お散歩ツアー「西岬の小道で江戸時代の遺産に触れよう」報告

暑くなってきた館山・南房総。でも・・・木陰の下では、海から吹く風が心地よい。
そんな中、お散歩ツアー「西岬の小道で江戸時代の遺産に触れよう」を開催してきました。
今回の、ウォーキングエリアは、花の栽培が盛んな地域で、この時期はひまわりの栽培が
行われていました。

出発は西岬地区公民館分館からです。
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まずは、坂足にある長江山照浪院へ。あっ!「坂足」と書いて「さかだる」って読むん
です。地名の読み方って難しいですよね。
入口には、前不動があります。
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ほんの少し歩くと本堂に辿り着きます。
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地元では「波切不動」と呼ばれているお堂です。大漁、海上安全のご利益があるということで、
多くの信仰を集めていました。
波切不動尊の縁起によると、「足利尊氏の時代(室町時代頃)、坂足村では七晩続いて海上から
山上の木の枝に竜灯(火の玉)が移動しました。ある夜の夢に竜王が自分の懐に入るのを見た
村人が翌日漁に出ると、夕方の海の中に輝くものを見つけました。網には不動明王の木造が掛
かっていました。これを山頂に安置して大漁と海上安全を祈ると、願いがかないました。波切
の尊像と言って今も皆が信心しています。」との事です。

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文化12年(1815)の六地蔵です。可愛らしいお地蔵さんです。

次に向かったのは、如意山宝安寺。
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曹洞宗の寺院で本尊は木造虚空蔵菩薩です。本尊は南北朝時代から室町時代にかけての作と
考えられています。

大正時代に住職をしていた岩永益禅(昭和27年没)は、西岬地区に花づくりを広めた人なん
です。安房地方に金盞花の種子が渡ってきたのは大正2年です。西岬坂井地区の和城家の次男
常吉さんが、横浜の港でヒヤシンスの球根と金盞花の種子を見つけ、花好きだった岩永益禅住
職のために入手しました。住職は早速栽培したところ、金盞花は大きく葉を広げて伸び、旺盛
に育ちました。暖かい気候にはぐくまれて、美しいオレンジ色の花を咲かせたので、切花とし
て東京の築地に持参したところ、それが米二斗分に当たる値段で売れたのです。そこで、住職
は種子を採ってお寺の畑に本格的に金盞花を作り、切花の生産を行うとともに、村人にもその
栽培をすすめました。大正9年に和田町の間宮七郎平氏らも住職を訪ね、金盞花の種子を譲り
受けて作り方を教わっていったそうです。その後、白浜町でも栽培されるようになりました。

境内には、寛政5年(1793)に安心房という人が奉納したお地蔵さまがあります。
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次は、道路から少し階段を上がったところにある大きな地蔵尊へ。
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少し赤っぽい石のお地蔵さまです。この石は安山岩でできているそうです。
地蔵尊の隣には、青面金剛の庚申塔と二十三夜塔があります。
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二十三夜塔とは、二十三夜の月が出るのを待って、お念仏をして飲んだり食べたりする月待行事
に関連して建てられた碑です。

すぐ下にある日露戦役戦没者碑です。
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明治39年(1906)に日露戦争で戦死した陸軍近衛工作上等兵の碑です。
このころは、戦死してしまうと碑を作れる状態だったんですね。その後、戦況が悪化して
行くと戦死した人の個人の碑はまったくと言っていいほど見られなくなります。

次は、諏訪神社へ。
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祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)と八坂刀咩命(やさかとめのかみ)。
こちらの諏訪神社は山の中腹にあり、もう一つは平坦地にあります。長野県の諏訪大社を
意識して上諏訪、下諏訪として祀ったのかな?と想像できます。

次は、地蔵堂です。
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松寿山地蔵堂。かつては安房108箇所地蔵巡礼の97番目の札所でした。
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天明4年(1784)、寛政10年(1798)、文化元年(1804)、文政元年(1818)の出羽三山碑や、
嘉永から明治の馬頭観音が並んでいます。

次に向かったのは、日光大権現です。
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日光の二荒山神社の日光権現を勧請したものです。
境内には、文政4年(1821)に奉納した手水鉢や文政11年(1828)に奉納した狛犬があります。
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なかなかの狛犬ですが、作者がわかりません。

次に向かったのは、居原台墓地です。
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宝暦6年(1756)の廻国塔、大日如来像が祀られています。

次は、諏訪神社へ。
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元々は、先ほど行った諏訪神社と一体と考えられます。

最後の見学場所・富士登山碑へは、畑の道を通っていき、出発地点の公民館の側に
あります。
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「富士一山二十八度大願成就」と書かれた山包講の富士登山碑があります。この碑には、
清行参伸という先達が、28度の富士登山を達成したということが書かれています。

ここに来る入口付近には、大日如来坐像や享保2年(1717)の銘記のある台座、中世の五輪塔・
宝篋印塔の一部などが積み重なっています。
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ここの大日如来さんは、よだれかけや赤い帽子を付けられてしまってます。
お地蔵さまではないのですが・・・

今回の見学場所はこれで終わりです。集合場所に戻り解散しました。
また旅倶楽部のウォーキングツアーは、8月はお休みになります。いやぁ~暑さには勝てません
からねぇ~。次回のウォーキングツアーは、9月11日の月イチツアー「幻の「皆倉」の滝と日本
最古の「柱木牧」を訪ねる」です。かつての和田地区と丸山地区を結んだ古道を歩きます。
是非、ご参加下さい。

月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」報告

7月に入りました。1年の半分が終わって後半戦へ突入ですが、7月に入りすごく暑く
なってきました。熱中症に気を付けないといけませんね。
さて、7月に入り第一日曜日に、月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」
を開催しました。当日は、暑さに加え風も強い1日でしたが、こんだけ暑いと風があって
良かったです。

出発場所は、休暇村たてやま前駐車場から、洲崎第一砲台を目指します。
最初に、洲崎第一砲台跡についてお話ししておきます。
洲崎第一砲台は、旧陸軍と旧海軍の協働により、昭和3年(1928)起工、昭和7年(1932)に
完成しました。軍艦生駒に搭載されていたイギリスビッカース社製の45口径30cm砲
(前部砲塔2門1基)を陸上に供え付けた砲台です。この砲塔は、横須賀海軍工廠で改造
され、分解され、見物海岸から陸揚げされ、標高約40mの高台まで、組立式の門型クレ
ーンやウインチなどにより、引き上げられました。
敵の艦船をみつけるための観測所は、坊の大山(房の大山)などに設けられました。
砲塔砲台は射程約26㎞で、約1tの砲弾が発射されるので、その時に受ける反動だけで
なく、敵の大型砲弾から防護することを考え、施設の外壁は暑さ3.5mの鉄筋コンクリ
ート構造になっていました。砲塔は分厚い鉄鋼で覆われた射撃室と、鉄筋コンクリート製
の地下施設から成り立っていて、地下部分の深さは13.5mで、施設内部も厚さ3.5m
の厚い鉄筋コンクリート構造といいます。

まずは、地下施設跡。現在小学校になっていますので、普段は見る事ができませんが、今
回は許可をいただき見せていただきました。
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入口は、安全の為にふさがっています。

坂道を上り砲台跡へ。現在は、私有地ですの勝手に入る事はできません。
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砲台のあった場所は、上手に花壇を作られています。

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ワンちゃんも一緒にガイドの話を聞いています。

次は、裏下の雑林の中にある地下入口です。
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地下入口の前に祠があります。

次は、山を下り、加賀名の鎮守、熊野神社へ。
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境内には、ヤグラがあり、中に一石で作られた五輪塔があるそうですが・・・・
ごみが溜まっていて、わからない状態になっています。

阿弥陀堂から波左間陣屋跡へ。
波左間陣屋跡は、今は畑だったりと家が建ってたりと「あったの?」と思うくらいになって
いるので、写真も撮っていませんが、少し解説だけしておきます。
文化7年(1811)に奥州白河藩に東京湾西側の房総沿岸警備が命じられました。藩主松平定信
は、洲崎に台場、波左間に陣屋を置き、江戸の防衛にあたりました。波左間の陣屋は、松ケ岡
陣屋と呼ばれ、砲台のある洲崎とともに、白河から500人もの人がやってきて警備にあたっ
たといいます。松ケ岡陣屋が使用されたのは、文政6年(1823)までの14年間でした。今でも
陣屋に近い光明院・西方寺・東伝寺には、白河藩関係者の墓が残されています。

さて、次は、稲荷神社へ。
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その奥には、熊野神社があります。
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熊野神社は紀州から移り住んだ人たちが建てたもので、現在もその子孫が守っているそうです。
稲荷神社の前には、明治6年(1873)に開校した波左間学校があったところだそうです。

本当は、海岸で昼食だったのですが、大風で食事が砂でジャリジャリになってしまうと大変なの
で、ここで昼食です。

昼食の後は、光明院と諏訪神社へ。
行く途中に、珍しいお墓があります。
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何の形に見えますか? 酒樽型のお墓です。なかなかないですよね。

光明院は、真言宗の寺院で、山号は青龍山。本尊は不動明王。本堂向拝正面には、後藤義光の彫刻
が施されています。本堂裏手の墓地には、波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が数基残され
ています。
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お寺さんの上にあります諏訪神社へ。
こちらは、波左間地区の鎮守で建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀っています。
毎年7月1日に行われる祭礼では、国の選択記録無形文化財の「ミノコオドリ」が奉納されます。
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(「ミノコオドリ」の写真は数年前に撮影しました。)

見学場所も残り少なくなってきました。次に向かったのは、震洋格納庫跡と震洋滑り台跡です。
震洋とは、太平洋戦争がしたいに苦戦に陥ってきた頃、昭和17年(1942)のミッドウェィ-海戦の
大敗、ガダルカナル島防衛戦の失敗で、日本は不利となりました。兵器や燃料は不足し、ついては
搭乗員の死を最初から計画に入れた特別攻撃が行われるようになりました。そして、体当たり攻撃
のみを目的とした兵器も開発され、旧海軍の海の特攻兵器のひとつが震洋です。
船首に約250㎏の爆薬を乗せた長さ5mほどのベニヤ板製のモーターボートで、ガソリンエンジ
ンを搭載し、約20ノットで走行しました。入り江の奥の洞窟などから出撃して、上陸してくる敵
艦に体当たりすることを目標としました。 
昭和20年(1945)3月下旬から、波左間海岸から約200mとやや離れた山すそに、格納壕7本と
燃料や食料などの地下壕が掘られ、海岸まで移動させるためのコンクリート道路がひかれ、海岸に
はコンクリート製の滑り台や係留施設などが建設されていきました。同様に、西方約3㎞の栄の浦
にも同様な震洋の基地の建設も進めました。7月14日に第59震洋隊・真鍋部隊長らが、波佐間
基地に到着しましたが、主力兵器の「震洋」はまだ配備されず、8月13日になって、 6隻が基
地に到着しましたが、出撃する事なく敗戦を迎えました。
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ここまでが、今回の見学場所になりす。後は、海岸線を歩いて出発地点へと戻ります。
暑い中のウォーキングは、普段より疲れました。
皆さんも、外にでて運動・お仕事する場合は、十分熱中症に気を付けて下さい。

お散歩ツアー「岩屏風に囲まれた隠れた漁村」報告

梅雨明けしていない館山・南房総ですが、夏の匂いがしてきました。
6月21日にまた旅倶楽部では、お散歩ツアーを開催しました。前日の午前中は、曇り予報だった
ので、安心していたのですが、時間が経つにつれだんだんと予報が悪い方へと・・・・
当日になると、弱雨ですが降りはじめていました。警報が出ていないので、お散歩ツアーは開催
しました。

集合場所は、富浦町南無谷にある豊受神社。
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祭神は豊受大神。和久産巣日神(わくむすびのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)の子で
五穀をつかさどる女神です。

お昼前後に大雨になる予報が出ているので、早めに出発します。
旧道を通り国道127号線を横断して石小浦・小浜地区へと進みます。
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旧南無谷トンネルは、明治31年頃に完成していそうです。全長191m、幅3.9m、高さ3.4m
あります。旧国道で、今では電気がついていますが、昔は、電気がなく真っ暗だったそうです。

トンネルを出てからの景色は、とても素敵な景色です。
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雨が降ってなければよかったのですが・・・

少し歩くと右側に鷹八幡神社があります。
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ここには、お話しが残っています。
昔、石小浦のある漁師が不思議な夢をみました。白髪の老人が現れて、「私は、遠く西方より
海を渡って来た八幡神である。汝に社殿を建ててもらいたい。その場所は、明朝、私の使いの
鷹が空から羽を落として教える。願いを聞いてくれたなら、火伏せの神となって石小浦を守ろう」
と言ったので、夢が気になり、夜明けを待って空を眺めていると、夢のお告げの通り鷹が現れ、
羽を一本落としました。漁師はさっそく、その場所に社殿を建てて、鷹八幡と名付けました。
それ以来、石小浦では火災がなくなったそうです。

鷹八幡にお参りした後は、池田弥三兵衛のお墓(左側)へ。
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慶長年間(1596~1615)に、泉州堺から南無谷の石小浦へ池田弥三兵衛という漁師がやってきました。
石小浦では、「イシゴラヨソベエ」と呼ばれ、弥三兵衛は、大消費地の江戸市場に目を付け、地元漁民
を雇うと長縄漁(はえ縄漁)を使い鯛漁を開始し、海岸の岩礁を加工して、周囲20mもある円形の生簀
を作りました。漁場を房州ばかりでなく、寛永年間(1624~1644)には、相州真鶴までおよびました。
弥三兵衛に指導を受けて進歩した鯛漁のお蔭で、富浦の鯛の漁獲量は関東屈指となり、相場を左右するほど
に成長しました。寛政6年(1794)に、子孫は真鶴に移転してしまいました。弥三兵衛の存在した証拠となる
ものは、このお墓にある延享元年(1744)に没した墓石と海岸の生簀が残っているだけでした。ところが、
弥三兵衛の一族が進出して行った真鶴の貴船神社に、鯛漁の記録文書が残されていて、弥三兵衛の事が
わかったそうです。

これが生簀です。
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中はこんな感じです。
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中もちゃんとできています。昔の人の知恵は素晴らしいです。

次に向かったのは金毘羅様です。
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金毘羅様のご神体は鰐(クンピーラ)と言われていますが、房州では甲殻が一丈(3m)もある大きな蟹
だといい、信者が海難に遭いそうになると、助けてくれると信じられています。
石小浦の船主・石井家が、江戸時代、四国讃岐の金毘羅大権現を勧請し、海沿いに横穴を掘ってお祀りし
ました。大正12年(1922)の地震により隆起するまでは、金毘羅様の横穴はいつも波が打ち寄せ、まるで
大きな蟹の棲み処のようだったと語り継がれています。

天気が良ければ、旧小浜トンネルを通り小浜海岸へ行く予定でしたが、雨が強くなってきましたので、
ここから、戻ります。
行く予定だった場所ですが、下見の時の写真と合わせて、少し説明します。
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旧小浜トンネルは、旧南無谷トンネルと同じ時期に出来たと思われます。
小浜海岸まで降りる砂浜の端の岩礁を加工した壕があります。ドックのような作りで、壕より直接海面に
進水出来る構造になっています。証言によりますと、戦時中は浦賀水道の敵潜水艦を監視するソナーを備
えた監視船が格納されたといいます。

豊受神社にあと少しのところで、南房総市の防災無線から警報の知らせが出ました。なんとか無事に帰路
に付く事ができました。

また旅倶楽部では、8月は外での活動(ウォーキングツアー)はお休みです。
8月は、「大人の学習旅行・川崎大師と周辺散策」のバスツアー企画しています。ぜひ、ご興味のある方は、
お問合せ下さい。