お散歩ツアー「九重水岡地区の昔と三角点の山頂を巡る」報告

たいへんご無沙汰しております。
気が付けば最後の更新から、1年弱過ぎてしまいました。
ウォーキングツアーは、粛々と開催しておりましたが、書いている私が、参加者のみなさんと一緒に歩くことが難しい状態でして・・・
今回は、下見に行けましたので、久々に書いてみようかと思います。

集合場所は、館山市安東地区の集会所。地区の区長さんに許可をいただき借りる事ができました。
最初に訪れたのは、熊野神社。

祭神は熊野大神。境内には、天保2年(1831)の銘が入った手水石や、大正大震災の記念碑などがあります。
狛犬は明治14年(1881)に奉納されたもので、彫刻は長須賀の石勝の作です。
社殿の裏山には複数のヤグラ状の穴があります。

次は、薬師堂。

安房国48ヶ所薬師霊場東口12薬師霊場12番札所です。本尊は室町時代作の木造薬師如来坐像。境内の墓地には、出羽三山碑や大正8年(1919)に台湾で殉職した台湾台東巡査小倉嘉一のお墓などがあります。

次は隧道を通って蓮蔵寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は南北朝時代の木造釈迦如来坐像。この像の胎内には延文元年(1356)の墨書銘があります。
境内には室町時代の宝篋印塔の残欠があります。宝篋印塔は、五輪塔とならんで中世を代表する供養塔になります。
現在、屋根瓦を取り払っていて、近々解体される模様で、本尊は移動してあります。
お寺の入口の坂道には、高見桂蔵記念碑や、明和元年(1764)の石造地蔵菩薩像や、鋸山の住職によって別伝和尚の伝記が記された寛政3年(1791)の法華千部塔、明治5年(1872)の石造千手観音像、明治25年(1892)の馬牛塚などがあります。

高見桂蔵記念碑

高見桂蔵は、享和2年(1802)に清水村(水岡地区)で生まれました。18歳の時、同郷の算学者清水豊明から数学を学び、豊明が江戸で指南所を開くと師を慕って江戸へ行き、天保3年から5年(1832~1834)にかけて関流の免許を授与されました。郷里へ帰り農業のかたわら子弟の教育に尽くし、門人は三百余人を数えたといいます。鶴谷八幡神社をはじめ鴨川の大山不動、千倉の高塚不動、鹿野山などに算額を奉納したと伝えられています。明治17年83歳で没しました。
この記念碑は昭和11年(1936)に建てられたものです。

蓮蔵寺背後の山には、ヤグラ1基を含む十数基の横穴があります。穴の中には五輪塔や宝篋印塔の断石も見られます。ヤグラは古墳時代の横穴を改造したものもありますが、ここのは天井の形などからみて、明らかに当初からヤグラとして作られたものです。この場所は、内田横穴群と呼ばれています。残念ながら、本堂脇にあるヤグラはお風呂に改造されていました。 
他にも蓮蔵寺の近くの個人宅の地内にもヤグラがあります。
ヤグラとは、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、鎌倉を中心にの武士階級の墓穴として数多く作られました。安房でもよく見るこことができます。ヤグラの存在は、武家の中心地でだった鎌倉の文化が、安房にも強い影響を与えていたことを裏付ける貴重なものです。

次は、切通しを通り、本日のメインになります、三角点の「嶽の堂山」へ向かいます。
舗装された道路から山道へと入り、お堂に続く道のお堂に近い場所に堀り穴があります。これは本土決戦に備えた防御拠点の一つで、沖縄が占領され、次には千倉方面や館山湾等からアメリカ軍が上陸することが予想されたことから、4月に「東京湾守備兵団」が編成され、6月「東京湾兵団」に改称。第354師団や独立混成第114旅団を投入。7月には那古に師団司令部が進出しました。
「東京湾兵団」は、洲崎地区隊、九重地区隊、鴨川地区隊の3隊がありました。九重地区隊は、陸軍独立混成第96旅団の3個大隊が配置されました。九重周辺の抵抗拠点は、宮下~深井~田辺~大井~旧ミネベア裏山の128高地~嶽の堂山(115高地)を結んだ、特に見通しが良い高地を選び、夫々に壕が作られました。
嶽の堂山に存在する壕の規模・使用目的は不明ですが、北側の加茂坂裏の大峯山に残る大規模地下壕よりは、はるかに小さいので、駐屯していた兵力も少数だったと考えられます。

壕跡を進むと、平地になり、小屋があります。
ここがかつての「嶽の堂(薬師堂)」跡になります。安永8年の石灯篭があります。堂の中にあったという薬師如来像は、紫雲寺に移されているそうです。
頂上は館山市と南房総市千倉町との市境でもあり、獣道の様な山道を南へ進むルートは宇田隧道の上を通り、山本の旧ミネベア工場の裏山(128高地)へ、北へ進むルートは丸山の真野寺へ繋がっています。
頂上には石祠があり、その東側には15cm角の三等三角点標柱があります。以前の頂上は、館山湾も見えたといいますが、現在は木々により視界不良です。

山を後にし、次に向かったのは紫雲寺。

曹洞宗の寺院で、延命寺の末寺。本尊は室町時代の薬師如来坐像。安房国48ヶ所薬師霊場に東口12薬師霊場第9番札所です。辰年には「安房郡札辰歳観音霊場」の一つでもあります。
本堂裏の壁面には五輪塔が掘られたヤグラがあり、15~16世紀のものと思われる五輪塔や宝篋印塔の残欠が散在しています。
東側の墓地には、正徳元年(1711)に起きた百姓一揆「万石騒動」に参画して追放処分となった、北片岡村名主の木柴庄右衛門の墓があります。

今回は見学しませんでしたが、紫雲寺の向かい側に水岡ヤグラがあります。古代横穴墓の手引用できることが知られ、壁面には17基の五輪塔が浮き彫りされた規模の大きなヤグラ1基と周辺にもいくつか横穴があります。
各五輪塔には、形態的な変化が見られ、鎌倉時代から室町時代にかけて彫り継がれてきたことが推察されます。ヤグラは武家中心だった鎌倉によくみられています。

次は千手院へ。

二子の安養寺の境外堂。ヤグラ主体の窟屋堂です。本堂は屋根の先端に掘られたヤグラで、ヤグラのそのものが墳墓堂としての機能をは果たしています。内部には、内陣と外陣を仕切るための掘り込みが残っています。奥の壇上には、文和3年(1354)銘の本尊である石造千手観音坐像と、文和2年(1353)銘の石造地蔵菩薩坐像(市指定文化財)さらに周辺には中世の日待供養塔、五輪塔の断石などがあります。

ヤグラの真上には、鎌倉末期から南北朝前期の作と思われる高さ190cmの宝篋印塔があります。(市指定文化財)

あとは、出発地点へと戻ります。
また旅倶楽部で初めて行った「嶽の堂山」ですが、まだまだ安房地域の中で、知られていない(忘れさられている)場所が多くあるのかな?と思いました。

なかなかガイドの独り言を更新していなくて、すみません。今年もボチボチ更新していこうと思っています。