お散歩ツアー「九重水岡地区の昔と三角点の山頂を巡る」報告

たいへんご無沙汰しております。
気が付けば最後の更新から、1年弱過ぎてしまいました。
ウォーキングツアーは、粛々と開催しておりましたが、書いている私が、参加者のみなさんと一緒に歩くことが難しい状態でして・・・
今回は、下見に行けましたので、久々に書いてみようかと思います。

集合場所は、館山市安東地区の集会所。地区の区長さんに許可をいただき借りる事ができました。
最初に訪れたのは、熊野神社。

祭神は熊野大神。境内には、天保2年(1831)の銘が入った手水石や、大正大震災の記念碑などがあります。
狛犬は明治14年(1881)に奉納されたもので、彫刻は長須賀の石勝の作です。
社殿の裏山には複数のヤグラ状の穴があります。

次は、薬師堂。

安房国48ヶ所薬師霊場東口12薬師霊場12番札所です。本尊は室町時代作の木造薬師如来坐像。境内の墓地には、出羽三山碑や大正8年(1919)に台湾で殉職した台湾台東巡査小倉嘉一のお墓などがあります。

次は隧道を通って蓮蔵寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は南北朝時代の木造釈迦如来坐像。この像の胎内には延文元年(1356)の墨書銘があります。
境内には室町時代の宝篋印塔の残欠があります。宝篋印塔は、五輪塔とならんで中世を代表する供養塔になります。
現在、屋根瓦を取り払っていて、近々解体される模様で、本尊は移動してあります。
お寺の入口の坂道には、高見桂蔵記念碑や、明和元年(1764)の石造地蔵菩薩像や、鋸山の住職によって別伝和尚の伝記が記された寛政3年(1791)の法華千部塔、明治5年(1872)の石造千手観音像、明治25年(1892)の馬牛塚などがあります。

高見桂蔵記念碑

高見桂蔵は、享和2年(1802)に清水村(水岡地区)で生まれました。18歳の時、同郷の算学者清水豊明から数学を学び、豊明が江戸で指南所を開くと師を慕って江戸へ行き、天保3年から5年(1832~1834)にかけて関流の免許を授与されました。郷里へ帰り農業のかたわら子弟の教育に尽くし、門人は三百余人を数えたといいます。鶴谷八幡神社をはじめ鴨川の大山不動、千倉の高塚不動、鹿野山などに算額を奉納したと伝えられています。明治17年83歳で没しました。
この記念碑は昭和11年(1936)に建てられたものです。

蓮蔵寺背後の山には、ヤグラ1基を含む十数基の横穴があります。穴の中には五輪塔や宝篋印塔の断石も見られます。ヤグラは古墳時代の横穴を改造したものもありますが、ここのは天井の形などからみて、明らかに当初からヤグラとして作られたものです。この場所は、内田横穴群と呼ばれています。残念ながら、本堂脇にあるヤグラはお風呂に改造されていました。 
他にも蓮蔵寺の近くの個人宅の地内にもヤグラがあります。
ヤグラとは、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、鎌倉を中心にの武士階級の墓穴として数多く作られました。安房でもよく見るこことができます。ヤグラの存在は、武家の中心地でだった鎌倉の文化が、安房にも強い影響を与えていたことを裏付ける貴重なものです。

次は、切通しを通り、本日のメインになります、三角点の「嶽の堂山」へ向かいます。
舗装された道路から山道へと入り、お堂に続く道のお堂に近い場所に堀り穴があります。これは本土決戦に備えた防御拠点の一つで、沖縄が占領され、次には千倉方面や館山湾等からアメリカ軍が上陸することが予想されたことから、4月に「東京湾守備兵団」が編成され、6月「東京湾兵団」に改称。第354師団や独立混成第114旅団を投入。7月には那古に師団司令部が進出しました。
「東京湾兵団」は、洲崎地区隊、九重地区隊、鴨川地区隊の3隊がありました。九重地区隊は、陸軍独立混成第96旅団の3個大隊が配置されました。九重周辺の抵抗拠点は、宮下~深井~田辺~大井~旧ミネベア裏山の128高地~嶽の堂山(115高地)を結んだ、特に見通しが良い高地を選び、夫々に壕が作られました。
嶽の堂山に存在する壕の規模・使用目的は不明ですが、北側の加茂坂裏の大峯山に残る大規模地下壕よりは、はるかに小さいので、駐屯していた兵力も少数だったと考えられます。

壕跡を進むと、平地になり、小屋があります。
ここがかつての「嶽の堂(薬師堂)」跡になります。安永8年の石灯篭があります。堂の中にあったという薬師如来像は、紫雲寺に移されているそうです。
頂上は館山市と南房総市千倉町との市境でもあり、獣道の様な山道を南へ進むルートは宇田隧道の上を通り、山本の旧ミネベア工場の裏山(128高地)へ、北へ進むルートは丸山の真野寺へ繋がっています。
頂上には石祠があり、その東側には15cm角の三等三角点標柱があります。以前の頂上は、館山湾も見えたといいますが、現在は木々により視界不良です。

山を後にし、次に向かったのは紫雲寺。

曹洞宗の寺院で、延命寺の末寺。本尊は室町時代の薬師如来坐像。安房国48ヶ所薬師霊場に東口12薬師霊場第9番札所です。辰年には「安房郡札辰歳観音霊場」の一つでもあります。
本堂裏の壁面には五輪塔が掘られたヤグラがあり、15~16世紀のものと思われる五輪塔や宝篋印塔の残欠が散在しています。
東側の墓地には、正徳元年(1711)に起きた百姓一揆「万石騒動」に参画して追放処分となった、北片岡村名主の木柴庄右衛門の墓があります。

今回は見学しませんでしたが、紫雲寺の向かい側に水岡ヤグラがあります。古代横穴墓の手引用できることが知られ、壁面には17基の五輪塔が浮き彫りされた規模の大きなヤグラ1基と周辺にもいくつか横穴があります。
各五輪塔には、形態的な変化が見られ、鎌倉時代から室町時代にかけて彫り継がれてきたことが推察されます。ヤグラは武家中心だった鎌倉によくみられています。

次は千手院へ。

二子の安養寺の境外堂。ヤグラ主体の窟屋堂です。本堂は屋根の先端に掘られたヤグラで、ヤグラのそのものが墳墓堂としての機能をは果たしています。内部には、内陣と外陣を仕切るための掘り込みが残っています。奥の壇上には、文和3年(1354)銘の本尊である石造千手観音坐像と、文和2年(1353)銘の石造地蔵菩薩坐像(市指定文化財)さらに周辺には中世の日待供養塔、五輪塔の断石などがあります。

ヤグラの真上には、鎌倉末期から南北朝前期の作と思われる高さ190cmの宝篋印塔があります。(市指定文化財)

あとは、出発地点へと戻ります。
また旅倶楽部で初めて行った「嶽の堂山」ですが、まだまだ安房地域の中で、知られていない(忘れさられている)場所が多くあるのかな?と思いました。

なかなかガイドの独り言を更新していなくて、すみません。今年もボチボチ更新していこうと思っています。

月イチツアー「林道・山中線」報告

年内最後の報告となるかと思います。なんだか、溜めて書いてるので、手抜き感が出ているような・・・
誤字脱字もあると思いますが・・・大きな心でお許し下さい。

さて、今年最後の月イチツアー「林道・山中線」を開催しましたので、報告します。
今回は、富津市へと進出してきました。

集合場所は、もみじで有名なもみじロードの道路沿いにある竹ノ内米店前です。
今回は、竹ノ内米店さんのご協力で駐車場を利用することができました。ありがうございます。

最初に林道・山中線を歩いていきます。

(写真は11月14日のものです)
林道山中線は、3年前の台風でがけ崩れなどがあり一時通行止めでしたが、一度開通するも今年に入り再度がけ崩れがあり通行止めになっていましたが、開催日は通行止めが解除になっていました。
モトクロスバイクの人とかが林道を楽しんでいるようです。
下見の時は、こんな感じでした。

林道をすすんでいくと、中沼地区に出てきます。

小さいながら集落が形成していましたが、今は住民もわずかです。

中沼地区から長狭街道へと続く道を歩いていきます。
中沼地区に住んでいる人がいないため、市境の峠までの林道も補修されていません。
地すべりで道が寸断されていたりとまぁ~大変な道になっていました。

長狭街道に出てもみじロードに向かっていくと、奥畑地蔵堂があります。

詳細等は不明。堂内に地蔵菩薩と閻魔大王が安置されています。

次に住吉神社へ。

祭神は住吉三神(底筒男命(そこつつおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・上筒男命(うわつつのおのみこと))。創建年代等不詳。鳥居が独特で、柱が白色ですが、貫と島木、笠木が朱色で塗られています。
江戸時代には、石の鳥居があったそうで、崩れたら危ないからという事で、木の鳥居になったと近所の方が話してました。色についてはわからないとの事でした。

次は、阿夫利神社へ。
長狭街道から、山をのぼっていきます。

祭神は日本武尊・弟橘姫。創建年は不詳ですが、中世に創建されたと思われ、相模の大山阿夫利神社を勧請したといわれています。
標高270mの石尊山の山頂に鎮座する神社で、別名天降神社とも呼ばれています。

景色はこんな感じです。

次は、顕徳寺へ。

日蓮宗の寺院。建武元年(1334)開基。鋸南町の妙本寺の末寺です。十界曼荼羅御尊が安置されています。

長狭街道からもみじロードへ入っていきます。
入った場所辺りが志駒川の源流になります。

もみじロードからほんの少し入ったところに、天神社があります。

祭神は藤原道真。嘉永16年(1639)領主松平出雲守勝隆、山中村名主三平五右衛門、本願主白石太右衛門等が再建。明治6年宮本白石太右衛門、祠掌松本由寿外氏子中、本殿を大石祠に改めました。別名菅原神社とも称します。

あとは、出発地点の竹ノ内米店さんまで歩いていきます。
開催日は、若干紅葉が残っていて、楽しむことができあました。

この日は、出発地点で犬に会い、途中でサルに会い、帰りにキジに会いました。これって!!桃太郎のお供にすべて会えた一日でした。

今年も残り少なくなってきました。1年間、また旅倶楽部を応援いただきありがとうございます。来年もなんとか活動していきますので、応援よろしくお願いします。
皆様にとって、良い年でありますように。

お散歩ツアー「秋の安房中央ダム周辺散策」報告

朝晩冷え込みが強くなってきた館山・南房総。私の住んでいる場所は、朝霜がおりたりしはじめました。外にある車のフロントガラスは凍ってしまっていたりと、本格的な冬到来です。

さて、12月のお散歩ツアー「秋の安房中央ダム周辺散策」を開催しましたので報告します。
集合場所は、鯨岡駐車場。まずは、王子神社へと向かいます。

途中には、馬頭観音があります。

王子神社です。

祭神は王子命(おうじのみこと)。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱を相称して「王子大神」と呼びます。
詳細等不詳ですが、丸山町史によると、継体天皇の御代・丸子皇子が東国に使いして御殿山を巡行したとき、皇子の名を御子神に止まらせたこの地を支配させました。王子が後にこの地に神社を建立したといいます。

次は、小野次郎右衛門忠明生誕の地公園へ。

小野次郎右衛門忠明の生誕の地としてつくられた公園で、公園内には、小野派一刀流の刀をモチーフとしたモニュメントがあります。

小野次郎右衛門忠明は、永禄12年(1569)(又は永禄8年(1565))に生まれました。前名は神子上 典膳で、後に母方の小野姓を名乗りました。
はじめ里見義康に仕えていましたが、その後、剣豪伊藤一刀斎が上総を訪れてたさいに試合を申し込みましたが、敗れ弟子入りします。その翌年再び上総を訪れた一刀斎に誘われ、里見家を出奔(逃亡して跡をくらますこと。失踪。)して諸国修行の旅に随行します。
一刀斎の元には善鬼という兄弟子がいましたが、やがて一刀斎の命で後継者の座をかけた決闘を行い、善鬼を倒しました。決闘の後、一刀斎は自身の差料瓶割刀を授け姿を消し、その後の消息は不明だといいます。
「武芸小伝」によると、かねてから善鬼を殺害したいと思っていた一刀斎は、事前に秘術夢想剣の極意を授け典膳の勝利を助けたとあります。
その後、一度故郷に戻ったのちに江戸に移り、駿河台ある本郷に居住したといいます。文禄2年(1593)江戸近郊の膝折村で人を殺して民家に立てこもった剣術者を倒したことで徳川家康に認められ、200石の禄高をもらって旗本となります。徳川家では徳川秀忠付となって剣術を指南しました。このとき姓を神子上から改めました。秀忠が二代将軍に就任したことで、一刀流は柳生新陰流と並ぶ将軍指南役として大いに栄えました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されましたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で螫居を命じられ、その後結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石となった。その後一刀流の秘事を秀忠に伝授した褒美として、備前勝光の脇差、御料の羽織、黄金等を恩寵され、さらに秀忠から一字を賜り忠明と改名しました。
慶長年間の大阪冬の陣・夏の陣のあと色々ありまして、寛永5年(1628)11月7日、60歳で死去。下総国埴生郡寺台村、永興寺に葬られました。現在の千葉県成田市にある成田高等学校・付属中学校の裏山に墓があります。忠明の後は嫡男の忠常が継ぎ、200石の加増を受けて800石となりました。小野家は旗本として明治維新まで代々続きました。

公園を後にし、安房中央ダムへと向かいます。

なんか工事していました。

鍛冶畑隧道。

暗いトンネルを抜けて少し行くと山入集会所があります。

入口には、石造物があります。

二の滝橋。

二つの滝があったとか・・

橋の上から見た安房中央ダム(ダム湖)

安房中央ダムは、昭和33年(1958)安房中央土地改良区が設立。千葉県の県営かんがい排水事業である安房中央用水改良事業の一環として建設され、昭和45年(1970)に完成しました。高さ36mのアースダムで、有効貯水量202.4万㎥の干害を目的とするダムです。ダム湖の名前は丸山湖です。

二の滝橋を渡りトンネルを抜けると犬切橋です。

この橋の名前になっている犬切には、伝説が残されています。
川谷区有文書では、川谷犬切出身の鈴木留吉氏の「犬切考」と青木貞次郎翁の「房州犬切縁起」と二つありますが、2説とも「里見八犬伝」の影響があります。「犬切考」では、旅の女性が犬に支えられながらこの地にやってきました。村人は、気の毒のあまり声をかけ休ませてあげましたが、女性は起き上がることができなくなってしまいました。犬はというと、立派な忠犬で、昼も夜も主人のそばからはなれず、食事も主人以外の人からは一食も食べませんでした。しばらくして主人の女性が亡くなり、墓標として楓の木を植え傍らに葬られました。犬は主人の埋められた辺りに行っては涙も声も枯れ果てる程悲しみ鳴いていました。日数が経つにつれ、犬は狂態し、墓を掘り起こしたり、犬や猫・馬・牛・人間にまで飛びかかってくるようになり、村人達は可哀そうだが仕方なく殺してしまうほか手段がないという事になり、犬を殺してしまい、刀を持っている人々に一太刀ずつ切られ、最後に川へ投げ落とされてしまいました。この地域には犬射り場や犬鳴かせ・犬抛り崎・太刀洗井戸などの場所が語り継がれています。

なんか切ないお話です。

犬切橋を渡って国道410号沿いに大きなお地蔵さんがあります。

あとは、駐車場へと戻ります。

この時期のダム湖は、水が溜まっていないので、昔の土手?道?なようなものが見えます。あともう少し早く開催していれば紅葉も楽しめたかと・・・
犬切のお話も、あまり知られていないお話じゃないかと思っています。地域の名前にもなっているので、地域の人で伝えて、残して行ってほしいです。

月イチツアー「千倉瀬戸を巡る」報告

12月も残り少なくなってきました。道端には水仙の花も咲き始めました。
ガイドの独り言も追い込みにで公開しております。
(最初からちゃんと書いてればいいのに)

10月29日に月イチツアー「千倉瀬戸を巡る」を開催しましたので報告します。
集合場所は、瀬戸海岸駐車場です。
出発し、瀬戸川を渡ったところに旧千歳村白子の石碑があります。

少し行くとハクダイ食品があり、ちょうどその時は、くじらのたれの天日干しをしていました。

「くじらのたれ」は、南房総市に江戸時代から伝わる伝統的なくじらの食べ物です。くじらの肉を大きめにスライスし、醤油や塩をベースとした独特なタレで一晩漬け、天日で干したものです。昔は保存食として食べられていたようです。昔から伝わるくじらのたれは硬いものですが、現在はソフトなものがあり、そちらの方が売れているそうです。軽くあぶって食べます。
私的には、ソフトのくじらのたれをあぶって、マヨネーズに七味唐辛子をいれた物に付けて食べています。
くじらのたれは、安房地域の食文化です。

次は、顕本寺へ。

日蓮宗の寺院で本尊は日蓮像。正長元年(1428)天台州を、日蓮宗に改宗しました。慶長15年(1610)に現在の地に移転しました。昭和22年9月8日、列車の煤煙によって、本堂庫裡・稲荷堂及ぶ重要書類を焼失してしまいました。昭和25年本堂を再建しました。

次は、慶崇院へ。

浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。創建は元禄16年1月23日。由緒等は不明ですが、徳川歴代将軍の位牌を安置しているそうです。

次に、地蔵院へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は地蔵菩薩像。治承3年(1179)大納言平時忠の息子・信時が継母のざん言により当国に追放、その時嵯峨大覚寺の上人が信時を憐れみ恵心僧都作の地蔵菩薩像を伴僧に所持させました。道中恙無を願って愛宕権現を遙拝して下向、途中事なく当地に到着し、自宅の傍に草庵を結び地蔵菩薩像を安置しました。前の山頂に祠を建て山城国愛宕大権現火結の神を祀り、朝夕礼拝し、その後元亀年間(1570~1573)国守里見義弘に一寺一社になるべく願い出て、許可され寺を地蔵院、社を改めて大権現を勧請し愛宕社と号しました。どの語、宝永年間(1704~1711)火災で焼失、宝永8年(1711)に寺を再建、神社は安永2年(1773)造立、明治のはじめ寺を愛宕山白雲寺地蔵院と名付けました。

次に、愛宕神社へ。

祭神は火結命(ほむすみのみこと)。
由緒は、地蔵院で説明していますので、ここでは省略します。
幾多の変遷を経て、明治5年(1872)神仏分離に際し愛宕神社とし、同時に村社として現在に至ったとの事です。
神社には、安永2年(1773)「波と竜」武志伊八郎23歳の作、文政11年(1828)「賓頭盧尊者立像」「大黒天立像」後藤利兵衛橘義光14歳の作、明治18年(1885)「富士巻狩図波」明治19年(1886)「天孫降臨神神話図」川名楽山の作があり、南房総市指定文化財です。

次に、浅間神社へ。

祭神は木花咲耶比売命(このはなさくやひめ)。創立は長享元年(1487)。由緒は不詳です。

次は、八剱神社へ。

祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)。創立は長享元年(1573)2月吉日。由緒は不詳です。

次は、下立松原神社&御霊白幡大明神へ。

祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)・言筥比売命(ことはこひめのみこと)・月読命(つくよみ)。
神社は牧田の段丘上海抜約30mのところにあり、昔は一面の松原であったと言われています。神社の北東約250mにある社山(じゃやま)の北麓にある垂迹宮(すいじゃくのみや)跡が元社寺とされ、江戸時代末期まで垂迹さまと呼ばれていました。
社記などの伝承によると、神武天皇即位の辛酉年、天富命に従って安房にやってきた阿波忌部の子孫美努射持命(みぬいもちのみこと)が祖神天日鷲命を祀ったのが始まりとされ、延喜式(927年完成)の神名帳に記された安房国六社のうち小四社のひとつにあたる古い神社です。
源頼朝が石橋山の合戦に敗れ安房に逃れたきた時、豪族丸五郎の案内で戦勝祈願したといわれ、その折敗戦の身をはばかり鳥居をさけて脇から入ろうとしたところ、氏子たちが鳥居を取り除き招き入れたとのことで、以来鳥居はつくられることがなく、鳥居のない神社となりました。

境内の十八社宮碑。

境内に祀られている18社すべての社名が書いてあります。下立松原陣屋のほか、合祀された駒形・浅間・垂迹神社、御霊白幡大明神、境内別殿四社、六所明神、歯神、最後に疱瘡神とあります。
歯神は人が生きるために大切な「歯」を守る神です。疱瘡神は「疱瘡(天然痘)」が昔は疫神によるものと信じられたため、この神を祀る風習がありました。
歯神は、初めて見た気がします。あと、天然痘と聞くと「貞子」を思い出すのは、私だけでしょうか?

御霊白幡明神

社殿によると、源頼朝が元暦2年(1185)に安西三郎景益に命じて、源氏の祖源頼義と八幡太郎義家父子を祀るために創建し、朝夷郡の鎮守としてといいます。また、頼朝は文治年間(1185~1190)も安西氏を使いとして頼義・義家の木像、薬師如来像、自ら写経したという大般若経600巻を奉納したと伝えられています。社殿には伊八の彫刻があります。

境内には、経塚(えい経石函碑)があります。
頼朝が奉納した大般若経は、毎春転読されて武運長久・国家安穏を祈っていましたが、破損がひどくなったため、明和9年(1772)に石函に納めてこの下に埋められました。碑は牧田村名主神作戸右衛門父子が建立しました。

あと、頼朝公の馬洗池跡もあります。
頼朝が、下立松原神社に立ち寄った際に池で馬を洗ったとの言い伝えが残っています。また例祭で行われていた流鏑馬・競馬の馬もここで洗っていたといいます。

両方とも写真を撮ったつもりだったのですが・・・ありませんでした。どこに消えたのでしょう?

あとは、出発地点へと戻ります。

今年も、残り少なくなってしまいましたが、あと1コースかければと思っていますが・・・どなることやら。

月イチツアー「源頼朝ゆかりの地を巡る」報告

師走です。冬らしい気候になってきました館山・南房総。
ガイドの独り言を更新していなくて、気が付けば12月中旬。慌てて、ガイドの独り言を更新します。
さて、10月1日の月イチツアー「源頼朝ゆかりの地えお巡る」を開催しましたので、報告します。

今年は大河ドラマが鎌倉時代のものだったので、安房地域には源頼朝に関係する場所が多く残されてい、少し大河ドラマにあやかっておこうと思い源頼朝ゆかりの地を案内することになりました。
集合場所は、那古海岸駐車所。そこから那古寺へと向かいます。

いつも観音堂の写真を使っていますが、今回は本坊の写真を。

真言宗智山派の寺院で本尊は千手観世音菩薩。坂東三十三観音第33番札所(結願寺)で安房国札観音霊場第1番札所です。
奈良時代の養老元年(717)春、この地を訪れた行基という高僧が、那古の海中から得た霊木で観世音菩薩の像を刻み、天皇の病気平癒を祈願したと伝えられています。
その後、荒廃した寺を慈覚大師が承知14年(847)に復興。かつて那古山の山上にありましたが、元禄16年(1703)の大地震で倒壊し、宝暦9年(1759)現在地である中腹に再建されましたが、平成の大修理によって、享保・天文年間(1730年代)にほぼ完成していたことがわかりました。

源頼朝は、安房滞在中、源家再興祈願に訪れ、観世音の祥瑞をこうむったとして、鎌倉幕府開府後、山上に七堂を建立、仏供数料拾町歩を寄進したと伝えられています。七堂の本堂、三重塔(多宝塔)、地蔵堂、鐘楼、仁王門、阿弥陀堂、閻魔堂は、頼朝の安房への七騎落ちにちなんだと言われています。

観音堂の前の階段から下がると阿加井があります。

説明書きに、
「そもそもこの井戸は、あか井と称し仏様にお供えする浄水をあかという、その井戸をあか井と称する。
当地に観音堂が再建された時、伊勢屋甚右工門が伊豆石を運び、井戸に石組して宝暦11年 つるべで水を汲み観音堂へ奉納した。
境内には、水神の弁財天が祭られいる安房路を巡る旅人は、この霊水で渇きをいやし喉を潤したものである。信者は遠方よりこの霊験あらたかな万病に効くあか井の水を汲みに、参詣する。
この下の部落を赤井下といい、那古寺本坊前の部落、寺町とあわせて寺赤町内会と称し門前町として観音様に貢献している。 寺赤町内会」
とかかれています。

阿加井から、階段を降りて行くと右手に願い石があります。

石に願いを書いて、先ほどの阿加井のところか神社の所に置くと願いが叶うそうです。

次は金毘羅神社へ。

祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。創建年代は不詳ですが、四国から来た漁師が江戸時代に建てたと伝えられています。

次に千日堂へ。

修験等覚院の隠居所として、戦国時代初期に建てられたといいます。本尊は江戸時代初期の地蔵菩薩坐像。船形村名主の墓所に、江戸時代の寛永年号の古い墓もあります。入口に享保18年(1733)の三界万霊塔、文政8年(1825)の弘法大師供養塔があります。

那古観音から長勝寺に向かう、那古山北側の水田の一面に残っている小字があります。小字名が頼朝免(らいちょうめん)と言われ、源の頼朝から授かった土地という言い伝えがあります。

次は長勝寺へ。

真言宗智山派の寺院で本尊は地蔵菩薩。本尊の地蔵菩薩は、南北朝期の木造坐像です。明治5年(1872)に金剛宥性が選定した安房百八地蔵尊の第10番札所で、ご詠歌の額が掲げられています。
本堂向拝には、三代後藤義光の龍と獅子の彫刻があります。
頼朝伝説をご紹介します。
源頼朝は那古観音参拝のあと、この寺に立ち寄りました。頼朝は、本尊が勝軍地蔵であることに興味をもち、「長く生きることは、長く勝つことに通じ、縁起のよい寺だ」と、それまで長生寺という寺名を長勝寺に改めさせたといいます。

船形藩陣屋跡・名主古屋敷を通り、木の根道切通しへ。

写真は切通しになっていなくてすみません。
木の根道切通しは、房総半島めぐる中心的な往還の一部で、千葉方面から内房を通って館山へ続く道です。

通り抜ける場所には、忍足佐内殉難の碑があります。

忍足佐内は(享保14年(1729)~明和8年(1772))は、江戸時代中期の農民で、安房勝山藩領金尾谷(現富浦町福沢)の名主でした。旱魃や飢餓が続き農民が苦しんでいました。各地区の名主たちは勝山の役所に年貢の減免を訴えましたが、役人は賄賂を贈ってない金谷尾村と小原村は願いが聞き入れられませんでした。そこで忍足佐内は、3村の名主とともに勝山藩酒井大和守の江戸屋敷に直訴しました。この件により奉行・代官達は賄賂を求める悪政が露見することを恐れ、勝山陣屋の石牢に投獄し、四方引き回しの上、白塚川(現福沢川)にて処刑されてしまいました。忍足佐内は正義感が強く村民を救うため身を挺して上訴したのです。享年44歳でした。これに対して遺族らは、奉行や代官の悪政を訴え、佐内の汚名返上を願い出ました、この願いは藩により聞き入れられ、奉行や代官の悪事を認め、佐内の名誉が回復されました。忍足佐内殉難の碑は、南房総市の文化財に指定されています。

次は常光寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は薬師瑠璃光如来。養老元年(717)、行基菩薩が薬師如来を彫刻し本山として開基しました。しかし元亀年間(1570~1573)に火災のため焼失、現在の薬師如来は、平安時代後期の作といわれ、南房総市の文化財に指定され、富浦町最古といわれています。また、弘法大師が日光・月光の木造の両菩薩立像を彫刻して奉納したと伝えられています。安房国四十八薬師霊場の南口十二薬師、1番札所で寅年の大開帳には多くの巡礼者でにぎわうそうです。

次は西行寺へ。

浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。開基は長徳2年(996)。
西行寺に伝えられている「西行因縁記」には、西行とその妻「呉葉の前」の悲しい伝説が書かれています。
西行は鳥羽上皇の北面の武士として活躍し、呉葉の前を妻としましたが、ほどなく出家し、諸国行脚の旅に出ます。呉葉の前は2人の子供とと寂しく日々を送っていましたが、子供たちが病気で亡くなってしまい、自らも出家し旅に出ました。やがて安房に入った呉葉の前は、船形に庵を結んで念仏を称える日々を送っていましたが、若くして亡くなってしまいました。村人たちが呉葉の前の死を悼み、塚を築いて一本の柳の木を植えたので、この地を柳塚というようになりました。その後、西行がここを訪れ、呉葉の前の菩提のために西行寺を建てたといいいます。
寺の裏山は戦国時代の船形城跡で、安西氏がいたと言われています。

次は、大福寺・崖観音へ

真言宗智山派の寺院で、本尊は大日如来。創建は養老元年(717)で開山は行基菩薩と言われています。境内の船形山の中腹に浮かぶ朱塗りの観音堂は「崖の観音」と呼ばれています。観音堂の本尊は、十一面観世音菩薩です。この本尊は、養老元年(717)に行基が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁師の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に十一面観世音菩薩を彫刻したと言われています。その後、慈覚大師が当地に来錫した折に堂宇が創建されたと言われています。十一面観世音菩薩は、県内最古の摩崖仏と言われ、昭和45年に館山市の有形文化財に指定されました。
江戸時代になり、承応2年(1653)に観音堂が火災にあい、朱印・什宝・伝記等すべて焼失してしまいました。正徳5年(1715)には観音堂が再建されましたが、明治43年の大豪雨により土砂崩れにあい本堂・庭園とも倒壊してしまいました。さらに大正12年の大地震で観音堂・本堂が倒壊し、観音堂は大正14年に、本堂は昭和元年に建てられました。本堂正面には、獅子と龍の向拝の彫刻があります。昭和3年国分の彫工後藤義房の作品です。

隣にある諏訪神社へ、
写真がありませんが、解説を・・・・

船形地区の総鎮守で祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。養老元年(717)行基菩薩が、信濃の諏訪大社を勧請したと伝えられています。船形住民の氏神としてあがめられています。
2017年3月4日放火により本殿と拝殿が全焼してしましまいました。焼失前の本殿と拝殿は関東大震災で倒壊後、昭和2年(1927)に再建され、拝殿の向拝の龍の彫刻は後藤義光の弟子、後藤義房の作で、社号額が後藤義信の作とされていましたが、ご神体の鏡などとともに焼失してしまいました。
2022年に地元の方々の努力で再建されました。
境内にある狛犬は安政2年(1855)武田石翁の作です。
ここにも頼朝伝説があるのでご紹介します。
船形を訪れた頼朝を、この地の十八という漁師の網元が招きもてなしをしました。そのお礼に頼朝から白旗をもらったといい、現在も子孫の家で大切に保存しているそうです。洲崎神社まで船を出したのは十八だとも言われいます。かつては船形地区の祭礼には、諏訪神社に白旗が掲げられていました。

もう1つ頼朝伝説を
崖の観音の下あたりで休息したとき、団子やの主人が談義を献上したところ、頼朝が「うまい団子を食べさせてもらい、うれしかったぞ」と言ったところから、以後、嬉賀という姓を名乗ったといい、団子やいう屋号が残っているそうです。
またほかに、この辺りに立ち寄った頼朝がうれしいと言ったことから「うれしくぼ」という集落名になった説、洲崎から円山岬に上陸した頼朝が、世話をしたくれた村人に、うれしいという気持ちから嬉賀という姓を与えられたという説があります。

海岸線を通ってくると安政築堤があります。

草が生い茂りわからない状況ですが・・・
磯崎湊と呼ばれた場所に江戸時代末の安政2年(1855)につくられた堤防があります。一度台風で崩れて明治6年(1873)に再建したようで、大正12年(1923)の関東大震災で現在の場所まで上がってきました。

あとは、出発地点へと戻り、終了です。

ガイドの独り言で、頼朝の伝説を書いていると、2022年の大河ドラマで大泉洋が頼朝をやっていたのが思い浮かんできてしまい笑いそうになってしまいました。
石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、安房の地から再起を図り進んでいきました。安房地域には、頼朝伝説が多く残されています。是非、巡ってみてはいかがでしょうか?
大泉洋の頼朝を思い出しながら巡るのも面白いかと・・・

お散歩ツアー「豊富な水と豊かな実りある豊房地区」報告

ご無沙汰しております。もう秋?になってしまいました。
本当に、ガイドの独り言を更新していなくて、申し訳ありません。なんとか無事に、細々と倶楽部運営しています。
なかなか、自分の足で長距離?を歩くことができなくて、実際に見てないものを書くのは難しく・・・・更新してない状況が続いてました。
今回は、事務所から近く、自転車で回ることができたので、皆さんにご報告します。

今回ご報告するのは、6月お散歩ツアー「豊富な水と豊かな実りある豊房地区」です。
当日は、曇りでも蒸し暑く、6月だというのに暑さが染みる日でした。
出発は、南条地区にある八幡神社

祭神は応神天皇(譽田別命(ほんだわけのみこと))。伝承によれば古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病が流行したため、その病難を免れるための神を祀ったのが始まりと言われています。治承4年(1180)源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から兵を挙げるとき、村人が京都石清水八幡宮の御霊を勧請し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿を建立したそうです。
戦国時代には南条城主鳥山弾正左衛門大夫時貞は、居城にお東方にあたる東山に社殿を造営し守護神として崇敬しました。その後、いろいろあり、現在に至ります。
神社の背後にある山腹には、社殿改築のため何基か潰されてしまいましたが、古墳時代の横穴墓38基があります。東山横穴群と呼ばれています。

館山千倉線から少し道をそれて、向かったのは、内田の地蔵尊。

山の所の石がんないに祀られている地蔵尊で、安永9年(1780)に建立されたものです。

次に向かったのは、堂ノ下のやぐら。

集会所の裏にやるやぐらは、安永8年(1779)の出羽三山供養塔のほかに、出羽三山関連の享保19年(1734)の大日如来像が祀られています。やぐらの正面と両脇の壁面には、風化が著しいが五輪塔9基の浮彫りが確認できます。内1基は、他で例を見ない蓮華座がある五輪塔で、室町時代の陽刻五輪塔です。外は、近世前期のスリムな形をしています。

次は、女堰へ。

汐入川の水を堰で止めて用水路へ流し、南条・上真倉・下真倉の水田へと流しています。宝永元年(1704)には修理をしているので、それ以前からあった堰だと思われます。
この堰には、悲しい話が残されています。この川は何度も塞き止め工事をしても、水流のために破壊されました。そこで村人は巫女に聞いたところ、「女性を堰止めに使うべし」と言われました。村人たていは村の女性を人柱にすることができず、巫女を捕らえて川に投げ入れ、堰を完成させることができたと伝えられています。そのことから女堰という名がついたと伝えられています。

次は、福生寺へ。

曹洞宗の寺院で、延命寺の松寺。本尊は聖観世音菩薩。寺伝によると、南北朝時代、西国の守護大名大内義弘(1399没)の子孫無々遠公(むむえんこう)大和尚が、永正15年(1518)頃、薩摩国から来て開山したと言われています。開基は里見義豊の妻である福生寺殿一溪妙周大姉とされています。慶長11年・15年の里見家分限帳では、寺屋敷がある南条の地において高2石の土地を与えられ、また徳川家からも同様の安堵がありました。
一溪妙周とは、「天文の内乱(1533~1534)」で夫の里見義豊が討ち死にしたことを知り、17歳で自害してしまったそうです。遺体は、南条城跡の北側山麓に葬られれ、福生寺の前身とされる一溪寺が建てられたといわれています。今は、姫塚が残されているだけですが、私有地を通ってしか行けず、お参りする人も少なくなってしまい道がなくなりつつあります。

境内には、石井弥五右衛門盛次夫婦の墓があります。江戸時代前期の様式を持つ2基の宝篋印塔は、水戸光圀の大日本誌編纂事業に加わり安房先賢偉人の碑のひとりに挙げられる石井三朶花の祖父母の墓があります。盛次は、元亀2年(1571)生まれとされ、里見義堯のひ孫にあたる里見家の家臣です。慶長19年(1614)、里見家没落の際、幕府代官から手代頭に採用され、里見氏転封後の安房国の民政処理にあたりました。その尽力により、房州の寺社98か所の所領が没落前とほぼ同様に保障されたといいます。
他にも、一渓妙周大姉の五輪塔があります。

次は、泉福寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺伝では、慶長15年(1619)の創建で、開山は位置有全慶と伝えられていますが、中興開山ではないかと思われます。敬ぢあには中世の五輪塔があり、里見氏から南条村で3石余の地を与えられていました。

参道の地蔵菩薩は、石工が「元名村周治」とあるので、安房の名工武田石翁の作です。

(台座に座っている方のお地蔵さんです)

次に、小谷(こやつ)の地蔵尊へ。

小谷久美の地蔵尊2体と如意輪観音像・十一面観音像が祀られています。片隅には、中世の五輪塔や宝珠1点と宝篋印塔の返花座なども確認できます。

次は、阿弥陀堂へ。

お堂に上がる参道の石段中程には、宝暦3年(1753)の地蔵菩薩像と宝暦4年(1754)の聖観音菩薩像があります。

階段下には、込縄(こみな)の地蔵尊があります。

元禄6年(1693)と明治24年(1891)の地蔵尊2体がありますが、いずれも墓碑です。
その脇には、やぐらがあります。

詳細は、不明ですが、たぶんやぐらです。

次は、館山・千倉線を渡り、田んぼの方の道を歩き出発地点へと戻りながら、田仲の馬頭観音群へ。

笠沼川沿いに馬頭観音等が10基並んでいます。平成の圃場整備で、古茂口に散在していたものが寄せられました。馬頭観音像を刻んだものは、文政2年(1819)・嘉永元年(1848)など6基あります。

今回のお散歩ツアーは、ここまでです。ムシムシした気温でしたが、曇っていたので、日照りよりも歩きやすかったかと思います。

お散歩ツアー「明治から昭和の旧館山町を巡る」報告

新年が明けてからだいぶたちますが、今年もボチボチ更新していきますので、よろしくお願いします。

年末から寒い日が続いています館山・南房総です。めったに雪が降らない地域ですが、年末から3日程雪を観測しています。なにか気候がおかしいかと・・・でも、おひさまが出ればひだまりは暖かく、春を感じることができます。フキノトウも出ている場所もあります。

ウォーキングツアーの報告をしますが、実は・・・まだ12月分が書き終えていないのですが、新年最初ということで、1月のお散歩ツアー「明治から昭和の旧館山町を巡る」を報告します。

集合場所は、渚の駅たてやまの隣にある新井海岸駐車場です。
まずは、館山桟橋のところから。

写真は、現在の夕日桟橋ですが、その隣に昔の桟橋の残骸?が残されています。
館山桟橋は、明治11年(1878)、館山の辰野安五郎が「安全社を創設し、東京霊雁島と館山間に汽船「通快丸」を就航させ、約5時間で結んだそうです。汽船の発着桟橋も作り桟橋会社の前に設置さ、桟橋は「館山湾桟橋株式会社」の所有物でした。明治15年(1889)、「内湾汽船」が東京~館山を1日5便運航していました。
明治22年(1889)、東京湾を航行する安房汽船株式会社(第二房州汽船)と内国通運(現・日本通運)など、東京湾内の汽船を運航する4社が事業統合し、東海汽船の全身の「東京湾汽船会社」が誕生、館山航路の進出し、この年の11月から年間を通して運航されました。
明治27年(1894)、「東京湾汽船会社」と「安房汽船」が合併し、「東海汽船」となりました。大正11年(1922)12月、辰野安五郎が東京湾汽船会社と館山町等の共同出資で「館山桟橋株式会社」を設立。この年度に沖合200mほどの長さの鉄筋コンクリート支柱の桟橋が作られました。
大正12年(1923)、初代「橘丸」が就航。館山桟橋の拡張工事が完了しました。(長さ226m)同年9月、関東大震災で館山桟橋は大きく破損し、先端部の灯台だけが立っていたそうです。その後、陸軍工兵隊の演習を利用し除去しましたが、一部露出していたといいます。
大正15年(1926)、館山町が旧桟橋から約10m南隣に、新たに館山桟橋を造ります。(長さ270m、幅5.5m)工事費46,637円11銭の内、県補助30,424円、桟橋会社16,213円11銭、町負担なしで造られました。新しい桟橋は、館山桟橋会社が館山町から使用権を得て使用しました。
昭和に入り、菊丸・葵丸・2代目橘丸などが就航しましたが、橘丸は軍に徴用されてしまいます。
昭和24年(1949)に館山航路が復活し、菊丸・淡路丸、夏季には黒潮丸・あけぼの丸なども就航しました。昭和25年7月には、橘丸の東京ー館山間の夏季航路が復活し、昭和36年には館山桟橋の改築工事が完成し、昭和38年には、東京湾高速船(株)が東京ー勝山ー館山間を1時間半で結ぶ水中翼船を運航しましたが、昭和42年、水中翼船は解散、昭和46年、夏前に東海汽船の東京~館山間の運行が廃止され、昭和48年東海汽船の館山航路が最終となりました。
大正8年(1919)5月、安房北条駅が誕生。運賃は船の方が安かったといいますが、風雨の日にも安心して東京に行きかえりできるので、汽車を利用する人が多くなったといいます。
その後桟橋は、平成22年(2010)4月、旧館山桟橋の北隣に館山港多目的観光桟橋「館山夕日桟橋」(海岸から500m、幅6.5m)が完成しました。

館山桟橋前には桟橋会社があり、今ののグラッチェあたりになります。当時は、木造2階建ての洋風建物で1階は会社の事務所、2階は食堂でした。建物は関東大震災にも耐えたといいます。
昭和20年までは、館山桟橋(株)が食堂や氷給水、倉庫として使用。また桟橋会社旅館部、汽船取扱所、房州水道、銚子測候所館山出張所も入っていました。戦後は、館山桟橋(株)ほか、房州白土共販(株)、房州水道(株)、房州海運(株)が入っていました。

次は千葉県水産試験場跡へ。

大正11年(1922)、那古町から移転してきました。昭和6年(1931)、県立安房水産高校が創立され、県水産試験場内に校舎を設置。昭和22年(1947)9月4日、謎の出荷で多くを焼失し、北下台下の水産講習所を仮庁舎として利用、昭和23年(1948)、焼け跡に無線局を設置、12月庁舎を復活しました。昭和42年(1967)5月に千倉分場を開設し、アワビの種苗生産を始めます。昭和49年9月、千倉分場隣に本場を移転しました。移転後、跡地は安房水産高校に移管され、南側にテニスコート、北側に栽培漁業用施設にしました。
写真の石垣は、当時のままの石垣で、入口の門柱も当時のままのものです。

次は、海岸ホテル跡へ。(写真は、住宅なのでありません)
海岸ホテルは、大正11年(1922)木造2階建てで、80室の洋風ホテルでした。大正12年(1923)の関東大震災で、一部が破損しました。関東大震災後の9月6日に、戒厳令が施行され、安房郡内に軍隊が派遣され、陸軍歩兵学校、佐倉歩兵連隊、県警察から来援した際、海岸ホテルが本部になり、治安維持に当たったといいます。戦時中は、海軍が将校の懇親会や来賓接待所として利用していました。
大正15年’1926)、島崎藤村は療養中の恋人に会うために来館した際、宿泊したといいます。昭和40年代に老朽化が進む中、東邦大学医学部のヨット部が合宿場として利用していました。

次は安房水産高校へ。(現館山総合高校)

大正11年(1922)2月15日、安房郡立農業水産学校として創立。4月10日、館山に水産学校分校として開港しました。大正12年(1923)4月27日、県令告示第128号をもって、県立安房水産学校が設立しました。昭和6年(1931)4月6日、水産試験場正門側に木造2階建て新校舎完成しましたが、昭和22年、9月4日に謎の出火で校舎全焼してしまいました。昭和23年4月1日、新学制の実施により、県立安房水産高等学校と改称、昭和23年、旧館山海軍基地内の兵舎2棟を改造し、仮校舎としました。昭和32年10月30日、現在地に新校舎新築落成しました。
平成20ンrン(2008)4月1日に、県立館山高等学校に統合され、校名も県立館山総合高等学校に改名、水産の建物は水産校舎となりました。

次は富士見橋へ。

大正8年(1919)、汐入川河口域に初めて私設の木橋が架けられました。しかし、関東大震災で崩壊、昭和初年、上流側に新たな橋が架けられるまで、仮橋でした。昭和25年(1950)、木造の新橋が作られました。
昭和33年には、日活映画「嵐の中を突っ走れ」の中で、木造の橋をバイクに乗った石原裕次郎と芸子役の白木マリが、橋の上で再開する場面が撮影されたそうです。
昭和45年(1970)6月、海水浴場に大腸菌が多いことが報道されたため、橋(この時は架設橋)の下流部に県下で初めて河川水滅菌浄化装置を付け、昭和50年5月、コンクリート橋となりました。

次は、市立第二中学校、現在は館山中学校へ。

昭和22年(1947)3月31日、新しい教育基本法が可決されたことにより、4月1日から6・3・3・4の学校制度ができました。昭和24年(1949)4月1日、館山中学校と北条中学校が合併し、館山市立第二中学校が誕生しました。校舎は笹子工務店が館山海軍砲術学校を解体した材料を使い、校庭の東側に2階建て校舎を、南北方向に1棟を建てました。砲術学校の学生舎を再利用した房南中学校と同じように、校舎内は中央に廊下があって教室等がに分かれて並んでしました。当時の学級数は31(他に特2)で、生徒数は1,293名でした。
昭和30年に新校舎建設工事着手、昭和32年に東西校舎増築完成、昭和36年、北校舎が完成しました。昭和47年(1972)5月4日、校舎の火災があり半焼してしまいました。
昭和52年(1977)、2月28日、鉄筋3階建ての防音校舎が全館完成しました。昭和55年、館山第二中学校より北条地区を分離し、館山市立第三中学校が開校しました。同じに豊房中学と神余中学が二中に統合され、昭和57年には西岬中学が統合されました。
令和3年、第二中学校と第三中学校が合併し、「館山中学校」が誕生しました。第三中学校校舎を取り壊した跡地に新校舎ができるまでの間、第二中学校の現校舎が使用されています。

次は、汐留橋へ。

関東大震災で損傷しましたが、倒壊は免れました。館山海軍航空隊の開設にあたり、駅と航空隊間を結ぶ道路が改修された際に、この橋も昭和4年(1923)3月に改築されました。昭和後期に橋の付け根および橋脚を部分的に補強工事が行われていますが、令和3年(2021)3月から、橋脚全体の補強工事を行いました。平成8年(1996)12月、汐留橋の北側に橋長24m、橋幅4.8m、中央部7.8mの歩道橋(汐留いこい橋)が完成しました。
汐留橋のたもとには、館山郵便局がありました。昭和43年10月、館山駅に近い北条地区に局舎を新築し移転しました。館山郵便局の始まりは、明治5年(1872)、北条郵便取扱所として開設。明治22年(1889)に館山郵便局と改称しました。大正12年(1923)の関東大震災で損壊したため、昭和2年(1927)に現在の館山商店街協同組合(TSCホール)に移転しました。

次は三福寺へ。

浄土宗の寺院です。文明3年(1471)に相蓮社順譽上人によって開山に浄土宗佛道場として創建されました。元禄16年(1703)の大津波の後、新井浜から現在地に移ったという伝承があります。
里見義康が館山の城下町を造るために新井浦の土地を割り振る際に、寺の土地をとりあげたため、三福寺は代替地として汐入川河川を与えましたが、砂地で作物はできず。その上、朱印地もなかったので檀徒はそれを嘆いて、「御上地に宛行なしの三福寺」ということわざが生まれたといいます。しかし、汐入川河口なお利用は流通に関する権利を持つことを要求したのであり、先見の明と当時の権力者と深く結びついていたことを示すことわざとも言えます。元禄16年(1703)の大地震や大正12年(1923)の関東大震災による焼失等度々災難にあい、寺宝、過去帳や文献等が失われていますが、境内には、館山ゆかりの偉人や碑や墓があります。

境内の碑等を少し紹介します。
まずは、魚鱗供養塔

享保15年(1730)建立。正面には「浄土三部経 為減生魚鱗等 離苦得楽 一石一字」と刻まれているので、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三つの経典を小石に一文字づつ書き写して埋め建立した塔です。新井浦は昔、漁村であったので、魚を苦笑するために漁民達が建立しました。

次は、石造釈迦如来三尊坐像

石工は館山町楠見の俵光石による釈迦三尊像です。礎石を含めた高さ3.85m。伊豆の小松石を用いて螺髪や口髭を付け、ふっくらした顔で脇侍を従えています。座った姿で、右手は膝に置き、その指が大地に触れている形の降魔印を結んでいます。釈迦像の下には、獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られています。裏面上部には、「明治36年11月建立 當山廿9世頂譽圓順代」同下部に発起人16名の名と「高村光雲門下の俵光石の彫刻等を刻まれています。

次に、宮司政吉君の碑

明治40年(1907)建立。館山町に生まれ、明治37年(1904)2月に開戦した日露戦争に翌月

新井文山の碑

新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14歳の時、住職の援助で江戸に出て、遊学。昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)に入門し儒学を学び、28歳で帰郷して塾を開き、地域の教育に力を注ぎました。天保7年(1836)館山藩主稲葉公に仕え、天保13年(1842)に目付兼郡奉行となりました。
石碑は、中央が文山、左に先妻、右に後妻の法名が書かれています。文山は嘉永4年(1851)73歳で亡くなりました。碑銘は嘉永6年(1853)、次男の可大に請われた昌平黌教官の佐藤坦の撰文で、保田の武田石翁により刻まれています。

次は錦岩波五郎の墓です。

新井出身の江戸大相撲の力士で慶応3年(1867)に亡くなったそうです。下に錦岩と彫られていますが、詳しいことは不明です。

次は、長福寺へ。
真言宗の寺院で本尊は不動明王。寛正元年(1460)、伝忠法師が中興開山したとされています。館山観音として親しまれ、安房国札観音2番、西口薬師2番、西口六地蔵、南房総七福神(福禄寿)の札所です。
観音堂内に千手十一面観世音菩薩があります。元は、北下台にあったのですが、関東大震災後、ここに移されました。
館山小学校開校の地で、明治5年(1872)の学政令発布の翌年に寺小屋だった当寺に開校しました。
墓地内には、館山藩ご典医の宮川元斎の墓や中世の石造地蔵尊、宝筐印塔、戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに出陣した館山藩関係者の供養塔「寄子萬霊塔」、庚申塔、館山藩士だった千葉家、高梨家などのほか、遭難した仙台藩士の墓があります。

長福寺の南側には、かつて館山劇場がありました。(現館山グリーンはいつ)この劇場は、市の中心域が北条に移ったころに閉鎖されています。館山劇場があった時代の下町・仲町周辺には、料亭や芸姑置屋、検番撞玉場(ビリヤード)等が軒を並べ、歓楽街として賑わっていたといいます。

次は、源福院跡へ。

仲町集会所奥の隣接地に三福寺の末寺(源福寺=隠居寺)の御堂がありました。明治21年(1888)の館山の大火で焼失してしまいました。

上仲町児童公園の場所は、上町と仲町の諏訪神社があった場所になります。大正12年(1923)関東大震災で壊れたため、後に館山神社に合祀されました。
上仲町児童公園から大通りに行った左手に仙台藩役所跡があります。現在は、新しい家が建っています。廻船役所だったので、藩の年貢米などを輸送する船の改めや、船が難破した際、世話をするところで、藩士2名が詰めていたといいます。
大通りをわたり、海の方に向かう途中に池田荘があります。もとは松岡旅館でしたが、昭和43年(1968)1月に池田氏が購入して池田荘に改称しました。令和2年(2020)秋に解体されてしまいました。昭和20年(1945)2月16日の朝8時頃、館山基地に駐屯し、茂原の本部を置く第252海軍航空隊所属の零戦が松岡旅館裏に墜落しました。当時、館山に本部を置く第903海軍航空隊の記録によると、館山基地に着陸しようと、南方上空から降下してきた2機の零銭が、湾内に停泊していた輸送船から銃撃を受けました。これにつられて南の山の対空陣地からも撃たれ、1機が墜落しました。この墜落により火災が発生した様です。なお、乗員の生死は不明。この日は、早朝から館山航空隊や関東地方の飛行場を目標にした、アメリカ海軍空母艦載機による日本本土最初の奇襲攻撃でした。

池田荘から海に方に向かうと、昭和電工館山工場跡に。現在は、NTT東日本館山サービスセンターの関連会社とおどやがあります。

昭和電工館山工場は、安房郡内では唯一カジメを材料にヨードを製造していいました。昭和初期の館山町では、最も大きな工場で、敷地4,839坪、建物1,046坪、従業員は昭和20年(1945)56人、昭和23年70人を数えました。しかし、昭和25年には残務整理の5人となってしまいました。
館山獅子によると、大正8年(1919)代に東信電気株式会社がヨードを製造していました。昭和6年(1931)に満州事変が起こると、海藻を焼いて出来るヨード灰が火薬の原料となる為、需要が高まり、カジメ・アラメが大量に求められました。昭和13年(1938)の国家総動員法制定をきっかけに、翌、昭和14年(1939)6月、「昭和肥料」と「日本電気工業」が合併、「昭和電工(株)」が森矗昶により創立されました。昭和16年(1941)8月16日、軍部から乾燥したカジメ・アラメを昭和電工に渡すように命令が出されました。千葉県漁連は、関係漁協に対し「カジメ採集に関する件」を通知、カジメ採取量を割り当てました。軍指定工場になった館山工場は、乾燥カジメ・アラメを焼いて、乾燥灰(ケルプ)からヨードを製造し、ほかにも塩化カリ、粗製沃土も作っていました。
昭和20年(1945)10月、館山工場は、占領軍の命令により生産を中止、昭和21年には、代用醤油の生産を始め、昭和22年4月、ヨード、塩化カリの生産を再開しましたが、輸入品の圧迫により不採算に、昭和23年8月、アミノ酸への進出を図ります。昭和45年、天然ガス採取の副産物として、容易にヨードが算出されるようになったことから、館山工場はその使命を終えました。
館山工場内には、当初赤レンガの八角形煙突(推定高さ20m)が2本ありましたが、内1本が関東大震災で倒壊してしまいました。
工場が取り壊された後、敷地が分割され、南側が昭和47年日本電信電話公社に売買され、現在はNTT東日本館山サービスセンター関連会社の(株)協和エクシオンに代わっています。一方北側は、昭和53年9月に坂本利政氏から昭和54年10月、(株)サカモト百貨店に、その後平成3年7月には(株)サカモトと名義変更され、食品と衣類を販売していました。平成18年9月には、(株)おどやに譲渡され、「スーパーおどや海岸店」になりました。

次は、黒島稲荷神社へ。

かつて、この場所は館山湾に浮かぶ岩礁で、高の島、沖の島、黒島が「鏡ケ浦3島」と呼ばれていました。元禄地震後、1.7m隆起するなど内陸化しました。横の用水路も館山城新堀の用水路跡で、北下台の陰になっていた楠見浦という水軍の拠点でした。

ところどころ説明しながら、渚の駅たてやまへ。

昭和39年代、千葉県(教育庁)が水産高校の実習施設(共同実習所)開設のため、埋め立てしました。昭和40年(1965)、県水産共同実習所が落成。(1階は水族館、2~3階は実習室)昭和48年(1973)、国体夏季大会で館山湾がヨット会場になり、皇太子殿下および皇太子妃(現上皇・上皇后)が博物館2階から競技を視察しました。同年11月23日、共同実習所北側に県立安房博物館が開館。平成21年3月31日県立博物館および、県水産共同実習所が廃止になり、4月1日館山市に全域移譲。平成23年県立博物館を館山市立博物館分館として、渚の駅を開設。平成24年、ミニ水族館を含め、「渚の駅たてやま」をオープンしました。

今回は、館山町の歴史の散策をしてきました。住んでいても知らないことばかりで、ついこの間まで建物があったのに・・・ここなんだったけ?な状態なんですが・・・
これからも、いろいろな歴史が生まれてくるんだと思います。

月イチツアー「日蓮誕生の地を巡る」報告

ご無沙汰しております。新型コロナウィルスの感染拡大で、ウォーキングツアーを中断していましたが、10月の終わりからウォーキングツアーを再開しました。安房地域でもこの夏は、新型コロナウィルスの感染が拡大してしまいましたが、現在では、感染者0の状態が続いていてホッとしています。

11月に入り、寒い日もありますが、日中は、ポカポカ日和の日もあります。そんな11月の月イチツアーは、安房の偉人「日蓮聖人」の生まれた場所・小湊エリアの日蓮ゆかりの地を日蓮御降誕800年という事もあり、巡ってきました。

まずは、少し日蓮の話を・・・
貞応元年(1222)2月16日に現在の鴨川市天津に漁師の子として生まれました。
日蓮誕生の日は早朝より晴れ渡り、穏やかな波に旭が輝く中、珠のような男の子が大きな産声を上げてて生まれました。産声に応えるように、庭には突如清らかな水が湧き出し、浜辺には青蓮華が次々と咲き始め、浅瀬には無数の鯛が群れをなして集まってきました。湧き出しばかりの清水は生まれたばかりの赤子の産湯としました。両親はこの珠玉のような赤子に「善日麿」と名付けました。
元福元年(1133)5月12日、12歳になった善日麿は清澄寺へと修学に上がり、「薬王丸」の稚児名が授けられました。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」となりました。
若き日蓮は、清澄寺に本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひらすら勉学に励みました。10数年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住む清澄寺に向かった日蓮は、建長5年(1253)4月28日早朝、清澄山の旭森山頂に立ち、太平洋にからる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、立教開宗の宣言をし伝道の誓願を立てたのです。このとき日蓮32歳、同時に名を「日蓮」と改めました。
その後、度重なる困難(松葉ケ谷法難(1260)・伊豆法難(1261~1263)・小松原法難(1264)・瀧口法難(1271))を受けて、日蓮は文永8年(1271)10月10日、依智(神奈川県厚木市)の佐渡国の守護代の館を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。厳寒の気候に加え、衣類や食料も乏しい中、佐渡の念仏者などから命を狙われるという厳しい状況に置かれました。文永11年(1274)2月赦免され3月に佐渡を出発し鎌倉へと戻りました。
文永11年(1274)5月に身延山に入山し、6月17日より鷹取山の麓の西谷に構えた草庵を住処としました。これ以来足掛け9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、弘安4年(1281)11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名しました。
建治3年(1277)の暮れに胃腸系の病を発し、医師に治療を受け、一時的に回復しても病状は次第に進行していきました。日蓮の病状は弘安5年(1282)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を越す事は難しいとみられる状況になってしまい、門下が話し合い、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになりました。9月8日、門下とともに身延を出発し常陸の国(現茨城県)に向かいましたが、18日武蔵国荏原郡(現東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着、衰弱が進んでその以上の旅は不可能となりました。日蓮が池上邸に滞在していることを知って、主要な門下が集まってきまsた。9月25日に門下を前に「立正安国論」の講義を行いう、これが日蓮の最後の説法となりました。10月8日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6日の本弟子(六老僧)と定めました。10月13日、多くの門下に見守られながら、その61歳の生涯を閉じました。日蓮の遺言のとおり、その遺骨は身延山に捧げられ、心霊とともに祀られました。その後、身延山久遠寺は日蓮の本弟子である六老僧の一人、日向上人とその門流によって継承され、約200年後の文明7年(1475)、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い日谷から現在の場所へと移転し、伽籃の整備が進められました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護受けて栄え、宝永3年(1706)には皇室勅願所とにもなっています。

いよいよ出発します。最初に訪れた所は、高生寺。

日蓮宗の寺院で、創建は寛文3年(1663)。
建長5年(1253)3月、立教開宗宣言のため清澄山の山頂で行うため、両親にお別れをしましたが、親を想う心は強く、山道にさしかかると足が前へ進まなくなりました。再び両親の顔を見ることができるであろうかと見返り合掌し、口の中でお題目を何回も唱えたそうです。この事から両親見送りの跡を、後世に残すためもの地に建立されました。元は、寄浦の朝日山にある「朝日堂」でした。

境内には、日蓮の銅像があります。

高さ約1.8m、重さ百貫(375㎏)、寛延3年(1750)に造られたもので、聖人の立像としては日本最古といいます。2020年には、塗り直し(修復)が行われ、綺麗な像になっています。

次は、西蓮寺へ。

天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。創建は天安2円(858)、天台宗高僧円仁(慈覚大師)によると伝えられています。境内の薬師堂の本尊は薬師如来坐像は、円仁の作と伝えられ、開創のときから秘仏とされ、かつては60年に一度の開帳でしたが、現在は、12年に1度、寅年の初薬師法要の際に開帳されます。
戦国時代の天正年間(1573~1582)、里見氏と北条氏の戦乱の際、里見氏の家臣正木憲時の陣屋が設けられ、薬師堂のみ残して焼失してしまい、江戸時代に入り、鐘楼・客殿等を再建しました。
西蓮寺は、日蓮が清澄寺で修行をする前の幼少期、師匠・道善房と共に12年間過ごした霊跡でもあり、日蓮の乳母・雪女(ゆきめ)の墓も現存しています。


雪女は、当地の有力者の娘といわれています。道善房はこの娘にお給料を払って善日麿(日蓮)の乳母としました。雪女は、大変な教養の持ち主で、善日麿に対して厳しいしつけと教育をしたそうです。日蓮が清澄へ上がることができたのは雪女の負うところが大きいのではないかと言われています。田舎の漁師の子供が地元の名刹である清澄寺へ勉学に上がるなど、並大抵のことではなかったからです。雪女は、善日麿が12歳の時に病床に伏し、帰らぬ人となってしまいました。善日麿は痛く悲しみ、墓前に一本の桜の苗を植えて「乳母桜」と名付け、また追善供養の為に、ご自身の勉学姿を手彫りし、西蓮寺薬師如来の御宝前に奉安したそうです。

日蓮は本当は高貴な方の御落胤ではないかという説があります。日蓮が生まれる前年に「承久の乱」が起こりました。その事変によって「後藤羽上皇」はじめ、多くの貴族が島流しにされてしまいました。西蓮寺は天台宗のお寺ですが、代々その住職は、誕生寺で行われる宗祖御降誕会などの大きな法会に、必ず来賓として呼ばれ、上座に参列されている習慣が今も残されています。
西蓮寺には興味深い伝承が残されています。「ある日、早朝、御堂の裏で赤子の泣き声が聞こえてくるので、何かと思い声のする方へ行ってみれば、ただならぬ気高さを備えた赤子がそこに捨てられていた」という話です。その時に赤子を包んでいた豪華なおくるみは「錦の茵(にしきのしとね)」と呼ばれ、今なお西蓮寺宝物として大切にされています。しかも西蓮寺史によれば、その当時の住職とは、何と後に日蓮の師となる「道善房」であったと伝えられています。伝えによれば、道善房の前身は天皇に仕える「北面の武士」であったと言われていて、出家の後にさる所願あって全国行脚に出て、日蓮誕生の数年間に西蓮寺を訪れ、そのまま住職として小湊の地に定住したとされています。
西蓮寺は天台宗のお寺ですが、不思議なことに代々その住職は、誕生寺で行われる宗祖御降誕会などの大きな法会に、必ず来賓として呼ばれ、上座に参列されている習慣が今も残されています。

境内には、鴨川石造物百選の馬頭観音があります。

武田石翁の作で、台座部分に「壽秀」という刻銘があります。三面六臂の像で彩色がされています。「壽秀」銘の作品は、安房地域には、3例のみだそうです。石翁の作の馬頭観音も現在のところ本像のほかに1例が知られています。

次は、吾妻神社へ。

祭神は橘姫命。神社の言い伝えによれば、日本武命(やまとかけるのみこと)が天皇から東国の征伐を命じられ、相模(現神奈川県)の浜から走水の海(浦賀水道)を渡り房総半島に行こうとしたとき、海の神に妨害され、船が進まなくなった。このとき、タケルの妃(きさき)タチバナヒメは海中に身を投じて海の神の怒りを鎮め、船を進ませました。タケルは無事に房総に上陸し、東征(とうせい)の役目を果たすことができました。その後タチバナヒメの遺体が当所に流れ着いたので、住民は手厚く葬ったといいます。タケルも東征の帰路当地に立ち寄り、ヒメを追慕(ういぼ)し社殿を建て笄(こうがい(かんざし))1個、鏡八面を神宝(じんぽう)として納めたと伝えられています。現在の社殿は延享3年(1746)に修築したといいます。
大正6年(1917)にまとめられた「湊村誌」には、神社に仕える人が数人おり、朝な夕な社務を執っていた。朝に勤務する社人の居所するところを開戸(かいと)(貝戸)と称し、暮れに勤務する社人の居所するところを合戸と称した。今、神社付近にその地名が存在する。江戸時代の前期に社人に代わって天台宗西蓮寺が、吾妻神社に別当となって明治維新を迎えるまで、同社を管理した。
この神社の参道は、線路が通っており、参拝に行く時は、気を付けて線路を渡って下さい。

次は、若宮神社。

祭神は、大雀命・天照大神の二神。創建年代は不詳ですが、徳川時代初期に西国から漁労のために来房し土着した人々が、大雀命を奉祀し創建したと言われています。

次は、いよいよ誕生寺へ。

日蓮宗の大本山。
日蓮の誕生と母梅菊女の蘇生延寿を祈念して、弟子の寂日房日家上人が建治2年(1276)に日蓮の誕生地とされる、現在の蓮華が渕に寺院を建立し、日蓮を開山に定め、日家を二世としました。創建から222年後の明応7年(1498)8月、東海沖を震源とする巨大地震が発生し、大津波による甚大な被害を受け、蓮華が渕の日蓮誕生寺の諸堂の多くも壊滅的打撃を受けました。そこで、寺地を妙の浦の丘に移し、堂宇を再建しました。戦国時代末期の天正8年(1580)には、勝浦城主正木頼忠の保護を受け、寺領の寄進を受けています。寛文5年(1665)12月に徳川幕府の慈悲により寺領70石を拝領しました。
元禄16年(1703)11月、房総沖を震源とする巨大地震(元禄地震)で、大津波に見舞われ、誕生寺の諸堂宇は倒壊流出し、寺地は海中に沈んだといいます。誕生寺は、早速再建に取り掛かり、新しく山あいの現在地を寺地に選び、多くの信徒から寄せられた浄財や水戸徳川氏などの炎上によって、ようやく再建となりましたが、宝暦8年(1758)の大火によって誕生寺の伽籃は仁王門を除いて、ほとんどが焼失しました。その後、寺の復興は順次進められましたが、祖師堂の再建には、莫大な費用を要するところから、とりあえず仮祖師堂を建立されたといいます。弘化3年(1846)3月に完成した祖師堂は、総欅造り雨落ち18間(32m)四面、高さ95尺(約28.5m)。堂内に52本の欅の柱と用材は江戸城改築用として伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難した物を譲りうけたmものです。平成3年、聖人像を修理する為、解体したところ、胎内より今から600数十年前の造立を記す貞治2年(1363)4代日静上人筆の古文書と薬草が発見されました。古文書には、「生身の祖師」の名と祖師誕生の時と所が記されていました。
明治期の皇族・宮家と、関係の深い寺院で、明治23年(1890)に有栖川宮家の御霊屋である龍王殿が、境内の一面に完成しています。翌明治24年(1892)には、宮中の女官方が有栖川宮家の名代として誕生に参詣しています。祖師堂の正面向拝の両脇に、大きな天水桶が据えられています。これは、明治25年(1892)に柳原愛子・園祥子ら6人の宮中の女官が寄進したものです。

仁王門は、千葉県指定有形文化財です。平成9年3月21日に指定されました。
宝永3年(1706)に建立されたもので、仁王門は5間3戸の楼閣門で、下層に和様三手先、上層に唐様三手先の組物を持ち、本蟇股の中備としています。いくつかの装飾の中でも、楼上に見える般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられています。いく度かの修復を経て、部分的な改変はあるものの全体として創建当時の様子をとどめていて、県内では最大規模の仁王門です。仁王像は享保15年(1730)松崎右京作で、昭和50年(1975)松久朋琳師により修復されました。

誕生寺には、鴨川石造物百選があります。
先ずは、井筒。

井筒とは、井戸の地上部分を囲ったものです。この井筒は、日蓮聖人が誕生した際に産湯に用いられたと伝えられる誕生水の井戸の上部を囲っています。寛永18年(1675)に造られた物で、1辺が1m27㎝の正方形で、高さは53㎝ですが、最近造られた囲みに埋められた部分えお含めると75.5㎝あり、厚みは20cmもありかなり大きなものです。複数の石材を組み合わせているのではなく、1個の石材をくり貫いて造られたものです。
誕生水は、日蓮聖人が産声を上げた貞応元年(1222)2月16日午刻。不思議なことに生家の辺りで清水が湧き出しました。家人は、早速清水を汲んで産湯に使いました。こんこんと湧き出る水は、どのような日照りにもかれることがなかったといいます。その後、明応・元禄と二度の地震・津波によって、海底に沈んでしまいましたが、調査により海中に有り、今現在も清水がわいていることがわかっています。現在地に再建されましたが、不思議にも新たに清水が湧き出しました。そこで旧地を偲んで名を襲い、日蓮聖人誕生の奇瑞を伝えています。

日待塔。

日天子を奉斎するもので、元禄5年(1692)に小湊日待講中が建立したものです。日待ちとは、夜明かしをして籠り日の出を待つ行事をいいます。日蓮聖人は、日天子について「法華経の行者あれば心に歓喜し、行者をにくむ国あれば天眼をいからして其国をにらむ給ふ」と、法華経信者を守護する善神であることを明らかにし、曼荼羅本尊にも「大日天王」として勧請しました。日蓮宗では三光天子を仏教の守護神として信仰しています。

他にも、手水石や題目塔・三重層塔があります。

まだまだ、誕生寺のお話しはありますが、誕生寺だけになってしまいますので、この辺にしておきます。もっと知りたいかたは、誕生寺の宝物館に「小湊山史の散策」が販売していますので、是非、ご購入下さい。

次は、小湊神社へ。

祭神は天照大神。小湊字祓山に所在。創立年は不詳。古来、社地を神明山と称し、小湊村の氏神でした。
現在は誕生寺から独立していますが、本来は誕生寺を守護する神である神であると伝えられ、法華経の守護神三十番神にちなんで、通称を番神社ともいいます。
三十番神は、1ヶ月30日の間、毎日交替の当番で国家や法華級の信仰者を守護する、日本国中に祀られている神々のことです。社殿には、この三十番神の神像が一つの厨子に安置され、毎月1日や祭礼に誕生寺の役僧が祖師堂で読経し、その後、社殿に出向いて、「海上安全」「大漁満足」の祈願を込めて読経しています。
旧社殿は、天明は天明3年(1783)3月に再建されたものですが、大正14年(1925)3月の火災で焼失してしまい、昭和2年(1927)に社殿を再建しました。

次は、妙蓮寺へ。
妙蓮寺参道入口付近に道標(鴨川の石造物百選)があります。

この道標は、妙蓮寺への道筋を案内するため、天保12年(1842)に建てられてものです。一般的な道標とは違う感じですが、道標としての内容を満たしています。

妙蓮寺です。

日蓮宗の寺院で、日蓮聖人の両親のご廟所です。ご廟所ということで「両親閣」として広く知られています。誕生寺末寺で筆頭の格式を持つ寺として江戸時代には誕生寺の代理を務め、住職がしばしば江戸城に登城したという由緒ある寺院です。
日蓮聖人の乳は、貫名次郎重忠、母は梅菊といいます。建長5年(1253)立教開宗した日蓮は、第一に父母を教化し、父に「妙日」、母に「妙蓮」という法名を与えました。父は正嘉2年(1258)2月14日、母は文永4年(1267)8月15日に亡くなり、この地に葬られました。
開山の日静上人は誕生寺を引退ののち、この地に異常し、御尊母の蘇生祈願の、御本尊を掛けられた御霊木を材とし、宗祖ならびにご両親の御尊像を刻まれました。この御像は、天拝感応の祖師として古来より尊崇され、又、蘇生の妙符は不思議の奇蹟を現し、今も参詣の人が絶えないそうです。

墓地には、沼野玄昌の碑文があります。

沼野玄昌は、天保7年(1836)、旗本万年差十郎の次男として江戸に生まれました。嘉永元年(1848)に母の実家である小湊村の沼野家の養子となりました。沼野家は代々医業を家業とし、第16代目玄昌を名乗ることになりました。安政2年(1856)、西洋医学を学ぶため、佐倉の順天堂に入門し、医学を徹底して学び、元治元年(1864)10月に小湊に帰りました。その後、慶応3年(1867)に江戸の医学所で種痘法を学んでいます。明治9年(1876)、漢方医を主な対象にした医学講習会が全国で開催され、玄昌は講師の一人として加わり、解剖学の説明に自宅近くの墓地から掘り出されたといわれる人骨を用いました。このため、前原警察署に留置され、千葉裁判所に送られましたが、医学上の解剖に関する法律が未整備だったことと、玄昌の医学への熱意をくみ取り、不問にしました。
明治10年に長崎に上陸したコレラは、西南戦争の帰還兵とともに全国に広がったといわれ、千葉県では年末までに627人の患者を出し、346人が死亡しました。同年9月には貝渚村でコレラが発生し、前原町・横渚村へと広がりました。玄昌は、公立千葉病院(現千葉大学医学部付属病院)の「御雇医」として、死者の仮想や井戸の消毒等を行っていました。玄昌は自ら薬を含んで、衰弱した患者の口に移したり、病気を恐れて誰も手を出そうとしない患者を背負て運んだと言われています。
同じ年11月21日、貝渚にある旅宿の宿泊者がコレラとわかり、玄昌と巡査が旅宿を訪れました。コレラは死亡率が高く、住民たちはコレラの恐怖心が高まっていました。玄昌が金もうけのために井戸に毒を入れたり、高価な生き肝を患者から切り取るという噂が広がりました。旅宿に玄昌がいると知ると、殺気だった住民たちは、棒や鎌で玄昌を襲いました。玄昌はその場を逃れましたが、住民たちは鐘を鳴らして仲間を加茂川河川の権現橋や河原に集めました。玄昌は加茂川を渡り小湊へ逃げようとしましたが果たせず、遺体は今の汐留公園あたりに流れ着いたそうです。遺体は頭骨に達する傷が数か所と全身打撲を負っていました。このとき玄昌42歳でした。
汐留公園には昭和53年(1978)に鴨川市長や小湊町長らによる「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」が建立されました。

現在は、全世界的に新型コロナウィルスが猛威を振るっている中で、色々な情報が新聞やTV・インターネットで情報を得る事ができますが、昔は、なかなか情報を得るのは難しかったんだと・・・今も、ネットでは間違った噂とかも流れていますが、この時代の間違った噂で、沼野玄昌は殺されてしまいました。なんだか考えさせられる話だなぁ~なんて思ってしましました。沼野玄昌を殺しちゃった住民たちは、どなったのかな?なんて疑問も残りますね。

次は、八雲神社へ。

祭神は、素戔嗚命。通称「市川の天正宮」。もと釈迦の仏殿である祇園精舎の守護神牛頭天王を祀る天王宮と呼ばれていましたが、明治初年の神仏分離令によって素戔嗚命を祭神とする八雲神社に改められました。「覚帳」によれば、守護牛頭天王の尊像は、源頼朝が祇園社(八坂神社)の分霊を勧請し、源家再興のため品々を添え、滝口兵庫を宮守として市川の地に安置したものです。それから歳月が流れて天正のころ(1573~1590)、里見太郎義頼公が、源頼朝ゆかりの神社であることを耳にして参詣した。社殿が傷んでいるのを見て本殿と拝殿を再建しました。江戸時代の正徳年間(1711~1715)に幕府代官樋口又兵衛家次配下の大橋勝太夫・中川平左衛門の両人が、検分に訪れ、牛頭天王像の素晴らしさを賞賛し、大切に管理し信仰するように言われました。安政5年正月の火災によって本殿が類焼。総代人はいち早く駆け付け、尊像を持ち出し、人々を呼び集めて神輿を運び出しました。

最後は、日蓮の父、貫名次郎重忠公漂着の地へ。

昭和46年(1971)建立の石柱に、建仁3年(1203)に北条時政により当時へ流されたが、代官滝口兵庫朝家が世話をしたと書かれています。
民家の敷地にあるので、見過ごしてしまう可能性があります。

さて、出発地へともどり終了です。

最後に誕生寺周辺に残る3つの不思議を紹介します。
①妙の浦の鯛。
深い海を回遊している鯛が浅い所に住みついていることで国の特別天然記念物に指定されています(昭和42年)
日蓮誕生の時、鯛が水面を飛び跳ね舞い踊ったと伝えられています。その時より、地元では800年に渡り、日蓮のお使いとして殺生禁断、大切に保護、餌付けされて来ています。
エピソードがあります。
殺生禁断とされた妙の浦の鯛ですが、近年、世の中の考え方も変わりはじめ、鯛は鯛、魚だろうと初めて食べた人が居ます。その人は、「やめた方がいい」という家族の制止を振り切り食べ、しばらくすると体調に異変が現れ、苦しそうにのたうちまわり、その姿はまるで鯛が陸に上げられ、跳ねているようであったことから、鯛の浦の鯛を食べた罰であるのではと、日頃信仰していた尼さんに相談したところ、誕生寺のお坊さんに御祈祷してもらう事になりました。程なく体調が戻り、事なきを得たそうです。
これ以降、死んで浜に打ち上げられた鯛や網にかかって死んだ鯛も鯛の浦遊覧船協業組合の冷凍庫に大事に保管され、丁重に供養・火葬の後、誕生寺境内の鯛の墓へ納骨され、きちんと供養しているそうです。毎月6日は鯛供養の日として、鯛の浦遊覧船協業組合により鯛の供養と、海上安全の祈願が行われています。

②五色の砂
砂に夜露が降り水滴となった所に朝日が当たると乱反射して、とてもきれいに見える事から、五色の砂と呼ばれています。お盆の頃、ご先祖様の眠るお墓の清掃が終わった時に、お清めとして撒き敷く習慣があります。お題目を唱え日蓮とご先祖への感謝、そして家内安全、家門永昌を願っています。蓮華ケ淵の日蓮大聖人誕生三奇瑞の蓮華が咲いたと言われる所の周辺の砂を、むやみに取らないようにしているそうです。
エピソードでは、モルタルに鮑やサザエの貝殻を砕いて混ぜるて塗ると螺鈿細工の様になる工法があります。綺麗だからと、この蓮華ケ淵から流れついた五色の砂を使った人がいました。家を新築した際に、モルタルの外壁の仕上げに、五色の砂を混ぜて化粧仕上げにしました。完成間もなく、家は火災となり、五色の砂を塗った壁も家もすっかりきれいに燃えて無くなってしまったそうです。これは罰であると、神聖な五色の砂は個人の為に使ってはいけないとあらためて戒めになったそうです。

③誕生水
日蓮誕生の時に、産湯として使われた清水(湧水)があります。その場所は、明応・元禄と2度の地震により水没してしまいましたが、調査により海中に有り、今現在も清水(真水)が湧いていることがわかっています。同じ水脈の井戸を総門脇に作り、誕生水として大切に守っています。

日蓮について調べてみると色々と面白いなぁ~と思ってしまいます。宗教の関係もあって、敬遠されてしまうかもしれませんが、安房偉人の日蓮につては、宗教関係なく調べてみるのも良いかと思います。

お散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」報告

ご無沙汰しております。なんだか、時がたつのが早くて・・・
新型コロナウィルスの感染が止まらない状況です。館山・南房総でも、7月の終わりから感染者の人数が増えてきていています。夏のイベントのウミホタル観察会も、千葉県の緊急事態宣言発令に伴い、他県への往来自粛要請が出ていることに考慮して、千葉県以外の方には、ご遠慮をいただく事になりました。楽しみにしていた方もいらっしゃると思いますが、とにもかくにも、感染者の減少を優先する事になりました。館山・南房総地域は、高齢者も多くいて、ワクチン接種も進んでいるのですが、デルタ株が接種しても感染する可能性があるので、苦渋の選択でした。
早く、感染の拡大が治まる事を願っています。

さて、大変遅くなりましたが、7月のお散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」を開催しましたので、報告します。
集合場所は、館山コミュニティセンターの駐車場です。
最初に訪れた場所は、天神山へ。

天神様を祀ってある岩山を天神山といいます。山の上には、自警団が使っていた半鐘があります。これは大網大巖院の常念仏堂にあった鐘で、元禄13年(1700)のものです。昭和17年(1942)の戦時中に金属供出からまぬがれるため、安布里の自警団が使用していた半鐘を供出し、代わりにこの鐘を自警団で使用することになり残されました。

次は、蓮幸寺へ。

日蓮宗の寺院で、興光山蓮幸寺といい、文明元年(1469)創建といいます。墓地の入口に中世の五輪塔の笠石や宝篋印塔の笠石があります。江戸時代はじめの宝篋印塔があり、里見家臣の田山左衛門介正常の墓と伝えられているものがあります。
門前には館山の大正・昭和期の俳人佐藤光雲の句碑があります。

境内には、日蓮宗の守護神を祀る七面大天女堂があり、周辺には、古墳時代の横穴墓が5基確認できます。

次は、舎那院へ

真言宗の寺院。本堂より高いところにお大日様と呼ばれる磨崖の大仏があります。


磨崖仏です。凝灰質砂岩に、高さ196㎝、膝張150㎝の如来形の坐像が彫られています。天保年間の火災で文書が焼失してしまい、磨崖仏も風雨にさらされもとの姿がわかりにくいので詳細は不明ですが、伝承によると、この磨崖仏は室町時代以前に作られたとされています。
この磨崖仏を地元の人は「お大日様」と呼んでいて、毎月27日にお年寄りの人たちが食べ物を持ち寄って、お堂でお篭りを行っていたそうです。
昔は、磨崖仏を覆うお堂が建てられていたそうです。江戸時代末期に館山湾の漁船が東の山から赤い光が立ち昇るのを見て、占者がこの山の上にある仏が風霜にさらされているためと指摘し、驚き怖れた土地の人たちが、広さ六畳ほどの瓦葺のお堂を建てたそうです。大正12年の震災で倒壊するまでは、高床式で扉がついた大きなお堂がだったそうです。
お大日さまは、前面にある穴に大豆を投げて、穴に大豆が入ると子ども授かるという信仰や、病気になった人がいるときは7人がお堂にこもって祈願をすると病気が治るという信仰など、様々な信仰を集めていました。

すごく趣のある場所です。

次は、大網砲台(大日山高角砲台)跡へ。

太平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲台などがおかれていて、いまも凹地の塹壕などが残されています。周辺には、弾薬や食料などの物資貯蔵用の壕が掘られ、なかには壕の正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えなくしたものがあります。軍事資料では、大網砲台と書かれていますが、大巌院慰霊碑には大日山と刻まれています。

次は、小原家へ少し寄り道

国登録有形文化財の小原家の門の所までお邪魔しました。
小原家は代々農業を営んでいました。7代目小原金治さんは政治家・実業家としての道を歩み、県会議員や衆議院議員を務めたほか房総遠洋漁業(株)や安房銀行の経営にも携わっていました。主屋の主体部は明治29年に、離れは昭和4年に、いずれも金治さんが建築しました。主屋は寄棟造でげやびしを廻らし玄関を付す主体部の西に台所部や土間部を接続しています。土間部は安政6年(1859)頃に三代目小原金兵衛が建築し、明治29年に建築された主体部は6間取で、奥座敷は床の間の両側に床脇を設けた豪壮な意匠。台所部は昭和前期の増築です。近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れの内部が座敷と茶室からなり、座敷には床脇の円窓など独自の意匠が見られる良質な建物です。主屋の西には米蔵、文庫蔵、敷地南には旧長屋門が建っています。

次は、観音寺へ。

真言宗の寺院で、南養山観音寺といいます。境内に入ってすぐ左手にある石造の地蔵尊は、高村光雲の弟子で館山楠見の石彫家俵光石の作品です。明治33年(1900)の作で、台座に地獄極楽の図が刻まれています。
門柱にはモダンなガス灯があります。

次は、日枝神社へ。

下真倉の鎮守で、むかしは山王権現と呼ばれていました。社殿のなかには万里小路通房が明治30年(1897)に書いた「本宮」の額、大正4年(1915)の鏡ケ浦時の絵馬などがあります。

最後の見学場所、大巌院へ。

浄土宗の寺院で、仏法山大網寺大巌院というのが正式名所です。本尊は木造阿弥陀如来坐像で館山市指定文化財です。開山は雄誉霊巖上人で、慶長8年(1603)に安房国主里見氏9代義康の帰依により、大網一村を寺地として与えられ、大巌院を創建しました。江戸時代、大巌院は42石の寺領を有し、末寺22ケ寺を擁し、安房における浄土宗の触頭でした。当初の本堂は雄誉上人が建て、現在の本堂は安永元年(1772)に第8世到誉俊察上人の代に茅葺で本堂を再建したことが棟札から分かります。昭和39年に本堂を改築して茅葺を瓦葺にしました。
現在の本堂の窓には、来迎図や蓮華浄土図がステンドグラスで描かれています。

山門の側には四面石塔があります。(千葉県指定有形文化財)

元和10年(1624)に建立した、総高2.19m、玄武岩で作られている四面石塔です。4面すべてに刻字されていることから四面石塔と呼ばれています。四面石塔は県内でも類例が少なく、なかでもこの石塔は、四面に「南無阿弥陀仏」の6字を、日本漢字・印度梵字・中国篆字、ハングルの4か国語で刻んでいるのが特色です。

境内には、雄誉上人墓(館山市指定史跡)があります。

天文23年(1554)に駿河国沼津で今川一族の沼津土佐守氏勝の三男として誕生しました。11歳で浄運寺(沼津市)で出家し、15歳で大巌寺(千葉市)に入寺し修行を重ね、天正15年(1587)大巌寺三世住職となりました。天正18年に故あって大巌寺を辞し東海道方面に旅立ち南都に霊巖寺(現在の奈良市霊巖院)などを開創しました。その頃、伏見城に滞在していた徳川家康より大巌寺再住を命じられ、文禄2年(1593)に大巌寺へ戻り、五井領主松平家信の援助を得て堂宇の改築をしました。慶長8年(1603)再び大巌寺を辞し、伊豆大島、安房を巡教し、安房国主里見義康の帰依により大巌院を創建しました。慶長18年内藤政長の請いにより佐貫(富津市)善昌寺に転住しました。寛永元年(1624)隅田川河口の沼地を埋め立てて霊岸島(東京都中央区)を築き、霊巖寺を創建しました。寛永6年将軍徳川家光の命により総本山知恩院32世となりますが、同10年知恩院が火災に遭うと、家光から諸堂再建を命じられました。寛永13年に大洪鐘を鋳造しますが、これが除夜の鐘で中継される大鐘です。寛永18年(1641)諸堂造営が成就すると、御礼のため江戸へ下向し、江戸城で法談を行いましたが、9月1日江戸霊巖寺で88年の生涯を閉じました。

大網砲台の所で説明しました、大巌院の慰霊碑です。

下の部分に亡くなられた方の場所とか書かれていて、なんだか読むと切なくなってしまいます。

あとは、出発地点に戻ります。
7月ともあって、暑く蒸し暑い日でしたが、無事に出発地点へと戻る事ができました。この時期のウォーキングは、厳しくなってきます。なので、8月はウォーキングをお休みして9月からになります。しかし・・・緊急事態宣言が延長になった場合、どうするか悩み中です。館山・南房総エリアの感染者が少なくなっていたら開催する予定です。
今年も、我慢の夏になりました。早く、終息して楽しく夏を過ごしたものですね。

月イチツアー「田原地区散策」報告

6月も終わりですね。1年の半分が過ぎようとしています。
館山・南房総は梅雨入りしていて、梅雨らしい天気になっています。最近では、メガマウスが館山に現れたり、東京湾にシャチが現れたり、珍しい現象が起きています。海の中で、なにか起きていないか心配になります。

さて、6月の月イチツアー「田原地区散策」を開催しましたので、報告します。
出発地はJA虹のホール鴨川の駐車場をお借りして出発です。
先ずは、前にも行きました田原交差点付近にある道標へ。

鴨川市の石造物百選に選ばれた道標です。兜巾型の道標で、塔身正面の上部に、舟形の龕の中に如意輪観音が刻まれています。下部には「西大山道」と大山寺への道筋が示されています。左右に紀年銘がありますが、年号の最初の部分がわからないですが、文政か安政で、像容や形態からみると文政4年(1821)に造られた物かと思われます。むかって右側面には「右いそむら前はら道」、左側面は「左清すみ天津道」とあり、磯村・前原それに清すみ天津の現在地名が刻まれています。

次は、愛宕神社へ

祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・建御名方命(たけみなかたのみこと)・保食神(うけもちのみかみ)など八柱の神が合祀されています。これは、明治末年の政府の神社合祀政策によって、明治44年(1911)に周辺の無格社の神社を合祀しました。祭神のカグツチは火の神。ウケモチは穀物の神です。
愛宕信仰は、京都の右京区に鎮座する愛宕神社を中心とする信仰で、火伏の神・防火の神として信仰されました。また、仏が多くの人々を迷いの世界から救うために神の姿となって現れるとする本地垂迹説によって、愛宕神社の本地仏は勝軍(将軍)地蔵とされてので、軍神として武士の信仰を集めたといいます。勝軍(将軍)地蔵の由来は、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って、鎧・兜を身に着けた軍馬にまたがる地蔵菩薩を造ったことによると伝えられています。
ここ愛宕神社の字名は、将軍といいます。勝軍地蔵にちなんだものと思われています。


向拝の彫刻は4代伊八(信明)の作品です。

境内には、忠魂碑や日露戦争記念碑などがあります。

次は西福寺へ。
曹洞宗の寺院で、鴨川市宮山の長安寺の末寺です。本尊は阿弥陀如来。
由緒は不明ですが、寺院明細帳によりますと、永禄2年(1559)に長安寺五世の続翁禅師が創建したとあります。里見時代には四石の寺領が寄進されました。
本堂の欄間には、「波に竜」と「七福神」の彫刻があり、波の伊八(武志伊八郎信由)の作です。安永6年(1777)、信由26歳の時に弟子の磯八と共に彫上げた作品です。彫刻は、昭和52年(1977)に鴨川市の文化財に指定されました。
いつも開いてないのですが、修繕の関係で開いていたので、中を見せていただきました。

明治7年(1874)に竹平村・押切村・京田村・池田村・坂東村を一学区として竹平小学校が開設されたとき、西福寺が仮校舎として使用されました。明治末にアララギ派の歌人・古泉千樫が隣接する小学校の教師をし、一時寄宿していたお寺でもあります。

境内には、宝篋印塔があります。年代は不明ですが、世話人 伊八という文字があります。彫刻が伊八なので、波の伊八?と思ってしまいますが、波の伊八の可能性は低いとの事でした。通常、住んでいる所の場所の村名が銘記されますが、なにもないので、ここの村の人の可能性が高いそうです。伊八の生まれた打墨村には、4~5人位、伊八という名の人がいたそうです。

次は、地蔵院へ向かいますが、途中、愛宕神社に合祀された八雲神社を道からみます。

祭神は素戔嗚命。明治44年(1911)4月に合祀されました。向拝の彫刻は、千倉町後藤作とあります。民家の敷地を通って行くので、今回は、遠くから見学です。

次は地蔵院へ。

曹洞宗の陣で、西福寺と同じ長安寺の末寺です。本尊は地蔵菩薩。お寺の由緒は不明です。
地蔵信仰は、釈迦入滅の後、弥勒菩薩が現れるまでの間、人々を救済するという地蔵菩薩への信仰です。平安時代から人々に支持され、とくに子供を守護するため、しばしば童身になって現れると考えられ、民間信仰として広がりました。

次は勝蔵院へ。

真言宗智山派の寺院で、川代の勝福寺の末寺です。本尊は延命地蔵菩薩。
創立年は不詳ですが、寺伝によれば、天正年間(1573~1591)に里見氏から寺領一石の寄進をうけたといいます。このことから、天正年間以前に創立した寺院と考えられます。その後衰微したので、慶長19年(1614)に成円という僧侶が中興開山して第一世になりました。元和2年(1616)に江戸幕府から改めて一石の寺領を安堵されました。
向拝の龍の彫刻は、後藤喜三郎橘義信 翁68で、大正3年7月です。

次は、楞厳寺へ。

真言宗の寺院で、本尊は不動明王。
創建は寛弘年間(1004~1011)ですが、再三火災に遭い年月などは分かりません。本尊の不動明王は、平安時代中期に天台宗の学僧として名をのこした名僧源信(恵心僧都)の作と言われています。境内の不動堂に安置されている不動仏は、奈良時代の高僧・良弁の作と伝えられています。
本堂欄間の「十六羅漢像」は、四代武志伊八郎信明が明治38年(1905)に作成したものです。「十六羅漢」とは、仏語で仏の命を受け、ながくこの世にとどまって、正しい教えを守護する16日の聖者のことです。お釈迦様の弟子で徳に優れた代表的な16人の弟子です。
因みに、五百羅漢は、初めて経典編集に集まった弟子たちで、いずれもお釈迦様の教えを後世に伝える大切な役割を担っています。昔からたくさんある羅漢さまを一体一体ゆっくり眺めていくと、必ず自分の親やしっている人によく似たものが見つかると言われています。

最後の見学場所の御嶽神社へ。

祭神は大己貴神(おおたむちのかみ)。オオナムチは神話に登場する大国主神の別名です。創建年や由緒は不明です。
御嶽信仰は、聖なる山とされた木曾の御嶽に対する信仰で、近世以降に御嶽講が各地に結成され、富士山とともに庶民の信仰を集めたといいます。
社殿裏には、湯殿山供養塔があります。

舟光背型の石材に、金剛界大日如来の坐像が浮彫りされています。上の部分には、胎蔵界の大日如来を示す梵字アークンが彫られ、その下には湯殿山供養塔と像脇には、享保13年(1728)の紀年があります。高さは105㎝、横52㎝、奥行き24㎝です。鴨川の石仏百選に選ばれています。

後は、出発地点へと戻りますが、コラボ企画としてJA虹のホール鴨川で説明会です。

会社の説明や葬儀についてなどのお話しを聞きました。エンディングノートなども貰いまして・・・
個人的な感想ですが、葬儀って急な事なのでどうしたらいいのかわからない状況になるのでパンフレットを貰えてよかったです。

段々と暑くなってきています。マスクを着けて、暑い時期に歩くのはかなり厳しいです。新型コロナウィルスの対策と熱中症の対策をしないといけません。みなさんも気を付けて下さい。

7月は、7日(水)お散歩ツアー「祈りの里・大網村の歴史を訪ねる」を開催します。その後は、9月までウォーキングはありませんが、ウミホタル観察会を開催します。HPのイベント案内をご覧いただき、お申込み下さい。