お散歩ツアー「日蓮聖人ゆかりの妙福寺とその周辺を歩く」報告

新年度最初のツアーは、お散歩ツアー「日蓮聖人ゆかりの妙福寺とその周辺を歩く」を開催しました。開催日当日は、お日様には恵まれたのですが、少し風の強い日でした。

集合場所は、南房総市南無谷地区にある豊受神社の境内をお借りしての出発です。
当日は、地元の方が南無谷地区のお話しをしていただきました。

現在の南無谷は、大昔、泉澤村と呼ばれていました。理由は、2つあるそうで・・
1つは、湧水が沢山出ている沢があったため
2つは、泉澤氏という郷士が住んでいたところだったため
どちらかの理由にようるものか定かではありません。
南無谷に変わったのは、日蓮聖人と関係があります。建長5年(1253)の5月に清澄山を出た日蓮が鎌倉に渡ろうと、この地に来たのですが、波浪が厳しく渡る事ができなかったため、3日ほど泉澤権頭太郎の家に泊まりました。日蓮は日蓮宗を日本国中に広めようとしていましたので、泉澤家の人たちにも熱心に法華経を説き聞かせました。老母ふく、権頭太郎、その弟、二郎、三郎はともに教えを信じ、特に老母ふくは、妙福という法名をを授かったほどでした。やがて風波は静まり、日蓮は無事に鎌倉近くの米ヶ浜に上陸したのです。日蓮はこれが縁で文永元年(1264)小松原法難後、再び泉澤家を訪れたといいます。間もなく、村中に日蓮宗が広まり、村の名が南無妙法谷村(まむみょうほうやむら)となりましたが、長すぎるので南無谷となったそうです。

集合場所でもある豊受神社です。

祭神は豊受大神。和久産巣日神(わくむすびのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)の子で五穀をつかさどる女神です。イザナミの孫になります。伊勢神宮の社伝では、雄略天皇(第21代)の夢枕に天照大神が現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井にある御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼びなさい」と言われ、天皇はあわてて伊勢の内宮に近い山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったのが始まりです。

最初に訪れたのは、山の神です。

一般的に山の神とは山を支配する神の事です。しとぎやお神酒、おこぜ等を備えますが、地方によっては異なっています。祭神は不明です。鳥居は平成元年に再建し、形は神明鳥居です。本殿と拝殿はかなり古いようですが、いつ造られかは不明です。
拝殿の腰板に船の古材を利用している場所があります。

次は、朝日地蔵へ。

地元ではいぼ地蔵とも言われています。線香の灰をいぼにつけて願いをかけると、いぼが取れるといいます。

次は、川止用水。

消防用に利用するために人工的に川を堰き止めた場所です。

本日のクライマックスは、七面山。

七面山はむかし浅間山と呼ばれていましたが、のちに領主の小浜八太夫が雨乞いの祈祷所として山林を奉献し、七面堂が建てられました。七面堂には、元禄12年(1699)に、身延33代日亨上人が勧請した木造七面大天女が祀られています。
まずは、七面堂まで階段を登っていきます。解説には、222段の石段とありましますが、数えなが上っていくと5段少なく登れました。下の部分がコンクリートで坂道となってしまっていたので、そこで階段が少なくなってしまったのかなぁ~なんてみなさんと話てました。
七面堂に到着しますと、七面堂を守っている妙福寺のご住職が、お堂を開けて下さいました。いつもは、閉まっているのですが、下見に行った際に、檀家さんにお会いしお話しをしたところ、開けてもらえる事になりました。これもなにかの縁です。七面大天女が導いてくれたのかしら?

お堂に上げていただき、ご住職に経を唱えていただき七面大天女を特別に拝ませていただきました。それだけでもありがたいのに、お守りを頂きました。お守りは、七面大天女様が着られている着物を細かくし物が入っています。この着物は、毎年5月の18日と10月の18日に絹衣のお召し替えの儀式が行われるので、天女様が着たものです。
通常は、この日にしか七面大天女のお顔を拝見する事ができません。是非、直接お参りをされたい方は、是非、絹衣のお召し替えの時に、参拝しに行って下さい。

ここで、この七面天女のお話しを・・・
日蓮聖人が身延の谷(山梨県)で弟子や信者に説法をしていると、その中に美しい女性が熱心に聴聞していました。一同は不審に思っていると、日蓮が女性にむかって「皆が不思議に思っていす。あなたの本当の姿を見せなさい。」すると女性は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えると、日蓮は傍らにあった水差しの水を一滴、その女性に落としました。すると今まで美しい姿をした女性は、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の姿に変じて仰った。「私は、七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。未法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎを満足与えます」と言い終えるや否や、七面山山頂へと天高く飛んでいきました。日蓮は、「いつか七面山に登って七面大明神を祀ろう」と考えていましたが、生きている間には叶いませんでした。日蓮聖人入滅後16年目に弟子の日朗上人は日円と共に、七面大明神をお祀りするために、初めて七面山に登り、永仁5年(1297)に七面山奥ノ院を開創しました。以来、日蓮宗の守護神とされ、本地は福徳を授ける吉祥天で、鬼門の一方だけを閉じ七面を開くといいます。

奥ノ院の方に上がっていきますと、素晴らしい景色を見る事ができます。

次は、妙福寺さんへ。

本堂・祖師堂にお参りしてから、泉沢さんのお墓へと上がらせていただきました。

妙福寺は、日蓮宗の寺院で、山号を成就山といいます。由緒によると、日蓮聖人が建長5年(1253)、鎌倉に向かう途中、富浦の岡本浦から鎌倉へ船で渡ろうとしたころ、嵐で足止めをよぎなくされました。近くの岬に登って一心に祈願すると嵐が治まりました。並みの僧でないことを感じたこの地の泉沢権頭太郎は自宅に招いて3日間、母親と2人の弟と共にお世話をし、直接教えを受けたと伝わっています。別れにあたり日蓮聖人は、お世話になった母親の願いを受けて「妙福」の二字を法号として授けました。
時は経ち弘安2年(1279)、権頭太郎が身延山に隠居していた日蓮聖人を訪ねました。日蓮聖人は権頭太郎にお世話になったお礼として、衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子に彫刻させ、その裸体の像とお題目の掛け軸を添えて授けました。
権頭太郎は帰郷したあと、その像と掛け軸を安置するためお堂を建立し、聖人の弟子であった日頂上人の弟子日念上人を初代住職として迎えます。そしてお寺の名前を、母親が授かった「妙福」を頂き「成就山妙福寺」となりました。6月と10月の13日には、日蓮聖人像の衣替えが行われます。

やはりご住職からお話しを聞くとありがたい気持ちになります。当倶楽部のガイドもちゃんと勉強してるんですけどね。なんででしょう?修行されている人とにわかの人との差かもしれませんね(笑)

次に、衣を洗った井戸へ。

少し前までは、看板があったのですが、私有地かなにかで、足を運ぶ事がなかったのですが、今回は、見学できるようになっていたので、見学してきました。

あとは、海岸に出て、出発地へともどります。

今回のコースは、日蓮聖人と関係のある場所を多く巡りました。妙福寺のご住職にも大変お世話になり、いつもは拝見出来ない七面天女様にもお会いできて、充実したお散歩ツアーになりました。ご住職の暖かいご配慮、この場を借りて感謝を伝えたいと思います。ありがとうございます。

南房総市 妙福寺さんのホームページです。ご興味のある方はどうぞご覧ください。
https://www.akafunkun.net/
ヨガなんかもやられているそうです。

月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」報告

4月の新年度に入りました。
平成31年度もみなさまお世話になりました。今年度のウォーキングツアー予定表は、リピーター様には、お送りいたしましたが、まだ道の駅などには配れていません。ちょっとなんとかGW前までには、安房地域の道の駅等に置かせてもらいますので、もう少しお待ちください。

さて、平成31年度最後の月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」を開催しましたので報告します。

集合場所は、JA稲都支店跡地を貸していただきそこからスタートしました。
ツアータイトルにもあります、山名地区は、昔、山名村と呼ばれ呼ばれていました。里見氏時代のまた末は709石余、慶長19年(1614)から幕府領、その後寛永15年(1638)旗本三枝勘解由が三代将軍家光から、山名村をはじめ房州で一万石を賜り、御鉄砲頭を仰せ付けられ、大名に列せられました。後に、忍藩領、前橋藩領などを経て、明治の6年(1873)に千葉県所領となる。明治8年「御庄村」と連合村をつくるが、明治22年(1889)の町村制施行によって、「池之内村」「中村」「御庄村」とともに「稲都村」となり、その大字となりました。ちょっと山名地区を勉強したところで、最初に訪れたのは、天徳寺です。

曹洞宗の寺院で、後で行く智蔵寺の末。本尊は、不動尊です。寛文年間(1661~1673)に智蔵寺の九代通珊良撤和尚の創立と言われています。その後、正徳元年(1711)に御庄村を所領した「万石騒動」で知られる北条藩屋代越中守が改修工事をしたという記録があります。
大日如来坐像・天部像・地蔵尊・三山碑などがあります。

山名地区に向かって歩くと、途中にひっそりとお堂があります。ここは、下見の時に見つけた場所で、近くにいた農家の方に聞いたのですが、わからないとの事でした。

詳細は、不明ですが、祭神は櫛石窓神・豊石窓神。

智蔵寺の手前や周辺には、馬頭観音などがありますが、説明していると辿り着かないので、細かな石仏は、今回は省略します。

智蔵寺へは、苔の生えた石段を登っていきます。

山門をくぐり、本堂へお参りします。

曹洞宗の寺院です。本尊は地蔵菩薩。文亀3年(1503)、前甲信太守「武田次郎三郎源信勝」の開基、開山を太巌存高大和尚といい、その後、中興の開基を「印東采女」となっています。夷隅郡御宿町上布施の宝蔵山真常寺の末寺ですが、小本寺と称することを認められていて、俗称を山名の大寺といいます。
寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼の嫡男で、天目山を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。また、中興の開基は、里見奉行印東采女平忠康とされています。徳川時代初期の寛永15年(1638)、旗本三枝守昌は、安房の国で一万石を賜って大名に列し、陣屋を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所としました。次の守全は、再び旗本となりましたが、その後天保13年(1842)まで204年の間、山名は、三枝氏の知行所でした。寺内には、三枝守昌の墓(宝篋印塔)とその子、諏訪頼増の墓(板碑)があります。
本堂の欄間には、翼をもった小竜が波間に飛んでいる彫刻は、初代武志伊八郎信由58歳の作です。南房総市文化財です。
墓地に上がっていくと、溝口八郎右衛門の墓があります。

八郎右衛門が生前出羽三山に参拝登山する際の行者姿を彫刻した武田石翁作のお墓です。
天保12年(1841)頃の作といわれ、右手に酒杯、左手に徳利を持ち、右膝を立て、酒樽に座った姿を表現した珍しいものです。八郎右衛門は、天保14年(1848)90歳で亡くなり、時世の歌として、「百の銭90はここで飲みわかれ、6文もって永の道中」と残しました。「6文あればたくさんだ」という意味でしょう。6文は三途の川の渡し賃の値段です。

次は、山名の鎮守熊野神社へ。

祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。文亀2年(1502)正月9日の創立と伝えられています。明治16年(1883)の山名誌によると、当初安房水上神社と称されていましたが、安房と冠するのは安房神社だけであるとの抗議があっと水上神社と改めたと伝えられています。
境内には、日清・日露戦争戦没者碑や三山講碑・出雲大碑などが建立されています。
参道を登りつめた先に、下の農道と立体交差する石橋があります。明治期の作と思われ、切り出した石材を巧みに組み合わせ、お互いに支えあって出来ている一眼のめがね橋です。

石は山名の寺山石を使用しているといいます。

次に訪れた場所は、山頭神社。

詳細は不詳ですが、参道石段下に、行人堂(行堂)があります。講参り(出羽三山講)の前後、ここでお篭りをしたところで、郡市内では現存しているのは、ここの行堂だけです。
行堂は、普段は飯出集会所として利用されています。
明治初期に書かれたものと言われる文書には、飯出谷の者が文久2年(1862)に鎮守の森の杉の大木一本を智蔵寺に断りなく切って、二両二分で売り、社殿の修理費にしようとしたことから起こった事件があり、結局和解しますが、このことによって山頭神社は、以前は今の飯出行堂の傍の平地にありましたが、山崩れに遭ったことで、仙元山の山裾の現在地の地所を智蔵寺から借りて移ったなど、書かれています。

次は、智光寺へ。
真言宗智山派の寺院で、安房国札21番観音霊場です。本尊は、不動明王を本尊とする長楽山智光寺と、千手観音を本尊とする光明寺(宝暦13年再建)、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂(安永4年再建)とが、江戸時代中期に合併したものと考えられます。
21番の御詠歌「こうみょう寺 のぼりのどけき はるの日に 山名のはなの りつぞおしさよ」と詠われています。
その後、智光寺は大きな火災に見舞われ、仁王門から出た火は、参道沿いの家並みを伝い、お寺の建物を全て焼き尽くしました。この時の教訓から、周辺の家々は母屋を互い違いに建てて類焼を防ぐ工夫をし、その面影は今も残っています。その後、お堂は宝暦14年(1763)に再建され、阿弥陀堂は安永4年(1775)に建築され現在にいたります。

まず、目立つのが仁王門です。

仁王門は、間口5.45m、奥行き3.62m、高さ6m。左右の金剛座には、筋骨隆々の「阿像・吽像」の木造金剛力士像がたっています。製作年代は不詳ですが、言伝えによると、江戸時代の承応年間(1652~1655徳川家綱の時代)に火災に遭いましたが、他の仏像と共に、付近の女性たちの手で搬出され、災難を逃れたといいます。女性の方は力があったんですね。
木像金剛力士像は、平成7年(1995)に南房総市の文化財に指定されました。

参道の脇には、山名学校跡があります。今は畑となっています。山名学校は、明治6年(1873)当初は、智蔵寺に創設された学校で、2年後には、智光寺に移転し、さらに同年西隣の平坦地に校舎を新設しました。明治15年(1882)には、高等小学校を設置し、その際村民から「高等科出願二付誓約書」が提出され、内容は学区資金無尽作って、村民一致して運営に当たるというものです。明治19年に教育令が改正され、山名尋常小学校に改称されました。明治36年(1903)に「御庄学校」と合併し、「稲都尋常小学校」となりました。

その上には、陣屋跡があります。
土地の人は「ごじんや」と呼んでいます。ここは江戸時代の寛永15年(1638)に一万石大名となって、この地に封じられた三枝勘解由守昌の陣屋を置いたところです。陣屋とは、一般的には、城郭のない小さな藩の大名の居所をいいます。大名は実際に、江戸に居た方が多かったようです。なお、三枝守昌は、安永16年に死去し、子息二人が遺領を分割相続して大名から旗本になりますが、山名の知行は、次男諏訪氏に引き継がれ、天保13年(1842)まで続きました。

やっと、智光寺の境内に辿りつきました。

まずは、阿弥陀堂です。

阿弥陀堂は、安永4年(1775)に建築されました。木造阿弥陀如来座像は、像高105cm。胎内背部の墨書銘によって、元和2年(1616)に奈良仏師の井上助一良の作であることがわかります。江戸時代初期の仏像の代表的なもので、館山市大網の大厳院の阿弥陀如来像とほぼ同年代のものです。左右に天部像がいます。昭和55年に市の文化財に指定されています。

観音堂には、木造千手観音立像があります。像高100cm、江戸期の元文2年(1937)に造られました。厨子に入っているので、見る事は出来ませんでした。

寺宝は、木造不動明王立像です。高さ160cmで両脇侍に「こんがら童子、せいたか童子があります。不動明王は南北朝期の作と推定され、両脇侍は江戸期のものです。不動明王は昭和62年、死の文化財に指定されました。

ここで少し、寛政8年(1796)におきた事件についてお話しします。
「門学殺害事件」
「秋山家文書」と三芳村中の吉田周蔵翁が残した「覚書」によってこの事件の内容がわかったのです。
寛政8年(1796)、江戸幕府・11代将軍徳川家斉の時代、7月29日の朝5つ時、加茂の南の坂で、虚無僧一人が二人の山伏に殺害され、二人は山伝いに加茂から竹原・中・御庄を経て、山名に逃れ、山名本郷の智光寺の庫裡に隠れました。だが、逃げ切れないと知った山伏の一人が、仲間を騙し討ちにし「これが犯人!」とその首を持って庫裡から出て来て捕えられた事件で、この騙し討ちにあった山伏が門覚でした。
加茂坂で殺された虚無僧は至龍といい、下総国小金(松戸市小金)の普化宗の本山永福寺の役僧で、房総の虚無僧の取り締まり役でした。殺した山伏の人は、水野圓治といい、本名は筑紫我童で豊前国中津の奥平藩の浪人で、若くして酒や女遊びにふけ、公金を横領して国元を逃げ出し行方をくらまし、水野圓治と名を代え、武者修行と称して諸国を放浪していました。もう一人の山伏は、門学といい、日向国佐土原の生まれ、房州国分村萱野修験寺大釈院(廃寺)で水野と出会い、共に九州出身なことから意気投合しました。
事件の発端は、虚無僧取締役の至龍が、平郡高崎村で偽虚無僧に扮して徘徊していた水野に出会い、普化宗のかいこうの奏笛をしましたが、偽者の水野は返礼の奏笛が出来ませんでした。無鑑札の偽者であることを見破られ、宗規によってその天蓋、尺八を没収、大衆の面前で水野ははずかしめられました。この事で深く恨み、報復を謀ったのです。7月29日の朝、加茂坂で待ち伏せをして、水野と門学の二人は至龍を殺害しました。
殺害を目撃した百姓が名主方に知らせて大騒ぎとなり、二人は山中に逃げ込み、智光寺の住職にかくまってもらおうとしましたが、住職が不在で止むなく庫裡に隠れました。追手は手に鉄砲、竹槍などをもって殺到し、庫裡を包囲しました。万事休すの状態です。
水野は自己の欲しんを図るため門学に向かい「自分は貴殿の助短刀で至龍を打ち取り、高崎での恥辱をそそぐことができた。ここで百姓どもに捕えられ、縄目の恥を受けるより潔く自害するから介錯を頼む。至龍殺しの下手人として自分の首を追手に示せば、貴殿は許されるであろう。自分が自害する間、戸を押さえていてくれ」と真しやかに申しでたので、門学はその言葉を信じ一心に戸を押さえていました。水野は自害を装って門学の背後にまわり、門学の首を打ち落としたのです。水野は、門学の生首をひっさげて悠々と追手の前に現れ、「加茂坂で虚無僧を殺害したのはこの門学で、自分は同行したのみである。門学は逃れることのできないことを知って、自分に介錯を頼んで潔く自害した。これが門学の首である。」と大声疾呼したが、恐れて誰も近づく者もなかったそうです。水野は夕方縄目に就き、翌日大井村に送られ、大井村を知行する旗本小笠原若狭守の家臣小倉忠右衛門及び山名村を知行する旗本三枝百助の家臣佐藤宗助(惣助)の取り調べを受けた後、江戸送りとなりました。
白洲における水野の陳述は実に卑怯でした。「自分は浪人して武術修行のため廻国の途次、門学と知り合い親交を結んだ。門学は郷里で兄が虚無僧紫竜斎なる者に討たれ、その仇を討つつため関東に下り、紫竜斎が下総小金の永福寺の役僧となっていることをつきとめたが、紫竜斎は武芸の達人であるので自分に助太刀を懇請した。加茂坂で紫竜斎に遭遇したので義によって助太刀し、門学に本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げた上は直ちにお上にその旨を届け出て、後の処置を待つべきであったが、何分群衆の騒ぎが大きく不本意ながら智光寺まで逃げ、住職に会って事情を述べ罪を待つ心算であった。住職は不在で、追手の追及が急で猶予が与えられなかったので、門学は逃れることができないと観念して自刎した。自分は文覚の頼みによって介錯した次第である。」と言葉巧みに陳述した。吟味役の島田小文治は、水野の陳述に深い疑いをもったが、外に証拠もないので、水野を江戸及び房州両地方追放に処しただけで、一応事件の落着でした。
その後、至龍の門弟らは水野を師の仇とねらい、翌寛政9年(1797)、下総国を流浪中の水野を見つけ、遂に利根川の支流将監川の堤で暗殺し、その死骸は川に流されて魚腹に葬られたと伝えられています。
智光寺の庫裡で非業の死を遂げた門学は、純朴な村人達の同情を集めて鄭重に葬られ、明治41年には墓碑も建てられました。

っというお話が残っています。ちょっとびっくりな事件です。

次は最後の見学場所、八雲神社へ。

明治4年(1871)の「山名村明細取調書上帳」によると、八雲神社は八坂神社として「牛頭天皇」を祀り、祇園社とも呼ばれ、須佐之男命が祭神と記されています。八雲神社と呼ばれるようになったのは大正期に入ってからです。また延享2年(1745)の棟札に「別当長楽山智光寺住宥運謹書」と書いてあったことから、智光寺が別当寺であったことが分ります。

後は、出発地点へと戻りますが、途中には馬頭観音やツナツリがありました。
ウォーキングツアー当日は、御庄地区の神輿が新しくなったので、お披露目の為に御庄の集会所に出ていました。地域の方たちが、大切にしている文化も見学できて楽しい1日でした。

お散歩ツアー「館山市・南条エリアの歴史を巡る」報告

あっという間に2月も終わりに近づいてしまいました。来年度のウォーキングツアーのチラシ作りをしないと、間に合わなくなってしまう今日この頃です。
さて、少し春らしい気候になってきた館山・南房総ですが、やはり朝晩は冷え込みます。っといっても、あぜ道などには、フキノトウが顔を出してきています。花粉も飛び始めていて、花粉症の私にはツライ日々が始まりました。

お散歩ツアー「館山市・南条エリアの歴史を巡る」を開催しましたので、報告します。
集合場所・出発地点は、南条八幡神社。

祭神は、譽田別命(ほんだわけのみこと)です。創建は不明ですが、伝承によると古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病が流行りました。その為、難病を免れるための神を祀ったのがはじまりと伝わっています。その後、源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から平を挙げる時、村人が京都石清水八幡宮の御霊を勧請し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿が建立したそうです。戦国時代の天文2年(1533)、南条城主鳥山弾正左衛門大夫時貞が崇敬し、居城の東方に社殿を造営し、守護神としました。

右の写真は、社務所です。大東亜戦争当時診療所として利用されていまし。
大平洋戦争末期、昭和20年に入ると陸海軍部隊の本格的な疎開が始まり、館山市の大賀・笠名にあった洲ノ埼海軍航空隊も兵舎等を解体し半数以上が、豊房村はじめ館山近郊に疎開しました。南条八幡神社付近には、司令部・副官部・通信科・主計科などの洲ノ空の指揮中枢部門が集中していました。

境内の本殿の裏山には、開口した大小38個の横穴があります。いずれも古墳時代の横穴墓で、昭和初期の神社改築の際、数個の横穴を崩したと言われています。

他にも、常明燈(明治26年(1893)建立)は、石工は山荻の安西久三郎ですが、左右の基壇に彫られている牡丹と獅子は後藤義光80歳の時の作で、義光が石に彫刻した数少ない作品です。また、狛犬(明治26年(1893))も遅くは白浜の宇山慶治と祖父によって作成されますが、精密な部分は後藤義光の手になることが刻まれています。

いよいよ、南条城跡へと登っていきます。道は、もう悪いのなんの。勝手にアドベンチャーコースなんて名前付けていますが、細い、滑る、足場が悪いの3点セットです。慣れている方なら問題ないのですが、慣れてない方だと大変だったのではないかな?と心配しました。

西側の頂上?には、戦時中の貯水槽が残っています。空襲時の停電に備えた緊急用の配水池として建設されたものだそうです。

あとは、尾根を下っていき、下っていく途中に、浅間様が祀られています。


明治8年(1875)に奉納した富士講「山三」の石宮のほかに4基の石宮が祀られています。他に、明治11年(1878)に講中で建立した安房百八浅間のうちの第百七番の石碑もあります。

山を下り、一般道路へと出ます。出た所の山側には、文政10年(1827)の出羽三山碑、宝暦8年(1758)の青面金剛庚申塔、明治22年(1889)の光明真言六百万遍供養塔、同年奉納の不動明王などがあります。

次は、姫塚へ。

姫塚は、里見家の天文の内乱(1534)で、里見義豊が里見義堯に敗れたとき、義豊の正室である、一渓妙周も自害し、乳母によって父の居城鳥山城(南条城)の近くに葬られたという伝説があります。姫塚は、その女性の塚だといわれ、昔昔、そこに正室の菩提を弔うための一渓寺があったといい、移転して古茂口の福生寺になったといいます。福生寺にはその女性の墓と伝わる大きな五輪塔があります。
この姫塚は、民家の人に許可を頂いて見学させてもらっています。以前は、堰を回って行けたそうですが、藪やら竹やらで行けなくなってしまいました。

次は、大網にある戦争遺跡へ。


大平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲などが置かれていました。今回は、砲台の方には行かず、周辺にある弾薬や食糧などの物資貯蔵用の壕を見学です。壕の中には、正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えにくくしたものもあります。
壕は、2011年公開角川映画「日輪の遺産」のロケ地になった場所です。
「日輪の遺産」は、浅田次郎の長編小説です。2011年に浅田次郎の原作とし映画化されました。ストリーは、終戦間近の昭和20年8月10日、主人公の真柴(堺雅人)が帝国陸軍トップらに呼集され、「山下将軍がフィリピンで奪取した900億円(現在で約200兆円)ものマッカーサーの財宝を、秘密裡に武蔵小玉の南多摩陸軍火工廠へ移動し隠蔽せよ」と重大な密命を帯びます。その財宝は、敗戦を悟り祖国復興を託した軍資金でした。極秘任務を遂行する為、20名の12~13歳の少女達を勤労動員先から徴用され、新型砲弾といわれ財宝隠しに加担させられます。任務の終わりが見えた頃、上層部によって彼女らに非常きわまる命令が下されたふしがありましたが、無効命令であることが確認されましたが、終戦の詔勅とその前に米軍機からばらまかれた終戦ビラに動揺した少女達とその少女達を救おうとしていた真柴らとの間で思いもよらない手違いがあり、悲しい運命が起きてしまいました・・・数年たち、やがて郡全にも米軍工兵が遺産の在処を発見するが、マッカーサーが見たものは言葉を失わせる壮絶な情景でした。っというストーリーです。
映画の中では、財宝を隠した壕として使われています。

たぶんこの壕が、映画で財宝を隠した壕だと思われます。

次に訪れたのは、国登録有形文化財になりました小原家へ。


小原家は代々農業を営んでいましたが、七代目小原金治は、政治家・実業家としての道に進み、県会議員や衆議院議員を務めたほか、房総遠洋漁業(株)や安房銀行(千葉銀行の前身)の経営にと携わっていました。
金治の孫の謹治は、椿の研究家。約20年にわたり洋種など700種以上を手掛け、自らも10種ほど品種改良しました。椿の研究を始めたきっかけは、館山市の木に指定された時に同級生にすすめられて仲間6人でやりだしたのがきっかけだったそうです。
私が小学校の入学の時に椿の木をもらっていて、今でも大輪な花を咲かせています。その苗は、小原家からの物だったんですね。
小原金治・・安政3年(1859)~昭和14年(1939)
小原謹治・・明治43年(1910)~平成11年(1999)

国登録有形文化財に平成29年に指定された建物は、主屋・離れ・米蔵・文庫蔵・旧長屋門
です。主屋は、寄棟造の主体部に台所部や土間部が接続していて、近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れの内部が、座敷と茶室からなり、座敷には床脇の円窓など独自の意匠がみられます。主屋の西に米蔵や文庫蔵が建ち、敷地の南側には旧長屋門が建っています。表門は重量感のある造りで家紋入りの屋根瓦を用いています。
・主屋・・安政6年(1859)/明治29年改修、昭和前期増築
・離れ・・昭和4年頃
・米蔵・・弘化2年(1845)
・文庫蔵・昭和前期
・旧長屋門・・江戸後期/明治中期改修

あとは、出発地点へと戻ります。お散歩コースといいながら、今回は山を攻略したので、少し大変だったと思います。

お散歩ツアー「妙音院守りの人々の里」報告

1月も後半になりました。お正月休みがなんかずっと前だったような気がしてしまいます。平成最後のお正月は、いかがでしたか? 毎年、小塚大師に初詣に行くのですが、おみくじを引いたら「果報は寝て待て」だったので、寝て待とうかと思ってます。出来れば、本当に寝ていたいくらいです。

さて、1月最初のお散歩ツアーは「妙音院守りの人々の里」を開催してきました。 妙音院は、現在館山市にありますが、ずっ~とずぅ~っと昔は、南房総市の白浜にあったそうです。そこから、館山に移る時に、6軒の人々が移り住みました。その里を訪ねてきました。

集合場所は、白浜の城山登山駐車場です。ここから長尾城跡&陣屋跡をぬけて、長尾川上流へと歩いていきます。

長尾藩陣屋跡と・・
慶応3年(1867)大政奉還で徳川政権が300年にわたる政権を朝廷に返上すると、将軍徳川慶喜は水戸へ隠退、家達(いえさと)が徳川家を継いで、1大名として駿河・遠江・三河で70万石の静岡藩主となりました。そのあおりを受け、駿河の諸大名は房総へ領地を移され、田中藩主本多正訥は安房国長尾藩主として長尾(白浜)に陣屋を構えました。

明治元年(1868)、新政府から房州転封を通達せれると、田中藩(本多氏)は、長尾に陣屋を建設することで、準備が進められました。この地を選定し、中心となってここの任に当たったには、藩の兵学者恩田仰岳です。明治2年から藩士の移転も進んでいましたが、その年の夏、大風のため建設中の陣屋は倒壊し、翌年正月から北条へ移転計画がすすめられました。長尾への陣屋建設は当初より、反対もあったため、陣屋倒壊で恩田仰岳は譴責を受け職を辞します。北条鶴ケ谷移転後は、時代の急速な変化に明治4年長尾藩は解体しました。長尾藩陣屋跡は、現在は山林と畑になっています。

白浜浄水場の前を通り、曲田地区へと向かい、まずは片須田山不動尊へ。

本尊は不動明王。境内には文化14年の三山碑があります。

曲田地区とは、館山市の妙音院周辺の小字は、海蔵寺といい、ふるい寺があったことを窺わせます。妙音院の前身かどうかわかりませんが、言伝えに、もとは海蔵寺は、長尾川中流に(白浜の滝田)にあり、寺の移転と同時に上流の曲田から6軒の人が移り住み、門前6軒といわれ、寺の鐘つきなどをしていたといいます。又、「延喜式」の中に、安房の国「白浜馬牧」と記載があり、地形からみても長尾川上流で、山に囲まれたこの地とされています。


曲田地域は眺望にしました。

次に向かうのは、滝山地域です。今来た道を戻ります。
滝山地区への入口には、手づくりの標識があります。

滝山地区は、狭い地域なのに、金銅寺・大門院・廃寺・薬師堂と4軒ものお寺があります。昭和21年に電気が通じたといいます。

先ずは、金剛院へ。

真言宗智山派の寺院です。

すぐの所に、大門院があります。

大門院には、南房総市指定文化財の木造菩薩形坐像・木造天部立像・木造金剛力士立像・木造僧形坐像が祀られています。

木造菩薩形坐像は、像高53センチ 髻を結い、宝冠を戴いて両肩を衣で覆う形式の像です。製作年代は、11世紀半ば前後とみられています。

木造天部形立像は、乙像、像高68.8センチ。甲像、像高70.1センチ。大門院の伝来像で本尊厨子の左右に安置されています。製作時期は、平安時代後期も11世紀あたりまで遡ると思われるそうです。

木造金剛力士立像は、阿形像、像高165センチ。吽形像、像高161.8センチ。等身大の仁王像です。檜材の寄木造で、当初は玉眼を嵌められていたとみられます。両像おも動勢を抑えた太造りの姿形で、ほとんど腰を捻らず、足の踏み出しもわずかです。また阿形像にみられる忿怒相も怒りの表情が抑えられています。製作は、室町時代の前半だと考えられています。本仁王像のような本格的な寄木造の雄作が大門院の仁王門(現在はありません)に造立されたこと、そして町内では他に例をみない仁王像として伝存したことは貴重だと言われています。

木造僧形坐像は、像高34.6cm。 だいぶ傷んでしまって、像容がはっきりしないため、製作年代の推定は困難ですが、平安時代後期、12世紀の作りだと考えられています。

小さなお堂ですが、古いものが多く残されているというのは、古くから大切に信仰されてきたんだなぁ~と感じられます。

次は、廃寺になってしまった場所へ。海蔵寺だった場所じゃないかと言われています。

次に、薬師堂跡へ。

ここは、もと薬師堂があったところです。現在、薬師像は、館山市の自然村の薬師堂に祀られています。この奥への道は、薬師巡礼道があり、下立松原神社の前身があった御幣山に通じています。

あとは、出発地点に戻り終了です。滝田地区は、家の戸数は少ないですが、4軒もお寺さんがあるなんて、ビックリでした。

1月の月イチツアーの報告は、申し訳ありませんが腰痛悪化の為、下見及び当日も歩けませんでしたので、1月月イチツアーの報告はお休みさせていただきます。

月一ツアー「大椙観音霊場跡から平久里川源流へ」報告

今年も残り少なくなってきました。本格的に冬が到来してきました。外に出れば、菜花の収穫が始まっていて、来年の稲作作りの為に田をうなっていたり、ハウスをのぞくといちごが出来てたりと、四季によって景色を楽しむ事ができます。
さて、今年最後の月イチツアー「大椙観音霊場跡から平久里川源流へ」を開催しましたので、報告します。
出発は、南房総市平久里地域にある高照寺前の駐車場からです。開催日は、とにかく寒い朝でしたが、天気には恵まれました。館山市内から集合場所までのの間に気温が2度下がっていました。やっぱり山の方は館山・南房総でも気温が違うのです。

まず、訪れたのは高照寺。


曹洞宗の寺院で、山号を太嶺山と称し本尊は地蔵菩薩。口伝によると、長享3年(1489)頃に川名家初代が建立を発願、開創され里見家兵法指南役川名藤七郎氏により、永禄年間(1558~1569)に建立されたと言われています。
安房国百八箇所地蔵の二十九番札所でもあり、平群二十一箇所弘法大師の二十一番札所大師でもある高照寺。元々、安房国札観音霊場の十五番札所だったのは、大椙山椙福寺で、古くは、山頂のお堂に行基作の十一面観音菩薩像が安置されていましたが、椙福寺の衰退に伴い、大正7年に高照寺へ移されました。
高照寺の入口には、嘉永6年(1853)に建立された高さ2m程の「国札所十五番大杉山」の石標があります。


椙福寺の仏具で永享3年(1431)の銘がある鰐口も寺に保管されていて、今回は見せていただきました。


他にも境内には、安楽阿弥陀如来や蓬莱稲荷が祀られています。


安楽阿弥陀如来の由来は碑に書いてありますので、そのまま書かせていただきます。
時は一回限り、人生も1回限り、四苦(生老病死)の中に一生は終わります。しかしその四苦にくじけることなく、この生きている現世に安楽でありたいと願い、親や子の無事を念じ与えられたこの命を全うし、いつか消えゆく時、安楽に往生したいと祈り願う心の功徳によって現世も来世も安楽に(墓碑より)

蓬莱稲荷は、ほうらいだきにしんてんをお祀りしています。蓬莱とは仙人が住むと言われている霊山より起こったもので、道教の流れをを汲む神仙思想のなかで説かれているものです。仙人のように不老長寿を願い、毎日頂く作物によりこの身体が保たれ、活力の源となり、日々の生業が繁栄できる、という功徳を授けて下さるお稲荷さまです。(高寺寺HPより)

さて、いよいよ、大椙山椙福寺の跡へと向かいます。
途中、嶺岡牧遺構が残されています。


写真は、石垣の野馬土手です。大椙観音霊場跡付近には、嶺岡西一牧の馬囲(追い込み場)、2重の野馬土手・石垣の野馬土手、などの遺構の残っています。

大椙山大椙福寺跡です。


大椙山椙福寺と言い、天長年間(833)頃、境内にあった大杉1本を伐採して七間四面の堂宇を建て、その後、七堂伽籃を建立したと伝わっています。度重なる火災により焼失、一時は北条氏の御朱印も附せられた事もありましたが、廃寺となりました。大正8年(1919)に十一面観音菩薩・鰐口・地蔵菩薩が高照寺に譲渡されました。

敷地の真ん中には、石仏があります。

椙福寺跡を後にし、跳ね岩へ。


ここからの眺望は素晴らしいです。

題目にあります平久里川源流へと、コスモクラッシックゴルフ場を通り嶺岡中央林道を通り向かいます。

嶺岡道の傍らに、「頼朝の楊枝の井戸」があります。伝説によると、頼朝は険しい嶺岡道を主従とともに歩いていましたが、疲れ果てて「ああ、水がほしい」といいながら馬から降り、神仏に祈るように手にしていた楊枝を地面にさすと水がコンコンと湧き出ました。頼朝一行は大喜びで、人馬ともに渇きを癒しました。この頼朝伝説の「楊枝井戸」の水は今も平久里川の源流となっています。

ここからは、林道大川線を通り、駐車場まで向かいます。
この道は、滑りやすいところがあるので、気を付けて下って行きます。
今回は、10キロ近いコースになりました。お疲れ様でした。

今年は、このコースで終了です。来年は1月16日のお散歩ツアー「妙音院守りの人々の里」から始まります。是非、ご参加下さい。

皆さま、本年もガイドの独り言を読んでいただきありがとうございます。来年もまだまだ書いていきますので、よろしくお願いします。
皆さま良いお年をお迎えください。

月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」報告

平成30年も残すところ1ヶ月を切りました。今年は、冬の訪れが遅いような気がしていましたが、ここの所寒い日が続いています。
先日、都内から来られたお客様とお話ししたのですが、私「今日の朝は、寒かったですね。」お客様「そんな寒くなかったわよ。」と答えが返ってきました。やっぱり館山・南房総市は暖かいのだなぁ~と感じた1日でした。

さて、11月の月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」を開催いたしましたので、報告します。
開催日の数日前は、雨の予報が出てて心配しましたが、天気も回復し、絶好のウォーキング日和になりました。出発は、南房総市の平久里地域にある天神社からです。

まず向かったのは、金比羅大権現(写真左)・伊豫大明神(写真右)へ。

伊豫大明神の創建は不詳ですが、伊豫ヶ嶽をご神体として「伊豫大明神」と尊称し山麓に祀ったのが始まりと言われています。阿波忌部の伊豫の人々が移住したとき、故郷の伊豫高峯(石鎚山)にそっくりな山容に、故郷を偲び伊豫ヶ嶽と名付け、天狗伝説と共に伝わり、後に現在地に移転します。明治37年以降、諏訪神社に呼称を変更しています。
金比羅大権現の社号額の裏書に、文政7年(1824)甲申五月とあります。

昔話「伊予ヶ岳の天狗」の話を・・・
昔むかし、平群の伊予ヶ岳に天狗が棲んでいしました。天狗は神通力で人里に舞い降り、農家の納屋に置いてある米や、畑の野菜を盗む悪い奴でしたが、しかし村人たちは、その天狗の祟りが怖いので我慢していたのです。天狗はそれをよいことに、ある夜、山の麓のある家に、とんでもない要求を書いた紙きれを投げ込んだのです。
「今月の満月の夜、村で一番きれいな娘を伊予ヶ岳の下の天神社に連れてこい。もし断るならば、儂(わし)の団扇で大風を起し、村中を吹っ飛ばすぞ。伊予ヶ岳の天狗より」
家の主は、びっくりして名主に知らせました。名主は、村一番の知恵者でしたから、「天狗が団扇でくるなら、こちらも団扇で懲らしめてやるべぇ」と言い、天狗の物より三倍の大団扇を作ると、伊予ヶ岳に登り、天狗に見せびらかしました。それを見た天狗は、名主の大団扇が欲しくなり、自分の物と取り替えたのです。間もなくですが、得意になって大団扇を扇いでいた天狗が、山の天辺から舞い降りますと、何と真っ逆さまに落ち、大怪我をしてしまったのです。天狗は団扇を人間の作ったものと替えたため、神通力を失っていたのです。
(南房総市の昔話より)

ここから、坂道をを登って正壽院へ向かう途中、この地域に住んでいるお客様から、旧道に六地蔵があるよと教えていただいき、ちょっと旧道に寄り道。

正壽院の近くからは、伊予ヶ岳がこんな感じで見えます。

正壽院です。

真言宗の寺院で、経瑩山住正壽院住吉寺といいます。本尊は、地蔵菩薩。寺に伝わる縁起では、延喜21年(921)小松寺の七堂伽籃落慶法要の時に安房の国司小松民部正壽の子「千代若丸」がさらわれ、後日、家臣が伊予ヶ岳山中で遺骸を見つけ、法華経1000部の書写を納め墓を作り、小堂を建て、釈迦如来・弥勒菩薩・薬師如来・虚空蔵菩薩・不動明王の五尊を配し、延喜22年(922)に小松民部正壽が開基となりました。幾度か焼失しましたが、諸尊は損傷無く、南の麓に下り、原の十王堂に安置されました。
今回は、たまたまご住職が来られ、本堂をあけていただきました。

境内には、千代若丸の供養のために建てられた観音堂と法華経一千部が納められた供養とと子安地蔵堂があります。

もう一つの昔話「天狗の人さらい」をご紹介します。
伊予ヶ岳には、大昔から天狗が棲み、ときどき世間を騒がすような恐ろしい事をしでかしたそうです。延喜21年(921)2月の話です。朝夷(現千倉)の小松寺で再興した大檀那の安房守小松民部正壽が、七堂伽籃の落成の日、子の千代若丸に、祝いの稚児舞を舞わせていますと、その最中に、伊予ヶ岳の天狗が、突然、襲いかかり、千代若丸を抱き上げると空高く舞い上がり、棲処の伊予ヶ岳に飛び帰ってしまったのです。小松寺に集まっていた大勢に人は、皆驚き大騒ぎになりましたが、相手が神通力を持った天狗ですから、どうすることもできなかったようです。今の小松寺の方でも、そのときの出来事を小松寺七不思議の一つ「乙王の滝」の中で「延喜20年8月8日、本寺七堂伽籃ができ、翌年、坊舎の建築すべてが終わったので2月15日、普請成就の祝いとして当国の国司、安房守小松民部正壽の子息、千代若丸をさらって飛び去り、平久里の郷に捨てたという。千代若丸の従僕、乙王丸はその惨劇に驚き、どうする事もできず、近くの滝壷に身を投じた・・・」と語り継いでいます。(南房総市の昔話より)

ここまで、ずっと登り坂でしたが、ここから下りに入ります。正壽院の近くにある、御嶽信仰の碑へ。

この石碑は、数年前、正壽院の役員さんが、寺の周辺の掃除をしていた時に見つけたそうです。当時は、石碑は倒れ、土に埋もれていたそうです。修復作業の参加者を募りましたが、なかなか集まらず、やっと修復する事ができたそうです。
石碑は、山岳信仰を中心とする神道教団「御嶽教」のものです。高さは1mほどでひし形。明治21年11月に建立したとされています。下には、「太陽講」と彫られています。地元の方の話によると、戦前までは、年に一度、のぼり旗を立ててオコモリをしていたそうで、講元となっていた住民の家が火災で、のぼり旗などが失われてしまったそうで、詳しい資料は残されていましそうです。

少し下ると、視界が開けてきます。目の前には、「富山」が見えています。下見の際に会った人は、「富山登って、いまから伊予ヶ岳登ってきます」と言っていました。少し早いですが、この景色の良いところで昼食です。

昼食のあとは、下見で見つけた、熊野堂へ(おくまんさま)。

創建等については不詳ですが、地元の方がいまでもお供えしているそうです。参道は、竹に囲まれいい感じの道で、綺麗に手入れされていて歩きやす道でした。

次は、八雲神社を目指し、山を下って行きますが、途中、ここも旧道だったところを見つけたので、コンクリートの道からはずれ、通っていきます。その道の途中には、馬頭観音観音がひっそりとありました。
その道をでると、林道になります。車も通らず楽しく歩ける道で、林道を抜けると八雲神社に辿り着きます。

八雲神社は、旧称は牛頭天王宮。創建は棟札に安永2年(1733)とあります。明治初年に八雲神社に改称しました。

次に向かったのは、原の十王堂です。

平群二十一大師霊場二番にあたります。ご詠歌は「諸人の 苦役はらうか 大師尊 原の緑に 晴るる月影」。
堂内の諸像は、正壽院が火災に見舞われた時に避難して安置した諸仏です。十王のうち、二体は盗難に遭ってなくなっています。今は地蔵堂とも呼ばれ境内には、六地蔵やお地蔵さんが祀られています。

今回の見学場所は、ここまでです。あとは、出発地の天神社へと戻ります。

平久里地域には、天狗の昔話がまだ残されています。最後にもう1つ「天狗の仕事」をお話ししましょう。
房州平久里に伊予ヶ岳は、昔から天狗の集まる場所でした。ある夜、天狗たちは頂上の座敷岩に座って、麓の村の灯を眺めながら会議を始めました。先ずは長老の天狗が、「この山は儂(わし)たちの寄り合いに、たいへん都合の良い場所だが、雨風の時は困るので、この岩の下に部屋を造ろうと思うが、みんな賛成してくれぬか。」と話しを切り出しました。大勢の天狗たちは拍手して、「良いところに気が付かれた。儂たちの力なら、たやすく出来上がると思うので、急ぐ事にしよう。」と天狗たちは、自分の棲処まで道具を取りに行く事を決めました。そして天狗たちは羽音高く空へ舞い上がりました。一人残った長老の天狗が、長い髭をしごきながら夜空を見つめていると、出発してまだ間もないのに、もう帰ってくる天狗の姿が、白い星のように見えました。
天狗たちが蝶のように舞いながら、大きな鑿(のみ)を岩に打ち込むと、その度に小さく砕けた岩が流星のように光って散りました。
丁度その頃、麓の村の甚兵衛としう早起きの百姓が、囲炉裏に火を燃やすと、土間で縄をなう稲わらを、とんとんと、打ち始めたのです。その音の響きは、静かな村里にこだまして、しだいに渦のように広がり、伊予ヶ岳へも伝わりました。天狗たちは聞き耳を立てて、顔を見合わせながら、「村に怪しい音がする。」と言いますと、地元の天狗が、「あれは、早起き甚兵衛の朝の音だ。」と言いました。天狗たちは、「しまった。夜が明けたか。残念だが終わりにしよう。村人共に儂たちの仕事を見られたくない。」と言い合って、各自の棲処へ飛び去りました。今でも伊予ヶ岳の頂上には、その時の名残の太い石柱が一本立っているという事です。

今回は3本、天狗にまつわる昔話を書きましたが、書いていて、天狗ってなに?って・・・天狗そのものが神様な鞍馬山の神社とか、猿田彦の化身だったりと、良い天狗がいるのに、昔話になると悪い天狗が出てくるの?って不思議に思い、ちょっと調べました。

鎌倉時代中期に書かれた「沙石集」(1283成立)(仏教説話集)に、天狗の分類の説明がのってます。
天狗というものは、本物の知恵がなく、執着心が強く、偏った考え方で驕り昂った人が天狗の仲間にされやすい。
悪い天狗は、傲慢で、偏屈で、仏法を信じない。良い行いを妨げ、煩悩にまみれ、驕り昂っている。
良い天狗は、仏道に志がある。知恵も徳もありながら、執着心はなく、人の行いを妨げたりしない。また、悪い天狗が悪事をはたらくのを制し、仏法を守る。

なるほど、人間と同じで、色々な天狗がいるのですね。
倶楽部の代表曰く「平久里の天狗は、少し抜けてるところがかわいい」と言っておりました。

12月の月イチツアー、1月の月イチツアーは、平久里地域になります。今年度は、平久里地域特集になっていますね(笑)来年度のコースもそろそろ考えないといけません。駐車場を考えると悩む~いいところがあったら教えて下さい。

お散歩ツアー「加茂川流域散策」報告

11月の中旬だというのに、暖かい日が多い館山・南房総です。紅葉は、台風の影響
で海岸に近い場所は、塩害で紅葉を楽しむ事はできませんが、少し中の方に行くと、
塩害の影響がなく、紅葉を楽しめるかと・・・でも、館山・南房総は、もう少し後で
はないかと・・・

11月のお散布ツアー「加茂川流域散策」の報告をします。
今回は、鴨川市田原地域を散策しに行きました。
スターとは、JAの斎場 虹のホール鴨川さんの駐車場をお借りしてスタートです。

最初に行った場所は、田原交差点の所にあります、道標へ。

この道標は、鴨川の石造物百選に選ばれた道標です。
年号は、はっきりと読み取れませんが、文政4年(1821)に造られて物だと思われます。
兜巾(ときん)型の道標で、正面の上部、舟形の龕(ずし)の中に如意輪観音が刻まれ、
下部には、「西大山道」と大山寺への道筋が示されています。右側面には「右いそむら
前はら道」、左側面は「左清すみ天津道」とあり、磯村・前原・清澄・天津の現在地名
が刻まれています。

長狭街道を渡り、川代エリアの須賀神社へと向かいます。

祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。通称は、天王様。創建・由緒は伝えられていま
せん。別当寺は、勝福寺が努めていました。旧号は、牛頭天王社と称しましたが、明治
2年(1869)9月に現号を改めました。川代地区の祭礼では、川代神楽が奉納され、須賀
神社と熊野神社で奉納されます。起源は、江戸時代初期と言われています。

次に向かったのは、熊野神社。

祭神は、速玉男命(はやたまのおのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・伊邪那
岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)・仁徳天皇など八柱の神が
祀られています。創建の年や由緒は明らかではありませんが、土地の人々が熊野三山(本
宮・新宮・那智)を中心に広まった熊野信仰を伝え、土地の「守り神」としたのだと考え
られます。川代の字名に熊野道があります。

こちらの龍の彫刻は、後藤福太郎橘義道の作です。

次は、お隣にある勝福寺へ。

真言宗智山派の寺院で、桂林山多門院勝福寺と称します。南房総市府中の宝珠院の末寺。
本尊は不動明王(はじめは阿弥陀如来)です。勝福寺は、房州真言宗の十本寺の一寺に数え
られ、門葉20か寺をもつ当地有数の寺院でした。江戸幕府から寺領20石を認められてい
ました。勝福寺に伝来する「由緒書」によると、創建の年は明らかではありませんが、厳海
(げんかい)という僧が阿弥陀如来を本尊として、川代の熊野道の地に建立したと伝えられ
ています。境内の毘沙門堂は、文明16年(1484)に完成し、その後、衰微した勝福寺を聖興
法印が永正2年(1505)に中興開山したといいます。天正年間(1573~1591)の初めには、安
房を支配した戦国大名里見氏の保護をうけ、大般若経六百巻と寺領20石の寄進をうけてい
ます。天正の中ごろ、度々の洪水によって境内地が崩され、本堂も流失したといいます。
そこで、慶長2年(1597)、宥長法印が里見氏の援助を得て、熊野権現屋敷跡(現宮ノ脇)に
本堂を建立したと伝えられています。宝暦2年(1752)には住職宥海法印が発願し、領主本多
正安の援助をもって毘沙門堂を再建しました。天保5年(1834)12月、火災によって本堂・
庫裡・土蔵・長屋門の四棟を失いました。住職憲勝法印は、さっそく再建に取り掛かり、多
くの人々の浄財を得て、天保7年に本堂・庫裡・長屋門を再建しました。このとき本尊を不
動明王に改めています。寛政元年ごろには、勝福寺祭礼には、市が立ち相当賑わいをみせて
いたようです。

区画整理された田んぼを見ながら、諏訪神社へ。

祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)。創建等は不詳です。
本堂脇には、桜が咲いていました。

敷地内には大きな松の木があります。まつぼっくりも大きく、とげが出ています。葉も3本
で普通の松とはちがいます。テーダマツかスラッシュマツか私には、区別が難しいのですが、
日本古来のアカマツやクロマツとちょっと違います。

この松の葉は、まれに4本のがあり、少し探してみました。

次は、安房国札観音巡礼16番の石間寺(せきがんじ)へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は十一面観世音。
昔は、嶺岡山系の山の頂上にありましたが、火災で伽藍を焼失し、その後、観音台という所
に再興したといいます。江戸時代の元文年間にも火災があり、宝暦年間に再建されましたが、
さらに明治33年の火災で焼失すると、明治39年(1906)に、西福院と合併し小原寺(しょ
うげんじ)と改称し、翌年に再建したのが観音堂です。
小原寺は、真言宗に属し、本尊は不動明王(西福寺)と十一面観音菩薩(石間寺)。西福寺
の創建の年は不詳ですが、不動明王像は奈良時代の高僧・良弁僧正の作、十一面観音菩薩像
は弘法大師の作とする伝承があります。良弁僧正は、奈良時代の高僧の一人で、東大寺創建
の中心人物です。鴨川市平塚地区の大山寺の創建者とも伝えられています。
ご詠歌は「石のつま 峰よりおつる たきの水 むすぶこころは すずしかるらん」
観音堂の向拝の龍の彫刻は、後藤義光の弟子で国分の後藤義信です。

今回のウォーキングの見学場所はここまでです。あとは、出発地点へと戻ります。

今回駐車場を借りるのにご協力いただきました鴨川市田原公民館長さん、快くお貸しいただ
きましたJA斎場のみなさんありがとうございます。

月一ツアー「岩糸・戦国武将の栄枯盛衰をたどる」報告

なんだか色々な事がありすぎて、独り言を書くのを後回しにしてしまう今日この
頃です。歩いた内容を忘れてしまいそうです。

10月の月イチツアー「岩糸・戦国武将の栄枯盛衰をたどる」を開催しましたので、
報告します。
今回は、南房総市丸山エリアを散策します。この丸山エリアは、大和王権の軍事部
族「丸子連」の子孫「丸氏」が開いた場所になります。当日は、雨が降ったり止ん
だりとあいにくの天気でした。

集合場所は、南房総市丸山分庁舎。ここから出発です。
まず最初に、貴船神社へ。

祭神はたかおかみのかみ。創建の詳細は不明ですが、社伝による明徳元年(1390)再
興され、延享3年(1746)に社殿の修築をしました。また、安政5年(1858)松平肥後
守の家臣石岡喜右衛門代官在任中、拝殿ならびに廻廊を修復したとあります。大正
元年にも、社殿を改築。大正3年に岩井糸第六天にあった第六社、同西谷頭の熊野
神社、同池下の稲荷神社、同天神前の天神社の4社を合祀。大正12年の関東大震
災により社殿が倒壊し、昭和初年に再建されました。

次に向かったのは、青龍寺。

真言宗智山派の寺院で山号は新田山。本尊は不動明王です。
寺伝によると、延元3年(1338)仁慶法印の開基。一時は荒廃しましたが、中興伝
青和尚が再興し、明治41年堂宇を改築しましたが、大正12年の関東大震災で
すべて倒壊してしまいました。大正15年に千倉町の円蔵院の客殿を譲り受け再
建しました。
別の文章によれば、新田義貞公の同族小宮某なる者が、主人義貞公の菩提を弔う
ため一寺を建立し、新田山青龍寺と号し、延元3年(1338)仁慶法印を迎え開山
したとあります。
新田義貞は、南北朝時代の武将で、上野国(群馬県)新田荘を本拠とする豪族
で、後に鎌倉に攻め入り北条氏を滅ぼしました。建武政権下で功により、武者
所の頭人職になりますが、将軍足利尊氏との不和が表面化し、暦応元年(1338)
藤島(福井県)の戦いで敗死したため、追善供養のため青龍寺を建立したと言
われています。

次は、円照寺へ。

円照寺山と呼ばれる小高い山には、和田一門の墓地が築かれています。山裾を流
れる温石川(おんじゃくがわ)を挟んだ土地が、和田ヶ崎と呼ばれ和田の家が集
落をなしています。

次は、大聖寺へ。

真言宗智山派の寺院。創建は不詳ですが、和田助右衛門の開創と伝わっています。
暦応3年(1340)、悦翁闇和尚が再興し、享保6年(1721)に四国の行者・松岸道寿
が供養仏を勧請しました。年代は明らかではありませんが、安政年間に十一面観音
堂が、松平肥後守の家臣より寄進されました。この十一面観音の胎内仏は、和田義
盛が戦場に挑むとき、護身仏として2寸の金像観音と言われています。
和田義盛は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人です。初代侍
所別当。三浦氏の一族で、源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉の頼朝の初期武家政権がつ
くられると、初代侍所別当になりました。頼朝の時代には、功績を残しましたが、
2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦う
が敗死し、和田一族も滅亡しました(和田合戦)。

次は、丸岩糸殿本拠地と言われている西原長谷へ。
丸岩糸殿平朝臣豊常をその子、時綱が本拠としたのは、西原の長谷で、岩糸殿・長
谷殿と呼ばれ、館があったといいます。

次は、西原神社へ。

祭神は大山祗命・住吉大神。西原の鎮守で、創建は不詳です。江戸初期、正保年間
(1644~1648)西郷若狭守の知行地の時、神田を除地され、享保年間(1716~1736)
旗本、小笠原石見守の時代まで、名主管理の山神社でした。大正3年(1914)、西原
神社と改め、村社住吉神社を合祀しました。

次は、住吉神社の跡を見て、慈眼寺へ。

天台宗の寺院、長谷山(はがやつさん)普明院慈眼寺と号します。本尊は、館山市
の笠名のお堂にあった虚空蔵菩薩で、行基菩薩作といわれています。創立は不詳。
天文21年(1552)、室町戦国時代に大阿闍梨・宗聚法印の中興。もとは、丸本郷十
王台にあり、西原字長谷に移り、現在地に移りました。中興開山の時、当地主旦那
丸修理亮平種が、鰐口を寄進しました。江戸中期の安永2年(1773)には、この地を
知行していた小笠原上総介の家臣・加瀬七朗右衛門が半鐘を寄進しました。

境内には、安房の俳人井上杉長の門弟「素兆」句碑があります。

今回は、堂内で、素兆のお話しをしてもらいました。

今回お話しして頂いた方は、元丸山町長の福原さん、 この場を作っていただいた加
瀬さんありがとうございます。

昼食を取り、次に向かったのは、鰻塚。
写真が・・・ない。撮り忘れていました。残念。
この鰻塚は、民話にもなっているのでご紹介します。
「皆倉堰の大鰻」
旧豊田村岩糸の久麦に、丸氏本家と呼ぶ屋敷跡があります。丸氏本家とは、今絶えて
しまっていますが、鎌倉時代以来の名門でしたから、江戸時代の頃は代々名主だった
のです。ある年の暑い夏の日でした。その名主が、珠師ヶ谷の皆倉の堰に釣りに行き、
足を浸して休んでいますと、小さな鰻が出てきて足をなめ始めたのです。
「アッハハ。こんな小さい鰻じゃ、捕まえて食べるわけにもいかないし、どうしよう
もないな。」と名主が馬鹿にして笑いますと、なんと不思議なことに、その鰻が見る
見る大きくなって、化け物のような大鰻になり、名主を丸呑みにしようとしたのです。
名主はびっくり仰天、腰の脇差を抜くと、夢中で大鰻を切り殺しましたが、恐ろしさ
のあまり、暫く震えが止まりませんでした。どうにか名主は、無事家に帰ることがで
きましたが・・・・時が経ちますと、いくら自分の身を守るためだとはいえ、殺した
大鰻の祟りがあるのではと心配になり、屋敷の中へ鰻塚を祀ると、大鰻の供養をした
そうです。そのときの鰻塚は、今も久麦の丸氏本家の屋敷跡に残っています。
(南房総市の昔話より)

今は、分家の方が守っています。今回は、分家の方にお断りして見学させてもらいました。

さぁ~ここから、スタート地点へと戻ります。昼食を取ったころから雨があがり、
無事にたどり着く事ができました。

駐車場を快く貸してもらった南房総市さん、慈眼寺の檀家さん元町長さん、鰻塚の丸さん
ありがとうございました。

お散歩ツアー「那古山へ旧登山道を歩く」報告

段々と寒くなってきました。今年は、台風の塩害でイチョウの木の葉が枯れ落ちてしまって
いる神社仏閣が多いですね。今回のコースでお伺いした那古寺のイチョウの葉も枯れてしま
っていました。今年は、あまり紅葉が楽しめないですね。

お散歩ツアー「那古山へ旧登山道を歩く」を開催しましたので報告します。
集合時間頃は、雨がポツポツ降ったりしていましたが、出発時間には無事に雨が上がりまし
た。まずは、安房の古刹・那古寺へ。

こちらは本坊です。皆さんいつも観音堂の方にすぐいかれてしまうので、今回はこちらから。
真言宗智山派の寺院で、本尊は千手観世音菩薩像。創建は養老元年(717)、元正天皇の病気
平癒に、行基が海中より得た香木で千手観音菩薩像を刻み祈願したところ、たちどころに病
気が治り、その報謝で建てられたと伝えられています。以来、源頼朝をはじめ足利尊氏、里
見義実、徳川氏らの武士の信仰を集め栄えました。
坂東三十三観音霊場札所の結願寺です。江戸時代に元禄大地震で倒壊しましたが、安房全域
に及び万人講勧進により再建されました。

坂道をあがり、観音堂へ。

手前は、多宝塔です。江戸時代の宝暦11年(1761)に、那古の伊勢屋甚右衛門が願主となり、
地元の大工たちが再建しました。内部には、大日如来を安置しています。
2枚目は、観音堂です。宝暦8年(1758)に再建されました。那古寺の本堂にあたり県指定文
化財の建物です。入口に掲げられた「円通閣」の額は、江戸時代末の幕府老中松平定信の書
によるものです。堂内には、本尊の木造千手観音立像(館山市指定有形文化財)を安置してい
ます。鎌倉末期作の銅造千手観音立像は、国の重要文化財に指定されています。
観音堂は、館山湾を見渡す那古山の中腹に建ち、海上保安・航海の安全を祈る対象としても
信仰されました。

次は、観音堂前から、階段を下りて閼伽井へ。

閼伽井は、仏様にお供えする浄水をあかといい、その井戸を閼伽井とよんでいます。
観音堂が再建された時に、伊勢屋甚右衛門が伊豆石を運び、井戸に石組をして宝暦11年(17
61)つるべで水を汲み観音堂へ奉納しました。水神の弁天様が祀られ、安房路を巡る旅人は、
この霊水で渇きをいやし、喉を潤したそうです。なかには、遠方からこの霊験あらたかな万
病に効くと閼伽井の水を汲みに参詣したそうです。
閼伽井の下の地域を赤井下といい、那古寺本坊前の地域を寺町といい、二つ合わせて寺赤町内
会になったそうです。

次は、金比羅神社へと向かいますが、旧道をとおって向かいます。この道は、地域の里山古道
野会が整備している道です。
古道の入口には、鳥居があります。

登っていくと、石柱の門のようなものがあります。

ここはなんだったのか?わかりませんでした。
少し行くと防空壕があります。

すごく狭い場所でした。

金比羅様へは、もう少し古道を歩きます。途中、トンネルらしきものがあります。

この狭いトンネルを抜けると金比羅様へと抜けられます。
出口は、扉があります。写真は、金比羅様の境内から撮ったものです。

金比羅神社です。

祭神は大物主神。四国の漁師が、江戸時代の地元の人と協力して海の見えるこの場所に建てた
ものです。航海の安全を司る神です。
建物の入口にある丸金マークはとても印象的です。某携帯会社の金太郎を思い出してしまいま
した(笑)

次に向かったのは里程標へ。

明治26年(1893)の里程標です。東京や千葉県庁、佐倉などへの距離が刻まれています。当時、
町・村ごとに建てられたもので、これは船形町が建てたものです。

また、那古山へと入って行きます。次は等覚院跡へ向かいます。

那古寺への古い山道沿いにあったとされる、修験寺院の跡です。安永4年(1775)に川名地区の
行者秀善が四国八十八ヶ所巡礼した供養塔や、年代の異なる3基の庚申塔、安政4年(1857)・
慶應2年(1866)の馬頭観音像、明治42年(1909)の牛頭観音、明治6年(1873)の牛供養塔、
その他出羽三山碑などが残されています。

古道を通り潮音台へ。途中、富士山講祠があります。

富士講とは、富士を霊山として登拝する信仰組織です。江戸時代半ばに、江戸とその周辺農
村部に組織化されました。伝説上の富士講の開祖は、長谷川角行といい、富士の人穴で修行
した修験の一人だったそうです。江戸中期に食行身禄(じきぎょうみろく)、村上光清が布
教し、浅間信仰と結び、江戸で多く発展しました。
こちらには、山に三のマークから山三講が祀ったものだと思います。
今は、樹々に覆われていますが、木々がなければここからは富士山を拝む事ができると思い
ます。

いよいよ潮音台へ。ここからの景色は、こんな感じです。天気が良ければ最高です。

こちらの潮音台にも富士講祠があります。

こちらも山三講の祠です。

もう一つ和泉式部供養塚があります。

平安時代の歌人和泉式部の墓と言われています。こうした伝説の地は全国各地にありますが、
明治32年頃、ここで病気が治ったという噂が広がり、大勢の参詣者が来るようになったそ
うです。隣には、娘の小式部内侍の供養塔もあります。
和泉式部・紫式部って学校で習ったことはありますが、今になって和泉式部ってどんな人?
って思ったので調べてみました。
百人一首56番の「あらざらむ この世のほかの 思ひでに 今ひとたびの 逢ふこともがな」
で有名な人で、生まれは、貞元1年(976)頃、亡くなったのは長元9年(1036)頃とはっきりし
ていません。平安時代の女流歌人で、20歳前後で和泉守橘道貞と結婚し和泉国へ行き、小式
部内侍を出産しましたが、京に戻った頃、離婚しました。理由は、冷泉天皇皇子為尊親王と関
係したとかしないとか・・
長保4年(1002)為尊親王と死別、翌年夏頃からその弟敦道親王と関係が生まれた。正室だった
藤原氏の姫が家出し、後妻に居座りました。その3年後には、男の子が生まれました。寛弘4年
(1007)敦道親王とも死別し、同6年頃一条天皇中宮彰子に再出仕しました。紫式部も、彰子に仕
えていました。その後、藤原保昌と再婚し、万寿2年(1025)小式部内侍が子を産むと同時に亡く
なってしまいました。その後は、仏教に帰依したようですが、亡くなった場所についてはいくつ
かの説があり、北は岩手県から南は佐賀県まで、和泉式部のお墓であるとされるものや、地名に
彼女の名がそのまま残っている場所が多く存在しています。
作品には、「恋」というテーマの歌が多くあります。和泉式部の特徴は「恋にまつわる話が多い」
そうです。今の時代みたいに、電話で話をしたりとできなかった時代なので、文という形で、歌
を詠み男性に送っていたので、歌を情熱的に詠む女性は、モテモテだったんでしょうね。
そんな女性が和泉式部だったんですね。

潮音台から少し下り、三又を観音堂に向かって少し降りると少し広く平坦になっている場所があ
ります。

ここは古屋敷とよばれるところで、元禄16年(1703)の大地震まで、那古寺の本堂があったとこ
ろだといわれています。奥の方に紫式部の供養塔がひっそりとあります。

次は、飯縄権現の前を通り、七曲がりで下っていきます。

七つ曲がっているので七曲がりなんだそうです。
あとは、舗装された道を通り、集合場所の那古公民館へと向かいます。
里山古道野会の皆さんが案内看板を付けたり、整備されていて、とても歩きやすかったです。
スタート時は、傘を持って出発しましたが、傘を使う事がなく終了しました。 

特別ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」報告

9月の終わりに特別歴史ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」を開催しまし。
この特別ツアーは、歴史の勉強会を兼ねて行っています。自分たちも違うエリアに行くと勉
強にもなりますし・・・

集合場所は、館山市の城山公園。里見氏の城から本多氏の城へと攻略しに向かいます。
高速を使い2時間弱で大多喜城駐車場に到着。

駐車場で少し、大多喜城の歴史を説明しました。
大多喜城は、大永元年(1521)真里谷氏の築いた小多喜城(小田喜城)が始まりと言われています。
小多喜城(小田喜城)の位置については諸説ありますが、大多喜城の西側の栗山に城の遺構が残
せれていますので、こちらが初代の城と考えれています。
真里谷氏は、甲斐武田10代「信満」の次男「信長」が、古河公方「足利成氏」の命で、上総に
進出し、房総武田の初代となります。房総武田3代「信興」のとき真里谷武田に改称。真里谷城
4代城主の「信勝」は実子が無く、弟の「信清」が真里谷城主を継ぎましたが、信勝に子が出来
たので城主を譲り、小多喜城(小田喜城)を築城して初代城主となりました。その後、2代「直
信」3代「朝信」となり、朝信の時代天文13年(1544)、里見氏の武将正木時茂に城を奪われ、
以後「時茂」「信茂」「憲時」の3代に渡って正木氏が支配されました。天正9年(1581)里見義
頼との内紛によって憲時が殺害されると、里見氏の代官が派遣されたといいます。天正18年
(1590)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、家
康の配下の本多忠勝が城主となり大多喜藩10万石が成立しました。忠勝は里見氏の北上を防止
するために工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設
を行いました。城主は、本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、元禄16年
(1703)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き、廃藩置県を迎えました。

さて、いよいよ登城です。途中には、城の遺構が残されています。

このお城は、昭和50年に大多喜城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館として
建設し、平成18年からは千葉県立中央博物館の大多喜城分館となっています。

ここで、トラブルが発生しました。なんと、乗ってきたバスが故障してしまい、動かせなくなって
しまいました。昼食の場所で、バスは待機してもらう予定だったので、荷物を残して見学に行った
方もいらしゃいましたので、一旦、荷物を残した方は、駐車場に戻って来てもらいました。駐車場
に戻られたお客様は、別ルートでの見学となりました。

まずは、大井戸(県指定史跡)

大井戸のある場所は、県立大多喜高校のグランドの一隅にあります。本多忠勝が、天正18年(1590)、
徳川家康の命で大多喜城を築いた時に、生活に水は欠かせない。まして戦で籠城ともなると、水が生
死を分ける。そこで城内の二の丸に、日本一と呼ばれる大井戸を掘りました。雨の降らない夏でも、
満々と水をたたえ「底知らずの井戸」と呼ばれていました。深さは約20m、周囲17m。

大井戸の民話が残されています。
八代藩主松平正和の時、「あの大井戸は、底知らずの井戸だ。いくら水を汲んでも尽きることはない」
「いや、そんなバカなことがあるか。たくさん汲めば水はなくなるに決まってる」っと侍たちば言い
争いになったそうです。そこで、殿様に許しを得て井戸の水を汲み出すことにしました。
城下の力自慢五十人の人夫を集め、八個の滑車に十六個のつるべ桶で、水汲みが行われました。人夫
たちも言い合いになり、「底のない井戸なんてあるものか。昼頃には底が出てくるさ」「いや、底な
し井戸といわれてるらしい・・・」「こん井戸は夷隅川につながってるらしいぞ」「夷隅川どころか、
遠く太東岬の海につながっているんだって」「そんなばかなことがあるもんか」「いや、城が敵に囲
まれたら、大井戸に逃げ道が・・・」
陽が沈み暗くなり、それでも作業は続き、夜を徹して水を汲み出し、朝を迎えました。さすがに人夫
は、疲労の色は隠せなくなりました。「本当に底がないのかねぇ」「ばかな、あるに決まっている。
もう一日水を汲みだしてみよう」ということになりましたが、いくら汲み上げても底が見えない。二日
目の夜になっても底は見えてこない。やがて、空が明るくなり夜が明けました。井戸をのぞいてみると、
相変わらず満々と水をたたえています。「やっぱり、お城の井戸は底なしだ」みな、その場に長々と寝
そべってしまったそうです。

そんな民話の残る井戸を後に薬医門へ。(県指定史跡)

この門は大多喜城内建造物唯一の遺構です。本柱が中心により前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、
天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門です。明治4年の廃藩の際に、城山水道の開鑿によ
り、功績のあった小高半左衛門に払い下げられましたが、大正15年、曽孫にあたる県立大多喜中学
校第一回卒業生小高達也氏により、同校の校門として寄贈されました。昭和40年代に始まる大多喜
高等学校新校舎建築の際に、いったん解体保存されていましたが、昭和48年、大中第26回卒業生
中村茂氏の復元設計により建造されたものです。

そこから、大多喜駅前にある観光センター(大多喜町観光本陣)へ。
観光協会さんにお願いしてありました、お弁当をこちらの会議室で食べます。
また旅倶楽部は、いつもお弁当を地元の方が作るお弁当をお願いしておりまして、今回も観光協会さ
んにご紹介いただき、美味しいお弁当を食べる事ができました。
残念ながら、バタバタしてしまい写真を撮るのを忘れていました。内容的には、太巻き寿司・稲荷す
し野菜の天ぷら、煮物、栗等、皆さんに大変喜んでいただけました。

昼食が終わると、ここから、大多喜のボランティアガイドさんにお願いしまして、2班に分かれて、
城下町を散策しました。

まずは、天然ガス記念館へ。

大多喜町は、この地方の天然ガス発祥の地と言われています。この天然ガスがいつごろ発見されたか
と言うと、諸説ありますので、実録によれば、大多喜町坂花(現大多喜町上原)で醤油醸造業を営ん
でいた山崎屋太田卯八郎氏(1843~1895)の掘削した水井戸の一つが、天然ガス発見の事例として残
されています。明治24年(1891)、屋敷内に水井戸を掘りましたが、真水は湧き出さず、なお追堀し
ても湧き出る水は、泡を含んだ茶褐色をした塩水のみで、遂に目当ての真水は得られませんでした。
これに気落ちし、他に良い案がないまま、口にしていたタバコの吸殻を何気なく水泡のなかに投げ捨
てたところ、水泡はたちまち青白い炎を上げて盛んに燃えだしました。その場に居合わせた人たちは
驚きの声を上げ、その様子を見守りました。天然ガスが湧きだしました。その後、色々と工夫をして
天然ガスを利用したのですが、後年、その子伊之太郎氏は井戸の様子を銅板に刻ませ「天下無比天然
水素瓦斯」と称して後世に伝えました。
大多喜地方で、民家井を掘るようになったのは、大正の初期ごろからで、昭和に入ってから、さく井
が一段と盛んになり、昭和4~5年(1929~1930)には井戸数40~50抗を数えました。動力等によ
らず自噴する天然ガスは、簡易な分離器を経て導かれ、家庭燃料や灯火に、ある者は精米・精麦の動
力用に、繭の乾燥用に利用しまいた。

建物の脇には、ガス燈があります。

日本では、明治27年頃からガスマントル利用したガス燈が現れましたが、その後、石油ランプや電球
普及により照明としてのガス燈は姿を消しました。しかし近年、レトロな雰囲気が好評で新設される動
きもあるそうです。有名なところでは、北海道の小樽運河がそうです。千葉県では、四街道のガス燈通
りが有名です。

こんなに詳しく書いていたら、なかなか進まないので、次からはサァーっと行きます。
次は、房総中央鉄道館の前を通り

(館内には鉄道のジオラマがあるそうです。)

渡辺家住宅(国指定重要文化財)へ。

この住宅は、嘉永2年(1894)に地元猿稲町の棟梁、佐治兵衛によって建造られた江戸時代末期の代表的
な商家造りです。寄棟棧瓦葺(創建時は茅葺)二階建で、正面入り口は縦格子戸を、表板戸には上下戸
をつけてあります。間取りは、店・茶の間・中の間・奥座敷となっていて、南に勝手の間・土間がありま
す。奥座敷には木口縁をめぐらせてあって、床の間などに重厚さが見られ、武家造り風付書院・竿縁天井
・箱階段・欄間の透かし彫りなど、各部に雅趣とすごれた技法が見られます。店構えや整った座敷など、
この時代の上層商家の規模が良く示された重要な建物です。
渡辺家は、大多喜藩の軍用金御用達をつとめた豪商でした。先代は、「開運!なんでも鑑定団」のレギュ
ラー鑑定士だった渡邉包夫さんでした。

次は、伊勢幸(国登録有形文化財)へ。

こちらは、現在は酒店になっていますが、昔は、質・古物商を営む商店でしたが、廃藩置県の折、廃城の
大手門部材を使って建築されました。松・杉・欅材をもとに木造二階建て七寸角の隅柱、八寸角の欅の大
黒柱に支えられ、外壁一階には、下見板張、二階には白漆喰、正面は格子造りとなっています。

次は、釜屋へ。

土蔵造りの商家で質屋・金物屋を営業していました。

隣の博美堂。

昔は、郵便局だったそうです。瓦に郵便局のマークが入っています。現在は、手づくり甲冑教室が開催さ
れています。

次は、商い資料館。

町並みの中心として、平成13年にオープンしたそうです。江戸~明治の資料が展示されています。

次は、豊乃鶴酒造(国登録有形文化財)へ。

豊乃鶴酒造は、1781年から1788年頃に操業し、明治時代に今の場所に移動しました。格子戸と
蔵造りの家屋など歴史的な面影を色濃く残していて、ドラマの撮影にも度々利用されているそうです。
庄屋造りの母屋や赤レンガの煙突、元精米所等は国の有形文化財に登録されています。
代表するお酒は「大多喜城」と「銭神」です。(観光協会で味見させてもらいましたが、銭神は辛口で
するっと飲めて切れがありました。)

次も国登録有形文化財の大屋旅館へ。

夷隅神社の参道脇にある門前宿です。江戸期から続く老舗旅館で、明治24年(1891)歌人・正岡
子規が学生時代、房総の旅に出た時に泊まったとも言われています。
建物は、明治18年(1885)頃の建築で、南北棟、木造二階建。瓦葺切妻屋根の平入で、正面2階
左右の戸袋に大きく屋号を漆喰で表しています。

次は、城主本多氏の菩提寺の良玄寺。

浄土宗の寺院で、山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像です。
文禄4年(1595)、大多喜城主本多忠勝の開基、照誉了学の開山により創建されました。当初は、
忠勝の法号から良信寺といいましたが、子の忠朝の死後、忠朝の法号をとって現在の良玄寺と
なりました。
堂内には、本多忠勝の肖像画があります。甲冑を着て大きな鹿の角を付けた兜をかぶっている姿
の肖像画は、一度は見たことがあるかと思います。こちらのお寺の所蔵なんですが、今は、千葉
県立中央博物館大多喜城分館に保管されています。正式な名称は「紙本著色本多忠勝像」なんだ
そうです。関ヶ原の後、武勇が必要とされなくなってしまい、武将だった自分の姿を残そうと思
い甲冑を身に着けて肖像を書かせたそうです。

良玄寺の墓域の一番奥に、忠勝のお墓があります。

中央に忠勝、左が次男の忠朝、右が忠勝夫人です。
忠勝は、慶長15年(1610)10月18日、63歳で亡くなり、桑名の浄土寺に葬られますが、遺
言によって大多喜の良玄寺にも分骨されました。大阪夏の陣で戦死した忠朝も大阪一心寺に埋葬
され分骨し、この地に親子で眠っています。 

次は、夷隅神社へ。

祭神は、素戔嗚尊。創建については明らかではありませんが、社伝によると、長久2年(1041)の
再建後、さらに天正15年(1587)に里見氏の将、正木大膳亮(時堯)が再築したと伝えられてい
ます。その後、代々の大多喜城主に崇敬され加護されたとあります。
むかしから、牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と改号して村社となり、明治
12年には社格が郷社になりました。現在の建物は江戸時代末期のものと思われます。
地元では、縁結びにご利益があると言われています。

次は、大多喜小学校へ。

1997年に千葉県建築文化賞になった校舎です。

次は、大多喜町役場(中庁舎)へ。

1959年日本建築学会賞、2013年ユネスコアジア太平洋遺産商をもらっています。

出発地観光センターにて終了です。私の方のガイドさんは、説明も聞きやすく楽しく散策する事が
できました。因みに、ガイドさんは、車掌さんだったそうです。だから、言葉がはっきりしていて
聞きやすかったんだぁ~と思いました。もう1つのグループは、着物を着て案内してくれたそうで
す。途中、歌も歌ってくれたみたいです。大多喜町観光協会さん、ボランティアガイドの方、あり
がとうございました。

さて、いよいよいすみ鉄道に乗車です。
いすみ鉄道は、昭和63年(1988)3月にJR東日本木原線から第三セクターとして引き継がれまし
た。赤字経営が続き、2007年に行われた、いすみ鉄道再生会議で、2009年度の決算で収支
の改善が見込めない場合は廃止を前提に代替交通を検討することになりました。2009年に、社
長公募で選ばれた鳥塚氏により、いすみ鉄道は、増便・駅の命名権(ネーミングライツ)売却・新
駅開設などの経営立て直しが行われ、経営状態の回復が認められ、2010年にいすみ鉄道線の存
続が決定しました。ムーミン電車も経営状況回復の一つなんですね。

いよいよ乗車です。ムーミン電車に乗る事ができました。

こちらの運転手さんも、いい人で、少し案内もしてくれました。

一両の電車は、田んぼの中を走っていきます。館山ものどかですが、いすみ市はもっとのどか
なような気がします。

途中、ムーミンの住む谷?を通ります。運転手さんの計らいで、徐行してくれました。
たぶん、観光客が多かったからと、私が電車に乗る前にムーミンが居るところを聞いたからかな?
なんて思ってます。

ムーミンが住む谷?も、イノシシの被害が出ているそうで、周りはイノシシにやられていました。
(乗る前、運転手さんが教えてくれました。)
ムーミンにも傷がついてるみたいで、倒されていました。

さぁ~いすみ鉄道の旅を楽しんで、大原駅に到着です。バスは、別のバスが来てくれていて、
無事に館山へと向かい城山へと到着しました。
今回は、アクシデントがありましたが、時間通りで終わる事ができました。