お散歩ツアー「白蛇伝説と蛇喰集落散策」報告

10月も後半になりました。今年も残すところ2か月ちょっとです。
なんだかあっと言う間に、今年も終わりです。
また旅倶楽部では、来年度のコースを考えています。なにか良いコースありますかねぇ~。
あまり険しいコースはダメなんですけどね。お話ししながら笑いながら歩けるコースで、ちょっと
疲れた感のコースがあればメールにて教えて下さい。←わがままですね。

今回は、10月のお散歩ツアー「白蛇伝説と蛇喰(じゃばみ)集落散策」開催いたしました。
長雨になる前に開催したので、当日は晴天に恵まれ、とても良い半日になりました。
集合場所は、南房総市平久里中にあります平群天神社です。ここから、スタートします。

祭神は、藤原道真公、木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)天照大日霎貴命(あまてらす
おおひるめのむちのみこと)、建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
文和2年(1353)室町時代、細川相模守が霊夢により京都北野天神をこの地に勧請しました。天正14年
(1588)里見義頼の命で大工飛騨守家助により本殿が改築され、貞享4年(1678)幣殿拝殿が改築され、さ
らに文化5年(1808)神照寺法印宥弘により再建され、明治6年(1873)郷社となりました。学問の神とし
て広く信仰され、通称天神様と呼ばれ親しまれています。


この狛犬は、武田石翁の作といわれています。神照寺の住職宥弘の時に氏子の寄進によって建立されました。

境内の奥には、安房国札観音霊場第14番、朝日山神照寺の観音堂があります。
ご詠歌は「朝日さす 夕日かがやく 神照寺 たのみをかくる 伊予のゆうだち」です。

創建された時期は不明ですが、天神社が勧請された時、その本地仏である十一面観音菩薩像が安置され、
隣接の神照寺が別当寺になったといいます。明治5年(1872)に廃寺となり、観音堂と十一面観音菩薩は
近くの泉龍寺の管理となりました。

観音堂の前には、光明真言供養塔があります。

天保14年(1843)に神照寺の住職宥弘が、天下泰平・国土安穏と五穀成就・万民豊楽を願って建てたも
のです。境内には、色々な碑が建てられています。

境内から参道に行くと大きなくすの木があります。

このくすの木は、夫婦くすの木といわれ、昭和39年(1964)に南房総市天然記念物に指定されました。
約千年前に住民が植えたものだと言い伝えられ、神社寄りのものは「男木」と呼ばれ幹周4.25m、樹高
25m、もう一本は「女木」と呼ばれ、幹周4.35m、樹高15mで、2本あわせて「夫婦クスノキ」と呼ば
れ御神木となっています。
このくすの木には、天狗の伝説が残されています。せっかくなので紹介します。
昔むかし、天神社の裏山に天狗が棲んでいて、夜な夜な人里に舞い降りては、米や鶏や野菜などを、手
当たりしだい盗み回りました。村人たちは困り、名主と相談してあることをしました。それは、大昔か
ら神社の境内などに生えている巨木には、不思議な力を持った霊が宿っているそうなので、天神社の参
道のクスでも良いだろうと注連飾りを結び、「村の暮らしが穏やかになるよう、天狗を追い出して下さ
い。」と、悪い天狗追放の願を懸けたのです。願懸けの効果はてきめんで、その次の夜から天狗は人里
に姿を現さなくなりました。それからしばらくしてですが、ある満月の夜、名主がクスの所にいきます
と、突然大きな音がして女木の注連飾りが切れ、根回りの一部が裂け、ぽっかり穴が空き、そこから天
狗の形をした白い雲が、天神社の方向へ流れて行ったのです。名主から話を聞いた村人たちは、「その
雲は天狗だ。クスが天狗を懲らしめるために、しばらく幹の中へ閉じ込めておいたんだっぺ」と噂をし
たそうです。いまも女木のクスには幹に大穴があいており、昔のように注連飾りが結ばれています。
(南房総市の昔話より)

次に向かったのは、泉龍寺です。

曹洞宗の寺院で山号を富士山。本尊は釈迦牟尼如来。創建は不詳ですが、元禄年間より以前といわれて
います。神照寺が廃寺になったとき、観音様とお堂の管理を引き継ぎました。

境内には、地蔵菩薩像があります。

優しいお顔の地蔵菩薩です。

いよいよ蛇喰(じゃばみ)集落へと旧道を通って向かいきます。
旧道からは、とても素晴らし眺めを楽しむ事ができました。

のどかな景色です。

蛇喰城跡です。

「房総の古城址めぐり」によると、里見義実が築いた城だといいます。
現在は、民家や田んぼ・畑となっているので耕作地化しているので、城跡といった遺構もわからない
状況となっています。

蛇喰集会所の場所でお題にもなっております、白蛇伝説のお話しを紹介。

平久里下区に「蛇喰(じゃばみ)」と呼ぶ集落があります。その蛇喰の中央にある小高い山の頂に、
むかし、お城がありまして、そこには、たいそう美しく、しかも、心優しいお姫様がおりました。
ある年の秋祭りのことですが、お城のお姫様が氏神様参りをしての帰り道、一匹の白蛇の無惨な死骸
に目をとめたのです。お姫様は、その白蛇の死を哀れみ、城内の高台に蛇塚を建てると、お寺の僧に
お経をあげてもらい、ねんごろに供養しました。そうしますと、お姫様の慈悲深い気持ちがつうじた
のか、お城のまわりにたくさんの蛇が棲みつき、お姫様を禍から守るようになったのです。
蛇喰の集落では、今も大小さまざまの蛇が野山はもちろん、農家の母屋や物置に棲みつき、冬でも暖
かい日には、田畑や路上や家の庭先で見ることができますが、不思議なことに、むかしから蛇に噛ま
れた者は、一人も無いというのです。それは、お城のお姫様に供養された白蛇の霊が、恩返しとして、
後の世の住人たちも守っているからです。(南房総市の昔話より)

民話に残る蛇塚は、ちょっと探す事はできませんでしたが、下見の時に会ったおじいちゃんは、違う
お話をしてました。おじいちゃんは、蛇喰地区に悪い事が起きていたので、安房神社にお参りに行き、
お願いをすると、その夜から蛇喰地区の家の各玄関先に蛇がとぐろを巻いていたそうです。蛇のおか
げで、蛇喰地区で悪い事が起きなくなったそうです。
どちらのお話しも蛇が悪い事を喰うという事で、蛇喰なんでしょうかねぇ~

次にむかったのは、竜泉寺です。
真言宗智山派の寺院で本尊は不動明王。創建は不詳ですが、開山は法印源海となっています。2世法
印頼宥が延宝元年(1673)に81歳で還化しているので、1600年代の開山と推定されます。
現在、本堂は建て替え中ですが、以前の本堂は、廃寺になった神照寺の本堂を明治14年に移築再建
したものでした。

参道から見上げた景色です。脇から道があり本堂へと行けるので、この階段はあまり使われてないん
のか、味がある階段です。

あとは、出発地点へと戻ります。
南房総市の平久里地域には、多くの民話が残されています。伊予ケ岳には天狗伝説などもあり、おも
しろいエリアでした。

10月の月イチツアー「信仰の里・佐久間を歩く」は台風21号接近の為、中止にしました。
来年度、このツアーは開催します。乞うご期待。

月イチツアー「幻の「皆倉」の滝と日本最古の「柱木牧」を訪ねる」報告

すっかりご無沙汰しております。
1ヶ月近く更新をしておりませんで・・・すみません。

今回は、9月の月イチツアー「幻の「皆倉」の滝と日本最古の「柱木牧」を訪ねる」の報告です。
お題が長すぎて、題名もうまく表示されるか心配ではありますが・・・

開催したのは9月10日(日)です。天気に恵まれ暑い位の日でした。当日、私は別件の仕事をして
いましたので、下見の時の記憶を辿って書こうと思います。
集合場所は、珠師ケ谷八幡神社です。そこから、車を移動させ、今回ご協力いただきました佐久間さん
のお家の近くまで行き、そこからウォーキングをスタートします。

スタートして少し歩くと、石仏があります。

なかなか素敵な馬頭観音様です。

大沢林道を途中まで行き、分岐点から珠師ケ谷線へと入っていきます。

少し急な坂道を上がって行くと、幻の滝「皆倉の滝」の場所につきます。
この滝は、皆倉堰から放水する時にだけ現れる滝で、普段は見る事ができませんが、今回は、珠師ケ谷
区の方のご厚意により堰をあけていただきました。
どんな時に見れるかというと、温石川の水量が不足して、珠師ケ谷から石堂の水田と和田三原の水田の
灌漑用に放水せれるときだけ見れるそうです。
下見の時はこんな感じでした。

当日は、こんな感じ。

来られた方は、皆さん感動していたそうです。ちなみに、この日は読売新聞の方も取材に来られてました。

滝から100mほど登ったところに、皆倉の旧集落の跡があります。

昭和30年から40年頃にかけて、ここから移転した住宅跡が残っています。
この場所から、山越えをして毎日石堂寺の小学校まで通ったという話を聞きましたが、ここまで上がって
来ただけでも大変なのに、まだ先まで行くなんて、想像しただけで登校拒否になりそうです。
お年寄りの人が元気なのは、子供の頃に足腰を鍛えてたからなんだなぁ~と思いました。

そこから、珠師ケ谷から和田町を結んだ古道を歩いていきます。こんなところなの?と思う所もあります
が、途中、古道だった面影のお地蔵様や馬頭観音が残されています。和田町から珠師ケ谷へと魚の行商が
通った道でもあります。

次に経塚山方面へと向かいます。(経塚山には登りません)
途中、4等三角点を見に行きます。

三角点は、明治初期から陸軍参謀本部の陸地測量部が設置し、以後、国土交通省が管理しています。
標柱の大きさは12cmで1等三角点は18cmになってるそうです。

ここから、柱木牧を通り大沢林道へと向かいます。

柱木牧は、平安時代(905年ころ)の文献に残っていて、8代将軍徳川吉宗のころから馬と白牛の
放牧地として明治43年まで、江戸幕府・明治政府により管理されていました。野馬土手、水飲み場、
馬捕り場などの遺構が残されています。
馬捕り場は、3区画に分かれており、下段が「追い込み場」、中段が「溜め込み場」、上段が「払い
込み場」となっています。追い込んだ馬を、溜め込み場で選別し、払い込み場から江戸幕府(武士用)
に送り出し、残りを農民に払い下げしたり再度牧に放牧したそうです。

牧を下り、大沢林道へ。

なかなか雰囲気がいいところです。
途中、大沢隧道があったりと・・・

この林道は、温石川の上流から沿って通っている道です。

温石川は2級河川です。温石というのは、暖を取るために懐に入れて温めた石のことで、その昔
この川がそうした石の産地であったため、温石川となったといいます。

温石川には、鉱泉が流れています。

石のまわりが白くなってるのが分かるかと思います。支流の所に、かつて珠師ケ谷区の人達が
鉱区を設定し、塩ビ管でドラム缶に集め、これを集落の人が利用していたそうです。今は利用し
なくなったそうです。
秘境温泉なんていうのが出来るかも?なんて考えたりなんかしちゃいました。

あとは、出発地点へと戻ります。
今回、お手伝いいただいた佐久間さんのお家の井戸は、茶色い水が出ていました。
やっぱり鉱泉の関係なんでしょうか、手を洗わせてもらったら手がスベスベになりました。

今回のコースは、健脚コースでしたが、皆さん元気に到着できました。下見の時には、
ハチに襲われたのでしたが、本番は大丈夫だったそうです。
ご協力いただいた皆様、ありがとうございます。良い1日が過ごせました。

9月のお散歩ツアーは、荒天の為中止となりました。

※お願いがあります。ガイドの独り言を見て訪れる方がいるようですが、山道に関しましては、
自己責任でお願いします。また、神社仏閣に関しましては、信仰の場ですのでルールを守って
お参りして下さい。よろしくお願いします。

「大人の学習旅行」報告

もう9月も後半になってしまいまた。この文章を書きはじめたのが、9月に入ってからで、
色々な事をやっていたら、安房地域の最大なお祭り「やわたんまち」が終わってしまい台風も
過ぎ去っていきました。被害に遭われた地域の方の、早くの復興を願うばかりです。

さて、また旅倶楽部では毎年恒例の「大人の学習旅行」を開催しました。
昨年度は空(機体工場見学)、その前が海(防衛大と横須賀港)ということで、今年度は
JAXA筑波宇宙センター(宇宙)にお邪魔してきました。一応、「大人の学習旅行」なの
でテーマを決めて企画してるんです。ってかっこいい事言ってますが、ただ行きたかったか
らなんですけどね。

当日は、館山を朝7時出発し、アクアラインから首都高速道路、常磐道で守谷SAで休憩して
JAXA筑波宇宙センターへと向かいます。目だった渋滞もなく予定していた時間よりも早く
無事に着きました。見学ツアーを予約しているので、時間に着かなかったらどうしよう・・・
なんて気が気ではありませんでした。

まずは、見学ツアー受付へと向かいます。

こちらで、身分証明書を出し身分確認です。なにも悪い事をしていないのですが、身分確認って
なんかドキドキします。

身分確認が済み、見学ツアー開始まで少し時間があったの、自由行動へ。んでもって私は、ミュージ
アムショップへと・・・

まだ見学もしていないのに、お土産なんかを選んでみたりしました。やっぱり宇宙食は一度食べて
みたいと思っていたので、たこやきとエビグラタンを買ってみました。

見学ツアースタート5分前には、決められた部屋にいないといけないので、トイレに入って移動です。
時間になると、スタッフの方の誘導で視聴覚室へと向かいます。
ここから、本当のツアーがスタートで、まずは紹介ビデオを観ます。

ビデオを観終わるといよいよ敷地内の「きぼう」運用管理室、宇宙飛行士養成エリアの見学です。
乗ってきたバスに乗り、スタッフの方の誘導で核心部へと入っていきます。
まずは「きぼう」運用管理室へ。
ここでは、カメラ・携帯電話は持ち込み禁止になっていまして、一旦スタッフの方に預けます。
撮っても大丈夫な所だけ撮らせてもらいました。

この「きぼう」は、国際宇宙ステーション(ISS)で地上から約400㎞上空に建設された、
人類史上最大の宇宙施設だそうです。大きさはほぼサッカー場程の大きさで、質量は約420トン
にもなるそうです。地球1周約90分で自由落下しながら回っているそうです。っという事は、
90分で1回、朝と夜が来るという事になりますね。
このISS計画には、アメリカ・ロシア・ヨーロッパ・カナダ・日本の15か国が参加しいつそうです。
この運用管理室は24時間体制で監視・運用しているそうです。
私たちが行った時は宇宙飛行士たちは、お休みの時間(朝3時)だったので活動はしていませんでした。

次に向かったのは宇宙飛行士養成エリアです。

棟の中に入るとNASAの宇宙服のレプリカがお出迎えしてくれます。

中に入って説明を聞きます。

この部屋には、1994年に向井宇宙飛行士と一緒に宇宙に行った「宇宙メダカ」の子孫がいます。

なぜ?メダカが宇宙へ行ったかのかの説明がありました。宇宙放射線の影響や筋肉萎縮を調査するため、
メダカは遺伝子解析が終わっていたので、どの部分が気づ付けばどのような影響が出るのかを知る事が
できる生物で、世代交代のサイクルが早いので子孫までどのような影響が及ぶのかを早く見ることができ
るためにもよい生物だという事です。メダカの寿命は3年で3か月で成魚になり、1年で4回世代が変わる
のだそうです。
同じ部屋の中には、こんな解説も。

メダカの写真を撮るのに必死で、話をすべて聞いてなかったので、看板で理解して下さい。

隣の部屋には、宇宙食や部屋着などが展示されていました。

今度は、宇宙飛行士の訓練に使われている機械がある場所へ。

閉鎖環境適応訓練施設 

国際宇宙ステーションの閉鎖環境を模擬した設備です。ここでは、閉鎖された環境で長時間一緒に過ごし
ストレスフルな環境の下でもチームで課題を乗り越えていく様子をモニターでチェックされて宇宙飛行士
の選抜試験などが行われるそうです。

ちょっと宇宙飛行士の募集要項を調べてみました。
最後に行われたのは平成20年度になり、採用人数は宇宙飛行士候補者3名以内。
応募条件は
1.日本国籍 2.大学(自然科学系)卒業以上 3.自然科学系分野において研究・開発等に3年以上
の実務 4.経験宇宙飛行活動等に円滑かつ柔軟に対応できる能力 5.訓練時に必要な泳力(75m泳
げる。また10分間立ち泳ぎ可能) 6.円滑な意思の疎通が図れる英語能力 7.医学的特性(身長
158cm以上190cm以下。船外活動を行うには約165cm以上が必要、体重50㎏~95㎏、
血圧:最高140以下かつ最低90以下、視力:両眼とも矯正視力1.0以上、色覚正常、聴力正常) 
8.心理学的特性(強調性、適応性、情緒不安性、意志力等国際的チームの一員として両機関の宇宙飛行
士業務に従事できる心理学的特性を有すること。 っとまだまだ応募条件はありますが・・・・

職務内容は、
1.訓練業務 採用後2年間程度NASAの宇宙飛行士候補者訓練を受け、宇宙飛行士に必要な科学・技術
の知識、ISS等のシステムの概要等を学び、英語、ロシア語の会話能力を習得します。
候補者訓練の修了後、訓練結果の評価により、JAXA宇宙飛行士に認定されます。その後、ISS計画に
参加する日本、米国、ロシア、欧州及びカナダの宇宙機関にてISS各システム及びその操作技術等を学
ぶ。ISSに搭乗が決定すれば、ミッションに必要なISS操作手順、実験操作手順等の訓練及び有人輸送
機(ロシア宇宙船ソユーズなど)の操作訓練等を1年半程度行います。これらの訓練を修了した後、最長
6ヶ月程度の期間、ISSに滞在することとなります。なお、宇宙飛行士になるための訓練には、航空機
操縦訓練、ジェット機や潜水による無重力体感訓練、サバイバル訓練等身体的にも厳しい訓練が含まれま
す。搭乗業務などまだまだありますが、本当に、宇宙飛行士になるには文武両道な人でないと無理だとい
う事が分かりました。
こんな苛酷な訓練や業務があるのに、採用時のお給料はというと大卒30歳で約30万円だそうです。
こんだけの人材だったら一般企業でももって稼げるのに・・・っと思ってしまいます。
夢はお金じゃないんですね~。

見学ツアーはここまでで、終わりです。この後は、私たちはJAXA内の写真食堂の中で昼食です。
今回は、団体なのでお弁当の手配をしておきました。一般の方も手続きをすれば中で食事が取れます。
なんだかバタバタしすぎで、お弁当も食堂も写真が撮れなかった~。

昼食を済ませ許可のいる施設を出て、ロケットの前で記念撮影です。

写っている方は、写真をダウンロードしてください。

ここからは、出発まで展示館「スペースドーム」などの自由見学です。

日本の宇宙開発のJAXAの歩みと今が紹介されています。ここだけでもワクワクします。

思い思いに見学やお土産なんぞを買ったりしてJAXA筑波宇宙センターをあとにします。
今日1日、担当で大変でしたが、勉強になった1日になりました。

近況報告

ご無沙汰しております。8月に入り変な天気が続いていたと思うと、もう8月も終わりになりました。
お盆休みの頃は、雨が降ったりと夏らしくない気候で、海で遊んでいるお客様が少なかったような気
がしますが・・・。今になって暑かったりと・・・・

そんな、8月でしたが、また旅倶楽部はなにをしてたかといいますと、今年も「夏休み・ウミホタル
観察会」を開催していました。7月22日・8月5日・8月11日・12日の4回開催しましたが、
前半の2回はお申込みの人数が少なく少し苦戦、8月に入り天候不順や台風でお天気の心配と、運
営するには心配続きでしたが、なんとか4回開催出来ました。

観察会当日は、渚の駅たてやまの海の広場前で受付し、みなさんが集まってからウミホタルについて
のお話しが始まります。

子供たちの中には、自由研究にする子たちもいて真剣に聞いてくれています。その後、採取の仕方
のお話しを聞き、館山夕日桟橋へと移動して採取が始まります。

最初の採取は、色々なところから歓声が上がります。

今年は、ウミホタルが大漁なのか?1つの採取ビンだけでもこれだけ光を出してくれます。
ちょっと写真で撮るのは難しいので、綺麗なのがお伝えできませんが・・・
因みに、フラッシュを使ってしまうと・・・

こんな感じです。夜や光ものの撮影は難しいです。

約45分位採取をし、最後に皆さんの手の平にのせてもらいます。網の中でも感動しますが、実際に
手にとって触るとまた違う感動があります。
その後、ウミホタルを放流して終了になります。(事情により放流しない時もあります)
採取の時間は、スタッフとの会話を楽しんでもらったりしています。自由研究の子には、「学校に行っ
たらいっぱい「面白かった」って言ってね」なんて宣伝してもらうようにお願いしたりして・・・

観察会を開催する時のスタッフの仕事も少し紹介しておきます。
スタッフは開催日当日に採取が出来ないといけないので前夜にはウミホタルを採取しに行きます。
当日は、採取ビンの中にウミホタルの餌になる臭い魚をセットしたり、桟橋での採取する準備を
したり、終わった後は、餌を出して再度冷凍したりと、色々な準備と片付けがあるんですね。
桟橋を利用するには、県に申請書を出したりもしています。
あっ!ウミホタルについても勉強をしていますよ~。
そんな裏方の仕事をお話ししましたが、私たちまた旅倶楽部だけでなく、館山市の職員の方のご協
力もあり、みなさんに楽しんでもらえるようにみんなで頑張って無事に4回終わる事が出来ました。

来年もたぶんやると思いますが、その際には是非体験しに来て下さい。

お散歩ツアー「小浦越えの古道秘話」報告

いつの間にか梅雨明けしてしまった館山・南房総です。梅雨という梅雨を感じないまま
梅雨明けしてしまい、山の中の田んぼでは、天水で稲作をやっているので、苗の周りが
カラカラになってひび割れ、農家さんは水の心配してました。
多く降るのも大変ですが降らないのも困りものです。
丁度いいがいいのですが、こればっかりは自然なので・・・・

梅雨明した日に、お散歩ツアー「小浦越えの古道秘話」を開催しました。一応、また旅
倶楽部は、これから約1ヶ月はウォーキングツアーはお休みになります。

集合場所は、岩井海岸駐車場です。ここは、南房総市の旧富山町にありますが、岩井海岸
の駐車場というのは、岩井海岸は広いので、集合場所が分かりずらいかったようで・・・・
道路からの標識は「IWAI BEACH」って書いてあるのです。皆さんなんとか合流
できまして出発です。
駐車場からは、小浦の地域へと向かいます。国道127号線を館山方面に向かっていくと
トンネルのちょっと手前にお堂があります。小浦地蔵堂です。

小浦地蔵堂には、悲しい民話が残されています。
昔々、ある初夏の日、娘を連れた老父が岩井の小浦の海に沿った崖路を通りかかりましたが、
その親子はよほど疲れていたのか、狭くて危ない道なのに腰をおろして休んでいると、農婦
が声をかけました。娘が、父が目が悪く、体も弱っているという話をすると、農婦が山から
採ってきた枇杷を渡し、娘の前掛けに入れてあげました。親子は喜んで食べようとすると、
娘の手から枇杷が落ち崖の方へ転がって行ったのです。親子は枇杷を追って手を伸ばすと、
突然海から強い風が吹き付け足をすくわれ、崖から転げ落ちてしまったのです。翌朝、崖下
の海面に哀れな親子の姿が見つかりました。娘の手には、落とした枇杷がしっかりと握られ
ていました。(枇杷落とし哀話より)
この地蔵堂は、このお話しに出てくる親子の霊を哀れんで建てたものだそうです。

次に向かいう場所も民話が残されている場所で、六部供養塔です。

崖の上に、六部供養塔と首なし地蔵が草むらの中に祀られています。六部供養塔は、法華経
を六十六部書写し、日本六十六ヶ国の霊場に納めて歩く行脚僧を供養したものです。
いつの頃かわからない大昔、道をとぼとぼと一人の六部が歩いていましたが、突然の大きな
波しぶきをあび、不幸にも海中へ転げ落ちてしまったのです。その近くの船から見た漁師が、
急ぎ船を寄せて救い上げましたが、六部はすでに息絶えていました。そのとき六部の胸に掛け
ていた頭陀袋の中に、いくつか熟れた枇杷が入っていましたので、それを知った小浦の村人た
ちが、六部の供養のために、その枇杷の種を取り、近くの山に植えますと、すくすく成長し、
やがて見事な実がなるようになりました。おかげで小浦は豊になり、後に村人たちは、六部の
墓を建てたといいます。(六部の枇杷より)
こちらも枇杷にまつわるお話しです。っという事は、お話しの流れからいいますと、六部のお話
しの後に、親子のお話しという事になるのかな?なって思ったりしています。
この供養塔とかは、この時期、草に覆われて見る事ができないのです。ウォーキングツアーの為
に、事前にスタッフが刈ってくれました。

次に向かったのは、小浦稲荷です。

宝暦(1751~)以前に創建さたと言われている稲荷神社です。

旧道を通っていくと、途中に辻の地蔵があります。

道筋に自然石をくり抜いた岩屋にお地蔵様が祀られています。古くは岩井から館山へ通じる木の根
街道の裏街道であった海街道は、海まで幾重にも迫り出す尾根に阻まれた難所を超える険しい街道
でした。辻のお地蔵様で旅立ちの無事を祈り、帰着を感謝する道祖神でもありました。

次は、旧小浦トンネルです。

ここは、現在は払い下げになっていて、私有地になっています。
このトンネルを抜けると旅館弁天鉱泉があります。

次に向かったのは、小浦厳島神社へ。

治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房へ渡り、この場所を通貨するとき、池で手を清め
江の島を眺めると、神霊が現れたので、弁天社を建立し、池を影向池(ようこういけ)と称しました。
影向とは、神仏が仮の姿をもって現れることや、神仏の来臨のことをいいます。池は社の後ろにあり、
深さ1メートル、岩窟は数百メートルつづいているそうです。

小浦厳島神社に向かう途中に、旅館弁天鉱泉の源泉があります。

昭和36年、釣りの途中に弁財天にお参りした弁天鉱泉の初代鈴木進氏は、この地に偶然湧き水を
見つけました。昔からこの地は、別名「清水」と言い、湧き水が沢山出ていた場所で、その湧き水
の1つが白く変色していたのを見つけ井戸にし、たくさんの方々に利用してもらえたらと昭和37年
に弁財天の名前をとって、この地に「旅館 弁天鉱泉」を開業したそうです。
一日に数回色の変わる源泉は硫黄臭を放ち全国的にも珍しいとされています。
ご興味のある方は、検索サイトで「南房総市 弁天鉱泉」で調べて下さい。

次は、小浦集落を歩き神明神社へ。

祭神は、天照大御神。本殿の脇にすごい地層がありました。

次は、すぐお隣にある薬王堂へ。

安房国四十八ヶ所薬師如来霊場の北口8番になります。
浄土宗の寺院で、本尊は薬師如来像です。この薬師如来像は、行基が小浦に逗留した際に、刻んだと
されています。
最後の見学場所を終えて、出発地点へと戻ります。
暑い中のお散歩でしたが、小浦集落には民話などが語り継がれています。
いつもなら、車で新道を通ってしまいますが、少し車を停めて歩いてみるのもいいものです。

また旅倶楽部のウォーキングツアーは、安全面に配慮して8月はお休みです。
無理して歩いても楽しくないですし・・・・これから夏本番になってきますので、皆様も体調管理に
は気を付けて、楽しい?夏をお過ごしください。

月イチツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」報告

7月に入りました。九州・山陰地方では記録的な大雨が降って多大な被害に遭われている方々が
いて・・・TVで映像を見ますが早く元の生活に戻れればと願うばかりです。

館山・南房総は梅雨なのに、ここ数日晴れていて、蒸し暑い日が多くなってきました。
梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、月ツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」を開催し
てきました。今回は、先月の月イチツアーと反対側の天津地区の浜荻エリアを歩きました。

集合場所は、前回と同じ二タ間駐車場です。
ここから、今回のコースもスタートします。まず最初にむかったのは、浅間神社。
二タ間川の橋の上で、お山の説明を。

前に見えている、左側が引土浅間山です。別名、天津小富士と呼ばれ、標高88mです。
右側が、葛ヶ崎城跡です。築城時期は不明ですが、天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見美頼の
抗争、天正の内乱により廃城となりました。という事は、その前からあったという事がわかります。

今回、登るのは引土浅間山です。ちょうど浅間神社の山開きの例祭が行われた後だったので、集会所に
は多くの地元の人達がいらっしゃり、のぼりも立っていました。

ここから、登っていきます。

少し登ると祠があります。

安波の神様を祀っていて、海の恵みをもたらし、海難から人々を守ってくれる神様です。

また少し登ると・・・

下浅間です。頂上まで行けない人の為に祀られています。

そこから4合目付近にも石宮がありますが、写真を撮り忘れてしまいました。すみません。
そこの石宮は、日当たり様と言われて、漁師が海の状況をみる場所に祀られています。

ゆっくり登っていきます。

頂上に着くとこんな景色が見えます。

もう少し天気が良ければよかったのですが、大平洋が遠くまで見渡せます。気象条件がよければ
富士山も見る事が出来るそうです。

頂上の浅間神社です。

祭神は、木花咲耶姫命(このはなのさくやひめ)。山の神の総元締である大山津見神(おおやまづみ
のかみ)の娘で、天照神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日継の御子を生む母神です。

この祠の下に、梶原景時が隠れたという伝説が残っている洞窟があります。

少し梶原景時について説明します。平安時代末期から鎌倉幕府初期の武将で、鎌倉幕府の御家人です。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、山中のししどの岩屋(現湯河原町)の倒木の洞窟へ隠れました。
大庭景親が捜索に来て、倒木が怪しいといい、梶原景時が洞窟の中に入ってみると、源頼朝がいました。
頼朝はこれまでと思い自害しようとしましたが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝った
ときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て「蝙蝠ばかりで誰もいない。向こうの山が
怪しい」とさけびました。大庭景親は怪しみ自ら洞窟に入ろうとすると、景時はたちふさがり、「私を
疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄り、大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は
九死に一生を得ました。その後、頼朝は安房に逃げ再起をはかり鎌倉に入りました。その後、景時は土肥
実平を通じて頼朝に降伏し、頼朝と対面し御家人に列しました。弁舌が立ち、教養がある景時は頼朝に
信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられました。
頼朝の死後、いろいろありまして、「梶原景時の変」がおこり失脚し滅亡してしまいました。

こんな感じの人ですが、なぜ?ここの洞窟に隠れたのか?、地元の人は、頼朝も一緒に隠れたという話
をしていたので、「????」が増えてきて、考えれば考えるほど、疑問が出て来てしまいますが、
伝説なので、そのままでいいのだと思う事にしました。

山を下り、次に向かうは弁天堂です。
お堂の写真はありませんが、お堂には弁財天、釈迦、観音、阿弥陀の各像があり、不動明王像もある
とことから真言系のお堂であったと考えられます。
お堂の前には、「亀龍神(キリュウジン)」の碑があります。

この碑には、慶応2年(1868)5月15日に、酒屋惣八が亀の拾ってきて祀った事が刻まれています。
海に関する漁民の信仰の様子を伝えるもので、近隣の漁師は、豊漁を願ってお参りしているそうです。
このような、海の生物に関する碑の調査をしている、東海大学海洋研究所によると、魚類供養碑は、
全国各地にあるそうで、上位10都道府県のうち、千葉県は第2位で86基あるそうです。
ちなみに1位は秋田県の88基です。1位になるには2基足りなかったですね。

海岸線を歩き、次はロシア人来航の地の碑へ。

あまり知られていないようですが、鎖国下にあった江戸時代の元文4年(1739)5月19日(ロシア暦
1739.6.19)、ロシアのオホーツク探検事業として、シュバンベルグが率いる船団のうち1隻、ヴェリ
トン大尉が指揮するガブリエル号の乗組員数名がボートで天津村布入の地に上陸しました。漁民たちから、
水や野菜などをもらい、ロシア側は、銀貨や数珠玉を渡したといいます。北海道を除く我が国で初めて
ロシア人の上陸した場所になります。

次に向かいますのが、日蓮聖人とゆかりのある創洗井戸へと向かいます。
途中、天津の消防団の詰所の前を通ると、封筒が落ちていました。ゴミが落ちてると思い拾ってみると
なんと!!お金が・・・福沢諭吉様がいらっしゃいまして・・・
この消防団の人の誰かが落としたんだろう?と思い、声をかけお金を置いてきました。
あとから、「違がったらどうする?」と言われ「げっ!!落として困ってる人が居たら」なんて考え
てしまいました。やっぱり交番に届けた方が良かったのかな?預けた人の名前聞いてくればよかったかな?

良い事をした後に着いたのが、創洗井戸です。

元々は井戸ではなく姥が池だったのですが、明応の大津波により姥が池は土砂にうもれてしまったので、
井戸に改修したそうです。
姥が池は、北浦忠吾・忠内という兄弟の邸内にありました。房総一帯で疫病(せきの病)が流行し、
北浦兄弟は、日蓮聖人に疫病平癒を嘆願しました。聖人は、姥が池のほとりに祀られている姥神を
せき止め守護神とし、疫病平癒を祈念し、姥が池に、せき止めのお経を記した経石を沈め、「せき
病に悩む人に池の水を与えよ」と。その後、病人がこの水を飲むと霊験あらたかに病は治ったそうです。
文永元年(1264)、小松原法難の際、地頭の東条景信から襲撃をうけ、眉間に3寸余りの刀傷を負い、
ここで疵の養生をしたと言われています。傍らにある石は、日蓮聖人が腰掛けたという伝説があります。

次は、多聞寺へ。

日蓮宗の寺院で、山号を光玉山と言います。本尊は十界本尊。
伝説によると、文永元年(1264)8月、日蓮聖人が鎌倉遊学より故郷小湊へ帰る途中の夕方、
浜荻の地にさしかかった時、美しい童子が聖人の御前にあらわれ「一夜の宿をご共養申し上げます。」
と聖人を寺に導き、住職に引き合わすと共に姿を消しました。不思議に思った聖人は、住職にご本尊
を聞くと「毘沙門天である」と答えたのです。聖人は「毘沙門天一童子に変じてのご供養」と報恩読誦
をしました。法華経の教えに感銘を受けた住職は、その夜、土地の郷士・北浦忠吾・忠内兄弟を招き、
聖人の教えを請い両人と共に改宗しました。毘沙門天の別名「多聞天」の名を賜り、寺号を「多聞寺」
と改称したそうです。

本堂の後ろには、北浦忠吾・忠内、両内室のお墓があります。

さっきから北浦兄弟の話がでていますが、この人は何ぞや??とお思いでしょう。少し少し説明します。
工藤吉隆の家臣で、小松原法難の際、日蓮聖人を救い、自邸に匿い、ともに岩高山に逃げ込んだとされる
人物です。

境内には、東条藩初代藩主西郷正員の母の墓があります。 写真を撮り忘れてしまいましたが、解説だけ
でも・・・西郷氏は下総生実(千葉市)で5千石を知行する旗本でしたが、里見氏所領没収後、元和6年
(1620)9月、安房東条1万石の大名となりました。藩主の西郷正員の祖母は徳川家康の側室となり、2代
将軍秀忠の生母、西郷の局です。 

写真を撮れなかったのは、これがあったからで・・・・

今回のお弁当のです。この受け取りがあったので、写真が取れませんでした。

多聞寺さんにお願いをしてお弁当を境内で食べさせていただきました。ありがとうございます。
多聞寺さんの境内には、大きなちょっと変わった木があるんです。

松の木のようななんの木なのか???海外の木らしいです。教えてもらったのですが、覚えられ
なかったです。

さぁ~お腹もいっぱいになったので、次の貴船神社へと向かいます。

祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。譽田別命(ほんだわけのかみ)・猿田彦命(さるたひこのかみ)
の三神です。弘安5年(1282)北浦忠吾・忠内が発願して、村中の協力で創建した神社と伝えられてい
ます。昔は、多聞寺境内にありましたが、現在の場所に移したといいます。明治6年郷社に列しました。
昭和16年1月11日失火の為、社殿・社務所等が焼失してしまい、手水舎のみ残りました。

次に向かったのは、薬師堂です。

堂内には、本尊と思われる薬師如来ほか、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍とした三尊形式の阿弥陀如来、
多聞天、如意輪観音とともに弘法大師像などが安置されていることから、真言系のお堂であったと
考えられます。

次は、角田丹後守の墓へ。
この墓の場所が、下見の時になかなかわからなくて、民家の庭先にあるとは思いもしなかったです。

葛ヶ崎城は角田丹後守一明の居城でした。天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見義頼の抗争、
天正の内乱(正木憲時の乱)。城主の角田丹後守一明が岡本城に出仕している隙を衝いて正木憲時
が攻めてきました。城主の代理を任されていた弟の角田丹波守一元は熱病にかかっていて病に伏せ
ていました。敵の兵数は700、味方の兵数は100と圧倒的に不利な状況で、丹波守一元は奮戦
の末討死し葛ヶ崎は落城したといいます。しかし、里見義頼軍が岡本城から出撃したとの報に,憲
時は軍を退いて大多喜城へ退去したといいます。里見義頼による葛ヶ崎の奪還後、正木憲時は天正
9年(1581)9月、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定されました。
そんな事があった人の墓ですが、私的ないは、病で床に伏していた弟の墓を建ててあげればよかった
なんで思っちゃいました。やっぱり家督を継いだ人が偉いんですね。

さて、最後の見学場所大師堂へ。

弘法大師を祀った堂で、この大師像の胎内には、多くの写経が納められているそうです。
弘法大師像を祀られていることから、この堂は真言系のお堂であったと思われます。

あとは、駐車場に戻ります。蒸し暑い中、無事にウォーキングツアーを終了する事ができました。
8月の月イチツアーは、暑さでガイドが倒れちゃうと困るのでお休みします。
お散歩ツアーは7月19日(水)に開催します。是非、暑い中歩いて、いっぱい汗をかき、体の
ダルさを吹き飛ばしましょう!!

お散歩ツアー「佐久間ダム」報告

梅雨真っ只中の館山・南房総。晴れ間が出ると洗濯!!と思ってしまうのですが・・・
現実は・・・残念。

梅雨なので雨が降りますが、また旅倶楽部は注意報や警報が出ないとウォーキングツアーは
開催する方向なんです。山道とかは別ですが、雨は雨で良い景色を見る事が出来るので・・
カッパなど着て歩きます。今回のお散歩ツアー「佐久間ダム」は、雨の中を歩いてきました。

今回の報告の写真は、下見の時に撮ったものを多く使います。雨に濡れてしまいカメラが壊れて
しまうと、自腹で直さないといけないので・・・前回、壊れて18000円かかり、かなりダメージ
だったのです。

出発は、湖畔の休憩処から出発し、マラソンメダリスト記念碑へと向かいます。

「夢」と題された碑には、マラソンの小出義雄監督と高橋尚子選手の短歌が刻まれています。
オリンピックメダリストの高橋尚子さん・有森裕子さん、世界陸上メダリストの鈴木博美さんの
足型も彫られています。「なぜ?ここに?」と思うかと思いますが、リクルート陸上部が鋸南町
で合宿したことで、小出監督と懇意になり記念碑が建てられたそうです。

今回は「佐久間三滝を眺める」という裏テーマがありまして、1つ目の滝を見に行きます。
途中、アヒル・カモ?達が歓迎してくれました。

ガイドの説明まで聞いていて・・・

かわいいやつらです。

乙井沢の滝です。

佐久間ダムの上流にある滝です。乙井沢の近くの家の屋号で「ホトシザワ(仏沢)」でしたが、
「オトイザワ」に転じたそうです。

次は越の下の滝へ。

林道のような道を登り、分かれ道を下っていくと、田跡の脇に樋のような細い流れがあります。
「越の下の滝」といい、かつては水車が据えられ精米などに活用されていたそうです。
この名前も、「越」という屋号の家の下にあることから「越の下の滝」と呼ばれているそうです。

次に向かうのは、最後の滝・宮田の滝です。
川のほとりを歩いて行くと宮田の滝に辿りつきます。

なかなか良い道で、天気がよければ・・・

宮田の滝です。

もみじの葉や雑草に邪魔されてこの時期、見づらくなっていました。
下見の時は、こんな感じです。

川の源流部近く、山からの水がここに集中しています。コンクリートの構造物は、かつて簡易
水道の奥山水道組合の水源として活用されていた時のものです。
この滝の名前は、滝のある場所の小字が宮田なので、宮田の滝です。

こちらの場所は、ホタルの里としても活動されています。

自然豊かな場所なので、行かれる方は生態系を壊さないようにして下さい。

ここで、雨も強くなってきましたので、本当ならば山を登る予定でしたが、通常の舗装された道
で戻ります。最後は、三山供養塔(大日塚)へと向かいます。
駐車したスペースの前の階段を上っていくと見えてきます。

月山・湯殿山・羽黒山と書かれています。月山は阿弥陀如来、湯殿山は金剛界大日如来、羽黒山
は、聖観音菩薩になります。

こちらは、宝永元年(1704)の大日如来です。

願懸大日如来石佛尊です。

大日様は雨風にさらされていますが、宝銭受処は立派な小屋になっていました。
小屋の右側に写っているのが大日様です。

最初登った時、この小屋の中に大日様がいるかと思ってしまいました(笑)

雨足が強くなってきましたので、今日のウォーキングはここで終わりです。
鋸南町にある佐久間ダムは、四季折々の植物を楽しむ事ができます。今の時期は、あじさいや
蓮の花も見る事ができます。自然豊かな場所ですので、訪れてみてはいかがでしょうか?
道が狭い場所がありますので、気を付けて下さい。
次回は、7月の月イチツアーの報告です。
最近は、「ツアー報告だけ?」と小耳にはさみますが、なかなか出る機会がありません。なるべく
月1回は、違う記事を書くように努力したいと思います。

月イチツアー「潮騒を聞きながら漁師町天津を歩く」報告

梅雨入りしましたねぇ~。なんだか、梅雨だと心がブルーになってきて、腰の調子も良くなくなり
ます。事務所に閉じこもってると・・・やっぱり梅雨は嫌ですね。
そんな梅雨入りした館山・南房総ですが、ウォーキングツアーを開催しました。なんとか雨も降らず
楽しいウォーキングになったかと思います。

今回は、鴨川市にあります天津エリアを散策してきましたので、報告します。
出発は、二タ間駐車場。鴨川市の駐車場になるんですが、ここがまた説明するのが大変でして・・・
また旅倶楽部が企画するとコースの都合上なんかで、駐車場が難しくなっちゃうんでですよ・・・
すみません。

さて、本題に戻りまして、二タ間駐車場から出発し、最初に行くのは閻魔堂です。

通称「芝堂」と呼ばれています。堂内には阿弥陀如来、閻魔王、奪衣婆の三体の像が祀られています。
奪衣婆(だつえば)ですが、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る
老婆の鬼です。奪衣婆が剥ぎ取った衣服は、懸衣翁(けんえおう)という老爺によって衣領樹にかけら
れます。剥ぎ取った衣の重さによって死後の処遇が決められるとされています。
江戸時代末期には、奪衣婆を祀ったお堂などが建立され、民間信仰では奪衣婆は、疫病除け・咳止め、
特に子供の百日咳に効き目があると言われていました。(諸説あります)
こちらのお堂には、奪衣婆からはじまって、閻魔王に裁きを受け、最終的に阿弥陀如来によって極楽
浄土へと導いてもらうという、像の構成になっているんですね。

お堂の入口の両脇には六地蔵立像が建立されています。

このお地蔵様は天津小湊地域の中で最も大きな六地蔵様です。200年以上前から見守っています。

次は、萬福寺と須賀神社へ。

天台宗の寺院で蔵王山観音院と号します。本尊は聖観世音菩薩。厨子の中には、本尊と四天王が安置され
ており、脇立は、不動明王と毘沙門天が立ち、厨子前には聖観音が立っています。


御詠歌を刻む額は、初代後藤義光の作です。以前は外にあったそうですが、今は本堂内に掲げられています。
奥様に、中を見させていただきました。ありがとうございます。

すぐ隣には、須賀神社があります。

祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。後に行きます、天津神明宮の主祭神である天照皇大御神の弟にあたる
素戔嗚尊が祀られています。御神輿は、外房一帯でも大きく重い大神輿です。暴れ神輿とも有名で、7月の
最終金・土・日に祭礼が行われ、大神輿が町を練り歩きます。


鳥居は、天津神明宮と同じに式年鳥居の神事の際にあわせて建て替え神事が行われます。

次は、海福寺へ。

真言宗智山派の寺院で山号を宝蔵山と言います。本尊は阿弥陀如来三尊像です。
室町時代初期の応永4年(1397)の創建と伝えられている法蔵山海福寺が、昭和45年近隣にあった同宗
同派の久光山吉祥院・東光山宝泉寺・普光山持明院の三ヵ寺と合併し、山号を宝蔵山と改めて現在のお寺
になりました。旧海福寺は、江戸時代初期の正保4年(1647)に徳川家から清澄寺を賜った頼勢法印によっ
て中興され、旧天津村の正蓮坊・弁天堂・地蔵堂(現大師堂)を管理しましたが、文政7年(1824)の天津
村大火によって、御本尊こそ救い出したものの、吉祥院・宝泉寺と共に堂宇のほとんどを焼失してしてし
まったそうで、寺歴を語る史料がないそうです。江戸期の様子は、本寺にあたる勝福寺(鴨川市川代)の
史料などによって知るだけになってしまっています。
本堂には、本尊の阿弥陀如来三尊像のほか、厨子の右袖に長狭観音札所の本尊千手観世音菩薩、左袖に安房
国地蔵札所の本尊の地蔵菩薩があります。

境内には、いろいろな石造物があります。

宝篋印塔と大乗妙典塔。


筆子塚。

宝篋印塔。天津地域で最も高い宝篋印塔です。

庚申塔。天津地域で、最も古い延宝8年(1680)のものです。

あと境内にはお堂も建てられています。

真ん中のお堂が「大日堂」向かって右が「淡嶋堂」、左が「稲荷社」です。

大日堂

堂内には、真言宗密教の中心仏の「大日如来」、真言宗の宗祖「弘法大師空海」、防火防止の
守護神「愛宕明神」の三尊をお祀りしています。

淡嶋堂

江戸時代にこの地に進出してきた関西漁民が、紀州の淡嶋明神を歓請したのが始まりと伝えられ
ています。古来から、お飾りしなくなったお雛様や使われなくなった裁縫針を納める信仰があります。

稲荷社

旧吉祥院が京都の伏見稲荷から歓請した正一位稲荷と旧海福寺にあった福徳稲荷をお祀りして
います。
まだまだ、ありますがこの辺で次へと向かいます。

すぐお隣にある善覚寺へ。

浄土真宗の地震で本尊は阿弥陀如来。もとは、近江国高島郡(現滋賀県高島市)に慶安元年(1648)
4月3日の創立。慶安4年(1651)3月4日に現在地へ移転しました。鴨川市指定有形民俗文化財
「善覚寺の近世文書」は、関西漁民の関東出漁を伝える貴重な思慮としてのこっており、墓地には
紀州出身者の墓石が多く見られます。
先ほど行った海福寺には、淡嶋堂も関西漁民が勧請していたので関西漁民が信仰していたことが
わかります。


本堂向拝の彫刻は、武志伊八郎信常(二代伊八)によって1840年頃製作されました。
二代伊八は初代伊八の実子として、天明6年(1786)頃に生まれました。
二代伊八の詳細は不明ですが、初代伊八のそばで技術を磨いたと推測されています。
初代伊八の弟子・島村久八郎由勝らとともに重要なメンバーとして工房の活動を支えていたと考え
られます。二代伊八の確実な作例は以外と少ないため、彼の諡号の全体像を把握することは困難で
す。銘を記した作品も少ないため、こちらな信常の銘が記載された作品は、基準作にも位置づけ
られる貴重な作品なんだそうです。

次は日澄寺です。

日蓮宗の寺院で、本尊は十界勧請の大曼荼羅。開創は日蓮聖人。
文永元年(1264)11月11日、小松原法難の折に殉職した天津領主工藤左近将監吉隆公の居館
でしたが、その嫡子刑部阿闍梨長栄坊日隆上人が父の菩提を弔うために建立しました。吉隆公
は、鎌倉幕府出仕中に四条金吾公、池上宗仲公等とともに日蓮聖人に深く帰依しました。文永
元年秋、日蓮聖人は母の病気見舞いに小湊へ帰りましたが、花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆
公の館を訪ねる道すがら、東条の小松原で地頭・東条景信の伏兵に襲撃されました。これが「
小松原法難」です。この法難で、日蓮聖人は頭部に三寸余りの刀傷をうける危難にあい、救援
に駆け付けた吉隆公は討死しました。聖人は、吉隆公の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆
院日玉上人の法号を与えました。

本堂の裏手には、吉隆公のお墓があります。

ご住職に少しお話ししていただきました。ありがとうございます。

そろそろお腹がすいてきました。お弁当までのひと踏ん張り天津神明宮へと向かいます。

祭神は天照皇大神・豊受大神・八重事代主神(えびす様)。大山祇大神ほか七柱の神を合祀して
います。神代の昔、天孫降臨(天照大神の御孫が地上を治めるために高天原から降臨したこと)
に当たり国譲りした事代主神が海路でこの地に移り、東方鎮護の神として鎮座し、これを「もう
け明神」と崇敬したことが始まりと伝えられています。
その後、治承4年(1180)石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れた源頼朝が源氏の再興を伊勢神宮に祈
願し、みごと成就したことにより、天下平定ののち、寿永3年(1184)、伊勢より神霊を歓請し、
もうけ明神とともにお祀りされてのが「房州伊勢の宮」と仰がれるようになりました。


境内にある「まるばちしゃの木」です。安房以西、四国、九州、沖縄、相碗などの暖地に自生する
落葉小高木です。天津小湊地域の数箇所で自生していますが、この地域がまるばちしゃの木の北限
とされています。境内にはこの木が4本あり、まるばちしゃの木の中でも古木に属し、大きいもの
は、幹回り1.5mにもなります。千葉県の天然記念物に指定されています。

さぁ~昼食の時間になりました。今回は天津神明宮さんのご厚意により、椅子を使わせていただき
ました。宮司さんもいらっしゃいまして、昔の天津のお話しなど、楽しくお聞かせ下さいました。
ありがとうございます。

お腹もいっぱいになったところで、次の正蓮坊へと出発です。

本尊は閻魔王。堂内の中央の厨子には、閻魔王像が安置され、十王、奪衣婆像、弘法大師が祀られ
ています。正蓮という僧が建立したという伝承から「正蓮坊」と呼ばれています。

堂の入口には、正蓮法師の霊を祀った石碑があります。

あとは、海岸線を通り駐車場までの道を行きます。途中、明神の鯛へ寄り道。

この明神の鯛は、千葉県指定天然記念物です。天津漁港と二タ間海岸の間の沖合200m
ほどのところに明神礁と呼ばれる岩礁があります。この付近は水深5mほどと浅いのですが、
多くの魚類が生息しています。大正時代に、この海域に群れて生息するクロダイを保護し、
鑑賞するために地元から天然記念物の要請があり、県は昭和10年(1935)に指定しました。
昭和8年には禁漁区となり、タイ見物船も出て町の観光拠点として賑わったそうです。船べ
りを叩くと、いっせいに魚が集まる様子は壮観だったといいます。タイ見学船は、第二次世界
大戦で中断されましたが、昭和38年(1963)に復活し、その後10年間ほど行われていました。

あとは駐車場へと戻るだけです。今回のツアーも見どころ満載で、ガイドの独り言を書くのが
大変です。だけど、狭いエリアに多くの神社仏閣があり、それだけ信仰していたことが分かる
地域でした。7月の月イチツアーは、反対側の浜荻地区を歩きます。天津小富士と呼ばれる
引土浅間山も登っちゃいます。

お散歩ツアー「正木の里・村の鎮守と野仏めぐり」報告

だんだんと暑い日が多くなっています。田んぼの苗は、すくすく育って来て圃場一面が深緑に
なって綺麗です。

今回は、お散歩ツアー「正木の里・村の鎮守と野仏めぐり」の報告します。
出発地は、若夫婦でイチジク農園を経営しています「館山パイオニアファーム」さんの駐車場
をお借りして、出発です。

館山パイオニアファームさんは、いくつかの品種のイチジクを栽培していて、8月中旬ごろから
イチジク狩りを楽しむことができます。イチジク狩りのオフシーズンは、イチジクの苗作り体験
やイベントなども開催しています。建物の所では、いちじくのアイスクリームやパウンドケーキ
・ジャムなども販売しています。詳しくはHPで御覧ください。https://www.pioneer-farm.jp/

最初に向かうのは、姫塚です。

ちょっと塚が見えませんが、田んぼのあぜ道の脇にひっそりと石宮と五輪塔が祀られています。
地元では、里見の姫を葬ったものと伝えられています。昔は、一段低い田の中にあったといい、
農地改良により現在の場所に移されました。

次に向かうは、六所神社。

創建年代や由緒・祭神は不明です。安房国総社とされています。総社とされるのは、近辺の地名に
府中があり、府中の近くにある社号を持つ神社ということが根拠となっています。神社が所在する
西郷は、里見氏時代の府中を東国府と称したことに対する、国府の西側という意味ともされています。

境内には、明治18年(1885)に建てられた浅間祠があります。

本殿向かって左側には、クジラの骨を祀った祠があります。

クジラの骨わかりますか?
少し残念なのが、だれもお参りにきていないのでしょうか?草が茂っていて・・・・

次の場所に行く道の途中に祠があります。

祠は白山社で、祭神は白比咩大神(しらひめおおかみ)で五穀豊穣の神様です。地元では歯の神様
としても信仰を集めています。

次は、新御堂(にいみどう)へと向かいます。

現在の新御堂の場所は、元は、真言宗秀満院があった場所です。関東大震災で倒壊し廃寺となり、
昭和42年に青木根から新御堂が再建し移転してきました。本尊は、聖観音立像で、室町時代の
作と伝えられています。

隣には、八幡神社があります。

亀ヶ原の鎮守で、祭神は譽田別命(応神天皇)。
創建は、室町時代の文明年間(1469~1487)と伝えられています。戦国時代には、里見氏の信仰を
集め徳川幕府より社領2石が認めらられました。
江戸時代初期、元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されています。

次は、亀ヶ原八幡神社の裏にある西郷堰を見に。

平久里川のにあります。ここは古代安房の水門の入江だった場所で堰を築き、この地域を潤し
ました。

亀ヶ原八幡神社と西郷堰の間には、アンゴ岩があります。

アンゴとは方言でカエルの事で、カエルににた形をしているからアンゴ岩と呼ばれてるいます。

県道296号線に出るところに六地蔵があります。

正徳4年(1714)江戸時代中期頃に建て替えられたもので、それ以前は、宗春という人物が建てた
ものがあったと刻まれています。元は、古観音巡礼道が横根峠を越えた街道沿いの村境に建てら
れておたと思われます。なので六地蔵の向きが残念なことになっています。

次は、新御堂跡地向かいます。が・・・その少し手前に亀井戸があります。

亀井戸は、亀ヶ原の地名の発祥と言われ新御堂の閼伽井でもあります。
亀ヶ原の名主であった飯沼家は享保16年(1731)、亀井の泉水で酒作りを始め、銘酒亀井は
130年も続く作り酒屋として栄えました。

新御堂跡地の階段です。

今回は雑草に覆われてしまっているので行きませんが、跡地には、江戸時代の石造地蔵菩薩立像
や句碑などもあります。御詠歌は「にいみどう 見上げてみれば 峯の松 くびこい鶴(汲み越え
つる)に亀井戸の水」です。

さあ~今回のお散歩ツアーは見どころ満載です。次は、外輪堂です。

亀ヶ原区下台集落の共同墓地で、木造阿弥陀如来座像を本尊とるすお堂です。
入口にビー玉などの数珠を首からかけた六地蔵があり、なんだか微笑ましいお堂です。

なんか子供のころに読んだ童話の挿絵に出てくるようなお地蔵さんたちです。
また道の際に三山碑があります。

天保2年両度登山とあるのは、二度三山詣でを行った三山行人の供養塔で、地獄・餓鬼・修羅の
三悪道に落ちないと言われ、供養塔が街道に面して建てられているのは、通行人も手を合わせれば
功徳があると言われているからだそうです。

次は、若宮神社へ。

正木向の鎮守です。古くは若宮八幡大権現と言っていました。社は正木向にあった中嶋弁天の社
を移築したもので、祭壇下に弁天の石宮も相殿で祀られています。

次は朝日山大泉寺へ。

浄土宗金台寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来三尊です。

大泉寺の入口の地蔵尊です。

街道になっていて、那古清澄古道と呼ばれていました。

次は、正木下の熊野神社へ。

創建は不詳、江戸時代初期の元和元年(1615)に再建されたと伝えられています。

残す見学場所の西光寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を正木山といいます。本尊は銅製十一面観音立像。江戸時代初期の
里見忠義のとき、本山を真倉慈恩院に寺領の一部として与えられていました。

見学箇所はすべて終わり、あとは駐車場へ向かいます。
お散歩ツアーですが、内容が盛りだくさんあって書くことがいっぱいになってしまいました。
ちょっと最後の方は、手抜きになっていますが・・・・ごめんなさい。

駐車場に向かうと、館山パイオニアファームさんが、お休みにも関わらず、お店をあけて
くれました。終了後、参加者のみなさんは、いちじくアイスクリームを食べたり、いちじくソーダ?
を飲んだり、お土産にパウンドケーキを買ったりとしてました。

次回は、鴨川市の天津エリアの月イチツアーです。こちらも面白いツアーになりそうです。

月イチツアー「里見八犬伝のふるさと「富山」を歩く」報告

空が高くなってきました。空だけみると夏の空のようですが・・・・
日差しは強くて暑いのですが、風が涼しいです。

今回は、南房総市にある富山(とみさん)に上ってきました。
富山は標高349.5mです。富山の名前は、古代神話に登場する安房開拓の祖「天富命」の逝去の
地であることにより名づけられたと言われています。この山は北の峰と南の峰の二の頂上があること
から動物の耳を形容した双耳峰という特徴があります。古くから航海の目標とされています。
題目にもあるように、江戸時代の作家・曲亭馬琴が28年の歳月をかけ刊行しました、南総里見氏の
史実等を参考に書かれた伝記小説「南総里見八犬伝」の舞台と言われています。簡単にお話しします
と・・・里見義実の娘「伏姫」と敵将の首を取ってきた妖犬「八房」が富山(物語ではトヤマと呼ば
れる)の中腹にある洞窟に籠り生活をし、義実と家臣・金碗大輔に見つけられ、八房は金碗大輔が放
った銃弾に倒れ、その流れ弾にあたって伏姫も倒れてしまいます。伏姫はこの時、八房の気によって
妊娠していましたが、犬畜生と交わったわけではないと身の潔白を示すため自害すると、白煙が立ち
上がるとともに、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉が飛び散り、その後、犬の姓や体の一部に
ぼたんのあざとその霊玉を持つ八犬士が登場します。功成り名を遂げた八犬士は、富山山頂の観音堂
の傍らに庵を建て、凡そ20年間風月を友として老後を楽しみ、里見の姫との子供たちに見守られな
がら仙人となり、頂上より雲の彼方に消えていったといいます。
そんな「南総里見八犬伝」のお話しの舞台となった場所へと行きます。

出発は、南房総市富山観光駐車場からです。
富山へは、何本か登って行くルートがありますが、今回は伏姫籠穴から登って行きます。
駐車場から20分程度で伏姫籠穴の登り口に到着します。

伏姫籠穴への入口です。入口の近くには、八房が眠るという「犬塚」があります。

ここから、10分程度登って行くと、伏姫が籠っていた洞窟があります。
伏姫籠穴の写真がどうしても見つからないので、どうしちゃったのか・・・すみません。

さて、気を取り直して、山道へと進んでいきます。
途中、滝を見る事ができました。この滝は、あまり見る事ができないのですが、時期によって見る事
ができます。

この滝は、合戸の滝と呼ばれていて、季節限定の滝です。合戸地区のため池(合戸堰)から、田植え
の時期に放水されるだけらしいので、タイミングよく見る事ができました。
結構、迫力がある滝でした。

さて、いよいよ山らしい道に入っていきます。

ここの場所に、頂上まで45分と書かれていましたが、ゆっくり登って行くのでもう少し時間がかか
りました。登っていくと、頂上付近にY字路があり、最初に北峰の方へ行くので左へと進みます。
少し進むと杉の巨木と鐘を見る事ができます。

樹齢300年以上と推定され、普通よりも葉が丸みを帯びていることから「ボタンスギ」と呼ばれて
います。地元では、古くから縁結びにご利益があるとして親しまれていますので、別名「縁結びの杉
の木」とも呼ばれています。樹高28m、幹周り3.43m。(ちょっと写真では、見えないですが・・)
ボタンスギの近くには「愛の鐘」が設置されています。平成11年(1999)皇太子ご夫婦が登山された
後、富山は「愛の山」と広く知られるようになり、ここを目指して登るカップルが多くいるそうです。
地元では、登山者に「愛の音」が広がるように、この富山に「愛の鐘」を設けたそうです。
一応鳴らしてみましたけど・・・(笑)

少し歩いて行くと、金毘羅宮があります。

創建年月不明で、文久年間(1860年代前半)地元の房州屋栄吉が先達となり、江戸講仲間が参詣寄進
します。堂の大修理の際、普賢菩薩白象台座が発見されました。

いよいよ頂上へ。

三角点とは違うところに、展望台がありますが、今回は撮り忘れてしまいましたが、展望台広場には
皇太子両殿下の散策記念碑が建てられています。

展望台に上って写真を撮ってみました。

天気が良ければ富士山をはっきりと見る事ができます。
江戸警備のために訪れた会津藩主松平容保は、富山登山記においてこの景色を「嘉永6年4月8日
当日快晴11州余眼下に迫り絶景、言語につくしがたし」と詠んでいます。
11州は、安房、下総、上総、常陸(ひたち)、上野(群馬)、下野(栃木)、武蔵(東京・埼玉
神奈川の一部)、相模(神奈川)、伊豆(静岡)、駿河(静岡)、甲斐(長野)。
昔は、山の樹々が燃料(まき)として使われていたので、樹々が今みたいに高くなかったのかな?
なんて思ってしまいます。だから先まで見えていたのかな?なんて・・・

ここで、昼食休憩して南峰へと向かいます。 
途中、ニリンソウや樹々の木漏れ日の中を歩いていきます。

しばらく歩くと階段が見えてきます。

この階段を上ると観音堂があります。

奈良時代、聖武天皇の祈願により天平3年(703)行基菩薩の創建。昭和30年(1955)8月17日
原因不明の失火により全焼してしまいました。その3~4年後、仮堂が建てられ現在に至ります。

境内には、いろいろな石仏等が残されています。

ちょっと寂しい感じです。

もう一つ、大正時代の童話作家・巌谷小波が馬琴を讃えて作った詩の石碑があります。

ちょっと文字はわかりづらくなっていますが、「山高きゆえに貴からず 曲亭翁の霊筆によりて
この山の名長しへに高く尊し」「水茎の香に山も笑いけり」と書かれています。

この石碑の裏側を少し上ると、南峰の頂上になります。ここにはあずまやらしき物があったみたい
ですが、樹々が伸び景色はまったく良くなかったです。

さて、いよいよ下山していきます。登った分下らなければいけないのが山です。
段差のある階段を下りていきます。途中、こんな石仏があります。なんか和ましてくれる石仏です。

階段が終わると坂道になるのですが、これがまた・・・スクワットしているかのように
降りて行くんです。転ぶと大変なので慎重に下って行くと、福満寺にで着きます。

福満寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は十一面観音。
天平3年(731)に行基により開創されました、はじめは1合目の大房(おおぼう)というところに、
地蔵堂・子安社・蔵王権現等が祀られていましたが、焼失、再建を繰り返し、元治元年(1864)、
現在地に本堂が再建されました。観音堂は富山山頂にあり(先ほど見てきた場所です)、享保14年
(1729)に再建され、寛政元年(1789)に仁王門と仁王像も建立されましたが、昭和30年(1955)の失火
により全焼し、観音像も焼失してしまいました。現在の福満寺本尊十一面観音お札が観音巡礼にご開帳
されます。山頂にあった仁王像は、平成10年福満寺山門に移されました。

福満寺の入口には大正元年の登山道標があります。

「ふもとに伏姫籠穴あり」と八犬伝の案内があります。
あとは県道を通り、駐車場へ。

今回は天気にも恵まれて、楽しいハイキングができました。いつも流れていない滝も見れたし・・・
次回の月イチツアーは、鴨川市の天津地区を歩きます。是非ご参加下さい。