月イチツアー「国札観音巡礼参り」報告

師走ですね。なんだか師走という感じではないのですが・・・台風の被害から3か月がたちましたが、まだまだブルーの屋根が目立ちます。また旅倶楽部の事務所も、まだブルーのままなんですが・・・頑張って修理費を捻出しないとダメな状態です。なんせ、予約がキャンセルになってしまいましたからねぇ~。まだまだ、頭が痛い日々が続きます。
っと嘆いていては前に進まないので、新しい年に向けて、頑張って行こうと思います。

12月の月イチツアー「国札観音巡礼参り」を先日開催しましたので、報告します。
集合場所は、当初予定していた延命寺さんが台風被害の対応で檀家さんたちが集まるとの事でしたので、宝珠院のご住職さんのご厚意で駐車場を借りる事ができました。ご住職さんは、崖観音大福寺のご住職さんで私の恩師でもあります。

スタート地点の宝珠院です。

新義真言宗の寺院で、金剛山神明房神護寺宝珠院といいます。京都の智積院末寺で、本尊は地蔵菩薩。創建は応永11年(1404)です。江戸時代は安房国真言宗寺院の触頭としての地位にあり、安房国内223カ寺を統括していました。また談林所として安房国真言宗唯一の学問所でもありました。大正12年(1923)の関東大震災で山内諸堂が倒壊し、多くの寺宝を失ってしまいました。
昔の絵図を見ると、参道には仁王門や、林光院・徳蔵院・本覚院・西光院などの堂宇が立ち並んでいます。

観音堂は、今回の台風により大変な被害があり、向かって右側にある清瀧権現堂も傾いてしまっています。

観音堂は、安房国札観音巡礼23番札所で、十一面観音菩薩(鎌倉時代・徳治2年(1307))が本尊です。伝わっているのは、妙光尼(宥伝の母)は応永11年(1404)に行基菩薩作と伝えられる十一面観音を奉安する一寺を創建したと言われています。この観音様の管理は、林光院から西光院、宝珠院へと移っていきました。現在のお堂は、関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したものです。御詠歌は「あま寺へ 参るわがみも たのもしや はなのお寺を 見るにつけても」 このあま寺は、元の西光院が尼寺だったからです。

欄間の龍は、寛政2年(1790)「初代波の伊八」の作です。

お堂の中には、天正16年(1588)に里見義康が奉納した木造不動明王坐像もありましたが、現在は、本堂の方に仏様たちは避難しています。

観音堂の前にあった石造地蔵尊です。

台風被害で、折れてしまっていました。

壊れてしまった地蔵尊の隣には、岡本左京亮頼元の逆修塔があります。

岡本左京亮頼助は、里見義頼・義康に仕えた人物で、天正16,7(1588,9)年頃、岡本城で出火があった時の責任で出仕を停止させられたことがあります。逆修とは、生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ることで、慶長11年(1606)に建てたものです。

本堂の前には閼伽井があります。

お寺の名前の由来する伝承があります。永享年間に、開山宥伝が閼伽井の水を汲んだ際、水面に「宝珠」に二文字が現れたことから、実乗院と名乗っていましたが、宝珠院に改めたといいます。

参道入口の所に、石造地蔵尊があります。

明治11年(1878)に建立されたものです。半跏の地蔵尊で、台座には、賽の河原の様子が彫られていて、開眼導師は金剛宥性だそうです。金剛宥性は、房州長狭郡大山村の出身で、京都醍醐寺の三宝院住職。明治5年(1872)、安房に地蔵菩薩の札所霊場108か所を開き、すべての寺へ御詠歌の額を奉納しています。宝珠院は百八箇所地蔵の第一番になります。

宝珠院の参道を出てすぐの場所に、元八幡神社があります。

安房国府が府中周辺にあったころ、安房国の総社とされる鶴谷八幡宮がこの場所にあったと伝えられています。そのため元八幡神社と称しています。毎年「やわたのまち」のときには、ここの井戸で水を汲むことから祭りが始まっていて、八幡宮にとって由緒ある場所です。

次は、延命寺へ。

曹洞宗の寺院で、長谷山延命寺といいます。本尊は虚空蔵菩薩。里見実堯を開基として10代忠義までの後期里見氏の菩提寺です。慶長年間には里見氏から寺領を与えられ、その後徳川家からも保護されてきた安房曹洞宗の中心的なお寺です。観音堂の十一面観音像はもと平尾山大通寺の本尊で、裏山にあったといいます。安房国三十四観音巡礼の24番札所です。御詠歌は「平尾山 のぼりてみれば うどの原 出世はここに 七夕の」です。

次は、普門院へ。

真言宗の寺院で、日照山普門院といいます。本尊は不動明王。
境内の延命地蔵半跏像は「十方檀那法界萬霊塔」で文化11年に世話人光明講中によって建てられたものです。

石工は「當村 石巧 武田産 秀治」とあります。武田石翁が秀治と名乗っていたころのものです。

次の熊野神社に向かう途中には石仏があります。

民家の生垣の所に馬頭観音と如意輪観音がひっそりとあります。


曲がり角にも少し大きなお地蔵さんもいます。

熊野神社です。

祭神は須佐之男命。昭和39年に本織神社に合祀されました。
境内南東端に風化が激しい一面四臂の青面金剛像があります。

石工は「當村 石工 周治」とあり、普門院と同じ、石翁が周治と名乗っていた時のものです。武田石翁はいろいろと名前を使っています。周治・小瀧周治・秀治・壽秀・石翁と変え、多彩な趣味にいそしみ号を是房・壽秀・天然齋・天然道人・鯉石・石翁などと称しました。

横峯堂の前を通り新御堂跡へ。

那古時を始めとした安房国札観音巡礼の2番で、那古寺より正木の諏訪神社の山を越え青木根の中腹にある墓地が新御堂の跡で、御詠歌では「にいみどう 見上げて見れば 峯の松 くびこい鶴(汲み超えつる)に亀井戸の水」と詠われています。
文化年間に起きた火災までは、お堂へかぶるように峯の松があったと伝えられています。跡地には、正徳4年(1714)の石造智蔵菩薩立像があります。また「人も見ぬ 春や鏡の 裏の梅」と鏡ケ浦を詠んだ芭蕉の句碑があります。宝暦11年(1761)のものがあったのですが、建て替えられてしまっています。

山裾には、亀井戸があります。

亀井戸が亀ヶ原の地名の由来と言われています。

亀ヶ原八幡神社へ向かうところの辻にある六地蔵です。

正徳4年(1714)に建て替えられたものだそうです。その前には宗春という人物が建てたものがあったと刻まれています。

次は亀ヶ原八幡神社へ。

祭神は誉田別命。創建は室町時代の文明年間(1469~1487)と伝えられ、江戸時代初期の元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されています。境内には、四十八貫目(180㎏)と刻んだ力石や文化10年(1813)の手水石、文政11年(1828)の燈籠があります。

隣にある新御堂へ。

元々は、秀満院の境内でしたが、秀満が関東大震災で倒壊したため、青木根の中腹にあった新御堂が昭和42年(1967)に移転してきました。安房国札観音巡礼2番で、本尊は聖観音立像です。堂内には明治3年に作られた大黒天像が祀られています。

宝篋印塔は明和5年(1768)のものです。

次は六所神社です。

古代国府に付随しておかれたもので、国内の主要な神社の神を国府に集めて祀ったものをいいます。ここも安房国府に関連した六所神社と考えられているそうです。
本殿の向かって左脇には、クジラの骨を祀った祠があり???前回のウォーキングでお参りした際には祠があったのですが、台風被害で祠が倒壊してしまったようです。拝殿も被害があり、支えられています。
以前のクジラの祠の写真をどうぞ・・

祠に入っていたクジラの骨は、拝殿の中に入っていました。

拝殿も開いていて不用心だなぁ~なんて思いました。最近は、神社仏閣での泥棒被害があるので、気を付けて下さいね。

田んぼの片隅に石塔があります。

田の中の畔道に複数の中世の石塔の石がまとまって据えられています。五輪塔や宝篋印塔の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えられています。昔は一段低い田の中にあったそうです。

最後の見学場所、八坂神社へ。

古くは祇園社ともいい、祭神は祇園天神、牛頭天王であり、こと祇園精舎の守護神であるといわれ、また薬師如来の垂迹神ともいわれています。日本的には、素戔嗚尊が祭神であると言われています。祇園の御霊会は6月13日~15日頃、営まれますが、この季節は疫病流行の兆しの見える時でもあり、農村では病虫害に悩まされる時期で、疫病除の神として祇園祭が広く行われてきたそうです。
八坂神社の縁起によると、「往古、白髪の老翁がやってきて、「我は是出雲の国、大社の神官なり、当社の神躰を安房の国、東国府の郷へ安置いたすべすしと、神勅を蒙り、此の地へ来たり」として一つの御箱を里人に給り、「此の魂をこの里に勧請いたすにおいては、此の土あらんかぎりに国人を守護し永く疫癘悪病あるばからず」と申して、白い雉子となって飛び去ったと伝えられています。

拝殿の前にある狛犬です。

この狛犬は石翁作と伝えられています。天保13年(1842)の作で、総高150㎝程です。

今回のウォーキングはここまでになります。八坂神社と出発地点の宝珠院はお隣になります。八坂神社はむかしは宝珠院の子院だった徳蔵院が別当を勤めていました。

お参りさせていただいた神社仏閣ですが、やは台風の被害を受けている所も多くありました。自然の力には逆らえないなぁ~と
思いながら、この古い建物を修復して保存していって欲しいと思います。

今年も1年いろいろな方たちのご協力でなんとかやってこれました。ありがとうございます。
来年もがんばって書いていこうと思っておりますので、よろしくお願いします。
皆さま、良いお年を・・・・

お散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」報告

今年も残り少なくなってきました。朝晩はだいぶ冷え込んできました館山・南房総は、太陽さえ出てれば陽だまりはあったかです。
12月のお散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」を開催しましたので、報告します。

今回の集合場所は、増間コミュニティーセンター。増間地区のご協力を得てお借りすることができました。ありがとうございます。

増間コミュニティーセンターは、増間小学校があった場所です。増間小学校は、明治7年(1874)に善通寺にて生徒20名にて開校しました。先生は、川名元岱。増間村の代々医者殿といわれる川名家に産まれました。学校開校するお時、増間山間はへき地でなかなか先生を頼むのに困難な為、自分たちの村から先生をとの村民の強い希望により、資格取得のため戸長名儀により師範学校へ「入学嘆願書」なるものを提出し、入学を許可され、修学が終わって増間小学校に就任したといいます。
明治22年に町村制施行により滝田村が誕生し、明治23年に滝田尋常小学校が本校となり、増間尋常小学校は分校となりましたが、法令改正により10月には、増間尋常小学校として独立しました。明治32年9月に、校名を済美小学校と改めましたが、明治40年学校令改正により、済美小学校は廃止され、二葉分校となり、尋常4年までの児童を収容し、5年以上は本校の滝田小学校へと通学するようになりました。昭和47年に、旧三芳村の国府・滝田・稲都の三小学校が統合して三芳村立三芳小学校となり、二葉分校は廃校となりました。
敷地には、二葉分校の碑があります。

出発地から、沢山不動へと進んでいきますが、出発と同時に目に入って来たのが土砂崩れの後です。

9月からの台風の影響で地盤が緩んでいる所に、10月の大雨で山が崩れてしまったそうです。

この山の麓に、馬頭観音があります。

この馬頭観音さんは、地元の方に大切にされているようで、いつもきれいになっていて、カッパも着ていました。
観音様というと女性的な美しい表情であることが多いのですが、馬頭観音は憤怒の形相で表されています。怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ災難を取り除くとされています。また、家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様として信仰されています。昔は、武家や農民にとって、馬は生活の一部となっていたので、馬を供養する仏としても信仰されました。

湯の沢口というところに、お地蔵様と常夜燈があります。

お地蔵様はわかりませんでしたが、常夜燈は、天保5(1834)年12月のものです。
お地蔵様の地蔵とは大地からあらゆる命を蔵するよに、苦悩の人々を無限の慈悲の心でつつみ、救うがゆえについた名といわれています。インドの方では、次のような伝承が残されているそうです。
昔々、インドに大変慈悲深い2人の王様がいました。一人は自ら神になることで人を救おうと考え、一切智威如来という仏となりました。もう一人の王様は、神になる力を持ちながら、あえて仏となることをやめ、自らの意思で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩と、さまよい続ける魂を救おうとしました。それが地蔵菩薩です。地蔵菩薩の霊験は大変多く、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代りになって救済するという説話があります。

沢山不動入口の近くには、集乳所の跡があります。

沢山不動入口から沢山不動へと緩やかな坂を約40分上っていきます。途中には、炭焼き小屋などがあり、下をみると栗が落ちてたり、どんぐりが落ちてたりと山を楽しむ事ができます。

やっとお堂が見えました。

左奥が沢山不動尊で手前はお手洗いです。歩きながら撮ったので、ブレてしまいました。

お堂の少し手前の山側 には、馬頭観音があります。

文化7年(1810)のもので、文字で彫られています。

沢山不動です。

密教の寺院で、本尊は不動明王。創立縁起は不明ですが、昔から「沢山の不動さま」と呼ばれ、安産・商売繁盛・学業成就などのご利益があるとされています。縁日は、毎月28日に行われ、特別に2月と8月に護摩行事があります。
里見公が守本尊にしたとの話がり「里見公守り給ひし 不動尊 残す宝は ここに勝つ勝つ」という古歌が残っています。

不動堂は、普段は開いていませんが、お堂を開けて頂いていました。縁日ではない限り、見る事が出来ないのですが、地元紙に載ったおかげで、堂守さんが開けてくださったみたいで、感動です。ありがとうございます。

本堂向拝の龍の彫刻は、後藤義孝の作です。

後藤義孝は、三代目後藤義光の弟です。大正12年(1922)関東大震災後に建てられた歌舞伎座や明治座の装飾彫刻に腕を振るい、昭和11年(1936)に完成した国会議事堂参議院の玉座を飾る大鳳凰も義孝の作です。

不動堂の下の長沢川には「七つ滝」と呼ばれる滝があります。不動滝・棒滝などがありますが、全景を見通すことが出来ません。
最上段の滝横には不動尊の石像が安置されていて、行者の水行をした場所です。

お堂の正面には、かじか橋があります。平成10年に千葉県が建設したもので、房州では1番のつり橋です。

この吊り橋と、不動堂は、TBSのドラマ「ナポレオンの村」の撮影地にもなりました。

吊り橋の上から下を覗くとこんな感じです。

三段になった滝が見えます。渓谷になっているので、結構な高さがあります。冬場は、橋が凍結していると滑りやすくなるので、注意が必要です。

お堂の反対側は、Zワンダー公園という名になっていて、川の方へ下って行く階段があり、川へ近づく事ができます。

川底に降りたという事は、ここから、階段を上って行かなくてはなりせんが、ゆっくり上れば大丈夫です。
整備されていますが、この階段が擬木なので、擬木の上に乗ると滑りやすいので、注意が必要です。なるべく乗らずに歩いて下さい。因みに棒滝ですが、現在は道が荒れてしまって見る事ができません。あっ、増間地域には、増間七滝というのが増間川上流にありまして、坊滝・やげんの滝・狩人の滝・乙女の滝・乙坊の滝・前蔵引の滝・後蔵引の滝の7つ滝があります。増間ダムの脇にある林道を行くとあるんです。なので、沢山不動にある棒滝と間違えないでください。

あとは、出発地点に戻ります。
そうそう、出発地点の増間地区ですが、平家の隠れ里とか、豊臣家の落人の里とか言われ、落人が身を隠すため馬鹿をよそおい世間の目を逃れたという伝説があり、「増間のばか話」として伝えられています。
南房総市の昔話より、ご紹介します。

「馬がかわいそう」
 むかし、増間村の久兵衛という百姓が住んでいました。あるとき石臼が棚から落ち、割れてしまったので、薪を売って新しいものを買おうと、馬にいつもの倍の薪を積み、那古の街へ出かけました。そして、薪を売ったお金で石臼を買ったのですが、久兵衛は気の優しい男でしたから、街で薪を積んできた馬に、また重い目にあわせるのは、かわいそうだと思い、「けえり道は、おらが石臼をしょっていぐべぇかにゃー」と独り言を言いながら、自分が背負い歩きだしたのですが・・・。しかし、久兵衛は、いくらも歩かぬうちに、石臼が我慢できないほど重たくなりましたので、馬に向かって「おめえに、石臼持つのを交代して貰いてぇが、くたびれていてかわいそうだかんよ、やっぱおらが、家までしょって行ぐが、そのかわり、おらを乗っけて行ってくんにゃーか。」と言って、石臼を背負ったまま、馬に乗り、家にに帰りました。久兵衛は、帰り道の途中で人に会うたび、「石臼を直に馬に乗せて行けば、おめえさんも楽なのに。」と言われたそうですが、そのたびに、「馬がかわいそうだかんよ。」と返事そしたということです。

「土産の蝋燭」
 昔むかし、増間村の名主が江戸見物に行き、土産に蝋燭を買ってきました。そして、村中の家に配りました。 ところが蝋燭をもらった村人たちは、蝋燭を生まれて初めて見たので、てっきり江戸の食べ物と思い、皆が食べてしまったのです。それを知った名主は、驚いて村人たちを集めて言いました。「わしは江戸でみてきたが、蝋燭は頭から火を出して燃える物だ。火の元は注意が肝心だから、蝋燭を食べた者は早く向こうの川の中に入って水をかぶれ。」 名主の話に、村人はびっくり仰天。「体が火事になれば、家にも火が移る。」と大騒ぎになり、皆が川に行くと深みのところに飛び込んだのです。名主は、連れてきた村の火消し人夫といっしょに川を見下ろし、「早く知れてよかった。もう少し遅いと、村中が丸焼けになるところだった。」と言いました。

最後は、増間のばか話ではありませんが頼朝伝説が残されています。
 治承4年(1180)、伊豆の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に逃れてきましたが、そのときのある日、頼朝とその従者たちが増間にさしかかると、夕方になったので、一軒の民家を訪ね、一夜の宿を乞いました。ところが、その家の主は、頼朝一行の風体を見て怪しみ、家に泊めることを断ったのです。困った頼朝は、幾たびも乞いながら奥の寝どころに数枚のむしろが重ねておいてあるのを見つけると、その一枚だけでも貸して欲しいといったのです。それでも家の主は、「これは普段使うむしろではなく、大切なお客のためか、正月でなければ使用しない。」と言って断りました。頼朝と従者たちは、やむなくその民家の軒下にごろ寝しました。不思議なことに、それ以来その一家は今に至るまで、むしろを敷くことができなくなったといい、またそれは一族一統にとどまらず、増間村全体が同じです。無理にむしろを使用すれば、必ずその家に災難が起こるというのです。

増間地区だけでも30話位の民話が残されて、これからも語り継がれていって欲しいですね。

今回は、ここまでになります。なんやかんやで、地域のみなさんたちに助けられ感謝のツアーとなりました。増間地区の皆さん、沢山不動の堂守さんありがとうございました。

月イチツアー「特攻・捕鯨・勝山藩等の歴史を探る」報告

今年も残すところ1ヶ月となりました。いつも、綺麗な紅葉を見せてくれるイチョウも、今年は度重なる台風の被害で見る事ができません。台風の爪跡がまだまだ残っている館山・南房総ですが、頑張っていきます。

今回は、台風15号で、甚大な被害を受けた鋸南町を歩いてきました。開催するかどうかは、色々葛藤がありましたが、下見の際に出会った人からの言葉があったので、開催する事にしました。
当日は、雨模様でした。雨雲レーダーを見ると、雨雲がかかっていないのに、ずっと雨が降っている状況で、雨雲レーダーまでも千葉南部を見捨ててるのかと思うほどでした。

出発地から、まず最初に尋ねたのは、大乗院です。

新義真言宗智山派の寺院で、本尊は、不動明王立像。残存する寺誌によれば「二浜邑(にばまむら)内宿東光山薬師王大乗院は、抑々醍醐ノ宮御門徒にて、鎌倉三代将軍実朝公治世の御時(1205~1219)二浜邑主台命ありて建立」と書かれています。
安房国百八箇所の、第16番札所になっています。

本殿右手にある一石六地蔵は、文化3年(1806)に造立されたものです。

隣にあるのが、白幡神社です。

祭神は、誉田別命。創建等は不詳。

境内には、町有形文化財山王系庚申石祠があります。

石祠は、寄棟造で、瓦棒を克明に表現し塔身を四区割、正面上部二区画に窓を開け背面に銘文が刻まれています。材質が地元の凝灰石なので、風蝕に弱いので、銘文が読めないところがあるそうですが、寛永19年(1642)の物だそうです。
内部には、天保7年(1836)銘で、山王三神の文字と三猿を彫像した石造物が納められています。

ちょっと中をのぞいてみました。

少しお猿さんが見えるかと思います。

次に向かったのは、鯨塚。板井ヶ谷の弁財天と同じところにあります。

弁財天は、勝山藩酒井家のの分家で竜島の殿様(3000石)と言われた旗本酒井家の弁財天だったそうです。弁財天は水神であり、財産を司る副神だと言われています。

その隣に鯨塚はあります。

鯨塚は、房総捕鯨発祥の地ならではなのかもしれません。
鯨を解体するのが出刃組と呼ばれる専門部隊でした。彼らは漁期が終わるごとに、鯨への感謝と供養の為に小さな石宮を建てていきました。これが鯨塚と呼ばれる石宮です。100基ほどあったと言われていますが、現在は52基。供養碑のおおきさにより捕鯨数が分ると言われています。

次は、岩井袋へ。岩井袋は、岩井袋特攻基地があった場所になります。
昭和20年(1945)7月22日沖縄作戦が終了し、24日零時までに本土決戦体制を整える事が発せられました。予想される相模湾上陸に備え、東京湾入口には横須賀鎮守府直属の第一特攻戦隊・第18突撃隊(嵐部隊)が置かれ、勝山震洋基地の他に、岩井袋に特殊潜航艇に基地が構築され、海龍隊・咬龍隊・回天隊の兵員1700人規模の部隊が配備されました。岩井袋港を囲む形で、横穴式の特攻艇格納庫や発電所・燃料庫などが設置されました。現在は、網などで塞がれ入る事が出来ないようになっていたり、倉庫になっていたりします。


咬龍格納庫を覗いてみたら、咬龍の残骸かと思いきや、要らなくなったボート?が格納されていました。

次は、最誓寺へ。

浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来像。
江戸時代初期の寛永6年(1629)下野国(現栃木県)に創建され、寛永15年(1638)領主・佐倉藩主堀田氏がこの地へ引き移った時に、加知山村(現鋸南町)へ移転し慈光山最誓寺と称しました。
堀田氏は、旧地より持ってきた聖徳太子16歳の像である「孝養太子像(行基作)」を安置するため、太子堂を建立し、安房の国における「太子講」の礎を築きました。その後、明和年間の大火、明治34年の大火等による火災・天災に見舞われましたが、門信徒により再建改修されてきたそうです。明治に入って、現在地(板井ヶ谷)に土地を買い求め、仮本堂をおきました。かつて、板井ヶ谷には、勝山藩の陣屋の一部があり、現在も本堂裏には、茶の湯に用いるための水を汲んだ井戸が残されています。

勝山藩陣屋跡を通りながら、古峯神社へと向かいます。
古峯神社です。

北の大黒山に対し、南の小さな山は恵比須山と呼ばれています。天然の石段の上に小さな古峯神社が祀られ、石段の入口には恵比須様が祀られています。恵比須山は、標高25mで、子供の入山は出来ません。見るからに、大人が上るのも大変そうなのに、子供では、危ないですね。今回は、上る事はしませんでした。

次は、いさな通りを歩き長谷寺へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は十一面観世音。安房国札観音霊場第6番。
由緒によると、聖武天皇が病気平癒を祈願してなら長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基菩薩が2体の観音像を彫り安置しました。そのうち一体は、足利尊氏が武運長久祈願のため帰依し、当地にお堂を建て安置しました。その後4代将軍足利利義持が僧の木鐸とともに応永13年(1406)に開創したと言われています。大黒山中腹には、初代醍醐新兵衛の墓があります。

次は、水月堂(大智庵)へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は千手観世音。安房国札観音霊場の番外です。
お堂は、文和4年(1355)創建と言われています。元禄16年(1703)に起きた大津波で流出、大勢の死没者がでました。そこで立ち上がったのが、三代目醍醐新兵衛明定でした。元文5年(1740)死没者の冥福を祈るため、そして助かった父や祖父、自分たちに対する仏の加護に感謝するために、江戸の仏師に千手観音立像を依頼し、初代醍醐新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て、観音様を安置したとのことです。
水月堂下の祠は、やすらぎ地蔵の祠です。

浄蓮寺へ。

浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。開創は元和2年(1616)。元禄の大津波により本堂・古記等を流失してしまい、詳細は不明です。万延元年(1860)に本堂を再建しましたが、関東大震災で倒壊、庫裡のみ再建しました。本堂は昭和34年に改築、客殿は平成7年に改築されました。
俳人・小林一茶は、文化年間(1804~1818 第11代徳川家斉)にたびたび安房に足をのばしていて、その折りには浄蓮寺を宿としていたようです。一茶44歳の時には、8泊して何句か詠んだ記録が杉谷徳三蔵著書「小林一茶と房総の俳人たち」にあります。

妙典寺へ。

日蓮宗の寺院。本尊は、十界曼荼羅・日蓮坐像。醍醐新兵衛家の菩提寺です。元禄元年(1688)に初代醍醐新兵衛定明と2代明廣が、持地700坪を寄進し、荒廃してしまった田子の台妙典台にあった妙典寺を再建しました。田子の台妙典台は、日蓮説法の跡妙典寺の前身と伝えられています。

妙典寺入口入ってすぐの場所に、幕末の戊辰戦争で戦った勝山藩士の碑があります。

戊辰戦争は、薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中心とする「新政府軍」と、徳川幕府や会津を始めとする奥羽越列藩同盟を含む「旧幕府軍」との間に起こった日本の内戦の事です。
慶応4年(1868)、江戸幕府が滅びましたが、それを不服とする旧幕府軍の一部が挙兵し、上総請西藩(木更津市)藩主・林忠崇は、義軍と称し、幕府遊撃隊の人見勝太郎、伊庭八郎らとともに、内房諸藩に援軍を求め南下し、勝山藩にも援軍を迫りました。抵抗すれば勝山は戦火に巻き込まれことになり、勝山藩は苦慮のすえ、福井小左衛門、楯石作之丞ら31名を半ば公認、半ば脱藩の形で義軍に参加させました。館山から海路伊豆へ渡り、小田原藩にも協力を要請しますが、あいまいな態度を繰り替えし続けました。林軍は、伊豆周辺を転々としていたが、箱根の関所を占拠、これを知った官軍は、小田原藩に林軍掃討を命じられ、箱根湯本の山崎で衝突しました。この時、勝山藩士は、人見勝太郎率いる第一軍の一番隊に組み込まれてしまいました。一番隊と言ったら、最前線に立たされるという事です。勝敗はすぐに決定し、勝山藩士は、戦死15名、戦傷10名、行方不明2名とほぼ全滅でした。生き残った林軍は、海路再び館山に戻り、内房諸藩の兵はここで下ろされ、戦える者のみで東北へ転戦します。勝山藩士で帰藩したのは19人と記録されています。新政府は、義軍に荷担した内房諸藩に責任追及し、各藩首謀者の切腹を命じました。勝山藩では帰藩していた福井・槍石が佐貫の三宝寺で切腹し同寺に葬れました。
明治23年(1890)に彼らの義を讃えて勝山藩ゆかりの人々の発起により義士の碑が建立されました。

ここまで書いておいて、なんなんですが・・・勝山藩について少し書いておきます。
勝山藩は、慶長19年(1614)に里見忠義が安房国を没収され、以後、安房国は小藩や旗本領など細分化かされました。勝山の地は、館山藩領の接収に従事した上総国佐貫藩主内藤政長に与えられ、4万5千石の所領の一部となりました。元和8年(1622)内藤政長が磐城平藩に移るとその所領は分割され、内藤清政が3万石を与えられ、勝山城の麓に陣屋を構えました。。元和9年(1623)清政が死去し、弟の正勝は16歳だったので、幼少であるとして安房勝山藩は一時的に除封されました。寛永3年(1626)、正勝が兄の遺領のうち2万石を継承し、再度勝山に入封しますが、寛永6年(1629)に死去してしまいます。嫡子の重頼はまだ2歳だったため。5000石に減封され、安房勝山藩は廃藩となりました。
内藤氏改易後、勝山一帯は若狭小浜藩主酒井忠勝の所領となりました。酒井忠勝は、江戸初期に幕府大老を務めました。
長男の忠朝は、若年寄まで務めましたが、廃嫡の身となり、酒井家所領の市部村(現・南房総市市部)で薄幸の障害を終えました。寛文8年(1668)、小浜藩主酒井忠直(忠朝の弟)は、父忠勝の遺言に従って、甥の忠国(忠朝の子)に対して1万石を分けて、忠国は大名に取り立てられました。こうして勝山藩は、小浜藩酒井家の支藩として誕生しました。以来、勝山に陣屋を置くとともに、越前国敦賀郡と上野国群馬郡の飛び領地に代官所を置き、明治維新まで9代200年間この地を治めました。

最後の訪問先は、加知山神社。

祭神は縦速須佐之男命。元禄大地震(1703)により仁浜天王塚牛頭天王が浪欠したものを、2代目醍醐新兵衛昭廣が自身の地所の日月に天王の社地を開き、社祠を再建し還座しました。旧称は牛頭天王で、慶応4年(1868)に八雲大神と改称、明治2年(1869)に加知山神社と改めました。社殿内には、加知山神社・浮島神社・八幡神社の3社の御神体が合祀されています。
勝山地区の祭礼の時には、浮島神社へ御霊を移す島渡しが行われています。

あとは、スタート地点へと戻りました。
今回は、雨模様でしたので、早めの切り上げでした。鋸南町も、9月の台風で甚大な被害がありました。まだまだ、ブルーシートが目立っていますが、是非、街を歩いてみて下さい。