月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」報告

7月に入りました。1年の半分が終わって後半戦へ突入ですが、7月に入りすごく暑く
なってきました。熱中症に気を付けないといけませんね。
さて、7月に入り第一日曜日に、月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」
を開催しました。当日は、暑さに加え風も強い1日でしたが、こんだけ暑いと風があって
良かったです。

出発場所は、休暇村たてやま前駐車場から、洲崎第一砲台を目指します。
最初に、洲崎第一砲台跡についてお話ししておきます。
洲崎第一砲台は、旧陸軍と旧海軍の協働により、昭和3年(1928)起工、昭和7年(1932)に
完成しました。軍艦生駒に搭載されていたイギリスビッカース社製の45口径30cm砲
(前部砲塔2門1基)を陸上に供え付けた砲台です。この砲塔は、横須賀海軍工廠で改造
され、分解され、見物海岸から陸揚げされ、標高約40mの高台まで、組立式の門型クレ
ーンやウインチなどにより、引き上げられました。
敵の艦船をみつけるための観測所は、坊の大山(房の大山)などに設けられました。
砲塔砲台は射程約26㎞で、約1tの砲弾が発射されるので、その時に受ける反動だけで
なく、敵の大型砲弾から防護することを考え、施設の外壁は暑さ3.5mの鉄筋コンクリ
ート構造になっていました。砲塔は分厚い鉄鋼で覆われた射撃室と、鉄筋コンクリート製
の地下施設から成り立っていて、地下部分の深さは13.5mで、施設内部も厚さ3.5m
の厚い鉄筋コンクリート構造といいます。

まずは、地下施設跡。現在小学校になっていますので、普段は見る事ができませんが、今
回は許可をいただき見せていただきました。
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入口は、安全の為にふさがっています。

坂道を上り砲台跡へ。現在は、私有地ですの勝手に入る事はできません。
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砲台のあった場所は、上手に花壇を作られています。

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ワンちゃんも一緒にガイドの話を聞いています。

次は、裏下の雑林の中にある地下入口です。
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地下入口の前に祠があります。

次は、山を下り、加賀名の鎮守、熊野神社へ。
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境内には、ヤグラがあり、中に一石で作られた五輪塔があるそうですが・・・・
ごみが溜まっていて、わからない状態になっています。

阿弥陀堂から波左間陣屋跡へ。
波左間陣屋跡は、今は畑だったりと家が建ってたりと「あったの?」と思うくらいになって
いるので、写真も撮っていませんが、少し解説だけしておきます。
文化7年(1811)に奥州白河藩に東京湾西側の房総沿岸警備が命じられました。藩主松平定信
は、洲崎に台場、波左間に陣屋を置き、江戸の防衛にあたりました。波左間の陣屋は、松ケ岡
陣屋と呼ばれ、砲台のある洲崎とともに、白河から500人もの人がやってきて警備にあたっ
たといいます。松ケ岡陣屋が使用されたのは、文政6年(1823)までの14年間でした。今でも
陣屋に近い光明院・西方寺・東伝寺には、白河藩関係者の墓が残されています。

さて、次は、稲荷神社へ。
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その奥には、熊野神社があります。
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熊野神社は紀州から移り住んだ人たちが建てたもので、現在もその子孫が守っているそうです。
稲荷神社の前には、明治6年(1873)に開校した波左間学校があったところだそうです。

本当は、海岸で昼食だったのですが、大風で食事が砂でジャリジャリになってしまうと大変なの
で、ここで昼食です。

昼食の後は、光明院と諏訪神社へ。
行く途中に、珍しいお墓があります。
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何の形に見えますか? 酒樽型のお墓です。なかなかないですよね。

光明院は、真言宗の寺院で、山号は青龍山。本尊は不動明王。本堂向拝正面には、後藤義光の彫刻
が施されています。本堂裏手の墓地には、波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が数基残され
ています。
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お寺さんの上にあります諏訪神社へ。
こちらは、波左間地区の鎮守で建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀っています。
毎年7月1日に行われる祭礼では、国の選択記録無形文化財の「ミノコオドリ」が奉納されます。
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(「ミノコオドリ」の写真は数年前に撮影しました。)

見学場所も残り少なくなってきました。次に向かったのは、震洋格納庫跡と震洋滑り台跡です。
震洋とは、太平洋戦争がしたいに苦戦に陥ってきた頃、昭和17年(1942)のミッドウェィ-海戦の
大敗、ガダルカナル島防衛戦の失敗で、日本は不利となりました。兵器や燃料は不足し、ついては
搭乗員の死を最初から計画に入れた特別攻撃が行われるようになりました。そして、体当たり攻撃
のみを目的とした兵器も開発され、旧海軍の海の特攻兵器のひとつが震洋です。
船首に約250㎏の爆薬を乗せた長さ5mほどのベニヤ板製のモーターボートで、ガソリンエンジ
ンを搭載し、約20ノットで走行しました。入り江の奥の洞窟などから出撃して、上陸してくる敵
艦に体当たりすることを目標としました。 
昭和20年(1945)3月下旬から、波左間海岸から約200mとやや離れた山すそに、格納壕7本と
燃料や食料などの地下壕が掘られ、海岸まで移動させるためのコンクリート道路がひかれ、海岸に
はコンクリート製の滑り台や係留施設などが建設されていきました。同様に、西方約3㎞の栄の浦
にも同様な震洋の基地の建設も進めました。7月14日に第59震洋隊・真鍋部隊長らが、波佐間
基地に到着しましたが、主力兵器の「震洋」はまだ配備されず、8月13日になって、 6隻が基
地に到着しましたが、出撃する事なく敗戦を迎えました。
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ここまでが、今回の見学場所になりす。後は、海岸線を歩いて出発地点へと戻ります。
暑い中のウォーキングは、普段より疲れました。
皆さんも、外にでて運動・お仕事する場合は、十分熱中症に気を付けて下さい。

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