梅雨明けしていない館山・南房総ですが、夏の匂いがしてきました。
6月21日にまた旅倶楽部では、お散歩ツアーを開催しました。前日の午前中は、曇り予報だった
ので、安心していたのですが、時間が経つにつれだんだんと予報が悪い方へと・・・・
当日になると、弱雨ですが降りはじめていました。警報が出ていないので、お散歩ツアーは開催
しました。
集合場所は、富浦町南無谷にある豊受神社。
祭神は豊受大神。和久産巣日神(わくむすびのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)の子で
五穀をつかさどる女神です。
お昼前後に大雨になる予報が出ているので、早めに出発します。
旧道を通り国道127号線を横断して石小浦・小浜地区へと進みます。
旧南無谷トンネルは、明治31年頃に完成していそうです。全長191m、幅3.9m、高さ3.4m
あります。旧国道で、今では電気がついていますが、昔は、電気がなく真っ暗だったそうです。
トンネルを出てからの景色は、とても素敵な景色です。
雨が降ってなければよかったのですが・・・
少し歩くと右側に鷹八幡神社があります。
ここには、お話しが残っています。
昔、石小浦のある漁師が不思議な夢をみました。白髪の老人が現れて、「私は、遠く西方より
海を渡って来た八幡神である。汝に社殿を建ててもらいたい。その場所は、明朝、私の使いの
鷹が空から羽を落として教える。願いを聞いてくれたなら、火伏せの神となって石小浦を守ろう」
と言ったので、夢が気になり、夜明けを待って空を眺めていると、夢のお告げの通り鷹が現れ、
羽を一本落としました。漁師はさっそく、その場所に社殿を建てて、鷹八幡と名付けました。
それ以来、石小浦では火災がなくなったそうです。
鷹八幡にお参りした後は、池田弥三兵衛のお墓(左側)へ。
慶長年間(1596~1615)に、泉州堺から南無谷の石小浦へ池田弥三兵衛という漁師がやってきました。
石小浦では、「イシゴラヨソベエ」と呼ばれ、弥三兵衛は、大消費地の江戸市場に目を付け、地元漁民
を雇うと長縄漁(はえ縄漁)を使い鯛漁を開始し、海岸の岩礁を加工して、周囲20mもある円形の生簀
を作りました。漁場を房州ばかりでなく、寛永年間(1624~1644)には、相州真鶴までおよびました。
弥三兵衛に指導を受けて進歩した鯛漁のお蔭で、富浦の鯛の漁獲量は関東屈指となり、相場を左右するほど
に成長しました。寛政6年(1794)に、子孫は真鶴に移転してしまいました。弥三兵衛の存在した証拠となる
ものは、このお墓にある延享元年(1744)に没した墓石と海岸の生簀が残っているだけでした。ところが、
弥三兵衛の一族が進出して行った真鶴の貴船神社に、鯛漁の記録文書が残されていて、弥三兵衛の事が
わかったそうです。
中はこんな感じです。
中もちゃんとできています。昔の人の知恵は素晴らしいです。
次に向かったのは金毘羅様です。
金毘羅様のご神体は鰐(クンピーラ)と言われていますが、房州では甲殻が一丈(3m)もある大きな蟹
だといい、信者が海難に遭いそうになると、助けてくれると信じられています。
石小浦の船主・石井家が、江戸時代、四国讃岐の金毘羅大権現を勧請し、海沿いに横穴を掘ってお祀りし
ました。大正12年(1922)の地震により隆起するまでは、金毘羅様の横穴はいつも波が打ち寄せ、まるで
大きな蟹の棲み処のようだったと語り継がれています。
天気が良ければ、旧小浜トンネルを通り小浜海岸へ行く予定でしたが、雨が強くなってきましたので、
ここから、戻ります。
行く予定だった場所ですが、下見の時の写真と合わせて、少し説明します。
旧小浜トンネルは、旧南無谷トンネルと同じ時期に出来たと思われます。
小浜海岸まで降りる砂浜の端の岩礁を加工した壕があります。ドックのような作りで、壕より直接海面に
進水出来る構造になっています。証言によりますと、戦時中は浦賀水道の敵潜水艦を監視するソナーを備
えた監視船が格納されたといいます。
豊受神社にあと少しのところで、南房総市の防災無線から警報の知らせが出ました。なんとか無事に帰路
に付く事ができました。
また旅倶楽部では、8月は外での活動(ウォーキングツアー)はお休みです。
8月は、「大人の学習旅行・川崎大師と周辺散策」のバスツアー企画しています。ぜひ、ご興味のある方は、
お問合せ下さい。