月イチツアー「古代鷹の島湊を探す」報告

梅雨ですねぇ~。っと言っても、関東では水が不足するのではないかと、心配されていますが、
まだ、梅雨に入ったばっかりなのでどうなることか心配です。

そんな梅雨の晴れ間に、6月の月イチウォーキング「古代鷹の島湊を探す」を開催いたしました。
出発は、館山市城山公園芝生広場です。
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ここでは、準備体操をして出発です。

最初に向かったのは、黒島。お堀の跡をみながら、歩いて行きます。
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元禄地震前までは海に浮かぶ岩礁で、高の島・沖ノ島・黒島が鏡ケ浦三島と呼ばれていたそうです。
どこに島?っと思うかもしれませんが、稲荷の脇に少し岩礁が出てるのが、黒島の一番高い所だった
んだと思います。

次にむかったのは、北下台(ぼっけだい)。
城山の北側にある小高い丘一帯をさす呼び名です。
古くは北下崎と呼ばれ、鏡ケ浦に突き出た小岬だったそうです。元禄地震・大正地震の隆起や港湾
埋立工事を経て、北下台の海側は現在のような低地となりました。
新井浦から柏崎浦にかけての浜は、物産の積み出し港として江戸時代より栄え、ほぼその中央に位置
する北下台は、高の島・沖ノ島を眺望する景勝地として、明治初期に館山町で最初の公園となり、
「館山公園」という景勝地として知られていました。

まずは、正木灯へ。
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船形町長を務めた正木清一郎が、水産業の発展につくした父貞蔵の実績を祈念して、晩年の隠居所
があった北下台に建てた照明塔です。残っているのはその基台の部分で、かつては木の柱が立ち
アーク灯が灯っていました。大正5年(1916)に建てられ昭和26年(1951)にその役目を終えました。

次は琴平神社へ。
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江戸時代からこの場所にあり、地域の人々の信仰を集めていました。

次は、関沢明清顕彰碑へ。
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捕鯨や遠洋漁業などの水産業に功績を残した関沢明清の顕彰碑です。
かつてはここに、関沢が捕まえたというクジラの頭骨が置かれていたそうです。
この関沢明清さんって???関沢さんは、幕末から明治期の水産業の指導者です。加賀金沢藩の出身
で、蘭学を修め、藩命で英国に留学しました。帰国後、新政府に入り水産技師、水産伝習所長などと
なります。サケ、マスなど魚類の人工孵化、巾着網、米国式捕鯨法の導入などに功あり、退官後、館
山を拠点とし、みずから遠洋漁業を起業しました。晩年は館山に住んでいました。
北下台には、坂東丸船員殉難碑や順天丸遭難記念碑などの碑もあります。
北下台を後にし、地震で隆起した場所などを見ながら鷹の島を目指します。
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鷹の島の側には、水産伝習所高島実験所跡が残されています。
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白浜海岸の網小屋を借りて実験を行っていましたが、明治42年4月の高の島に、農商務省により
魚の孵化やプランクトンの研究の為に開設されたそうです。昭和5年海軍飛行場建築で移転が決まり、
残された建物は海軍に移管され、観測所などの用途に使用されていました。

鷹之島弁財天で昼食です。今日は市内にあるお弁当屋さんに注文しましたが、写真を撮る前に食べて
しまいました。

昼食が終わり、弁財天の解説です。
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平安時代、安房の国司・源親元がお告げにより勧請した厳島神社で、永長2年(1097)、沼の総持院
と同時期の創建と推測されます。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。海上交通の平安
を守護する神として、漁師や船乗りたちの信仰を集めています。
市杵島姫命は、、神仏習合によって弁財天と同視され、「弁天様」としても広く信仰されています。
七福神としても弁財天は、本来ヒンズー教の神ブラフマン(梵天)の妻とも娘ともいわれ、財宝の
神、美の神、音楽芸能の神とされています。
明治時代の神仏分離で宗像三神を復活させた神社もありますが、弁財天のまま今日に至る神社が多い
そうです。

昭和5年に鷹の島を含む海上部分を埋立て、海軍館山航空隊が開隊され、弾薬庫・燃料庫が建設され
ると、管理上、海軍が買収し、館空神社に変わりました。厳島神社は、北下台へと移されましたが、
終戦後元の場所へと鎮座しました。館空神社の時に奉納された、飛行機印の手水石が残っています。
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この石には由来がありまして、江戸初期、江戸城外堀の石垣用とし海路24個の大石を積んで江戸に
運ぶ途中の千石船が暴風に遭い、高の島の島影に逃れたが、不幸にも大波に呑まれて沈没してしまい
ました。昭和5年に海軍創設の際、海中から引き揚げられたそうです。

波切不動尊があります。
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航海の安全を祈る不動明王で、この不動様は、戦前に洞窟の中に倒れているのを発見され、見つけた人
が毎日お参りしたところ、戦争で命が助かったというお話しがあります。昭和26年に現在の場所に移
動されたそうです。

鷹の島を後にして、スタート地点の城山へ向かいます。今回は、諸事情があり、鷹の島でコースアウト
してしまったので、ガイドの独り事はここまでですが、後から他のガイドに聞きましたが、赤道などを
通って無事に城山公園に着いたとの事でした。

歴史ツアー「三浦一族をたどる旅」報告

梅雨に入ったようで・・・ウォーキングツアーを企画している私たちにとっては、悩ましい
季節に入りました。

5月の最終日曜日に、歴史ツアー「三浦一族をたどる旅」のバスツアーを開催しました。
安房とゆかりの深い三浦一族の最後の地新井城へ。普段は入る事の出来ない新井城跡を見学
し、三浦一族のお家芸えでもある笠懸を見学してきました。

まずは、三浦一族の説明を・・・
平安末期、武士の台頭により東国に多くの氏族が誕生します。三浦氏の始まりは、平為通が
三浦郡衣笠城を築き、初めて、三浦姓を名乗ったとされています。その後、源頼朝につき鎌倉
幕府では「宿老」となり、三浦一族らは、鎌倉幕府で重要な地位につきました。頼朝死後、幕
府内で抗争が繰り返され、宝治元年(1247)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅亡され、三浦
氏宗家は滅亡しました。宗家滅亡後、三浦氏の名跡は一族で北条方に味方した佐原氏一族の盛
時によって再興され、執権北条氏の御内人として活動しました。時高の代になると、駿河国から
伊豆・相模へと力を伸ばしてきたのが伊勢盛時(のちの北条早雲)です。永正10年(1513)盛時
が義同を討つべく大軍を率いて攻撃を仕掛けました。三浦軍は防戦しますが、住吉城・岡崎城が
相次いで陥落し、徐々に新井城に落ち詰めらえていき、そして永正13年(1516)、三年間の長期
にわたつ籠城戦の末に義同は自刃、子の三浦義意は戦死しました。これによって三浦氏は滅亡し
ました。

そんな三浦氏が籠城した新井城跡(油壺)へ向かいました。
油壺の市営駐車場へ。道も空いていてスムーズに到着しました。
まずは、三浦道寸義同と三浦荒次郎義意のの墓へ向かいます。途中、甲冑を着た人たちにあいました。
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油壺マリンパークを正面に見て、右側に行き、海へと続く道を歩いていくと、三浦道寸義同の墓へ。
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三浦義同は、上杉高救の子。高救とともに、三浦時高の養子となりますが、時高の実子高教の誕生
で不仲となり、父子ともに追放され、足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号し、そののち、大森氏
の支援を得て、時高を討ち新井城主となりますが、その後、北条早雲と対立し、戦いに敗れ自害し
てしまいました。義同辞世の歌と伝えられる、「うつものも、うたるるものもかわらけよ、くだけ
てのちは、もとのつちくれ」をの文字が記されています。
※道寸の実の墓は鎌倉円覚寺の塔頭寿徳庵にあります。

降りてきた道をもどり、三浦荒次郎義意のお墓へ。
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この三浦義意は大男だったといわれ、伝説も残っています。。
戦いのあった永正13年(1516)、義意は21歳でした。85人力で、身長7尺5寸、今でいうと、
約2m27cm位だったと伝えられています。7月11日、新井城は北条軍に攻められ最後の合戦が
繰り広げられ、三浦勢は力及ばず、道寸を含む残った75人は切腹して無惨な最期を遂げました。
残った義意は、雄叫びをあげながら、門外に躍り出し、白樫の丸太を八角に削った筋がね入りの棒を
振り回し、一払いに5人から10人と敵をなぎ倒し、棒の威力で、五百余人が重なるように倒れてい
ましたが、北条軍の攻め続き、これまでと悟った義意は、自らの首をかき落とし壮烈な最期を遂げま
した。ところが、首は高く舞い上がり、恨み深き北条軍の拠点である小田原城へ飛んで行き、近くの
松の枝に引掛りました。松に引っかかった首は、三年間「眼はさかさまに割け、鬼ひげは針をすった
ようにとがり、歯をくいしばり、下を睨み付ける眼の光は百錬の鏡に血をそそいだよう」だったそう
です。困り果てていると、小田原の久野にある総世寺の禅師が来て、「うつつとも、夢ともしらねひ
とねぶり、浮世のひまをあけぼのの空」と、一首の歌を手向けたところ、それまでどんなに高名な僧
侶が来ても効き目がなかった首が、不思議なことに、眼を閉じ、たちまちのうちに肉が朽ちて白こう
べになったといいます。
二人の墓(供養塔)は、天明2年7月11日(1782)に、美作国勝山城主・正木志摩守誠次、紀伊藩家
老・三浦長門守等が施主となり建立したものだそうです。

次は、予定ではこの後昼食でしたが、道が順調だったので、予定を変更して、新井城跡の見学へ。
通常は、東京大学臨海実験所の構内にあるので、見学は出来ませんが、道寸まつりの時だけ、見学する
事ができます。

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構内に入ると、ボランティアの方に説明してもらいました。説明してくれた方は、三浦市の
市議会議員さんです。「三浦どうするん会」のメンバーなんだそうです。その他に地元の中学生
の子たちもお手伝いしていました。地元の歴史を子供のころから、勉強して、お話しできる
という事はいいことですね。市議会議員さんも素晴らしいです。

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空堀(左)と土塁(右)です。
構内には、戦国時代の城の一部が残されていて空堀(写真左)とよばれる土を掘って落とし穴の
ようにした場所や、土塁(写真右)と呼ばれる土盛りをした所が残されています。
元弘2年(1334)の時、三浦介を継ぐ三浦時継が将来に備えて海陸両用の作戦に至便の地としてこの
城を整備したようです。南は油壺湾、北は小網代湾、西は相模湾に面し、断崖にして自然の要害で、
引橋だけで城外と繋がっていました。自然を利用した比類ない堅城で、当時は三崎要害と呼ばれて
いました。落城後、油壺城と名前を変え、新井城と呼ばれるようになったのは、江戸時代になって
からだそうです。
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このマップは、会長が資料を元にして描きました。

三浦氏は、宝治合戦で鎌倉北条執権政治の確立の時に、第一の滅亡をし、後北条氏の相模平定の
しめくくりで2回目の滅亡をしました。北条氏と後北条には血縁関係はないといいますが、後北
条死が自負しているので、三浦市は、北条氏に2度倒されて事になります。
その因縁なのか・・後北条氏が小田原で滅びたのは、三浦氏が滅びてから85年後のしかも7月
11日。歴史の巡り合わせなのでしょうかねぇ~
それと、今でも、毎年のように7月11日は天候が悪く、黒雲が低くたれこみ、雷雨になる日が
多いといいます。

ここまで、三浦氏に触れてきましたが、なぜ?安房と関係があるのか?という声が聞こえてきた
ので、ここで少しお話しします。
義同の二子・時綱(通綱)が、祖父高救の居地であった安房正木郷へ逃れ、正木氏を称し、安房
里見家三代義通(1481生)の妹を娶り、国衛の奉行人として大膳亮(だいぜんのすけ)の官職を
得て、子らは上総国の小田喜城主(大多喜町)、勝浦城主となったそうです。(諸説あります)

昼食は、ホテル京急油壺観潮荘で、特選まぐろ丼を食べました。

三崎港が近いので、まぐろです。平日は、レストランの予約ができるのですが、今回は日曜日だ
ったので予約ができないという話だったのですが、下見の時に無理にお願いして、今回は、お座敷
で食べる事ができました。(食事代プラス部屋代がかかってますけど・・・)

部屋からの景色はこんな感じです。小網代湾が一望できます。
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食事を済ませた後は、笠懸を見学しに2グループに分かれて荒井浜海岸へ。
1グループは油壺湾が見える道を通って荒井浜海岸へ。もう1グループは胴網海岸を通って
荒井浜海岸へと行きました。

油壺湾の見えるコースを紹介します。油壺湾です。
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油壺湾の由来は、三浦義同の自害した後、残る武士たちはこの湾に投身し、湾一面が血汐で
染まり、まるで油を流した状態になってので、後に「油壺」と言われるようになったとされ
ています。

次は胴網海岸経由の紹介です。まずは、胴網海岸です。
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ここは、義意が首をはねた際に、胴ばここの浜に落ちたからとか、胴が網にかかったから
とかという事で、胴網海岸と名が付いたといわれています。

岩場を歩き、荒井浜海岸へ。
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会場の海岸では、神事が行われ笠懸が始まります。
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笠懸は平安末期から鎌倉、室町時代にかけて流行した流鏑馬、犬追物と並ぶ、わが国三大古弓
馬術の一つです。この中でも笠懸は標的が多彩なうえに障害物があり、実践的かつ難易度が高
いとされています。源頼朝が、三浦岬遊覧の際、笠懸が催され、三浦義澄、和田義盛ら、三浦
一族は弓上手として知られていました。以来、笠懸は三浦一族のお家芸として長く伝えられて
きています。

この白い馬は、競走馬メジロホマレの子孫だそうです。

写真がお尻ばかりですみません。

荒井浜海岸には、祭壇がありました。
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二人が死んでから、今年の7月11日で500年になります。

笠懸を堪能し、バスに乗って帰路につきます。三浦半島は、結構混むのではないかと予想して
いたのですが、結構スムーズに帰れました。

今回のガイドの独り事で書いた事は諸説あります。歴史には、いろいろなロマンがありますね。