月一ツアー「大椙観音霊場跡から平久里川源流へ」報告

今年も残り少なくなってきました。本格的に冬が到来してきました。外に出れば、菜花の収穫が始まっていて、来年の稲作作りの為に田をうなっていたり、ハウスをのぞくといちごが出来てたりと、四季によって景色を楽しむ事ができます。
さて、今年最後の月イチツアー「大椙観音霊場跡から平久里川源流へ」を開催しましたので、報告します。
出発は、南房総市平久里地域にある高照寺前の駐車場からです。開催日は、とにかく寒い朝でしたが、天気には恵まれました。館山市内から集合場所までのの間に気温が2度下がっていました。やっぱり山の方は館山・南房総でも気温が違うのです。

まず、訪れたのは高照寺。


曹洞宗の寺院で、山号を太嶺山と称し本尊は地蔵菩薩。口伝によると、長享3年(1489)頃に川名家初代が建立を発願、開創され里見家兵法指南役川名藤七郎氏により、永禄年間(1558~1569)に建立されたと言われています。
安房国百八箇所地蔵の二十九番札所でもあり、平群二十一箇所弘法大師の二十一番札所大師でもある高照寺。元々、安房国札観音霊場の十五番札所だったのは、大椙山椙福寺で、古くは、山頂のお堂に行基作の十一面観音菩薩像が安置されていましたが、椙福寺の衰退に伴い、大正7年に高照寺へ移されました。
高照寺の入口には、嘉永6年(1853)に建立された高さ2m程の「国札所十五番大杉山」の石標があります。


椙福寺の仏具で永享3年(1431)の銘がある鰐口も寺に保管されていて、今回は見せていただきました。


他にも境内には、安楽阿弥陀如来や蓬莱稲荷が祀られています。


安楽阿弥陀如来の由来は碑に書いてありますので、そのまま書かせていただきます。
時は一回限り、人生も1回限り、四苦(生老病死)の中に一生は終わります。しかしその四苦にくじけることなく、この生きている現世に安楽でありたいと願い、親や子の無事を念じ与えられたこの命を全うし、いつか消えゆく時、安楽に往生したいと祈り願う心の功徳によって現世も来世も安楽に(墓碑より)

蓬莱稲荷は、ほうらいだきにしんてんをお祀りしています。蓬莱とは仙人が住むと言われている霊山より起こったもので、道教の流れをを汲む神仙思想のなかで説かれているものです。仙人のように不老長寿を願い、毎日頂く作物によりこの身体が保たれ、活力の源となり、日々の生業が繁栄できる、という功徳を授けて下さるお稲荷さまです。(高寺寺HPより)

さて、いよいよ、大椙山椙福寺の跡へと向かいます。
途中、嶺岡牧遺構が残されています。


写真は、石垣の野馬土手です。大椙観音霊場跡付近には、嶺岡西一牧の馬囲(追い込み場)、2重の野馬土手・石垣の野馬土手、などの遺構の残っています。

大椙山大椙福寺跡です。


大椙山椙福寺と言い、天長年間(833)頃、境内にあった大杉1本を伐採して七間四面の堂宇を建て、その後、七堂伽籃を建立したと伝わっています。度重なる火災により焼失、一時は北条氏の御朱印も附せられた事もありましたが、廃寺となりました。大正8年(1919)に十一面観音菩薩・鰐口・地蔵菩薩が高照寺に譲渡されました。

敷地の真ん中には、石仏があります。

椙福寺跡を後にし、跳ね岩へ。


ここからの眺望は素晴らしいです。

題目にあります平久里川源流へと、コスモクラッシックゴルフ場を通り嶺岡中央林道を通り向かいます。

嶺岡道の傍らに、「頼朝の楊枝の井戸」があります。伝説によると、頼朝は険しい嶺岡道を主従とともに歩いていましたが、疲れ果てて「ああ、水がほしい」といいながら馬から降り、神仏に祈るように手にしていた楊枝を地面にさすと水がコンコンと湧き出ました。頼朝一行は大喜びで、人馬ともに渇きを癒しました。この頼朝伝説の「楊枝井戸」の水は今も平久里川の源流となっています。

ここからは、林道大川線を通り、駐車場まで向かいます。
この道は、滑りやすいところがあるので、気を付けて下って行きます。
今回は、10キロ近いコースになりました。お疲れ様でした。

今年は、このコースで終了です。来年は1月16日のお散歩ツアー「妙音院守りの人々の里」から始まります。是非、ご参加下さい。

皆さま、本年もガイドの独り言を読んでいただきありがとうございます。来年もまだまだ書いていきますので、よろしくお願いします。
皆さま良いお年をお迎えください。

月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」報告

平成30年も残すところ1ヶ月を切りました。今年は、冬の訪れが遅いような気がしていましたが、ここの所寒い日が続いています。
先日、都内から来られたお客様とお話ししたのですが、私「今日の朝は、寒かったですね。」お客様「そんな寒くなかったわよ。」と答えが返ってきました。やっぱり館山・南房総市は暖かいのだなぁ~と感じた1日でした。

さて、11月の月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」を開催いたしましたので、報告します。
開催日の数日前は、雨の予報が出てて心配しましたが、天気も回復し、絶好のウォーキング日和になりました。出発は、南房総市の平久里地域にある天神社からです。

まず向かったのは、金比羅大権現(写真左)・伊豫大明神(写真右)へ。

伊豫大明神の創建は不詳ですが、伊豫ヶ嶽をご神体として「伊豫大明神」と尊称し山麓に祀ったのが始まりと言われています。阿波忌部の伊豫の人々が移住したとき、故郷の伊豫高峯(石鎚山)にそっくりな山容に、故郷を偲び伊豫ヶ嶽と名付け、天狗伝説と共に伝わり、後に現在地に移転します。明治37年以降、諏訪神社に呼称を変更しています。
金比羅大権現の社号額の裏書に、文政7年(1824)甲申五月とあります。

昔話「伊予ヶ岳の天狗」の話を・・・
昔むかし、平群の伊予ヶ岳に天狗が棲んでいしました。天狗は神通力で人里に舞い降り、農家の納屋に置いてある米や、畑の野菜を盗む悪い奴でしたが、しかし村人たちは、その天狗の祟りが怖いので我慢していたのです。天狗はそれをよいことに、ある夜、山の麓のある家に、とんでもない要求を書いた紙きれを投げ込んだのです。
「今月の満月の夜、村で一番きれいな娘を伊予ヶ岳の下の天神社に連れてこい。もし断るならば、儂(わし)の団扇で大風を起し、村中を吹っ飛ばすぞ。伊予ヶ岳の天狗より」
家の主は、びっくりして名主に知らせました。名主は、村一番の知恵者でしたから、「天狗が団扇でくるなら、こちらも団扇で懲らしめてやるべぇ」と言い、天狗の物より三倍の大団扇を作ると、伊予ヶ岳に登り、天狗に見せびらかしました。それを見た天狗は、名主の大団扇が欲しくなり、自分の物と取り替えたのです。間もなくですが、得意になって大団扇を扇いでいた天狗が、山の天辺から舞い降りますと、何と真っ逆さまに落ち、大怪我をしてしまったのです。天狗は団扇を人間の作ったものと替えたため、神通力を失っていたのです。
(南房総市の昔話より)

ここから、坂道をを登って正壽院へ向かう途中、この地域に住んでいるお客様から、旧道に六地蔵があるよと教えていただいき、ちょっと旧道に寄り道。

正壽院の近くからは、伊予ヶ岳がこんな感じで見えます。

正壽院です。

真言宗の寺院で、経瑩山住正壽院住吉寺といいます。本尊は、地蔵菩薩。寺に伝わる縁起では、延喜21年(921)小松寺の七堂伽籃落慶法要の時に安房の国司小松民部正壽の子「千代若丸」がさらわれ、後日、家臣が伊予ヶ岳山中で遺骸を見つけ、法華経1000部の書写を納め墓を作り、小堂を建て、釈迦如来・弥勒菩薩・薬師如来・虚空蔵菩薩・不動明王の五尊を配し、延喜22年(922)に小松民部正壽が開基となりました。幾度か焼失しましたが、諸尊は損傷無く、南の麓に下り、原の十王堂に安置されました。
今回は、たまたまご住職が来られ、本堂をあけていただきました。

境内には、千代若丸の供養のために建てられた観音堂と法華経一千部が納められた供養とと子安地蔵堂があります。

もう一つの昔話「天狗の人さらい」をご紹介します。
伊予ヶ岳には、大昔から天狗が棲み、ときどき世間を騒がすような恐ろしい事をしでかしたそうです。延喜21年(921)2月の話です。朝夷(現千倉)の小松寺で再興した大檀那の安房守小松民部正壽が、七堂伽籃の落成の日、子の千代若丸に、祝いの稚児舞を舞わせていますと、その最中に、伊予ヶ岳の天狗が、突然、襲いかかり、千代若丸を抱き上げると空高く舞い上がり、棲処の伊予ヶ岳に飛び帰ってしまったのです。小松寺に集まっていた大勢に人は、皆驚き大騒ぎになりましたが、相手が神通力を持った天狗ですから、どうすることもできなかったようです。今の小松寺の方でも、そのときの出来事を小松寺七不思議の一つ「乙王の滝」の中で「延喜20年8月8日、本寺七堂伽籃ができ、翌年、坊舎の建築すべてが終わったので2月15日、普請成就の祝いとして当国の国司、安房守小松民部正壽の子息、千代若丸をさらって飛び去り、平久里の郷に捨てたという。千代若丸の従僕、乙王丸はその惨劇に驚き、どうする事もできず、近くの滝壷に身を投じた・・・」と語り継いでいます。(南房総市の昔話より)

ここまで、ずっと登り坂でしたが、ここから下りに入ります。正壽院の近くにある、御嶽信仰の碑へ。

この石碑は、数年前、正壽院の役員さんが、寺の周辺の掃除をしていた時に見つけたそうです。当時は、石碑は倒れ、土に埋もれていたそうです。修復作業の参加者を募りましたが、なかなか集まらず、やっと修復する事ができたそうです。
石碑は、山岳信仰を中心とする神道教団「御嶽教」のものです。高さは1mほどでひし形。明治21年11月に建立したとされています。下には、「太陽講」と彫られています。地元の方の話によると、戦前までは、年に一度、のぼり旗を立ててオコモリをしていたそうで、講元となっていた住民の家が火災で、のぼり旗などが失われてしまったそうで、詳しい資料は残されていましそうです。

少し下ると、視界が開けてきます。目の前には、「富山」が見えています。下見の際に会った人は、「富山登って、いまから伊予ヶ岳登ってきます」と言っていました。少し早いですが、この景色の良いところで昼食です。

昼食のあとは、下見で見つけた、熊野堂へ(おくまんさま)。

創建等については不詳ですが、地元の方がいまでもお供えしているそうです。参道は、竹に囲まれいい感じの道で、綺麗に手入れされていて歩きやす道でした。

次は、八雲神社を目指し、山を下って行きますが、途中、ここも旧道だったところを見つけたので、コンクリートの道からはずれ、通っていきます。その道の途中には、馬頭観音観音がひっそりとありました。
その道をでると、林道になります。車も通らず楽しく歩ける道で、林道を抜けると八雲神社に辿り着きます。

八雲神社は、旧称は牛頭天王宮。創建は棟札に安永2年(1733)とあります。明治初年に八雲神社に改称しました。

次に向かったのは、原の十王堂です。

平群二十一大師霊場二番にあたります。ご詠歌は「諸人の 苦役はらうか 大師尊 原の緑に 晴るる月影」。
堂内の諸像は、正壽院が火災に見舞われた時に避難して安置した諸仏です。十王のうち、二体は盗難に遭ってなくなっています。今は地蔵堂とも呼ばれ境内には、六地蔵やお地蔵さんが祀られています。

今回の見学場所は、ここまでです。あとは、出発地の天神社へと戻ります。

平久里地域には、天狗の昔話がまだ残されています。最後にもう1つ「天狗の仕事」をお話ししましょう。
房州平久里に伊予ヶ岳は、昔から天狗の集まる場所でした。ある夜、天狗たちは頂上の座敷岩に座って、麓の村の灯を眺めながら会議を始めました。先ずは長老の天狗が、「この山は儂(わし)たちの寄り合いに、たいへん都合の良い場所だが、雨風の時は困るので、この岩の下に部屋を造ろうと思うが、みんな賛成してくれぬか。」と話しを切り出しました。大勢の天狗たちは拍手して、「良いところに気が付かれた。儂たちの力なら、たやすく出来上がると思うので、急ぐ事にしよう。」と天狗たちは、自分の棲処まで道具を取りに行く事を決めました。そして天狗たちは羽音高く空へ舞い上がりました。一人残った長老の天狗が、長い髭をしごきながら夜空を見つめていると、出発してまだ間もないのに、もう帰ってくる天狗の姿が、白い星のように見えました。
天狗たちが蝶のように舞いながら、大きな鑿(のみ)を岩に打ち込むと、その度に小さく砕けた岩が流星のように光って散りました。
丁度その頃、麓の村の甚兵衛としう早起きの百姓が、囲炉裏に火を燃やすと、土間で縄をなう稲わらを、とんとんと、打ち始めたのです。その音の響きは、静かな村里にこだまして、しだいに渦のように広がり、伊予ヶ岳へも伝わりました。天狗たちは聞き耳を立てて、顔を見合わせながら、「村に怪しい音がする。」と言いますと、地元の天狗が、「あれは、早起き甚兵衛の朝の音だ。」と言いました。天狗たちは、「しまった。夜が明けたか。残念だが終わりにしよう。村人共に儂たちの仕事を見られたくない。」と言い合って、各自の棲処へ飛び去りました。今でも伊予ヶ岳の頂上には、その時の名残の太い石柱が一本立っているという事です。

今回は3本、天狗にまつわる昔話を書きましたが、書いていて、天狗ってなに?って・・・天狗そのものが神様な鞍馬山の神社とか、猿田彦の化身だったりと、良い天狗がいるのに、昔話になると悪い天狗が出てくるの?って不思議に思い、ちょっと調べました。

鎌倉時代中期に書かれた「沙石集」(1283成立)(仏教説話集)に、天狗の分類の説明がのってます。
天狗というものは、本物の知恵がなく、執着心が強く、偏った考え方で驕り昂った人が天狗の仲間にされやすい。
悪い天狗は、傲慢で、偏屈で、仏法を信じない。良い行いを妨げ、煩悩にまみれ、驕り昂っている。
良い天狗は、仏道に志がある。知恵も徳もありながら、執着心はなく、人の行いを妨げたりしない。また、悪い天狗が悪事をはたらくのを制し、仏法を守る。

なるほど、人間と同じで、色々な天狗がいるのですね。
倶楽部の代表曰く「平久里の天狗は、少し抜けてるところがかわいい」と言っておりました。

12月の月イチツアー、1月の月イチツアーは、平久里地域になります。今年度は、平久里地域特集になっていますね(笑)来年度のコースもそろそろ考えないといけません。駐車場を考えると悩む~いいところがあったら教えて下さい。