お散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」報告

4月ももう中旬です。今年は、サクラの開花もはやく、山で採れるワラビやフキも育ちが速い
ようです。花粉の時期もスギからヒノキに代わって、なんだかヒノキの花粉の方が、症状がひ
どく感じるのですが・・・早く、この時期が終わってくれればと願うばかりです。

さて、30年度最初のウォーキングツアー・お散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」を開催
しました。スタートは、道の駅ローズマリー公園の近くにある、リバーサイド駐車場です。

丸山川沿いを通り、リバーサイドプラザがあった場所を通り、子安神社へと向かいます。

祭神は豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)・大山袛命(おおやまつみのみこと)・飯綱大神
です。明治44年(1911)に、近くの字取田原の山神社と飯綱者を合祀しました。
子安神社が海発神社と呼ばれていた頃に、古老の口伝を元に書いた「海発神社縁起」が保存され
ていて、縁起による、南三原村村社は、昔から子安大明神と称した元海発村の守護神です。その
社殿の創建は明らかではありませんが、遠く承久(1219~1222)の時代には、すでに村人たちが崇
め敬っていたと書かれています。また、昔から伝説が残っていて、村里の子供たちが海発神社の御
神体を運び出し、付近の川で流して楽しく遊んでいるのを見た村人が、驚いて急ぎ御神体を社殿に
安置し、固く鍵を掛けると、その夜、ご神体が村人の夢枕に立ち「吾、幼童と共に河の流れに戯れ
るは、幼童の溺死を護らん為なり、汝は吾を封じ込め、吾が意に逆らうなり」とお告げになったそ
うです。その村人は恐れおののき再び御神体を開帳したといいます。

拝殿の向かって左側にある石は子授かり石で、お子さんが欲しい方は子安様にお願いし、男の子が
欲しい人は長細い石を、女の子が欲しい人は丸い石を後ろ向きにとってお願いして帰ります。大願
成就した際には、それぞれ2個の石を戻して御礼参りをするそうです。

手水鉢の所にある蛇口が、カエルになっていました。

カエルを嫌いな人にはダメだと思いまが、私的にはかわいいと思いました。ナイスなセンスだと・・・

境内には、多くの碑が残されていますが、独り事では説明を省略します。

次は、浅間様へ。

富士塚の上に浅間石宮が祀られています。山包講の文字がかすかに見えています。
金比羅様・大日如来像などが一緒に祀られています。

次に向かったのは、建福寺。

真言宗智山派の寺院で山号を海光山といいます。本尊は阿弥陀如来で、開創は室町時代と言われ
ています。本堂の他に薬師堂がありましたが、関東大震災で両堂とも倒壊して、今の本堂は昭和
9年に再建されました。本堂の向拝の龍の彫刻は、後藤喜三郎橘義信の作です。

建福寺を後にし少し歩いて行くと、六地蔵と馬頭観音があります。

辻の所にあり、六地蔵は安永14年(1776)のものです。

辻のお地蔵さんから旧道を歩いていくと自性禅院に着きます。
厚着のお地蔵様が入口で迎えてくれます。

階段を上がって行くと、本堂が見えてきます。

臨済宗建長寺派の寺院で山号を海発山。本尊は十一面観世音菩薩。開創は元徳元年(1329)。
寶冥和尚が開山してより、衰微(すいび)の一途をたどり、260年余り年を経て、慶長年間
に、本間兵庫頭義秀の外護により安室富和尚これを中興し面目を一新しました。その後、元禄・
大正の二回に亘る震災にあい古記録・古文書等は散失し、その間の栄枯盛衰を判断はできません。
近年、明治35年、当院鎮守として本山奥山半僧坊大権現を拝請し、漁民の信仰を集め、また
明治44年には本堂庫裏新築落成をみたところ、大正12年の大地震によりことごとく崩壊し、
以来再建に努め、ようやく昭和9年に落成をしました。
大正4年4月から同11年4月までの7年間地方青年中等教育の塾として自彊学舎(石渡塾)
が自性院内に開設され、安房各町村から男子塾生が多数集まり、論語、孟子など四書五経その
他の学問を学びました。

本堂の向拝には、すばらしい龍の彫刻があります。

梁に龍が巻き付いているんですが・・・わかりますか?なかなか見ない彫刻です。

裏から410号線に出て、いったん南三原の駅へと。その後、正運寺へ。

奥に見える建物が、正運寺です。なぜか?写真を撮り忘れていました。
天台宗の寺院で、山号は福和山。本尊は、不動明王です。
天台宗第三代慈覚大師が石堂寺に来錫された折に開山(仁寿元年(851))されたといいます。
関東大震災で焼失してしまいました。境内の左側に、勝軍地蔵の石像があります。これに祈れ
ば戦に勝つというお地蔵様で、鎌倉時代以後、武家の間で信仰さらました。
この写真を撮ってこないのはイタイです・・・

次はすぐ裏にある教会へ。

コルバン夫人が晩年を過ごした教会です。
コルバン夫人は、房州の人々に親しまれた英国女性です。
コルバン夫人が館山の地を初めて来たのは、明治38年(1905)頃です。北海道函館で宣教活動
中に病に倒れた夫のコルバン医師の療養のため、温暖な土地を求めてのことでした。
ともに英国生まれの2人は医療を通じたキリスト教の伝道を目指し、イギリス聖公会の宣教師
として赴任した香港で出会い、結婚。その後赴任先を函館に変え、病院を設け貧しい人々へ医
療とキリスト教の教えを伝えました。
当初は、夫の体調が良くなったら函館へと戻る予定でしが、夫の体調が良くならず、函館市街
を襲った大火災で病院は再建困難になってしまいました。一旦は日本を離れ、母国へと戻りま
したが、母国の気候が夫の療養に適さないことがわかり、夫人は自給宣教師として決意し、明
治45年、再び館山へ戻ってきました。夫の看病のかたわら、市内で祈りの集会を開くととも
に、当時不治の病とされていた結核患者のための施設「養生院」を館山市八幡の海岸沿いの自
宅にもうけました。患者の滞在費や薬代はすべて無料で提供したといいます。大正4年(1915)
に夫がこの世を去り、同12年に関東大震災で養生院が倒壊。65歳の時には、インフルエン
ザの後遺症で両目を失明しました。晩年の夫人は、ここの教会に拠点を置き、日曜学校の開催
など幼児教育に力を注ぐようになりました。コルバン夫人は78歳で息を引き取りました。
夫人が建てた南房総市和田町仁我浦の和田幼稚園には、博愛精神をしのび、地元の人々が建立
した彰徳碑があります。

次に向かったのは、牛乳處理工場。

大正11年(1922)、極東煉乳がこの地(南三原村海発)に乳製品工場を設置しました。昭和2年、
極東煉乳(株)南三原工場を(株)和光堂が買収し、同社南海工場として房州へ進出し、バターや乳
製品の製造を始めました。戦時中は統制会社「千葉県酪農会社」の委託工場として操業していまし
たが、同25年3月再び和光堂直営に復帰、ペニシリン製造などで将来を期待されましたが、昭和
26年7月森永乳業(株)に工場を譲渡しました。現在は、酪農家の組合で使用されています。
ちなみに・・極東煉乳は、明治乳業の全身です。和光堂は、大正6年(1917)に、国産第1号の育児
用ミルク「キノミール」を販売しました。みなさんご存じのシッカロールは、和光堂薬局が明治39
年(1906)に発売したものです。今は色々なメーカーからベビーパウダーとして販売されていますが、
白い粉自体がシッカロールって言うんだと思ってましたから・・・

次は、裏側から和田海底ケーブルの建物を。

施設名は、リーチ・ネットワークス 和田海底ケーブル陸揚局といいます。当初は、レベルスリー・
コミュニケーションズが建設した陸揚局でしたが、今は香港に本社があるリーチネットワークスの陸揚
局になっています。

ここまでが今回の見学場所になります。あとは、農地整備した場所をテクテク歩いて戻ります。

海発という字を何度も書いていますが、なんと読むでしょうか?
「かいはつ」と読んでしまうと思いますが、正解は「かいほつ」です。地域名の読み方は難しいですね。

30年度一弾は無事終了しました。今年度も、色々安房地域を巡りますので、是非ご参加下さい。

月イチツアー「大人の遠足」報告

気が付けば4月、新年度に突入しました。今年は桜が速いようで、館山・南房総でも満開を
迎え、そろそろ散り始めてきました。花が終わると新緑の時期になりますね。
H30年度のパンフレットもお客(ウォーキングツアー参加者)様への発送も終わり、内房
エリアの道の駅や館山市の公民館へ配布は終わりました。外房エリアの道の駅は、もう少し
お待ち下さい。

さて、29年度最後の月イチツアー「大人の遠足」を開催しました。このタイトルは、館山
市の小中学校に通っていた人は、1度は学校行事の遠足で「砂山」を訪れた事がある事から、
大人になっても遠足気分で歩きましょう!!っという事で付けたそうです。
当初予定していた日は、大雨に見舞われ、数日の延期をし晴れの日に行いました。

出発は、布沼組合集会所。最初に行くのは、山側に入って行った薬師堂。
薬師堂に行くには、手作りの橋を渡って行きます。

橋を渡り、少し坂道を上がると、薬師堂が見えてきます。

この薬師堂は、戦国武将 里見義堯の流れをくむ布沼の郷土の家の薬師堂です。
本尊は、薬師如来。お堂の天井には龍の絵が描かれているそうです。今回は見る事が出来
ませんでした。
御詠歌には、「大石と重き病も我たのめ 人の布沼にもとの身と成」とあり、病気平癒の
祈願をする人々がこの薬師にお参りしていたそうです。


お堂の横には、寛文4年(1664)・延宝6年(1678)の宝篋印塔の墓石があります。

境内には、石造物が多くあり、信仰の深さが分かります。

次は、深田やぐらへと向かいます。

ここは、室町時代の「ヤグラ」で、中には15世紀から16世紀の五輪塔と宝篋印塔を組み合
わせた塔が3つありますが、もとは、宝篋印塔が少なくとも2基、五輪塔が4基あったと思わ
れます。布沼の有力の武士の墓と言われています。

次は、大久保墓地へ。墓地はあまり行きたくないのですが、珍しい墓石があるので紹介します。

明治36年(1903)の酒樽型の墓(酒翁盛呑信士)があります。戒名からしても、酒盛りが好き
な人だったのではないかと・・・ユーモアのあるお墓です。このような酒樽型のお墓は、館山
市内にあと3つ確認されています。また旅倶楽部では、すべて紹介してるかと・・・
あとお隣の南房総市の智蔵寺にもあります。30年度にウォーキングツアーで訪ねる予定です。

次は、東光寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。釈迦如来像は、16世紀の室町時代後期の作です。
境内には、寺小屋師匠で慶応2年(1866)没の住職芳明東禅和尚の墓があり、また、裏参道には、
文化14年(1817)から農業が機械化させる直前の昭和35年にいたるまでの馬頭観音が16基
あります。

裏山の中腹に「やぐら」と思われる穴があり、周辺からは16世紀の常滑焼の破片が出土して
います。また、縄文土器・弥生土器・古墳時代の土師器や東海系の須恵器も出土しており、境
内周辺は大久保遺跡と呼ばれています。

次は、小原の集落にある薬師堂へ。

薬師堂の入口に念仏講による享保7年(1722)の地蔵像と嘉永4年(1851)の馬頭観音があります。
裏山の山頂近くに「やぐら」があり、五輪塔と宝篋印塔の石の一部があり、中世室町時代の有力
な武士層の墓と考えられています。今は、急登の藪こぎで近づけません。

次は、砂山の裏を見に行きます。

子供の頃は、ここから登っていきましたが、今回は表へと回ります。
ここで、ソリを持って滑って、川へなんて遊びをしていました。今は無理ですが・・・

さて表へとまわります。
砂山の手前に土地の人がジャジキと呼ぶ谷津があります。

昔は水を満々と蓄えた深い池だったそうです。その東側の崖に古墳時代の横穴墓が3つあると
いいます。そのうちの一つから人骨や刀、勾玉、管玉が出土しました。玉類は館山市立博物館
に展示されています。
この池は砂山のドラゴンが棲んでいて、行き交う旅人になぞなぞを出し、答えられないと食べら
れてしまったそうです。傍らの露出している岩は龍の足跡だそうです。ドラゴンがなぞなぞなんて
面白いお話しが残ってるんですね。

さて砂山です。

昔、佐野から坂井にかけての一帯は、平砂浦の防砂林が完成する前は、海から吹き荒れる風で、
一晩で山が動くと言われるほどの激しい砂嵐がありました。その砂嵐で運ばれた大量の砂で砂
山が出来ました。当時の砂山のスロープは見上げるほどの急斜面で山頂の岩がすっかり隠れて
いたといいます。
砂山が出来た頃は、藤原から布沼を通って西岬へ行く旧道は、砂山あたりが難所となっていま
した。そのころの佐野っ原はムジナがすむ寂しいところで、「ここで美しい女性や侍を見たら
気をつけろ」と言われたそうです。布沼方面からの旅人は、ここで一服してから砂山を越え、
西岬方面からの旅人は大変な思いで砂山を越えてから一息ついたといいます。
現在の砂山は、防砂林ができ砂が吹き上がる事がないので、だんだんと砂が少なくなり、岩が
見えるようにりましたが、小・中学生の遠足や都会の体験学習・サンドスキーなどのレジャー
や陸上・サッカーのトレーニングなどで、多くの人が訪れています。

ここで昼食です。今回は焼肉弁当。

たまには、焼肉なんていいかな?なんて思いまして・・・結構、ボリュームがありました。

お腹がいっぱいになったところで、翁作古墳跡へ。

現在は、館山カントリークラブ(ゴルフ場)になっていますが、昭和42年(1967)にホテル
の工事中に発見された古墳です。標高35mの砂丘の先端という位置で、当時は砂に埋もれて
いました。ホテルのオープンにあわせて、玄関前に3本のやしの木を植栽していたところ、
壷や刀の破片・さらに人骨などが見えたといいます。工事を急いでいたため出土品は段ボール
に納め、他の副葬品は埋め戻されました。出土品は市役所に持ち込まれましたが、後に安房水
産高等学校の對馬先生に届けられたといいます。古墳はすでに消滅し、規模等明らかではない
ですが、地表下2mから人骨や須恵器・剣・刀子・勾玉・管玉・圭頭大刀・環頭大刀が出土し
ました。大刀(市文化財)・玉類は館山市立博物館に展示されています。
葬られた人は6世紀終わり頃の人物で、中央大和王権に近い安房地域の豪族だったと考えられ、
東京湾の入口がこの頃から重要だったことが分かります。

ゴルフ場から平砂浦海岸へと向かいます。

西岬と富崎との間に広がる平砂浦は、元禄16年11月23日の大地震で大隆起があり、新しい
土地が出現しました。ところが、10m以上も一挙に隆起した海底は一面の砂浜となり、秋から
春先まで吹き荒れる西風によって、たちまちおおきな砂山が出来てしまいました。この砂山は、
1年間に数メートルも耕作地に迫り農民は飛砂を防ぐための努力が続けられましたが、大正12年
の大地震により2m以上も隆起してふたたび砂原になってしまいました。その後、戦時態勢が進み、
佐野に館山砲術学校が建設され軍事演習場となって再び荒涼とした砂原になってしまいました。
昭和22年9月のサハリン台風、23年9月のアイオン台風により一夜にして田畑が埋められてし
まいました。戦後の農地改革にあわせ、当時開拓組合の役員だった田辺昇は軍用地の払い下げに合
わせ砂防問題にも精力的な活動を始め、ついに昭和23年飛砂防備砂防林工事の着工に至りました。
「平砂浦砂防林造成記念碑」には着工 昭和24年7月・完了 昭和32年3月施・施工面積146
ha・事業費 2,783万円と記され、9年間の大事業でした。こうして、白砂青松といわれる風光
明媚な平砂浦海岸が作り上げられ、この松林の中に海岸道路フラワーラインが建設され、観光道路と
なり道路百選にも選ばれる名路となりました。
この当時の2,783万円は、今でいうと6億円位になるかと・・・大規模な工事だったんですね。
現在、松林は数年前から松くい虫の被害にあい、再生の努力が続けられています。

海岸を後にし、向かったのは大石弁天。

元禄16年(1703)の大地震で隆起が起こるまでは、海岸の大岩だったと思われる場所にあります。
寛政5年(1793)の記録に、旧暦6月18日に祭礼があり、布沼・茂名など5か村で雨乞いの祭礼
を行い、弁天様にお神酒を上げて、一日遊んだといいます。享保7年(1722)に作った鞨鼓舞の獅子
頭がのこされています。

数年前までは小さな石の舟がたくさん奉納されていました。

少し名残がありました。

さて、残り1つの見学場所は、厳島神社です。

島状の高台に鎮座する布沼の鎮守です。境内には文化7年(1810)の手水石があります。
社殿の裏手に縄文時代の石棒が祀られ、周辺からは古墳時代の土師器が出土するといいます。

あとは、集合場所へと戻ります。

平成29年度も無事に終わる事ができました。いよいよ30年度がスターとします。
ウォーキングツアーは誰でもご参加できます。是非、一緒に住んでいる地域の歴史など
に触れてみませんか?お待ちしております。

追伸:一緒にガイドとして活動してくださる方も募集しています。地域の歴史を調べる事が
好きな方・人とのコミュニケーションが好きな方・歩くのが好きな方、是非、一緒に活動
しましょう!!同時に、ウミホタルの観察会のお手伝いして下さるボランティアも募集して
おります。ご興味のある方、是非ご連絡下さい。