る本地堂で、鶴谷やわた宮の附属施設として社殿の隣にありました。堂内には、かつて八幡宮一の鳥居と二の鳥居の間にあった弁天社に祀られていた弁財天像も祀られています。戦国末期の里見時代のものです。

次は、薬師堂へ。

詳細は不詳ですが、墓地には正徳元年(1711)の北条藩万石騒動の際に、刑死した三義民のひとり湊村名主秋山角左衛門の墓や、元文6年(1741)に明神丸乗船中に遭難したと思われる7人の供養碑があります。また寛永21年(1644)に薬師堂に奉納された鰐口があります。

次は、六地蔵の道標へ。

年号はありませんが、「右正木 左やわた」と刻んだ道標があります。むかしは道の中央に建っていたそうですが、開発等で現在の場所に移動しました。

次は、子安神社へ。

湊地区の鎮守。天正18年(1890)には子易大明神として記録されています。修験の徳蔵院が代々別当として神社の管理をしています。子安の名から安産の信仰があり、底の抜けた袋が奉納されています。境内周辺は古墳時代から平安時代の土師器が出土するところで、向原遺跡と名付けられています。

子安神社から稲荷遺跡に向かう途中にも、もう1つの道標があります。

北条と湊の境の十字路には「北まさき 東こくぶん寺 西やわた」と刻んだ道標があります。最初の道標と同じで、四角柱で子どもの戒名を刻んだ六地蔵になっています。流行り病で死んだ子どもの供養のために建てられたと伝えられています。

次は稲荷遺跡へ。

この周辺は古墳時代から奈良・平安時代の土師器などの土器が出土する遺跡です。北条村北町中で奉納した稲荷の石宮を祀っています。

安房高の裏を通り、稲荷神社へ。

長尾藩の陣屋が鶴ケ谷につくられた際、旧領地の駿河国田中の城内から移されてきました。稲荷は藩主本多氏の鎮守で、廃藩後も旧藩士が葵恩会を結成して神社を維持してきました。境内には、大砲の碑や明治3年に横須賀の大工が奉納した手水石があります。

次は、長尾藩共同墓地へ。
っとその前に長尾藩陣屋跡の説明を少し・・・
安房高周辺から六軒町の諏訪神社までの地域に、明治3年長尾藩4万石の陣屋が移転してました。その場所は、幕末に海岸警備の任にあたった武蔵忍藩や岡山藩が陣屋をおいた場所です。稲荷神社の向かいに藩主邸、その海よりのほぼ陣屋中央に藩庁が置かれていました。学校(日知館)・工作所・番屋がおかれ、藩士たちの屋敷が周辺に整えられていました。
では、共同墓地へ。
安房高の隣?に長尾藩士の共同墓地があります。家老の遠藤俊臣、日知館監察の雨宮信友、勘定奉行の熊澤董、剣術師範の小野成顕・成命ほか50家におよぶ藩士の墓があります。

あとは、神社に戻ります。