月イチツアー「特攻・捕鯨・勝山藩等の歴史を探る」報告

今年も残すところ1ヶ月となりました。いつも、綺麗な紅葉を見せてくれるイチョウも、今年は度重なる台風の被害で見る事ができません。台風の爪跡がまだまだ残っている館山・南房総ですが、頑張っていきます。

今回は、台風15号で、甚大な被害を受けた鋸南町を歩いてきました。開催するかどうかは、色々葛藤がありましたが、下見の際に出会った人からの言葉があったので、開催する事にしました。
当日は、雨模様でした。雨雲レーダーを見ると、雨雲がかかっていないのに、ずっと雨が降っている状況で、雨雲レーダーまでも千葉南部を見捨ててるのかと思うほどでした。

出発地から、まず最初に尋ねたのは、大乗院です。

新義真言宗智山派の寺院で、本尊は、不動明王立像。残存する寺誌によれば「二浜邑(にばまむら)内宿東光山薬師王大乗院は、抑々醍醐ノ宮御門徒にて、鎌倉三代将軍実朝公治世の御時(1205~1219)二浜邑主台命ありて建立」と書かれています。
安房国百八箇所の、第16番札所になっています。

本殿右手にある一石六地蔵は、文化3年(1806)に造立されたものです。

隣にあるのが、白幡神社です。

祭神は、誉田別命。創建等は不詳。

境内には、町有形文化財山王系庚申石祠があります。

石祠は、寄棟造で、瓦棒を克明に表現し塔身を四区割、正面上部二区画に窓を開け背面に銘文が刻まれています。材質が地元の凝灰石なので、風蝕に弱いので、銘文が読めないところがあるそうですが、寛永19年(1642)の物だそうです。
内部には、天保7年(1836)銘で、山王三神の文字と三猿を彫像した石造物が納められています。

ちょっと中をのぞいてみました。

少しお猿さんが見えるかと思います。

次に向かったのは、鯨塚。板井ヶ谷の弁財天と同じところにあります。

弁財天は、勝山藩酒井家のの分家で竜島の殿様(3000石)と言われた旗本酒井家の弁財天だったそうです。弁財天は水神であり、財産を司る副神だと言われています。

その隣に鯨塚はあります。

鯨塚は、房総捕鯨発祥の地ならではなのかもしれません。
鯨を解体するのが出刃組と呼ばれる専門部隊でした。彼らは漁期が終わるごとに、鯨への感謝と供養の為に小さな石宮を建てていきました。これが鯨塚と呼ばれる石宮です。100基ほどあったと言われていますが、現在は52基。供養碑のおおきさにより捕鯨数が分ると言われています。

次は、岩井袋へ。岩井袋は、岩井袋特攻基地があった場所になります。
昭和20年(1945)7月22日沖縄作戦が終了し、24日零時までに本土決戦体制を整える事が発せられました。予想される相模湾上陸に備え、東京湾入口には横須賀鎮守府直属の第一特攻戦隊・第18突撃隊(嵐部隊)が置かれ、勝山震洋基地の他に、岩井袋に特殊潜航艇に基地が構築され、海龍隊・咬龍隊・回天隊の兵員1700人規模の部隊が配備されました。岩井袋港を囲む形で、横穴式の特攻艇格納庫や発電所・燃料庫などが設置されました。現在は、網などで塞がれ入る事が出来ないようになっていたり、倉庫になっていたりします。


咬龍格納庫を覗いてみたら、咬龍の残骸かと思いきや、要らなくなったボート?が格納されていました。

次は、最誓寺へ。

浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来像。
江戸時代初期の寛永6年(1629)下野国(現栃木県)に創建され、寛永15年(1638)領主・佐倉藩主堀田氏がこの地へ引き移った時に、加知山村(現鋸南町)へ移転し慈光山最誓寺と称しました。
堀田氏は、旧地より持ってきた聖徳太子16歳の像である「孝養太子像(行基作)」を安置するため、太子堂を建立し、安房の国における「太子講」の礎を築きました。その後、明和年間の大火、明治34年の大火等による火災・天災に見舞われましたが、門信徒により再建改修されてきたそうです。明治に入って、現在地(板井ヶ谷)に土地を買い求め、仮本堂をおきました。かつて、板井ヶ谷には、勝山藩の陣屋の一部があり、現在も本堂裏には、茶の湯に用いるための水を汲んだ井戸が残されています。

勝山藩陣屋跡を通りながら、古峯神社へと向かいます。
古峯神社です。

北の大黒山に対し、南の小さな山は恵比須山と呼ばれています。天然の石段の上に小さな古峯神社が祀られ、石段の入口には恵比須様が祀られています。恵比須山は、標高25mで、子供の入山は出来ません。見るからに、大人が上るのも大変そうなのに、子供では、危ないですね。今回は、上る事はしませんでした。

次は、いさな通りを歩き長谷寺へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は十一面観世音。安房国札観音霊場第6番。
由緒によると、聖武天皇が病気平癒を祈願してなら長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基菩薩が2体の観音像を彫り安置しました。そのうち一体は、足利尊氏が武運長久祈願のため帰依し、当地にお堂を建て安置しました。その後4代将軍足利利義持が僧の木鐸とともに応永13年(1406)に開創したと言われています。大黒山中腹には、初代醍醐新兵衛の墓があります。

次は、水月堂(大智庵)へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は千手観世音。安房国札観音霊場の番外です。
お堂は、文和4年(1355)創建と言われています。元禄16年(1703)に起きた大津波で流出、大勢の死没者がでました。そこで立ち上がったのが、三代目醍醐新兵衛明定でした。元文5年(1740)死没者の冥福を祈るため、そして助かった父や祖父、自分たちに対する仏の加護に感謝するために、江戸の仏師に千手観音立像を依頼し、初代醍醐新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て、観音様を安置したとのことです。
水月堂下の祠は、やすらぎ地蔵の祠です。

浄蓮寺へ。

浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。開創は元和2年(1616)。元禄の大津波により本堂・古記等を流失してしまい、詳細は不明です。万延元年(1860)に本堂を再建しましたが、関東大震災で倒壊、庫裡のみ再建しました。本堂は昭和34年に改築、客殿は平成7年に改築されました。
俳人・小林一茶は、文化年間(1804~1818 第11代徳川家斉)にたびたび安房に足をのばしていて、その折りには浄蓮寺を宿としていたようです。一茶44歳の時には、8泊して何句か詠んだ記録が杉谷徳三蔵著書「小林一茶と房総の俳人たち」にあります。

妙典寺へ。

日蓮宗の寺院。本尊は、十界曼荼羅・日蓮坐像。醍醐新兵衛家の菩提寺です。元禄元年(1688)に初代醍醐新兵衛定明と2代明廣が、持地700坪を寄進し、荒廃してしまった田子の台妙典台にあった妙典寺を再建しました。田子の台妙典台は、日蓮説法の跡妙典寺の前身と伝えられています。

妙典寺入口入ってすぐの場所に、幕末の戊辰戦争で戦った勝山藩士の碑があります。

戊辰戦争は、薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中心とする「新政府軍」と、徳川幕府や会津を始めとする奥羽越列藩同盟を含む「旧幕府軍」との間に起こった日本の内戦の事です。
慶応4年(1868)、江戸幕府が滅びましたが、それを不服とする旧幕府軍の一部が挙兵し、上総請西藩(木更津市)藩主・林忠崇は、義軍と称し、幕府遊撃隊の人見勝太郎、伊庭八郎らとともに、内房諸藩に援軍を求め南下し、勝山藩にも援軍を迫りました。抵抗すれば勝山は戦火に巻き込まれことになり、勝山藩は苦慮のすえ、福井小左衛門、楯石作之丞ら31名を半ば公認、半ば脱藩の形で義軍に参加させました。館山から海路伊豆へ渡り、小田原藩にも協力を要請しますが、あいまいな態度を繰り替えし続けました。林軍は、伊豆周辺を転々としていたが、箱根の関所を占拠、これを知った官軍は、小田原藩に林軍掃討を命じられ、箱根湯本の山崎で衝突しました。この時、勝山藩士は、人見勝太郎率いる第一軍の一番隊に組み込まれてしまいました。一番隊と言ったら、最前線に立たされるという事です。勝敗はすぐに決定し、勝山藩士は、戦死15名、戦傷10名、行方不明2名とほぼ全滅でした。生き残った林軍は、海路再び館山に戻り、内房諸藩の兵はここで下ろされ、戦える者のみで東北へ転戦します。勝山藩士で帰藩したのは19人と記録されています。新政府は、義軍に荷担した内房諸藩に責任追及し、各藩首謀者の切腹を命じました。勝山藩では帰藩していた福井・槍石が佐貫の三宝寺で切腹し同寺に葬れました。
明治23年(1890)に彼らの義を讃えて勝山藩ゆかりの人々の発起により義士の碑が建立されました。

ここまで書いておいて、なんなんですが・・・勝山藩について少し書いておきます。
勝山藩は、慶長19年(1614)に里見忠義が安房国を没収され、以後、安房国は小藩や旗本領など細分化かされました。勝山の地は、館山藩領の接収に従事した上総国佐貫藩主内藤政長に与えられ、4万5千石の所領の一部となりました。元和8年(1622)内藤政長が磐城平藩に移るとその所領は分割され、内藤清政が3万石を与えられ、勝山城の麓に陣屋を構えました。。元和9年(1623)清政が死去し、弟の正勝は16歳だったので、幼少であるとして安房勝山藩は一時的に除封されました。寛永3年(1626)、正勝が兄の遺領のうち2万石を継承し、再度勝山に入封しますが、寛永6年(1629)に死去してしまいます。嫡子の重頼はまだ2歳だったため。5000石に減封され、安房勝山藩は廃藩となりました。
内藤氏改易後、勝山一帯は若狭小浜藩主酒井忠勝の所領となりました。酒井忠勝は、江戸初期に幕府大老を務めました。
長男の忠朝は、若年寄まで務めましたが、廃嫡の身となり、酒井家所領の市部村(現・南房総市市部)で薄幸の障害を終えました。寛文8年(1668)、小浜藩主酒井忠直(忠朝の弟)は、父忠勝の遺言に従って、甥の忠国(忠朝の子)に対して1万石を分けて、忠国は大名に取り立てられました。こうして勝山藩は、小浜藩酒井家の支藩として誕生しました。以来、勝山に陣屋を置くとともに、越前国敦賀郡と上野国群馬郡の飛び領地に代官所を置き、明治維新まで9代200年間この地を治めました。

最後の訪問先は、加知山神社。

祭神は縦速須佐之男命。元禄大地震(1703)により仁浜天王塚牛頭天王が浪欠したものを、2代目醍醐新兵衛昭廣が自身の地所の日月に天王の社地を開き、社祠を再建し還座しました。旧称は牛頭天王で、慶応4年(1868)に八雲大神と改称、明治2年(1869)に加知山神社と改めました。社殿内には、加知山神社・浮島神社・八幡神社の3社の御神体が合祀されています。
勝山地区の祭礼の時には、浮島神社へ御霊を移す島渡しが行われています。

あとは、スタート地点へと戻りました。
今回は、雨模様でしたので、早めの切り上げでした。鋸南町も、9月の台風で甚大な被害がありました。まだまだ、ブルーシートが目立っていますが、是非、街を歩いてみて下さい。

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