お散歩ツアー「秋の安房中央ダム周辺散策」報告

朝晩冷え込みが強くなってきた館山・南房総。私の住んでいる場所は、朝霜がおりたりしはじめました。外にある車のフロントガラスは凍ってしまっていたりと、本格的な冬到来です。

さて、12月のお散歩ツアー「秋の安房中央ダム周辺散策」を開催しましたので報告します。
集合場所は、鯨岡駐車場。まずは、王子神社へと向かいます。

途中には、馬頭観音があります。

王子神社です。

祭神は王子命(おうじのみこと)。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱を相称して「王子大神」と呼びます。
詳細等不詳ですが、丸山町史によると、継体天皇の御代・丸子皇子が東国に使いして御殿山を巡行したとき、皇子の名を御子神に止まらせたこの地を支配させました。王子が後にこの地に神社を建立したといいます。

次は、小野次郎右衛門忠明生誕の地公園へ。

小野次郎右衛門忠明の生誕の地としてつくられた公園で、公園内には、小野派一刀流の刀をモチーフとしたモニュメントがあります。

小野次郎右衛門忠明は、永禄12年(1569)(又は永禄8年(1565))に生まれました。前名は神子上 典膳で、後に母方の小野姓を名乗りました。
はじめ里見義康に仕えていましたが、その後、剣豪伊藤一刀斎が上総を訪れてたさいに試合を申し込みましたが、敗れ弟子入りします。その翌年再び上総を訪れた一刀斎に誘われ、里見家を出奔(逃亡して跡をくらますこと。失踪。)して諸国修行の旅に随行します。
一刀斎の元には善鬼という兄弟子がいましたが、やがて一刀斎の命で後継者の座をかけた決闘を行い、善鬼を倒しました。決闘の後、一刀斎は自身の差料瓶割刀を授け姿を消し、その後の消息は不明だといいます。
「武芸小伝」によると、かねてから善鬼を殺害したいと思っていた一刀斎は、事前に秘術夢想剣の極意を授け典膳の勝利を助けたとあります。
その後、一度故郷に戻ったのちに江戸に移り、駿河台ある本郷に居住したといいます。文禄2年(1593)江戸近郊の膝折村で人を殺して民家に立てこもった剣術者を倒したことで徳川家康に認められ、200石の禄高をもらって旗本となります。徳川家では徳川秀忠付となって剣術を指南しました。このとき姓を神子上から改めました。秀忠が二代将軍に就任したことで、一刀流は柳生新陰流と並ぶ将軍指南役として大いに栄えました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されましたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で螫居を命じられ、その後結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石となった。その後一刀流の秘事を秀忠に伝授した褒美として、備前勝光の脇差、御料の羽織、黄金等を恩寵され、さらに秀忠から一字を賜り忠明と改名しました。
慶長年間の大阪冬の陣・夏の陣のあと色々ありまして、寛永5年(1628)11月7日、60歳で死去。下総国埴生郡寺台村、永興寺に葬られました。現在の千葉県成田市にある成田高等学校・付属中学校の裏山に墓があります。忠明の後は嫡男の忠常が継ぎ、200石の加増を受けて800石となりました。小野家は旗本として明治維新まで代々続きました。

公園を後にし、安房中央ダムへと向かいます。

なんか工事していました。

鍛冶畑隧道。

暗いトンネルを抜けて少し行くと山入集会所があります。

入口には、石造物があります。

二の滝橋。

二つの滝があったとか・・

橋の上から見た安房中央ダム(ダム湖)

安房中央ダムは、昭和33年(1958)安房中央土地改良区が設立。千葉県の県営かんがい排水事業である安房中央用水改良事業の一環として建設され、昭和45年(1970)に完成しました。高さ36mのアースダムで、有効貯水量202.4万㎥の干害を目的とするダムです。ダム湖の名前は丸山湖です。

二の滝橋を渡りトンネルを抜けると犬切橋です。

この橋の名前になっている犬切には、伝説が残されています。
川谷区有文書では、川谷犬切出身の鈴木留吉氏の「犬切考」と青木貞次郎翁の「房州犬切縁起」と二つありますが、2説とも「里見八犬伝」の影響があります。「犬切考」では、旅の女性が犬に支えられながらこの地にやってきました。村人は、気の毒のあまり声をかけ休ませてあげましたが、女性は起き上がることができなくなってしまいました。犬はというと、立派な忠犬で、昼も夜も主人のそばからはなれず、食事も主人以外の人からは一食も食べませんでした。しばらくして主人の女性が亡くなり、墓標として楓の木を植え傍らに葬られました。犬は主人の埋められた辺りに行っては涙も声も枯れ果てる程悲しみ鳴いていました。日数が経つにつれ、犬は狂態し、墓を掘り起こしたり、犬や猫・馬・牛・人間にまで飛びかかってくるようになり、村人達は可哀そうだが仕方なく殺してしまうほか手段がないという事になり、犬を殺してしまい、刀を持っている人々に一太刀ずつ切られ、最後に川へ投げ落とされてしまいました。この地域には犬射り場や犬鳴かせ・犬抛り崎・太刀洗井戸などの場所が語り継がれています。

なんか切ないお話です。

犬切橋を渡って国道410号沿いに大きなお地蔵さんがあります。

あとは、駐車場へと戻ります。

この時期のダム湖は、水が溜まっていないので、昔の土手?道?なようなものが見えます。あともう少し早く開催していれば紅葉も楽しめたかと・・・
犬切のお話も、あまり知られていないお話じゃないかと思っています。地域の名前にもなっているので、地域の人で伝えて、残して行ってほしいです。

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