この所、寒かったり暖かかったりと気温の変化がありますが、皆さま体調の方は大丈夫ですか?
花粉の時期でもあり、山を見ると杉がいっぱいです。花粉に耐えながら、がんばってウォーキング
してます。
大人の学習旅行の二日後に、お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」を開催しましたので
報告です。今回のツアーは、館山市神余地区に関係のある、金丸氏のゆかりのと地へと向かう
コースです。
出発前に、少し金丸氏についてお話しします。
房州初代金丸氏は、甲斐の国(現・山梨県)巨麻金麿(こまかなまろ)の住民で、天児屋命(あ
めのこやねのみこと)を祖神とする名門藤原一族で、東国鎮護の時に坂上田村麿将軍に仕え、活
躍したので神余の地をもらい、延暦23年(804)に甲斐より移転してきました。
名前は、金丸巨麻太藤原宗光(かなまるこまたふじわらのむねみつ)と名乗りました。9代目か
ら源親元の任期を除き、安房の国司を歴任し、16代昌孝は、源頼朝に従い鎌倉幕府設立に貢献
しました。26代景貞の時謀反が起こり山下定兼に国を奪われ、それ以降里見氏の家臣となりま
した。この景貞が山下に国を奪われた話が、南総里見八犬伝のモデルになったとも言われています。
(※諸説あります)
さぁ~出発します。出発地は、神余地区にありますキッチン&カフェマリヌスさんの裏からです。
この道はグリーンラインに抜ける道ですが、交通量が少なくついつい車が来ることを忘れてしまう
道です。途中、土手の土がえぐれている場所があります。昔の人?と思うと思いますが、「土どろ
ぼう」なんです。赤土は、稲の準備をする時に使うらしく、結構みなさん農協さんとかで買うん
ですが、ここに堀にきちゃってるんですね。
航空無線標識所跡の下を通っていきます。元々は、大きな塔があったのですが、このツアーの少し
前から解体が始まていて、塔が無くなってしまいました。
少し行くと民家・林道へと続く道を歩き、地蔵畑に到着します。
石のお地蔵様が2基あるので、地蔵畑といわれるようになりました。室町時代中期に、金丸景貞が
自害した時の介錯人の自性坊がこの岩屋に自性院を創建しました。元禄の大地震で崩れたあとは、
現在の場所に移ったとの事です。地蔵立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸末年
十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とあります。
お地蔵様の前の場所は平らになっていて、お堂があったのではないかな?と思われます。
次に向かうのは、御腹やぐらです。こちらは私有地の中にありますので、事前にお願いして見学
させてもらいました。
間口3m高さ2mのやぐらがあり、内部には宝篋印塔があります。
応永24年(1417)正月元旦、家臣山下定兼の一族が神余城に攻め込みました。正月3日、金丸景貞
は「もうここまで」と覚悟を決め、息子満孝(後、茂詮)に「里見家基をたよって逃げよ」と言い残
し、山深い地蔵畑の岩屋で自性坊に介錯を頼み切腹しました。
時はたち嘉𠮷元年(1441)5月安房の豪族安西・丸連合軍の加勢を得て山下城を攻撃、ついに山下定兼
の首をとり、父が切腹した場所に報告したと言われています。
のちに村人は、景貞が切腹した洞窟を御腹やぐらと呼ぶようになりました。(※諸説あります)
元来た道を通り、山道に入ると見晴らしのいい場所に到着します。個人の山ですが、許可をいただき
休憩タイム。ここで、少し皆さんに、金丸氏の紙芝居を・・・
天気が良ければ富士山が見えるのですが・・・大房岬やその後ろに三浦半島、城ヶ島もはっきりわかり
ます。天気が良ければもっとよかったのですが・・・
紙芝居を見て、一休みしたところで、最後の目的地、浅間神社へと向かいます。
社号碑から登り木でできた鳥居をくぐり登って行くと、祠が見えてきます。
神余地域は浅間信仰の盛んな土地柄で、浅間祠が何カ所もあります。こちらは京塚山の浅間神社です。
手水鉢には、安楽院が願主で安政6年(1859)に奉納されています。
京塚山は神余地区の最高峰で、海抜161mあり、戦時中、海軍の飛行機が墜落して山火事が発生した
そうです。
帰りは、古道を通り出発地へと戻ります。
今回のツアーを行う前に、同じコースで神余小学校の皆さんをご案内しました。自分の生まれた地区の
歴史を散策するという事でご案内しました。子供たちの記憶に少しでも残って、将来、自分たちの地区
はこんな歴史があるんだと思い出して語り継がれたらいいなぁ~と思います。
他の地区の皆さんも、是非、自分の生まれた場所の歴史に触れてみてはいかがでしょうか?
なぁ~んて宣伝してしまいましたが、今回も楽しくお散歩ツアーを開催する事ができました。
あと今年度は2回で終わりです。来年度も面白いツアーを計画しています。新しい案内は、3月下旬には
お目見えできると思います。