新年が明けてからだいぶたちますが、今年もボチボチ更新していきますので、よろしくお願いします。
年末から寒い日が続いています館山・南房総です。めったに雪が降らない地域ですが、年末から3日程雪を観測しています。なにか気候がおかしいかと・・・でも、おひさまが出ればひだまりは暖かく、春を感じることができます。フキノトウも出ている場所もあります。
ウォーキングツアーの報告をしますが、実は・・・まだ12月分が書き終えていないのですが、新年最初ということで、1月のお散歩ツアー「明治から昭和の旧館山町を巡る」を報告します。
集合場所は、渚の駅たてやまの隣にある新井海岸駐車場です。
まずは、館山桟橋のところから。
写真は、現在の夕日桟橋ですが、その隣に昔の桟橋の残骸?が残されています。
館山桟橋は、明治11年(1878)、館山の辰野安五郎が「安全社を創設し、東京霊雁島と館山間に汽船「通快丸」を就航させ、約5時間で結んだそうです。汽船の発着桟橋も作り桟橋会社の前に設置さ、桟橋は「館山湾桟橋株式会社」の所有物でした。明治15年(1889)、「内湾汽船」が東京~館山を1日5便運航していました。
明治22年(1889)、東京湾を航行する安房汽船株式会社(第二房州汽船)と内国通運(現・日本通運)など、東京湾内の汽船を運航する4社が事業統合し、東海汽船の全身の「東京湾汽船会社」が誕生、館山航路の進出し、この年の11月から年間を通して運航されました。
明治27年(1894)、「東京湾汽船会社」と「安房汽船」が合併し、「東海汽船」となりました。大正11年(1922)12月、辰野安五郎が東京湾汽船会社と館山町等の共同出資で「館山桟橋株式会社」を設立。この年度に沖合200mほどの長さの鉄筋コンクリート支柱の桟橋が作られました。
大正12年(1923)、初代「橘丸」が就航。館山桟橋の拡張工事が完了しました。(長さ226m)同年9月、関東大震災で館山桟橋は大きく破損し、先端部の灯台だけが立っていたそうです。その後、陸軍工兵隊の演習を利用し除去しましたが、一部露出していたといいます。
大正15年(1926)、館山町が旧桟橋から約10m南隣に、新たに館山桟橋を造ります。(長さ270m、幅5.5m)工事費46,637円11銭の内、県補助30,424円、桟橋会社16,213円11銭、町負担なしで造られました。新しい桟橋は、館山桟橋会社が館山町から使用権を得て使用しました。
昭和に入り、菊丸・葵丸・2代目橘丸などが就航しましたが、橘丸は軍に徴用されてしまいます。
昭和24年(1949)に館山航路が復活し、菊丸・淡路丸、夏季には黒潮丸・あけぼの丸なども就航しました。昭和25年7月には、橘丸の東京ー館山間の夏季航路が復活し、昭和36年には館山桟橋の改築工事が完成し、昭和38年には、東京湾高速船(株)が東京ー勝山ー館山間を1時間半で結ぶ水中翼船を運航しましたが、昭和42年、水中翼船は解散、昭和46年、夏前に東海汽船の東京~館山間の運行が廃止され、昭和48年東海汽船の館山航路が最終となりました。
大正8年(1919)5月、安房北条駅が誕生。運賃は船の方が安かったといいますが、風雨の日にも安心して東京に行きかえりできるので、汽車を利用する人が多くなったといいます。
その後桟橋は、平成22年(2010)4月、旧館山桟橋の北隣に館山港多目的観光桟橋「館山夕日桟橋」(海岸から500m、幅6.5m)が完成しました。
館山桟橋前には桟橋会社があり、今ののグラッチェあたりになります。当時は、木造2階建ての洋風建物で1階は会社の事務所、2階は食堂でした。建物は関東大震災にも耐えたといいます。
昭和20年までは、館山桟橋(株)が食堂や氷給水、倉庫として使用。また桟橋会社旅館部、汽船取扱所、房州水道、銚子測候所館山出張所も入っていました。戦後は、館山桟橋(株)ほか、房州白土共販(株)、房州水道(株)、房州海運(株)が入っていました。
次は千葉県水産試験場跡へ。
大正11年(1922)、那古町から移転してきました。昭和6年(1931)、県立安房水産高校が創立され、県水産試験場内に校舎を設置。昭和22年(1947)9月4日、謎の出荷で多くを焼失し、北下台下の水産講習所を仮庁舎として利用、昭和23年(1948)、焼け跡に無線局を設置、12月庁舎を復活しました。昭和42年(1967)5月に千倉分場を開設し、アワビの種苗生産を始めます。昭和49年9月、千倉分場隣に本場を移転しました。移転後、跡地は安房水産高校に移管され、南側にテニスコート、北側に栽培漁業用施設にしました。
写真の石垣は、当時のままの石垣で、入口の門柱も当時のままのものです。
次は、海岸ホテル跡へ。(写真は、住宅なのでありません)
海岸ホテルは、大正11年(1922)木造2階建てで、80室の洋風ホテルでした。大正12年(1923)の関東大震災で、一部が破損しました。関東大震災後の9月6日に、戒厳令が施行され、安房郡内に軍隊が派遣され、陸軍歩兵学校、佐倉歩兵連隊、県警察から来援した際、海岸ホテルが本部になり、治安維持に当たったといいます。戦時中は、海軍が将校の懇親会や来賓接待所として利用していました。
大正15年’1926)、島崎藤村は療養中の恋人に会うために来館した際、宿泊したといいます。昭和40年代に老朽化が進む中、東邦大学医学部のヨット部が合宿場として利用していました。
次は安房水産高校へ。(現館山総合高校)
大正11年(1922)2月15日、安房郡立農業水産学校として創立。4月10日、館山に水産学校分校として開港しました。大正12年(1923)4月27日、県令告示第128号をもって、県立安房水産学校が設立しました。昭和6年(1931)4月6日、水産試験場正門側に木造2階建て新校舎完成しましたが、昭和22年、9月4日に謎の出火で校舎全焼してしまいました。昭和23年4月1日、新学制の実施により、県立安房水産高等学校と改称、昭和23年、旧館山海軍基地内の兵舎2棟を改造し、仮校舎としました。昭和32年10月30日、現在地に新校舎新築落成しました。
平成20ンrン(2008)4月1日に、県立館山高等学校に統合され、校名も県立館山総合高等学校に改名、水産の建物は水産校舎となりました。
次は富士見橋へ。
大正8年(1919)、汐入川河口域に初めて私設の木橋が架けられました。しかし、関東大震災で崩壊、昭和初年、上流側に新たな橋が架けられるまで、仮橋でした。昭和25年(1950)、木造の新橋が作られました。
昭和33年には、日活映画「嵐の中を突っ走れ」の中で、木造の橋をバイクに乗った石原裕次郎と芸子役の白木マリが、橋の上で再開する場面が撮影されたそうです。
昭和45年(1970)6月、海水浴場に大腸菌が多いことが報道されたため、橋(この時は架設橋)の下流部に県下で初めて河川水滅菌浄化装置を付け、昭和50年5月、コンクリート橋となりました。
次は、市立第二中学校、現在は館山中学校へ。
昭和22年(1947)3月31日、新しい教育基本法が可決されたことにより、4月1日から6・3・3・4の学校制度ができました。昭和24年(1949)4月1日、館山中学校と北条中学校が合併し、館山市立第二中学校が誕生しました。校舎は笹子工務店が館山海軍砲術学校を解体した材料を使い、校庭の東側に2階建て校舎を、南北方向に1棟を建てました。砲術学校の学生舎を再利用した房南中学校と同じように、校舎内は中央に廊下があって教室等がに分かれて並んでしました。当時の学級数は31(他に特2)で、生徒数は1,293名でした。
昭和30年に新校舎建設工事着手、昭和32年に東西校舎増築完成、昭和36年、北校舎が完成しました。昭和47年(1972)5月4日、校舎の火災があり半焼してしまいました。
昭和52年(1977)、2月28日、鉄筋3階建ての防音校舎が全館完成しました。昭和55年、館山第二中学校より北条地区を分離し、館山市立第三中学校が開校しました。同じに豊房中学と神余中学が二中に統合され、昭和57年には西岬中学が統合されました。
令和3年、第二中学校と第三中学校が合併し、「館山中学校」が誕生しました。第三中学校校舎を取り壊した跡地に新校舎ができるまでの間、第二中学校の現校舎が使用されています。
次は、汐留橋へ。
関東大震災で損傷しましたが、倒壊は免れました。館山海軍航空隊の開設にあたり、駅と航空隊間を結ぶ道路が改修された際に、この橋も昭和4年(1923)3月に改築されました。昭和後期に橋の付け根および橋脚を部分的に補強工事が行われていますが、令和3年(2021)3月から、橋脚全体の補強工事を行いました。平成8年(1996)12月、汐留橋の北側に橋長24m、橋幅4.8m、中央部7.8mの歩道橋(汐留いこい橋)が完成しました。
汐留橋のたもとには、館山郵便局がありました。昭和43年10月、館山駅に近い北条地区に局舎を新築し移転しました。館山郵便局の始まりは、明治5年(1872)、北条郵便取扱所として開設。明治22年(1889)に館山郵便局と改称しました。大正12年(1923)の関東大震災で損壊したため、昭和2年(1927)に現在の館山商店街協同組合(TSCホール)に移転しました。
次は三福寺へ。
浄土宗の寺院です。文明3年(1471)に相蓮社順譽上人によって開山に浄土宗佛道場として創建されました。元禄16年(1703)の大津波の後、新井浜から現在地に移ったという伝承があります。
里見義康が館山の城下町を造るために新井浦の土地を割り振る際に、寺の土地をとりあげたため、三福寺は代替地として汐入川河川を与えましたが、砂地で作物はできず。その上、朱印地もなかったので檀徒はそれを嘆いて、「御上地に宛行なしの三福寺」ということわざが生まれたといいます。しかし、汐入川河口なお利用は流通に関する権利を持つことを要求したのであり、先見の明と当時の権力者と深く結びついていたことを示すことわざとも言えます。元禄16年(1703)の大地震や大正12年(1923)の関東大震災による焼失等度々災難にあい、寺宝、過去帳や文献等が失われていますが、境内には、館山ゆかりの偉人や碑や墓があります。
境内の碑等を少し紹介します。
まずは、魚鱗供養塔
享保15年(1730)建立。正面には「浄土三部経 為減生魚鱗等 離苦得楽 一石一字」と刻まれているので、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三つの経典を小石に一文字づつ書き写して埋め建立した塔です。新井浦は昔、漁村であったので、魚を苦笑するために漁民達が建立しました。
次は、石造釈迦如来三尊坐像
石工は館山町楠見の俵光石による釈迦三尊像です。礎石を含めた高さ3.85m。伊豆の小松石を用いて螺髪や口髭を付け、ふっくらした顔で脇侍を従えています。座った姿で、右手は膝に置き、その指が大地に触れている形の降魔印を結んでいます。釈迦像の下には、獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られています。裏面上部には、「明治36年11月建立 當山廿9世頂譽圓順代」同下部に発起人16名の名と「高村光雲門下の俵光石の彫刻等を刻まれています。
次に、宮司政吉君の碑
明治40年(1907)建立。館山町に生まれ、明治37年(1904)2月に開戦した日露戦争に翌月
新井文山の碑
新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14歳の時、住職の援助で江戸に出て、遊学。昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)に入門し儒学を学び、28歳で帰郷して塾を開き、地域の教育に力を注ぎました。天保7年(1836)館山藩主稲葉公に仕え、天保13年(1842)に目付兼郡奉行となりました。
石碑は、中央が文山、左に先妻、右に後妻の法名が書かれています。文山は嘉永4年(1851)73歳で亡くなりました。碑銘は嘉永6年(1853)、次男の可大に請われた昌平黌教官の佐藤坦の撰文で、保田の武田石翁により刻まれています。
次は錦岩波五郎の墓です。
新井出身の江戸大相撲の力士で慶応3年(1867)に亡くなったそうです。下に錦岩と彫られていますが、詳しいことは不明です。
次は、長福寺へ。
真言宗の寺院で本尊は不動明王。寛正元年(1460)、伝忠法師が中興開山したとされています。館山観音として親しまれ、安房国札観音2番、西口薬師2番、西口六地蔵、南房総七福神(福禄寿)の札所です。
観音堂内に千手十一面観世音菩薩があります。元は、北下台にあったのですが、関東大震災後、ここに移されました。
館山小学校開校の地で、明治5年(1872)の学政令発布の翌年に寺小屋だった当寺に開校しました。
墓地内には、館山藩ご典医の宮川元斎の墓や中世の石造地蔵尊、宝筐印塔、戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに出陣した館山藩関係者の供養塔「寄子萬霊塔」、庚申塔、館山藩士だった千葉家、高梨家などのほか、遭難した仙台藩士の墓があります。
長福寺の南側には、かつて館山劇場がありました。(現館山グリーンはいつ)この劇場は、市の中心域が北条に移ったころに閉鎖されています。館山劇場があった時代の下町・仲町周辺には、料亭や芸姑置屋、検番撞玉場(ビリヤード)等が軒を並べ、歓楽街として賑わっていたといいます。
次は、源福院跡へ。
仲町集会所奥の隣接地に三福寺の末寺(源福寺=隠居寺)の御堂がありました。明治21年(1888)の館山の大火で焼失してしまいました。
上仲町児童公園の場所は、上町と仲町の諏訪神社があった場所になります。大正12年(1923)関東大震災で壊れたため、後に館山神社に合祀されました。
上仲町児童公園から大通りに行った左手に仙台藩役所跡があります。現在は、新しい家が建っています。廻船役所だったので、藩の年貢米などを輸送する船の改めや、船が難破した際、世話をするところで、藩士2名が詰めていたといいます。
大通りをわたり、海の方に向かう途中に池田荘があります。もとは松岡旅館でしたが、昭和43年(1968)1月に池田氏が購入して池田荘に改称しました。令和2年(2020)秋に解体されてしまいました。昭和20年(1945)2月16日の朝8時頃、館山基地に駐屯し、茂原の本部を置く第252海軍航空隊所属の零戦が松岡旅館裏に墜落しました。当時、館山に本部を置く第903海軍航空隊の記録によると、館山基地に着陸しようと、南方上空から降下してきた2機の零銭が、湾内に停泊していた輸送船から銃撃を受けました。これにつられて南の山の対空陣地からも撃たれ、1機が墜落しました。この墜落により火災が発生した様です。なお、乗員の生死は不明。この日は、早朝から館山航空隊や関東地方の飛行場を目標にした、アメリカ海軍空母艦載機による日本本土最初の奇襲攻撃でした。
池田荘から海に方に向かうと、昭和電工館山工場跡に。現在は、NTT東日本館山サービスセンターの関連会社とおどやがあります。
昭和電工館山工場は、安房郡内では唯一カジメを材料にヨードを製造していいました。昭和初期の館山町では、最も大きな工場で、敷地4,839坪、建物1,046坪、従業員は昭和20年(1945)56人、昭和23年70人を数えました。しかし、昭和25年には残務整理の5人となってしまいました。
館山獅子によると、大正8年(1919)代に東信電気株式会社がヨードを製造していました。昭和6年(1931)に満州事変が起こると、海藻を焼いて出来るヨード灰が火薬の原料となる為、需要が高まり、カジメ・アラメが大量に求められました。昭和13年(1938)の国家総動員法制定をきっかけに、翌、昭和14年(1939)6月、「昭和肥料」と「日本電気工業」が合併、「昭和電工(株)」が森矗昶により創立されました。昭和16年(1941)8月16日、軍部から乾燥したカジメ・アラメを昭和電工に渡すように命令が出されました。千葉県漁連は、関係漁協に対し「カジメ採集に関する件」を通知、カジメ採取量を割り当てました。軍指定工場になった館山工場は、乾燥カジメ・アラメを焼いて、乾燥灰(ケルプ)からヨードを製造し、ほかにも塩化カリ、粗製沃土も作っていました。
昭和20年(1945)10月、館山工場は、占領軍の命令により生産を中止、昭和21年には、代用醤油の生産を始め、昭和22年4月、ヨード、塩化カリの生産を再開しましたが、輸入品の圧迫により不採算に、昭和23年8月、アミノ酸への進出を図ります。昭和45年、天然ガス採取の副産物として、容易にヨードが算出されるようになったことから、館山工場はその使命を終えました。
館山工場内には、当初赤レンガの八角形煙突(推定高さ20m)が2本ありましたが、内1本が関東大震災で倒壊してしまいました。
工場が取り壊された後、敷地が分割され、南側が昭和47年日本電信電話公社に売買され、現在はNTT東日本館山サービスセンター関連会社の(株)協和エクシオンに代わっています。一方北側は、昭和53年9月に坂本利政氏から昭和54年10月、(株)サカモト百貨店に、その後平成3年7月には(株)サカモトと名義変更され、食品と衣類を販売していました。平成18年9月には、(株)おどやに譲渡され、「スーパーおどや海岸店」になりました。
次は、黒島稲荷神社へ。
かつて、この場所は館山湾に浮かぶ岩礁で、高の島、沖の島、黒島が「鏡ケ浦3島」と呼ばれていました。元禄地震後、1.7m隆起するなど内陸化しました。横の用水路も館山城新堀の用水路跡で、北下台の陰になっていた楠見浦という水軍の拠点でした。
ところどころ説明しながら、渚の駅たてやまへ。
昭和39年代、千葉県(教育庁)が水産高校の実習施設(共同実習所)開設のため、埋め立てしました。昭和40年(1965)、県水産共同実習所が落成。(1階は水族館、2~3階は実習室)昭和48年(1973)、国体夏季大会で館山湾がヨット会場になり、皇太子殿下および皇太子妃(現上皇・上皇后)が博物館2階から競技を視察しました。同年11月23日、共同実習所北側に県立安房博物館が開館。平成21年3月31日県立博物館および、県水産共同実習所が廃止になり、4月1日館山市に全域移譲。平成23年県立博物館を館山市立博物館分館として、渚の駅を開設。平成24年、ミニ水族館を含め、「渚の駅たてやま」をオープンしました。
今回は、館山町の歴史の散策をしてきました。住んでいても知らないことばかりで、ついこの間まで建物があったのに・・・ここなんだったけ?な状態なんですが・・・
これからも、いろいろな歴史が生まれてくるんだと思います。