月イチツアー「大人の遠足」報告

気が付けば4月、新年度に突入しました。今年は桜が速いようで、館山・南房総でも満開を
迎え、そろそろ散り始めてきました。花が終わると新緑の時期になりますね。
H30年度のパンフレットもお客(ウォーキングツアー参加者)様への発送も終わり、内房
エリアの道の駅や館山市の公民館へ配布は終わりました。外房エリアの道の駅は、もう少し
お待ち下さい。

さて、29年度最後の月イチツアー「大人の遠足」を開催しました。このタイトルは、館山
市の小中学校に通っていた人は、1度は学校行事の遠足で「砂山」を訪れた事がある事から、
大人になっても遠足気分で歩きましょう!!っという事で付けたそうです。
当初予定していた日は、大雨に見舞われ、数日の延期をし晴れの日に行いました。

出発は、布沼組合集会所。最初に行くのは、山側に入って行った薬師堂。
薬師堂に行くには、手作りの橋を渡って行きます。

橋を渡り、少し坂道を上がると、薬師堂が見えてきます。

この薬師堂は、戦国武将 里見義堯の流れをくむ布沼の郷土の家の薬師堂です。
本尊は、薬師如来。お堂の天井には龍の絵が描かれているそうです。今回は見る事が出来
ませんでした。
御詠歌には、「大石と重き病も我たのめ 人の布沼にもとの身と成」とあり、病気平癒の
祈願をする人々がこの薬師にお参りしていたそうです。


お堂の横には、寛文4年(1664)・延宝6年(1678)の宝篋印塔の墓石があります。

境内には、石造物が多くあり、信仰の深さが分かります。

次は、深田やぐらへと向かいます。

ここは、室町時代の「ヤグラ」で、中には15世紀から16世紀の五輪塔と宝篋印塔を組み合
わせた塔が3つありますが、もとは、宝篋印塔が少なくとも2基、五輪塔が4基あったと思わ
れます。布沼の有力の武士の墓と言われています。

次は、大久保墓地へ。墓地はあまり行きたくないのですが、珍しい墓石があるので紹介します。

明治36年(1903)の酒樽型の墓(酒翁盛呑信士)があります。戒名からしても、酒盛りが好き
な人だったのではないかと・・・ユーモアのあるお墓です。このような酒樽型のお墓は、館山
市内にあと3つ確認されています。また旅倶楽部では、すべて紹介してるかと・・・
あとお隣の南房総市の智蔵寺にもあります。30年度にウォーキングツアーで訪ねる予定です。

次は、東光寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。釈迦如来像は、16世紀の室町時代後期の作です。
境内には、寺小屋師匠で慶応2年(1866)没の住職芳明東禅和尚の墓があり、また、裏参道には、
文化14年(1817)から農業が機械化させる直前の昭和35年にいたるまでの馬頭観音が16基
あります。

裏山の中腹に「やぐら」と思われる穴があり、周辺からは16世紀の常滑焼の破片が出土して
います。また、縄文土器・弥生土器・古墳時代の土師器や東海系の須恵器も出土しており、境
内周辺は大久保遺跡と呼ばれています。

次は、小原の集落にある薬師堂へ。

薬師堂の入口に念仏講による享保7年(1722)の地蔵像と嘉永4年(1851)の馬頭観音があります。
裏山の山頂近くに「やぐら」があり、五輪塔と宝篋印塔の石の一部があり、中世室町時代の有力
な武士層の墓と考えられています。今は、急登の藪こぎで近づけません。

次は、砂山の裏を見に行きます。

子供の頃は、ここから登っていきましたが、今回は表へと回ります。
ここで、ソリを持って滑って、川へなんて遊びをしていました。今は無理ですが・・・

さて表へとまわります。
砂山の手前に土地の人がジャジキと呼ぶ谷津があります。

昔は水を満々と蓄えた深い池だったそうです。その東側の崖に古墳時代の横穴墓が3つあると
いいます。そのうちの一つから人骨や刀、勾玉、管玉が出土しました。玉類は館山市立博物館
に展示されています。
この池は砂山のドラゴンが棲んでいて、行き交う旅人になぞなぞを出し、答えられないと食べら
れてしまったそうです。傍らの露出している岩は龍の足跡だそうです。ドラゴンがなぞなぞなんて
面白いお話しが残ってるんですね。

さて砂山です。

昔、佐野から坂井にかけての一帯は、平砂浦の防砂林が完成する前は、海から吹き荒れる風で、
一晩で山が動くと言われるほどの激しい砂嵐がありました。その砂嵐で運ばれた大量の砂で砂
山が出来ました。当時の砂山のスロープは見上げるほどの急斜面で山頂の岩がすっかり隠れて
いたといいます。
砂山が出来た頃は、藤原から布沼を通って西岬へ行く旧道は、砂山あたりが難所となっていま
した。そのころの佐野っ原はムジナがすむ寂しいところで、「ここで美しい女性や侍を見たら
気をつけろ」と言われたそうです。布沼方面からの旅人は、ここで一服してから砂山を越え、
西岬方面からの旅人は大変な思いで砂山を越えてから一息ついたといいます。
現在の砂山は、防砂林ができ砂が吹き上がる事がないので、だんだんと砂が少なくなり、岩が
見えるようにりましたが、小・中学生の遠足や都会の体験学習・サンドスキーなどのレジャー
や陸上・サッカーのトレーニングなどで、多くの人が訪れています。

ここで昼食です。今回は焼肉弁当。

たまには、焼肉なんていいかな?なんて思いまして・・・結構、ボリュームがありました。

お腹がいっぱいになったところで、翁作古墳跡へ。

現在は、館山カントリークラブ(ゴルフ場)になっていますが、昭和42年(1967)にホテル
の工事中に発見された古墳です。標高35mの砂丘の先端という位置で、当時は砂に埋もれて
いました。ホテルのオープンにあわせて、玄関前に3本のやしの木を植栽していたところ、
壷や刀の破片・さらに人骨などが見えたといいます。工事を急いでいたため出土品は段ボール
に納め、他の副葬品は埋め戻されました。出土品は市役所に持ち込まれましたが、後に安房水
産高等学校の對馬先生に届けられたといいます。古墳はすでに消滅し、規模等明らかではない
ですが、地表下2mから人骨や須恵器・剣・刀子・勾玉・管玉・圭頭大刀・環頭大刀が出土し
ました。大刀(市文化財)・玉類は館山市立博物館に展示されています。
葬られた人は6世紀終わり頃の人物で、中央大和王権に近い安房地域の豪族だったと考えられ、
東京湾の入口がこの頃から重要だったことが分かります。

ゴルフ場から平砂浦海岸へと向かいます。

西岬と富崎との間に広がる平砂浦は、元禄16年11月23日の大地震で大隆起があり、新しい
土地が出現しました。ところが、10m以上も一挙に隆起した海底は一面の砂浜となり、秋から
春先まで吹き荒れる西風によって、たちまちおおきな砂山が出来てしまいました。この砂山は、
1年間に数メートルも耕作地に迫り農民は飛砂を防ぐための努力が続けられましたが、大正12年
の大地震により2m以上も隆起してふたたび砂原になってしまいました。その後、戦時態勢が進み、
佐野に館山砲術学校が建設され軍事演習場となって再び荒涼とした砂原になってしまいました。
昭和22年9月のサハリン台風、23年9月のアイオン台風により一夜にして田畑が埋められてし
まいました。戦後の農地改革にあわせ、当時開拓組合の役員だった田辺昇は軍用地の払い下げに合
わせ砂防問題にも精力的な活動を始め、ついに昭和23年飛砂防備砂防林工事の着工に至りました。
「平砂浦砂防林造成記念碑」には着工 昭和24年7月・完了 昭和32年3月施・施工面積146
ha・事業費 2,783万円と記され、9年間の大事業でした。こうして、白砂青松といわれる風光
明媚な平砂浦海岸が作り上げられ、この松林の中に海岸道路フラワーラインが建設され、観光道路と
なり道路百選にも選ばれる名路となりました。
この当時の2,783万円は、今でいうと6億円位になるかと・・・大規模な工事だったんですね。
現在、松林は数年前から松くい虫の被害にあい、再生の努力が続けられています。

海岸を後にし、向かったのは大石弁天。

元禄16年(1703)の大地震で隆起が起こるまでは、海岸の大岩だったと思われる場所にあります。
寛政5年(1793)の記録に、旧暦6月18日に祭礼があり、布沼・茂名など5か村で雨乞いの祭礼
を行い、弁天様にお神酒を上げて、一日遊んだといいます。享保7年(1722)に作った鞨鼓舞の獅子
頭がのこされています。

数年前までは小さな石の舟がたくさん奉納されていました。

少し名残がありました。

さて、残り1つの見学場所は、厳島神社です。

島状の高台に鎮座する布沼の鎮守です。境内には文化7年(1810)の手水石があります。
社殿の裏手に縄文時代の石棒が祀られ、周辺からは古墳時代の土師器が出土するといいます。

あとは、集合場所へと戻ります。

平成29年度も無事に終わる事ができました。いよいよ30年度がスターとします。
ウォーキングツアーは誰でもご参加できます。是非、一緒に住んでいる地域の歴史など
に触れてみませんか?お待ちしております。

追伸:一緒にガイドとして活動してくださる方も募集しています。地域の歴史を調べる事が
好きな方・人とのコミュニケーションが好きな方・歩くのが好きな方、是非、一緒に活動
しましょう!!同時に、ウミホタルの観察会のお手伝いして下さるボランティアも募集して
おります。ご興味のある方、是非ご連絡下さい。

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