月イチツアー「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」報告

春らしい日が多くなってきました。しかしながら、花粉が多く飛びはじめ、ティッシュの
消費が多い季節ともなっています。薬もだんだんと効かなくなってるような・・・

花粉に負けずに今回は、「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」のツアーを開催し
ました。花粉に負けずにと書きましたが、その日はあいにくの雨模様だったので、花粉の量
は少なかったので楽でしたが、雨だとちょっと歩くのにブルーな気持ちになります。今回は、
3月6日に西の大黒様を拝見できるという事で、雨にも負けずに歩いてきました。
(今回の写真は、下見の際に撮った写真を多く使わせていただきます。)

集合場所は、千葉県酪農のさと。この日は休館日だったのですが、申請書を書き貸していた
だく事ができました。

ここは、酪農の発祥の地です。戦国時代(1500年代)に国守里見氏の軍馬を育てる目的で嶺岡
牧場をつくりました。その後、江戸幕府が嶺岡牧場を直轄し、8代将軍徳川吉宗が馬の改良に
力を入れ外国産の馬を輸入し、その際、インドの白牛3頭が入ってきました。白牛は年々繁殖
し、1793年からは搾った牛乳から白牛酪が作られるようになり、生産量も増え寛政8年
(1796)に、日本橋「玉屋」から白牛酪が売りだされるようになりました。このことが日本の酪
農の始まりです。明治の初めは、政府の管理下にあり、その後、有志により設立した嶺岡牧社
は牛馬を購入し、繁殖、改良を進め、明治22年には嶺岡畜産(株)が発足し、アメリカより短
角種50頭及びホルスタイン種雌雄2頭を輸入し、安房におけるホルスタイン種輸入の発端に
なりました。その後、短角種からホルスタイン種へ移行され、ホルスタイン種の乳用化が進み
ました。明治20年安房種畜組合の設立、明治28年安房畜産会結成、明治39年には安房郡
産牛組合の発足と、畜産の普及と活況にあわせて組織も発展しました。

酪農のさとを後にし、国道410号線を少し歩き、嶺岡林道へと入り坂道を登っていき八丁陣
屋へと向かいます。坂道を登っている頃はまだ小雨でした。

八丁陣屋に着くころには、雨が多くなってきました。

嶺岡牧経営の管理は、嶺岡牧のほぼ中央部に享保20年(1735)に造られた八丁陣屋で行ってい
ました。番屋の他、牛舎、厩舎が建っており、馬を洗う池もあったそうです。明治時代には建
物は焼失し、池は戦後埋められてしまったそうですが、井戸跡や陣屋裏の山に祀られた稲荷な
どに八丁神社の名残をみることができます。


稲荷社です。

次は、水田氏の生家へと向かいます。
向かう道には、桜の木が植えられていて、途中には水田桜記念碑があります。

水田桜記念碑は、水田三喜男氏が地域の活性化と嶺岡林道を美しく整えるために、地元の方と
500本の桜を植えられました。そして水田氏が設立した城西国際大学が鴨川市に観光学部を
開設したことを機に、水田桜を守ろうと「嶺岡林道桜並木修復プロジェクト」を立ち上げ、毎
年多くの桜を植樹しました。創立20周年の時に、この記念碑を建てたそうです。

記念碑から下へと下っていくと、水田氏の生家があります。長屋門の所から、管理をされてい
る佐藤様にご説明いただきました。

長屋門です。

長屋門は桁行16.4m、梁間5.5m規模の寄棟造、桟瓦葺、出桁造の建物で、全体的に太い
材が使われています。正面右1室と左2室を牛小屋とする点に特徴があります。江戸時代以来の
酪農地である嶺岡牧場の歴史を伝える建物として貴重なものです。建設年代は、江戸後期か明治
初期と推測されます。(登録有形文化財)

母屋です。

母屋は、桁行15.8m、梁間11.1mの茅葺の寄棟造で、東側を土間とし、床上は囲炉裏を
切った15畳の座敷を中心に5室あります。西側に縁側、南面には瓦葺の下屋を差し掛けるなど
房総民かの特色を以ています。建設年代は江戸後期と推測されます。茅葺屋根の形がネコの背に
似ていることから、ねこぜと言われるそうです。(登録有形文化財)

母屋の中も見学させていただきました。

囲炉裏にも火を入れてもらいました。ありがとうございます。

ここで、今回サプライズな事が・・・水田氏の御親戚の方からおみやげをいただきました。倶楽
部のガイドと水田氏の御親戚の方が知り合いで、お伺いするお話しをしたのが、このサプライズ
になりました。みなさん喜んでいました。ありがとうございました。

ここまで書いてきましたが、水田氏って誰?と思う方もいらっしゃるかと・・・
まずは、水田家の由来を・・・
旧水田家が存する旧曽呂村(鴨川市)は、嶺岡山脈の南麓を東から西へ通じる道を中心とした五
百戸余りの山村です。江戸時代からこのあたりでは毎年5月、たいへんなにぎわいの中、馬捕り
の行事が行われており、そこに幕府の役人が来て牛馬を見定めする場所を陣屋と称したが、庄屋
のような役割を果たし、村の指導的立場にあった水田家は、この陣屋と地続きとなっていました。
水田家は、400年以上前に四国讃岐から移ってきたものといわれています。明治中頃の水田家
当主水田竹蔵は、英国から初めて輸入されたホルスタイン種牡牛を飼育したことによって、酪農
史にその名を残しています。塾で学んで帰った当時の新知識人でもあり、初代の戸長、村長とし
て信望を集めていました。その息子信太郎も村長をつとめ、その在任中、県下にさきがけて村内
の学校数校を一校に統合、近代校舎を建て、村の教育に貢献しました。信太郎には6男2女が生
まれましたが、男兄弟だけでなく姉妹2人を含む8人全員がその当時の高等教育を受け、この山
村から中央に出て、財界、政界、教育界で活躍したのです。そのなかの3男が、のちに通産大臣
や大蔵大臣を歴任し、城西大学を創立した水田三喜男氏です。ここで生まれ、安房中学校まで過
ごしました。(パンフレットより)

では、水田三喜男氏のことを・・・
日本の政治家で、城西大学創立者です。大蔵大臣を数度に亘り務め、戦後日本の代表的な財政家
です。生まれは、千葉県曽呂村(現鴨川市)。旧制安房中学校(現県立安房高等学校)、旧制水
戸高等学校(茨城大学の前身校)を経て、京都帝国大学法学部に入学。1931年卒業後、東京
市の職員、専修大学講師、北越石油監査役等を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に
当選、以後13回連続当選を果たしました。1953年に経済審議庁長官として初入閣し、その
後、通産相や大蔵大臣を数回努め、第34回衆議院議員総選挙で13回目の当選を果たし直後
71歳で急逝しました。曽呂村尋常小学校卒業後、8里(32㎞)離れた名門安房中学校に進み
ました。安房中は軍港があった館山にあり、カッパ中学と言われるほど水泳が必須でしたが、水
田氏はカナヅチで、泳げないものだけが着ける赤ふんどしを義務づけられていたそうです。
水田氏の銅像が、館山市の鶴ケ谷八幡宮に建っています。

水田氏の事を少し知っていただいたところで、次の西神社へと向かいます。
西神社は、水田氏が通っていました曽呂小学校分教場の隣にあります。

祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)。勧請年歴は不詳。社殿の横に鴨川市指定天然記念物
の大杉があります。樹高約25m、目渡り幹囲約6m、推定樹齢300年以上。

狛犬たちも立派です。

石工さんははっきりしませんが、曽呂村仲区鈴木磯吉さんが手がけたもとだと推測されます。

次は曽呂小学校分教場跡へ。

身次7年(1874)に西尋常小学校として建設。同時期にこの地域で4つの小学校が造られました。
明治42年(1909)、村内の4校を統合し曽呂尋常小学校が誕生しましたが、西尋常小学校だけ
曽呂尋常小学校分教場として残されました。通学バスのない当時、子供の足で片道6㎞通うのは
大変だということで、1年生から4年生まで分教場、5年生から本校に通う事になりました。
昭和42年(1967)に廃校となり役目をおえました。この尋常小学校には、水田三喜男氏も通って
いました。
昭和42年に廃校となって現在は、このような状態です。2枚目の写真は、廃校後、公民館とし
て利用していたので、くずれ方が違います。
ここで、食事休憩です。またお弁当の写真を撮り忘れてしまいましたが、今回のお弁当は南房総
市和田町の「くすの木」のお弁当です。旬な山菜の天ぷらなどが、入っていてとてもおいしかっ
たです。

お腹もいっぱいになったところで、最後の見学場所、蓮華院へとむかいます。っと言っても目と
鼻の先ほどの距離ですが・・・・


真言宗智山派の寺院で、山号を宮本山といいます。大黒弁財天(大黒尊天)は、大正9年(1920)、
真野寺の分体としてここ蓮華院に安置され、西の大黒様とよばれています。例祭の3月6日には、
家内安全、厄除、商売繁盛、開運を願って開尊されます。
写真は下見の時の本堂です。当日は、すべての扉が外され、大黒様もお顔が見れるよう、前の方
へと出してきてあります。
その大黒様がこちら。

ガラスの中に納められているので、写真を撮ると反射してしまって・・・難しいです。

雨でも御近所さんたちが来られて賑わっていて、甘酒や豚汁、お赤飯のおにぎりなど振るまわれ
ていました。13:30?~は落語が聞けたり、14:00~は福くじの当選発表、14:30
~は福もち投げがあります。毎年3月6日に行われますのでご興味のもった方は、是非来年行っ
てみてはいかがでしょうか?

さぁ~落語は聞かず、ここから、出発地点へと戻りますが、本来ならば約3キロ歩いて帰るので
すが、雨も強くなり冷えてきてしまったので、救護班の車に数名乗り込み、車をお寺に移動させ
て、みなさんを出発地点へと送迎し、終了となりました。
雨でもありましが、なんとか無事に終わる事ができました。

今年度は、お散歩ツアーを1本残しております。来年度のウォーキング予定表も印刷の段階に入
りました。出来上がりましたら、道の駅とかに置かしてもらいます。

お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」報告

この所、寒かったり暖かかったりと気温の変化がありますが、皆さま体調の方は大丈夫ですか?
花粉の時期でもあり、山を見ると杉がいっぱいです。花粉に耐えながら、がんばってウォーキング
してます。

大人の学習旅行の二日後に、お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」を開催しましたので
報告です。今回のツアーは、館山市神余地区に関係のある、金丸氏のゆかりのと地へと向かう
コースです。
出発前に、少し金丸氏についてお話しします。
房州初代金丸氏は、甲斐の国(現・山梨県)巨麻金麿(こまかなまろ)の住民で、天児屋命(あ
めのこやねのみこと)を祖神とする名門藤原一族で、東国鎮護の時に坂上田村麿将軍に仕え、活
躍したので神余の地をもらい、延暦23年(804)に甲斐より移転してきました。
名前は、金丸巨麻太藤原宗光(かなまるこまたふじわらのむねみつ)と名乗りました。9代目か
ら源親元の任期を除き、安房の国司を歴任し、16代昌孝は、源頼朝に従い鎌倉幕府設立に貢献
しました。26代景貞の時謀反が起こり山下定兼に国を奪われ、それ以降里見氏の家臣となりま
した。この景貞が山下に国を奪われた話が、南総里見八犬伝のモデルになったとも言われています。
(※諸説あります)

さぁ~出発します。出発地は、神余地区にありますキッチン&カフェマリヌスさんの裏からです。
この道はグリーンラインに抜ける道ですが、交通量が少なくついつい車が来ることを忘れてしまう
道です。途中、土手の土がえぐれている場所があります。昔の人?と思うと思いますが、「土どろ
ぼう」なんです。赤土は、稲の準備をする時に使うらしく、結構みなさん農協さんとかで買うん
ですが、ここに堀にきちゃってるんですね。

航空無線標識所跡の下を通っていきます。元々は、大きな塔があったのですが、このツアーの少し
前から解体が始まていて、塔が無くなってしまいました。
少し行くと民家・林道へと続く道を歩き、地蔵畑に到着します。

石のお地蔵様が2基あるので、地蔵畑といわれるようになりました。室町時代中期に、金丸景貞が
自害した時の介錯人の自性坊がこの岩屋に自性院を創建しました。元禄の大地震で崩れたあとは、
現在の場所に移ったとの事です。地蔵立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸末年
十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とあります。


お地蔵様の前の場所は平らになっていて、お堂があったのではないかな?と思われます。

次に向かうのは、御腹やぐらです。こちらは私有地の中にありますので、事前にお願いして見学
させてもらいました。

間口3m高さ2mのやぐらがあり、内部には宝篋印塔があります。
応永24年(1417)正月元旦、家臣山下定兼の一族が神余城に攻め込みました。正月3日、金丸景貞
は「もうここまで」と覚悟を決め、息子満孝(後、茂詮)に「里見家基をたよって逃げよ」と言い残
し、山深い地蔵畑の岩屋で自性坊に介錯を頼み切腹しました。
時はたち嘉𠮷元年(1441)5月安房の豪族安西・丸連合軍の加勢を得て山下城を攻撃、ついに山下定兼
の首をとり、父が切腹した場所に報告したと言われています。
のちに村人は、景貞が切腹した洞窟を御腹やぐらと呼ぶようになりました。(※諸説あります)

元来た道を通り、山道に入ると見晴らしのいい場所に到着します。個人の山ですが、許可をいただき
休憩タイム。ここで、少し皆さんに、金丸氏の紙芝居を・・・

天気が良ければ富士山が見えるのですが・・・大房岬やその後ろに三浦半島、城ヶ島もはっきりわかり
ます。天気が良ければもっとよかったのですが・・・

紙芝居を見て、一休みしたところで、最後の目的地、浅間神社へと向かいます。

社号碑から登り木でできた鳥居をくぐり登って行くと、祠が見えてきます。

神余地域は浅間信仰の盛んな土地柄で、浅間祠が何カ所もあります。こちらは京塚山の浅間神社です。
手水鉢には、安楽院が願主で安政6年(1859)に奉納されています。
京塚山は神余地区の最高峰で、海抜161mあり、戦時中、海軍の飛行機が墜落して山火事が発生した
そうです。
帰りは、古道を通り出発地へと戻ります。
今回のツアーを行う前に、同じコースで神余小学校の皆さんをご案内しました。自分の生まれた地区の
歴史を散策するという事でご案内しました。子供たちの記憶に少しでも残って、将来、自分たちの地区
はこんな歴史があるんだと思い出して語り継がれたらいいなぁ~と思います。
他の地区の皆さんも、是非、自分の生まれた場所の歴史に触れてみてはいかがでしょうか?
なぁ~んて宣伝してしまいましたが、今回も楽しくお散歩ツアーを開催する事ができました。
あと今年度は2回で終わりです。来年度も面白いツアーを計画しています。新しい案内は、3月下旬には
お目見えできると思います。