お散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」報告

今年も残り少なくなってきました。朝晩はだいぶ冷え込んできました館山・南房総は、太陽さえ出てれば陽だまりはあったかです。
12月のお散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」を開催しましたので、報告します。

今回の集合場所は、増間コミュニティーセンター。増間地区のご協力を得てお借りすることができました。ありがとうございます。

増間コミュニティーセンターは、増間小学校があった場所です。増間小学校は、明治7年(1874)に善通寺にて生徒20名にて開校しました。先生は、川名元岱。増間村の代々医者殿といわれる川名家に産まれました。学校開校するお時、増間山間はへき地でなかなか先生を頼むのに困難な為、自分たちの村から先生をとの村民の強い希望により、資格取得のため戸長名儀により師範学校へ「入学嘆願書」なるものを提出し、入学を許可され、修学が終わって増間小学校に就任したといいます。
明治22年に町村制施行により滝田村が誕生し、明治23年に滝田尋常小学校が本校となり、増間尋常小学校は分校となりましたが、法令改正により10月には、増間尋常小学校として独立しました。明治32年9月に、校名を済美小学校と改めましたが、明治40年学校令改正により、済美小学校は廃止され、二葉分校となり、尋常4年までの児童を収容し、5年以上は本校の滝田小学校へと通学するようになりました。昭和47年に、旧三芳村の国府・滝田・稲都の三小学校が統合して三芳村立三芳小学校となり、二葉分校は廃校となりました。
敷地には、二葉分校の碑があります。

出発地から、沢山不動へと進んでいきますが、出発と同時に目に入って来たのが土砂崩れの後です。

9月からの台風の影響で地盤が緩んでいる所に、10月の大雨で山が崩れてしまったそうです。

この山の麓に、馬頭観音があります。

この馬頭観音さんは、地元の方に大切にされているようで、いつもきれいになっていて、カッパも着ていました。
観音様というと女性的な美しい表情であることが多いのですが、馬頭観音は憤怒の形相で表されています。怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ災難を取り除くとされています。また、家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様として信仰されています。昔は、武家や農民にとって、馬は生活の一部となっていたので、馬を供養する仏としても信仰されました。

湯の沢口というところに、お地蔵様と常夜燈があります。

お地蔵様はわかりませんでしたが、常夜燈は、天保5(1834)年12月のものです。
お地蔵様の地蔵とは大地からあらゆる命を蔵するよに、苦悩の人々を無限の慈悲の心でつつみ、救うがゆえについた名といわれています。インドの方では、次のような伝承が残されているそうです。
昔々、インドに大変慈悲深い2人の王様がいました。一人は自ら神になることで人を救おうと考え、一切智威如来という仏となりました。もう一人の王様は、神になる力を持ちながら、あえて仏となることをやめ、自らの意思で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩と、さまよい続ける魂を救おうとしました。それが地蔵菩薩です。地蔵菩薩の霊験は大変多く、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代りになって救済するという説話があります。

沢山不動入口の近くには、集乳所の跡があります。

沢山不動入口から沢山不動へと緩やかな坂を約40分上っていきます。途中には、炭焼き小屋などがあり、下をみると栗が落ちてたり、どんぐりが落ちてたりと山を楽しむ事ができます。

やっとお堂が見えました。

左奥が沢山不動尊で手前はお手洗いです。歩きながら撮ったので、ブレてしまいました。

お堂の少し手前の山側 には、馬頭観音があります。

文化7年(1810)のもので、文字で彫られています。

沢山不動です。

密教の寺院で、本尊は不動明王。創立縁起は不明ですが、昔から「沢山の不動さま」と呼ばれ、安産・商売繁盛・学業成就などのご利益があるとされています。縁日は、毎月28日に行われ、特別に2月と8月に護摩行事があります。
里見公が守本尊にしたとの話がり「里見公守り給ひし 不動尊 残す宝は ここに勝つ勝つ」という古歌が残っています。

不動堂は、普段は開いていませんが、お堂を開けて頂いていました。縁日ではない限り、見る事が出来ないのですが、地元紙に載ったおかげで、堂守さんが開けてくださったみたいで、感動です。ありがとうございます。

本堂向拝の龍の彫刻は、後藤義孝の作です。

後藤義孝は、三代目後藤義光の弟です。大正12年(1922)関東大震災後に建てられた歌舞伎座や明治座の装飾彫刻に腕を振るい、昭和11年(1936)に完成した国会議事堂参議院の玉座を飾る大鳳凰も義孝の作です。

不動堂の下の長沢川には「七つ滝」と呼ばれる滝があります。不動滝・棒滝などがありますが、全景を見通すことが出来ません。
最上段の滝横には不動尊の石像が安置されていて、行者の水行をした場所です。

お堂の正面には、かじか橋があります。平成10年に千葉県が建設したもので、房州では1番のつり橋です。

この吊り橋と、不動堂は、TBSのドラマ「ナポレオンの村」の撮影地にもなりました。

吊り橋の上から下を覗くとこんな感じです。

三段になった滝が見えます。渓谷になっているので、結構な高さがあります。冬場は、橋が凍結していると滑りやすくなるので、注意が必要です。

お堂の反対側は、Zワンダー公園という名になっていて、川の方へ下って行く階段があり、川へ近づく事ができます。

川底に降りたという事は、ここから、階段を上って行かなくてはなりせんが、ゆっくり上れば大丈夫です。
整備されていますが、この階段が擬木なので、擬木の上に乗ると滑りやすいので、注意が必要です。なるべく乗らずに歩いて下さい。因みに棒滝ですが、現在は道が荒れてしまって見る事ができません。あっ、増間地域には、増間七滝というのが増間川上流にありまして、坊滝・やげんの滝・狩人の滝・乙女の滝・乙坊の滝・前蔵引の滝・後蔵引の滝の7つ滝があります。増間ダムの脇にある林道を行くとあるんです。なので、沢山不動にある棒滝と間違えないでください。

あとは、出発地点に戻ります。
そうそう、出発地点の増間地区ですが、平家の隠れ里とか、豊臣家の落人の里とか言われ、落人が身を隠すため馬鹿をよそおい世間の目を逃れたという伝説があり、「増間のばか話」として伝えられています。
南房総市の昔話より、ご紹介します。

「馬がかわいそう」
 むかし、増間村の久兵衛という百姓が住んでいました。あるとき石臼が棚から落ち、割れてしまったので、薪を売って新しいものを買おうと、馬にいつもの倍の薪を積み、那古の街へ出かけました。そして、薪を売ったお金で石臼を買ったのですが、久兵衛は気の優しい男でしたから、街で薪を積んできた馬に、また重い目にあわせるのは、かわいそうだと思い、「けえり道は、おらが石臼をしょっていぐべぇかにゃー」と独り言を言いながら、自分が背負い歩きだしたのですが・・・。しかし、久兵衛は、いくらも歩かぬうちに、石臼が我慢できないほど重たくなりましたので、馬に向かって「おめえに、石臼持つのを交代して貰いてぇが、くたびれていてかわいそうだかんよ、やっぱおらが、家までしょって行ぐが、そのかわり、おらを乗っけて行ってくんにゃーか。」と言って、石臼を背負ったまま、馬に乗り、家にに帰りました。久兵衛は、帰り道の途中で人に会うたび、「石臼を直に馬に乗せて行けば、おめえさんも楽なのに。」と言われたそうですが、そのたびに、「馬がかわいそうだかんよ。」と返事そしたということです。

「土産の蝋燭」
 昔むかし、増間村の名主が江戸見物に行き、土産に蝋燭を買ってきました。そして、村中の家に配りました。 ところが蝋燭をもらった村人たちは、蝋燭を生まれて初めて見たので、てっきり江戸の食べ物と思い、皆が食べてしまったのです。それを知った名主は、驚いて村人たちを集めて言いました。「わしは江戸でみてきたが、蝋燭は頭から火を出して燃える物だ。火の元は注意が肝心だから、蝋燭を食べた者は早く向こうの川の中に入って水をかぶれ。」 名主の話に、村人はびっくり仰天。「体が火事になれば、家にも火が移る。」と大騒ぎになり、皆が川に行くと深みのところに飛び込んだのです。名主は、連れてきた村の火消し人夫といっしょに川を見下ろし、「早く知れてよかった。もう少し遅いと、村中が丸焼けになるところだった。」と言いました。

最後は、増間のばか話ではありませんが頼朝伝説が残されています。
 治承4年(1180)、伊豆の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に逃れてきましたが、そのときのある日、頼朝とその従者たちが増間にさしかかると、夕方になったので、一軒の民家を訪ね、一夜の宿を乞いました。ところが、その家の主は、頼朝一行の風体を見て怪しみ、家に泊めることを断ったのです。困った頼朝は、幾たびも乞いながら奥の寝どころに数枚のむしろが重ねておいてあるのを見つけると、その一枚だけでも貸して欲しいといったのです。それでも家の主は、「これは普段使うむしろではなく、大切なお客のためか、正月でなければ使用しない。」と言って断りました。頼朝と従者たちは、やむなくその民家の軒下にごろ寝しました。不思議なことに、それ以来その一家は今に至るまで、むしろを敷くことができなくなったといい、またそれは一族一統にとどまらず、増間村全体が同じです。無理にむしろを使用すれば、必ずその家に災難が起こるというのです。

増間地区だけでも30話位の民話が残されて、これからも語り継がれていって欲しいですね。

今回は、ここまでになります。なんやかんやで、地域のみなさんたちに助けられ感謝のツアーとなりました。増間地区の皆さん、沢山不動の堂守さんありがとうございました。

コメントは停止中です。